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2011年12月

2011年12月30日 (金)

元日は「ムーチー」(餅)の日

 こんどの正月、元日は「ウチナー暦」、つまり旧暦では12月8日である。ちなみに、沖縄のラジオは「今日は○月○日です」と言033った後、必ず「ウチナー暦では○月○日です」と旧暦の月日を付け加える。
 旧暦12月8日には「ムーチー」を食べ、厄払いと健康を願う日である。「ムーチー」といっても、大和の正月の餅のように、もち米を蒸して臼でついたものではない。もち粉に、黒糖、紅芋の粉、カボチャの粉末などを混ぜて、こねたものを、サンニンガーサ(月桃の葉)でくるみ、蒸したものである。

 カーサで包むのは、魔除けの効果があるといわれるから。食べることで、厄払い、魔除けになるといわれる。
024  家の天井や門に、ムーチーを吊るしておくと、魔除けになる。

 昨年は、わが家でもムーチーを作ってみた。もち粉に紅イモの粉や砂糖と水を入れてこねるが、これがとてつもなく力作業だ。1時間も手でこねなくてはいけない。こねないと固くなる。根気よくこねていると柔らかくなってくる。昨年作ったさい、随分こねたのでもういいだろうか、と隣のおばあに見てもらったら「まだまだ、もっともっとこねないとダメよ」と言われた。もう一度こねてから見てもらったが「まだまだ」とダメ押しされ、くたびれはてた記憶がある。

 今年はもう自家製は諦めて、スーパーで買ってきて、ムーチーの日の前にもう食べた。柔らかかったので、販売しているものはそうとうこねているはず。

 というわけで、根気のないわが家は、もう撤退したが、ウチナーンチュはみんな家で作る。それも家族が多いから、たくさん、たくさん作る。スーパーにいくと、正月用品とともに、ムーチーをつくるもち粉、それに混ぜる紅イモなどの粉、砂糖、月桃の葉といった材料、できた餅をしばるヒモまで売り場の一角にずらっと並んでいる。

 問題は、沖縄では正月の料理を作るのも大仕事なのに、ムーチーまで作るとなると、半端じゃない超大仕事になるだろう。

 先日乗ったタクシー運転手に尋ねてみると、「正月料理といっしょに作るのは大変だから、ムーチーは早くから作っておくのじゃないかね」と話していた。なるほど。そういう手があるのか。民謡三線サークルで会ったおばあにも尋ねてみた。すると「うちは正月料理もムーチーもいっしょに作るよ」というではないか。さらに付け加えて「それにうちは子どもが生れたから(多分孫だろう)、ハチムーチーだからたくさん作るのよ。大変だけどね」と言う。なんとなんと。
 ハチムーチーとは、その年に子どもが生れて初めて、ムーチーを迎える家は、親戚や知り合いに内祝いとしてムーチーを配る習慣がある。周りのたくさんの人たちの思いで子どもを守ってほしい、健やかに育ってほしいという願いを込めた行事である。

 正月準備で忙しいからと、ムーチーの手を抜くわけにはいかない。それがウチナーンチュの心であるだろう。043

 ちなみに大晦日は「トゥシヌユールー」(年の夜)といって、正月準備を行ってから、仏壇、ヒヌカン(火の神)に今年一年の感謝をする。そして豚肉料理を食べるのが習慣だったとのこと。年越しそばなんて大和風俗だから昔はなかった。いまでは、だんだん年越しそばも広がり、そば麺を作る店やそば屋は忙しいようだ。ただ、そばといっても、沖縄では、なんといってもそば粉の入っていない沖縄そばである。大和風の蕎麦屋なんてほとんどない。やっぱりウチナー風である。

2011年12月28日 (水)

卑劣な環境評価書の未明持ち込み

米軍普天間基地の辺野古移設に向けた環境影響評価書(アセスメント)を防衛省は28日、午前4時頃に、抗議を押し切り無理やり、沖縄県庁に持ち込んだ。県民がこぞって提出に反対しているのに、県民無視の暴挙である。

017       写真はすべて沖縄のrbc,otbのテレビの画面から紹介する。

 020  評価書は、当初26日の月曜日に提出をもくろんでいたが、これに反対する県民、市民団体、県議らの抗議行動で、沖縄防衛局は自分で持ち込みできず、民間の運送業者に委託するという姑息な手段をとった。これそのものが、防衛省の大義のなさを証明するものだ。

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         未明の持ち込みには真部沖縄防衛局長の姿もあったという。 

