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2011年10月

2011年10月27日 (木)

故郷を想う島唄「やいま」

 石垣島出身の歌手、ミヤギマモルのヒット曲に「やいま」がある。「やいま」とは八重山のことだ。故郷を想う島唄といえば、大和人間からみると不思議である。なぜかといえば、大和感覚では、地方から東京や大阪、名古屋など大都会に進学や就職で出てきた人が、生れ故郷を偲ぶからだ。だから、大都会で沖縄を偲ぶならわかるが、同じ沖縄の中で故郷を偲ぶとは、なぜなのか、という意味である。

045           石垣島の川平湾

 でもそういう疑問が大和感覚であり、沖縄ではフツーのことだ。なぜなら、沖縄はやはり長く琉球が独立した王国だったように、沖縄が一つの生活、経済、文化の完結したエリアであるからだ。琉球弧の島々の中で、沖縄本島と県都の那覇市には、各離島や北部の山原(ヤンバル)など地方から、進学や就職で故郷を後にして人々が集まった。

 私の行っている三線サークルでも、那覇市の出身者は少ないだろう。国頭村、大宜味村、今帰仁村、本部町、石垣、宮古,渡嘉敷島など地方と離島の出身者が多い。ラジオをはじめメディアで人物を登場させるときも「あなたはどちらの出身ですか?」と質問する。「私は久米島の生れよ」「私は伊江島出身です」などと答える。あたかも東京あたりで、「どちらの地方出身ですか?」と聞き、「東北の山形」「新潟の生れ」などと答えるのと同じである。

139_2          石垣島の平久保崎からの眺め

 なにしろ沖縄は、本島以外に沖縄振興特別措置法で決めた離島が54島あり、そのうち有人島は39を数える。離島でも高校のあるのは、石垣、宮古、伊良部、久米島など大きな離島だけ。だから他の有人島では、中学校を卒業すると、高校は本島か石垣、宮古などの高校に進学する。「15の春」に親元を離れることになる。
 高校を出ても、大学は本島と県外しかないから、大学進学で本島に来る人も多い。就職となれば、島に帰らずそのまま本島で就職する例が多い。というわけで、故郷を想う感覚は、沖縄がいまも一つの独立した単位のような感じがするのである。

 遅くなったが、故郷を想う「やいま」を毎日三線で弾き歌っているのでその歌詞を紹介しておきたい。
1、海を見れば 故郷を思い出し 山を見れば また故郷を思い出す
  月の浜辺で 泡盛飲みながら 夜の明けるまで 歌った島唄よ
  故郷離れてから はや12年 変わるなよ その眺め やいまの島々よ

2、情け深き父に 元気でいるかなと 便り書いては 出せずに読み返し
  母のぬくもり 思い出しながら 今も歌うよ やいまの島唄よ
  故郷離れてから はや12年 変わるなよ その情け やいまの島唄よ ※繰り返し

133          石垣島の伝説を秘めた野底岳

 「やいま」を作詞作曲したミヤギマモルの経歴を見れば、彼の思いがそのまま唄に込められていることがわかる。
 高校卒業後、進学のために、故郷の石垣を離れ那覇市に移り住んだ。その後、12年のサラリーマンを経験し、音楽の世界に入ったという。サラリーマン時代に、作曲したのが「やいま」。地元の貨物航空会社のコマーシャルに起用され、注目を集めた。1998年2月、初のアルバム「やいま」でインディーズデビューした。2000年には、あの歌手の千昌夫が「やいま」をカバーした。
 私もカラオケで歌う時は、ミヤギマモルは声が高すぎてキーが合わせにくいので、千昌夫で歌うとちょうどキーが合う。
 この歌を歌うと、離島から那覇に出てきた人たちの、故郷の島々を想う気持ちがとてもよくわかる。  

2011年10月22日 (土)

泡盛試飲三昧の産業まつり

沖縄の産業まつりには、県内の泡盛メーカーが勢揃いして、試飲できるのが魅力である。会場の一角に酒造所が集まるコーナーがある。市町村の特産品を扱う「ありんくりん市」に出店している酒造所もある。

011          写真は泡盛メーカーではない。「ありんくりん市」。

 「試飲できますか?」と声をかけると快く応じてくれる。「試飲できますよ」と声をかけてくれるところもある。試飲でいいのは、無料だからと安酒を出すのではなく、10年、12年とねかせた古酒(クース)を飲ましてくれることだ。それも、産業まつりのために特別出している泡盛もけっこうある。012  古酒の入った大きな甕(カメ)が並んでいる。試飲もこういう甕から汲んでくれるところもある。たくさんあるなかで、離島の泡盛をいくつか試飲した。

