「自由ならん」とよく歌われるのはなぜ?
沖縄民謡を歌い出して、すぐに「おや?」と思った表現がある。「自由ならん」という言葉である。大和の民謡はもちろんのこと、歌謡曲や演歌でもあまりお目にかからないセリフだ。これはとくにウチナーグチ(沖縄語)というわけではない。大和言葉の沖縄的な使い方というのだろう。「自由ならん」とは「思い通りにならない」というような意味で使われることが多い。
この言葉が登場するのは、民謡でも恋歌、それも結ばれない悲恋の歌が多いように思う。すこし例を上げよう。
琉球の女性二大歌人といわれる吉屋チルーの悲運を歌った「吉屋物語」がある。チルーが物心つかない少女の時、家庭の貧困のため那覇の仲島遊郭に売られていった。
仲島では、琉歌で見染めた彼氏と愛し合いながらも結ばれない。そのことを、次のように歌う。 吉屋チルーの歌碑
「♪琉歌にちながりて 見染みたる里と 想い自由ならん 此の世しでて」
(琉歌を通して見染めた彼と、愛し合っているのに思い通りにはならない、この世では)
悲恋の歌だけではない。好きな人と思い通りに逢えない、ことを表現するときにもよく使われる。次に「白雲節」を紹介する。
私の愛する彼女は、白雲のように見えるあの島にいる。鳥のように羽があり自由に飛べれば毎夜訪ねて語り合いたいという流れの歌詞だ。
「♪我がや思(ウ)み尽す だきに思ゆしが 渡海(トケ)ゆ隔(ヒ)ぢゃみりば 自由ねならん」(私は思い尽くすほど恋しく思っているが、海を隔てて離れているので思うようならない)
ああこんなに思い焦がれているのに、彼女は白雲のように見える海を隔てたあの島にいる。だから、自由に逢うこともできない。そんな恋しさと悔しさが入り混じった感情が伝わってくる。
「情の唄」という曲では、なんと3回も「自由ならん」が使われる。よほどの悔しさだろうか。この曲は、思い合い、離れられない仲だったのに、彼氏が義理に縛られて、彼女と結ばれない。「私の思いをアダにするのか」と彼に迫る。彼は「義理に縛られる二人は思い通りにはならない。あれも、これも捨てられない。どうにもならない2人だ」と答える。男女の掛け合いの唄である。
「♪思いあだなする 我んやまたあらん 義理に繋がりる 無蔵(ンゾ)と我んや 思いるまま 自由ならん」
(貴女の思いをアダにする私ではない 義理に縛られ私と彼女は 思い通りに自由にはなれない)
このように「思いるまま 自由ならん」が合計3回繰り返される。この場合は、愛し合っている二人だが、世間の義理にしばられて彼女と思い通りにならない不条理を歌っている。
同じような男女の関係を歌った掛け合いの曲に「デンスナー節」がある。遊女らしい女性と遊ぶ男性が、彼女に「夫はいないのか」と問うと、女性は「夫がいればなぜあなたに情けをかけようか、私を思って下さい」と迫る。だが男はこう歌う。
「♪結ばていすしが 島居とてぃ我身や 待ちかにてぃ居てぃる 自由やならん」
(結ばれたいのはやまやまだが、郷里には待ちかねている人がいる、自由にならない)
これも家に縛られる男がなかなか踏みきれない心情を歌う。
女性は恋に燃えれば身を投げ出しても愛するが、男は義理や家、仕事などから恋する気持ちはあるけれど、しがらみを抜け出せない。こんな構図の民謡はとても多い。男の身勝手もあれば、義理と恋の板挟みになるジレンマもあるだろう。
「いちゅびー小(グヮ)節」では次のように歌う。「いちゅびー」とは野イチゴのこと。
「♪通るがな通てぃ 自由ならんありば 神仏ていしん 当てやならん」
(彼女を思って通い続けても、思い通りにならないのなら、神や仏といってもあてにならない)
こちらは、女性に恋い焦がれても思い通りにならない男性の心情が謡われる。 三日月はあまり民謡に登場しない。飾りの写真。
直接には恋歌の形はとっていないが、恋歌に使われる琉歌がある。「白鳥小(シルトゥグヮー)」という曲で使われる。
「♪千里(シンリ)陸道や 思れ自由なゆい 一里船道や 自由んならん」
(千里離れていても陸上の道なら、行こうと思えば自由に行ける でも海で離れていれば一里の船道でも自由にはならない)
この琉歌は「無情の月」という曲でも、そのまま使われている。琉歌をいくつもの歌にのせて歌うのは、沖縄民謡ではフツーのことである。
現代で考えれば、離島にいて海を隔てていても、船や飛行機で行こうと思えば行ける。でも交通が不便な昔は、海を隔てた離島にいれば、逢うことはとても難しかったのだろう。
「自由ならん」という語感は、自由に生きたい、自由に恋愛したいという気持ちの裏返しである。さまざまな事情で「自由」が阻止されることへの、悔しさ、情けなさ、憤り、切なさが込められている。ただの、悲しさだけではない。
これが大和の演歌だと、愛しあう二人が思いを遂げられない、悲恋の場合、辛さや悲しみが前面に出て「これも宿命か」となる場合が多いように思う。
でも沖縄民謡で「自由ならん」と歌うのは、自由に恋愛したいという激しい思いが前提になっている。この「自由ならん」という一言にも、南の島に生きる人々の恋への情熱の激しさが表現されているように私は思う。
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コメント
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こう読んで来ると、民謡の世界って大和の演歌と似てますね。でも「自由ならん」はやはり、本来は自分の思うままに恋愛できるものがさまざまなしがらみや障害によって阻止されることへの怒りというか、ワジワジー感でしょうね。
カラオケ教室で1年間演歌を教わってきましたが、歌詞の勉強をするんですよ。「許されざる仲」の男女の思いを歌う曲が圧倒的に多い。で、それに対して女も男も「耐える」んですね。「それが宿命(さだめ)」という歌詞は多かったです。そういう曲ばっかり歌っていると、「もっと健全な感情の発露を歌わないのか」とイライラしました。
先生は「演歌は人生」と喜んで教えてましたけど、Kさんは「先生、もっと前向きな曲教えて下さい」って言って、先生は「こういう考え方の女性もいるのんですよ。何が不満なんですか」ととりあわなかったので、Kさんは教室をやめちゃった。
あい!「自由ならん」から離れてしまったねえ!
投稿: いくぼー | 2011年11月 2日 (水) 18時12分
カラオケ教室で歌う大和の演歌は、悲恋などもやはり「宿命」として諦め、受け入れる歌詞が多いようですね。沖縄民謡とは明らかに、恋愛にたいする感情表現に違いがあるうんですね。「自由ならん」という表現は、思うようにならないことへのストレートな感情の発露なんでしょう。沖縄民謡はまた、ウチナーンチュの人生が映し出されてますね。今日もラジオの「民謡で今日拝がなびら」という番組を聞いていても「自由ならん」と歌ってました。知らない曲でしたが。
投稿: レキオアキアキ | 2011年11月 2日 (水) 18時21分