27日に運送業者が搬入しようとしたが、業者は運んだ文書の内容が評価書であることも知らされていなかった。沖縄県民を相互に対立させる卑怯な手法だった。
 しかし、反対行動の説得で業者は持ち帰り、評価書の搬入は2日間にわたりできなかった。それを、沖縄防衛局はこともあろうに午前4時という、まだ夜も明けない暗闇の中を、職員が段ボール16箱の評価書を県庁の守衛室に強引に持ち込んだ。まるで、盗人が夜陰に紛れて家に侵入するような行動である。

   012_2

 政府・防衛省は口を開けば、「県民に理解をえるよう努力する」というが、理解をえるどころか、卑劣きわまるやり方である。「法令にもとづいて」とかいうけれど、辺野古移設そのものが県民の同意もない違法、無法なことだ。勝手な評価書の持ち込みは、無法者、ならず者のやり方といいたい。県民全体への挑戦である。

 011          評価書持ち込みを批判する稲嶺名護市長

 県に提出する評価書は、20部必要だが、部数が足りないという。守衛室に持ち込んだといっても、県が受理したわけではない。県議会の高島善伸議長と各派代表者は27日、政府の評価書提出の強行に、怒りを持って抗議し、改めて普天間飛行場の県内移設を断念し、国外・県外に移設するように求める抗議声明を発表した。これは、文字通り県民の総意である。仲井真知事は、評価書を受理せずに突き返すべきだ。

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 それにしても、県民の怒りと抗議の前に、県民をないがしろにする卑劣なことまでして、年内提出にこだわる政府の態度は、アメリカへのパフォーマンスでることは間違いない。まるで走り使いのような日本政府の姿は、もう情けないとしかいいようがない。
 アメリカ国内でも辺野古移設は不可能というのが共通認識になってきている。県内移設はきっぱりと断念すべきである。来年は辰年だ。これ以上、沖縄県民を踏みにじるようなことを続ければ、県民の怒りは龍が天に昇るように、さらに燃え上がるだろう。

 

2011年12月27日 (火)

首里城に美御水を奉納

 新年を迎えるに当たり、首里城に「美御水(ヌービー)」を奉納する伝統行事が今年も25日に行われた。このブログでも、前にも一度書いたことがある。首里城への奉納祭は、首里当蔵(トウノクラ)自治会が主催して、毎年この行事を再現している。

 奉納する「美御水」は、国頭村辺戸区(クニガミソンヘドク)の大川と浦添市沢岻(タクシ)の樋川(ヒージャー)で取水した若水である。昨年までは、この行事とあまり縁がなかったが、今年は沢岻樋川を見てきたので、テレビの報道で見て、とてもこの伝統行事を身近に感じた。

047  テレビで見ると、この樋川でノロ(祝女)姿の女性たちが若水を汲んでいた。
 なぜ、沢岻樋川で若水を汲むのか? それは、 沢岻樋川は1000年余りの歴史がある。琉球王朝の頃、風水の方位がよく、水質も良い泉であることから、正月には国王の長寿・繁栄を願い、若水を献上したからだ。

 前にも紹介したが、樋川の前に立派な歌碑がある。

「沢岻樋川やかりーな泉 首里御城に若水ゆうさぎてぃ 千年万代栄えうにげ」
 「かりー」はめでたい、縁起が良いという意味である。だから正月には、めでたいこの泉で汲んだ若水を首里城に献上して、国王の長寿・繁栄を願うというような歌意である。

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 再現の行事では、王府の役人や祝女(ノロ)の衣装に身を包んだ約40人の一行が、辺戸大川と沢岻樋川で汲んだ水を持って練り歩いた。行事の写真は、現場に行けなかったのですべて「琉球新報」の動画から紹介する。

そして、首里城の北側にある円覚寺総門前で、二種類の若水を混ぜ合わせた。

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 その後、首里城に登り、正殿裏の御内原(オウチバラ)で女官の阿母志良礼(アムシラレ)に水を献上した。

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 沖縄では、首里城だけではなく、正月には若水を汲むことから始まる。昔は、家の男の子が元旦早朝に近くの井戸や泉に水を汲みに行った。そして、火の神や仏壇に捧げたそうだ。若水を飲むことによって若返ると考えられたからである。

2011年12月22日 (木)

茨城・麻生高校の修学旅行生の災難

 那覇空港で航空自衛隊那覇基地のF15戦闘機が離陸中止のさい滑走路を逸脱し、空港が1時間半も閉鎖された問題で、茨城の麻生高校の修学旅行生が那覇空港に降りられないため、鹿児島空港に降り、さらに羽田を経由して8時間ほども遅れて到着したことを、ブログで紹介した。

