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2011年8月

2011年8月30日 (火)

乙女椿の歌舞を楽しむ

 ラジオ沖縄の人気民謡番組の「ホーメルで031 今日は」の公開放送があり出かけた。

 今回は、恩納村にある「おんなの駅」である。地元特産物を販売し、食べ物もいろいろ美味しい物がある。「道の駅」を名乗ってはいないが、県内の「道の駅」類の中で、わが家では人気№1である。
 私のお薦めは、イカスミジューシーのおにぎりである。ジューシーとは、沖縄風炊き込みご飯。つまりイカスミ炊き込みご飯である。とってもイカスミらしい味わいがある。他の地域では、見たことがない。ここでしか味わえない。

 話を本題に戻す。この番組は、民謡歌手の盛和子さんと息子ののーりーが出演する。
 毎週月曜日に、各地のスーパーの店頭、店内から公開放送する。月曜は生放送、火曜から木曜日までの放送分を収録する。クイズもあり、木曜日はゲストを迎えた民謡ショーがある。今週、登場したのは、糸満市を拠点に活動する「乙女椿」(オトメツバキ)だ。沖縄の島唄を歌う女性グループだが、太鼓や踊りも上手い。いわば歌舞団のようだ。

037         民謡を歌う盛和子さん(右)とのーりーの親子コンビ。息が合っている
 盛和子、のーりーコンビは、恩納村ゆかりの「恩納情話」を歌った。恩納は、琉球二大歌人として有名な恩納ナヴィーの出身地。彼女の琉歌をとり込んだ民謡で初めて聞いた曲だった。
 木曜日放送の民謡ショーの乙女椿は、歌三線は女性4人組だが、二人の女の子が踊りで登場した。その可愛いこと。3歳から踊りを習っているという。054  踊ったのは「谷茶前(タンチャメー)」。この曲は、地元の恩納村谷茶の浜が舞台なので、これを選曲したようだ。
 「♪谷茶前の浜にするる(キビナゴ)が寄ってくるよ。するるじゃないよ、大和みじゅん(イワシ)だよ」と歌う。魚をすくうためか、一人はザルをもち、一人は舟の櫂を持って踊る。 048_2 踊りは軽快で、子どもと思えないほど上手い。なにより表情が生き生きして楽しそうなのがよい。思わず見惚れてしまった。おばあもおじいも拍手喝さい。大受けだ。
 乙女椿は、1972年の結成というから、もう40年近い実績がある。県内だけでなく、県外でも活動しているとか。糸満市に会館も建てていて、子どもたちにも、踊りや歌三線を教えている。子どもは20人くらいいるという。その中からやってきた2人だ。
 053
女性4人は、宮古民謡の「豊年の歌」と「豊年音頭」を続けて演奏した。どちらも、豊作を願い、祝う曲である。速いテンポで楽しい演奏だ。私も「豊年音頭」は前から弾いているが、「豊年の歌」をやっと弾けるようになった。ただ、歌詞が宮古方言で難しい。

055 最後は、恒例のカチャーシーである。のーりーが早弾きの曲を連続して演奏するのに合わせて、聴衆も踊る。踊った人には、ホーメル商品がもらえるので、人気がある。
そうでなくても、「唐船どーい」など軽快な三線が流れると、踊りだすのが恒例だ。

060_2 先ほど舞台で踊った女の子2人が、飛び出して聴衆の中に入って踊りだした。カチャーシーも上手い。笑顔を振りまきながら踊る。

064 おばあも喜んで、立ち上がり女の子といっしょに踊りだす。
 063_2  実に楽しそうだ。舞台の前にも、おばあが何人も出て踊ったが、この日の主役は、完全に2人の子どもたちだった。
 

 伝統芸能を受け継ぐ子どもたちは、県内のどこにも、たくさんいる。三線でも、小学生で新人賞、優秀賞、最高賞などの各賞をとり、舌をまくほど上手い子どもたちがたくさんいる。舞踊でもそうだし、エイサーでもたくさんの子どもたちが参加している。ウチナーンチュの子どもたちには、芸能のDNAが深く埋め込まれているようだ。芸能の島、沖縄の底力をこんなところにも感じた。
 

2011年8月29日 (月)

沖縄の昔話には魚がよく登場する、その2

 魚と漁師が登場する沖縄の昔話の続きである。
 「魚の縁談」
 ニバリャ魚(めばる)がピャイ魚に「嫁を世話してくれ」と頼むと、ピャイ魚はピイフキャ魚(さより)に話をもちかけ、ピイフキャ魚は承諾する。ニバリャ魚はピイフキャ魚の顔を見ると「こんな口の長い女を妻にするのか」と言い、ピイフキャ魚は「なんて大きな口だ。いくら働いても食べ物が足りない」と言ってケンカをはじめる。ピャイ魚は「夫婦にならないうちに夫婦ケンカをはじめた」と笑いすぎて、岩にぶつかり、上の唇を折る。それでピャイ魚は上の唇が折れて、いまでも下の唇より短くなっている。
 宮古島の城辺ほかの地域にある。

 「ヒラメのいわれ」
 神々が集まっていろんな動物を作る相談をしていたときに、一人の神が戯れに、1匹の魚で2匹の魚を作ろうとした。骨が付いている半身の魚がヒラメになり、肉だけの半身でサンゴに巻き付き目のない方が海牛(ウミウシ)になった。
 竹富町などにある昔話である。

 「猿の生肝」
 龍宮の王が病気になり、医者が陸の猿の生肝を食べれば治ると言うので、陸に上がれるタコに役目を頼んだ。タコは引き受けるが怠け者なので、行こうとしない。次に亀に頼むと、亀は出かけて、浜辺で遊ぶ猿に「龍宮に招待したい」と声をかけ、背中に乗せて運んだ。生肝を取ると知った猿は、肝は陸に忘れてきたと引き帰らせた。猿は大きな石を亀の背中にぶつけたので、亀の背中にはいまでもひびが入っている。
 石垣市登野城ほか各地に同じような話がある。

 「羽衣」
 群星の一番上の姉の天女が、海の近くの泉に降りてきて、水を浴びていると、漁師が羽衣を隠してしまった。天女は仕方なく漁師の妻になった。
 羽衣伝説は県内でも各地にある。075          豊漁を祈願する平安座島のサングヮチャー

 まだまだあるがきりがないので終わりにする。
 民謡には、魚を題材にしたり大漁を願う唄が少ない。それは、「大漁唄がない沖縄の不思議」で書いた。つまり、琉球王府の時代、「勧農政策」で漁業より農業を重視したこと。年貢は、米や粟、貢布などが基本であり、庶民にとっては、作る農作物の豊作と年貢を完納すること、五穀豊穣と平和で幸せな世の中である「世果報(ユガフウ)」「ミルク世(弥勒世)」がなによりの願いだったこと。漁業を専業とする糸満でも、漁業の形態から作業歌は成立しにくいことなど、その要因だと思う。
 民謡は、時代を生きる庶民の日々の暮らしの中での喜びや楽しみ、辛いことや悲しいこと、心の中でわき起こる思いと願いを歌に込めたものである。

 これに対して、昔話や民話も、庶民の生活の中での願いや希望が込められている。そこには、民謡と重なる部分もあるだろう。
 魚や漁師を題材にした昔話が多いということは、漁業を専業とはしていなくても、海に囲まれ、自給自足の生活の助けにするうえで、日常的に魚を獲り食べてきた暮らしがあったことを物語る。農業重視の政策があっても、日々の暮らしで身近な海と魚と漁師は、昔話のテーマになりやすかったのだろう。

 それと、民謡で歌われる豊作や世果報などは、庶民の生存にかかわる真剣な願望である。もし、凶作や災害に見舞われれば、飢餓にも見舞われかねないからである。
 昔話は、同じような願いを反映していても、もっと自由に夢と希望を託すことができたのではないだろうか。民謡の歌詞は、より現実に深く根差した内容が多い。でも民話や昔話は、現実の投影があるけれど、もっと自由でファンタスチックな内容があるからだ。魚と漁師にまつわる昔話を紹介しながら、そんな印象を持った。

2011年8月28日 (日)

沖縄の昔話には魚がよく登場する

 沖縄の民謡には大漁唄がない、少ないのが不思議だと前に書いた。でも、民話や昔話には、魚と漁師が登場するものがかなり多い。この違いはなぜなのか? それはまた別に考えるとして、魚と漁師が登場する昔話をいくつか紹介してみたい。

