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2012年2月

2012年2月29日 (水)

人頭税哀歌、その2

八〇を超える村が廃村になる

財政のひっ迫から移住による開拓を強引にすすめる政策が、いかに無謀なものだったのかを物語るのが、新たに建設した村々が、次々に人口が減少して、廃村になっていることだ。戦後、琉球民政府の衛生部長を務めた大浜信賢氏が、「八重山の廃村」を調査研究している。それによると、廃村の数は、石垣島で二三村、西表島で二三村、その他各離島で三四村、合計八〇廃村という多くにのぼるという(『八重山の人頭税』)。

 開拓で創設された新村は、いずれも八重山の風土病ともいうべきマラリアの「巣窟」というべきところだという。マラリアの有病地でない場所は、住民は経験からわかっていて、すでに定着し繁栄しており、人頭税の増収を目的とする開拓は、恐ろしいマラリアの有病地しか残っていなかった。そんな悪条件の場所に新しい村を創設するのは「無辜の良民を有病地の火葬釜に投げ込むのも同然」だったという。

 大浜氏は、こんなに廃村が多い原因として次のように結論づけている。なんといっても移住地が①マラリアの有病地であること②新設部落の立地条件について蔵元(地方行政庁)がまったく考慮にいれていないこと③人頭税の苛酷さが住民に部落の繁栄をきずきあげるゆとりをまったく与えていなかったことがあげられる。廃村の陰に、どれほど多くの貧しい人々の血と汗と涙が流され、命が奪われたことだろうか。

ムチ打ちと拷問で責め立てる

 農民が耕作するのにも、役人は監視し、少しでも遅れるとムチで尻を打たれたという。

「耕作の善し悪しを役人に報告させ、気を抜いている者は尻を打つようにと命じておきましたが、十分にその成果がでていない」

「今後、百姓を近所の七、八人ずつで組をつくり⋯⋯村はずれ、道々の筋に小屋を作り、朝は辰時(午前七時)に出て、各人に書付けの木札を渡し、晩は戌の時分(午後七時∼九時)に出て、百姓が帰り次第、右の札を受け取って通すこと。もし朝に遅れる者はただちに尻をむちで打ち、役人へ引き渡すこと」。

こんな記述が、八重山の地方行政庁ともいうべき蔵元から、首里王府への問い合わせや報告と、王府からの布達などの往復文書集(「参遣状(マイリツカワシジョウ)抜書」)にある。

このように、百姓に組を作らせ、朝早く出かけて、夜は夜星を仰ぐまで働かせる。なんの罪を犯したわけでもないのに、遅れただけで尻を打つなんて、まるでドレイのような野蛮な扱いではないだろうか。

 石垣島に「むり星ゆんた」という唄がある。

「♪ウハラ田の側に 田小屋を作りなさり 田小屋に泊まりなさり ここに宿ってみたら 上がりなさる星は 群れ星が上がりなさる 群れ星の後から 牡牛星座が上がりなさる 牡牛星座の後から オリオン星座が上がりなさる オリオン星座を見なさり 群れ星を目標にして 米を作り作りなされよ 稲の穂をおろしなされよ」

「群れ星」とは昴星座のことである。星座が歌われているからといって、ロマンチックな話ではない。田小屋に泊まり込んで、オリオン星座、昴星を見る時間まで農作業をした労苦がうかがわれる唄だ。

 もし、人頭税を滞納するとどうなるか。村番所に呼び出されて、「かし木」に入れられる。「かし木」とは、一種の拷問器である。両足を丸太で挟んで締め付けるようなものだという。いったんこの拷問を受けると、大抵が身体に障害を受け、「疋人」(ヒキニン、障害者)といわれて、一生を日陰者として暮らすことになったという。十字架もあったそうで、未納の多い者や村の内法(村の内規)を侵した者は、多くはこの十字架にしばりつけられ、罪の度合いによって一日から五日も縛られた。また科鞭(トガブチ)といって、長さ一尋(ヒロ、両手を広げた長さ)、周り五寸の樫木で叩きつけられる。村番所から、滞納者の悲鳴が絶えなかったそうである。滞納で村に住めなくなり、逃亡したり、中には山賊になる例もあったという。これらは『伊良部村史』が伝える苛酷な実態である。

 重い人頭税をなんとか逃れたい、なくしてほしいという農民の願いを込めた唄が有名な「漲水(パルミズ)のクイチャー」だ。クイチャー(声合)は、宮古を代表する唄であり、踊りである。もともと山も川もない宮古島は、雨水が頼りであり、雨乞いの踊りだったそうだ。

Hirara     「漲水のクイチャー」が得意なhiraraさん

漲水とは、宮古の地名で、港がある。宮古は、人頭税廃止のために勇敢に立ち上がり、農民の代表を東京まで送り出し、ついに廃止を勝ち取った。沖縄の歴史の中でも金字塔として輝いている。これは後から詳しくふれたい。その時に上京団を送り出し、迎えたのが漲水港であり、この唄が歌われたという。唄はこんな歌詞だ。

「♪漲水港の船着き場の砂が 粟や米になって上がってきたら 島全体の三〇余りの村の兄さんたちは 厳しい税金のために働くことなく 楽になるよ」

「♪大神後(ウガングス)の海岸に寄せる波が 織物の糸になって上がってきたら 島全体の三〇余りの村の姉さんたちは 厳しい税金のために 麻を紡がないで 糸もかけないで 楽になるよ」

 クイチャーは、沖縄本島のカチャーシと同様に、とっても軽快でうきうきするようなリズムだ。でもこの唄には血を吐くような思いが込められており、歌詞の内容は、とてつもなく重い。といっても、軽快な唄を聞くと、苦しいけれど、それにめげないで、楽天的に生きてきた宮古の人々の心意気が感じらとられる。

 

ドレイのような「名子」が明治まで

人頭税をどうしても納められない百姓は、ドレイのような境遇に身を落とした。それが「名子」と呼ばれる身分である。「名子」の「名」は土地、「子」は労力の提供者を意味するそうだ。役人の家でドレイ的な奉公をして、人頭税の負担を免れるものである。とくに宮古に多く、八重山では聞かないそうだ。薩摩の植民地となっていた奄美諸島には、「家人(ヤンチュ)」と呼ばれる人がいた。年貢が納められず借金がかさみ「債務ドレイ」となったもので、名子と同じような存在だ。幕末には人口の約三割もいたという。

宮古では、士族の役人は、役職によって、名子を何人抱えることができると定員が決められていた。名子を抱えれば、役人は自分が名子から税を徴収できた。役人は自分の年貢高を補うために、名子を使う習慣をつくったという。名子を出した村は、村に残った他の農民たちが、名子の分まで年貢を負担したので、農民はいっそう窮乏したという。

名子は、役人のドレイのようになる点では、非人間的な存在ではあるが、滞納によって恐ろしい「かし木」の責苦を受けずにすむ。だから、人頭税を恐れる農民は、縁者を頼って役人の家に奉公することを自分から願い出たという。

本来、どんな時代であっても、人間は人間らしく生きたいという感情をもっているはずだ。それが、ドレイのような虐げられた身分に、みずから願い出る人が後を絶たなかったところに、人頭税の非情さが表れているといえそうだ。

人頭税の上にあぐらをかく役人の腐敗と横暴もひどかった。役人は個人的に必要なものを百姓に無償で出させた。野菜や魚、カヤやススキ、縄、ミキ(酒)など供出させる。同じ士族でも下級だと無禄で、百姓より軽いが人頭税の負担がある。上級の役人になるために点数稼ぎをしなければいけない。「人民を差別し、私用し、定納に割重(ワリカサ)みして私服する中で私財を積み、それを賄賂や寄進に使う」(『平良市史通史編』)ということが横行した。 

公役で農民を使うことも頻繁だった。八重山には「二〇日オーデーラ」という言葉がある。つまり月に二〇日、公事(コウジ)に出る。役所が求める仕事に出ることを意味する。たとえば、役所が必要とする船材や建築用材の切り出しの労役などその一例だ。間切(現在の町村)役人に与えられた「オエカ地」という田畑への、私的は労役もひどかった。

八重山農民は「一カ月に二〇日間は公役(廿日公事)に服させたのだから、農民には自分の田畑を耕して人頭税納付の準備をする時間がない。したがって農民は、月夜および金星(シカマ星)の光を利用してまで耕作しなければならなかった」(大浜氏『八重山の人頭税』)。信じがたいほどの酷使ぶりである。001_2    

悲しい人口淘汰の伝説

 人頭税の非人間的な本質は、人間が増える、家族が増えると税金が増えることに示される。日本一、出生率の高い沖縄では、「子どもは宝」と言われる。本来、子ども、家族が増えることは喜ばしいことだ。でも、人頭税の下では、喜べない。だから、人口が増えるのを調整したという数々の悲しい伝説が残っている。

与那国島には、「人枡田(ヒトマスダ)」と呼ばれる田がある。島の人々が号令とともにこの田に集まり、遅れてきて田に入りきれなかった人は、淘汰されたと伝えられる。「クブラバリ」と呼ばれる岩の大きな割れ目がある。男子でも跳び越えるのは難しいほどだ。この割れ目で妊婦を跳び越えさせた。跳び越えられず落ちれば命はない。跳び越えられても、妊婦なら流産するといわれる。私はまだ、与那国島には行ったことがない。でも、人頭税の苛酷さを伝える話として有名だ。

 ただし、大浜信賢氏によると、「人枡田」や「クブラバリ」が人口淘汰のために本当に利用されたのかどうかは、疑問があるという。というのは、「人枡田」への集合を競い合えば、田に近い集落の住民は断然有利だけれど、田から遠い集落の住民は不利なので、あまりに不公平だからだ。「クブラバリ」が本当なら、人がたくさん亡くなっているはずだ。だけど、昔からここで人骨は発見されていない。沖縄は死者への弔いをとても大切にする。死者の霊を慰める拝所や墓があって当然だが、それらもないという。

 ではなぜ、こんな伝説があるのだろうか? 大浜氏は、人頭税時代よりずっと昔、与那国島で人口が三万人くらいに達し、食糧難を切り抜けるため、酋長たちが人口制限の残酷な方法を考え出したのではないか、と古い伝説をもとに推測している。

 もし人頭税以前の伝説が真実であったとしても、ではなぜ、そこから人骨が出ない、拝所や墓もないのか? やっぱり同じ疑問にぶつかる。

 とはいっても、何の根拠もなく、こんな悲しい伝説が残るとは考えられない。まったくの作り話とも思えない。伝説には、なんらかの島の悲しい歴史がしみ込んでいると思えて仕方ない。

 人頭税のもっとも痛ましい結果は、恐らく産んだ赤ちゃんの埋め殺しだろう。「愛と哀しみの島唄」でも、人口調節のために、嬰児殺しが横行したと書いた。その時はまだ、リアルな実態を知らなかった。その後、その生々しい現実を知るにつけ、背筋が凍る思いがした。やはり前述の大浜氏が、体験者の証言をもとに伝えている。

 八重山の各村では、あの家でもこの家でも、赤ちゃんを産むとただちに始末したという。一六八一年ころから、赤ちゃんの埋め殺しが始まったという。人口が急増した時期と重なる。その方法は、家の裏庭に穴を掘り、産みたての赤ちゃんを久葉(クバ、ビロウのこと)の葉に包み、穴に入れて、その上にアガザイ(シャコガイ、シャゴウをひっくるめて呼ぶ)で押さえて、生き埋めにする。埋められた赤ちゃんは、すぐ死亡する場合もある。なかには二、三日たってもまだかすかな泣き声が聞こえる場合もあり、通りかかった人が、助け出して養育したという例がいくつもあるという。