 これに匿名さんからコメントがきた。驚いたことに、麻生高校生は、本来は9月に旅行の予定だったのが大型台風の襲来で延期し、3泊4日の予定を2泊3日に短縮して、12月にしたとのこと。せっかく延期してまで来たのに、この事故で本来午後1時に到着して、半日県内を回る予定だったのが、夜遅い到着でダメになってしまった。実質1泊2日のようになってしまったとのことだ。

 2泊3日になっても、延期された沖縄にようやく修学旅行で行けるとみんな楽しみにして旅客機に乗り込んだだろうに、一日目は完全に飛行機に閉じ込められて終わった。

 失われた時間は取り返しがつかないと書いたが、まさにそのとおりだ。一生に一度の修学旅行が、予定を大幅に狂わされ、見る予定にしていたか所にもいけなくなっただろう。生徒たちにもやり場のない落胆や憤懣が湧いたのではないだろうか。

 台風の襲来は、自然の現象で誰もあらかじめ予測はできない。しかし、那覇空港の事故は、本来防ぐことができる問題である。全国でも有数の離発着を誇る空港を無理やり自衛隊が使用するために引き起こした問題である。沖縄県民は、こんな危険と隣り合わせの軍民共用はやめるべきだと強く訴えてきた。21日の那覇市議会でも、自衛隊機事故の抜本的再発防止策と那覇空港の民間専用化を求める意見書を全会一致で可決したこともその表れである。

 大被害を受けた麻生高校生には、ぜひもう一度、ゆっくりと沖縄を訪れる機会があることを願っている。こんな高校生らの災難を再び繰り返すことがないように、政府は自衛隊の那覇空港使用をただちに中止することを強く求めたい。

2011年12月20日 (火)

那覇空港を自衛隊機が使う危険と被害

 那覇空港を緊急発進した航空自衛隊那覇基地のF15戦闘機が離陸を中止し滑走路を外れ緑地帯に停止したため、甚大な被害が出た。滑走路が約1時間半にわたり閉鎖されたため、離着陸を予定していた航空機は、大きな影響を受けた。
 空港閉鎖が1時間半といっても、利用者への被害はそんなものではない。この時間帯に着陸を予定していた民間旅客機は、急きょ米空軍嘉手納基地や鹿児島空港に着陸を余儀なくされた。閉鎖に伴う遅延、欠航、目的地変更で同空港を離発着するすくなくても62便、5903人以上が影響を受けたとみられる。

 テレビのニュースで見ただけでは、嘉手納に着陸したら、バスででも那覇に移動したのかな、と錯覚したが、違う。航空機は着陸しても乗客は機内に3時間半も閉じ込められたまま。きちんとした説明もない。基地内で燃料補給をしたが、その手続きに時間がかかり、その後、嘉手納から那覇空港に飛び、降りたのは午後6時だったとのこと。たぶん定刻より5時間以上遅れて那覇空港に降りたのだろう。考えただけでもうんざりである。

 もっとひどいのは、茨城県立麻生高校の修学旅行生たちだ。約200人にのぼる。午後1時那覇空港に到着の予定だった。それが降りられず、鹿児島空港に目的地を変更し、さらに羽田空港を経由して結局、那覇空港に到着したのは夜の8時40分過ぎだったという。以上は「琉球新報」12月20日付けより。

 なんと、せっかく沖縄に接近しながら、鹿児島に降り、羽田に舞い戻り、結局予定より8時間近くも、余分に機内で過ごしたことになる。いくら若くても疲労困憊だろう。なによりも、那覇に午後1時到着なら、この日に見学など予定していただろうに、貴重な修学旅行の半日分のスケジュールが吹きとんだことになる。

 一生に一度の修学旅行で、みんな沖縄を楽しみにしていだだろう。半日の予定が吹き飛べば、取り返しはつかない。
 修学旅行生だけでなく、乗客はみんないろんな予定があったことだろう。会議や催し、家族や親しい人との再会など、それぞれの予定がすべて狂わされたことになる。「事故で遅れました」だけではすまない。

 F15が離陸中止で滑走路から逸脱したことについて、航空自衛隊那覇基地は「パイロットのミス」と説明するだけだ。いったい、これだけの影響、被害を与えて、「事故だからごめんなさい」だけですませることではない。乗客の疲労と心身への影響、経済的な損失もあるし、時間の損失は取り返しがつかない。いったいどう責任をとるつもりだろうか。

