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2012年1月

2012年1月31日 (火)

尚泰久王の陵墓を訪ねる

 琉球を統一した尚巴志の王統の第6代尚泰久王の陵墓が南城市玉城(タマグスク)富里の南城市役所近くにある。第一尚氏の王統は、7代64年で終わった。020      写真は尚泰久王のお墓への入り口である。021

  このあたりは、車でよく走ったが、由緒ある尚泰久のお墓があるのを知ったのは最近のことだ。尚泰久は、1454年に即位したが、琉球王統の歴史のなかでも、有名な事件が起きた。
 当時はまだ、中城城主に護佐丸(ゴサマル)や勝連城主に阿麻和利(アマワリ)が割拠していた。護佐丸の娘が尚泰久の王妃になり、尚泰久の娘が阿麻和利の妃になるという姻戚関係で結ばれていた。
 阿麻和利が、護佐丸は王府への反逆を企んでいると告げ、王の命を受けて阿麻和利は護佐丸を討った。その阿麻和利はまた、王府への謀反を起こそうとしていると、妃が勝連城から逃れて国王に告げ、国王軍が阿麻和利を討った。
 護佐丸・阿麻和利の乱と呼ばれる。国王にも並ぶような勢力をもった2人の按司は、これで一挙に消えうせた。

 また、尚泰久は伊是名島出身で百姓上がりの金丸を家来とし、国王になると金丸は王の側近となった。尚泰久の死後、7代目の尚徳王になると、金丸はクーデターによって、第一尚氏の王統を倒し、尚円王として即位した。第二尚氏の始まりである。

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 というわけで、尚泰久は金丸を重用したことで、不本意にも第一尚氏の王統を滅ぼす要因をみずからつくった。金丸・尚円王は、本来は尚泰久にはとっても恩義があるはずだと思う。でも、尚泰久が死に、その子の代になると王統を倒したのだから、権力争いの世界は、冷徹なものである。
 尚泰久の陵墓は、うるま市石川の伊波按司とともに祀られていたが、安次嶺家が当山に移し管理しているという(「月代の神々」)。

 お墓の左側、写真では上が尚泰久、右側にある、写真では下が長男、安次富加那志之墓である。金丸に倒された第7代尚徳王はここには祀られていない。墓はなく、なんとわが家からも近い那覇市識名に、門中によって建立された「尚徳王陵墓跡」の石碑があるそうだ。

 024_2  025_2  023  墓の前に「屋良腹 初代先祖墓」という碑がある。「腹(ハラ)」とは、男系の血縁集団である門中(ムンチュウ)と同じだという。先祖の骨をいくつ納めているかが記されている。

 この陵墓は、大きな岩山の洞窟を利用した墓である。昔のお墓は、こういう岩山を利用したものが多い。

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 この陵墓の裏には、屋良門中之墓がある。こちらは、いま現役の屋良門中の共同のお墓のようである。立派なお墓だ。029

 お墓の前には、何の木だろうか、樹木の幹も枝も上には伸びず、真横に大きく伸びている。

 沖縄は、4月の清明祭など、お墓の前で親族一同が集まって、祈願してその後、ご馳走を食べる習慣がある。もう太陽が照ると暑いので、日陰が欲しい。雨が降ると屋根が欲しい。だから、お墓には、屋根をつけたり、すぐテントやブルーシートを張ったりする。でも、このお墓のように樹木が横に大きく伸びていると、もう日陰になっているから、テントは不要である。そんな効用がある。お墓の樹木はだてに植えているのじゃない。

 佐敷ようどれ、尚泰久のお墓を見ていると、第一尚氏のお墓を全部見てみたくなる。

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2012年1月28日 (土)

沖縄ジョン万次郎会の新年会に招かれる

 沖縄ジョン万次郎会の名嘉真和彦事務局長と昨年末、偶然知り合いになった。それが縁でこの同会「20周年記念誌」を送っていただき、私も「沖縄で愛される中浜万次郎」と題する拙文を送った。 

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 沖縄ジョン万次郎会の新年会に光栄にも、夫婦でお招きをいただいた。会場は、万次郎の記念碑が建てられた翁長共同利用施設である。公民館のように使われている建物だ。建物のすぐ裏手に万次郎が滞在した高安家がある。047  会長の大城光盛さん、前会長で顧問の大城盛昌さん、副会長の大城恵子さん、与那覇正文さん、そして万次郎が半年間滞在した高安家の5代目当主の高安亀平さんらを紹介され、挨拶を交わした。万次郎会の活動のことは知っていたが、まさかこんな形でお招きされて、みなさんとお会いできるとは、夢にも思わなかった。