 与那国島、伊平屋島(イヘヤジマ)、宮古島、久米島。離島では、泡盛をつくっていない島もある。たとえば伊江島。そのかわりというか、ラム酒の製造を始めた。すでに南大東島ではラム酒をつくっていた。離島ではサトウキビをたくさん作っているのだから、ラム酒づくりは、うってつけだ。試飲してみたが、ラムならではの香りがあり、美味しい。ソーダで割ってもよい。大東の店で「伊江島でも見習ってつくりだしましたね」とライバル出現ではと思って尋ねると「ええ、これでラム酒の人気が出るといいですけれどね」と相乗効果を期待しているようだった。006        写真は泡盛とは関係ない。酒のつまみによさそうなマンビカのスモーク

 話はそれた。肝心の泡盛である。与那国の「舞冨名」は60度ある。さすがに口に含むと、ふっと蒸発するような感じだった。伊平屋島も小さな島だが、聞いてみると「伊平屋では昔から泡盛はつくっているよ」とのこと。「芭蕉布」という名の泡盛を飲んでみた。

 宮古島には県内でも有名な泡盛メーカーがある。菊之露や多良川である。変わった容器に入った泡盛があった。宮古島の各地に交通安全を願い立っている「宮古島まもる君」である。

015  25度の泡盛だが、産業まつり限定30本。陶器ボトルだから3300円という高めの価格だ。飲酒運転根絶も訴えている。宮古島に月末に行くので「まもる君」にお目にかかれるだろう。

 同じ泡盛の古酒でも、味わいがいろいろ違う。11年もののあと、12年ものを飲んだら、1年違いなのに味がまるで違う泡盛もあった。古い方がまろやかである。新しい酒はカドがある。

 43度の古酒を飲んでいると、25度や30度の泡盛を試飲すると「あれっ、随分ゆるいなあ」と感じる。水割りではなく、生で飲むと泡盛の違い、美味さもよくわかる。

002_2 晩酌でよく今帰仁酒造の「美しき古里」 を飲んでいた。古酒入りである。ここでも古酒を試飲しながら「美しき古里をよく飲むんですが、20%古酒が入っていますよね?」と聞くと「そうですね。でも今度30%古酒が入るようになったんですよ。もうすぐ発売になります」とのこと。値段は据え置きのままだという。うれしい新情報もあった。

 あちこちと試飲したが、結局は43度の古酒を、甕から小さなビンに詰めてもらって1本買った。甕からの量り売りというのが、産業まつりならではの買い方である。

013_2 本日のビールにあう食べ物は、金城ビーフである。石垣島だという。大きな牛肉のブロックを鉄板上で焼いて切り分ける。まるでローストビーフのようだ。おじさんの景気のよい呼び込みに列ができていた。でもなぜか食べてみると肉は固く、味はいまいちだった。

010_2          シーサーがたくさん並んでいた。これは漆喰シーサー

 陶器が集まる「やちむん市」があったが、なぜか泡盛を入れる甕のフタばかりをたくさん安く売っている店があった。「なぜ、フタばかりを売っているんだろうか?」。お店のおばさんに聞いてみた。「それはね、甕のフタが最近はシリコン製ばかりになって、焼物のフタは売れなくなったのよ」という。なんということか。そういえば、泡盛メーカーの店で並ぶ甕は、みんな陶器のフタではなかった。いくら安く売ってももう陶器のフタだけ買う人もいないだろう。お気の毒というほかない。
 というわけで、43度の泡盛の試飲三昧で、少し試飲酔いをした。これが産業まつりの楽しみの一つである。

 

2011年10月21日 (金)

ハチミツ王国の沖縄

 沖縄はやたら蜂蜜屋が多い。沖縄の物産が一堂に集まる、第35回沖縄の産業まつりが3日間の日程で開かれている。やはり、今年も蜂蜜の店が出ている。001  小浜養蜂場はなんと3店も出店していた。おきなわ養蜂も「県産はちみつ」が売り物である。小浜の店で、おばさんに聞いてみた。「沖縄は蜂蜜多いですよね」「そう、多いよ。花が多いから。年中咲いているからね」。

 004  なるほど。大和だと花は春、秋が多いけれど、冬場はほとんどない。真夏も少ない。でも沖縄は暑くても、いろんな花が咲く。亜熱帯系の花は花期が長い。冬と言っても、寒い大和からみれば、春秋ぐらいの気温だ。だから、1月にカンヒザクラも咲けば、ひまわりも咲く。