 分厚い『日本昔話通観26沖縄』には、沖縄各地の昔話がたくさん集められている。
 ちなみに、昔話とは、民話の一種で、民衆の生活の中から生れ、民衆によって口承されてきたものだ。主にフィクションとして語られる。これに対し、伝説は、一定の土地の地名や年代など、その所在や背景が示され、登場人物も歴史上の有名な人物やその土地の人物などが好んで示されるので、この点が昔話とは異なるという(ネットの「ウィキペディア」を参考にした)。202       写真は平安座島のサングヮチャーで「タマン」の神輿を担ぐ若者 

 「魚女房」
 昔、一人の若者が海できれいな魚を釣り上げた。あまりにきれいな魚ので、煮て食べるわけにはいかない。家で飼うほうがよいと、カメの中に入れて飼っていた。魚はきれいな女性になり、男と夫婦になった。
 こんな話である。宮古島の上野、池間、石垣島、粟国島、伊良部島などに同様の話があるという。

 「雀酒屋」
 昔、宮古に酒がなかった頃、ある漁師が海へ行き、潮が引くまで待っていると、浜の岩のくぼみに、ぱどぅら(雀)が粟の穂をくわえてきた。岩のくぼみにたまった水を飲むと楽しそうに飛び上がったり、踊ったりしていた。漁師が水溜りに指を入れ、なめてみる。木の葉にすくって飲むといい気持になった。これが泡盛の始まりである。
 こんな話が、宮古島の上野、沖縄本島では、具志川、東風平、読谷その他にある。

010          写真は潮が引いた瀬長島の浜辺

 「人魚と子ども」
 貧乏な子と金持ちの子が釣りに行き、大雨になって帰ろうとすると、金持ちの子が人魚を釣り上げる。「逃がしてやれ」と言うが、承知しない。金持ちの子が帰らないので、貧乏な子が殺したのではないかと疑われる。貧乏な子が「助けてくれ」と呼びかけると、金持ちの子の声が海の中からする。「人魚に引きずり込まれて罰を受けている」と言い、貧乏な子は疑いが晴れる。金持ちの子はその後犬になった。

 「魚知らず」
 金持ちが畑の肥やしにするために、下男に魚をとりにいかせると、下男は赤魚をとってくる。下男が赤魚を腹を開けると、ヒーヒリクーバーが入っていた。下男は、女主人に「慶伊瀬島の魚は夜になると陸のすすきに登って、ヒーヒリクーバーをとって食べる」と言う。女主人は「そんなバカなことがあるか」と言うが、その魚の腹を見せられて信じた。

 「野原で魚とり」
 王様から「魚を何百斤も差し出せ」という命令がきたのでみんなが困っていると、勝連パーマが「私が解決する」と引き受ける。勝連パーマは、王様が通る野原で、びく(魚籠)に魚を1匹入れて網を打っていると、王様が通りかかり、「野原で魚がとれるはずがない」と言う。勝連パーマが「王様の命令を果たすためには、海だけでは間に合わない」と言うと、王様は「海でとれた分だけでよい」と言い、求められて証文を書く。勝連パーマは、魚を1匹だけ持って首里城に行き、証文を出したので、責めることができなかった。
 うるま市の具志川兼箇段(カネカダン)にある話である。

 まだまだある。よく意味がわからない話もある。「魚知らず」の中の「ヒーヒリクーバー」とは何かわからない。辞書によると「ヒーヒラ」とは「よく屁をひる者」、「クーバー」とは「蜘蛛」のこと。だから「よく屁をひる蜘蛛」という意味かも知れない。
 この話で、金持ちが畑の肥やしにするために魚をとりにいかせたというのは、興味がある。昔は、村落の前の海は、農業用の肥料とする海藻をとる場でもあったと「大漁唄がない沖縄の不思議」でも書いたことだった。

 昔話は、教訓話がけっこうある。「人魚と子ども」でも、人魚を大切にする思いが込められているようだ。とんち話として面白いのは、「野原で魚とり」である。無理を強いる王様を勝連パーマのとんちでやりこめる。王府の無理難題に苦しめられた庶民の願望が込められているようだ。

2011年8月25日 (木)

地謡は舞台表に出るのが本来の形だった

 組踊(クミウドゥイ)の地謡(ヂウテー)が、幕の後ろにいるのはおかしいのではないか、とさきに書いた。組踊は、歌三線と舞踊と台詞の総合芸能である。「組踊を聴く」というぐらい、歌三線など地謡はとても重要である。

 先日、国立劇場おきなわで観た組踊「執心鐘入」など2つの演目は、いずれも、歌う声と三線の音だけ聞こえるが姿は見えない。それは、組踊は舞台正面に掲げられた大きな幕の前で演じる。地謡はこの幕の後ろに配置されているからだ。
 知り合いのHおじいに「組踊を観に行ったけれど、地謡は幕の後ろにいて見えなかった」と話すと「組踊はそうなんだよ。僕が前に琉球新報ホールで観た時もそうだったよ」という。これが組踊の常識化しているらしい。でもやはり納得がいかない。組踊が影響を受けた大和の能は、地謡が配置された前で演じている。011

 なにより、聴きどころの歌三線など地謡が、幕の後ろでは客席から遠くなりすぎるし、薄い幕でも、せっかくの歌三線の音色をさえぎることになる。組踊は、中国皇帝の使者である冊封使(サッポウシ)を歓待するための芸能であり、1719年に初めて上演された。この時から、こういうおかしな配置がされたのだろうか、疑問に思った。どうもそうではないらしい。

 矢野輝雄著『組踊への招待』で、次のように記述されている。
 地謡が幕の後ろで演奏したのは、伊波普猷(イハフユウ)によれば「いつの頃からか、幕の中に這入るやうになって近年にいたった」とある。徐葆光(ジョホコウ、冊封使)『中山伝信録』の挿絵も地謡は能のように舞台に出ており、玉城朝薫(タマグスクチョウクン)の躍奉行をつとめたときは、地謡が小道具を踊り手に渡すなど後見をも兼ねていることがうかがわれる。その意味からも地謡は舞台に出る形が本来の形といえよう。2       幕の前で演じ、地謡は幕の後ろで演奏する。冊子『はじめての組踊』から。

 このように述べている。なぜ、いつから幕の後ろに隠れる配置になったのだろうか。同書は山内盛彬(ヤマウチセイヒン)氏の見解を紹介している。
 「山内盛彬は、知念績高(チネンセッコウ、琉球古典の音楽家)がミーハギー(ただれ目)であったため、見苦しいからと幕の後ろで演奏したと書いている」としながらも、同時に「これには戌の冠船(1838年の冊封使)のときとしているので時代があわない」と疑問を呈している。真相はよくわからない。
 ただし、山内さんの説は、ひとつのきっかけとしてはありうる話のように思う。知念績高が亡くなっても、いつの間にかそれが慣例化していったのだろうか。それに加えて、舞台上の演技の効果をあげるために、地謡は舞台の表に出なくてもよいと考えたのかもしれない。
 しかし、前に書いたように、組踊の素人にすぎないが、地謡を聞くことは組踊を楽しむ重要な要素である。地謡を最大限に客席からよく聞こえるようにするためにも、幕の後ろで演奏するのはやめてほしい。琉球王府時代の本来の形に戻すことに、何の抵抗があるだろうか。

2011年8月24日 (水)

なぜ八重山で右派的「公民」教科書選ぶのか

 石垣市、竹富町、与那国町の来年度からの中学校の教科書選定で、「歴史」は「つくる会」系の教科書ではなく、帝国書院が選ばれた。これは、沖縄戦の「集団自決」の日本軍の強制・関与も書かず、侵略の戦争も美化する教科書を選ぶな、という県民世論を考慮せざるをえなかった結果である。
 でも「公民」は、「つくる会」系の育鵬社の教科書が多数決で選定された。

 事前に任命された調査員は、歴史と公民の教科書で、いずれも育鵬社も自由社も推薦していない。にもかかわらず、委員は無記名投票で、推薦外から選ぶという異様なやり方のもとで選定された。しかし、竹富町は育鵬社の「公民」教科書は採択しないと事前に表明していた。それだけ反発が強く、激論になったという。