 竹富島の豊見本次郎さん(トミモトジロウ、実名)は、長男でありながら、埋められた。封建時代のことではない。明治八年ごろのことだ。村の有力者が通りかかった。「埋殺処置をして三日になるのに、まだ生きているというのは、この嬰児になにか徳がそなわっているということに違いない。この子は自分がもらいうけて養育しようと思うが、どうだろう」と両親と話し合い育てた。その後、すくすく成長して村一番の働き手になったそうだ。同じように、有田加那さん(実名)も救い出されて、粟作りでは村一番といわれたそうだ。

 竹富島のK家では、これまで四人も埋め殺し、五人目も処置した。狂乱せんばかりの妻は、夫に向って「あの泣き声は私ら夫婦を恨んでいる声のように聞こえる」といった。夫は「心配するな。これは皆、人頭税のせいだ。私が始末するから安心しろ」といって、始末したという。大浜氏はもっとリアルに記述しているが、あまりにおぞましいので略する。その後、この家には怨霊のたたりか、生まれてくる子は、蛸のような骨なし子で、一所懸命に怨霊退散の祈願に手を尽くしたと伝えられているそうだ。

わが子を愛おしく思い、手塩にかけて育てたいというのは、人間だれもがみんな願うことである。「だのに天下の悪税、人頭税は、この親の本能を断ち切り、嬰児埋殺という悲しくも惨酷な手段を、親たちに犯さしめる。この世の中に、これ以上にミゼラブル(無情)なことがまたとあろうか」。大浜氏は悲憤を込めてこう記している。

人頭税哀歌、その1

 「愛と哀しみの島唄」の続編にあたる「人頭税哀歌」をすでにブログにアップしてあるが、ダウンロードしないと読めない形式だった。それで全文をすぐ読める形式で再度、アップしておきたい。

あゝ!何のために生れてきたのか

     ―人頭税哀歌―

目次

「あの世に消えたい」                        3             

一五歳から五〇歳まで男女にのしかかる                4            

水田がない島にも米を上納させる                   6           

八〇を超える村が廃村になる                     8

ムチ打ちと拷問で責め立てる                     9

ドレイのような「名子」が明治まで                  10

悲しい人口淘汰の伝説                        11 

定額人頭税で楽になったのか?                    13

泣く子を柱にしばり布を織る                     14

賄女をめぐる悲哀                          17

怨霊になった女の無念                        18

ジュゴンも人頭税で上納した                     20

悪税への抵抗のうねり                        21

宮古農民の勇敢なたたかい                      23

人頭税廃止のあやぐ                         25

                                                               

私の拙文「愛と哀しみの島唄」を読んだ人から「人頭税のことをもっと知りたい」という要望があった。人頭税がかけられたのは、石垣島をはじめとする八重山の島々と宮古島など先島だった。八重山、宮古の古い民謡は、この時代のつらい日々の営みの中から生まれたものがとても多い。すでに拙文の中で、いくつも紹介した。でも、まだふれていないものがある。人頭税の中身にも詳しくはふれていなかった。

いうまでもなく人頭税とは、田畑の面積や貧富に関係なく、人間の頭割りで税金をかけることである。といっても、実際にそれがどのように庶民を苦しめたのか、琉球列島の離島のことだけに、その実態はなかなか知られていない。沖縄でも「人頭税は本当に極悪非道な税だったのか?」と疑問視する議論がかなりある。それで、今回は人頭税そのものについて、少し分け入り、これにまつわる古謡、民謡も探ってみたい。もう最初からマニアックなテーマであるし、小難しい話だけに、とても付き合えないかと思うけれど、乗りかかった以上、書いてみたい。興味のありそうなところだけでも眺めていただければ、望外の喜びである。

Photo

      地機で布を織る女の図。蔵元絵師の絵に勝手に彩色したもの

「あの世に消えたい」

「年から年中追いまわされて働かされ、夜も昼も上納のために苦しめられて働いても、これはけっきょく義務づけられた人頭税納付のためでしかない。こんなに苦しんで得たものは、官に上納するための収穫であって、ほんとうに自分の家庭のために得ようと思うなら、シカマ星(金星)の光で働いて収穫を得ねばならぬ。ああ!私はなんのためにこの世に生まれてきたのだろうか」。

これは、当時の農民の嘆きの声である。大浜信賢氏が『八重山の人頭税』で紹介している。「納税ドレイ」のように働かされ、生きるしかない農民の血を吐くような叫びが聞こえる。

 人頭税は、なぜ悪税なのだろうか? わかっているようだが、「悪平等の制度でもなかった」という意見がある。もし、この税制が現代に導入されたとすれば、その本質はわかりやすい。年収二〇〇万円以下のワーキングプア(働く貧困層)も、年収一億円を超える社長でも、同じ人間一人当たりで税金をかけるとすれば、こんな悪平等はない。まあ古い時代に貧しい離島のなかでは、これほど極端な格差はない。みんなが貧しかったからだ。でも、貧しい人ほど負担が重いこの悪税のひどさは同じだろう。

しかも沖縄の人頭税は、琉球王朝の時代のことだけではない。明治になって、沖縄が日本国家に組み入れられてからも、二〇世紀の初頭まで八重山、宮古島の人々は、前近代的な悪税にしばりつけられていた。

人頭税の始まりは、今から四〇〇年前に薩摩が琉球を侵略し、琉球王府が薩摩に米や上布などを差し出すようになってからだ。薩摩は琉球の石高をつかむため検地を実施し、薩摩への貢納額を決めた。首里王府は、八重山、宮古島では一六三七年に人口を調査して、人頭税を実施した。

すでに、その前にも人頭税があったという説もある。これは、古代には御嶽(ウタキ、拝所)の祭祀をおこなう時とかその他の行事や工事など、物入りのある時は各戸に割り当てて粟や酒など「ぶー」を取り寄せていたという。「この『ぶー』の観念が発達したのが人頭税であろう」(稲村賢敷著『宮古島庶民史』)と見られる。これは現代でも、地域の自治会が会費を各戸の頭割りにするのと似ているだろう。地域で住民が共同の暮らしを営む上では、ある意味で自然の流れだったのかもしれない。

しかし、薩摩に支配された琉球王府が、先島を植民地のように扱い、住民から最大限に年貢を搾り取るための手段として人頭税を課したこととは、まったく質的に異なる。

人頭税は、明治三六年(一九〇三年)に最終的に廃止されるまで、実に二六六年の長きにわたって最悪の酷税として、先島の住民に塗炭の苦しみを与え続けた。

ただし、断っておきたいのは、沖縄本島と周辺の離島の人民も、税制が異なっていても、薩摩に支配された首里王府の下で、過酷な重税と抑圧によって、苦しめられたことには変わりない。でも、その違いを書き出すと長くなりすぎるので、省略する。

 

一五歳から五〇歳までの男女にのしかかる

では、人頭税はどのように課せられたのだろうか。人口を調査して、一五歳から五〇歳までの男女を年齢によって上、中、下、下下に区分して、税率に少し傾斜をつけて税をかけた。男女を同列に扱い税をかけるというのも、人頭税ならではのひどいやり方である。八重山は米が基本で、宮古は粟を納めた。女性は布を納めさせられた。納税には、琉球王府に納める正租だけでなく、薩摩藩に上納する重出米(オモデマイ)があり、米や粟など運搬するための経費や途中での口減り分も加えて貢租とされた。さらに、労役の代わりに米を出す夫賃米(ブチンマイ)、市町村税にあたる公費、村費、滞納予備の貯蓄費など人頭数で割り当てられた。後には、勧業費、衛生費、学校費なども負担させられた。

布を上納する女性も、正租、夫賃米は免除されたが、それ以外のものはみんな頭割りで負担させられた。貢租は、米や粟など現物で納めなければいけない。だから、サトウキビが換金作物として有利であっても、農民は自由に作れなかった。

住民は身分制で士族、平民(百姓)に分かれていたが、士族の負担は平民の半分くらいだったという。しかも士族が人口の四割ほども占めるほど多かった。その上、先島にいる役人は士族の出身で、頭(カシラ)、首里大屋子(シュリオウヤコ)、与人(ユンチュ)、蔵筆者(クラヒッシャ)といった上級役人は在職中も免職後も、夫婦とも終身、免税されたという。役人や士族が免税や税負担が軽い分は、そのまま平民にしわ寄せされた。

このように、王府と薩摩への二重の貢租に加え、公費をはじめ数々の追加の税が重いことが、過酷な負担となった。宮古島では三万五〇〇〇人ほどの人口に対し、役人、小使が合わせて七五六人もいた。これら役所の経費から役人らの給料、さらに死んだ役人の子孫に払う費用まで、農民らの血税でまかなわれたのである。

八重山では、役所を運営する予算にあてる「所遣米(トコロツカイマイ)」が次第に増えて、明治一二年(一八七九年)の琉球王国が最終的に廃止された「琉球処分」の頃には、「王府への貢租額に匹敵する額まで増大する」(黒島為一著「人頭税」)という膨張ぶりだった。

その陰で農民の暮らしはどんな実態にあったのだろうか。宮古の実例を見てみたい。農民は粟を作っても大半の人は粟の味も知らない。サツマイモを常食としていた。味噌を持つ者さえ島民の四人に一人ほどにすぎず、海水に水を加えて、サツマイモの葉やツル、海藻を煮て食べた。醤油さえ口に入らなかった。家といえば丸木を組み、草で屋根をふき、四面を囲んだだけの粗末な掘立小屋のようなものである。屋内も大半の人は土間だった。これは何百年も昔のことではない。明治の中期頃の姿である。一年の収穫より年貢の方が多いという例さえあった。農民はただ人頭税を納めるためにだけ、生き、働くような存在だった。

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   八重山庶民を苦しめたので首里城には行かない人が今もいる

「♪哀りまま やすまりむぬやりば 苦りしやまま 失しうりむぬやりば」

これは、八重山の代表的な民謡である「とぅぱらーま」の歌詞の一つである。

現代文に訳するとこんな意味に

なる(大浜信賢著『八重山の人頭税』より)。

「あまりにもつらいから、あの世で休めるものならば あの世に行きたい。あまりにも苦しいから、あの世に消えられるものならば、あの世に消えたい」

実際に、みずから命を断つ人や夜逃げして山の洞窟で暮らす人もいた。島から舟に乗り込み、集団で脱出するということもあったそうだ。波照間島には、南の彼方に「パイパティローマ」(南波照間の意味)という楽園があると信じられていた。一六四八年、平田村の百姓四〇―五〇人が島を脱出したと、史書『八重山島伝来記』にも記されている。与那国島にも同じような「ハイドナン」(南与那国の意味)への脱出伝説がある。沖縄では、海の彼方に「ニライカナイ」という神の住む楽園があると信じられていた。「パイパティローマ」もこの楽園と重なり合っていたのだろうか。それにしても、楽園がある確かな事実は何もないのに、島を出て大海にこぎ出すというのは、尋常ではない。人頭税がもはや、生きて耐えられないほどの重圧だったことを示している。

人頭税を逃れるために、あえて自分の手足を切って「匹人」(ヒキニン、障害者)になる人もいた。役人に頼んでドレイのような「名子(ナグ)」になる人も後を絶たなかった。

 

水田がない島にも米を上納させる

いかに人頭税がひどいと言っても、税制を見るだけではその実相はまだよくわからない。人頭税によって何が起きたのか、もっと詳しく見ていきたい。

人頭税は、現物納が原則だったということは、どんな事情があろうと、宮古は粟、八重山は米を作らなければいけない。しかし、米は水の利便がなければ作れない。サンゴ礁でできた離島では、水田がほとんどない島、地域がある。八重山はたくさんの島々から成り立っている。米があまりとれない島、地域の農民は、どうしたのだろうか? 

