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2011年9月15日 (木)

「おもろ」にみる漁の歌

 琉球の古い歌謡を収集した『おもろそうし』を読んでいたら、漁の歌がいくつかあった。といっても、全22巻、歌数1554首もあり全部をみてはいない。ちょうど、『仲原善忠全集』の中の「おもろの研究」を読み、そこから拾っただけである。

 「おもろ」とは「思うこと」の意であるいわれる。琉球で16世紀までの数百年の間につくられ謡われた歌謡のことで、これを1623年まで数回にわたり書き取り冊子にまとめたのが『おもろそうし』である。だから、主に琉球が薩摩に侵攻される前の、古い時代の琉球の歌謡である。
 漁についての歌謡を紹介する。仲原氏による訳文と大意である。

<春の初漁>
 1、(トカシキの)村君(村の神女) 君どののお舟、 波の花、押しわけ、
   トカシキの真男子(まころこ) 真男子は、船頭して
 又 津口(港)の潮の、息吹き上て来れば
 又 新麦が おろ麦が穂花(咲き出でらば)
 又 一の艫押しが アマ(カ)の村長が
 又 亀捕たか ザン捕たかと言わば
 又 捕らぬとて 知らぬとて、申せ。

 ケラマ(慶良間)群島、トカシキ(渡嘉敷)村のおもろ。春になり、港口の潮が息吹き上り、麦の穂がぽつぽつと出るころになると、村の根神の舟を出し、村のかしらがさしずして、亀やザンの魚(儒艮=ジュゴン)をとりに行った。隣村のアカ(阿嘉だろう)の村がしらの舟も出て来た。亀捕ったか、ザン捕ったかときいたら、捕らない、知らないと申せ。

 これを見ると、慶良間諸島では、古琉球の時代に、ザン(ジュゴン)を獲っていたことがわかる。「肉は頗る美味という」(仲原氏の注)と言われ、古い時代には食用としたのだろうか。でも、村長が聞いてきたら「捕らない、知らないと申せ」と言っているところを見ると、この時代でも、ザンを勝手に獲ることはタブーだったのだろうか。不思議な内容である。

 薩摩侵攻のあと、八重山で人頭税が課せられた時代に、新城島(アラグスクジマ)では、ザンを獲り、人頭税として王府に納めたという。「人頭税哀歌」でも書いてアップしてあるので、興味のある方はそちらも見てほしい。

077           写真は、南城市奥武島の浜辺

<村の海下り>
 1、こまか(地名)の、澪(みお)に、海下り、見物
 又 久高の、澪に
 又 ザン網結び下ろし
 又 亀網結び下ろし
 又 ザン、百、籠めて
 又 亀、百、こめて
 又 ザン、百、捕りやり、
 又 亀、百捕りやり、
 又 沖ナマスせんと、
 又 へたナマスせんと、
 又 楫手、選びのせて
 又 沖走(舟)い立て、競いて、
 又 干瀬走り立て、競いて、

 春の漁獲期(恐らく、或る時期に、亀、ザンを取る祭礼があったと思う)に、村人が老若男女ことごとく、海辺に出て、男達は沖に舟を出し、獲物を追う光景を謡ったのであろう。

 ここで「こまか」「久高」とは、久高島と「こまか」という小島がある。おろらく久高のおもろとみられる。「澪」とは「河海の水の早い所」、「へたナマス」とは「じゅごん、亀をとって、沖膾(なます)をつくり、神祭りにしようとの意味であろう」、「手楫(てかち)」は「漕ぎ手」のことである。
 ここでも、ザンを獲っていたことがうかがわれる。


 <海の貢租>
 1、謝名(地名)の比屋里思(人名、ひやりよもい) あっぱれ 比屋里思
      かなて(租借して) 按司(あじ)に、愛されて
 又 謝名の良かる里 海近く、あるげに、
 又 銛は、魚突く、「いぎよも」は章魚(たこ)突く、
 又 海も(按司も)おん物、「たぎや」も(按司の)おん物、