053  写真は左から大城会長、大城顧問、高安さんである。高安亀平さんは、5代目当主となる。昭和4年(1929)生れなので、1827年生れの万次郎とは102歳違い。ことし数え年で85歳になるそうだ。とても元気そうだ。それぞれが万次郎についてのエピソードを話してくれた。
 万次郎は、琉球の大度浜海岸に上陸して、この豊見城村の翁長集落に来た。高安家に滞在したが、ここにきて1週間でもう外に出て、村の住民と交流し、方言も覚えたという。スゴイ言語力だ。沖縄の古い家は、家に入る正面に衝立のようなヒンプンがある。万次郎はこのヒンプンを飛び越えて外に出ていたという。
 銅像の写真は「沖縄ジョン万次郎会結成20周年記念誌」から。

Img086_2  このとき万次郎はまだ25歳の青年だから、身も軽い。
 翁長の万次郎記念碑(写真下)向うに道路が少し広くなっている。ここは馬場だったという。馬場で、昔から綱引きが行われ、万次郎も参加したことが伝えられる。綱引きは、「6月ウマチー」という旧暦6月のお祭りと旧暦8月15夜の満月の2回行われる。私の拙文では8月15夜の綱引きに参加したと書いたが、その時は万次郎はもう翁長にはいなくて、6月ウマチーの綱引きに参加したとのことだった。拙文を読んだ大城会長が指摘してくれた。

055 綱引きは、東(アガリ)と西(イリ)に分かれて引く。万次郎がいた高安家は東方だった。この時の綱引きでは、東が勝ったので、万次郎が加わったので東が勝ったのでは、といわれたそうだ。

 まだ高安家を訪問したことがないので、そのうち一度、訪ねてみたい。

 新年会は、那覇市のホテルからシェフが来て出張料理をするという豪勢なものだった。料理とお酒をいただくと、余興が始まった。

 事務局長の名嘉真さんは、とみぐすくカラオケサークル仲間達の会長さんでもある。ジョン万会にはカラオケがつきものとなっている。2月には謝恩ステージカラオケ交流歌謡祭を那覇市内で開催することにもなっている。

 新年会には、この歌謡祭に出演する皆さんも参加して、舞台で次々に自慢のノドを披露してくれた。

 もちろん、大城会長(左)、名嘉真事務局長(右)も最初に歌ってくれた。050

 051 名嘉真さんは、「とみぐすく万次郎音頭」という歌の作詞もされて、記念碑の横には、この歌を紹介する案内板も建てられている。

 村田英雄の曲に「あゝ万次郎」056 という歌があり、舞台でカラオケサークルのメンバーが歌ってくれた。初めて聴いた。

「♪怒涛逆巻く足摺岬 海で育ったいごっそう 父は亡くとも泣くもんか 負けるもんかの男の気概 土佐は清水の快男子 あゝ中の浜万次郎」(一番)

「♪目には手ぬぐい押しあてながら 逢えて嬉しと泣いた母 十と一年十カ月 苦労かけたとお袋さんに わびる男の目に涙 あゝ中の浜万次郎」(三番)

 こんな歌詞である。なかなか勇ましく、勢いのある歌だ。賀川幸星作詞作曲である。

058  わがツレも舞台で「愛の賛歌」をカラオケサークルの人のように、伴奏音楽のテープを用意していないので、アカペラで熱唱した。

 最後に高安亀兵さんと記念撮影をさせてもらった。

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2012年1月27日 (金)

金城実&山里ユキ、民謡ライブを楽しむ

 那覇市の牧志公設市場内にある「ひやみかちマチグヮー館」で、金城実&山里ユキ民謡ライブがあったので、出かけた。この建物の2階にある。015 018

 実&ユキさんの二人は、民謡界の大御所だが、長くコンビを組んで歌っている。この2人の民謡が無料で聴けるのは嬉しい。さすがに、民謡好きの人たちが続々つめかけ、たくさん立ち見もでた。

 020  2人が和服姿で登場。バックで演奏するのは知念さん。始まる前に、入り口にいたので、係の人かと思い「今日は普段よりお客が多いでしょう」と尋ねると「そうですね、民謡界の大御所ですからね」と話してくれた。それが、まさかの舞台登場でビックリした。金城実の孫だという。023  実さんが「読谷から来たよ」と話し始めると、最前列のおばさんが「私は名護から来たよ」と間髪いれず声をかける。続いて私の隣にいたおじさんが「オレは宮古島から来たよ」と叫ぶ。いやいは、随分遠くから、先島からも駆けつけるとは、さすがに大物のライブだ。025_2  実さんは、シブイ唄声が好きだが、意外にもユーモアたっぷりの人柄。話はすべてウチナーグチ(沖縄語)で、3分の1も理解できない。後ろの孫の知念さんが、たまに訳してくれる。
 「身長が低いから立ってても座ってても変わらない」と自分で言う。歌っている途中で、歌うのを止めた際は「歌詞を忘れたよ」。そういう実さんは、分厚い歌詞集を目の前に置いている。でも殆んどめくらないから、あまり意味がないのかもしれない。