 八重山での「つくる会」系のいわば右派的な教科書の選定は、他県とは異なる意味がある。それは、沖縄戦で悲惨な戦場にされ、米軍基地が居座る沖縄というだけではない。政府・防衛省が進める自衛隊の先島配備などの動きと重なるからだ。

 政府は、与那国島に陸上自衛隊の駐屯地をつくるとし、そのため土地を取得する方針だ。石垣市には、革新市政に時代には反対していた自衛隊の艦船の入港を認めている。

 育鵬社の「公民」教科書は,愛国心を強調し、「自衛隊は日本の防衛に不可欠」とか、「日本の平和は自衛隊の存在とともにアメリカ軍の抑止力に負う」と評価する。国民の基本的人権については「行きすぎた平等意識はかえって社会を混乱させる」とか、男女平等についても「性差を認めた上で、それぞれの役割を尊重」するとのべている。これには、「改憲を誘導」「戦前の軍国主義の流れを感じる」など厳しい批判の声が出ている。平和の憲法、国民の基本的人権を軽視する偏向教科書である。
 
 南西諸島での自衛隊配備など進める上で、その抵抗感をなくす狙いがあるのではないか。自衛隊配備について、尖閣諸島をめぐる情勢や中国、北朝鮮の「脅威」などをあおるが、それは口実に過ぎない。米軍と連動して、自衛隊の海外派兵と「戦争ができる国」にしていくために、沖縄と南西諸島を最大限に利用しようとしているのだろう。

 「つくる会」系の教科書採択という問題も、自衛隊への抵抗をなくすにとどまらず、こうした「戦争ができる国」の国民づくりの一歩とみるべきだろう。
 しかし、沖縄戦を体験し、米軍基地の危険に日々さらされる県民は、こういう策謀を決して許さないだろう。平和を求める県民の心とかけ離れた時代錯誤の動きは、反撃を受け失敗するだろう。

 

 

2011年8月23日 (火)

伊江村の組踊「忠臣蔵」が上演される

 国立劇場おきなわの「組踊への招待」第3弾は、伊江村で継承されている組踊「忠臣蔵」である。上演は12月。前にこのブログで沖縄は、各地方、島ごとに組踊があることを紹介した。伊江島には、継承されている組踊がなんと12演目もある。島の東江上区で継承されている3演目の一つが「忠臣蔵」だという。
 歌三線と舞踊と台詞の総合芸能である組踊が、村ごとに、それも集落の単位であるというスゴサを改めて感じたので少し紹介したい。

Photo_2  この「忠臣蔵」は、1840年頃に東江上区出身の上地太郎という人が、首里で奉公中に大和へ行った折り、観賞した「歌舞伎・仮名手本忠臣蔵」をもとに、組踊「忠臣蔵」を作ったといわれる。もちろん、場所の設定から人物まで琉球に合わせている。ストーリーは、松の廊下の刃傷から討ち入りまで同じ流れである。

 伊江島では、明治時代に2度、大正時代に2度上演。戦後は1971年に約半世紀ぶりに復活し、門外不出の伝統芸能として地域で温めてきたという。
 伊江島は、沖縄戦の縮図といわれる戦禍を受け、戦後は米軍基地による土地強奪で苦難の道を歩んだ島だ。その中でも芸能は継承されてきた。1973年に伊江村民俗芸能保存会が結成され、1980年から、各区輪番の民俗芸能発表会が始まり、いくつもの演目を上演してきたとのことである。

003
 1993年に初めて那覇市の郷土劇場で村外公演を果たし、2001年には東京の全国民俗芸能大会でも上演するなど、広く知られるようになってきた。そして12月の国立劇場おきなわの公演である。
 組踊「忠臣蔵」の台本を見ると、第11場まである本格的な構成である。今回の公演は、役者22名中18名が新人で、伊江島特有の方言の発音から若者には戸惑いもある。けれども伝統芸能の継承と後継者育成のため、懸命に稽古を続けているそうだ。
 小さな島の一集落で、これだけの伝統芸能と組踊を、幾世代にもわたって保存し継承していくことに、驚く。と同時に、村々、島々に根付く伝統芸能の底力に敬服する。

Photo_6

 さきに述べたように、組踊は沖縄の村々、離島まで各地で保存・継承されている。国立劇場おきなわでもらった冊子『はじめての組踊』の中に、各地にどのような組踊の演目が保存されているのかを示した地図と一覧表が掲載されていた。写真をアップしたが、とても小さくて不鮮明なので見えない。ただ、地図では沖縄の南部、中部、北部から各離島まで、印があることはわかる。

Photo_7

 演目の一覧表を見ると、その数は40にのぼる。一つの演目で、20を超える地域で上演される演目もある。組踊を上演する地域数はとても数えきれない。なぜこれほど地方に組踊が広がり、演じられてきたのか。その理由にはいくつかの説があるという。冊子の中で宜保榮治郎氏は、要旨次のようにのべている。
 ①1879年の廃藩置県頃、都落ちした士族が村に教えた。
 ②琉球王朝末期頃、首里士族が村々をめぐって台本を売り歩いたついでに教えた。
 ③地方の有力者の子弟が首里の御殿(ウドゥン)、殿内(トゥンチ)に奉公に出た時伝授さ れた。
 ④1800年前後から、各村の会所(寺子屋)の教師が村の子弟に教えた。
 ただ、だれが伝え、教えたにしても、村の人々がこの伝統芸能を愛し、楽しみ、演じ、続けて行こうという熱意と努力がなければ、廃れていく。
 沖縄の村々では、夏の豊年祭の時に、村遊びと呼ばれる楽しみの場で、組踊を演じているところが少なくないとのことである。それだけ、人々が組踊を楽しんでいるのだろう。

Photo_4 ちょうど8月23日付けの「琉球新報」にも、南城市久手堅(クデケン)で旧暦7月16日に行われた「ヌーバレー」の模様が報じられていた。ヌーバレーというのは、旧盆で家々の先祖を供養するだけでなく、無縁仏をあの世に帰して五穀豊穣などを願うという伝統行事である。同区は伝統芸能の復興に取り組んでおり、2006年に復活させた同区固有の組踊「鏡の割(わり)」や10年に復活させた歌劇「魚小(イユグヮー)チヤー」などを披露したという。
 村々の組踊、伊江島の組踊も一度、観てみていなあ、と改めて思った次第である。

2011年8月22日 (月)

組踊「執心鐘入」など2作を観る

 国立劇場おきなわの「組踊(クミウドゥイ)の未来へ」という企画で、最初の演目は、組踊創始者の玉城朝薫(タマグスクチョウクン)作の「執心鐘入」(シュウシンカネイリ)である。300年近く前の作品である。018  会場には、続々人が入り満席になった。通常の有料公演では満席にならないそうだが、無料公演の効果絶大だ。会場の外で同時中継されたテレビ画面で見た人もいた。

 「執心鐘入」は、首里へ奉公にあがる中城若松という若い男が行き先を見失い夜、宿を借りたいと頼む。家の女は、はじめは断るが若松と知り泊める。かねて思いを抱いていたので、「長い冬の夜を明かして語りましょう」と迫る。でも若松は拒む。そのときの女と若松のやり取りを訳文で紹介したい。

女「男に生れても恋を知らない者は 外見は美しくても肝心なことを欠いた奴だ」
若松「女と生まれても 義理を知らない者は これこそ世の中の悪の極みだ」
女「悪縁が結ばれてしまっては 放そうとしても放すことができない 私を振り捨てて行くなら一緒に死ぬしかない」

 若松は逃げて寺に駆け込み鐘に隠してもらう。女は追いかけてくる。女は鐘にまとわりつき、ついには鬼女に変身する。すさまじい執念というか情念である。寺の和尚さんと小僧が法力でなんとか女を鎮める。能の「道成寺」にヒントをえた作品である。

2      上演中は写真撮影は禁止なので、パンフレットの表紙をアップする。

 組踊は、一幕で演じるので、場所が変わっても背景は、吊るされた大きな紅型の幕の前で演じる。演技もリアルな動きではなく、抑制された動きで表現する。しかも、しばしば動きは止まる。それは、歌三線の演奏を聴かせるためあえて動きを抑えるのだ。
 歌三線は、人物の思いや心理などを巧みに表現する。組踊は、観に行くというより、聴きに行くものだというくらい地謡(ヂウテー)、歌三線が重要である。地謡は、琉球古典音楽に秀でてなければいけない。地謡の歌三線で、2011年7月に西江喜春さんが2人目の人間国宝に認定されたばかりだ。014_2   次の演目は新作組踊「さかさま執心鐘入」。芥川賞作家の大城立裕さんの作品だ。今回で2回目の上演になるそうだ。
 これは、組踊の様式を踏まえたうえでパロディとして楽しめるように作られている。
 
