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2011年9月

2011年9月30日 (金)

「長者の大主」がのべる祝言

 沖縄本島の各地に、旧暦8月15夜の豊年祭、村遊びなどに欠かせない演目に「長者の大主」(チョウジャノウフシュ)がある。祝賀の芸能である。前から聞いてはいたが、先だって八重瀬町の志多伯(シタハク)の豊年祭の際に、初めて観ることができた。

023_2  この演目は、120歳といわれる白髪の長者の大主が、右手に扇子、左手に杖を持ち、子や孫たちを引き連れて、御嶽(ウタキ)や殿(トン)の前で、祝言をのべ、五穀豊穣や村の繁栄を祈願する。そして、子や孫たちの芸能を披露して、神をもてなすというのが通例である。

034  志多伯の祭りでは、村の守護神である獅子加那志(シシガナシ)が登場し、獅子舞を披露した。このあと、子や孫たちによる二才(ニセター)踊り、若衆踊り、空手など次々に演舞が披露された。豊年祭は合計60演目もある総合芸能祭だが、この長者の大主だけでも、いくつもの演舞から成り立っている。

 ただ、祭りの際に長者の大主の祝言が何をのべているかがよく分からなかったので、知りたいと思っていた。『沖縄県史6 文化2』の項に、長者の大主の祝言の内容が掲載されていた。この祝言は、今帰仁村勢理客(ナキジンソンセリキャク)のものだというが、祝言の大筋は他の地区でも、だいたい似ているのではないだろうか。勝手な推測をして、この祝言を紹介しておきたい。

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 訳文で紹介する。
 「アア尊と 吾ぞこの村の 120歳になる 長者の大主 御慈悲ある御代の 徴(シルシ)現われて 十日毎の夜雨 五日の真南風 柔々とくださって 作る作物も 満作に下さって 今日の佳き日 今日の勝る日 年々の豊年の願いを 賑やかにしょうと思って 踊りと狂言を 仕組んでありますので 遊ばしてお目にかけましょう 踊らしてお目にかけましょう お守り下さい アア尊と さあさあ孫達よ 踊ってお目にかけよ」

 この祝言を読めば、この長者の大主という演目が何を願い、何を意味するのかすべてが盛り込まれている。つまり、雨露の恵みを受けて、農作物が豊作となり、村が豊かに繁栄することをお願いします、子や孫たちの芸能を披露するのでお守りください、ということである。

 ここで「狂言」というのは、方言では「チョウーギン」と呼ばれている。もともとは大和の狂言から来ているようだ。でも、いまはもっと広く、演劇的なものを意味し、それももっぱら喜劇を指すそうだ。志多伯の祭りでも、長者の大主の次には狂言「大按司願い」が演じられたが、短い喜劇だった。

045     豊年で平和な世を願う「弥勒様」のからくり人形がのった志多伯の旗頭

 沖縄の各地で旧暦8月15夜には、豊年祭、村遊び、村踊りなど盛んに演じられた。この時期は、稲の収穫が終わり、神への感謝と来る年の五穀豊穣、村の繁栄を願う祭りとして、いまでも盛んである。なかでも、この長者の大主は、祭りの意味を凝縮して表現していることが、この祝言を読むとよくわかった。

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追記
 いくぼーさんから、コメントがあったように、志多伯の「長者の大主」では、村の守り神である獅子加那志にたいして芸能を披露して見せているようだ。舞台で、長者の大主が子や孫を引き連れて登場すると、獅子加那志が出てくる。守り神として獅子舞を演じその存在をアピールすると、そのあと大主は、墓参りの際に、酒や米など入れて持って行く「ビンシー」を持ち出して、守り神である獅子加那志に、お酒を注いで飲ましていた(上の写真)。

2011年9月27日 (火)

激戦の地、沢岻に建つ慰霊碑

浦添市沢岻(タクシ)を巡っていると、沢岻拝所のそばに慰霊之碑が建っていた。この碑は、心こもった碑文の内容に注目した。

029  「ここはふるさと沢岻の丘 静かに安らかに眠ってください 私たちは二度と あの残酷な戦争を 起こさないように 子や孫たちに 平和の尊さを 語り伝えます 平和を守ることを 誓います それが何よりの 供養になることを信じ 345柱の御芳名を刻銘し ご冥福を祈ります」

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 碑の中央に戦没者名が刻銘され、右側に碑文、左側には「鎮魂の詩」が刻まれている。
「永久(トワ)に平和を求めて 沢岻の人(シマンチュ)は 安らかに眠れとぞ祈る 故郷(サト)の高嶺に」。「仁儀」とあるのは作詩者なのだろうか。

031  沖縄戦では、1945年4月1日に読谷から北谷にかけての海岸に上陸した米軍が、司令部のあった首里に向けて南進してきた。日本軍は、宜野湾市から浦添市、那覇市にかけて高地に陣地を築いていた。嘉数高地、前田高地などで激しい戦闘が続き、日本軍は甚大な犠牲者を出し敗退していった。
 5月12日には沢岻が激戦の地となる。『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』では次のような記述がある。

 「沢岻方面においては12日早朝から澤岻高地台上の争奪の激戦が繰り返され、遂に夕刻には台上の大部は占領され⋯⋯同夜台上奪回の逆襲を行ったが成功しなかった」
 「澤岻高地地区では13日引き続き激戦が展開され、第64旅団の中堅として勇戦敢闘して名指揮官とうたわれた独立歩兵第23大隊長山本重一少佐以下多数の戦死者を生じ、澤岻高地は完全に占領された」

034  「慰霊之碑」の向かい側に、軍人の慰霊之碑があった。「嘉数、安波茶の戦闘を経て山本部隊長以下この沢岻の台地に於いて玉砕す」と記されている。1945年5月13日である。

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 激戦のため、沢岻の地域では、145棟の民家は1棟を残して戦火につつまれたという。
いま、眺めの良い沢岻高地の平和はたたずまいを見ると、悲惨な戦争は絶対に繰り返してはならない、という思いがこみ上げてくる。

 沢岻の自治会では、ここの慰霊碑の前で慰霊祭を開催している。
子ども会では「沢岻戦跡めぐり」を行い、野戦病院跡や弾薬庫、防空壕など戦跡を回る取り組みもしてきたという。
 沢岻自治会館は、とても立派な会館だった。
なお、このブログに「沖縄戦・激戦の地を歩く」(2010年7月)をアップしてあるので、関心のある方はそちらも読んでいただきたい。

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2011年9月26日 (月)

浦添市沢岻の拝所を巡る、その2

 沢岻の拝所は多い。まだ続く。沢岻樋川(タクシヒージャー)がある。でも紹介された資料で探すけれどなかなか見つからない。近所にいたお年寄りに聞いたが「さあ、わからんねー」「水が出る樋川というから、高いところじゃないね」。沢岻でも近所の人にいくつか尋ねたがわからない。地域の人でも、案外しらないことが多い。 一番高い場所にマンションがある。昭和薬科大学付属中学校、高校の玄関前である。とても見晴らしの良い場所だ。浦添市街地と青い海が一望にできる。

044  思わず見とれて写真を撮っていた。振り返ると、なんか史跡らしいものがあるではないか。それが沢岻樋川だった。

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 樋川は、水槽がいくつにも区切られている。飲料用や野菜や食器など洗うところ、衣類を洗濯するところなど用途によって分けられているのだろう。高い場所なのに、水は多く、いまでもとても透明度が高い。