 024  旧暦ではまだ旧正月4日なので、「いい正月でーびる」、「村興し」から歌い始めた。
 2人がいっしょに歌うのに、実さんはすぐ「山里ユキさん、声がいいでしょう」「歌が上手でしょう」と相方をほめる。不思議だ。「実もジョウトーさ」と声が飛ぶ。
実さんは82歳、ユキさんは73歳だという。ユキさんは、個人的には沖縄民謡界の女性唄者ではナンバーワンだと思う。声もいいし、歌も上手い。三線もとても上手だ。

 026 ユキさんは、「命一ち節」(ヌチティーチブシ)や「遊び仲風」(アシビナカフウ)など、ヒット曲を歌う。どれも大好きな曲だ。「遊び仲風」は自分でも歌っているが、「命一ち節」は歌えない。沖縄戦の体験を踏まえ命の大切さが込められた歌詞のようだ。

 実さんは「代表曲はねー」030といって「みのる節」の名を上げようとしたが、たしか「いなぐ節」とか冗談を言う。「いなぐ」とは女性のことである。

 私的にはなんといっても「南洋帰り」が好きだ。南洋で戦争にみまわれ、雨のように砲弾が降る中、「よく生きてたものだ、不思議だ」。ようやく懐かしい故郷に帰る。「やっぱり平和はよいむんや」と歌う。

 実さんは、なんか行きあたりばったりで歌う感じ。ユキさんはしっかり考えた選曲で歌いきる。性格的にはかなり違うけれど、なぜか呼吸はぴったり合っている。さすがベテランコンビだ。

 無料で二人の民謡を1時間たっぷり見られたのは、嬉しい限りだ。036 「最後はやっぱり踊りたいですよね」と知念さんが呼びかける。それに合わせて、早弾のカチャーシー曲を奏でる。曲が始まると同時に、名護のおばさん、宮古のおじさんが飛び出して踊りだす。

041_2  040  後ろの方でも踊りだす。じっとしてはいられない。わがツレも誘われるままに踊りだした。

043  実&ユキさんの歌三線で踊れるなんて、ぜいたくなひと時である。
 この「ひやみかちマチグヮー館」は、国際通りと市場のにぎわいを創ろうという那覇市の事業として、毎日、この舞台で芸能を披露している。とってもいい企画である。でも、この2月で事業は終了するという。もっと続けてほしい。この日、聴きに来たみんなが願っていることだろう。

2012年1月25日 (水)

ランの花園、熱帯ドリームセンター

 海洋博公園といえば美ら海水族館だが、その近くには熱帯ドリームセンターがある。こちらまで足をのばす人は案外少ない。かくいう私も、水族館は何度も入ったのに、こちらにははじめだ。熱帯の花々やトロピカルフルーツがいろいろあるが、なかでもランがメッチャ多い。161_2
  建物のつくりは、なんか異国めいている。でも熱帯というより、中東的な雰囲気だ。向うにはバベルの塔のような、建物も見える。163_2165_3

 この造りにはこだわりがあるらしい。「熱帯樹林の中に土俗的なイメージの廃墟があり、その中に足を踏み入れると熱帯、亜熱帯の花々が咲き乱れる」。そんな非日常性をイメージしているという。

 本日のランの鉢数は2951というからスゴイ。鉢数は日替わりで変わるのか、日めくりのようになっている。常時、2000株以上のランを展示しているという。
 本来は、ハイビスカスを見たいと思ってきたが、こちらは今月初めまでハイビスカス展をやっていたが、もう終わっていた。残念! でもランが最大の目玉である。

 ランといっても種類がやたら多い。3つのラン温室に分かれて展示されている。まずは、「ラン・ファレノブシス温室」。171

 多過ぎて、説明できなーい! お手上げです。見るのも、時間がかかり過ぎてゆっくり見れない。   

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次は「ラン・バンダ温室」。パンダではない。大輪の美しい花が多く「アジアの神秘」と呼ばれているとか。でも写真のランはむしろ小さな花だ。

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  175  巨大な葉を持つシダがあった。「ビカクシダ」という。ビカクとは、大鹿の角を意味し、シダの葉がその角に似ているので、この名がついたという。