002_2

         蜂蜜を小さなスプーンですくって試食してみる

県内の養蜂農家は増えているそうだ。2009年1月に51戸だったのが、2010年1月には71戸になった。同じ期間に、飼養群数(巣箱)は3600群から5500群に増加した。県養蜂組合もある。

 県内の養蜂場は、他にも「新垣養蜂園」「並里養蜂園」「琉球養蜂園」「名護養蜂園」「石垣島養蜂」「島みつばち園」「照屋養蜂場」「玉城養蜂園」などいろいろとある。大和から進出しているところもある。「薬蜜本舗」は中国で蜂蜜をつくっているが、沖縄に2店も出している。

001                 こちらは産業まつりに出店している「おきなわ養蜂」

 養蜂場によると、沖縄は太陽の恵みを受けて、年中花々が咲きあふれる温暖な島。この恵まれた自然環境の中でミツバチたちが蜂蜜を生みだしてくれる。

 また自生している雑草は、ほとんどが薬草で、蜜を集めるミツバチたちはこの薬草の花からも蜜を集めるという。

003_2         ケースの中にはミツバチがたくさんいた。小浜養蜂場の店で

 というわけで、沖縄はミツバチ、蜂蜜王国である。

2011年10月19日 (水)

どの面下げて沖縄詣で

 野田内閣の大臣と前大臣の沖縄訪問が相次いでいる。北沢前防衛相に始まり、川端沖縄担当相、一川防衛相、玄葉外相と次々に来県した。いずれも、米軍普天間飛行場の辺野古移設をあつかましく押しつけるためである。
 しかし、辺野古移設に反対というのは、県民の総意である。仲井真知事も県外移設を求めていて、受け入れる余地はまったくない。にもかかわらず、入れ替わり立ち替わり、沖縄に来ている。知事や稲嶺名護市長らはきっぱりと辺野古移設は反対、困難だと明快に拒否している。にもかかわらず、沖縄詣でを続けてきた。

 北沢前防衛相は、あきれたことにもはや大臣でもないのに、「どんな困難があってもやりぬく」とまで力説した。本来、どんな困難があってもやりぬくべきは、民主党が選挙で国民に約束した「普天間は最低でも県外、国外」という公約の実行ではないか。あたかも県民が「困難」をつくる妨害者のように描いた発言は、許しがたいものだ。

 一川防衛相にいたっては、沖縄の米軍基地の現実がまるでわからない素人大臣でありながら、辺野古移設のためのアセスメント結果をまとめた「環境影響評価書」を年内に県に提出すると伝えた。県民にたいする挑戦ともいうべきものである。自分の言動の重大さがはたして分かっているのだろうか。そんな疑問さえ浮かぶ。

 玄葉外相は、日本の安全保障環境と沖縄の地理的優位性をあげて、日米合意を進展させたいと述べたという。「地理的」条件から辺野古移設をというなら、米軍基地は永遠に沖縄に置くことになる。地理的といっても、日本列島全体が東アジアの重要な位置にある。九州、本州と沖縄とどれほどの違いがあるのか。ない。なにより海兵隊は日本防衛のため沖縄にいるのではない。軍事の地政学から、押しつけようというのは、まったくのデタラメである。
 だいたい、アメリカの上院軍事委員会さえ、辺野古移設は不可能だと指摘している。

Photo             嘉数高台から普天間基地を見る

 それにしても、これだけ県内移設反対の姿勢がはっきりとしていて、妥協の余地もないことが分かっていながら、ただ「日米合意に基づいて進める」ということだけを言うためになぜ、相次いで大臣らが来るのだろうか。きわめて不可解である。

 考えられるのはただ一つ。それは、辺野古移設のため日本政府が頑張っているという姿勢をアメリカに示すこと。それが一番の眼目だろう。「琉球新報」の2011年10月18日付け社説は、知事防衛相会談について「大臣は米国のご用聞きか」と批判した。そのとおりである。
 

 沖縄に何度足を運んでも、県民の声をくみ取ろうという意思はまったくない。ひたすら、アメリカの圧力に唯々諾々と従っているだけにしか見えない。
 

 アメリカ国内でも上院軍事委員会をはじめ、辺野古移設は不可能などの求める声が広がっている。もともと、沖縄県民を愚弄する頭越しの日米合意を結んだことが間違いだった。だから、日本国民のための政府なら、押しつけではなく、沖縄の声を聞くべきである。辺野古移設の日米合意は見直せ、世界一危険な普天間基地は一日も早く撤去するようアメリカに迫るべきではないだろうか。

 

2011年10月17日 (月)