 那覇基地では、ことし7月にF15が東シナ海上で墜落したばかりだ。F15の事故は全国で続発している。老朽化したF15は飛ばすなと言う声もある。それだけでは何も解決しない。那覇空港のように、乗降客で全国第5位という離発着がとても多い空港を、自衛隊の戦闘機など軍用機が併用して使用していることに最大の、かつ根本的な問題がある。

  日頃、わが家から、那覇空港を飛び立つ旅客機も戦闘機もよく見える。時には、軍用機と旅客機がニアミスするのではないかと、心配するような時もある。

 軍民併用を続ける限り、こういう事故と被害は必ず再発する。もっと危険な事態さえ予想される。 那覇空港は、民間専用の空港とすることが、事故と危険を防ぐなによりの方策である。

2011年12月19日 (月)

冬至前の夕陽

 ことしは、12月22日が冬至である。沖縄では雨続きとブログに書いたが、やっと18日の日曜から晴れ間が戻ってきた。夕方には、見事な夕陽が見えた。

001  ウチナーンチュ待望の晴れ間だから、ラジオで流れるリスナーの声も「やっとたまっていた洗濯ものを洗うことができた」「やっと晴れたので年末の掃除ができた」「晴れ間が続いてほしい」。そんな声があふれた。みんなの共通の思いだ。

005  わが家から眺める夕陽は、12月に入ると、沈む太陽が東へ東へ寄ってきて、とよみ大橋の橋げたを通りこして、はるかに東による。もうすぐ、最も東寄りに近づいている。

006  もう何回も夕陽の写真を撮り、アップしたが、真っ赤に燃える太陽が沈む姿を見ると、またもやデジカメで撮りたくなる。夕陽の美しさのなせることだ。

 011  雲を抜けていよいよ姿を地平というか、建物の影に沈める瞬間だ。

012_2  こういう夕陽が見える日がもっと続いてほしい。

003  太陽が沈んだあとは、宵の明星である。いま空気が澄んでいるから、なんとか金星の姿がカメラにも入った。

2011年12月17日 (土)

雨続き、日照不足で野菜ができない!

 沖縄県内は、11月末から雨や曇天の日が続き、もううんざりの声が広がっている。「洗濯物が乾かない」という悲鳴が聞こえる。沖縄はとくに、子沢山だから、どこの家庭も洗濯物が多い。だから、悲鳴は当然だ。わが家はなんとか洗濯は部屋干しで間に合わせている。
 沖縄の天候は、12月に入れば、例年冬型の気候で、晴れ間は少なく、曇りが多いのは普通である。でも今年は、異常だ。晴れ間が少なすぎる。

 12月に入って、晴れたのは4日、那覇マラソンの日くらい。あとは雨か曇天かだ。日照時間は、例年のわずか3割程度らしい。例年だと、週に1回くらいは晴れる。それがまるでない。17日も、少し青空が見えかかったが、すぐに曇った。

 影響は、農産物に出ている。とくに野菜の生育が悪いとか病害虫も発生したりで、野菜不足や高値になっている。ホウレンソウなどその典型らしい。

018    写真は、野菜が豊富だった頃の読谷村のJA直売所「ゆんた市場」である。

 毎週土曜、日曜日の朝、近くのJAで、野菜の直売所「ハルサー(畑をつくる人)市場」が開かれる。今朝も行ってみたが、ガラガラだ。キャベツ、大根、トマト、ピーマン、セロリはいつもより少ないがあることはある。

 でも、いつもだと、並んでいるホウレンソウやチンゲンサイ、サラダ菜など葉野菜は、まるっきり姿がない。ただし、陳列板に野菜がないが、なぜかハルサーのおばあ、おばさんたちは、それでもいつも通り来て、ゆんたく(おしゃべり)している。当然ながら客も少ない。

 これから年末年始に向かうのに、野菜が不足したままでは、みんな大変だ。消費者も困る。農家も困るだろう。来週の天気予報では、太陽が顔を出す日が少しありそうだが、どうなることか。「晴れてほしい」というのは、いまや県民みんなの思いになっている。

 

沖縄の湧水を歩く、その5

 沖縄の湧水を歩くは、最終回である。那覇市の小禄地区の続きで、具志の集落を歩いた。

012  立派な拝所「具志うたき」がある。井泉もいくつかあった。もう使われないのか、鍵がかけられていた。でも、いまでも人々は祈願にくるようで、井戸の横に拝所(下)があった。