水田で米を作れる島に通う「通耕」によって米作をした。波照間島、鳩間島、竹富島などから西表島に出かけた。といっても、西表島は恐ろしいマラリアの危険な地域が多かった。石垣島でも、マラリア有病地がいくつもある。そんな危険な場所であっても、米作りのために出かけなければならない。海が荒れると通うのも危険になる。粗末な小屋を作って、そこに泊まり込んで農作業をしたという。島だけでは二∼三〇〇人しか住めない鳩間島には、通耕によって七∼九〇〇人が暮らせたといわれる。

「ああ、考えれば、己が属島に水田なきも、琉球王府は米穀の人頭税を賦課す。之を非道と言わずして何と言う。農民の困難、誠に気の毒なり」

明治中期に沖縄を訪れ、先島の惨状も詳しく見聞した青森県弘前出身の笹森儀助は『南嶋探験』で、義憤をこめてこう記している。

八重山民謡で古典舞踊曲にもなっている「鳩間節」という曲がある。私が通っている民謡三線サークルの練習曲にも入っている。

「♪前方の海を見ると 往来する舟が 面白い眺めである」

「♪稲の穂を満載した舟 粟の穂を満載した舟の姿で 見事な眺めだ」。

初めは「なぜ舟に米や粟を積み上げるのか?」と不思議だった。水田のほとんどない鳩間島の島民は、米貢を強制され、命がけで海を渡り、西表島の未開地を開拓した。田小屋に泊まり込み、田植えをし、夏には稲粟を取り入れ、舟に積み帰ってきたという。もともと西表島にいた住民は、鳩間人をねたみ、田の返還を求めた。このため、鳩間人は新たな開拓を迫られた。そんな住民相互の対立まで引き起こしていた。唄には、西表島の住民を見返すという歌詞がある。住民が反目させられたのも、人頭税がもたらした不幸な出来事である。

こうした米作りのために他の島に通うことにとどまらず、開拓のために強制移住させられたのが「島分け」の悲劇である。首里王府は、窮迫する財政の立て直しのため、八重山、宮古で住民を移住させ、新村を建て開拓を進めた。その際、村を通る道で線引きする「道切り」で移住者を決めたため、恋人や夫婦でも生木を引き裂くように分けられた。これは「愛と悲しみの島唄」で詳しく書いた。

恋人や夫婦が引き裂かれた悲劇を歌った民謡は前に紹介したので、ここでは、怨みをこめたとみられる「子守歌」を紹介したい。宮古島の保良(ホラ)に伝わる唄だ。

「♪お前のお父さんはどこへ行った お前のお母さんはどこへ行った 上役人たちを殺害するために毒魚を取りに行った」。これが子守歌とは! 空恐ろしい唄だ。

保良は遠く辺鄙な場所で、土地も痩せていて、次第に荒廃しつつあったので、開墾のための移民を送って村立をすることになり、同じ宮古島の砂川、友利両村から送られたという。移住民はどれほど苦労させられたことだろう。「当局の処置を怨み憤ったものと見えて、遠廻し皮肉の自嘲的態度を捨てて率直に怨嗟の声を投げつけている」(稲村賢敷著『宮古島庶民史』)。それがこの「保良の子守歌」だという。それにしても、役人を殺すため毒魚を取りにいくとは、ただごとではない。実際にそんな報復があったのかどうかはわからない。ただ、移住させられたことへの悲しみや嘆きにとどまらず、強い抗議の意思を込めていることが注目される。

 非情な強制移住は、明治になってからもあった。母親と子どもを引き裂くという移住の記録がある。明治九年(一八七六)から二年余り、目差(村の助役)をしていた役人の日記にこんな記述がある。

大浜村のカナは、祖母とまだ三歳の子を含む子ども三人を残して、白保村のタラは六歳の子ども一人残して、母親が移住させられた。祖母と子どもたちが「親子が離れては子育てに差し支える」といって移住を願い出たという。いくら祖母がいたとしても、幼子を残して母親を移住させるなんて狂気の沙汰である。

役人の旅妻(現地妻)も例外ではなかった。沖縄本島から石垣島に赴任してきて役人の旅妻となり、子どもを産んでいた女性が移住を命じられた。開拓地は風気が悪い(マラリアの危険がある)ことを心配し、母親はわが子を役人方に残せるように要望したという。旅妻も移住の対象にされたといっても、役人からも願い出があると、結局この母親は元の村に帰したという。やっぱり、役人には甘かったことがうかがえる。

ところで、石垣島の古文書を読んでいると、奇妙な記事にぶつかった。それは、百姓がみずから他の島や地域への移住を願い出たと書かれた例があることだ。なぜなのだろうか? 役人が移住を願い出るように誘導したのか、海を渡って耕作に通うのも危険が伴うので、いっそ移住を決断したのか。それとも、耕地は少ないのに年貢は重く、やむなく開拓を迫られたのだろうか。021

    「かでな道の駅」にある野國総管の銅像

とくに、八重山の人口は一六八〇年頃から百年近い間に急激に増えたという。なぜ急増したのか? 一つの理由は、甘藷(サツマイモ)の伝来だ。一六〇五年ころ中国から嘉手納の人・野國総管(ノグニソウカン)が持ち帰って、それが普及した。このため、災害などによる飢餓で苦しめられる庶民の命を救った。なにしろサツマイモはその後長く、沖縄では主食の地位を占めたのだ。これは余談である。このように、人口が増えて新たな開拓と移住が必要だったという面もあるようだ。まだ真相はよくわからない。でも、百姓が故郷を捨てるのは、よほどの事情があってのことであるのは間違いない。

2012年2月28日 (火)

愛と哀しみの島唄、その6

遊女と士族の恋歌

最後に紹介したいのは、那覇にあった遊郭の遊女と士族との恋歌である。沖縄では、遊郭のことを尾類=じゅりという。これは「女郎」と同義語だそうだ。女郎と書いて「じゅり」とも読ませている。

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困窮した百姓たちは、娘の身売りをしなければ、滞納する上納物は納められない状況にあった。一六七二年に、那覇で初めて辻、仲島に二つの遊郭を設け、方々に散らばっていた遊女を集め、公娼制度を認めたという(宮城栄昌著『沖縄女性史』)。遊女は、地方の貧しい家の娘が身売りされてくることが多かった。

遊郭といっても「歌舞音曲もやった。芸妓の性格を持っていた。金銭の力で身を売らない信念と誇りを持っていた」という。これが辻の「ジュリ気質」だった(『那覇市史資料篇第二巻中の七』)。

   写真は遊郭のあった仲島にある大岩

なぜか、那覇の恋歌は、この尾類、遊女にかかわる唄が多い。士族がそれだけ遊郭で遊ぶことが多かったからなのだろうか。

「ヒンスー尾類小(ジュリグヮー)」という唄は、こんな歌詞である。「ヒンスー」とは貧しいことだ。

「♪貧乏な遊女は呼びなれて 抱きなれて 金持ち遊女は気位が高い 手が出ない」

「♪馬車持ち兄さんに 呼ばれた時は 砂糖のかけら貰えるよ 呼ばれろよ」

「♪泡瀬(アワセ)の青年に 呼ばれろよ 塩のおこげをもらえるよ」

「♪糸満の兄さんに呼ばれた時は カツオの内臓貰えるよ グルクンの頭貰えるよ」

貧しい遊女の姿が映し出されている。

遊女が詠んだこんな琉歌がある。「親ぬ産し口や 尾類んちや産さん 哀りからなたる 尾類どぅやゆる」。どんな親でも、遊女にするために子どもを生むのではない、困窮のために遊女になったのだ、というような意味である。極貧のために、どれほどの女性が遊女に身を落としたことか。

辻の遊郭に入口には、西武門という門があった。門は「じょう」と読むので、「にしんじょう」と読む。遊女は勝手に門から街中に出れなくなっていたので、遊びにきた男性をこの門で見送ったそうだ。首里の士族を送る際の様子を歌った唄がある。

「西武門節」という。沖縄芝居で歌われヒットした曲だ。

男「♪出かけるよお前」、女「お待ち下さいあなた 西武門まではお送りします」男「♪おしどりの契り変わらないように 染めてあげるからお前を紺地色に」

女「♪染めるならあなた 小烏(コガラシ)のようにね 浅地なら(浮気の意味)ご免ですよ」

女「♪今日は首里に帰って いついらっしゃるのあなた」
男「お前の面影とともに 忍んで来るよお前」

女「♪次に来る時は人力車で来てね 私は西武門でお待ちしています」

男「♪淋しく一人 私は帰って行くのに お前は宿に戻って 華やかな宴だよ」

遊郭で遊んだ帰りの遊女と士族の関係の雰囲気が、とてもよく表現されている。恋仲ではあっても、遊女と士族だから、彼が「紺地色に染めてあげる」、つまり本気で愛してあげるよ、といっても、彼女はどこまで信じていいのか。「浮気ならご免ですよ」というのも、これまでも信じて裏切られたことをたびたび体験しているのかもしれない。彼が帰り際に「お前は宿に戻って華やかな宴だ」というのも、また他の男の相手をするのか、という淋しさがよぎる。とても情感のある曲なので、民謡でも人気がある。

008 尾類の遊女でありながら、琉球王朝の時代を代表する女流歌人として名高い吉屋(ヨシヤ)チルーを歌った曲に「吉屋物語」がある。吉屋は恩納村(オンナソン)で生まれた。「チルー」というのは「鶴」のウチナーグチ(沖縄語)の言い方だ。ちなみに、吉屋チルーと並ぶ女流歌人に恩納ナビーがいる。やはり、恩納村の生まれ。二人とも恩納村の出身で、同じ一八世紀を代表する歌人だ。恩納ナビーはやはり「ナベ、鍋」のウチナーグチだ。「ツル」「ナベ」というと味気ないが、「チルー」「ナビー」と言うと、とっても可愛く聞こえる。ここにもウチナーグチの優しい表現が見える。「吉屋物語」の歌詞を紹介する。写真は、比謝橋のある吉屋チルーの歌碑

「♪誰(タ)がし名付きたが 吉屋言る人や 琉歌(ウタ)ぬ数々や 代々に残(ヌク)て」

「♪あてなしが童 家庭(チネエ)ぬ困難に 女郎花(ジュリハナ)に落てて 行ぢゃるいたさ」

「♪女郎花に落てて 行ちゅる道しがら 渡る比謝橋(ヒジャバシ)に 恨みくめて」

「♪琉歌にちながりて 見染めたる里と 想い自由ならん 此(ク)ぬ世(ユ)しでて」

だいたい分かる歌詞だが、念のため意味を書く。「誰が名付けたか、吉屋という人や 琉歌の数々を世に残して。貧しさのため まだ子どもだったのに 女郎に落ちて行く辛さよ。女郎に落ちて行く道すがら 渡る比謝橋に 恨みをこめる。琉歌を詠みあった縁で 見染めた彼氏は いくら思っても一緒にはなれない この世では」。

