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2011年9月 2日 (金)

「天川」の歌碑に出合う

 琉歌の歌人、吉屋チルの歌碑を見るため、嘉手納町公民館の駐車場に車を止めた。駐車場の一角は、いろんな碑が立つ場所だった。チルの歌碑を探していたのに、そこには思いかけず「天川」の歌碑があった。001  上の写真の一番右奥にあるのが「天川」の歌碑である。「天川」は琉球古典音楽の曲として知られている。
 「天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ」
(天川の池で、遊ぶおしどりのように、二人で交わした深い契りを、他の人は誰も知らない) 

この琉歌は、三線音楽の始祖とされている赤犬子(アカインコ)の作だと伝えられている。赤犬子は、読谷村の出身で、「赤」とは読谷の「阿嘉」の地名から来ているそうだ。琉球の古謡のオモロや初期の琉歌の作者として名前が伝わっている。002  碑の台座に、天川についての説明がある。このブログで書いた比謝橋がすぐそばにある。
 説明によると、比謝橋を渡り、那覇へ向かって真っすぐに行くと、戦前まで石を敷き詰めた幅一間ほどの坂道があり、俗に天川坂(アマカワビラ)と言った。その登り口の東側、カシタ山のふもとの、ンブガーの西隣に、直径二尺くらいの円筒形に積み上げられた井戸があり、天川(天井戸=アマカー)と言われた。 002_3   このあたりは、樹木がうっそうと繁茂し、その側を流れる比謝川で遊浴する雌、雄のおしどりを見て、比謝橋と天川井戸を結びつけて、約450年前、赤犬子が上記の歌を詠まれたものと思われる。
 この歌碑は、1996年に建立されている。赤犬子が詠んだのは約465年ほど前ということになる。
 003 橋のたもとに天川と表示されたカー(井戸)があった。円形に石を積み上げた見事なカーである。いまは橋と同じ高さになっているが、昔の橋はもっと低い位置にあり、橋から天川坂を登ったところに天川があったのだろう。石敷の急勾配の天川坂は、取り除かれて国道58号線になったそうである。004 天川の奥にもう一つ、同じような井戸がある。こちらは名称の表示がない。先に紹介した天川の歌碑の説明には「ンブガーの西隣」に天川があると言うから、天川の東隣りは「ンブガー」ということになる。
 ただ、この井戸は、昔からのものだろうか。なにか新しい感じがある。
 ネットで見ると「もともとの井戸の近くに天川井戸を模した工作物が設置されている」と書いている人もいる。いまのところ真相はまだ分からない。

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コメント

天川坂が今もあったら、当時に思いをはせて歩きたい気分ですね。古典では恋の歌も唄うんですか。
もうひとつの井戸も含めて、御願に来る人が今もいるみたいですね。井戸のそばに「参拝者の方へ」という看板がありました。線香を燃やすな、ゴミは持って帰れって。アカインコって優れた歌人だったんですね。

 昔はうっそうと木が茂り、石畳の天川坂があったそうなので、そのまま残っていたらいい雰囲気の場所だったでしょうね。「天川節」は舞踊によく使われ「加那よー」と続けて踊られます。ユーチューブでも見れますよ。舞踊に使われる古典の歌は恋歌が多いですよ。
 でも「天川」や「島尻天川」は、三線がとっても難しいだけでなく、歌が難しくて、いまだにお手上げ状態です。
 天川は、御願所だそうです。だから参拝者が多いんでしょう。アカインコ宮があるから今度行ってみましょう。

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