多良間島にある平敷屋朝敏の墓

 政治犯として処刑された琉球の悲劇の文学者・平敷屋朝敏(ヘシキヤチョウビン)のお墓があるという。沖縄本島には、いつくか碑はあるがお墓は見たことがない。朝敏とその一門のお墓があるのは、八重山と宮古諸島の中間に位置する多良間島(タラマジマ)である。

 朝敏に関心があっても墓のことは知らなかった。『宮古の史跡をたずねて』という宮古郷土史研究会発行の冊子を読んでいたらその記述に出合った。
 朝敏(1700~1734年)は、琉球の歌三線、踊り、台詞の総合芸能である組踊でも、唯一といわれる恋愛物「手水の縁」をつくったことで有名だ。
 当時の封建道徳で、士族は結婚は親が決めるという原則だった。だが、「手水の縁」はその封建道徳を乗り越え、自由な恋愛を成就させる画期的な組踊である。
 その朝敏は、1734年に当時の名高い政治家である蔡温一派を批判したとみられる文書を、薩摩藩吏の館に投書したため、磔の刑にされた。長男の長良は多良間島のそばの水納島(ミンナジマ)、弟の朝助は多良間島に流されたという。
  朝良は、その後水納島から多良間に移り、弟と仲良く暮らすことを許されたけれど、弟は成人にならずして早死にしたと伝えられる。朝良は、成人して多良間のナカツト屋の娘と結婚、子孫繁昌したという。その一門の墓が「里之子墓」で、多良間村字仲筋にある。私はまだ、多良間島には行ったことがないので見る機会はない。でも冊子には写真が掲載されているので様子はわかる。

 この墓には、1935年に朝敏夫妻ほか5人の遺骨が納められた。遺骨の護送は、沖縄本島の門中(ムンチュウ、父系の血縁組織)の一人、大宜味氏とマクルヤーの饒平名(ヨヘナ)長健氏によってなされた。008         朝敏の妻が詠んだ琉歌の歌碑。宮城島にある。 

 うるま市の平敷屋公民館のホームページの記述は、少し内容が違う。
長男の朝良は多良間島、次男は与那国島、三男は水納島に流刑にされた。三男は幼少であったので多良間の長男が引き取って養育していたが夭折したといわれる。朝良はナカット(嵩原家)の女をほめにとって一家をたて、その長男の「まからー」はマクルヤー(饒平名家)の元祖となった。次男の「じらー」はヤマトヤー(平安名家)を立て、長女はウルカヤー(石原家)に嫁いだという。

 多良間村のホームページに掲載されている歴史年表では、宮古郷土史研究会と同じく、長男は1734年に水納島、次男は7年後、多良間島に流刑されたと記述している。
 どちらもいわば当事者の自治体、自治会の公式見解である。いまのところ、どちらの見解が史実であるのか、わからないので、両論併記としておきたい。

011    組踊「手水の縁」の舞台となった瀬長島に建てられた平敷屋朝敏の歌碑

 大事なことは、朝敏の息子が多良間島に流されたが、朝良とその長男まからーは、首里にもたびたび往復して、首里文化をもたらしたことだ。組踊「手水の宴」は、多良間島では1897年(明治30年)頃まで上演されていた。台本の写本は、多良間島郷土資料室に保存されているという(『宮古の史跡をたずねて』)。 多良間島では、「八月踊り」と呼ばれる豊年祭がある。三日間にわたり、組踊をはじめ狂言、舞踊など伝統芸能が披露される。国の重要無形文化財にも指定されているほどだ。

 朝敏と家族は骨になって息子とその子孫たちと、同じ墓でいっしょに眠っている。一度、行ってみたいものである。

 

2011年10月12日 (水)

世界のウチナーンチュが集う

 海外に移民などで出かけた沖縄県出身者らが集う「第5回世界のウチナーンチュ大会」が13日から16日まで開かれる。海外の県系人は40万人を数える。大会はほぼ5年に1回開かれており、今回は23カ国・2地域から約5200人が参加する。

 沖縄は1900年初めてハワイに26人が移住して以降、南米、北米、南洋諸島をはじめたくさんの人たちが移民として出かけた。ハワイ移民を熱心に進めた金武町出身で、沖縄自由民権運動の闘士でもあった当山久三は「移民の父」を呼ばれている(下写真)。048  夢をもって出かけたけれど、移民先では大変な辛酸をなめながら、頑張った人が多い。成功した人がいる陰で、失意のうちに倒れた人もいた。沖縄は全国有数の移民県だ。背景には、離島ゆえの貧しさがある。沖縄戦の後は、米軍基地に土地を奪われ、やむなく移住した例もある。そこには、さまざまな歴史が刻まれている。