 「執心鐘入」の舞台であるお寺は、いまも鬼になった女がたびたび表れ悪さをする。その寺に、若い女性が首里から中頭(ナカガミ)に帰るところだが、男につけられていると助けを求めてくる。そこへやはり首里から中城若松が、奉公が終わっての帰りだと立ち寄る。女が悪い男と思ったのは、実は若松だった。

Photo  女は、男が若松だと知ると急に恋する。鬼になった女も若松に恋している。二人の女は互いに恋敵になる。そこへ、なんと「執心鐘入」を書いた玉城朝薫が登場する。最後は、朝薫のいきなはかいで、めでたくおさまるというお話である。
 新作組踊といっても、まさしく喜劇で会場は、最初から笑いに包まれる。笑い続けた。まさしくパロディである。頭の固い人は、「こんなの組踊じゃない」なんていう人がいるかもしれない。でも、話の展開は現代的であり、音楽も古典とは違った軽快な曲で、楽しめる舞台だった。
 これは、あくまで古典組踊の「執心鐘入」とセットで見ないと意味がない。ただセットで見ることは、めったにない。そういう意味では、ありがたい機会だった。

 国立劇場おきなわは、伝統芸能の殿堂であるだけに、劇場の設備もすばらしくて、組踊を観賞するには最適である。前に、首里城で秋の満月の夜、正殿前で「執心鐘入」を見たことがある。これは、これでとても盛り上がった。でも屋内では、ここが最高である。

009

 最後に注文をしたいのは、地謡が幕の後ろに隠れて演奏することである。恐らく舞台効果を上げるためなのだろう。でも、一枚、布で仕切って隠しただけでも、歌三線はなんかベールがかかったように聞こえる。当然のことマイク、スピーカーは使わない。よい声をしていても肉声であり、三線の音もそれほど大きくはない。だから、幕の奥での演奏では、せっかく聴きどころの音楽の値打ちを下げている感じがする。
 それに、演奏している地謡の人々の、三線の持ち方、弾き方、口の開け方から表情までその様子を見たい。なのに、見えない。最後に布が上がって地謡の人たちが紹介され、やっとどういう人たちなのか、姿が見えた。
でもやっぱりおかしい。東京で演じた組踊を動画で見ると、地謡は舞台の右そでで演奏している。それに組踊が影響を受けた能でも、やはり地謡や囃子は舞台の後方の見える位置に配置されている。オペラではオーケストラは、舞台の前を下げてオケをピットに入れて客席から見えないようにしている。でも音楽はなんの妨げもなく、生で客席に響くようにしている。オペラもオケはたんなる伴奏ではなく、オケの演奏そのものが重要な聴きものである。
 組踊も、舞台の見える所に地謡を配して、直接に歌三線を見て聴くことができるようにしてほしいと強く感じた。      

2011年8月21日 (日)

「組踊への招待」を観る

 歌三線と舞踊と台詞が一体となった総合芸能の「組踊」(クミウドゥイ)がユネスコ無形文化遺産に登録されて1周年を記念する事業「組踊への招待」が、国立劇場おきなわで行われた。すでにこの企画の第一弾のシンポジウム「組踊の魅力」は8月7日に終わり、20日、第2段「組踊の未来へ」と題して、2つの組踊が上演される。第3弾は、伊江村の組踊「忠臣蔵」が12月4日に上演される。
001          国立劇場おきなわの立派な建物

 ということで、第2弾の二つの組踊を観ることにして出かけた。 沖縄の民謡、芸能について書いているわりには、国立劇場おきなわで組踊を観るのは初めてである。

003  なぜ、いま、急に観劇に出かけたのかというと、なんと2つの組踊が無料で見られるチャンスだからだ。記念事業であり、2作品の出演者は、「沖縄芝居実験劇場」という伝統芸能の若手の舞踊家、音楽家たちが集まる団体である。とても楽しみだ。002_2  国立劇場おきなわは、組踊だけでなく、琉球弧の島唄や沖縄各地の民俗芸能祭などの公演もある。いまや沖縄の芸能の殿堂である。
004  「組踊への招待」のポスターもあった。
 組踊は、中国皇帝の使者である冊封使(サッポウシ)を歓待するために創作された総合芸能である。創始したのは、玉城朝薫(タマグスクチョウクン)。彼は、組踊5番と呼ばれる、有名な5つの組踊を創作した。上演されるのは、代表作品である「執心鐘入」。1719年に初演された。朝薫の5番は、いずれも今でももっともよく上演される演目である。
 もう一つは、新作組踊「さかさま執心鐘入」。芥川賞作家の大城立裕作である。「執心鐘入」の後日談である。上演作品の中身は、あとから紹介する。005_2  はじめて国立に来たので、なにもかもが珍しい。お上りさん状態である。ユネスコ無形文化遺産への登録を祝う垂れ幕も、ホール内に掲げられている。朝薫の記念碑もある。

006 008 レリーフもあった。玉城朝薫記念碑レリーフの原型石膏である。「執心鐘入」に登場するゆかりのお寺、万寿寺のあった首里の末吉公園内に建立されているとのこと。

011  組踊の歴史の展示もある。朝薫の5番について、一つ一つ詳しく解説されている。全部読み切らないうちに、開場になり、劇場内に入った。長くなるので、演目については、次にしましょうね。

2011年8月20日 (土)

夏の夜は花火

夏の夜といえば、やっぱり花火でしょう。ウチナーンチュは、花火が大好きだ。001 花火は沖縄に限らず、全国どこでもあるだろう。好きだろう。
といっても、沖縄は祭りが大好きだし、年中なんらかの祭りをやっている感じがある。007_2  とくに夏は、豊年祭から盆踊り、綱引き、エイサーなど沖縄中、あちらこちらで祭りをしている。祭りの最後は花火である。ハーリーでも、ちょっとした祭りでも、必ず花火が打ち上げられる。

 今夜、土曜日の夜も、「ドーン、ドーン」という音が聞こえてきた。「あれ、どこかで花火を上げているんじゃないか」とすぐ、ベランダから外を見ると、正面の豊見城市方面で花火が上がっているではないか。おもわず、シャッターをきったというわけである。002  といっても、遠いのでどこで上げているのかもわからない。カメラを向けても、小さくしか入らない。しかも、夜空なので、「あっ、上がった」と思って、シャッターを押しても、写った時はもう消えているという具合で、シャッター押して、写るまでのタイムラグが大きくて、うまくは撮れない。でもせっかくなので、アップした。

005

神や仏は頼れるか?

 沖縄民謡には、神様や仏様はよく登場する。たいていは、豊作の祝いや祈願であり、豊年で幸せな世である「世果報(ユガフウ)」「ミルク(弥勒)世」の願いである。
 たとえば、民謡界の大御所、登川誠仁作詞、作曲の「豊節」では、次のように歌う。
「♪作る毛作(ムヂュク)いん 満作ゆ賜(タボ)ち 弥勒世(ミルクユ)ぬ印し 神ぬ恵み」
(作る作物は 豊作をもたらしてくれる 豊作で平和の世の印 神様の恵みである)

 023         豊作と平和な世をもたらしてくれると信じられている「ミルク様」(那覇市字小禄)

 神の恵みで農作物は豊作で幸せな世の中の表れに感謝する。こんな歌詞はとても多い。
神と仏は、恋歌にもよく出てくる。男女がかけあいで軽快に歌う「川平節」は、士族の男が恋する遊女を誘うがなかなか応じてくれず、「いっそ死んでも」という思いに彼女も答えてくれる。そこで男女は次のように歌う。
「♪天ぬ御助けか 神ぬ引き合わしか 無蔵(ンゾ)連れて宿に戻る嬉さ」
(天のお助けか、神様の引き合せか 彼女といっしょに宿に戻るなんと嬉しいことか)
 命までかけるほどの恋情が、ついに実を結ぶ嬉しさに、天と神に感謝したいのだろう。

