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2012年1月31日 (火)

尚泰久王の陵墓を訪ねる

 琉球を統一した尚巴志の王統の第6代尚泰久王の陵墓が南城市玉城(タマグスク)富里の南城市役所近くにある。第一尚氏の王統は、7代64年で終わった。020      写真は尚泰久王のお墓への入り口である。021

  このあたりは、車でよく走ったが、由緒ある尚泰久のお墓があるのを知ったのは最近のことだ。尚泰久は、1454年に即位したが、琉球王統の歴史のなかでも、有名な事件が起きた。
 当時はまだ、中城城主に護佐丸(ゴサマル)や勝連城主に阿麻和利(アマワリ)が割拠していた。護佐丸の娘が尚泰久の王妃になり、尚泰久の娘が阿麻和利の妃になるという姻戚関係で結ばれていた。
 阿麻和利が、護佐丸は王府への反逆を企んでいると告げ、王の命を受けて阿麻和利は護佐丸を討った。その阿麻和利はまた、王府への謀反を起こそうとしていると、妃が勝連城から逃れて国王に告げ、国王軍が阿麻和利を討った。
 護佐丸・阿麻和利の乱と呼ばれる。国王にも並ぶような勢力をもった2人の按司は、これで一挙に消えうせた。

 また、尚泰久は伊是名島出身で百姓上がりの金丸を家来とし、国王になると金丸は王の側近となった。尚泰久の死後、7代目の尚徳王になると、金丸はクーデターによって、第一尚氏の王統を倒し、尚円王として即位した。第二尚氏の始まりである。

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 というわけで、尚泰久は金丸を重用したことで、不本意にも第一尚氏の王統を滅ぼす要因をみずからつくった。金丸・尚円王は、本来は尚泰久にはとっても恩義があるはずだと思う。でも、尚泰久が死に、その子の代になると王統を倒したのだから、権力争いの世界は、冷徹なものである。
 尚泰久の陵墓は、うるま市石川の伊波按司とともに祀られていたが、安次嶺家が当山に移し管理しているという(「月代の神々」)。

 お墓の左側、写真では上が尚泰久、右側にある、写真では下が長男、安次富加那志之墓である。金丸に倒された第7代尚徳王はここには祀られていない。墓はなく、なんとわが家からも近い那覇市識名に、門中によって建立された「尚徳王陵墓跡」の石碑があるそうだ。

 024_2  025_2  023  墓の前に「屋良腹 初代先祖墓」という碑がある。「腹(ハラ)」とは、男系の血縁集団である門中(ムンチュウ)と同じだという。先祖の骨をいくつ納めているかが記されている。

 この陵墓は、大きな岩山の洞窟を利用した墓である。昔のお墓は、こういう岩山を利用したものが多い。

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 この陵墓の裏には、屋良門中之墓がある。こちらは、いま現役の屋良門中の共同のお墓のようである。立派なお墓だ。029

 お墓の前には、何の木だろうか、樹木の幹も枝も上には伸びず、真横に大きく伸びている。

 沖縄は、4月の清明祭など、お墓の前で親族一同が集まって、祈願してその後、ご馳走を食べる習慣がある。もう太陽が照ると暑いので、日陰が欲しい。雨が降ると屋根が欲しい。だから、お墓には、屋根をつけたり、すぐテントやブルーシートを張ったりする。でも、このお墓のように樹木が横に大きく伸びていると、もう日陰になっているから、テントは不要である。そんな効用がある。お墓の樹木はだてに植えているのじゃない。

 佐敷ようどれ、尚泰久のお墓を見ていると、第一尚氏のお墓を全部見てみたくなる。

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コメント

尚泰久王は金丸を重用したために倒されてしまって、見る目がなかったんですかね。墓の御願する場所に王冠を模した石造りのものが置いてありました。王の墓らしさを示しています。屋良腹門中は安次富按司加那志の門中ですか?この墓がある当たりが屋良腹の方々が住んでるんですかね。

それにしても、巨大な岩で墓にちょうどよいのがありましたね。昔は死んだら死体を風葬しましたが、海岸のこういう岩の下に暗渠しておきましたよね。それとは違うけど、岩を使ってるところあたり、沖縄らしさを感じます。

 尚泰久は金丸は能力ある者だったので引き立てたでしょう。尚泰久が存在したときは忠誠をつくしたのでしょう。護佐丸・阿麻和利の乱も、裏で金丸らが仕組んで、有力な2人の按司を討ったのではないか、と見る人もいます。金丸にしてみれば、4人の国王に仕えたそうだから、虎視眈眈と狙っていたんでしょう。尚巴志と金丸・尚円王は、ある意味で秀吉と家康に例えられるかもしれません。秀吉が死に、秀頼になったら、天下とりに乗り出したわけですから。
 安次富按司加那志の墓の前に、屋良腹の初代先祖の墓の碑があるから、屋良門中の人たちは、その子孫ではないですか。子孫がこの付近に住んだのでしょうが、いまは広範囲に散らばっているのじゃないですか。
 浦添ようどれ、も規模は大きいけれど同じようなところですよね。庶民も昔は、こういう岩の洞窟を利用した墓が多いのではないですか。

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