 177_2 ランの中で、驚くほどの華やかで美しいのは、カトレアである。胡蝶蘭の比ではない。

189 190  カトレアは、名前ばかりが有名だが、こんなにも華麗で鮮やかな花だとは思わなかった。中南米の原産で、古くから栽培され、改良されて、その高貴で華麗なことから「花の女王」と呼ばれているという。

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 その名前がふさわしい。カトレア美術館もあった。花を額縁に入れて、あたかも美しい絵画のように、展示されていた。ちょっと邪道の気もするが。195  池には、蓮が咲いていた。白、紫、ピンクと色鮮やかである。モネの水蓮の絵を見るようだ。

204  バベルの塔のような建物にやっと行きついた。これは遠見台である。エレベーターがあり一応、3階まで上がれる。そこから上は、回廊のような階段を上る。

213  海洋博公園で随一の展望を誇る。眼前には伊江島、水納島、瀬底島が見える。

216 2月4日からは、沖縄国際洋蘭博覧会が開かれる。これ以上にランが大集合するのだろうか。

2012年1月15日 (日)

「月ぬ真昼間節」を歌う

 首里にある小さなホール、アルテで音楽を愛する人たちが集い、自分の好きな楽器で、好きな楽曲を披露する「ファクトリー」が、1月は14日に開かれた。今月のテーマは「輝」である。2回目のエントリーとなる私は、八重山の古典民謡の「月ぬ真昼間(マピローマ)節」を選んだ。006  アルテでも、新年の始まりは、定番の「かぎやで風」だった。これを演奏しないことには始まらない。しかも琉舞も舞ってくれた。
 「輝」のテーマを聞いた時、これは「月ぬ真昼間節」がピッタリだと直感した。とっても情緒のあるよい曲だけれど、あまりポピュラーではない。「月の真昼間」とは、月が天上にあり、まるで真昼のように照らされる時をいう。なんとロマンチックな表現だろう。歌の内容を紹介する。

「♪月ぬ真昼間や やんさ潮ぬ真干り(スヌマヘリ) 夜ぬ真夜中やハイヘー みやらびぬ潮時(スィトゥグィ)ハイヘー」
(月が真昼のように照る時は潮は干潮で 乙女が人目を忍んで来る潮時でもある)

「♪月に願(グァン)立てぃてぃ 星(フシ)に夜半参り 思いすとう我ん(パヌ)とうハイヘー 行逢(イカ)しゆたぼりハイヘー」
(お月様に祈願して 夜空の星に夜半参りをして 思いを寄せる人に逢わせて下さいと願う)

「♪思いすと我んとう 行逢さんどうあらば あたら我(パ)が命ゆハイヘー とうらばちゃすがハイヘー」
(思いを寄せる彼に行逢さんとあれば いっそ私の命をとられますか)

 「夜半参り」とは、夜中に女性が男性の恰好をして拝所にお参りをして「恋する彼にどうか逢わせて下さい」と祈願することだという。それにしても、命をかけても逢わせてほしいという願いは、なんと激しい恋心ではないだろうか。
           写真は、やっぱり恥ずかしがり屋さんなので目隠しをしています。失礼。
 この唄は、八重山の古典民謡でも難しい曲とされる。でも、一度聴いて歌いたくなり、自己流ながら、ずっとわが家で歌い続けてきた。「他の人にも、下手でも一度は聴いてみてほしい、こういういい曲があることを知ってほしい」という思いを抱いてきた。それで、今回の「輝」のテーマはチャンスかもト思い、無謀にも挑戦してみたのである。
 歌い始めると、三線はやっぱり普段ならなんということはない、単純な前奏からミスばかりで、手が動いていない。でも、歌は緊張しても声は出る。とくに高音を思い切り伸ばして歌うことで、歌詞が表現できる。だから、とにかく声だけは思い切り出した。聴いた人お耳には、どう響いたのか分からないが、歌った本人は三線はダメだが、歌はある程度満足した。
054 舞台では、みんさなんの熱演が続く。今回は、34組がエントリーした。過去最高だとか。この日のために、オリジナル曲を作曲して歌う人も4、5人はいた。スゴイ!