比謝橋というのは、遊郭のある仲島に向かう道中、読谷と嘉手納の境にかかる橋だ。チルーが見染めた彼氏は、首里の中里若按司(ワカアジ)といわれる。按司は大名の身分にあたる。厳然とした身分制の下では、いくら愛しあっても結ばれない不幸な出会いだった。

いま紹介した歌は、吉屋チルーが詠んだ琉歌ではない。唄の間にチルーの詠んだ琉歌が挟まれている。琉歌は「ツラネ」と言って、独特の節をつけて読み上げる。

「恨む比謝橋や 情(ナサキ)ねん人ぬ 我(ワ)ん渡さんと思(ム)て 掛きてうちえさ」。「恨みの比謝橋よ 情けのない人が 私を遊郭に渡そうと思って この橋を掛けたのか、この橋さえなければ⋯⋯」というような意味である。女郎に売られるわが身の不幸、辛さを橋への恨みの形で表現している。吉屋チルーはわずか一九歳でこの世を去った。まことに薄幸の歌人である。

妾を持った士族

士族は恋愛の自由はなかったといったが、その半面、士族の役人などは、妾をもつことがあったようだ。だいたい、琉球国王は、王妃以外に何人もの側室を置いていた。第二尚氏の四代目、尚清王は、王妃の他に夫人三人、妾一人がいた。一七代目の尚灝(ショウコウ)王は、王妃の他に夫人二人、妻八人がいた。琉球王国が廃止され最後の国王となった尚泰王は、明治中期まで生きていたが、やはり王妃の他に夫人二人、妻六人いた。夫人、妻といってもやはり側室である。まるで一夫多妻制のようである。

士族は、家系の存続をなにより重視する。本妻に子どもが生まれないと、妻が夫に妾を持って子どもを生ませるよう勧めることさえあった。先に紹介した名高い政治家・蔡温の父がそうだった。子どもの生まれない本妻のたっての要望で、妾に子どもを生ませた。すると数年後、本妻に子どもが生まれた。それが蔡温だ。異母兄弟になるけれど、兄弟は仲良く暮らしたそうだ。これは、ちょっと本題から離れてしまった。

首里王府から離島に派遣される役人が、旅先で現地妻を持つことを、本妻も公認していたようだ。だから、役人との間に子どもができたら、「役人の子どもとして奥様からも愛された」ともいう。

本妻と妾の関係を歌った唄もある。与那国島の「スユリディヌドゥンタ」という曲だ。

内間間切の新城親方家の息子は、名門をカサにきて、一人の妻で満足せず、西方の島に渡って、美女を妾にし、歓楽にふけっていた。首里王府から御用の王命があり、驚いたが、妾の家には礼服を用意できないので失望した。本妻にお詫びをすると、本妻は蝶型の礼服と羽衣のような礼服を用意し、着させて首里城へ行かせた。途中、大雨で礼服はずぶ濡れになり登城できなかった。本妻を苦しめた罪だと懺悔した。

「♪本妻が非常によい 家にいる刀自(トジ、妻)を 一段と見上げて悟った」。

本妻を賛美する唄である。刀自とは、家の戸主のことだが、沖縄では妻のことである。いまは「妻」と書いて「とじ、つじ」と読んでいる。

終わりに

最後に、先にふれたもう一人の女流歌人、恩納ナビーを上げたい。彼女の代表的な琉歌がある。「恩納岳(オンナダケ)あがた 里が生まれた島 もりもおしのけて こがたなさな」。歌の意味は「恩納岳の向こう側は、彼氏が生まれた村である 山も押しのけて こちら側に引き寄せたい」。山を押しのけても彼氏を引き寄せたい、とはなんという激しい情熱のほとばしりであろうか。悲運の歌人、吉屋チルーの悲しみと恨みに染められた琉歌とは、対照的である。018

            写真は恩納村にある恩納ナビーの歌碑

もう一つの有名なナビーの琉歌は、旋律がついて歌われる。

「♪恩納松下に 禁止(チジ)ぬ碑(ハイ)ぬ立ちゅうし 恋忍(クイシヌ)ぶまでぃぬ 禁止やねさみ」。

歌の意味は「恩納村の役所の前の 松の木の下に 色々と禁止事項を書いた立札が立ているけれど 恋を禁止するとは書かれていないから 恋をするのに何も恐れなくてよい」。唄は「恩納節」といい、古典の名曲として知られている。

    

当時、琉球は中国皇帝の臣下となっていた。国王を任命するために、皇帝の勅使として琉球に冊封使(サッポウシ)が訪れていた。「冊封使・徐葆光(ジョホコウ)が一七一九年北部観光の途中、恩納村に一泊するというので風紀の乱れを見せたくないという役人らしい発想から青年男女の毛遊びを禁止した」という(川平朝申(カビラチョウシン)著『沖縄の歌と踊り』)。その立札だったのだろう。役人が居丈高に「禁止」の札を立てることを風刺している。そして、少しもひるまない、動じない。誰も恋を禁止なんてできないよ、若者よ、恐れることなく恋を楽しもう、と呼びかけている。そういう庶民のたくましさがある。この琉歌は、おおらかでたくましい沖縄人の精神がギュッとつまっているように思う。

沖縄は、古代から孤島苦とも言われる厳しい自然条件にある上に、薩摩の侵略を受け、琉球処分で明治の天皇制国家の支配下に置かれた。あの沖縄戦では未曽有の惨禍を受け、さらに異民族による軍事支配というたび重なる災難にあってきた。しかし、たくましく、したたかに、おおらかに、希望を失わず生き抜いてきた。一歩、一歩前に向かって歩み続けてきた。その力の源はどこにあるのだろうか?

人を愛する、恋する心は、人間のもっとも人間らしい感情の現れである。それは人が生きる力になる。人生を彩り豊かにもする。そして、恋と結婚は、人間社会が存続し、発展を続ける根源的な要素でもある。

いままで書いてきたように、琉球・沖縄に生きる人々は、限りない恋や愛の営みの中から、数え切れない恋歌、情け唄、哀歌を作り上げてきた。八重山には、ユンタ、ジラバ、アヨウなど古謡の種類があるが、最も古いアヨウは「心」(あゆ)が転化したものであり、「心、肝に湧き起こった感情そのままをうたった歌であった」(喜捨場永洵著『八重山民謡誌』)という。「心の思いが歌」なのである。琉球の古歌謡を集めた『おもろさうし』の「オモロ」は、やはり「心の思い」から転じたものだという。古謡、民謡には島々に生きる庶民の「心の思い」、つまり「精神世界」が映し出されている。

歌や踊りなど芸能は、日々の生活の苦しさや労働の辛さから、心と体を癒し、抑圧され虐げられてきた精神を解き放ち、明日への生きる力と意欲を再生するうえで、欠かせない。哀歌も、悲しみや憤りを吐き出すことによって、悲しみを癒し、苦しみを共有しあい、くじけない心をつちかってきたのかもしれない。そんな芸能の中でも、特別な位置を占めてきたのが、恋歌、情け唄、哀歌ではなかっただろうか。そのことを改めて強く思い知らされた「愛と哀しみの島唄」である。 

(終わり。二〇〇九年九月二〇日、文責・沢村昭洋)

参考資料

滝原康盛編著『琉球民謡解説集』『沖縄民謡大全集』、喜捨場永洵著『八重山民俗誌』『八重山古謡』『八重山民謡誌』、仲宗根幸市編著『琉球列島島うた紀行第一、二、三集』『「しまうた」を追いかけて』、上原直彦著『語やびら島うた』『島うたの小ぶしの中で』、小浜光次郎編著『八重山の古典民謡集』、新里幸昭著『宮古歌謡の研究』、『村誌たらま島 孤島の民俗と歴史』、『平良市史第一巻通史編1』、『伊良部村史』、『那覇市史資料篇第二巻中の七』、亀井秀一著『竹富島の歴史と民俗』、鳥越憲三郎著『沖縄庶民生活史』、宮城栄昌著『沖縄の歴史』『沖縄女性史』、川平朝申著『沖縄の歌と踊り』、池宮正治著『沖縄ことばの散歩道』、岡本太郎著『沖縄文化論』、『八重山歴史読本』。ネット「島唄まじめ研究」その他の関連サイト。

     

愛と哀しみの島唄、その5

人頭税のもとで幾多の哀史

役人と島の女性をめぐる唄は、現地妻のケースだけでなく、まだまだたくさんある。そこには、沖縄という離島特有の哀史というか、悲劇の歴史が隠されている。とくに、宮古島、八重山など先島では、人頭税(ニントウゼイ)の重圧が住民を苦しめた。琉球王国を一六〇九年に侵略した薩摩は、早速、琉球の検地をおこない、薩摩への貢納の種類と量を決めた。琉球王府は毎年、多額の貢納を薩摩に出すようになり、とても財政が窮迫した。一六三七年、宮古、八重山の人口を調査し、それまで本島と同じだった税制を変え、田畑の面積にかかわりなく、人間の頭数で税を割り当てる人頭税を実施し、島民の貢納は重課された。この人頭税は、明治三六年(一九〇三年)に正式になくされるまで、なんと三〇〇年近くも先島の住民を苦しめ続けた酷税であった。

人頭税は、役人など除く一五歳から五〇歳までの男女にかけられた。粟による貢租、女性には布の貢布、労役の代償の夫賃米、公費、村費がかけられた。人頭税の過酷さを物語るエピソードは数多い。

人口が増えればそれだけ税が加重されるので、妊婦に岩の割れ目を飛ばせて人口の調節をしたとか、嬰児殺しが横行したという。滞納すると拷問にかけられる。拷問器にかけられ障害が残った人も出た。債務が増えすぎて、奴隷のような名子(ナグ)に転落する人も多かった。明治の後半まで、この南島に人頭税と奴隷のような存在があったことは、まだ全国的にはあまり知られていない。人頭税が廃止された裏には、廃止を求めて立ち上がった宮古島の人たちの勇気あるたたかいがある。それを歌った民謡もあるが、もうここでは省略する。

人頭税にまつわる哀歌は、女性による布の貢布にかかわるものが多い。宮古の場合を見てみたい。女性はみんな貢布の義務があり、士族の女性は簡単な白上布を担当し、平民の女性は難しい紺地の上布を担当したという。

上布とは、麻織物の着物用の布である。江戸時代は、武士の正装は麻織物だった。沖縄で作られた宮古上布、八重山上布を、薩摩では「琉球上布」と呼んだ。宮古上布の三分の二は、琉球王府から薩摩に運ばれたという。これが「薩摩上布」と呼ばれて、将軍にも献上され、京都、大阪から全国にも流通していったそうだ。NHKの大河ドラマ「篤姫」に見るような、薩摩の殿様や篤姫らの優雅な暮らしや衣装の底辺には、琉球の女性の悲哀が横たわっていたのである。

宮古では、各村の「ぶーんみゃー」と呼ばれた番所には、染屋と織布小屋があった。「ぶーんみゃー」とは宮古方言で、上布を織る屋という意味である。布を作るに当たって、各村の村頭の采配で、糸づくり、織り手、藍染めの分野に分かれて作業したという。

織り手は村の織女の中から、上手な織り手を選んで、貢布を織らせた。選ばれた人は他の課役は免除されるが、上布を織りあげるまで数カ月間、朝早くから夕方まで、番所に詰めて作業する。薩摩に献上する上布は検査がとても厳しかった。もし悪い品質の布を出せば、織女、村役人全部の責任であり、上役まで罷免されたという。Photo_2     地機を織る女性(石垣市の博物館で展示されていた写真)

