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2011年8月20日 (土)

神や仏は頼れるか?

 沖縄民謡には、神様や仏様はよく登場する。たいていは、豊作の祝いや祈願であり、豊年で幸せな世である「世果報(ユガフウ)」「ミルク(弥勒)世」の願いである。
 たとえば、民謡界の大御所、登川誠仁作詞、作曲の「豊節」では、次のように歌う。
「♪作る毛作(ムヂュク)いん 満作ゆ賜(タボ)ち 弥勒世(ミルクユ)ぬ印し 神ぬ恵み」
(作る作物は 豊作をもたらしてくれる 豊作で平和の世の印 神様の恵みである)

 023         豊作と平和な世をもたらしてくれると信じられている「ミルク様」(那覇市字小禄)

 神の恵みで農作物は豊作で幸せな世の中の表れに感謝する。こんな歌詞はとても多い。
神と仏は、恋歌にもよく出てくる。男女がかけあいで軽快に歌う「川平節」は、士族の男が恋する遊女を誘うがなかなか応じてくれず、「いっそ死んでも」という思いに彼女も答えてくれる。そこで男女は次のように歌う。
「♪天ぬ御助けか 神ぬ引き合わしか 無蔵(ンゾ)連れて宿に戻る嬉さ」
(天のお助けか、神様の引き合せか 彼女といっしょに宿に戻るなんと嬉しいことか)
 命までかけるほどの恋情が、ついに実を結ぶ嬉しさに、天と神に感謝したいのだろう。

 古謝美佐子さんが、孫が生まれる時に作った「童神(ワラビガミ)」も、冒頭からこう歌う。
「♪天(ティン)からの恵み 受きてぃこ此(ク)ぬ世界(シケ)に 生まりたる産小(ナシグヮ) 我身ぬむい育(スダ)てぃ」
(天からの恵みを受けて、この世に生れてきた愛しい子どもよ 我が思いをうけて育ってほしい)
 こんな生まれる子どもへの深い愛情と期待が込められている。

 ところが、こういう神様や仏様に感謝する曲ばかりではない。
 沖縄は、海の彼方の神様がすむというニライカナイの信仰がある。全島のいたるところに神が降りてくる御嶽(ウタキ)や八重山にはオン(御嶽)がある。祖先神への思いも強い。火ヌ神(ヒヌカン)はじめ様々な神への信仰も深い。

 026            浦添市仲間の御嶽
 でも、恋愛でも自分の思い通りにならなければ、神や仏の助けはないのかと歌うことになる。例えば「いちゅび小節」(イチュビグヮーブシ)という民謡がある。エイサーにもよく使われるテンポの良い曲だ。「いちゅび」とは野イチゴのこと。でもここでは、「いちゅび小に惚りてぃ」と歌うので、思いを寄せる女性のことを指している。
 歌は、思いを寄せる彼女がいるところにせっせと通う男の心を表し、次のように歌う。
「♪通るがな通てぃ 自由ならんありば 神仏ていしん 当やならん」 
(彼女を思って懸命に通っても 思い通りにならないのならば 神や仏といっても当てにはならない)

 こんなに一生懸命通っているのに、思いが遂げられない。ああ、神や仏といっても、頼りにならないものだ、とサラリと歌う。信仰心はとても強いのに、こういう場合はあっけらかんと「神や仏も当てにならない」と歌う。意外なほどである。

 012          金網に囲まれた普天間基地。この中にお墓もある。

 恋歌ではなく、悲惨な犠牲をもたらした沖縄戦をテーマにした曲でも、たびたび神や仏が登場する。上原直彦作詞の「命口説(ヌチクドゥチ)」は次のように歌う。
「♪海山川ぬ形までぃ 変わい果てぃたる我が沖縄(ウチナー)如何(イチャ)し呉(クイ)みせが神仏」
(海や山、川の姿まで変わり果てたわが郷土の沖縄 いったいどうしてくれたのだろうか神や仏様は」
 戦場と化した郷土の余りの惨状に、悲しみと嘆きの思いがこういう表現になったのだろう。

 この前、紹介した反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰えーぬくさー」(比嘉恒敏作詞作曲)でも、同じく次のように歌う。
「♪神ん仏んたゆららん 畑(ハル)や金網 銭(ジン)ならん」
(神や仏もたよりにならない 畑は米軍基地にとられ金網で囲われ 銭にならない)

015          写真は、「艦砲ぬ喰えーぬくさー」を歌うデイゴ娘(NHKテレビから)      

 艦砲射撃で殺されなくて生き残ったも、戦禍に荒れ果てた郷土では、神や仏に頼っても助けてはくれない、生きてはいけない、土地は米軍基地に取られてしまい。自由に農作物を作ることもできないという思いである。曲はこの後、「戦果かたみてぃすびかって」と続く。米軍物品をかっぱらうことまでやらざるをえなかったということを歌っている。必死に働いて自分の力で生きるしかなかった。県民のだれもが同じ思いを抱いてきたのだろう。

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コメント

「神も仏もないのか」と歌うのは、それだけ神様や仏様を信仰し、頼っていることの裏返しでしょうね。沖縄は旧暦の神事がものすごく多く、家庭や地域、生活に根付いていますよね。だから神様、仏様は日常生活のなかにいるんですよ。だからつい、愚痴りたくなるんじゃないですかね~。

 いくぼーさんのおっしゃる通りでしょう。もともと神や仏にたいする心がなければ、頼りにならない、とかいうことも出てこないから。だから、メダルの裏表の関係にあるでしょう。
 また神や仏が頼りにならなかったからといって、見放すのではない。頼れないときは自分の力でやるしかいということになるでしょう。

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