007  最後に番外編として、正月に井泉で若水を汲む伝統がある。若水を飲めば若返ると言われた。年末に若水を汲み、首里王府に届ける行事は、いまも行われている。

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「その5」は、そんな内容である。

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2011年12月16日 (金)

沖縄の湧水を歩く、その4

 金武町の金武大川(キンウッカガー)は、沖縄でも有数の大きな井泉である。

020  「長命の泉」と呼ばれている。この井泉には、伝説がある。大和から流れ着いた日秀上人がこの地で布教活動をしたことから、生れた伝説である。

017  与那原町の親川、中城城址の井泉、恩納村や那覇市の小禄地区の井泉も紹介する。その4はそんな内容である。

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2011年12月15日 (木)

沖縄の湧水を歩く、その3

浦添市の由緒ある集落、仲間には、とても大きな井泉、「仲間樋川(ナカマフィージヤ)」がある。村カー(共同井戸)として、大切にされてきたところだ。訪ねた時は、子どもたちが楽しそうに水遊びをしていた。017  浦添は、沢岻(タクシ)樋川も由緒ある井泉である。風水、水質がよいので、正月には首里の国王の長寿と繁栄を願って、王府に正月の若水を献上したと伝えられる。
 宜野湾市の喜友名泉(チュンナーカー)は、なんと米軍基地の中にある。勝手に入れない。市役所でカギを開けてもらわなければいけない。井泉を訪ねても、基地問題にぶつかるのが、沖縄の現実である。

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  「沖縄の湧水を歩く、その3」はそんな内容である。

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2011年12月14日 (水)

沖縄の湧水を歩く、その2

 首里城の西側にあたる桃原(トウバル)、儀保(ギボ)付近にもたくさんの井泉がある。

279  この写真は、琉球最後の国王だった尚泰の四男、尚順の屋敷だった松山御殿の裏側にあり、いまも尚家の屋敷内になっている。見事な石積みである。どんな干ばつでも水が枯れなず、住民を助けたという。金網で仕切られた屋敷内にあるが、井戸は拝所になっているので、「井戸拝み(カーオガミ)」の人は、自由に入れる。
 その2では、この井泉を始め、この付近の井泉を紹介する。

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2011年12月13日 (火)

沖縄の湧水を歩く、その1

 沖縄にはたくさんの湧水がある。島に生きる人々にとって、湧水は命の源であった。集落のあるところには必ず、何か所か湧水がある。そんな井泉を沖縄では「カー(井)」と呼ぶ。
 井戸というと、大和では、縦穴を掘って汲み上げるイメージだが、まったく異なる。立派な石積みで整備され、貯水池があり、住民が共同で使用してきた。井泉の水は、生れた時から死ぬときまで、人々の暮らしに深くかかわり、祈願の対象にもなっている。

026_2 そんな沖縄の湧水を県内各地に訪ねた。すでにブログには、見たときに、アップしてあるが、かなり歩いたところが増えたので、まとめてみた。5回に分けてアップする。

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 第1回目は、首里金城町の石畳道の付近の井泉である。
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2011年12月12日 (月)

アルテにデビュー

 首里にあるアルテという店で、毎月1回、音楽をやっている人なら、だれでも小さなホールで演奏できる機会がある。「アルテミュージックファクトリー」という。ポルトガル語で「アルテとはアート」、「ファクトリーとはコンサート」という意味だそうだ。

025_2  歌三線でもギターでもヴァイオリンでも、演歌でも洋楽でも、どんなジャンルでもOK。ということで誘われて初めて出てみた。毎月テーマがあり、今回は「願」。ただし、午後6時半から7時までは無料。7時以降は500円を払う。ということで、人前で演奏してみたい人が気楽に出演できるというわけである。
 「願」にあう曲として「屋嘉節」を選んだ。金武町にあった捕虜収容所でつくられて民謡である。沖縄戦で愛する郷里が戦場になり、みんなが泣いている。涙を流しながら、恩納山にのぼってみんなとともに戦さをしのいだ。愛する彼女は石川村の茅葺の長屋にいる、私は屋嘉の浜で砂地を枕に寝ているというような歌詞である。
 最後に「♪戦さ世のあとの、焼け野原見れば またんねんごとにお願(うにげぇ)しゃびら」(戦争のあとの焼け野原を見れば、再び悲惨な戦争は起きないようにお願いします)と歌う。
  006_2  写真は、恥ずかしがり屋のため、目を隠しています。
 サークルの仲間とともに集団で人前の演奏は何回もやってきたが、一人で演奏するのは初めて。いざ演奏を始めると、三線は単純な曲なのに、手が動かないというか、勝手にミスばかりする。自分では落ち着いているつもりなのに、緊張しているのだろう。最後まで、上手く弾けないままだった。
 でも、歌の方は、それなりに声が出ていて、マイクを通して響き渡っていることが実感できた。歌詞の内容から、とても、悲惨な沖縄戦と捕虜の哀れな気持ちが共感できるので、歌っても思い入れが入った。