だから悲痛な思いで機織りにあたった。「その労苦は文字通り想像を絶するもので、織女の肉は落ち、色は青ざめて、毛髪まで抜け落ちたといわれる」(『伊良部村史』)。

番所で織機にあたる女性は「貢布織女(コウフオリメ)」と呼ばれた。厳しい検査の際は、織女たちは「検査が始まって終わるまで 織女たちはひざまずいて神に念じつつあやぐを歌ったものである」(同書)という。

ひどかったのは、検査の役人が職権を背景にして、目をつけた織女を手に入れようとする横暴がまかりとおったことである。

「村の役人の多くも平良(宮古島)親国の出身であるから、単身村に赴任してきては、その任期中に多くの可憐な乙女にアカサ(赤ちゃん)を生ませるということがごく普通のなりゆきであった」「この貢布座の役人の無理無体を退けることができない地方村々の織女たちが、しばしば役人の子をはらんでその始末に困るものが限りなくでた」(同書)。

抵抗する女性の姿を伝える

人頭税の重圧と役人の横暴のなかで、島の女性たちは、ただひたすら虐げられたばかりではなかった。

宮古の「上地ぬ主ぬ布納み(ウイズヌシュヌヌヌウサ)アーグ」という唄は、役人による貢布のきびしい検査の様子をリアルに伝える。「アーグ」は通常は「あやぐ」という。宮古歌謡の一種で、美しく歌い上げる綾言葉というような意味だ。

「♪どうか尊い方の上地の主様 私の布をお受け取り下さい」

「♪カナガマよ お前の布には汚れがついているぞ」

「♪上地の主様 汚れのつかない布などございません」

「♪どうか上地の主様 子をいつくしむ慈悲でお納めください」。

女性たちは検査の日が近づくと、神仏に祈り、役人の機嫌をうかがう人もいる。その心労は大変だったという。唄からは、精一杯の抵抗をする女性の姿がうかがえる。

「石嶺ぬあこう木ぬアーグ」という唄は、より感動的な内容である。伊良部島の話だ。

美貌と才知にたけたダニメガという女性に惚れた役人は、自分の側に仕えよと命じてきた。ダニメガは「沖縄(本島)に上って大親主になって戻ってきたらお受けしましょう」と断った。ところが役人は沖縄に行き、しかも出世して帰ってきた。さあ困ったダニメガは、役人の求婚に対しこう歌って答えたという。

「♪石嶺のあこう木は 石に気根を巻きつけ 根を張っています 私はもうすでに結婚し 夫とともに深く根をおろしています」。こう切り返された役人はついに諦めざるを得なかったという。 

検査の合格、不合格を決定する役人の要求を拒否したら、彼女だけの問題ではなく、村全体の貢布の検査にも影響が及ぶことが心配された。かといって、検査のために身を売ることは絶対に許せなかったのだろう。この唄に込めた叫びが聞こえてくるようだ。

もう一つ、「豆が花(マミガパナ)」という唄も、理不尽な役人への抵抗を歌ったとってもいい曲だ。

「♪朝咲く豆の花のように 夜明け前露を受け咲く花のように 豆の花は一時だ」

「♪おいおい前里のおやじ お前の娘を俺にくれろ」

「♪私の娘のマカマドウは 位の高い役人様とは 身分が違います」

「♪男と女は一緒になれば 身分の違いは 気にならないものだ」

「♪私の娘は年もまだ一七歳で 肌を見れば まだ子どもですよ」

「♪言うことを聞かないと 二〇ヨミ織らせるぞ 細い糸つなぎをさせるぞ」

「♪二〇ヨミ織らせてもよい 細物でも織りますよ(でも娘はお断りします)」。

人頭税時代の実話物語だという。この「二〇ヨミ」というのは、最も細かい上布で精密な織りものだという。紺細上布を仕上げるには、クモの糸のような細い糸を紡ぐ高度な技術が必要とされ、難しい作業だったようだ。役人に刃向えばどんな仕返しがあるかもわからない。でも、傲慢な役人にひるまず、毅然として抵抗する親と娘のけなげで、勇気ある姿は、感動的である。いまこの唄を練習しているところだ。旋律も三線の音色もとっても味わいがある。叙情的というよりも、凛とした美しさがある。

実は、この唄には歌詞が二通りある。もう一つの歌詞は、まるで役人と娘のかかわりなど無関係に、ただ豆の花の成長を歌っただけの曲である。なぜ、こんな二種の歌詞があるのか、だれかが改作でもしたのだろうか。絶対、実話の歌詞で歌うべきだと思う。

竹富島には、上布の原料となった苧麻=いらくさをめぐる悲しい話をもとにした曲がある。苧麻とはイラクサ科の多年草で、茎の皮から繊維をとり、糸を紡ぎ織る。夏の衣服そして最高の素材だといわれる。唄は「中筋ぬぬべーま節」という。

Photo_3         竹富島

中筋村のヌベマは村一番の美女だった。人頭税の時代、竹富島に赴任した与人・玉得は島に水ガメもなく、御用布の原料・苧麻もない。そこで隣り島の新城島(パナリ)の与人・新垣に水ガメと苧麻を分けてくれと頼むと、新垣はその代償に賄女を世話してくれと要求した。竹富の与人は、村番所に勤めていた男の一人娘のヌベマに目をつけ、新城島の与人の賄女となるよう命令した。彼女は、水ガメと苧麻を得るための人身御供となった。涙のうちに娘は親と別れて、嫁いで行ったという。

「♪いかなる理由でヌベマをやったのか 何人のゆえに新城島へ嫁がせたのか」。

この一節には、胸にこみ上げる思いが込められているようだ。親も番所に勤めていたので、役人の要求を拒否できなかったのだろう。これも人頭税下の離島ならではの悲劇である。なぜ一人娘を送らせたのか、役人への強い非難と抗議の意思が感じられる。

役人を笑い飛ばす庶民の心意気

役人と地元女性をめぐる唄は、哀歌ばかりではない。なかなか面白いというか、興味深い唄がいろいろある。その一つが、本島北部にある「汀間当節(ティマトゥブシ)」である。

「♪汀間と安部の境、川の下の浜に下りて汀間の 丸目加那と請人(ウキニン)神谷との恋の話は本当かな 真実(マクゥトゥ)かな」

「♪神谷の言葉は何だと言ったか 年明けて四、五、六カ月あたりになったら使いが来るので 辛抱して待っていてくれ よくやったぞ丸目加那」。

こんな風に唄は続く。これも実話が背景になっている。「請人」というのは、王府への上納物を取り立てる役人のことである。神谷も実在の人物だという。

首里の役人・神谷と美しい娘・加那が恋をした。村人に恋仲を知られるのを恐れて、二人は汀間村と安部村の境にある川下の浜で密会を重ねた。いつしか村人が知るところになった。加那に恋していた村の青年は、あの手この手で二人の仲を裂こうとする。相手が役人で勝ち目がない。青年たちは、二人の恋路を唄にしてはやしたてたので、神谷はいたたまれずに、「また迎えに来るから辛抱して待っていてくれ」と首里に帰った。加那は一人泣くばかりだった。村人は神谷の薄情さと加那の軽薄さを「よくやった」とあざけり笑った。

前述の上原直彦氏はこう解説する。「相手が役人では『力』では勝てない。そこで、武器にしたのが゙歌゛。ふたりの仕業をたくみに詠みこんで、はやらせたのである。今風にいえば、役人のスキャンダルをはやり唄にし、公にすることによって抵抗したことになる⋯⋯『島うた』という ゙花゛は立派な武器になりえたわけだ」(『語やびら島うた』)

権力をもつ役人が、若い村の女性を誘えば、娘も、役人に田舎の若者にはない魅力を感じて、恋することもあっただろう。でも地元の青年が、あこがれの美女を奪った首里の役人に、嫉妬心や強い反感をもつのは、ごく自然のことだ。それにしても、唄を武器にして役人をいたたまれないようにするとは、庶民の見事な抵抗術である。

役人と地元の娘との恋を冷やかす唄は、宮古島でもいつくかある。例えば「平安名(ピャンナ)ぬまちゃがまがアーグ」。平安名のマチャガマは美人で、役人のいる番所に通う。「口説かれるなよ」と言うと、彼女は「口説かれません。自分の村から男を探すので」という。でも、マチャガマの股引を見れば、難破した船の赤毛布、黒毛布を掌ほどの大きさで覆っているだけ、と皮肉る。役人の愛人になった彼女への嫉妬と面当ての悪口の唄だ。

「中立(ナカダティ)ぬみがままがアーグ」という曲も役人と美女のミガママの恋仲に嫉妬した唄だ。役人は亀浜親という。「♪亀浜親の手拭は、ミガママの下着にして、ミガママの下着は、亀浜親の手拭にする」と、冷やかす。あまり品が良くないが、これらも、やはり役人が職権を利用して、地元の美女を惑わすことへの、庶民なりの風刺である。

もう一つ紹介しておきたいのは、津堅島(ツケンジマ)を舞台にした「取納奉行(シュヌブヂョウ)」という唄だ。津堅島は、本島中部の勝連半島の沖にある。いまはニンジンの産地で「キャロットアイランド」と呼ばれている島だ。取納奉行というのは、税金を定めるためにやってくる役人である。津堅島にも役人がやってくるときの騒動を描いている。長いので、簡略にする。

「♪意気込む取納奉行はいついらっしゃるか 津堅の崖に登って浜を見たら奉行がお越しになる 浜に着くと奉行が言うことには 今日は娘を取ってくれよ 津堅の頭(カシラ)たちよ 奉行の相手の娘に誰がなるか 津堅神村祝女殿内(ヌンドンチ)のカマドに頼もう あれほどの奉行の前に近寄るのに 下着も下袴も着けない者を行かせるのか 下着、下袴を貸せば行くか 応じれば金儲けができる いやいやすると尻をぶたれるぞ 根殿内(ニードンチ)のばあさんが娘に同伴して お宿に連れて行くのだ 五人の娘たちは お宿で男女の語らいをして 奉行はお喜びされた 奉行の贈り物は 匂い髪付け、紙包など数々あった 他の役人の贈り物は手拭い、指輪だけ 貧乏役人は取り持った甲斐もない」

税金を定める役人といえば、島の人々にとっては恐れられる存在だろう。その権力をカサにきて接待の女性を連れて来させるという、身勝手な姿が描かれる。やっぱり唄は品があまりよくない。でもそれが、庶民の唄のおおらかで、面白いところだ。なにかユーモアがある。役人への風刺の精神が漂っている。曲も早弾きの軽快なテンポで、演奏しても楽しい。

023      2012離島フェアーで八重山民謡を歌うお兄さん

2012年2月27日 (月)

愛と哀しみの島唄、その4

役人と現地妻の涙の別れ

つい、恋歌から離れてしまった。話を恋歌に戻したい。八重山や宮古の古い民謡を歌っていると、首里王府から任命されて派遣された役人が任期を終えて島を離れるとき、現地妻と別れる悲しみを歌った唄に、たびたび出会う。「与那国ションカネ」「多良間ションカネ」などがある。哀愁を帯びた旋律で、とっても味わいがある。いずれも八重山、宮古を代表するような情け唄の名曲である。