 古謝美佐子さんが、孫が生まれる時に作った「童神(ワラビガミ)」も、冒頭からこう歌う。
「♪天(ティン)からの恵み 受きてぃこ此(ク)ぬ世界(シケ)に 生まりたる産小(ナシグヮ) 我身ぬむい育(スダ)てぃ」
(天からの恵みを受けて、この世に生れてきた愛しい子どもよ 我が思いをうけて育ってほしい)
 こんな生まれる子どもへの深い愛情と期待が込められている。

 ところが、こういう神様や仏様に感謝する曲ばかりではない。
 沖縄は、海の彼方の神様がすむというニライカナイの信仰がある。全島のいたるところに神が降りてくる御嶽(ウタキ)や八重山にはオン(御嶽)がある。祖先神への思いも強い。火ヌ神(ヒヌカン)はじめ様々な神への信仰も深い。

 026            浦添市仲間の御嶽
 でも、恋愛でも自分の思い通りにならなければ、神や仏の助けはないのかと歌うことになる。例えば「いちゅび小節」(イチュビグヮーブシ)という民謡がある。エイサーにもよく使われるテンポの良い曲だ。「いちゅび」とは野イチゴのこと。でもここでは、「いちゅび小に惚りてぃ」と歌うので、思いを寄せる女性のことを指している。
 歌は、思いを寄せる彼女がいるところにせっせと通う男の心を表し、次のように歌う。
「♪通るがな通てぃ 自由ならんありば 神仏ていしん 当やならん」 
(彼女を思って懸命に通っても 思い通りにならないのならば 神や仏といっても当てにはならない)

 こんなに一生懸命通っているのに、思いが遂げられない。ああ、神や仏といっても、頼りにならないものだ、とサラリと歌う。信仰心はとても強いのに、こういう場合はあっけらかんと「神や仏も当てにならない」と歌う。意外なほどである。

 012          金網に囲まれた普天間基地。この中にお墓もある。

 恋歌ではなく、悲惨な犠牲をもたらした沖縄戦をテーマにした曲でも、たびたび神や仏が登場する。上原直彦作詞の「命口説(ヌチクドゥチ)」は次のように歌う。
「♪海山川ぬ形までぃ 変わい果てぃたる我が沖縄(ウチナー)如何(イチャ)し呉(クイ)みせが神仏」
(海や山、川の姿まで変わり果てたわが郷土の沖縄 いったいどうしてくれたのだろうか神や仏様は」
 戦場と化した郷土の余りの惨状に、悲しみと嘆きの思いがこういう表現になったのだろう。

 この前、紹介した反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰えーぬくさー」(比嘉恒敏作詞作曲)でも、同じく次のように歌う。
「♪神ん仏んたゆららん 畑(ハル)や金網 銭(ジン)ならん」
(神や仏もたよりにならない 畑は米軍基地にとられ金網で囲われ 銭にならない)

015          写真は、「艦砲ぬ喰えーぬくさー」を歌うデイゴ娘(NHKテレビから)      

 艦砲射撃で殺されなくて生き残ったも、戦禍に荒れ果てた郷土では、神や仏に頼っても助けてはくれない、生きてはいけない、土地は米軍基地に取られてしまい。自由に農作物を作ることもできないという思いである。曲はこの後、「戦果かたみてぃすびかって」と続く。米軍物品をかっぱらうことまでやらざるをえなかったということを歌っている。必死に働いて自分の力で生きるしかなかった。県民のだれもが同じ思いを抱いてきたのだろう。

2011年8月18日 (木)

八重山の教科書めぐる危うい動き

 八重山の石垣市、竹富町、与那国町の来年度から中学校で使用する教科書をめぐり危うい動きが進んでいる。各地で問題になっている「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社版、自由社版の歴史・公民教科書を採択しようとする策謀である。

 というのは、教科書用図書八重山採択地区協議会で、会長の玉津博克石垣市教育長が、現場教員ら調査員による推薦教科書の「順位付」を廃止したり、委員を差し替え氏名も協議会も非公開で、採択は無記名投票制にするなど、これまでの民主的なルールを改変したからだ。

 この種のルール改変は、つくる会系の教科書採択のための常とう手段となっている。実際に、玉津氏は、つくる会系の教科書について「文科省の検定を通っているから問題ない」と語っている。文科省の検定自体が大問題なのだ。408          石垣でも戦争マラリアで三千人以上の犠牲者が出た

  2社の教科書は、沖縄戦について重大な内容の記述になっている。日本軍の強制・関与によって、多数の県民が「集団自決」に追い込まれ、無惨な死を遂げた。この史実を、2社の教科書は、日本軍の強制はおろか、関与さえまったくふれない。米軍の「上陸」「猛攻」によって、住民が集団自決に追い込まれたとして、その責任をすべて米軍に負わせる内容である。いかに米軍の猛攻があっても、投降すれば命は助かった。だが実際には日本軍は投降を絶対に許さず、集団自決を強いた。投降しようとしたり、それを呼びかけただけで、何人が虐殺されたことか。日本軍がいない離島では自決がなかったことでも、日本軍の責任は証明されている。

 集団自決が日本軍の強制・関与によることを教科書に正確に記述せよというのは、2007年9月29日の県民大会に示された県民の総意である。玉津氏は、「県民感情は理解できるが歴史的事実は別問題」とのべているが、日本軍の強制・関与は「県民感情」ではなく厳然とした「史実」である。別ではなく同じ問題である。

405

 石垣市の中山義隆市長は、集団自決の軍命があったかどうかだけの議論ではなく、教科書の全体内容をみて判断を、とのべている。その2社の教科書「全体内容」が大問題であり、歴史の真実を歪める内容である。
 なにより、あの無謀な侵略の戦争を「自存自衛」の戦争だったとか、「アジアの解放の戦争」だったと美化するとんでもない教科書である。戦後、日本が国際社会の一員として出発する大前提を土台から覆すものである。こんな教科書で教育されれば、再び「自存自衛」のため、「アジアの解放」のためという虚妄の名目で海外への出兵、戦争に駆り出されかねない。

 ましてや沖縄は、無謀な戦争の結果、県民の4人に1人が犠牲になるという凄惨な戦場とされた。沖縄戦の痛苦の体験からしても、侵略の戦争を美化することは、絶対にあってはならない。八重山では、日本軍が住民をマラリア危険地域に強制移住させ、数千人が犠牲になった。あの戦争が正義のためとなれば、戦争マラリアも「やむをえない」とされるだろう。

 もしも、八重山でこんな沖縄戦を歪め、戦争を美化する教科書の採択を許せば、「沖縄の恥をさらすことになる」という声が出ている。沖縄から誤ったメッセージを発信することにもなる。取り返しのつかない禍根を残すことになるだろう。

363         戦争の放棄をうたった憲法の第9条の立派な碑が石垣市内にある

 八重山での教科書採択をめぐる協議会の異常な動きに、県教育委員会も異例の指導、助言をした。この事態を憂慮して「沖縄戦の実相を正しく記述した教科書の採択を」などの声明、アピールが、幅広い人たち、団体から相次ぎ出されている。良識ある採択がされることを切に期待したい。

 

2011年8月16日 (火)

沖縄の終戦記念日はいつ?