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 あまりに参加者が多いので、ツレも出演したが、他の人のことは悪いけれど、省略する。
 終わった後、打ち上げ会があり出席した。いろんな人から声をかけられた。
「声がホールの外の上の階まで響いてたよ。こんな民謡は聴いたことがなかった」「心にジーンと響いたよ」「なかなか大作でしたね。また出てよ」「この曲は八重山民謡では最高賞の課題曲ですよ。先生に習っていないでこれだけ歌えればいいですよ」。
 なんだか面映ゆいような声があった。いやいや、自己流だから、先生が聞いたら、ダメだしされるのは間違いない。失敗もたくさんあった。そのなかで、少しでもこの曲が印象に残り、心に響くものがあったとすれば、それはまさしく「この曲の力」である。それだけは間違いない。


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2012年1月12日 (木)

高平良万歳の面白い歌

 先日観た「新春琉舞名人選」の中に高平良万歳(タカデーラマンザイ)がある。国立劇場おきなわは、琉舞を踊る時、地謡(ジウテー)の歌う歌詞の和訳が、舞台の横に表示される。それを見ていて、奇妙というか面白い歌詞に出合った。
 国立劇場は写真とれないので、以下は昨年11月の芸能チャリティーで、小中学が踊った高平良万歳のものである。

047 この踊りは総合芸能である組踊「万歳敵討」(マンザイテチウチ)の中から、舞踊を独立させたものである。この組踊は、親を殺された息子2人が、芸を披露してお金をもらう万歳姿に身をやつし、敵討ちを果たすという仇討物語である。
 若者が踊る「二才(ニーセター)踊」の傑作と言われ、人気がある踊りだ。「万歳口説」(マンザイクドゥチ)「万歳かふす節」「おほんしゃり節」「ざいんする節」の4曲からなる。

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 「万歳口説」は、親の仇を探す心情を歌う。「万歳かふす節」は、家々を巡りめでたい言葉を述べ門付けをしながら敵を探す様子を歌う。
 不思議な歌詞が出てくるのは、次の「おほんしゃり節」である。和訳した歌詞で紹介する。
「♪隣の耳が切れた 鼻の欠けた 跛(ビッコ)を引く猫が 耳のただれた 首の毛の剥げた白い鼠に 不格好な首筋を噛まれて 叫ぶことも 跳び上がることも出来ない だまりこんでいるは あなた一人ですよ」
043  この歌詞を見た時、まったくの意味不明だった。耳が切れたとか鼻が欠けた猫というのも可笑しいが、猫がネズミに首筋を噛まれるとは、普通は「ありえなーい」ことだ。なぜこんな歌詞があるのだろうか、琉舞を見たときにはまるで分からなかった。それでさっそく図書館で調べてみた。
 大道勇著『琉舞手帖』をみてようやく理解できた。048 これは、面白い、可笑しい、ありえないことを言って、相手を油断させるためである。仇討物ならではの内容である。
 最後の「さいんする節」は、京太郎(万歳)が乗り木(春駒)にまたがって春駒芸や獅子舞を披露して場を盛り上げ、隙をうかがって仇を討つ、という話になっていくのである。
 2人が万歳姿に身をかくし、獅子頭と馬頭をもって仇である高平良御鎖(タカデーラウザシ)の前で踊る。もともとは4人で踊ったが、最近は1人で踊ることが多いそうだ。今回の国立劇場でも、1人で見事に踊った。それぞれの踊りに変化があり、持ち物も変わり、見ていても楽しい踊りだ。
最初の「万歳口説」は、私も民謡三線サークルで歌っている。

 

 

2012年1月 8日 (日)

嬉しい誕生日のお祝い

 1月8日は、わが60何回目の誕生日だ。今年は、予期せぬというか、誕生日のお祝いがいくつもあり、嬉しいバースデイになった。
 はじめは1月6日、RBC(琉球放送)ラジオの中高年に人気の番組「団塊花盛り」で、ツレがお祝いに、最近カラオケで挑戦している美空ひばりの「哀愁波止場」をプレゼントしてくれた。この番組は、土、日曜日はないので、金曜日に前倒しでかけてくれた。
 それにDJの柳卓さんからも、「おめでとう」のメッセージが寄せられた。ツレはいまやRBCラジオのへビーリスナーに仲間入りしている。リスナー仲間も急増中。夫の誕生日と「団塊花盛り」で聞いたリスナー仲間の「アスカさん」から、「そんな年には見えない、若いよ」と祝いの言葉が携帯メールですぐに入った。私のラジオネームはないのが、ツレのラジオネームに「花」が付いているので、すっかり「花パパ」と呼ばれている。
 さらに、「団塊」ヘビーリスナーの「はれくもさん」からも祝いのメッセージがラジオで寄せられた。「はれくもさん」は、前に「源氏物語を読みました」とラジオで紹介されていたことがある。12月にリスナー仲間の忘年会でお会いしたさい、「私も同じ時期に読んだところですよ」と話しかけていた。それを覚えていてくれて、「今度会ったら、源氏物語を語り合いましょう」と言ってくれた。一瞬の会話だったのに、覚えてくれていたことにも嬉しくなった。
003  次は、ROK(ラジオ沖縄)の土曜日に放送される人気民謡番組「民謡の花束」である。こちらには、「グスージコーナー」といって、祝い事(グスージ)なら、なんでもまとめて「おめでとう」と祝ってくれるコーナーがある。ここでも、ツレがメールして、私の誕生日の祝いをしてくれた。それだけではない。
 この番組には「国立劇場おきなわ」のコーナーがあり、抽選で招待券をくれる。これもツレが申し込んだら、なんと当選して送ってくれた。番組を担当する3人のサイン入りの連絡文と招待券である。サインは、左上が民謡歌手の新垣小百合さん。右上が役者で古典音楽もやる當銘由亮さん。左下が民謡歌手の松田一利さんである。