048  のぞいてみると、小さな魚が何匹も泳いでいるではないか。053  カー、ヒージャーは、湧水なので、あ046 まり魚は見ない。でもここはなぜか棲んでいる。

 この樋川はとても由緒あるものである。由来と琉歌が書かれた立派な碑がある。

「沢岻樋川やかりーな泉 首里御城に若水ゆうさぎてぃ 千年万代栄えうにげ」
 「かりー」はめでたい、縁起が良いという意味である。説明文には要旨次のように記されている。

 沢岻樋川は1000年余りの歴史がある。琉球王朝の頃、風水の方位がよく、水質も良い泉であり、正月には国王の長寿・繁栄を願い、若水を献上したという。

 琉歌はそのことを詠んでいる。1999年修復とあるから、昔からこういう碑があったのだろう。

 沢岻は、由緒ある史跡や拝所があるのに、案内板がないので見つけにくい。同じ浦添市でも、仲間の集落は、案内の標識や説明板が整備されていたので、とても助かった。

054  樋川は、マンションの駐車場に降りる道のそばにあるから、056 表通りを歩いていても分からないはずである。

 ここから少し下がった場所に「めじろ公園」がある。名前から見ると新しい感じの公園だが、ここに見どころがある。

 琉球の古謡である「おもろ」の碑が建っている。

「おもろ」の碑は面白い姿をしている。というのは、碑は大きな岩に取り付けられ、その上に樹木が茂っている。

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 「おもろ」は達筆過ぎて、浅学非才の身では読み切れない。説明板があった。

 058_2  これも読みにくいが、なんとか分かった。つまり、これは、尚清王の名付け親といわれる沢岻親方(ウェーカタ)盛里(1526年没)を讃えた内容だという。

064 公園には、「中の殿」という拝所がある。これがまた不思議なところだ。

062  「中の殿の御嶽」とある。普通は、御嶽があって殿(トン)がある。ここはなぜか「中の殿の御嶽」となっている。
 それに、その下に刻まれた名前が初めて見るものだ。つまり「邪馬台国根火の神」とある。なぜ、邪馬台国の名があるのだろうか? また左端には「天照神鏡みるく神」とある。なぜ「天照」(アマテラス)なのだろう。いずれも、琉球らしくない。大和めいた名前である。063 「天続々女神国じく」というのも何のことなのか、よくわからない。こちらは、何の説明もないから、とにかく分からないことばかりの「中の殿」である。

2011年9月25日 (日)

浦添市沢岻の拝所を巡る、その1

 浦添市といえば、琉球の中山王の発祥の地である。沢岻(タクシ)にも由緒ある拝所や史跡があるので、巡ってみた。
 沢岻は、国道330号線の東側の高台にある。

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 史跡浦添御殿(ウドゥン)の墓は、ちょうど復元整備工事の最中で、立ち入れなかった。

 18世紀の国王、尚穆(ショウボク)王の次男・朝英、三男、朝喜が葬られているとか。
 復元工事のためか、石段にも一つ一つ番号が振られている。

 すぐ隣に、沢岻按司墓があった。按司(アジ)とは豪族のような地域支配者だった。沢岻には、沢岻世の主と呼ばれる按司がいて、沢岻の村建てをしたと伝えられるそうだ。「世の主」とは、いくつかの按司を統率する有力な按司を指す。012 按司墓は、相当古い。石積みが墓だろうか。そのわきにはガマがあり、やはり石がたくさん入れられている。古い時代の墓なのだろう。017  按司墓の上に、拝所のようなところがあった。そこになにやらいわれが刻まれているが、よく読めない。

016 沢岻初代の王が努めた⋯⋯ 今帰仁より島作⋯⋯ 沢岻世の主の火の神あり
 こんなように読めるが、意味がよくつかめない。今帰仁とかかわりがありそうだ。
 東樋川(アガリヒージャーと読むだろうか)の碑がある。最も高い地点にあるので、こんなところで水が出ていたとは信じられない。でも樋川の名があれば、その昔はここでも水がわき、樋から水が流れ出ていたのだろう。

015  少し歩くと、沢岻拝所があった。鳥居が建っていて、拝所は階段の上にある。

023_3  聞くところによると、かつてあった拝所が宅地造成で立ち退きになり、合祀されてこの沢岻拝所ができたとか。
024 上がっていくと、合祀された祠があった。右端には「根所」とある。左側6つは、御嶽(ウタキ)らしい。「東之お嶽」「金満お嶽」「中之お嶽」「西之お嶽」「火水の守」というのもある。御嶽とは、神が降りてくる神聖なところである。
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裏に回ると、別の香炉など並んでいた。こちらは、ヒージャーやカー(湧水)が4つ。トン(殿)が4つと合計8つの香炉が集められている。027 湧水のあるヒージャー、カーは住民にとって命037_2 の源である。だから、水の湧くところは祈願の対象であった。「トン、殿」は、御嶽の神を祀る拝殿のような所である。これらを集め合祀しているようだ。
 
 さらに西に少し行くと、カニマン御嶽があった。そこに上がる階段は、なんと狭いことか。

まるで水路かなにかのようだ。とにかく、沢岻は、高台にあるのに、その高地でも一段と高い場所に拝所がある。だからみんな階段で登らなければいけない。

 沖縄の集落はどこも、南向き斜面の一番高い場所に御嶽があり、その前面に集落が広がっている。沢岻も同じだった。

 ここにもいくつもの碑がある。南山拝所、金満按司添、金満御嶽。どれもよくわからないものばかりだ。ただし、金満(カニマン)と名のつく御嶽などは、那覇市の小禄を始め、各地にある。 038 調べてみると、カニマンとは鍛冶屋に関係があるらしい。いや、鍛冶そのものを意味するとも聞く。鍛冶職人を祀ったところもあるらしい。

なぜ鍛冶が崇められるのだろうか。沖縄は、鉄を産出しないので、鉄が沖縄にはいってきたのは、大和より相当遅れた。鉄でつくった農具は、農業の生産力を飛躍的にアップさせた。だから、鉄製農具は、とても貴重であり、重要だった。040 上の写真は、金満御嶽の碑である。
 沢岻世の主と呼ばれた按司の息子の金満按司は、農民に農具を配ったという伝承があるとか。ここの金満御嶽と金満按司添の碑がそういう伝承のものなのだろう。この伝承は、ネットで書かれていることの受け売りだが、現在のところこれ以上は、知る資料がない。

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2011年9月24日 (土)

台風は沖縄と大和では違う

 台風15号が、東京では通勤で大混乱が起きたと話題になっている。この台風は、沖縄では、暴風域もないまま大東島の周辺で停滞し一回転して、本島には結局来なくて被害なし。週末で祭り、イベントが中止になるなど迷惑だけかけていった。でも大和では、名古屋周辺で100万人が避難する大騒動になり、被災地の東北でも被害をもたらした。同じ台風なのに、なんかまるっきち影響が違う。
 というか、沖縄に住んでみると、沖縄と大和では台風の動向や影響が相当に違うことが、よく分かった。その違うをいくつか例にあげる。

①台風の勢力が違う。
 沖縄近海では、まだ発達途上のなので、勢力とスピードが違う。15号なんか時速9キロの自転車並みのノロさ。それが日本列島を縦断するときは時速50キロの猛スピードだ。今年はとくに、本島近くでノロノロする台風が多い。行き先もなかなか定まらない台風が多い。大和に接近する時は、もうだいたい進路は決まっている。
 台風は、フィリピンの東側あたりでよく発生するので、接近するまであまり日時がない。だから、発生するとすぐに接近となることがよくある。勢力が最初から強い台風だと、すぐに直撃して被害をもたらすので危ない。大和まで接近するには相当時間がかかる。