 8月15日の終戦記念日は、沖縄ではいまひとつピンとこない。というか、この日に追悼行事はあまりない。というのも、牛島司令官が自決し、日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日を慰霊の日としているためだ。でも、1945年6月23日が沖縄戦の終結の日とはならない。まだ、各地と離島で、山やガマに隠れて抵抗を続ける日本軍と住民がたくさんいた。だから、8月15日の天皇の玉音放送と終戦の事実も知らないままだ。
 米軍の捕虜になった住民は、各地の収容所にいたが、日本軍の降伏を通訳から聞かされたという。自宅でラジオを聞ける状態ではない。033          沖縄戦の犠牲者を祀る魂魄の塔

 沖縄戦の公式の終了は、1945年9月7日である。日本の降伏調印にともなって、沖縄本島を含む南西諸島の日本軍代表3人が、越来(ゴエク)村森根(現沖縄市)で、降伏文書に調印した。この日を沖縄戦終結の日とすべきという人もいる。
 悲惨なのは、終戦も知らされず、なおもガマや山などに逃げ隠れたり、日本軍に虐殺された人たちもいることだ。
 南城市玉城糸数のアブチラガマでは、避難民百余人と傷病兵7人が米兵の呼び掛けに応じて壕を出たのは、8月22日だった。3月24日にガマに避難した糸数集落の住民は、なんと5ヶ月ぶりに太陽の光を浴びたという。ここでも、住民虐殺事件が起きている。
 久米島では、島に配属された海軍通信隊(鹿山隊、40人)が住民をスパイ視して殺害する事件が相次いだ。8月15日以降も、住民に投降を呼びかけた仲村渠(ナカンダカリ)明勇さんと妻、子どもの3人が浜辺の小屋で刺殺され放火された。朝鮮出身の谷川昇さんの一家7人にスパイ容疑をかけて、子どもの手を引き、乳飲み子を背負って逃げる妻や娘2人、昇さん
を殺害した。狂気の沙汰である。こうした虐殺の責任者の鹿山兵曹長は、平然と生き延びて、降伏調印の場に現れたという。023          写真はアブチラガマではない。糸満市の陸軍病院本部壕。

 日本政府の無条件降伏である終戦記念日は、沖縄にとっては、米軍の横暴な占領と支配のスタートを意味する。9月7日の降伏文書調印によって、沖縄、奄美は日本本土から切り離され、米軍の直接統治のもとに置かれたからだ。

 危険な基地として住民が閉鎖を求める宜野湾市の普天間飛行場も、占領のもとで建設が進められた。米兵のよる女性への暴行も、沖縄戦の初期のころから多発した。8月には、玉城村(現南城市)や金武村(現在町)などで、家族と食料を探していた女性が複数の米兵に山中に連れ込まれ暴行されるなどの事件が起きた。

 これらの記述は、主に「琉球新報・沖縄戦新聞」から紹介した。 

2011年8月14日 (日)

ウチナー旧盆風景

 旧盆は14日が「ウークイ」(送りの日)である。ご先祖様を家に迎える「ウンケー」(迎え日)からはじまり3日が普通だが、ところによっては、4日目が「ウークイ」になり、4日間お盆行事が続くところもある。旧盆風景をいくつか拾ってみた。

 「ウンケーは早く、ウークイはゆっくり」
 こういう言葉がある。つまりグソーから迎えるのは早くてよいが、送るのは早くするとご先祖様に失礼にあたるからだ。だから日付が変わる午前零時ころにお送りするのが普通だ。でもあまりに遅くなるので午後9時頃からやるところもあるという。お供えの料理や果物など下げてみんなでいただく。そして家の外に出て送る。ウチナーのお盆は、ご先祖さまへの心づかいが細かい。

060          ウチナーのお盆と言えばエイサーだ

 「お供えは豪華だが、昔はソテツ、アダンの実を供えたことがある」
 ウチナーおばあ俳優の平良トミさんの自宅にラジオカーがお邪魔してウークイの風景を中継していた。トミさんによると、沖縄戦の後だろうか、昔は食べ物がなくて、スチーチャ(ソテツ)やアダンの実を供えたことがあったという。食料がないときソテツを食べた話は聞くが、いまではとても食べられない。そんな歴史もあったのだ。いまはとても豪華だ。

 「エイサーの演舞で回るので、寝ていないよー」
 お盆と言えば沖縄ではエイサーだ。青年会が道ジュネーといって、演舞して地域を回る。ラジオのゲストで出ていた青年会の若者は「ウンケーの日から寝てないよ。寝る間ないのにー」という。夜の更けるまで演舞して回る。その後はまた、みんなで飲むのだろう。飲み出すと「夜が明けてティダ(太陽)の上がるまで」というのが、民謡でも歌われる決まり文句だ。これが3日間続く。若くて体力ないとエイサーは続けられない。

 「テレビもラジオも民謡が流れっぱなし」
 テレビの旧盆特集は沖縄民謡。「民謡の祭典」「民謡芸術祭」など、民謡の団体ごとに芸能祭の模様がテレビで放送される。NHKのEテレ(前の教育テレビ)も沖縄の歌と踊り特集だ。きっとご先祖様も民謡が大好きなはず。
 ラジオも、あらゆる番組で旧盆風景を流す。波照間島では、「ムシャーマ」と呼ばれる豊年祭を旧盆に合わせて行う。家の先祖供養と島の祭りをいっしょに行うから忙しい。でも島から出ている人もお盆に帰るから祭りも行う方がいいのだろう。「いま舞台では踊りが始まってますよ」と島のおばさんが報告する。
 「料理作りの最中で忙しい」「これから親戚回りですよー」とか「もうすぐウークイはじまるよー」とか、お盆の様子が手に取るように分かる。お盆に綱引きをする地域もある。
 ラジオで流れる民謡は、やはりエイサー曲が多い。朝から嘉手苅林昌のエイサー曲をもう何回聴いたことだろうか。

066           エイサーの定番曲を弾く地謠(ジカタ)

 「話供養」
 お盆は、トートーメ(位牌)のある長男の家に親戚一堂が集まる。ご先祖様にみんなでウートートー(拝み)する。夜遅くウークイするまで、歓談する。親戚が元気な姿を見せ、近況などワイワイと話しあうこと自体が、ご先祖様は嬉しいらしい。だから歓談することが供養になるそうだ。

 「ウチカビをしっかり燃やそう」
 お盆の話になるとウチカビが話題になる。ウチカビとは、グソー(あの世)のお金だ。先祖がグソーで惨めな思いをしないようにしっかりウチカビを燃やしてお金を持たせることが大事だとか。「でもあまりおじいにウチカビもたせると、松山(那覇の歓楽街)で遊ぶんじゃないかねー」とか冗談が出る。「ヤンキーが自動販売機にウチカビを一生懸命入れていたよ」とか。そんなバカなと言いたいが、けっこうウチカビは笑える話になりやすい。

 大和のお盆とは、違ったウチナーのお盆風景だ。ラジオでウチナー歌手のかでかるさとしの話した言葉が印象に残った。「沖縄戦で親戚も何人も死んだけれど、我々が生きているのは、親や先祖が生きて、命をつないできたからなんだね。感謝しなければね」。
 ウチナーのお盆で供養する先祖には、たくさんの沖縄戦の犠牲者がいる。どこの家庭にも必ずいる。戦争でなくなった人々への供養と、その中でもおじい、おばあや親の世代が生き残って郷土を復興させてきた、命をつないでくることができたことへの感謝の思いが込められている。
 

 

2011年8月13日 (土)

お盆はエイサー

 沖縄は旧盆を迎え、12日は「ウンケー」(迎え日)で、ご先祖様を家に迎えた。13日は「中ぬ日」で、親戚を回りお中元を配る。14日は「ウークイ」(送る日)で、家で過ごしたご先祖様をグソー(あの世)にお送りする。今年は、大和の月遅れのお盆と一日違いでほぼ重なった。

047 お盆といえば、エイサーである。エイサーは沖縄の盆踊りだ。各地域ごとに、青年会が集落を踊って回る。わが家の近くにも、古蔵青年会が回ってきた。少し暮れかかった時間から、はじまった。太鼓の音が響くと、周辺の家々からみんな出てきた。

065 子どもたちも大勢出てきた。手拍子を打ちながら見る。みんなエイサーは大好きだ。もうチムドンドンする。気持ちがわくわくするのだ。

      050_2  飾った軽トラックに地謠(ジカタ)が3人乗っている。軽快に三線を弾き、エイサー曲を歌う。同じ民謡でも、エイサーの地謠の場合は、あまり早弾きではなく、太鼓の音にあうようなリズムで弾き、歌う。みんな毎年、歌っているメンバーなのか上手だ。

063 ただ、今年はいつもエイサーには欠かせない道化役のチョンダラー(京太郎)がいない。多分、チョンダラー役の男性は、仕事が忙しそうだ。土曜でも休みでないのだろう。

022 昨年は、写真の人がチョンダラーで、子どもたちにお菓子を配っていた。チョンダラーは人気者だ。みんな大喜びでもらっていた。その人気者は今年は見えない。残念だった。それに、女性の踊り「イナグモーイ」もなかった。少しさびしい。

048_2 でも、やはりお盆はエイサーが回ってきて盛り上がる。近郊の市町を回っても、お盆のエイサーを告知する横断幕であふれていた。2、3日間かけて全集落を回る。中には、一軒一軒家を回るところもある。