009  招待券はなんと誕生日である1月8日の「新春琉舞名人選ー新春を寿ぐ」だった。というわけで、招待券そのものが、誕生祝いとなったのである。さっそく琉舞を観に出かけた。005  劇場の中も新春ムード一杯。ロビーでは高校生や大学生がお茶をたてるサービスをしていた。012 続々と人たちが詰めかけるが、圧倒的に女性が多い。琉舞は女性に人気がある。第1部は、お祝いにはつきものの「かぎやで風」(カジャディフウ)から始まり、「女こてい節」「作田」「かせかけ」「天川」「高平良萬歳」(タカデーラマンザイ)と続く。公演中は写真は撮れない。

010  ロビーに貼られていた写真から紹介すると、こんな感じの舞である。
 第2部は「むんじゅる」「前の浜」「浜千鳥」「取納奉行」(シュヌブヂョウ)「真津がま」「花風」と続いた。
 それぞれ、ゆったりと優雅に舞う踊りにはうっとりとする。軽快なリズムにのった踊りには、浮き浮きとしてくる。もうあちこちの祭りや芸能の舞台を見て、だいたいの曲と踊りは知っている。知れば、ますます興味がわいてくる。

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 まったくこれまで聞いたことも見たこともない曲があった。「真津がま」である。村一番の美女に、男はみんな言い寄ろうとする。でも娘が心を寄せるのは、毛遊び(野原で歌三線で遊ぶこと)で一番頭の青年である。こんな話だ。実に楽しく軽快な曲で、お話も面白い。
 前に、琉球舞踊は恋の歌に満ちていると書いたことがある。この日観た琉舞も大半は、恋歌だった。010_2  夜は、首里の都ホテルで誕生祝いのディナーを予約していた。飲み放題、食べ放題プランである。誕生日など記念日だと、ポラロイドカメラで写真を撮ってくれ、さらにシャンペン、ケーキのプレゼントまであるが、記念日と伝えるのを忘れていたので、本日は写真だけとってくれた。ホテルはまだイルミネーションが輝いていた。017  60歳を過ぎると、誕生日といってもあまり年をとりたくない気分になる。でもこんなに祝いのプレゼントをいただくと、すっかり嬉しくなり、至福のひとときを過ごせた。ツレやラジオのリスナー、番組担当者らにも感謝、感謝である。

 

2012年1月 5日 (木)

首里のお寺に初詣ー2012

 正月3日目に今年も首里のお寺に初詣に行った。那覇市の初詣といえば、波之上宮や護国神社など人が押し寄せる。でもお寺が多いのは首里であり、首里12支寺回りがある。生れた干支によって守ってくれる仏様が定まっているという守り本尊が、各お寺によって決まっている。

 008  今年は辰年なので、首里観音堂(上)がよいというので、出かけた。臨済宗のお寺である。ご覧のとおりすいている。連れ合いが、高齢の母が辰年生まれなので、辰の置物やお守り、おみくじを買った。002  観音堂は、首里城に上がる道沿いにある。改めて寺の由来を見ると興味深い。
 琉球王国が1609年に薩摩に侵攻されたあと、尚久王の時代に、佐敷王子(のちの尚豊王)が人質として薩摩に連れて行かれた。その際、父は息子が無事帰国できたら首里に観音堂を建てることを誓願した。

001_2 その後、王子は無事に帰国したので1618年、首里の萬歳嶺という丘に観音堂を建て、その南に慈眼院(ジゲンイン)を建立した。1645年から毎年、国王が国の安全を祈願し参拝するようになったとのこと。

006  寺の建つ丘というか高台は、那覇市の町や港、海と空が一望にできる。だから、渡航の安全、国の安全を祈願するのには最良と場所であった。御本尊は千手観音菩薩。千手観音菩薩は、すべての人を守り、救うそうだ。

