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2011年9月 1日 (木)

吉屋チルの歌碑に立ち寄る

 恩納村の「おんなの駅」に行く途中、琉球王府の時代、2大女流歌人といわれた吉屋チルの琉歌を刻んだ歌碑に立ち寄った。歌碑は、嘉手納町と読谷村の境を流れる比謝川(ヒジャガワ)に架かる比謝橋のたもとにある。国道58号線沿いにあるのに、このあたりいつも通過するばかりだった。

 006_2  比謝川はいつ見ても美しい川だ。歌碑は、嘉手納側にあると思い込んでいたら、読谷村側にあった。「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら」010

(恨めしい比謝橋は、情けのない人が、私を渡そうと思って掛けたのでしょうか)

007

     

 008 吉屋チルは、1650年生れ1668年没というから、18歳で亡くなった薄幸の歌人である。家が貧窮して、8歳で那覇の仲島の遊郭に身売りされたと伝えられる。吉屋(ヨシヤ)は売られた遊郭の名前だという。読谷山(ユンタンザン)の生れで、身売りされた時、この比謝橋を渡り、那覇に向かったので、自分の不幸を比謝橋に重ねて、詠んだ琉歌だといわれる。

 まだ幼い少女が、親に売られて見知らぬ土地の遊郭に行かなければならない。この川は、沖縄本島の中部では、最も大きい川であり大きい橋である。その橋を渡ることは、もう元の親のいる土地と暮らしには帰れない。遊女に身を落とす分岐点のような心情だったのだろう。

009_4  チルが詠んだと思われる琉歌は、20首余りあるが、「その作品はほとんど叙情的である」という。この歌碑は、2005年に、読谷村文化協会が建立したとのこと。読谷村は、チルは読谷の出身と誇りにしている。ただ、旧読谷山間切(マギリ、いまの町村)の山田の生まれだと伝えられる。これが本当なら、山田はその後、読谷山間切から切り離され、恩納間切に属したので、現在山田は恩納村である。でも、「琉歌の里」を売り物にする恩納村は、恩納ナビーを誇りにするけれど、吉屋チルにはまったくふれない。不思議なことである。薄幸の歌人でなので、読谷村で顕彰されることは嬉しいことである。

021_2  チルの歌碑は、嘉手納側にも一つある。歌碑というより、旧比謝橋模型碑だった。その中に琉歌が刻まれた部分だけ残っている。
 ただ同じチルの琉歌を刻んでも、二つの碑には少し内容に違いがある。
「恨む比謝橋や」までは同じ。問題はその後である。嘉手納側の碑は「情けない人の」とある。でも読谷側の碑は「情けないぬ人の」となっている。この「ぬ」が一文字余分ではないだろうか。琉歌の字数は、8886字とされる。でも「情けないぬ人の」では、8字でなく9字になる。ただこの琉歌も、紹介する人により、少しずつ微妙な違いがある。もしかして、8歳のチルが詠んだのは、この通りだったのかもしれないが。なにしろ読谷文化協会の方々が建立した歌碑なので、それなりの根拠があるのだろう。
 追記 「情けない人」では、大和口(共通語)ののようになる。「情けないぬ人」と言う場合、「ぬ」の発音を「ん」に近く発音すれば、なめらかな琉歌の表現になり、字余りの感じもしない。だから、読谷の歌碑が正確なのだろう。ただ、民謡の「吉屋物語」の工工四(楽譜)で引用されている琉歌は「情けねん人ぬ」と書かれている。014 戦前の比謝橋の様子を写した写真が、比謝橋碑文の案内板に掲示されていた。018 いまの比謝橋からは想像できない様変わりである。

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 比謝橋は、昔は木造の橋だった。1717年に初めて石橋に改築したときの記念碑が、「比謝橋碑文」だ。碑の表面には石橋の由来など刻まれているが、もうほとんど読めない。嘉手納町公民館の方が紹介した文章があったので、そこから要約する。

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 木橋だったが、木を食う虫や暴風雨のため、たびたび破損した。そのため人民は橋梁工事にかり出され、多大な供出に悩まされた。1667年、1689年に改修したが、危なくて渡りにくい。王府は二座(二つのアーチ)の石橋に改築することにした。
 碑文左には、これを担当した官役(役人)と費用などが記されている。

 比謝橋の架かるところは、河口から少し入っているが、船がこのあたりまで入れたようで、昔は橋の付近は天然の良港となっていて、スラ場と呼ばれる唐船作事(造船)所もあったという。

嘉手納町の民俗資料室に、比謝川の港らしい模型が展示してあった。船が着いている奥にアーチの石橋が見えるので、恐らく比謝橋ではないだろうか。確かめないまま帰ってきた。それに、館内は撮影禁止の貼り紙があったが、撮影した後から気がついた。せっかくのよい模型なので、参考になるからアップしておきましょうね。

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コメント

吉屋チルがなぜ「薄幸の女流歌人」といわれるかという所以ですが、わずか8歳にして遊郭に身売りされたということだけじゃないみたいです。他のサイトなどにアップされている説明に共通しているのが、遊郭で知り合った若里按司と恋に落ちたが、黒雲上という金持ちに身売りされる。恋を引き裂かれたのを悲嘆して食をたち、息を絶えたということです。それで幸少ない女性、といわれているようですよ。「恨む比謝橋や情けない人・・・」の句があまりにも有名なので、チルの心情がそこに凝縮されているようにとらえられがちですが、実際に辻でどのような生活をしたかどのような遊女の一生だったのかを見てみる必要があるんじゃないでしょうか。どうも「恨んで渡った比謝橋」でも、一生遊女の身をはかなんだようではないですね

比謝橋って随分立派な橋だったんですねえ。あそこは立派な橋梁があったので、嘉手納の子どもたちは夏になるとそこから川に飛び込んで遊んだそうです。沖縄戦で壊滅的打撃を受けなくなったけど、いま橋梁の一部が嘉手納側に残っていて、戦跡地に指定されてるそうです。ということをNHK沖縄の水曜日の「シリーズ戦跡を歩く」で紹介してたのを思い出しました。
嘉手納の人は野國総監の出身地の野國村も嘉手納基地内だし、嘉手納の象徴だったケイビン鉄道駅も製糖工場も比謝橋もなくなり、戦争によって亡くしたものが大きすぎますよね。
チルの歌碑が読谷側にあったのも意外でしたが。チルはユンタンザの生れになるんでしょうか。
読谷村にある座喜味城関の入り口に民俗資料館があって、以前入りましたが、読谷花織りはいっぱい展示されてましたけど、チルのことを紹介したものはなかったと思います。
扱われ方がナビと比べて「薄幸」です。

 チルが「薄幸の歌人」といわれるのはおっしゃる通りです。ここでは比謝橋の歌碑のことだけ書いたので、遊郭の仲島でのことまでふれませんでした。首里の士族との結ばれない恋は有名ですが、金持ちの黒雲上に買われる下りは、平敷屋朝敏の「苔の下」に登場します。ただこれは文学であり、史実というわけではないと思いますよ。それにしても短命ですね。
 チルは前に読谷のJAゆんた市場に出かけた時も、「読谷出身のチル」と紹介されてたし、この立派な歌碑を建立したのも、読谷村文化協会の人たちの熱意のたまものでしょう。
 アメリカのペリーが琉球に来た時も、その一行は比謝橋を見た記録があります。
嘉手納はいろんな史跡や民俗文化があるけれど、沖縄戦と米軍基地のため失ったものは大きいですね。

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