②台風一過は沖縄にない。
 このスピードの違うが関係するのか、沖縄は台風が通り過ぎても、なかなか影響から抜けない。通過後晴れ上がることはまずない。大和では、通過後すぐに晴れ上がったので大違いだ。

③台風の被害が違う
 大和では豪雨による河川の氾濫、土砂崩れが多い。今回のように大都市では交通混乱で大きな被害、影響が出る。
 沖縄で一番困るのは、強風で電線が切れるなど停電が多いこと。停電すると復旧も遅い。沖縄には大きな川はないので河川氾濫は少ない。大きな山は山原(ヤンバル)だけなので、大きな土砂崩れも少ない。建物がコンクリート建てなど台風仕様になっている。もともと赤瓦の家とフクギの並木で家を囲うのは台風からの防護に最適だし、家屋被害は少ない。サトウキビなど農作物の被害が大きい。通勤は、暴風域が接近するとすぐバスが止まる。学校なども休校になる。
 店の看板がない、というか看板に代わってコンクリートの壁に直接、店の名前など書き、風で看板が飛ばされないようになっているのが多い。このあたりも、台風仕様だ。

④台風の食べ物がある。
 離島では、今回のように台風が近海で停滞すると海が荒れ、食糧を積んだ船も止まる。だから大東島では、商店の棚が空っぽになり、食料品がなくなりかけていた。だから、日頃から、台風が接近すると非常時にそなえた食糧の備蓄が欠かせない。それに、停電で冷蔵庫が使えなくなっても困らない対策が必要だ。
 台風時に食べる定番料理がある。「ひらやーちー」である。小麦粉を練り、ニラなど入れたりしてフライパンで焼いたものだ。なるほど、よく考えた台風料理だ。大和では、台風定番料理は聞いたことがなかった。料理も台風仕様である。

⑤台風が恵みをもたらすこともある。
 大和ではあまり台風を喜ぶ人はいない。沖縄では、時と場合によっては、台風を歓迎することがある。なんといっても水不足の時だ。離島では雨が少ないと水不足になる。今年は石垣市など八重山では水不足だ。だから、雨だけもたらしてくれる台風に来てほしいという声もある。ただ今年は、先島に台風があまり行かない。いっても通り過ぎるだけで雨をたいして降らさない。夜間は断水にもなっている。
 台風が来ないと海水の温度が高くなり、サンゴの白化現象が起きることがある。適度に台風が接近して海水をかき回して、水温を下げることもサンゴを守る上では大切らしい。 

2011年9月19日 (月)

志多伯の伝統芸能はすごい!

 この時期、沖縄の各地で豊年祭が盛んだ。豊年祭といえば、村の芸能祭のような趣がある。なかでも、旧暦8月15日の満月に行われる、八重瀬町の志多伯(シタハク)の豊年祭は、名高い。2日間にわたり、伝統芸能を合計60演目も披露する。しかも、土曜、日曜に合わせて祭りをするところが多くなっているけれど、志多伯はあくまで旧暦にこだわり、月、火曜日に昼間から、パレードのような道ジュネーからはじまり、夕方から夜中の午前零時まで演じる。

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 志多伯の守り神である獅子加那志(シシガナシ)は、「年忌祭」(ニンチサイ)だけ登場する。沖縄戦で住民約700人のうち半数近くが犠牲になったとのこと。生き残った人々は、終戦1年後を1年忌とし、年忌豊年祭を開いてきたという。今年は戦後ニ巡目の33年忌にあたる。豊年祭もこんな戦争の犠牲の供養を重ねているところに、住民の気持ちが込められている。

 道ジュネーには、獅子加那志も登場し、地域の拝所を巡ったという。夜6時半からは、志多伯馬場で棒術や獅子舞、舞踊、狂言、空手、歌劇、さらには総合芸能の組踊と次々に演じられた。
 舞踊や空手、獅子舞はどこの祭りでも登場する。でも、狂言、歌劇、組踊となると、半端な芸じゃない。志多伯の伝統の狂言があるという。それが「大按司願い」(ウフアジニゲー)だ。作者は不詳。明治時代から演じられているそうだ。

 058 按司とは、地域を支配した豪族のような存在だ。舞台で大按司の役を申し出た太郎は、妻に今回の大按司は自分だと自慢する。夫の晴れの舞台を期待する妻だが、15夜の当日、本物の大按司が登場して大慌ての太郎。そんなストーリーで笑わせる。

    061 狂言は、大和でも昔はあった村芝居を見ているようで楽しい。みんな素人とは思えない熱演である。

 第1日目の芸能は、30演目あるが、その13番目に喜劇「やまーよ」があった。これは、真面目に働かず酒ばかり飲む「やまー」は、大和女性の妻に愛想をつかされて、妻は家を出て行く。

007  そんな「やまー」の家に、ドロボーが入ってくるが、そのドロボーの名前がなんと、同じ名の「やまー」だ。主のやまーは隠れている。そこへ、借金取りの八百屋、電気屋、家主が押し掛けてくる。ドロボーが同じ名前だったので、つい借金取りの応対をする。お人よしにも、ドロボーは、自分がドロボーと見破られないため、「やまー」の代わりに借金を払う羽目になる。そんな喜劇である。

 005  これが実に面白い喜劇で、終始、聴衆は大笑い。一流の喜劇役者のような演技だ。セリフもよく聞こえる。動きも達者である。どれくらいの練習をしたのだろうか。ほとほと感心した。
 この写真2枚は、デジカメではなく、ビデオの動画の画面をカメラで撮ったものなので、画像が悪い。

 実は、演劇はこれでまだ半分である。この夜、歌劇「桃売りアン小」(モモウイアングヮー)、そして組踊「忠臣身替りの巻」が最後に控えている。でも、あまりに夜遅くなるので、残念ながら見れなかった。組踊は、第2日目には「手水の宴」(ティミジヌイン)がある。志多伯で「手水の縁」を上演するのは、なんと59年ぶりとか。よく長いブランクがあっても継承できるものだ。さすがである。

 これだけの、伝統芸能を見事な演舞で披露するには、芸能を受け継ぐ若者、子どもたちがいないとできない。なにより、伝統芸能の保存と継承に熱意を持ち、みんなに指導できる人材がいること。地域で豊年祭と伝統芸能を継承することに誇りをもち、日頃から努力し、練習を積み重ねる住民の芸能力がないととてもできないだろう。

 049          志多伯で演じられた「長者の大主」

 沖縄で村の芸能祭として有名なのは、多良間島の「八月踊り」である。国指定重要無形民俗文化財にも指定されている。ことしも、旧暦8月8日にあたる9月5日から7日まで、3日間にわたり行われた。5日は同村上原、6日は同村塩川、7日は両字で組踊、狂言、舞踊その他の芸能が奉納された。「八月踊り」は、人頭税を無事に完納できたことを喜びと、五穀豊穣への願いが込められている。島を挙げての一大伝統芸能の祭典である。

 本島でも、西原町小波津(コハツ)では、6年に1度の卯年と酉年に開かれる「小波津七年まーる村遊び」が9月11日開催された。集落を挙げての芸能祭は「村遊び」(ムラアシビ)という。はやり、五穀豊穣と集落の発展を願って、明治末期から開かれていた。でも、日本復帰後の1975年から途絶え、30年ぶりに2005年に復活。それ以来、2度目の開催だという。
 琉舞、棒術、獅子舞、歌劇、組踊など演目がたくさん上演されたという。これも西原全体ではない。小波津の一集落である。多良間も西原も見ていないので、新聞報道で知った。

 072              琉球古典舞踊の「かせかけ」 (志多伯) 

 「芸能の島」といわれるだけあって、小さな島や集落、字の単位でこれだけの芸能を演じる豊年祭、村遊びを続けているのは、すごいことだ。その一方で、後継者難などの事情があり、途絶えたところもある。そんななかで、2日間にわたる住民総出の芸能祭を続ける志多伯恐るべし!