 008   わが連れ合いが通っているボイストレーニングのお仲間たち5人もそれぞれ、ピアノの火いろ先生、奥さんの藤沢さんのフルートの伴奏で歌った。みんな持ち味が出ていて、よかった。ツレはアルテは2回目で、今回は五輪真弓の「恋人よ」を歌い上げた。

 ファクトリーは、ズブの素人もいれば、ピアノ、ギターを教えている先生もいる。技量の差を超えて、みんな音楽が大好き人間が集っている。午後10時すぎまで演奏を披露し合った。前回は、何人か三線を弾く人がいたが、今回は伴奏を務めた人と私で2人だけだった。
 発表会のような「ファクトリー」だが、終了のあとは打ち上げ会が待っていた。

056  打ち上げといっても、みんな芸達者な人たちばかりなので、飲み食べながら、またそれぞれ好きな楽器で好きな曲を披露しあう。一次会で三線が上手く演奏できなかったので、挽回しようと、もう一度挑戦した。曲は「童神」。生れてくる子どもへの愛情を歌った曲だ。
 でもやっぱり手はあまり動かない。人前に出るとなぜこうも緊張するのだろう。車を運転しているから、酒を飲むわけにいかない。ノンアルコールビールを飲んだだけ。それでもまあ、なんとか歌い終えた。藤沢さんがフルートでフォローしてくれた。

036  すごいのは、火いろ先生やギターの先生たちが、楽譜集を見て歌いたい曲をリクエストすれば、演奏してくれること。ナマ演奏をバックに歌える。
 070  ナマ演奏をバックに一度は歌ってみたい。最後に「風雪流れ旅」を歌ってみた。火いろ先生のピアノ、藤沢さんのフルートだ。フルートは、演歌だからまるで尺八のように吹いてくれる。
 思いっきり歌おうとするが、なんと前奏から歌に入るところが、もうわからない。カラオケなら、字幕で歌い出しがわかるが、ナマではそんなことはできない。演奏はもう前に進んでいる。あわてて第2小節から歌い出す。2番に入るにも、同じだ。でも「アイヤー、アイヤー」と盛り上がるカ所に来ると、思いっきり歌えた。
 自分では分からなかったが、ツレによると「アイヤーのところでは、みんなが、アイヤー、アイヤーと歌っていたよ」とのこと。楽しい打ち上げ会は、これでお開きになった。

 演奏しあい、歌い合う。こんな楽しい場があることは、とってもうれしいことだ。よく東京なんかで、音楽家の卵、美術家の卵たちが集まってワイワイと楽しんでいた様子を聞くが、なんかそんな雰囲気だ。
 来年はもっと練習して、なんとか上手く演奏できるようにならなければ!。
  

2011年12月 8日 (木)

侮辱発言に抗議、女たちの集会に男も参加

 女性と沖縄県民を侮辱する田中前沖縄防衛局長の暴言を許さず、辺野古新基地建設の押しつけにノーを!と掲げた「女たちの抗議集会」に、連れ合いとともに、男であるワレも参加した。入り口で、「男でもいいですか?」と尋ねたら、「どうぞ、そうぞ」と歓迎された。男の姿もちらほら見える。

009  辺野古新基地を建設に向けた環境影響評価書の提出を性犯罪にたとえた驚くべき田中発言や1995年の米兵による少女暴行事件を「詳細には知らない」と言った一川防衛相への憤り、あくまで評価書の提出を公言する政府への強い怒りが、すべての女性たちの発言に満ち溢れていた。
 緊急の呼びかけにもかかわらず、続々と詰めかける人たち。急きょ、会場に設置されていた机とイスを詰めて、机一つにイス2つだったのをイス3つに増やして、大勢が座れるように対応した。予想をはるかに超える約300人が参加した。
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 集会は、県民と女性への侮辱発言に抗議し、「政府の真の謝罪として、辺野古新基地建設の撤回を求めます」という決議を採択した。そして、参加者は「レットカード」を高く掲げた。
 それにしても、長年にわたる米軍の横暴と日本政府の差別と抑圧に抗して頑張ってきた沖縄の女性たちは、みんなたくましい。沖縄の県民運動を支えている底力を女性パワーに見た思いがした。
 026  田中暴言や一川防衛相の無理解発言、それを擁護する野田政権が、あくまで辺野古新基地建設と評価書の提出に固執する姿を見ていると、これは高圧的のように見えるけれど、実際には県内移設反対という沖縄の県民のたたかいによって、日米政府が追い詰められていることを強く感じる。しかも、アメリカ国内でさえ、辺野古移設は不可能という認識が大きな流れになっている。日米政府は、国の内外で追い詰められている。
 辺野古移設の断念、普天間基地の早期閉鎖と撤去の県民ぐるみの声と運動を、さらに高めていく必要があることを痛感した「女たちの抗議集会」であった。