 いま県系人も2、3、4世の時代になり、日本と沖縄に仕事を求めてくる人も多い。ウチナーンチュは、移民先でもネットワークをもって、沖縄人としての誇りを胸に、沖縄語や文化、芸能の伝統を受け継いでいる。そんな中から、沖縄の芸能・民謡を習って、歌手としてデビューする人も何人もいる。

 ところで、移民については、さまざまな民謡が作られ歌われている。そんななかで、代表曲として、普久原朝喜(フクハラチョウキ)作詞作曲の「移民小唄」を紹介しておきたい。ほとんど共通語で書かれた詩なので、原文そのままで紹介する。

1、なれし故郷 沖縄の 想い出深き 那覇港 
  泣いて別れた 両親(フタオヤ)と 八重の潮路を 押し渡り

2、海山越えて はるばると 来たる月日も 夢の間に
  もはや1年 たちました 油断するなよ ネー貴男(アナタ)

3、立てし志望の 一筋は 岩もつらぬく 覚悟あれ
  金は世界の まわりもの かせぐ腕には 金ばかり

4、無理なお金も 使わずに 貯めたお金は 国元の
  故郷で祈る 両親に 便り送金も 忘れるな

5、人に勝りて 働けよ 金倹貯蓄も 心掛け
  錦を重ねて 帰る時 親の喜び 如何ばかり

 移民した県系人の間では、沖縄戦で郷土が焼け野原になり、身近な親兄弟や親類、友人・知人が犠牲になったことに、とても心配し、心を痛めた。戦後の復興にさいして、故郷の沖縄にお金や物を送り復興をさせようという運動も沸き起こった。有名なのが、ハワイの県系人が募金を集めた、豚550頭を沖縄に送り喜ばれたことだ。

 普久原朝喜の作詞作曲した曲に「懐かしき故郷」がある。朝喜は、大阪にいたので、郷里のことをとても心配してつくったようだ。だから、大和から沖縄のことを心配した歌詞だが、海外の県系人にとっても同じ思いだっただろう。この曲の歌詞と歌意を簡単に紹介しておきたい。

1、夢(イミ)に見る沖縄(ウチナー) 元姿(ムトシガタ)やしが 音(ウト)に聞(チ)く沖縄
 変て無(ネ)らん  行ちぶさや生れ島
 (夢に見る沖縄はもとの姿のままだが、便りに聞く沖縄は変わり果ててしまったという 
  行ってみたいなあ 生れ島に)

2、此処(クマ)や彼処(アマ)ぬ心配(シワ) 彼処や此処ぬ心配 心配ぬ果ねさみ 
  彼処ん此処ん 行ちぶさや 古里に
 (こちらもあちらも心配だ あそこもここも心配でならない 心配して果てしない 
  あそこもここも 行ってみたいな 古里に)

3、平和なて居(オ)むぬ 元ぬ如(グト)自由に 沖縄行く船(フニ)に 乗(ヌ)してたぼり
  行ちぶさや 生れ島
 (平和になったから もとのように自由に 沖縄に行く船に乗せて下さい 
  行ってみたいなあ 生れ島)

4、何時(イチ)が自由なやい 親兄弟(ウヤチョウデ)ん揃(スル)て うち笑い笑い
 暮すくとや 行ちぶさや 古里に
 (いつか自由にったら 親兄弟がみんな揃って おおいに笑って暮らせるだろう
  行ってみたいな 古里に)

 この民謡を歌っていると、故郷を離れて暮らすウチナーンチュの思いが胸を刺すように伝わってくる。とくに、4番まで来ると、「親兄弟揃ってうち笑い笑い」と歌いながら、おもわずウルウルとしてくることがしばしばある。名曲である。

 移民として出ていた人や移住した県系人らを歌った民謡はとてもたくさんある。全部は紹介できない。このブログでも「戦世と平和の沖縄島唄」(2010年6月)でいくつか紹介してあるので、関心ある方はそちらも読んでみて下さい。

 

2011年10月 9日 (日)

パーシャクラブの島唄ポップスに酔う

 2011那覇大綱挽きまつりで恒例の「オリオンビアパラダイス」を今年も楽しんだ。
大綱挽きは、人ばかり多くてつまらない。それより、野外で生ビールをグビグビ飲みながら、ライブを楽しむのが最高! というわけで、今年も2日間、ビアパラダイスに通った。

