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2011年10月 7日 (金)

戦禍をまぬがれた中城城跡

 戦禍をまぬがれた中城城跡

 中城(ナカグスク)城跡は、沖縄県内で300余りあるグスク(城)跡のなかで、もっとも遺構がよく残っているという。しかも、城跡の規模でも、石積みの城郭では、首里城に次ぐような大きさである。よく、沖縄戦で破壊されなかったものだ。048  どこのグスクも、大抵は軍事上の要衝として高地にある。このため沖縄戦でもやはり、首里城を始め軍事的に重要な位置とされ、日本軍が陣地を築いていたところが少なくない。
 でも、この中城城跡は事情が少し違うようだ。日本軍は、正門の近くで防空壕を造ろうと工事を始めたが、石垣の構造がとても堅固で作業が難航したため、諦めて撤退したという。砲台などの陣地も造られていなかったらしい。 

     038       写真は正門。ただし2010年6月に撮影したもの。
 沖縄戦では、米軍は読谷付近の海岸に上陸して北上と南下のルートに分かれた。南下する米軍に対して、日本軍は主に宜野湾、浦添、那覇市などの高地に陣地を造り抵抗したので、これらの地域が激戦地となった。
 中城城跡では、一の郭にかつて間切番所(今の町村役場にあたる)があり、戦前は中城村役場として使用していたのが沖縄戦で焼失した。けれども、城郭は戦禍をまぬがれたという。不幸中の幸いである。
 040       正殿跡。ここ一の郭に戦前は村役場があったが、焼失したとのことだ。

 ところで、この中城城は、築城の名手といわれた護佐丸(ゴサマル)の居城として有名だ。護佐丸は、今の恩納村山田に山田城を築き、その後、読谷村に座喜味城を築いた。さらに中城按司として中城城を築いたといわれる。だが、対立する勝連城の阿麻和利の攻略によって滅びた。

 022
 といっても、中城城は護佐丸が全部築城したのではない。もともとは、14世紀後半ごろまでに先中城按司(サチナカグスクアジ)が数世代にわたり、一の郭、二の郭、西の郭、南の郭など主な部分を築き上げた。15世紀になり、1440年に座喜味城から移ってきた護佐丸によって、北の郭、三の郭が増築され、現在のような形が完成したとのことだ。上の写真は、三の郭の石積みである。

 さて、中城城跡には、御嶽(ウタキ)など拝所がとても多い。8か所もあるという。

035  上の写真は「シライ冨ノ御イベ」という拝所である。それぞれの郭ごとに拝所がある。こうした御嶽(ウタキ)などは、いまでも住民が御願(ウガン)に来るという。グスクにある拝所は、いまでも地域住民にとっては大切な信仰の対象である。これは、中城グスクだけではなく、他のグスクでも同じである。044  031 こちらは、首里遥拝所。王府のある首里城に向かって遙拝する。ここの隣には、聖地とされる久高島への遙拝所もある。

 ただ、遙拝所は見通しがあればよいだけなのに、石造りの拝所があるのはなんだろうか。首里遙拝所の説明板には「御當蔵火神」(ウトゥクラヒヌカン)とある。石造りの拝所はどうやら「火ヌ神」を祀っているようだ。

 042 雨乞イノ御嶽(アマゴイノウタキ)があった。訪ねたこの日は、城跡を回っている最中に、折しも大雨が降ってきた。「だれか雨乞いをした人がいるんじゃないか」と冗談を言いながら見た。島国の沖縄にとっては、雨と水は人間が生きる上で、農作物をつくる上でも、絶対に欠かせないものだった。だから雨乞いは、とても重要な儀式だったのだろう。

027_2  城内には2か所の井戸があった。この大井戸(ウフグヮー)は、この階段を下りた低い位置にある。グスク自体が、標高約160㍍という高地にあるのに、よく湧水があるものだと感心する。頂上からいえば少し下がっているので、高いところに降った雨が、ここで湧水となって出てくるのだろう。
 もう一つ夫婦井戸(ミートゥガー)という井戸もあり、城内に2つの井戸を確保していた。戦のことを考えれば、城内での水源の確保は必須の要件だったのだろう。

 護佐丸の墓が近くにあるのに、見逃してしまった。次に来る時はしっかりと見ておきたい。

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コメント

正殿跡には番所があったんですか。あんな高いところにあったら、役人が通うのも一苦労ですね。普通、番所って間切の端とか、真ん中にありませんか?なぜあんなに高いところにつくったんでしょうね。中城城跡は王府時代も間切の中心に位置したんでしょうか。
 首里遙拝所に御當蔵火ヌ神とある、當蔵って、首里の当蔵のことではないですよね。でも三山が統一されて、按司は首里に集められたのに、なぜ首里遙拝所があるんでしょうか。三山時代は首里を遙拝する必要はなかったわけですし、統一されたあとは中山方面に向けて首里城や首里から遙拝するのが普通だと思うんですけど。よくわかりません。
 久高は琉球の島立ての島だから遙拝所があるのは理解できます。
 御嶽も多いですね。イベ名まで説明板に書いてあるのは親切です。イベは神が降臨する目標体ですからね。石垣のオンにもイベ(イビ)がありましたが御嶽の名前しか記しておらず、イベ名までは描いてなかったです。
 護佐丸の墓は今度コスタビスタランチとか沖縄そば食べにでも行く時、寄りましょうね。

 番所がなぜ城跡にあったのか知りませんが、中城グスクという権威があり由緒がある場所だから、番所を置くのにいいと思ったのでしょうか。中城あたりは、集落が海岸沿いにもあれば、高地にも広がっているので、不便な場所ではないでしょう。
 首里遙拝所の火ヌ神は確かに首里の当蔵を意味しているかもしれません。首里を遙拝するのは、護佐丸のいた当時は、琉球は統一されてもまだ按司が地方に割拠していて、首里に集められる前です。だから国王に忠誠をつくす按司は、地方から首里に向かい遙拝するのも当然ではないでしょうか。那覇の辻や小禄にも、首里に向かって遙拝する場所がありますね。

その説明はよくわかりません。国王がいるということは国が統一されていて、「群雄割拠している時代」ではないのではないでしょうか?ということは、群雄割拠している時代はまだ統一されていないわけだから当然首里に国王はいないし、遙拝する必要はなかったんじゃないですか。歴史に詳しくないのでよくわかりませんが。

三度コメント。自分で考えていてそうか、とわかった。第一尚氏時代、尚巴志統一のときは、まだ、群雄割拠している時代だったのよね。各地の豪族はまだ首里に集められていなかった。第二尚氏だもんね。金丸以降だもんね、刀狩りされたのは。わかったわかった。だから中山城に首里遙拝所があるのか。納得。

 いくぼーさん。自問自答で理解されたようでよかったですね。まあ誤解される方もいるから、群雄割拠というのはあまり適当ではないかも。
 琉球の三山時代が終わり、尚巴志が統一したあとは、まだ有力な按司が王府に服属していたけrど、武装したまま地方に残っていた。だから、中城城には護佐丸、勝連城には阿麻和利が大きな勢力を持っていたわけですね。だから統一国家になっても、まだ中央集権制には程遠く、支配も安定したものではなかった。その後、護佐丸も阿麻和利もいなくなり、金丸がクーデターを起こした。第二尚氏の王朝が始まり、第3代目の尚真王の時代に、中央集権制を確立し、按司を首里に集め、按司たちの武装も解除して、武器は国家が管理したので、その後、王国は安定したんですね。

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