2011年12月 5日 (月)

12月にカンヒザクラ咲く

 いつも散歩する漫湖公園で、カンヒザクラが咲いているのを発見した。

003  通常は1月下旬から2月中旬くらいが花の時期だ。数十本の木の中で、咲いてるのは2,3本。1本の木で花は3輪くらいだけだから、まあ狂い咲きの感じだ。以前には10月に開花したこともある。

004  沖縄にはソメイヨシノはない。沖縄の005 サクラといえば、ピンク色のカンヒザクラ。冬に一度寒くならないと咲かない。だから、サクラ前線は、寒い北部、それも高い山の上からだんだん下方に降りてきて、順次中南部が咲くという具合だ。

 といっても、今年はまだ寒くならないままだ。なのになぜ開花したのか。だから狂い咲きというのだろう。

 公園のカンヒクラの並木は、まだまだ咲く気配はない。 ただ蕾は徐々にふくらみだしている。これから、1月にかけて本格的にふくらみを増していくだろう。
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 ついでに、公園にはコスモスが咲いていた。沖縄では、秋でも春でもコスモスは咲く。
 013  サクラとコスモスが同時に咲くのは、フツーの風景である。
 ハイビスカスも紹介しておきたい。公園ではこれまであまり見かけない種類のハイビスカスが植えられ、咲きだした。
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 公園で花のお世話をしているおばさんの話しによると、東村の人がいろんな種類のたくさんのハイビスカスの苗木を無料で分けてくれたそうだ。
 上左の花は、花びらが幾重にも出ていて、なんかバラやボタンのようだ。右の花も鮮やかなイエローだ。
 010_2  上のピンクの花もイエローのものとは花びらがまったく違う。見事な咲き方だ。 
 下の花は、花びらからもう一つ花びらが出ていて、二段重ねに咲いている。

011  まだまだ、いろんな種類があるが紹介しきれない。
 これを見ていると、ハイビスカスを「アカバナ」というのは誤解を招くだろう。ハイビスカスは種類が数千もあるとか聞いた。4月に伊江島のハイビスカス園に行ったことを思い出す。
 これからもっともっと成長して花を咲かしてくれるだろう。楽しみである。

2011年12月 4日 (日)

オオゴマダラの神秘的な黄金のサナギ

   ランチにいったロワジールホテルで、オオゴマダラを見た。何度見ても美しい蝶々だ。061  ふわりふわりと優雅に舞いながら、花に舞い降りる。優雅なその姿から「南国の貴婦人」の別名がある。でも、理由もなく優雅に飛んでいるわけではない。優雅にゆったりと飛ぶのは、実は蝶の体の中に毒があるからだという。なぜ毒があるのだろうか。

073  幼虫が食べる草に毒性があり、成長して蝶になっても、体の中に毒性が残るため、天敵の鳥などに脅かされることがない。そのため自由にゆっくりと飛んでいると考えられているという。これは、説明文に書いてある。

  055_3  オオゴマダラは、その優雅な舞と美しさだけではなく、神秘的なサナギの姿で知られる。サナギはなぜか黄金色に輝いている。今回は、とくにサナギをたくさん見ることができた。

069  サナギがこんな黄金色に輝くなんて、不思議、不思議。自然の神秘である。サナギは当然、羽化して蝶に変身していく。羽化は、夏場には1週間から10日、冬場には1~2か月かかる場合があるとのこと。黄金色が少し黒っぽい色が混ざるようになると、いよいよ羽化の前兆である。