001 第1日目は、diamantesuがメイン。野外のビールには、ラテンのノリが一番! アルベルト城間など、沖縄からの南米移民の血を引く県系人が中心のバンド。今年は5年に一度の世界のウチナーンチュ大会が間もなく開かれるところだ。
 彼らのヒット曲「片手に三線を」は、第2回大会のテーマソングになったか。世界に散らばるウチナーンチュ・県系人がいま大会に向けて各国から続々、沖縄に到着しているところである。
 これは1日目のこと。第2日目も、豪華なアーチストが並んだ。最初のtokky&kumojibandは、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」など、ノリの良いポップスを歌った。

004  つづくariaは、ジャズバイオリンというか、でもジャズでもない。ポップスバイオリン。ギターとかけあいで軽快にバイオリンを弾く独特のスタイル。山梨出身なのに、なぜか沖縄に住み着いたミュージシャン。

005 ギターの国吉亮くんは若手の凄腕ギターリスト。なんかariaもくわれた感じがした。

 続いてmanami。なぜかローマ字表記の人が並ぶ。彼女は、オリオンビールのコマーシャルソングで売れた。小学生で上京したそうだが、れっきとしたウチナーンチュだ。

020 007_2

 生で聞いてみると、意外に歌が上手いし声もよい。素直な人柄のようで好感度がアップした。近くのおじさんが、なぜか熱烈ファンらしく、声を上げて応援していたが、彼女のライブが終わるとさっさと引き揚げた。

 オリオンのキャンペーンガールと踊りながら歌った。
通常のライブでは見たことがないのは、出てくるミュージシャンがみんな、歌う合間にオリオンビールを片手に飲むことだ。普通はありえなーい。でもここはオリオンだから。PRを兼ねているのだろう。

 ヤマトンチュなのに、やっぱりなぜか沖縄を拠点にするイクマあきらを聞いた後、お待ちかねの「パーシャクラブ」である。

 彼らは、ジャンル的には、島唄ポップスという感じだろうか。033 かつては大人気があり、ヒット曲を連発した。でも最近は、あまり「パーシャ」のライブはなく、ボーカルの新良幸人(アラユキト)はソロ活動が目立つ。
ライブは、「海の彼方」から始まりヒット曲を続けて演奏した。

036 のってくると、おじさんも踊りだす。
綱挽きに参加した人たちが続々と詰めかけてくる。綱挽きの終わったあとは、綱を切り取り持ち帰ると縁起がよいそうで、みんな綱をもってライブに駆けつけている。アメリカーも、綱を持ってきた。もうビールとライブに酔って踊りだす。

025  「ファムレウタ」(子守唄)「満天の星」さらに「五穀豊穣」などで盛り上げた。歌詞は、民謡の現代版のような内容だ。
 「♪五穀豊穣サー天ぬ恵み ハリ今年 果報(カフ)しどぅスリ サー御祝さびら 嘉例(カリー)さびら」と歌う。
 五穀豊穣は天の恵み さあ豊年だ お祝いだ めでたいよ、というような意味だろう。
 028  オリジナルだけではなく、「かたみ節」「与那国のまやーぐゎー(猫)」など民謡をポップス的なアレンジにした曲も披露した。
パーシャクラブがオリオンのこの野外ステージに立つのは13年ぶりとか。聴衆もみんなヒット曲は知っているので、「パーシャクラブ最高!」の声が飛ぶ。新良幸人ものっている。

049_2  「立見禁止」の看板が出され、警備員も配置されているが、もう盛り上がれば関係ない。立って踊りだす。だれも止められない。最後のアンコールでは、東北大震災への思いを込めて、坂本九の「上を向いて歩こう」を歌い上げた。

071 072  最後は、恒例の花火である。デジカメではうまく撮れない。

 でもやっぱりビールは、オリオン最高!来年は誰のライブを楽しめるだろうか。

2011年10月 7日 (金)

戦禍をまぬがれた中城城跡

 戦禍をまぬがれた中城城跡

 中城(ナカグスク)城跡は、沖縄県内で300余りあるグスク(城)跡のなかで、もっとも遺構がよく残っているという。しかも、城跡の規模でも、石積みの城郭では、首里城に次ぐような大きさである。よく、沖縄戦で破壊されなかったものだ。048  どこのグスクも、大抵は軍事上の要衝として高地にある。このため沖縄戦でもやはり、首里城を始め軍事的に重要な位置とされ、日本軍が陣地を築いていたところが少なくない。
 でも、この中城城跡は事情が少し違うようだ。日本軍は、正門の近くで防空壕を造ろうと工事を始めたが、石垣の構造がとても堅固で作業が難航したため、諦めて撤退したという。砲台などの陣地も造られていなかったらしい。 