083        豊年祭の芸能は、満月の下で楽しむのが一番だ(志多伯)

2011年9月17日 (土)

おかしな文科省の介入

 八重山地区の教科書採択をめぐり、石垣市、竹富町、与那国町の三市町の全教育委員が9月8日に協議して公民教科書は東京書籍を採択することを決めたのに、文科省が県教育庁におかしな通知を送付してきた。
 この通知は、「八重山採択地区協議会の規約に従ってまとめられた結果に基づいて、採択地区内で同一の教科書を関係市町教育委員会が採択を行うよう指導を行う」ことを求めている。これは、中山文科相が8日の協議と採択結果について「協議がととのっていない」と決めつけていたことを見れば、8月23日、八重山採択地区協議会が育鵬社の教科書を選定した答申に三市町、つまり反対した竹富町も従うように求めていることになる。

 とすればとんでもない文科省の介入である。この23日の協議会は、玉津会長(石垣市教育長)が、これまでの採択ルールを変え、現場教員による教科書の順位付け廃止、調査員の独断的な選定、協議の非公開と無記名投票制の導入などを強引に行った。それは、「つくる会」系の教科書採択を企図したものであったことは、その後の経過から明らかである。
 そのうえ、協議会では、調査員が推薦もしていない育鵬社版をまともな議論もなく多数決で押し切ってものだ。「協議がととのっていない」というなら、この23日の協議会である。

 それに、もともと協議会は答申をしても、採択の権限は市町の教育委員会にある。三市町で採択した公民教科書が異なるなかで、もっとも合理的な一本化のための協議の場として開かれたのが、13人の全教育委員による合議である。制度の不備があるもとで、これ以上の有効な協議の場は考えられないだろう。それは、三市町の教育委員長が連名で、8日の協議の正当性を訴える文書を国、県に送っていることからも明確である。
 その結論を「ととのっていない」と言う方が、どうかしている。中山文科相は、育鵬社版に肩入れをするつもりなのか。そんなことは許されるはずがない。
 自民党が盛んに八重山の「つくる会」系教科書採択を狙って不当な政治介入をしていることが明らかになっている。そんな圧力に文科省が同調するのか。政治介入は断じて許してはならない。
 また、あくまで教科書を採択するのは八重山の市町教育委員会である。文科省が介入することはもってのほかである。「琉球新報」17日付け社説が文科省通知は「越権行為も甚だしい」と主張しているが、正論である。

 沖縄県民は、戦前の軍国主義と皇民化教育によって、沖縄戦でも痛ましい犠牲を強いられた歴史をもつ。侵略の戦争を正当化したり、平和の憲法の改悪をあおるような「つくる会」系の教科書は、沖縄には絶対に持ち込んではならない。それに、育鵬社の公民教科書の表紙の日本列島の図からは、沖縄が削られている。沖縄は米軍占領下にあると見ているのだろうか。言語道断である。この事実一つとっても、こんな教科書を沖縄の子どもに渡すわけにはいかない。県民世論も反対が多数である。文科省は、県民の声をしっかりと受け止めるべきである。

2011年9月15日 (木)

「おもろ」にみる漁の歌

 琉球の古い歌謡を収集した『おもろそうし』を読んでいたら、漁の歌がいくつかあった。といっても、全22巻、歌数1554首もあり全部をみてはいない。ちょうど、『仲原善忠全集』の中の「おもろの研究」を読み、そこから拾っただけである。

 「おもろ」とは「思うこと」の意であるいわれる。琉球で16世紀までの数百年の間につくられ謡われた歌謡のことで、これを1623年まで数回にわたり書き取り冊子にまとめたのが『おもろそうし』である。だから、主に琉球が薩摩に侵攻される前の、古い時代の琉球の歌謡である。
 漁についての歌謡を紹介する。仲原氏による訳文と大意である。

<春の初漁>
 1、(トカシキの)村君(村の神女) 君どののお舟、 波の花、押しわけ、
   トカシキの真男子(まころこ) 真男子は、船頭して
 又 津口(港)の潮の、息吹き上て来れば
 又 新麦が おろ麦が穂花(咲き出でらば)
 又 一の艫押しが アマ(カ)の村長が
 又 亀捕たか ザン捕たかと言わば
 又 捕らぬとて 知らぬとて、申せ。

 ケラマ(慶良間)群島、トカシキ(渡嘉敷)村のおもろ。春になり、港口の潮が息吹き上り、麦の穂がぽつぽつと出るころになると、村の根神の舟を出し、村のかしらがさしずして、亀やザンの魚(儒艮=ジュゴン)をとりに行った。隣村のアカ(阿嘉だろう)の村がしらの舟も出て来た。亀捕ったか、ザン捕ったかときいたら、捕らない、知らないと申せ。

 これを見ると、慶良間諸島では、古琉球の時代に、ザン(ジュゴン)を獲っていたことがわかる。「肉は頗る美味という」(仲原氏の注)と言われ、古い時代には食用としたのだろうか。でも、村長が聞いてきたら「捕らない、知らないと申せ」と言っているところを見ると、この時代でも、ザンを勝手に獲ることはタブーだったのだろうか。不思議な内容である。

 薩摩侵攻のあと、八重山で人頭税が課せられた時代に、新城島(アラグスクジマ)では、ザンを獲り、人頭税として王府に納めたという。「人頭税哀歌」でも書いてアップしてあるので、興味のある方はそちらも見てほしい。

077           写真は、南城市奥武島の浜辺

<村の海下り>
 1、こまか(地名)の、澪(みお)に、海下り、見物
 又 久高の、澪に
 又 ザン網結び下ろし
 又 亀網結び下ろし
 又 ザン、百、籠めて
 又 亀、百、こめて
 又 ザン、百、捕りやり、
 又 亀、百捕りやり、
 又 沖ナマスせんと、
 又 へたナマスせんと、
 又 楫手、選びのせて
 又 沖走(舟)い立て、競いて、
 又 干瀬走り立て、競いて、

 春の漁獲期(恐らく、或る時期に、亀、ザンを取る祭礼があったと思う)に、村人が老若男女ことごとく、海辺に出て、男達は沖に舟を出し、獲物を追う光景を謡ったのであろう。

 ここで「こまか」「久高」とは、久高島と「こまか」という小島がある。おろらく久高のおもろとみられる。「澪」とは「河海の水の早い所」、「へたナマス」とは「じゅごん、亀をとって、沖膾(なます)をつくり、神祭りにしようとの意味であろう」、「手楫(てかち)」は「漕ぎ手」のことである。
 ここでも、ザンを獲っていたことがうかがわれる。