009  琉球古典音楽の「上り口説」(ヌブイクドゥチ)という曲がある。これは、琉球から薩摩に船で渡る旅の出発から、渡航の模様を歌っている。最初にこの観音堂が登場する。
 「♪旅ぬ出立ち 観音堂 千手観音 伏し拝でぃ 黄金酌取てぃ 立ち分かる」
 首里からの旅の出発は観音堂 千手観音を伏して拝んで お酒を杯に注いで 別れをした、というような歌意である。自己流解釈であるが。

007  境内のサクラの木にはたくさんのおみくじが結ばれていた。昨年は東日本大震災もあり、参拝する人たちも、自分や家族の健康、安全、みんなが幸せに暮らせるように願う人が多かっただろう。

 この後、もう一つ同じ首里の赤田町にある西来院にも行った。臨済宗妙心寺派の寺院であり、寺号を達磨寺という。前にも来たことがあるが、改めて由来をネットで調べてみると、なかなか興味深かった。「かげまるくん行状記」を参考にして紹介したい。083   開山は菊隠宗意。やはり琉球に薩摩が侵攻してきた時、王府は和睦をしたいと考え、菊隠宗意を使者に立てて交渉した。薩摩はなおも攻撃をかけてきた。王府は降伏にさいして、やはり彼がその意を薩摩に伝えたという。

020 さらに尚寧王が薩摩に連れていかれた時は、これに随行し、3年後に帰国した。琉球の危難にたいする功績によって土地を賜り、西来院を建立したそうだ。 建立は万暦年間(1573-1619年)とされるけれど、実際にはそれより古く、観音菩薩を本尊とする寺院として儀保にあったとか。明治時代にこの地に移転し、沖縄戦では焼失して1971年に再建したそうである。
 016  干支では卯の守り本尊である文殊菩薩を祀っている。連れ合いの父が卯の年生まれなので、この寺にも立ち寄り、病気治癒を願うお守りを買った。
 達磨寺なので、デーンとなでだるまが鎮座している。みんな体の痛いカ所があれば、だるまのその部分をなでる。黒光りするだるまさんの体も、たくさんの人になでられて、頭やひざはすっかり色落ちしてる。

017 本堂の天井にスゴイ龍の絵がある。聞くところによると、これは「八方にらみの龍」とかいって、どの位置から見ても龍が見下ろしているように見えるそうだ。なかなか迫力がある。

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 まあ、信仰心はあるとは言えないが、初詣には行くのが習慣になっている。首里のお寺を回ると、さすがにそれぞれ、その由来にはドラマがあり、歴史がある。興味は尽きない。

2012年1月 3日 (火)

元日の贈り物ージョン万次郎と富太郎、その2

 元日に送られてきたプレゼントの二つ目は、わが郷里の町で発行した「町民カレンダー」である。町がカレンダーを出すなんて、他ではあまり聞かない。新潟にいる同級生が送ってくれた。
 大事なのは、毎月、世界的な植物学者だった牧野富太郎の植物図が使われていることである。

Img094  牧野博士は、1862年(文久2)4月24日、高知県佐川町の造り酒屋「岸屋」の一人息子として生れた。学歴は小学校中退だが、佐川には名教館(メイコウカン)という優れた私塾があり、そこで学んだ。といってもあとは、独学で植物を研究した。植物分類学を専攻した。「草を褥(シトネ)に木の根を枕 花と恋して90年」と自身が語ったように、土佐をはじめ全国の山野をかけ巡り、採取と標本作成に専念し、新種の発見命名は1000種、学名変更は約500種にのぼるそうだ。東京帝国大学の助手、講師となった。

 Img095  業績は書きだすと果てしない。「約一世紀の生涯を植物に捧げつづけた牧野富太郎博士は『日本の植物学の父』として敬愛されている」。カレンダーはこう記している。95歳で亡くなったが、死後に文化勲章を受けた。牧野博士の名前は鳴り響いていたのに、なぜ生前に授与しなかったのか、ここにも日本の学歴偏重の歪みがあるのかもしれない。

Img096  牧野さんの著書『植物一日一題』が手元にあるが、これを読むと、われわれが今でもいわば常識と思っていることを「間違い」と正していることがとても多い。たとえば「ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではない」「キャベツを甘藍(カンラン)だというのは無学な行為」「アジサイは紫陽花ではない」という具合である。

 紫陽花という名の出典は中国の白楽天の詩が元であるが、「アジサイは日本固有産のガクアジサイを親としてそれから出た花で断じて中国の植物ではない」と言う。もう15年ほど前に読んだけれど、牧野さんの研究に裏打ちされたこうした明快な指摘が記憶に刻まれている。 

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 ところで、なぜカレンダーを紹介しようと思ったのかが、本題である。それは牧野さんの書かれた植物画が、とても繊細で美術としても観賞に値すると思うからである。