     038       写真は正門。ただし2010年6月に撮影したもの。
 沖縄戦では、米軍は読谷付近の海岸に上陸して北上と南下のルートに分かれた。南下する米軍に対して、日本軍は主に宜野湾、浦添、那覇市などの高地に陣地を造り抵抗したので、これらの地域が激戦地となった。
 中城城跡では、一の郭にかつて間切番所(今の町村役場にあたる)があり、戦前は中城村役場として使用していたのが沖縄戦で焼失した。けれども、城郭は戦禍をまぬがれたという。不幸中の幸いである。
 040       正殿跡。ここ一の郭に戦前は村役場があったが、焼失したとのことだ。

 ところで、この中城城は、築城の名手といわれた護佐丸(ゴサマル)の居城として有名だ。護佐丸は、今の恩納村山田に山田城を築き、その後、読谷村に座喜味城を築いた。さらに中城按司として中城城を築いたといわれる。だが、対立する勝連城の阿麻和利の攻略によって滅びた。

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 といっても、中城城は護佐丸が全部築城したのではない。もともとは、14世紀後半ごろまでに先中城按司(サチナカグスクアジ)が数世代にわたり、一の郭、二の郭、西の郭、南の郭など主な部分を築き上げた。15世紀になり、1440年に座喜味城から移ってきた護佐丸によって、北の郭、三の郭が増築され、現在のような形が完成したとのことだ。上の写真は、三の郭の石積みである。

 さて、中城城跡には、御嶽(ウタキ)など拝所がとても多い。8か所もあるという。

035  上の写真は「シライ冨ノ御イベ」という拝所である。それぞれの郭ごとに拝所がある。こうした御嶽(ウタキ)などは、いまでも住民が御願(ウガン)に来るという。グスクにある拝所は、いまでも地域住民にとっては大切な信仰の対象である。これは、中城グスクだけではなく、他のグスクでも同じである。044  031 こちらは、首里遥拝所。王府のある首里城に向かって遙拝する。ここの隣には、聖地とされる久高島への遙拝所もある。

 ただ、遙拝所は見通しがあればよいだけなのに、石造りの拝所があるのはなんだろうか。首里遙拝所の説明板には「御當蔵火神」(ウトゥクラヒヌカン)とある。石造りの拝所はどうやら「火ヌ神」を祀っているようだ。

 042 雨乞イノ御嶽(アマゴイノウタキ)があった。訪ねたこの日は、城跡を回っている最中に、折しも大雨が降ってきた。「だれか雨乞いをした人がいるんじゃないか」と冗談を言いながら見た。島国の沖縄にとっては、雨と水は人間が生きる上で、農作物をつくる上でも、絶対に欠かせないものだった。だから雨乞いは、とても重要な儀式だったのだろう。

027_2  城内には2か所の井戸があった。この大井戸(ウフグヮー)は、この階段を下りた低い位置にある。グスク自体が、標高約160㍍という高地にあるのに、よく湧水があるものだと感心する。頂上からいえば少し下がっているので、高いところに降った雨が、ここで湧水となって出てくるのだろう。
 もう一つ夫婦井戸(ミートゥガー)という井戸もあり、城内に2つの井戸を確保していた。戦のことを考えれば、城内での水源の確保は必須の要件だったのだろう。

 護佐丸の墓が近くにあるのに、見逃してしまった。次に来る時はしっかりと見ておきたい。

2011年10月 5日 (水)

中城城跡を描いたハイネの絵

 友人を案内して久しぶりに中城城跡に行った。案内のリーフレットに、1853年に琉球に来たぺりーの日本遠征艦隊に随行したハイネがスケッチした絵が載せられていた。055  有名な絵だから前にも見ているが、いま折しもぺりーの『琉球訪問記』を読んだところだったので、注目したわけである。

045  ハイネがスケッチしたという地点に説明板があった。探検隊の一行の主要メンバーと測量の様子を描いたという。
 リーフレットには「ぺりーも賞讃」の見出しがあり、ペリーが城跡に来たようにとられるが、ぺりー自身は来ていないようだ。ぺりー提督から「島の内部と東海岸を探検して来るようにとの命令を受けて出発した」と記されている。4人の士官、4人の船員、中国人苦力4人の計12人からなる陸地探検隊だった。

 Img082             「琉球訪問記」から。中城城跡の遠望

  一行は、那覇から首里へ出て東海岸を眺める地点から北上し、中城城跡を見て、さらにうるま市石川から金武に入り、漢那から西海岸の恩納村に出て、そこから南下して那覇まで帰った。これが一行のコースだ。