 <海の貢租>
 1、謝名(地名)の比屋里思(人名、ひやりよもい) あっぱれ 比屋里思
      かなて(租借して) 按司(あじ)に、愛されて
 又 謝名の良かる里 海近く、あるげに、
 又 銛は、魚突く、「いぎよも」は章魚(たこ)突く、
 又 海も(按司も)おん物、「たぎや」も(按司の)おん物、

 浦添村、謝名の比屋里という男が、謝名の海から按司から租借して、按司に愛された云々。漁業権など確立している筈はないが、獲物の一部を「かない」として按司にささげることに依って、按司に愛された、ということであろう。この比屋里という男が、後の謝名思い(ぢやなも)、即ち明との交通の道をひらいた察度(さっと、中山王となる)の前身ではないかと疑われる。

 按司は、豪族のような存在。まだ、琉球が統一される前、各地で按司が地域の支配者としてふるまっていた。海で獲った魚介類を按司にささげて、按司から可愛がられたことがうかがわれる。

 いずれの歌謡を見ても、琉球が薩摩に支配され、「勧農政策」を進めた近世よりも前、古い時代には、各地で魚を獲り、生活を営む人たちが結構いたことがうかがわれる。豊漁を願う祭礼もあっただろう。027

 15世紀に、勝連城主で、首里王府に謀反を起こしたとして滅ぼされた阿麻和利(アマワリ)がまだ按司になる前、加那を名乗っていた時代、勝連に来て漁民が魚を銛で突いているのを見て、投げ網を考案して魚を大漁に獲ることを教えて、住民の信頼を高めたという逸話を聞いたことがある。勝連あたりでも、魚をよく獲っていたことがわかる。

 ちなみに「おもろ」では、王府にとっては逆臣のはずの阿麻和利が、領民の信望の厚く、誇り高い人物として描かれている。「肝高(キムタカ)の阿麻和利」「国治(し)りの、尊い按司」と謡われている。とても面白いことだ。これは本題から外れた余談である。
 

 

2011年9月13日 (火)

首里城で組踊「花売りの縁」を観る

 首里城での「中秋の宴」では、琉球舞踊と人間国宝の歌と踊りに続いて、組踊「花売りの縁」が上演された。高宮城親雲上(たかみやぎぺーちん)の作といわれる。組踊は、敵討ち物が多い中で、唯一の世話物だと聞く。初めて見る組踊だ。

013_3 パンフレットにストーリーが出ている。首里の下級武士である森川の子(しー、士族の位階)は、不幸続きで生計が成り立たず妻と子を残して山原(やんばる)に働きに行く。残った妻の乙樽(うとぅだる)は貴族の家に乳母として召抱えられ、子どもの鶴松を育てる。

 076  

 12年の歳月がたち、主家のおか077 げで暮らしが楽になった乙樽は鶴松を連れて、夫を探しに大宜味(おおぎに)に向かう。

 組踊は、この場面からはじまり、いきさつを乙樽が語る。組踊の台詞は独特の旋律にのせて歌う。すべてウチナーグチ(沖縄語)だが、舞台脇に共通語と英語の訳の字幕が出るのでよく分かる。

 

 訪ねるねる途中で、猿引きに出会い、猿の芸を楽しむ。

 089_2  猿の場面では、ずっと騒いでうるさかった後ろの席のアメリカーの子どもが、「モンキー、モンキー」と大笑い。子どもにとって、この芸能の舞台は退屈で苦痛でしかない。親は「シー、シー」と抑えるが、すぐ騒ぐ。まあ当たり前。アメリカーの子どもが見て、この猿の芸くらいしか面白いところはないからだ。 
 
 次には、薪取りの老人に出会い、夫の消息を尋ねると、田港村にそれらしき人がいると言う。田港では、花売りに出会う。それが夫であった。

094  右の籠に花を入れて売っているのが、夫であり父である。森川の子は、頼まれて踊りを見せる。子ども連れが妻と子と分かったけれど、落ちぶれた姿を恥じて、身を隠そうとする。

104  でもやがてその胸中を打ち明けると、家族の心は解け合う。夫は隠れていた小屋から出る。親子連れだってみんなで首里に戻る。めでたし、めでたしの結末となる。105  当初、あらすじを読んだだけでは、夫婦の愛情がテーマだと思ったが、見ていると子どもの鶴松がとても活躍する。親子の愛情が重なった物語だ。なかなか感動的な組踊だ。
 組踊は、首里王府が中国皇帝の使者、冊封使(さっぽうし)を歓待する芸能なので、忠孝など封建道徳が柱になっているものが多い。

 でも、このような、父が妻子を残して働きに出ると言うのは、沖縄では現代でもあることだ。「季節に出る」といって、大和に派遣、期間工に出る人がいた。 そういう意味では、時代は変わっても、今でも通じる夫婦、親子の愛情のテーマでもある。
 081  先日、ブログに国立劇場おきなわでは、組踊の地謡(じうてー)が幕の奥に隠れて演奏するのは、おかしいと書いた。でもこの「中秋の宴」では、舞台の右端に陣取って立派な歌三線を聴かせた。
 舞台に出ているので、歌声も三線もよく響く。組踊は、立ち方と呼ばれる演技者と地謡が一体のものであることを強く印象付ける。演奏する方も、演技者を見ながらの方が呼吸も合い、気持ちも入るのではないだろうか。
 もちろん、冊封使を歓待したかつての「中秋の宴」は、このように地謡は舞台に出て演奏したのだから、現代の「中秋の宴」でも舞台に出て奏するのが当然と言えるかもしれない。

 073   満月は、正殿の上でこうこうと輝いていた。最後にまた琉球舞踊があったが、組踊で満足して帰路についた。

 111          御庭(うなー)を出て帰る人たち。

2011年9月12日 (月)

首里城「中秋の宴」に酔う

 9月12日は旧暦8月15日で満月。その前に、首里城で「中秋の宴」があった。琉球王朝の時代に中国皇帝の使者である冊封使(さっぽうし)を歓待するため開かれた7つの宴「冊封七宴」の一つが「中秋の宴」。当然、旧暦8月15日の名月の下で行われた。029_2
 012_3 冊封使を数々の芸能でもてなした。そんな歴史をしのび、2日間にわたり、正殿前の御庭(うなー)に特設の舞台をつくって披露する。
 「中秋の宴」は、首里城で伝統ある芸能を観るのは、格別の趣がある。それに、名月を世界遺産の首里城で観るのもまた、感激ものである。数百年前と変わらない観月の風情が味わえるからである。
 
 開演の40分前に着いたが、開場前なのに、もうたくさんの人たちが押し掛けて、3か所で長い列ができている。すぐに並んだが、みるみる後ろにも列が伸びる。 なぜか、米兵と家族なのか、アメリカーが子ども連れで数十人も来ている。

 御庭に入るには、通常は料金が必要だがこの「中秋の宴」は無料で開放される。
 少し着くのが早いかと思ったのに、全然早くない。これ以上遅く来たら、よい席に着けない。長く立ちんぼうしてようやく開場になった。
 イスが800席も用意されている。舞台正面のよい席がとれた。
  