 沖縄のエイサーは、伝統あるエイサーは青年会が担い、創作エイサーは、舞踊集団や太鼓集団などが中心になっている。こういうお盆のエイサーは、伝統ある青年会ならではである。青年会、ご苦労さま。

2011年8月11日 (木)

小禄にある袋中寺

 江戸時代の名僧に袋中(タイチュウ)上人がい015_2 る。1603年に、中国に教えを求めて渡ろうとしたが、入国がかなわず琉球に上陸した。琉球が薩摩に侵攻される(1609年)少し前の時代である。浄土宗の念仏の教えを琉球に広めた。当時の国王、尚寧やサツマイモを普及させたことで知られる儀間真常らにも教えを伝え「深い帰依をうけ、念仏の教えが琉球にひろまった」と浄土宗のホームページで記している。 袋中上人は、もとは福島の生れだ。  琉球で念仏踊りを伝え、それがエイサーの一つの源流になったことでも知られる。なぜ袋中上人のことを書いたのかといえば、袋中寺にばったりと出合ったからである。
 那覇市の字小禄の大綱引きがあったので出かけた。メーミチと呼ばれる広場のようになった道(写真)で綱引きがあった。

008

 ちなみに、沖縄の古い集落には、ヨーロッパの街づくりのように、集落の中央部に広場があるところが、よくある。大和ではあまり見かけない。これまでにも、糸満市の喜屋武(キャン)は、広場から四方八方に道路が伸びている。小禄の具志も、中央部の道路が膨らんで広場になっている。字小禄も同じように、道路が膨らみ、綱引きやイベントには格好の場である。このメーミチのすぐ側に袋中寺がある。

010  袋中寺は、琉球王府時代からの寺ではな014_2 い。袋中上人が再興した寺院、檀王法林寺(京都市)の住職が戦前、1937年(昭和12)に袋中上人顕彰のために那覇市に檀王別院袋中寺を創建したが、沖縄戦で焼失したという。それで沖縄には、浄土宗の寺はなくなったそうだ。沖縄は、首里に臨済宗のお寺がとても多い。

 ちなみに、浄土宗は、法然上人を宗祖とし、南無阿弥陀仏を口に出して唱えれば、仏の救済を受けられるという教えである。

 戦後、1972年(昭和47)に、沖縄が返還されたのを機会に、やはり檀王法林寺の住職らの働きで、浄土宗の寺をつくることが計画された。

 そして小禄に土地を求め、1975年(昭和50)に建設されたのが、この袋中寺だった。なぜ、小禄だったのだろうか。浄土宗のホームページは次にように記している。
「小禄の地は、昔から小禄浄土と呼ばれていて、古い伝統をもつこの島独特の念仏者の系譜が伝わるところである」

012  立派な鐘もあった。前に小禄を回った時、袋中寺の看板だけを見て、寺があるのは知っていたが、実際に見たのは初めてだった。
 エイサーはますます盛んであるが、もう袋中上人とはあまり関係なくなっている。

 袋中寺とは関係ないが、ついでに小禄の綱引きの行事の模様を少し紹介する。
綱引きは、豊作を祝ったり、豊年を願う伝統的な行事である。どこの地域でも盛んだ。017  小禄のマークをあしらった立派な飾りを付けた旗頭が登場した。「飛龍」の文字が翻っていた。これが小禄の標語である。027 豊作と平和で幸せな世をもたらす「ミルク様」も登場した。仏教の弥勒菩薩の信仰であるが、ミルク様は、沖縄では土着信仰のように、住民に親しまれている。  

040 祭りと言えば、獅子舞が欠かせない。子どもたちは怖がるのではなく、大喜びだ。

050 3頭も登場して舞った。小禄の獅子はあまり大きくないというか、太っていない。むしろ珍しく胴体はやせ気味である。

 中に入って獅子を操っていたのは、なんと中学生らである。女子もいる。

052  というわけで、袋中寺とはまったく関係なくなった。でも、袋中寺はこの地域に溶け込んでいる。「トイレの方は、袋中寺を利用して下さい」と呼びかけていた。肝心の綱引きは都合で見られなかったので、写真はない。

2011年8月10日 (水)

「がじゃんびら公園」からの眺め

 美空ひばりの歌碑がある「がじゃんびら公園」は、那覇港が一望できるとても眺望の良い高台にある。「がじゃんびら」とは「蚊の坂」という意味だ。昔は蚊が多かったのだろうか。

029 眺望がよいと言っても、目の前に広がるのは米軍の那覇軍港である。米陸軍が使っている。海軍が使ううるま市のホワイトビーチに次ぐ規模だという。那覇市のど真ん中で、戦後66年たっても、米軍が広大な港と岸壁、土地を占有している。
 すでに1974年に全面返還で日米が合意しているにもかかわらず、移設条件付き返還であるため、いまだに返還は実現していない。
 写真で、黒々とした物体が見えるのは、米軍の軍用車両である。

031 これから艦船に積み込むのか、もしくは積み下ろしたものなのかわからない。でもベトナム戦争でも、ここから戦車をはじめ武器や弾薬類など積みこまれたのだろう。軍港は戦場と直結していることはいまでも変わらない。
 035_2   灰色の艦船らしき船の上部だけがわずかに見えている。

 「がじゃんびら公園」からは、もう一つとても大事なものが見える。それは琉球王国の時代の「御物城」(オモノグスク)跡である。でもそれは、なんということか米軍那覇軍港の中にある。027  那覇港に浮かぶ小島に王府が築いていたグスクだった。かつては独立した小島だったが、その後埋め立てによって陸地とつながった。出島のような形になっている。
琉球王国は、中国や東南アジア、日本、朝鮮と貿易をして栄えた交易国家だった。その外国からの輸入品や輸出品などを収蔵する重要なグスクだった。いまでも石造りのアーチ門がある。

 グスクの名前がつくだけに、たんなる倉庫ではなく、貿易や那覇の行政にたずさわる重要な役所だったという。18世紀に貿易が衰退し廃された。戦前は、高級料亭があり、戦後は米軍の軍港の施設が建てられたそうだ。写真でみても、小島の上に建物が見える。王府の史跡であるのに、なんの考慮もなく施設を造り、使用している。しかも、こんな重要な史跡が、米軍基地の中に取り込まれて、県民は自由に出入りできない。排除されているとは、なんたることか、ワジワジーする。

033  軍港の対岸は、那覇港で大和や奄美諸島などからの船舶が出入りする。戦前、戦後もまだ航空機が便利でなかった頃は、大和への進学や就職、出稼ぎ、それに出征や旅行など、この港から船で旅立った。親兄弟や恋人などとの別れの場でもあった。

 せっかくの眺望が、米軍の軍港では、ムカつくが、那覇軍港の全体や現状を見るには絶好のポイントでもある。038    がじゃんびら公園は、散歩にいい場所だ。でも家からは遠いので行かない。

2011年8月 9日 (火)

美空ひばりの歌碑を訪れる

 昭和の歌姫、美空ひばりには、沖縄を舞台とした歌が1曲だけある。生涯に1500曲余り持ち歌があるなかで、唯一沖縄県と関わりのある曲だという。「花風の港」という曲だ。019_2  この歌の歌碑が建立されている。那覇市金城の那覇港を見下ろす高台の「がじゃんびら公園」にある。沖縄には「花風」(ハナフウ)という男女の別れを歌った民謡があり、琉舞も踊る。これにモチーフにした曲だという。
「♪赤いサンゴの波散る島を何であんたはすててゆく 出船ほろほろ花風の港 紅の手さじを前歯で噛んで しのび泣くのも恋のため」というのが1番の歌詞だ。
 「ひばりの佐渡情話」など作詞した西沢爽さんの作詞である。020  歌碑の前にはオートサウンドシステムが設置され、足型に立つつ曲が流れるという仕組みだ。聞いてみたいけれど、いまは作動しなかった。022

 この歌碑を建てたのは石原エミさんという歌手の方だ。彼女の作詞、作曲、唄で「美空ひばり賛歌」も作られている。左の写真は、この曲の4番の歌詞のその最後の部分である。歌詞の2,4番を紹介したい。