066_4  これは少し黒っぽくなってきている。でも、この蝶々園は、たくさんの蝶とサナギがあるので、この園の中でその変化を同時に見ることができる。つまり、サナギから羽化して蝶々が誕生していた姿が見えているのだ。070_2  これは羽化した直後だろう。抜け殻があり、その横に蝶が止まっている。羽化は、黄金色が消えてくると、翌朝太陽が顔を出す前に羽化が始まり、蝶が誕生するけれど、サナギの体から出るのは、ほんの数分の出来事らしいので、その瞬間はなかなか見ることはできない。

 063  たくさん羽化したあとだろう、蝶が抜け殻とともに木の枝にぶら下がっていた。まだ飛べないのか、じっと動かない。
 那覇市内で、これだけオオゴマダラと黄金色のサナギがいつも見られるのは、ここぐらいではないだろうか。
 

 

2011年12月 2日 (金)

こんな防衛大臣は失格だ

 1995年の米兵による少女暴行事件を「正確な中身は詳細は知らない」。こう国会で発言した一川保夫防衛相には、あぜんとした。沖縄県民、国民に衝撃を与えた重大な事件を「詳細は知らない」と平然と国会で答弁するとは! これだけで防衛大臣失格である。

 田中沖縄防衛局長の県民と女性を侮辱する暴言が起きたばかりだ。防衛局長の任命責任も問われていた矢先だ。もともと一川氏は、大臣就任の時から「素人だからシビリアンコントロールになる」と言うほど、とても大臣にはふさわしくない人物であることを示していた。だから、米軍基地の重圧のもとにある沖縄県民の苦しみ、普天間基地の辺野古移設に反対する県民の心など、なにも分かっていないだろうと推測していた。
 今回の発言を見ると、まさにその通りだった。

 田中暴言問題があってからの政府・防衛相の対応はまるで誠意が感じられない。田中を更迭したのは、新基地建設のための環境影響評価書の提出の障害になるからトカゲのシッポ切りをしただけだ。その証拠に、野田首相が、発言には陳謝しながら、辺野古移設は進めると表明している。
 だから沖縄に謝罪にきた中江防衛事務次官は、謝罪をのべながら、移設に向けた評価書の提出を進めると、仲井真県知事を前に表明した。さすが、知事もわずか6分で席を立ち、不快感をあらわにした。田中発言は、評価書提出を女性へのレイプに例えた暴言であり、この暴言に謝罪するなら、評価書提出も断念するといわなければ謝罪にならないだろう。

 一川防衛相も2日あわてて来県したが、95年の事件も「詳細は知らない」とのべるような、防衛相が、よくノコノコと沖縄に来れるものだ。こんな大臣では、謝罪と言っても、なぜ、なにを謝罪するのか、その意味もよくわかっていないだろう。謝罪といっても、うわべの言葉だけであることは目に見えている。
 実際に県知事にあっても、謝罪といいながら「懸案事項には取り組みたい」といい、結局は辺野古移設とそれに向けた評価書提出を方針通り進めるという意思表示である。それに、少女暴行事件についても、「知ってはいたが国会の場だから言わなかった」というような趣旨の弁解をしただけ。これは県知事に対するウソと誤魔化しの発言である。知らないのが真実である。知っていたら、あんな答弁はするはずがないからだ。

 さらに許しがたいのは、一川氏が「今回の発言で大変大きなお荷物を背負うことになった」とのべたことだ。あたかも沖縄県民が無理難題を押し付けているかのようだ。それ以前に、この人物は日本語が分かっていない。大臣はおろか国会議員失格、政治家失格である。

 さすがに県知事は、「県民の尊厳を深く傷つけている。怒りを覚える」、少女事件は「全県民に衝撃を与えた。認識をきちっともていただきたい」と、抗議の意を込めた強い調子で対応し、すぐに退席した。知事の対応も、当然ながら日ごとに厳しさを増している。
 一川氏は、そのあと県議会代表とも会った。県議会は2日、田中暴言問題で抗議の決議を全会一致で可決したばかりだ。当初、自民党が決議に反対していたが、県民の怒りの前に、賛成に回り、県議会の意思として強く抗議した。とくに、一川防衛大臣の責任を明確にすることを要求した。また、謝罪というなら、評価書の提出をやめるべきだとも要求した。当然のことである。

 一川防衛相は即刻更迭すべきである。こんなに県民を侮辱し、傷つけながら、評価書を提出と辺野古移設はすすめるというなら、県民の怒りはいっそう爆発するだろう。

 いま問われているんのは、野田首相の責任である。県民に謝罪するという気持ちが本当にあるならば、アメリカの顔いろばかりうかがって、辺野古移設と評価書提出に固執する態度は根本から改めるべきである。
 

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