 
1日目の演目は、琉球舞踊(古典)と人間国宝の演奏と舞踊、歌三線と舞踊と台詞の総合芸能である組踊「花売りの縁」、最後にまた琉球舞踊である。

 2日目は、首里城祭で国王・王妃に扮する人を選出するイベントがある。組踊は「二童敵討」(にどうてぃちうち)という敵討ち物である。演目も1日目がよい。

 幕開けは、琉球舞踊(古典)で、まずはめでたい時に座開きとして踊られる祝いの舞い、「かぎやで風(かじゃでぃふう)」。老人・老女踊りである。

 026_3
  続いて「上り口説」(ぬぶいくどぅち)。琉球が薩摩に支配されていた時代、薩摩に旅する様子を歌っている。若者による「二才踊り」(にーせーおどり)である。薩摩が琉球に置いた役所「在番」を接待するため創作された祝儀舞踊だとのこと。

028_2
 これは、私が通う民謡三線サークルでもよく演奏する曲だ。琉歌のような「8886」ではなく、字数が「75調」で旋律も大和風である。テンポが良い。

  8月15夜の満月が正殿の右上に昇ってきた。雲ひとつない。まだ空は青い。038
 033

 次は「天川」。先にこのブログで、天川の歌碑を見たことを書いたばかりだ。
 天川に仲良く遊ぶ鴛鴦(オシドリ)のように、いつまでも添い遂げようと、永遠の愛を誓う歌詞にのせて踊る。

 手には何も持っていない。ところが華麗な衣装の袖から伸びた真っ白な手が、しなやかに表現する。手踊りとよばれる。
 この手の繊細な動きに、おもわず「手がこんなにも美しいものか」と引き込まれた。

 032
 

 このあと、仇討ち物の組踊で歌われる「高平良万歳」(たかでーらまんざい)、舞踊の最後に「醜童」。美女2人と醜女(しこめ)2人が組んで踊る「打組踊り」(うちくみおどり)で、コミカルな踊りだった。下写真は、高平良万歳である。
 040 夜はふけて行き、月は輝きを増すかのようだ。056 舞台では、人間国宝3人による演奏と踊りに移った。
 城間徳太郎さんの歌三線による「赤田風節」、西江喜春さんの歌三線で「二揚仲風節」と続く。城間さんの演奏はテレビでは見たことがある。西江さんは初めて見た(下写真)。
 065  西江さんがひと声発すると、度肝を抜かれた。張りのある高い声を声量豊かに響かせたからだ。野外だけれど、場内を圧するような歌である。終わった途端、「ブラボー!」の声が飛んだ。どうやら、アメリカーもその歌声に感激したようだ。さながらクラッシックコンサートのような雰囲気。「ブラボー」が出たのは、多くの演目の中でも、西江さんの歌三線だけだった。やはり、優れた音楽は、国を問わず胸に響くのだ。
 071_2  琉球舞踊は宮城能鳳さんによる「女特牛節」(うんなくてぃぶし)。男性とは思えないうっとりするような美しさである。
 ちなみに、琉球王府の時代、「中秋の宴」などでの芸能は、すべて王府の男性役人が演じた。女踊りもすべて男性である。ただ、現在は琉舞をやる人は女性が多いので、この日も、女性も入っていたようだ。
 まだ組踊はこれからだが、長くなったので次にしようね。

2011年9月 9日 (金)

八重山の良識を示した「つくる会」系不採択

 石垣市、竹富町、与那国町の中学校で2012年度から4年間、使用する「公民」教科書の選定で、育鵬社版を不採択とすることが決まった。八重山の教育委員の良識を示した。一部の政治勢力が企図した「新しい歴史教科書をつくる会」系の教科書採択は、見事にとん挫したわけである。

 教科用図書八重山採択地区協議会(会長・玉津博克石垣市教育長)では、玉津会長が教科書採択のルールを改変し、育鵬社の「公民」教科書を多数決で選定した。だが、竹富町はこれに反対し、3市町で、異なる教科書が採択された。八重山地区では同一の教科書の採択に向けて、3市町の教育委員13人全員が9月8日、協議した。その結果、育鵬社版の採択は賛成3人で不採択となった。調査員が推薦し、現在八重山で使用されている東京書籍版を8人の賛成で採択した。与那国町教育長は無責任にも退席した。

 もともと、今回の教科書問題は、政治的な思惑から教科書採択の民主的なルールを改変し、米軍と自衛隊の役割を美化し、国民の人権や男女平等も軽視する現憲法の精神にも背く偏向教科書を「教育クーデタ」のようなやり方でごり押ししようとしたことに問題があった。

 県民は「つくる会」系の教科書に6割が反対し、なにより平和と人権の教育を望んでいた。そんな県民の世論からも遊離し、民意を無視して、教育への政治介入をはかってきたことの破たんを意味する。

 しかも、与那国島への自衛隊配備が計画される中で、「つくる会」系の教科書採択は、自衛隊を受け入れる教育の推進を意図したものではないか、という住民の疑念を高めた。
 住民の中でも、強引な「つくる会」系教科書の採択に向けた動きが明るみに出る中で、世論は急速な盛り上がりを見せた。県内の「琉球新報」「沖縄タイムス」の2紙も、的確な情報提供と企画報道を進めて、世論形成にも大いに力を発揮したと思う。それはまた、県民の総意によって支えられていることでもある。

 ただし、「つくる会」系の教科書採択に執念を燃やす石垣市と与那国町の教育長は、八重山地区の全教育委員の協議で不採択になったにもかかわらず、まだ育鵬社版の採択への思惑を捨てていないようだ。民意に背くそうした策謀はきっぱりとやめるべきである。でなければ、住民の間では、こんな民意無視の教育介入を進める市長、町長への不信感を高めるだけだろう。
 

2011年9月 7日 (水)

「つくる会」系教科書に世論調査で6割が反対

八重山地区の教科書採択をめぐり、「琉球新報」が石垣市、竹富町、与那国町で世論調査をした結果を9月7日付で報道した。右翼勢力が進める「新しい歴史教科書をつくる会」系の教科書の採択について、反対が賛成の3倍近くにのぼっていることが注目される。
 「つくる会」系教科書に、「絶対に採択してはならない」34.3%、「あまり採択してほしくない」27.0%で、反対は合計して61.3%にのぼる。「採択してもいい」は17.0%、「ぜひ採択してほしい」は5.0%で、賛成は合計してわずか22.0%に過ぎない。
 八重山採択地区協議会は、採択の民主的なルールを強引に改悪して、「公民」では、育鵬社の教科書選定を無記名投票でごり押しした。でも、採択の権限を持つ教育委員会では、竹富町は育鵬社は不採択とし、東京書籍の教科書を採択した。また、「歴史」教科書は、地区協議会で県民世論の反発を避けて、帝国書院の教科書を選定した。

 この世論調査は、300件の回答によるもの。この調査結果をみても、「つくる会」系の右翼的な偏向教科書の採択は、まったく住民、県民の世論と相反するもので、住民の支持を受けていないことを明らかにした。
 特定の政治勢力が、強引に教科書選定に介入し、教育を歪めようとしていることを物語っている。

035          写真は沖縄戦の犠牲者を祀る魂魄之塔(糸満市)

 大事なことだと思ったのは、「公民などの社会科教科書で大切にしてほしいことは何か」という設問への回答である。それは第1位が「平和教育」で51.7%。第2位が「基本的人権や平等」で21.7%で、この二つが飛びぬけて多いことだ。「愛国心」や「領土問題や安全保障」などは10%に満たない少数である。
 ここには、沖縄戦とその後の米軍支配を体験してきた沖縄県民の平和や人権への強い願望が反映しているだろう。同時にそれは、沖縄だけでなく、日本全体でも普遍的に希求すべき教育の重要な柱であるはずだ。それは憲法の柱であるからだ。