「♪戦がすんだ沖縄で つらく淋しいあの日々を
ひばりの歌で乗り越えた 生きる勇気をありがとう ※繰り返し」

「♪ここは沖縄 神の島 世界平和を祈る島 ひばりは今も天高く 世界平和を歌っている ※繰り返し」

 石原さんの思いが歌に込められている

017_2  あえて書かなくても、写真を見れば一目でわかるように、立派な歌詞の看板が建っている。なぜこの歌碑を建立したのか、という経過と思いを詳しく記した看板も建てられている。

025  戦後の日本で「一筋の希望の光と生きる勇気と大きな夢を与え続けたのが日本の歌姫、美空ひばりさんの歌声でした」と記している。そして「平和の使者美空ひばりさんへの恩返しになれば」という思いで、1997年12月8日に歌碑を建立したという。
 石原さんは、沖縄と日本全国、海外の「平和を願う多くの人々の心が一つになり、世界の平和が築かれることを心から願っております」と記しており、ひばりさんと平和への熱い心がつたわってくる。

034            歌碑の建つ公園の広場。いまは草ぼうぼうである。

 美空ひばりは、横浜に生れ、太平洋戦争の恐ろしさは決して忘れることができないと語っている。平和への思いを心の奥に抱いていた歌手である。彼女が平和への祈りをこめて歌った名曲に「一本の鉛筆」がある。
 この曲は、脚本家で映画監督の松山善三さんの作詞で、1974年に開かれた第1回広島平和音楽祭でひばりさんが歌った。
「♪一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く
 一本の鉛筆があれば 戦争はいやと書く 
 一枚のザラ紙があれば 子どもがほしいと書く 
 一枚のザラ紙があれば あなたを返してと私は書く 
 一本の鉛筆があれば 8月6日の朝と書く 
 一本の鉛筆があれば人間の命と書く」

 「ユーチューブ」に、この曲を歌っているNHKの映像があり見た。ひばりさんは「2度とあのような戦争が起こらないように祈りたいと思います イバラの道が続こうと平和のため我歌う」とこの歌を歌う前語っていたという(NHKのナレーションから)
 「がじゃんびら公園」の歌碑を見ながら、「一本の鉛筆」のことを思い起こした。

 

2011年8月 8日 (月)

大漁唄がない沖縄の不思議、その4

 琉球王府の時代、糸満以外には漁業はなかったというけれど、日本の漁業の歩みどうだったのか、どんな大漁唄のあるのだろうか。大和ではいくつかの種類の大漁唄や漁業にまつわる歌がたくさんあった。。
 これに比べ琉球では、漁業は抑え「勧農政策」をとったので、年貢の基本は米、粟、上布などだった。といっても、役所と役人が必要とする魚など海産物を租税として納入させていた。八重山の新城島では、ジュゴンが人頭税として王府に納められたという。

 さて糸満ではなぜ漁業は発展したのだろうか。琉球は中国に朝貢し、中国貿易を認められ、交易で栄えていたが、その重要な輸出品に海産物がある。糸満はその産地だった。糸満で漁業が盛んだったのは、王府の中国貿易とのかかわりがあるのではないだろうか。

 漁業の盛んな糸満には大漁唄があるのか、どんな歌があるのだろうかを見る。
最後の第4回はそんな内容である。

           写真は、2010年の糸満ハーレー038 「tairyou04.doc」をダウンロード

2011年8月 7日 (日)

大漁唄がない沖縄の不思議、その3

 琉球王府は漁業を抑え、農業重視の政策を徹底した。それはなぜなのか。その背景に、琉球は薩摩藩に支配され、搾取されたことがあるのではないか。王府は、税収をあげ、薩摩への貢納を果たすため、百姓への過酷な徴税を強いた。八重山、宮古島では人頭税が課せられた。

202   写真は、平安座島(ヘンザジマ)のサングヮチャー。魚の神輿を担ぎナンザ島に大漁祈願に向かう

 琉球では、漁業専業の村は糸満以外はなかったという。とはいっても、県内各地には海神祭(ウンジャミ)などの祭りがあり、豊漁祈願をする。古い伝統のある海神祭は、必ずしも海民の祭りというのではない。では、何を祈願したのだろうか。第3回は、そんな内容である。

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2011年8月 6日 (土)

ノロノロ台風で45時間も暴風域とは

台風9号がやっと抜けていった。なんと、台風の暴風域内に入ったのは、4日の午後3時頃。それから2昼夜も沖縄本島の近くに滞留した。抜けたのは6日の昼過ぎ。45時間ぐらい暴風域にいたことになる。

 こんなに長く暴風域から抜けられなかったのは、台風の異常なノロさにある。なにしろ時速10キロ前後でしか進まない。時には時速6キロくらい。これでは自転車やジョギングより遅いどころか、人の歩く速さに近い。普通に歩けば時速4キロくらいでは歩く。しかも本島に近づくと、徐々に本島の周りを回るように進路を北西に変えたので、暴風域の域内に入ったままだった。しかも、中心が通り過ぎたあとの方が強い暴風だった。停電にならないか、ヒヤヒヤした。わが家は幸い停電せず助かった。ホテルでも停電したところがある。

 過去には2001年9月に、台風16号が53時間、暴風域にいたことがあり、それに次ぐ長さだ。本州付近に台風が接近する頃には、スピードが速くなり、暴風域に入っても数時間で通過するのが通常だ。でも沖縄付近では、だいたいまだスピードは上がらず遅い。だから、台風にさらされる時間が長くなりがちだ。それにしても今回は、異常だった。本州から九州にかけて広がる高気圧が台風の北上を阻んだためだという。

007             写真は、亀甲墓(小禄)

 沖縄はこの土日は祭り、イベントが目白押しだった。軒並み変更を余儀なくされた。大迷惑である。それに6日は、旧暦7月7日で沖縄は七夕さまだ。沖縄の七夕は、大和の天の川伝説とはまるで違う。旧盆を目前にして、お墓掃除をして、お盆に先祖の霊を迎える大事な行事である。でもこの台風では、お墓掃除も無理で、家からお墓に向かって、お盆にはお家においで下さいとウートートー(先祖を拝む)した人も多いようだ。

 それにしても今年は予想通りと言うか、台風の当たり年である。沖縄に近づく台風は、みんな本島を直撃するコースばかりだ。今回は本部町では700ミリという記録的な雨量になっている。さまざまな被害が出ている。今年はもう台風はイラナーイ! ノロノロ台風反対! 台風はさっさと通過せよ! と叫びたい気持である。

 

大漁唄がない沖縄の不思議、その2

 大漁唄がないといってもゼロではない。でも少ない。私が通う民謡三線サークルで練習する曲が100曲ほどあるが、魚を歌ったのは「谷茶前」(タンチャメー)くらい。琉球の古謡を集めた「南島歌謡大成ー沖縄編」でみると、合計936収録されている歌謡の中で、大漁の祈願らしき歌謡は2曲しかない。最新島唄まで集めた「歌詞集 沖縄のうた」でみても、収録した379曲のうち大漁唄は1曲だけである。137

         写真は糸満市の旧正月の漁港の風景 

その背景にはどんな事情があるのだろうか。南島に生きる人たちが魚介類を常に獲って食べてきたことは間違いないが、漁猟を生業としてきたのは、糸満市糸満など一部の地域に限られていた。なぜなのか。そこには琉球王国の年貢の基本は米や粟、上布などであり、王府が農業を重視して奨励し、百姓が漁業に精を出すことを抑えるという政策をとってきたことがある。 第2回はそんな内容である。

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2011年8月 5日 (金)

大漁唄がない沖縄の不思議、その1

 前に沖縄には大漁唄がないのが不思議だと、ブログで書いた。短い文章だったので、もう少し調べてまとめてみたいと思っていた。
 沖縄の漁業の実態と歴史など少しずつ学んでみた。そして「大漁唄がない沖縄の不思議」をまとめたので、4回に分けてアップする。

 沖縄といえば、海に囲まれて漁業が盛んだ。漁港もたくさんある。豊漁と航海安全を願う爬龍船の競漕・ハーリー、ハーレーも盛大に行われる。

          写真は、南城市奥武島のハーリー。勝つと船を担ぎ気勢を上げる068  しかし、沖縄民謡には、豊年満作、五穀豊穣を願う唄はやたら多いのに、大漁唄ほとんど聞いたことがない。あるにはあるが、とても少ない。そこには、歴史に由来する原因があるはずだ。それを探ってみたい。

第1回は、そんな問題意識の導入部であ

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