 カレンダーは、高知県立牧野植物園の協力で制作したものである。表紙とともに13枚の植物画が掲載されている。そのうち5枚をここでアップした。

Img098  一番上の植物画は、「ガマズミの実」。ガマズミはスイカズラ科で、高知の方言では「ヨージメ」と言う。初夏に花をつけ、実は甘酸っぱく食べられるそうだ。

 2番目は「ワカキノサクラ」1892年に佐川町の旧尾川村で発見したサクラ。播種した翌年から花を咲かせるのでこう命名したそうだ。つまり若い木で花を咲かせるという意味である。このサクラは、子どもの頃から身近にあって知っていた。

 3番目は「ヒメキリンソウ」。四国固有の多年草である。キリンソウによく似ていて、小さいことからこう呼ばれているとのこと。

 4番目は「コオロギラン」。1889年に越知町の横倉山で発見された。和名は、円形で淡い紫色の唇弁が、コオロギの羽に似ていることによると言う。

 5番目は「ジョウロウホトトギス」。これも1887年に横倉山で発見された。和名は、花の美しさを上臈(ジョウロウ=宮中に仕える女官)の上品さにたとえたものだと言う。

 ここに上げた植物画は膨大な植物画のごくごく一部にすぎない。でも、今年一年、このカレンダーを掲げて、植物画を眺めたい。

2012年1月 2日 (月)

元日の贈り物ージョン万次郎と牧野富太郎

 タイトルを見ると、なんのことか意味不明だろう。元日といえば、届くのは年賀状が普通。それが、今年の元日は、なんと郵便局から年賀状とは別に、2回にわけて配達があった。こんなことは初めてなので、ビックリ。さっそく開いてみると、一つは「沖縄ジョン万次郎会」の『結成20周年記念誌』である。もう一つは、故郷の同級生が送ってくれた町発行のカレンダー。といっても、町出身の植物学者の牧野富太郎の植物画を各月に掲載したものだった。
 新年に届いたプレゼントに、元日から嬉しい気持ちになった。この二つの贈り物に共通するものは、「ジョン万と富太郎」という2人とも、高知県出身の誇るべき偉人であるということだ。長くなるので、今日はジョン万次郎記念誌を紹介したい。

Img086 これを送ってくれたのは、沖縄ジョン万次郎会事務局長の名嘉真和彦氏。年末にある忘年会でたまたま一緒になり、名嘉真さんがジョン万会役員であることを知り、連れ合いが「夫は高知県出身です」と伝えたところ、「記念誌を送りますよ」と言ってくれたのだった。

 中浜万次郎は、漁船で遭難してアメリカの捕鯨船に助けられ、10年間アメリカで過ごした後、1851年に琉球の大渡海岸に上陸し、取り調べのため半年間、琉球に滞在した。滞在したのが、豊見城村翁長(トミグスクソンオナガ)の高安家だった。万次郎は、幕末の日本に西洋の事情や民主主義の思想を伝え、開国の先駆者となった。その万次郎が、滞在したさいは、村の先代たちは、温情ある接遇をしたという。この史実や万次郎に関することを広く普及していこうと、1991年に発足したのが、この会である。

Img089  記念誌は、A4版で154ページもある立派な装丁である。記念誌は、各界の人たちの祝辞から20周年の記念事業の経過報告、記念の座談会、会のあゆみ、講演会の模様、さらには市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」、ジョン万カップ少年野球交流大会、土佐清水ジョン万祭り、アメリカのジョン万祭り(フェアヘーブン)の様子まで盛り沢山の内容だ。上の写真の記念講演会には、前高知県知事の橋本大二郎氏の姿も見える。

 Img087  万次郎を助けたホイットフィールド船長の故郷、マサチューセッツ州フェアヘーブンの「ホイットフィールドー万次郎友好協会」のゲラルド・ルーニー会長や万次郎直系五代目の中浜京さんの祝辞も掲載されている。中浜京さんが、万次郎が滞在した高安家を訪ね、ここで過ごした日々、地元の人たちとの交流などを聞き、「万次郎の帰国の地が、琉球でよかったとつくづく感じております」とのべているのは、興味深い。

Img091  2010年9月には、ジョン万次郎記念碑が建立された。ここには、記念碑ができたことを知り、すぐ訪ねたことがある。

Img092   「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」の上演は新聞でも大きく報道された。一度、観劇してみたい。沖縄ジョン万会が多彩な活動をしていることが、よくわかる。

Img093  会の会則では、「国際交流及び青少年の健全育成に寄与する」ことを目的に掲げている。今後とも、会が発展することを期待したい。

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