「与那国ションカネ」は、こう歌う。

「♪お別れの盃は胸に迫り 涙があふれて とても飲めません」

「♪片帆を上げたら気が気ではなく 諸帆を上げたら 両眼から涙が落ちてきます」

「♪与那国に海を渡るのは 池の水を渡るようなもの 心易々と渡ってきて下さい」

 与那国島では、島に派遣される役人は、白砂の美しい「なんた浜」から船で出入りした。任期を終えて帰任する役人は、この浜で妻子と涙の別れをしたという。与那国は石垣島からも遠く離れた日本最西端の島であり、渡海するにも「池の水」のようにやさしくはない。でもあえて「池の水」のように穏やかな海だと歌っているところに、気軽に海を渡ってきてほしい、という願いが込められているようだ。

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「多良間ションカネ」もやはり、役人を浜に見送りに行く様子が歌われる。

「♪前泊の小道から 浜へ降りる坂から ご主人の船を送ります」

「♪片手で子どもを連れて 片手には瓶の酒を持って 主人の船を見送りに行きます」

「♪東に立つ白雲のように また上方に立つ乗り雲のように 偉くなって下さい 私のところに帰ってきて下さい」

八重山、宮古の島々に、沖縄本島や他の島から派遣される役人は、妻子の同伴はできなかった。現地の女性を賄女とさせていた。早く言えば、現地妻である。なぜ、本妻でもないのに、こうも別れの悲しみが歌われるのだろうか、ちょっと理解ができないというか不思議だった。でも、考えてみると現地妻といっても、一緒になった島の女性にとって、役人は夫と同じである。子どもをもうけ、何年も寝食をともにした家族である。家族としての愛情を深めているだろう。そんな家族が引き裂かれることになる。再び会える日がくるかどうかもわからない。永遠の別れになるだろう。だから、残される女性にとっては、やり切れない悲しみである。これほど唄に歌われているということは、背景にたくさんの涙の別れがあったことだろう。139_2        石垣島のビーチ

悲哀を味わされた「旅妻」

島に派遣された役人と現地妻をめぐっては、数々のドラマがある。だからとにかく唄も驚くほど多く残されている。そこには、先島の歴史の断面が見える。少しその様相を見てみてみたい。『村誌たらま島 孤島の民俗と歴史』から紹介したい。多良間(タラマ)島は宮古島と石垣島の中間にあり、離島の中の離島である。士族の多い島で、島の上級役職の大部分を、他島の出身者で占めていた。他島出身の役人は、島の女性を囲うならわしがあり「旅妻」と呼ばれた。「旅妻」とは「旅先の妻」というような意味らしい。

島に来る役人は「滞在中同棲し、転勤するときは置き去りにする。若い子女たちは、新任の役人が来るたびにこれにおびえ、人目を避けるような生活をしなければならなかった。いっぽう島の中堅男子たちは、この犠牲を決めるために苦悩したという。命令を受けた女子はこれに反することはできなかった。断わって役人の感情を害すると、村全体に仕返しがくるおそれがあったからである。旅妻をさけるために近隣の男と結婚したかたちをとるという例も多かった。また、井戸で水汲みをしている女子を強引に番所につれて行ったという話なども伝わっている」。役人の横暴にどれほど多くの女性たちが、悲哀を味あわされたことだろうか。これが現地妻をめぐるリアルな現実である。

与那国島には、先の別れの歌とはまったく異なる、悲しい物語が伝わっている。「いとぅぬぶてぃ節」という唄になっている。

「♪絹布のように美しい年頃の娘 以前から評判高い生まれで 一人っ子が生まれていた ただ一人の子であったそうだ 目差主(メサシシュ、助役)に妾になれと乞われ 与人(ユンチュ、村長)に同じく望まれ」

この後は残念ながら歌詞がわからない。美人に生まれたために、役人から現地妻にと求められた彼女は、役人の命令を拒絶して、とうとう山に逃げて露と果てたという。

与那国にはもう一つ哀歌がある。「ながなん節」という。歌詞の大要を紹介する。

中並家の美童(ミヤラビ)は世に評判の小町娘でした。真保久利(男の名前)と私は幼少の頃から許婚(イイナズケ)になっていた、一組の夫婦だから別れることはできない。夜遊びは浜に下りる。家巡り佐事(ヤーマルサジ、取締役)には見つかるな、残酷な権力者に抱かれるな。そう言っていたのに、いつの間にか家巡り佐事に見つけられ、佐事に抱かれ、佐事と私は日に日に染まっていった。真保久利と私は日に日に遠のいていった。

愛しあっていた男女が、役人が介在してきて、とうとう二人の仲を引き裂き、役人が彼女を奪い、彼女も役人に魅かれていった⋯⋯。とても切ない物語である。

「権力を背景にした役人の威嚇と強制で、かよわい女性を責め立て、無理やりに現地妻にさせられ、許婚とも別れさせられた封建時代の悲惨な裏面史恋物語をうたっている」と小浜光次郎著『八重山の古典民謡集』では解説している。

恩典もあった現地妻

ただ、現地妻をめぐってはちょっと複雑な様相がある。というのは、現地妻になることを望んだ例があることだ。唄にあるように、愛しあう恋仲になった例もある。なぜ、赴任した間だけの「妻」であり、生涯をともにできる見通しもないのに、あえて「旅妻」になろうとするのか。それについて、多良間島『村誌』はこう語る。

「役人の在任中は島民より上級な生活ができ、税負担も島民に配分されたりした。まれにはこの面の打算で積極的に旅妻になることを志望する者もいたようである。同棲後、相思に走る例もあったようである。これは民謡『多良間ションカネ』からも察せられる」。つまり苦しい島の暮らしの中で、少し楽な生活ができたり、税の負担を免れる、あるいは役人が離れるとき土地をもらえた例もあるようだ。旅妻を志望するのも、人頭税に苦しめられてきた悲惨な島の現実があるのだ。

旅妻になっても、多少楽な暮らしは一時のことである。「役人が島を去った後の彼女たちは、娼婦のような傷を負い、再婚も困難な境遇におちぶれるのがふつうであった」。

この役人の身勝手や横暴に対する、驚くような抵抗があったことも、この『村誌』は伝えている。「この旅妻のならわしを断ち切ったのも島民であった。役人がオークボヤー(源河家)の女子を旅妻にしたいと来たのを、兄がイグン(銛)をもって反抗、役人を追い払ったという。近隣の人たちも応援し、役人はついにあきらめて帰った。以後、島民全員が拒否するようになったので、役人もこの要望を口に出さなくなったといわれる」。勇気ある島の人々の抵抗が、島の女性を救ったのはすごいことだ。

宮古島に近い池間島には、現地妻を痛烈に風刺する唄がある。「池間の主」という。村長格の与人(ユンチュ)を住民は「主(シュ)」と呼んだ。

「♪池間の主は金持ちで、驚くばかりの金持ちだ。私も池間の主であったなら、私も離れ(池間島)の親主であったなら、池間の家でミガガマ(賄女の名前)のつくる煮物を食べてみたいものだ。神家にいた頃のミガガマは、花の咲くような美しさだったが、大親の家に行ってからは、灰かぶりの猫のようだ。灰かぶりの猫であっても、灰かぶりの犬であっても、大親主に気に入られているなら、それでよいではないか」。

どうもこの唄は、池間の主に可愛がられるウヤンマ(現地妻)のミガガマをねたんで、「灰かぶりの猫」と痛烈な皮肉をあびせているようだ。

美しい娘「ヌズゲマ」の悲歌

役人から妾にと望まれ、それを拒み死を選んだという、八重山の古謡を紹介したい。美しい娘「ヌズゲマ」を歌った哀歌だが、声を失うほど悲しみが深い。

「♪宮良村に生まれたヌズゲマは絶世の美人だった 頭(役職名)親に見染められ、村役人に望まれた 頭だから、役人だからいやと断わった 頭と役人は私を連れていこうと走ってきた 山に籠って死ぬよ 首を吊り死のうとしたが死ねない 三カ月も長く山の密林を歩いた 大本(オモト)山に登って水を飲もう 川の辺りに辿りつき 水を飲もうとうつ伏せしたら 私の命は終わりをつげた 死体の片眼からドゥスヌ木 片耳からトゥムヌ木が生えた 立派に生えた木から 船材が伐採されて 公用船の石垣船が造られた 頭親に乗られ、役人にも乗られた 生き肌に乗られず 死に肌に登られた」

役人の妾になるよりも死を選んだのに、死んだ後「死に肌に登られた」という女性の嘆きの声が聞こえるようだ。

この古謡は、石垣島の石垣、平得(ヒラエ)、宮良の各地区や波照間島に、同じ話をもとにした唄がある。ここでは平得の「いきぬぼうじぃユンタ」の大意を紹介した。ちょっと話はマニアックになる。といっても「もうこの長い文章全体がマニアックじゃないか」といわれそうだ。まあご容赦願いたい。この唄は人によって、大事な点で解釈が異なる。

八重山の古謡や民俗について高い見識を示された喜捨場永洵氏は、女性の最後の歌の意味を、後悔の言葉だと見て、そういう訳をしている。「頭親や求愛された役人に生前身を任せなかったのがくやしいとざんげした」(『八重山古謡上』)と言う。しかし、山に入って死んでも役人の妾になるのを拒んだ女性が、死後、船材になって乗られるのなら、生前に妾になっておけばよかったと懺悔するだろうか。どう考えても納得しがたい解釈だ。同じ唄を『八重山古謡』から再録した『南島歌謡大成』(外間守善、宮良安彦編)は、そういう解釈はしていない。素直に「生き肌に乗られず 死に肌に登られ」と訳している。

喜捨場氏の解釈の土台には、同氏の妾、現地妻についての少し一面的な見方がある。「当時は頭や村役人の賄女になるのが一般女性の最上の光栄であり羨望の的であった」のに、ヌズゲマが拒否して命を絶ったのは「どうしても合点が行かない点である」という(『八重山古謡上』)。つまり、妾になればいろいろ恩典があったから、経済的な利益を考えれば拒否するのは「常識的には考えられない」という見地だ。しかし、当時の女性が打算だけで生き方を選び、妾を「最上の光栄」と見たというのは、とても実情に合わないのではないか。現地妻、妾の「光と影」のうち影の部分をまるで無視している。

いくら貧しい平民であっても、経済的な利得だけで相手を選ぶ人ばかりではない。貧しくても愛する人と結ばれることを何より大切に思う女性は少なくない。現地妻はどんなに恩典があっても、生涯をともに歩める夫婦にはなれない。権威をかさにきた役人に隷属することを嫌悪する人もいただろう。思いを寄せる彼氏がいた人もいる。愛する人と引き裂かれた例もあるだろう。拒否して命を絶った女性の唄が残されているのは、その証しではないか。

すでに史実としても、村の女性が役人に目をつけられるのを「おびえた」とか辛い思いをしたことが伝えられている。だからこの古謡は、やっぱり妾になるのを拒否したことを後悔したのではなく、慟哭の声、悲憤の叫びと見るべきではないか。

それにしても、私がこの唄を最初に知ったのは、なんと彫刻家の岡本太郎の『沖縄文化論』によってである。彼はまだ米占領下の一九五九年に沖縄に来てこれを書いた。岡本は、本の中で「八重山の悲歌」に一章をさき、この唄をはじめいくつもの「悲歌」を紹介している。