 育鵬社の「公民」教科書は、日本の平和は、自衛隊や米軍の抑止力によると賛美し、「公共の福祉」のため基本的人権が制限されるとか、行き過ぎた平等は社会混乱をまねく、とし、現憲法の精神をないがしろにする内容である。県民世論が求める社会科教育の内容とも相反する。

 世論調査は、もう一つ注目すべき回答がある。自衛隊の与那国島への配備についてである。「絶対に反対」が36.3%、「どちらかといえば反対」が24.0%で、合わせて60.3%が反対である。賛成は「大いに賛成」9.0%、「どちらかといえば賛成」20.0%で、わずか29.0%に過ぎない。とくに、配備が計画されている与那国町では、反対が73.3%と圧倒し、賛成は13.3%しかない。与那国では一部の人たちが、「自衛隊誘致により島の振興を」と動いたが、地元の声をまったく置き去りにしたものであることを浮き彫りにした。

 今回の世論調査をみても、改めて世論を無視した強引な右翼的な教科書の採択はやめるべきだ。また与那国島への自衛隊配備の計画も中止すべきである。
 

追記
 「琉球新報」は8日付で、県内全域の14市町村での世論調査の結果を発表した。516件の回答だ。「つくる会」系の教科書採択に反対が合わせて57.7%と多数を占め、賛成はわずか14.1%に過ぎない。八重山でも県内全体でも反対が6割を占め、賛成の3倍にのぼることが明らかになった。教科書採択は住民に開かれた採択が必要で、県民世論に応えた教科書を選ぶべきだ。

 

 
 

 
 

2011年9月 5日 (月)

那覇・国場の念仏エイサーを見る

 第47回青年ふるさとエイサー祭りには、わが家に近い国場の念仏エイサーが登場した。国場民族伝統芸能保存会が演じた。国場は近くなのに、こういう伝統ある念仏エイサーがあるのをまだ見たことがなかった。
 お家が登場した。家族が家の前に座っている。家には、仏壇があり、トートーメ(位牌)がある。お盆のようだ。

085_2

    そこへ、念仏踊りの一行が出てくる。

086  頬かむりして太鼓を叩く人、シュロの葉のようなものを頭から被っている人も何人もいる。 102 酒を入れる甕を担ぐ人がいる。エイサーにはつきものだ。これは、エイサーは本来、旧盆に供養のために家々回る行事だったので、戦前は来てもらった家は、お布施として酒を差し出し、甕に入れたという。092 甕を担いで家に回ってきた。さっそく、家の主が、酒を注いでいる。まずは担ぎ手に飲ませるようだ。095 このあと、家の主は甕に酒を注いでやっている。

096 本当に酒らしきものが注がれている。本物の酒らしい。各家々で注いでもらうと、甕はたくさんの酒で満たされることになる。

105 甕担ぎはどうやら酔っ払ったらしい。家に来るまではシャキッとしていたが、もらった帰りはふらふらした足取りだ。でもまだ芸能を披露しなければならない。

099 歌三線に合わせて踊る。やはり念仏踊りだから、いまのエイサーには程遠い。素朴である。
100 歌三線の人は、頭に笠をかぶり、着物の帯は荒縄で、足は裸足だ。
 こういう念仏踊りは、まさしく古い伝統ある貴重な芸能だ。今年は、国場地域で旧盆に演じて回ったようだ。ポスターが出ていたのを思い出した。

 青年ふるさとエイサー祭りは、各青年会の勇壮なエイサーが次々に披露された。中城村津覇青年会の華麗な大太鼓。005  金武町並里青年会も、元気いっぱいに演舞する。

062  道化役のチョンダラー(京太郎)は、エイサーでは欠かせない人気者だ。それぞれ特色がある。こちらは、金武町中川区青年会だ。右は、柄がついている珍しいタイプの太鼓だ。女性の踊り「いなぐもーい」は、ディダ(太陽)を表す扇子を持って踊る。日の丸ではない

                           082_2

077_2

 

 

 八重瀬町新城青年会は、最後から2番目。もう盛り上がって肩車で踊る。

131_3 最後は、やっぱりカチャーシーである。みんな立ち上がって踊り狂う。チョンダラーも一緒に踊る。壮大は群舞でフィナーレとなった。
164

 

2011年9月 4日 (日)

じゃんがら念仏踊りを見る

 沖縄のエイサーの源流とされる福島県のじゃんがら念仏踊りを初めて見た。いわき市上高久青年会が踊った。これは、那覇市奥武山野球場で開かれた第47回青年ふるさとエイサー祭りに登場した。022_2 じゃんがら念仏踊りは、お盆に、亡くなって初めてお盆を迎える家々を回り、供養をする踊りだという。今年はもう50回以上踊ったそうだ。太鼓には、南無阿弥陀仏と書かれている。
 念仏を唱えれば、救われるという浄土宗の教えは、庶民の間に広がった。琉球では、福島県出身の袋中上人が、17世紀初めに来て、浄土宗を広めるとともに、念仏踊りを伝えた。それが、琉球の古い踊りと合わさって、今日にエイサーに発展したと伝えられる。039  なるほど、エイサーの古い姿を伝えているうるま市の平敷屋(ヘシキヤ)エイサーと、姿が似ているところもある。でもいくつか、沖縄のエイサーとは違う特徴もある。浴衣のような着物は、肩から腕を出し、白い腕ぬきをしているのも珍しい。
 何よりの違いは、歌三線の地謡(ヂカタ)がいないこと。10人が鉦を叩き、3人が太鼓を叩きながら歌い踊る。歌うというより、念仏でも唱えている感じだ。028  太鼓を打つバチは、白い毛でくるまれ、柔らかい音を出す。エイサーのように思いっきり叩いて音をとどろかせるのではない。ただし、平敷屋エイサーは、パーランクという小さな太鼓を、細い箸のようなバチでたたく。
 じゃんがら念仏踊りは、太鼓の種類が一つ。エイサーのように、大太鼓、しめ太鼓、パーランクというように多くはない。 

     054  踊りは太鼓の人が中心で、体を何度も何度も前に折りかがむようにして踊る。独特のリズム、旋律だ。エイサーには、京太郎(チョンダラー)という道化役がつきものだが、それはいない。提灯をもつ役は、先頭に立って案内のように歩いてくるが、あと踊っている間は、じっと待って見ている。家々を回る時の案内役なのだろう。

024_2  歌は、エイサーのように何曲も歌い、踊るのではない。一曲で長くリズムを繰り返して踊る。

049_2  やはり、じゃんがら念仏踊りは、亡くなった人を供養する精神が伝わってくる。まさしく伝統芸能である。沖縄で披露するのは2回目だとか。
 福島といえば、震災、津波、原発事故によって、亡くなったり、いまなお故郷を離れて暮らす人たちも多い。今回踊ったメンバーも、半分は被災しているとか。被災者への思いをこめて踊ったいるようだ。

047_2

 メンバーの中には、女性が2人いた。鉦を叩いていた。沖縄には、福島からも避難してきている人たちがいる。このエイサー祭りにも、何人か見に来ているかもしれない。

 最後に、沖縄でエイサーの古い形を残している平敷屋エイサーを、比較するために写真をアップしておく。糸満市で昨年、踊った時のものである。上高久青年会とは、衣装が派手ではないというところは共通している。でも比べて見ると、似ているわけではない。ただ、源流の念仏踊りの面影をとどめている。028_2