046  城跡に石積みの見事さ、とくにアーチ門の石造技術を高く評価している。
「要塞の資材は、石灰岩であり、その石造建築は、賞讃すべきものであった。石は⋯⋯非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされているので、漆喰もセメントも何も用いていないが、この工事の耐久性を損なうようにも思わなかった」と記している(リーフレットから)。

 大正時代に初版が出た神田精輝氏の訳本では「機械もセメントもないのに」と訳していて、漆喰が機械にされている。原文は見ていないので、どちらが正確か分からないが、リーフから紹介した。

023  石造りのアーチ門について、図解までして讃美している。
 測量したということだが、本にはその結果が記されている。
 例えば、城の外側を歩測したとして、長さ335歩、幅70歩という。城壁の頂の高さ12フィート(30.5㍍)、外城壁最高所の高さ66フィート(20.1㍍)、外城壁の傾斜角度60度などである。

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 スケッチしたハイネとは、ドイツ人のウィリアム・ハイネ(1825-1885年)である。ドレスデンで生れたが、1849年にこの地で革命の蜂起があり、それに関わったそうで、アメリカに亡命したという。速筆でスケッチを描く技術に定評があったとか。

 ぺりーの日本遠征艦隊に随行した。琉球でも各地でスケッチした。そのおかげで、王国時代の琉球の風景や当時の琉球人の姿、様子まで、活写されていて、貴重な絵である。

Img083 034  二の郭の城壁は見事な曲線をえがいている。ここからは、西海岸が一望にできる絶景だが、この日は雨で残念だった。

033  知念半島の方面を望むが、天候が悪くてよく見えない。天気が良い時の展望の写真をついでに載せておく。2010年6月の撮影である。

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036  最頂部の一の郭の本殿跡は、発掘調査なんだろうか、前に来た時も工事していたが、まだ全面的にブルーシートが敷かれていた。何年掛りかで調査しているのだろうか。
 まだ、御嶽(ウタキ)などアップしたいが、長いので次にしましょうね。

2011年10月 3日 (月)

旗頭のガーエーを楽しむ

 私の住む地域の祭りである真和志(マワシ)祭りが、台風の影響で延期されていたけれど、やっと10月2日に開かれた。祭りの詳しい内容は、例年と同じなので省略する。祭りの最後に、旗頭のガーエー(競演)があった。

111002_195201_2  ガーエーは、お互いに旗頭を舞わせて、気勢を上げ、競いあう。勝敗はつかないけれど、旗頭勝負のような演舞である。
 といっても、頂点に戴く灯籠にはそれぞれ工夫をこらしてあり、重量は全体に50.60㌔もあるという。これを一人で持ち、打ち鳴らす鉦の音に合わせて舞わせながら、持ち手を交代する。若者にとっても、なかなか大変である。風もあるので、バランスが崩れかかると、サスマタで竿を支えて持ち直す。互いに競って舞うのは、見物である。
 地域の人たちもみんな、旗頭の回りに人垣をつくって、「さーさー、さーさー」と掛け声をかけ、応援する。

111002_194901 真和志の4つの地区の青年会が集まった。「山紫水明」の旗字が見えるのは、上間青年会。灯籠はサクラである。この旗頭は、もっぱら各地の祭りに出向いて披露する目的の凱旗(ガイカ)だという。地元の自治会行事では「太平」「豊年」を村旗として使っているそうだ。旗字にも、いろいろあり使い分けているとは初めて聞いた。

111002_195203 「慶祥」(ケイショウ)の旗字は、識名(シキナ)青年会。旗字は「めでたい」という意味を込めている。旗頭には、槍を3つ組みあわせたデザインの三本槍が使われている。これは、古くから伝わる村の守り神の象徴だという。これとは別に、伝統行事の綱引きには「東太鼓、西桜」という伝統的な旗頭があるという。

 「大道無門」とあるのは大道(ダイドウ)青年会。まだ発足して5年目という新しい青年会である。全島旗頭フェスティバルへの出場を目標にしているとか。月に1度は地域清掃も行っているというから、立派である。

111002_194901_2 「五恩」の旗字は、繁多川(ハンタガワ)青年会。一番奥に見えているのが、繁多川旗頭である。灯籠は、地域の5つのウカー(井戸)をシンボルとしている。旗字の「五恩」とは、常に感謝の気持ちを持って行動し、人とのつながりを広げ、発展していくことを願うという意味が込められているそうだ。
 「五恩節」という地元を歌った曲もあるという。青年会エイサーが戦後長らく途絶えていたが、近年再興し、この曲も使った独創的な演目もあるそうだ。

 旗頭のガーエーは、やはり祭りのクライマックスにふさわしい勇壮な演舞である。

 

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