「悲しい思い出がどうしてあのように美しいのか。八重山の辛く苦しかった人頭税時代の残酷なドラマを伝える、さまざまの歌、物語を聞いて、その美しさに激しくうたれた。美化しなければあまりに辛く、記憶にたえないからか。いやそれはほんとうに美しいからではないだろうか。そのとき、人の魂はとぎすまされ、その限りの光を放つからであろう」。八重山の哀歌が、いかに岡本に衝撃を与えたのかがうかがわれる。

安里屋ユンタをめぐる奇妙な謎

沖縄民謡で、全国的にもっとも知られた唄といえば「安里屋ユンタ」だろう。

「♪君は野中のいばらの花か サーユイユイ 暮れて帰れば ヤレホニ 引き止める マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨー」。貴女は野原のいばらの花のように、野良仕事を終えて帰る時に、引き止めてくれる、という意味だ。でもこの唄は、昭和九年(一九三四)に作られた新民謡である。古くからの元歌があり、それをレコーディングする際に、ヤマトグチ(共通語)の歌詞が作られた。ついでに旋律も新たにしたいとなって、沖縄音楽の父ともいわれる宮良長包が、元歌を生かしながら作曲したのである。これで、ヒットしたのだが、歌詞は元歌とはまるで違う。

元歌は、竹富島の歌であり、実在の女性がいる。「安里屋ユンタ」「安里屋節」という唄は、何種類もあり、そこには奇妙な謎がある。元歌の歌詞を紹介する。

「♪安里屋のクヤマ乙女は 絶世の美女に生まれた」

「♪幼少の頃から 色白で器量よく生まれた」

「♪目差主(助役)に見染められ 賄い女に乞われた 与人(村長)にも望まれた」

「♪目差主は嫌です 与人親にご奉公します」

唄は続く。クヤマに拒否された目差主は、面目丸つぶれで、クヤマ以上の美人を手に入れようと村々を回った。中筋村で美女イシケマと出会った。早速両親に会って願い出て、イシケマを賄女にした。こういう歌詞である。

     写真は竹富島の安里屋クヤマの家460

ところが、これとはまるで逆の歌詞の唄がある。私が歌っているのもこちらの歌詞だ。それは、役人の目差主と与人から乞われたところまでは同じだ。その先が違う。

「♪目差主は嫌です 与人も嫌です なぜ断るのか どうして嫌なのか 後々のことを考えると 島の夫をもってこそ 村の男性を夫にしてこそ 将来のためになるのです」。あらかたこんな歌詞になっている。権力を背景にした役人の要求を拒否し、島の男性を選ぶという、とても気高い女性の姿に描かれている。

問題は、前者が地元の竹富島で歌われ、後者が竹富以外の石垣など他の島で歌われていることだ。八重山の民俗、民謡に詳しい喜捨場永洵氏は、竹富島以外で歌われている歌詞は「当時の制度を無視したつじつまのあわない」唄であり、「安里屋ユンタは竹富島で謡っているのが正統である」と言う。竹富の唄で歌うべきだと強調している。

なぜ「目差主は嫌だが上役の与人ならよい」といった唄の方が「正統」なのだろうか。喜捨場氏が「『安里屋ユンタ』考」(『八重山民俗誌下巻』)で考察している。

竹富島は当時、二つの村からなり、島を統治する役人に、与人(村長)と目差(助役)、杣山(ソマヤマ)筆者(山林係)、耕作筆者(農業係)の四人がいた。「当時の制度として役人は三カ年勤務で交代するので、妻子を勤務地に同伴することを堅く禁じられていたので、勤務地では賄女(まかない)といって村切っての器量好しを、村で選び出して奉公させる慣例がありました。竹富島の役所も安里屋も主邑である玻座間(ハザマ)村にありました。その頃は『賄女』に選ばれて与人役人に付添うということは、若い女性たちにとっては憧れでもあり羨望の的でもあり、また名誉でもありました。これは役人の力でいろいろの恩典があったからだと思われます。こうして三年経ち役人が交代すると次の『賄女』には誰がなるか下馬評が立つほどだったそうです」。

やはり賄女は「羨望の的」だったと断定する。その最大の理由は、なによりも恩典が大きいことだ。それは、賄女になれば、人頭税の御用布は免税の上に、「一般の女性が土足の上に、粗食粗衣で毎日野良仕事に従事している折、この賄女になると、美衣美食に下駄草履が許され」、「その上役人との間に子が産まれた時には、血縁関係にあり密接な交際をする優越感があった」という(喜捨場著『八重山民謡誌』)。

現地妻を「憧れ」と見るのは、多良間島で、若い女子は「おびえていた」という事情とは、まるで逆の対応だ。なぜなのか。島によって、事情が異なるのだろうか。そうではない。たぶん両方の記述とも、それなりに現実をリアルに反映しているだろう。というのは、現地妻には両面があるからだ。拒否すればにらまれる、希望すれば「恩典」がある。この現実のなかで、貧しさのなかで女性と親が「望んだ」場合もあれば、いやいやながら承諾せざるを得なかった人もいる。あくまで拒否した例もある。そこには、過酷な人頭税のもとで苦しめられた先島の人々の苦悩があったことは確かだ。

 

愛と哀しみの島唄、その3

とても多い悲恋、別離、片思いの唄

幸せな恋愛ばかりではない。むしろ、悲しい別れの唄や片思い、切ない思いを歌にたくした曲もとても多い。いまよく練習している「無情の月」という曲は、こう歌う。

「♪千里の道でも 陸路であれば 行こうと思えば自由に行ける でも一里の距離でも 海で隔てられた船道では 自由にならない」

「♪貴方への思いを 貫き通している そのことを貴方に知らせたいが もう玉と散っていない 袖に涙するばかりだ」

「♪わが身に幸せの光は ささないのか 無情に照る月だけが 光り輝いている」

なぜ、愛する二人が別れなければならないのか。唄は明らかにしていない。でも「玉と散る」といえば、彼が戦場で散ったのではないだろうか? サークルのおじいに聞いてみたが、この唄は「戦世」の唄ではないという。真相はまだ不明だ。

「白雲節」という曲もやはり、恋仲の二人が海を隔てて離れている。007 
 「♪飛ぶ鳥のように 自由に飛べれば 毎夜行き逢って 語り合えるのに」

「♪例え海を隔てて 別れていても 白雲にのせて この思いを知らせたい」

「♪一人淋しく 眺め見る雲が 貴女の姿に見え 忘れがたい」

沖縄では夏は毎日、青い空に、入道雲がもくもくと立つ。人の姿にも似た形になることもよくある。白雲にのせて「思いを知らせたい」とか、白雲が「貴女の姿に見える」というのは、とてもよくわかる。

次は、琉球王府の時代の実話に題材をえた悲恋の唄である。「瓦屋情話(カラヤジョウワ)」という。美人に生まれたがゆえに、中国から渡ってきた瓦職人に見染められた。瓦職人は王府の要請にこたえ琉球にとどまる条件に、妻を望んだ。白羽の矢が立った女性は言い交わした彼氏がいたのに、王府の命令で生き別れにさせられ、瓦屋の妻にさせられてしまった。

「♪私の身体は瓦屋村にあるが 心は貴方のお側にあります 忘れようとしても忘れられない 貴方の情け」

「♪瓦屋の頂に登って 真南を見ると 古里の村が見えるが 貴方の姿は見えない」

こんな悲恋の物語である。実際に漂着した中国人が、国に帰るのを欲せず、那覇の国場村に住み、妻をめとり、陶舎を造り瓦器を焼いたという。「我国(琉球のこと)瓦を焼くこと此れよりして始まる」と伝えられている(『遺老説傳』)。沖縄は赤瓦が有名だが、瓦焼きの始まりはここにあるようだ。

瓦職人の名を渡嘉敷三良(トカシキサンラ)という。彼が住んだ国場村とは、わが家のすぐ近くだ。しかも、その子孫がいて、家屋敷も残っている。妻は、沖縄大学の民俗学のフィールドワークで、国場の付近の住民が、昔から祈りをする御嶽(ウタキ)御願(ウガン)の場所や史跡を見て回った際、今は増築されたこの家屋敷も見たという。

悲恋の唄で多いのが、一度は愛情を交わし合った仲なのに、男が心変わりして離れていって結ばれない話である。「情の唄」という曲はこういう内容だ。

女「♪思いあう仲 離れられない仲なのに どうして貴方は心変わりして 私の思いをあだにするの」

男「♪思いをあだにする 私ではない 義理にしばられて 貴女と私は思うように 自由にはならない」

女「♪昔バカな人の言ったことを守って 義理にしばられているのね 義理って何なの? 染めて下さい、という私の思いを あだにするの」

つまり、女性は愛情をなによりも大切にして思い続けているのに、男性は世間体や義理にしばられて愛情を貫けないのだ。

「デンスナー節」という唄も、男の身勝手を歌う。

男「♪初めて会ったのに 情けまでかけてくれて 愛しい貴女は夫がいないのか」

女「♪夫がいればどうして 貴方に情けをかけようか 私を愛して下さい」

男「♪結ばれたいが 地元に私を待っている人がいる 自由にならない」

 このように女性は恋に自由に生きるのに、男性は義理にしばられて愛情を貫けないという構図は、あのオペラ「カルメン」と同じである。自由な女、カルメンに比してドン・ホセは軍隊や母親のしがらみから、まっすぐに恋に走れない。闘牛士エスカミーリョに魅かれるカルメンに嫉妬したホセは、カルメンを刺し殺すという悲劇に終わる。義理にしばられる男と、恋に一途な女性という関係は、スペインも沖縄も、やはり共通するものがあるようだ。日本の民謡では、こういうテーマがあるかどうか知らないが、沖縄民謡では、なぜかとても多い。

「白骨節(シラクチブシ)」はちょっとすさまじい歌詞だ。愛しあう二人だが、この世では結ばれない仲。互いに強く愛しあい、彼と手を取り合って海に身を投げる。

「♪離すなよ 死出ぬ旅に行くまでや」

「♪堅く信じて 命を捨てたのに 彼は心変わりして 死ぬる命が惜しくなった」「♪無情にも私一人 荒波の中に捨てて 行方がわからない」

死出の旅まで約束しながら、彼女を一人荒波の中に置き去りにするとは、究極の裏切りである。女の恨みの唄、怨念の唄である。

たくましい琉球弧の女性たち

田端義夫が歌って全国的にヒットした「十九の春」は、歌詞がなかなか面白い。

女「♪私があなたに惚れたのは 丁度一九の春でした いまさら離縁と言うならば もとの十九にしておくれ」。十九歳の乙女の心を奪いながら、離縁をちらつかせる男の身勝手に一歩も引き下がらない。男「♪枯木に花が咲いたなら 十九にするのもやすけれど」と開き直る。女「♪見捨て心があるならば 早くお知らせ下さいね 年も若くあるうちに 思い残すな明日の花」。あなたが見捨てるなら、私はまだ若いから花を咲かせたいから、早く言ってよ、と未練たらしいことは言わない。男がさらに「同じコザ市に住みながら 逢えぬ我身のせつなさよ」と未練がましい。でも女は「♪主さん主さんと呼んだとて 主さんにゃ立派な方がある いくら主さんと呼んだとて 一生忘れの片思い」と歌う。男の身勝手に未来がないことをすっかり見通している。

この唄のルーツは、沖縄には近い与論島の「与論小唄」だそうだ。歌詞もメロディもとても似ている。与那国島出身の本竹祐助さんが歌詞の補作をして歌ってヒットさせた。歌詞の内容は大筋で「与論小唄」と同じだ。いまでは沖縄民謡として全国で知られた人気曲になっているのだからおかしな話ではある。でもここには、沖縄・奄美諸島に生きる女性のたくましさがとてもよく表現されている。