2011年9月 2日 (金)

「天川」の歌碑に出合う

 琉歌の歌人、吉屋チルの歌碑を見るため、嘉手納町公民館の駐車場に車を止めた。駐車場の一角は、いろんな碑が立つ場所だった。チルの歌碑を探していたのに、そこには思いかけず「天川」の歌碑があった。001  上の写真の一番右奥にあるのが「天川」の歌碑である。「天川」は琉球古典音楽の曲として知られている。
 「天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ」
(天川の池で、遊ぶおしどりのように、二人で交わした深い契りを、他の人は誰も知らない) 

この琉歌は、三線音楽の始祖とされている赤犬子(アカインコ)の作だと伝えられている。赤犬子は、読谷村の出身で、「赤」とは読谷の「阿嘉」の地名から来ているそうだ。琉球の古謡のオモロや初期の琉歌の作者として名前が伝わっている。002  碑の台座に、天川についての説明がある。このブログで書いた比謝橋がすぐそばにある。
 説明によると、比謝橋を渡り、那覇へ向かって真っすぐに行くと、戦前まで石を敷き詰めた幅一間ほどの坂道があり、俗に天川坂(アマカワビラ)と言った。その登り口の東側、カシタ山のふもとの、ンブガーの西隣に、直径二尺くらいの円筒形に積み上げられた井戸があり、天川(天井戸=アマカー)と言われた。 002_3   このあたりは、樹木がうっそうと繁茂し、その側を流れる比謝川で遊浴する雌、雄のおしどりを見て、比謝橋と天川井戸を結びつけて、約450年前、赤犬子が上記の歌を詠まれたものと思われる。
 この歌碑は、1996年に建立されている。赤犬子が詠んだのは約465年ほど前ということになる。
 003 橋のたもとに天川と表示されたカー(井戸)があった。円形に石を積み上げた見事なカーである。いまは橋と同じ高さになっているが、昔の橋はもっと低い位置にあり、橋から天川坂を登ったところに天川があったのだろう。石敷の急勾配の天川坂は、取り除かれて国道58号線になったそうである。004 天川の奥にもう一つ、同じような井戸がある。こちらは名称の表示がない。先に紹介した天川の歌碑の説明には「ンブガーの西隣」に天川があると言うから、天川の東隣りは「ンブガー」ということになる。
 ただ、この井戸は、昔からのものだろうか。なにか新しい感じがある。
 ネットで見ると「もともとの井戸の近くに天川井戸を模した工作物が設置されている」と書いている人もいる。いまのところ真相はまだ分からない。

2011年9月 1日 (木)

吉屋チルの歌碑に立ち寄る

 恩納村の「おんなの駅」に行く途中、琉球王府の時代、2大女流歌人といわれた吉屋チルの琉歌を刻んだ歌碑に立ち寄った。歌碑は、嘉手納町と読谷村の境を流れる比謝川(ヒジャガワ)に架かる比謝橋のたもとにある。国道58号線沿いにあるのに、このあたりいつも通過するばかりだった。

 006_2  比謝川はいつ見ても美しい川だ。歌碑は、嘉手納側にあると思い込んでいたら、読谷村側にあった。「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら」010

(恨めしい比謝橋は、情けのない人が、私を渡そうと思って掛けたのでしょうか)

007

     

 008 吉屋チルは、1650年生れ1668年没というから、18歳で亡くなった薄幸の歌人である。家が貧窮して、8歳で那覇の仲島の遊郭に身売りされたと伝えられる。吉屋(ヨシヤ)は売られた遊郭の名前だという。読谷山(ユンタンザン)の生れで、身売りされた時、この比謝橋を渡り、那覇に向かったので、自分の不幸を比謝橋に重ねて、詠んだ琉歌だといわれる。

 まだ幼い少女が、親に売られて見知らぬ土地の遊郭に行かなければならない。この川は、沖縄本島の中部では、最も大きい川であり大きい橋である。その橋を渡ることは、もう元の親のいる土地と暮らしには帰れない。遊女に身を落とす分岐点のような心情だったのだろう。

009_4  チルが詠んだと思われる琉歌は、20首余りあるが、「その作品はほとんど叙情的である」という。この歌碑は、2005年に、読谷村文化協会が建立したとのこと。読谷村は、チルは読谷の出身と誇りにしている。ただ、旧読谷山間切(マギリ、いまの町村)の山田の生まれだと伝えられる。これが本当なら、山田はその後、読谷山間切から切り離され、恩納間切に属したので、現在山田は恩納村である。でも、「琉歌の里」を売り物にする恩納村は、恩納ナビーを誇りにするけれど、吉屋チルにはまったくふれない。不思議なことである。薄幸の歌人でなので、読谷村で顕彰されることは嬉しいことである。

021_2  チルの歌碑は、嘉手納側にも一つある。歌碑というより、旧比謝橋模型碑だった。その中に琉歌が刻まれた部分だけ残っている。
 ただ同じチルの琉歌を刻んでも、二つの碑には少し内容に違いがある。
「恨む比謝橋や」までは同じ。問題はその後である。嘉手納側の碑は「情けない人の」とある。でも読谷側の碑は「情けないぬ人の」となっている。この「ぬ」が一文字余分ではないだろうか。琉歌の字数は、8886字とされる。でも「情けないぬ人の」では、8字でなく9字になる。ただこの琉歌も、紹介する人により、少しずつ微妙な違いがある。もしかして、8歳のチルが詠んだのは、この通りだったのかもしれないが。なにしろ読谷文化協会の方々が建立した歌碑なので、それなりの根拠があるのだろう。
 追記 「情けない人」では、大和口(共通語)ののようになる。「情けないぬ人」と言う場合、「ぬ」の発音を「ん」に近く発音すれば、なめらかな琉歌の表現になり、字余りの感じもしない。だから、読谷の歌碑が正確なのだろう。ただ、民謡の「吉屋物語」の工工四(楽譜)で引用されている琉歌は「情けねん人ぬ」と書かれている。014 戦前の比謝橋の様子を写した写真が、比謝橋碑文の案内板に掲示されていた。018 いまの比謝橋からは想像できない様変わりである。

015

 比謝橋は、昔は木造の橋だった。1717年に初めて石橋に改築したときの記念碑が、「比謝橋碑文」だ。碑の表面には石橋の由来など刻まれているが、もうほとんど読めない。嘉手納町公民館の方が紹介した文章があったので、そこから要約する。

017

 木橋だったが、木を食う虫や暴風雨のため、たびたび破損した。そのため人民は橋梁工事にかり出され、多大な供出に悩まされた。1667年、1689年に改修したが、危なくて渡りにくい。王府は二座(二つのアーチ)の石橋に改築することにした。
 碑文左には、これを担当した官役(役人)と費用などが記されている。

 比謝橋の架かるところは、河口から少し入っているが、船がこのあたりまで入れたようで、昔は橋の付近は天然の良港となっていて、スラ場と呼ばれる唐船作事(造船)所もあったという。

嘉手納町の民俗資料室に、比謝川の港らしい模型が展示してあった。船が着いている奥にアーチの石橋が見えるので、恐らく比謝橋ではないだろうか。確かめないまま帰ってきた。それに、館内は撮影禁止の貼り紙があったが、撮影した後から気がついた。せっかくのよい模型なので、参考になるからアップしておきましょうね。

022

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