 浦添村、謝名の比屋里という男が、謝名の海から按司から租借して、按司に愛された云々。漁業権など確立している筈はないが、獲物の一部を「かない」として按司にささげることに依って、按司に愛された、ということであろう。この比屋里という男が、後の謝名思い(ぢやなも)、即ち明との交通の道をひらいた察度(さっと、中山王となる)の前身ではないかと疑われる。

 按司は、豪族のような存在。まだ、琉球が統一される前、各地で按司が地域の支配者としてふるまっていた。海で獲った魚介類を按司にささげて、按司から可愛がられたことがうかがわれる。

 いずれの歌謡を見ても、琉球が薩摩に支配され、「勧農政策」を進めた近世よりも前、古い時代には、各地で魚を獲り、生活を営む人たちが結構いたことがうかがわれる。豊漁を願う祭礼もあっただろう。027

 15世紀に、勝連城主で、首里王府に謀反を起こしたとして滅ぼされた阿麻和利(アマワリ)がまだ按司になる前、加那を名乗っていた時代、勝連に来て漁民が魚を銛で突いているのを見て、投げ網を考案して魚を大漁に獲ることを教えて、住民の信頼を高めたという逸話を聞いたことがある。勝連あたりでも、魚をよく獲っていたことがわかる。

 ちなみに「おもろ」では、王府にとっては逆臣のはずの阿麻和利が、領民の信望の厚く、誇り高い人物として描かれている。「肝高(キムタカ)の阿麻和利」「国治(し)りの、尊い按司」と謡われている。とても面白いことだ。これは本題から外れた余談である。
 

 

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コメント

へえ~!へえ~!おもろの頃にはシマ単位で漁業に出ていたんですねえ。でも謠を詠む限りでは、漁業を生業にまでしていた生活ではなかったような感じ。あくまで自分たちの生活に必要な量を捕るぐらいの規模だったような気がします。でも古謡に謡われるんだから、生活の一部であったことは間違いないですね。そういえば、「サングヮチャー」をやる平安座島に「おもろ」の碑が立ってましたよ。平安座島のことを詠んだ謠です。平安座島はおもろでは「ひやむざ」と言われてました。タイトルは「ひやむざ よさき」。サングヮチャーのとき、ズネイの人たちのなかに「ひやむざ」と染め抜かれたのぼりを持って歩いていた一行がいたんで、「それはどういう意味ですか?」と尋ねたら「平安座島魂みたいなことだよ」と教えてくれました。碑には「かわら よすき いちへて てもち よすき いちへて くに てもち おぎやかもいに みおやせ」って書いてありました!なんていう意味かわからないけど「みおやせ」が出てくるから、なんか海と関係あるんじゃないでしょうか!
碑がみたい場合は私のブログ「レキオいくぼー日記」で「サングヮチャー」を検索!4番目のサイトにでてまあす!

 昔はもっと自由に魚をとり暮らしていたといっても、たくさん獲っても困るから、家族の食糧と集落のなかでほしい人に物々交換なんかで分けてやるぐらいでしょう。ただ、勝連で阿麻和利が網で獲ることを教えて喜ばれたエピソードがあるから、勝連半島や平安座島なんかは魚獲りが盛んだったんでしょうね。
 平安座島の「おもろ」は面白いですね。サングヮチャーに行ってもよく見ていなかったけれど、いくぼーさん、よく見てますね。
 この「おもろ」の意味は「平安座島の濯ぎ井泉で 手持ち玉を洗い清めて 国手持ち玉を 尚真王に奉れ」ということらしいですよ。

先月8月16日あたりから ジュゴンについてツイッターで呟いており、おもろ草紙に出てくる久高島でのジュゴン漁の歌を探していてここにたどり着きました。ツイッターでリンクさせていただきます。

 読んでいただきありがとうございます。
 参考になることがあれば幸いです。

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