意外に多い「恨み節」

民謡を歌っていて、少し意外な感じがするのは、恋仲の二人が「心変わりするなよ」と互いに誓い合う唄が多いことだ。永遠の愛を誓うことは、どこでもあるだろう。でも、これだけ強調されるのは、逆に言えば、恋に燃え上がっても、やがて心変わりして別れるケースが多いという、現実が反映しているのかもしれない。

すでにいくつか男の身勝手や「心変わり」の唄を紹介したのもその一例だ。

「想偲(ウミシヌ)び」という曲は、女性に去られた男心を歌う。

「♪朝夕、愛しい貴女の面影が立つ 思い焦がれる 心の侘しさよ」

「♪貴女の心が変わって 他所の男に心を染めてしまったら この世をあきらめて 夢の花を散らそう」

「ほたる火」という唄もやはり心変わりを恨む唄だ。

「♪いつまでもと思って 語り合った二人だが 彼女の心が変わって 無情にも私を捨てて 他所に行ってしまった」

「♪無情なこの世界(シケ)に 生まれた我身と心の切なさよ」。

両方の唄とも、サークルの練習曲に入っている。でも、男が彼女に捨てられた唄は、どうも未練たらしい。「捨てられたのは彼にも問題があったのでは」と思ってしまう。なんか惨めったらしくて好きになれない。歌っても気持ちが入らないから不思議だ。

捨てられた男を歌っても「愛の雨傘」という唄は、ちょっと変わっている。

男は「♪私の心をかきむしった 悪魔の女め 浅ましい根性の 罰当たり女め」と毒づく。別の女性から「♪恨んでどうなるの 忘れなさい彼女のことは 芝居でも見に行きましょう 御供します」と慰められる。男は彼女に恋をし「心から愛して 変わらないでね」と言う。彼女も「貴方のお好きなように 白地の私を染めて下さい」と応じる。男は最後に「私を捨てた女よ 今では笑い草だ」と見返す。これはこれで、男の変わり身の早さにとまどう。それにしても、ちょっと異色の歌詞であることは間違いない。

ここで、ちょっと横道にそれる。恨み唄で思いだしたのは、言霊(コトダマ)信仰のことである。沖縄や奄美諸島では、口から出た言葉には、霊力があると信じられていた。言霊、「ことだま」という。琉球弧だけでなく、日本でも少なからず言霊信仰はあったのではないか。というのは、今でも子どもに名前をつけるとき、子どもがこう育ってほしいという思いを名前に託す。縁起の悪い言葉は名前にしないし、口にもしたくない。数字の「四」は死に通じるから避ける習慣がある。これらも一種の言霊信仰の名残りなのだろう。

南島では「優れた歌をよめば、その歌にそなわる霊力で目的をまっとうすることができると固く信じられている」と島唄の評論家である仲宗根幸市氏は指摘する(『「しまうた」を追いかけて』)。

問題は恨みの唄である。恨みを込めることになるからだ。ところで奄美では、呪いを歌とする「逆歌(サカウタ)」「サカ歌」というのが存在するという。「サカ」とは、この世とは逆の世界、つまりあの世のことを指している。言霊によって恨みのある人を呪う、あの世に送ることができると考えられていたそうだ。「逆歌」を仕掛けられた場合は、返し歌ではねのけなければならない。「逆歌の掛け合いは生命を賭けるため、真剣勝負の世界」だったという(仲宗根氏、前掲書)。ここまでくると、ちょっとおぞましすぎる世界だ。沖縄では、そういうことまでは聞かない。でも「恨み唄」が多いことは確かだ。

戦世(イクサユ)が招いた悲恋

悲恋の唄というか恨みの唄というか、「嘆きの梅」という興味深い曲がある。

032            「嘆きの梅」は金城実・山里ユキのコンビで歌っている

男「♪鶯(夫)の留守に情けない梅(妻)は あのような夜鴉(夜遊びの男)に宿まで貸した ※(はやし)そうなったのは誰が悪いのか」

女「♪昔から聞きなれた夫の声は 年が経つにつれ 聞きたくもない ※同」

男「♪貴女の私は離れられない縁なのに 他の男に迷ってついて行くのか ※同」

女「♪一寸の慰めに夜遊びの男に迷い 後は心は悔んで泣き苦しんでいる ※同」。

ちょっと見るとただの恋のもつれの唄のようだ。でもこの唄の深層には戦争があるという。戦世の時代、夫が出征すると、生きて帰ってこれるのかわからない。生死不明の場合がある。戦死の誤報の例もある。妻一人生きていくのは大変だった。浮気をした人もいれば、死んだと思って再婚した人もいた。夫が復員してみると、残酷な現実を目にする。こんな例はけっして珍しくなかった。この唄は、鶯を出征した夫、梅を妻、夜鴉を妻の相手の男と置き換えてみれば、なるほど戦世の悲運の物語として見えてくる。

注目すべきは、一節ごとに繰り返される「そうなったのは誰が悪いのか」のはやしの言葉だ。戦争で出征しなければ二人は幸せに暮らせたはずだ。「誰が悪いのか」は鋭い問いかけである。唄は戦前、戦後に数々の民謡を作った知名定繁の作詞作曲である。

庶民が日々、生き暮らすなかから生まれる民謡は、時代をまるごと映しだす。戦世には、戦争によって引き裂かれた恋愛がどれほどあっただろうか。これはこの前の拙文「戦世と平和の沖縄島唄」で書いたので触れない。

といいながら、一つ不思議なのは、戦世の中での恋歌、情け唄はたくさんあるのに、戦後の米軍統治のもとでの、米兵と沖縄女性の恋の唄は、聞いたことがない。実際にはたくさんの恋があったし、いまもあるだろう。なのに、米兵との恋歌がないのはなぜだろうか。

考えられるのは、米兵との恋は、幸せになった女性もたくさんいるけれど、そんなケースばかりではない。むしろ、米兵が沖縄女性と恋愛しても結局、いつの間にか姿を消したり、帰国する時に捨てていった例もある。恋人の米兵が、ベトナムなどに派遣され戦死した人もいる。結婚して二人で渡米したけれど、彼が帰国すると心変わりして、離別の道を歩んだ例もある。恋が実らず悲しい、辛い思いをした沖縄女性がどれほどいるだろうか。米兵との恋歌がないのは、そんな事情があるからだろうか。
西表島などで開拓を断行したのだ。王府の収入を増やすには、未開の地の開拓が手っ取り早いと見たのだろう。

とくに、琉球王朝の時代に、らつ腕をふるった政治家として名高い蔡温(サイオン)が、この強制移住を進めたという。そのやり方は、住民の事情などまるで無視し、冷酷そのものだった。部落内の道路を、密かに、ここからここまでと区切って、この中にいる者はすべて「新村建設の寄人」、つまり移住者だと命令をしたという。そのため、恋人であろうと引き裂かれた。

蔡温は一七一一年から一七五二年までの四二年間にわたって、なんと「八重山二〇数カ所の新村並に併合、廃村などを断行した」(喜捨場永洵著『八重山民俗誌 下』)というから凄まじい。

波照間島からの島分けの唄を紹介したい。「崎山ユンタ」「崎山節」という。これは、一七五五年ごろ、西表島の崎山という地に、女二〇〇人、男八〇人(唄では女一〇〇人となっている)が移住させられ、崎山村をつくったという。崎山村は急傾斜地であるうえ、マラリアの有病地だった。

「♪誰だれがと思い 心配していたら 私も移住者の一人 多くの人々も強制移住させられた」

「♪許して下さい 可哀想だと思って同情して下さい お役人様お願いいたします」

「♪恐れ多くも国王の命令で 絶対的であるから 同情して許すこともできない」

「♪いやいやながら 仕方なく 命令を受け 移住させられてしまった」。

こんな風に歌う哀切極まりない唄である。移住者の一人の老婆が、移住と開拓の辛さを歌ったのが「崎山ユンタ」だという。この唄を聞いた役人が、同情して老婆一人を故郷に帰したとも伝えられる。このユンタを改作したのが「崎山節」だという。

移住強制させた役人の責任を問う

島分けの唄には、まだまだ紹介したい唄がいろいろある。「舟越節(フナクヤーブシ)」は、石垣島の石垣、登野城(トノシロ)から一四八人が、同じ島内で北部の舟越、伊原間(イパローマ)、安次(ヤッサ)に新村をつくるため強制移住されたことを歌っている。ここは、やはりマラリアの有病地だった。この唄は、「生き地獄」ともいわれた苦しさの嘆きにとどまらない。島分けを実行した役人の責任を問い詰めているのが注目される。

「♪どんな役人が建てたのか どこの親方が計画したのか 当時の役人が移住を命じた 先見の目のある役人が厳命したのだ 当時の役人は最高の頭職になってくれるな 先見の目のある役人は 目差役(助役のような役職)になってくれるな」。

ただ、唄はこのあと「♪新村で暮らしているうちに 舟越村が住みよい所になった」「♪当時の役人よ 願わくば頭職になって下さい」と一八〇度逆のことを歌う。唄の流れから、とても奇妙で不自然だ。昔は、役人が歌詞を改作することがあったという。改作されたのか。それとも、役人をほめ殺ししようとしたのか、真相はよくわからない。 

もう一つ上げたい。「川良山節(カーラヤマブシ)」も石垣島の石垣村、登野城村から六〇〇人を名蔵(ナグラ)村に強制移住させた。ここもマラリアで恐れられた地だったという。川良山の山道工事にもあたらせた。島分けも山道工事も辛いことだったのだろう。唄はこう歌う。

「♪川良山の上に白雲が立ったなら 彼氏と思って下さい 愛しい彼女と思って下さい」

「♪川良山がなければ 山道がなければよいのに なぜ川良山だ どうして山道なのだ」。

白雲が立ったなら愛しあう二人と思って下さい、というのは胸をつく切ない歌詞である。ラジオの民謡長寿番組のDJであり、唄の作詞者でもある上原直彦氏は,次のように解説している。

「愛しあう仲さえひき離す中央の権力が介在していた。強制労働の中でも、愛を語ることのできる平和な世がほしかったのであろう。軽快なテンポで歌われるにしては、なんとも哀調をおびているのは、八重山の民の血の叫びがあるからだ」。 

開拓の地はもともと条件がよければ人が住みついているはずだ。だから開拓して新しい村を建設するのは容易ではない。石垣や西表は、マラリアがまん延する地域が各地にあった。「生き地獄」といわれるのも当然であった。琉球王朝時代に、無理して強制移住で開拓した村も結局は、住民が減って、崎山村など廃村になった村も少なくない。

実は、こうした悲劇は、遠い過去のことだけではない。沖縄戦の際にも、八重山では日本軍は米軍の進攻に備えて、石垣島や波照間島などの住民を、石垣の島内や西表島のマラリア有病地に強制避難させた。このため、たくさんの住民がマラリアで苦しめられた。亡くなった人は三六四七人にものぼる。石垣島など米軍の直接の進攻はなかったのに、悪夢のような悲劇の歴史が繰り返されたのである。

408_3        八重山戦争マラリア犠牲者を祀る慰霊碑(石垣市)   

2012年2月26日 (日)

愛と哀しみの島唄、その2

「ムシロ戸を下げて待っていて」とは?

愛しあう男女の、逢引きを歌った唄は数多くある。とくに男性が彼女の家にしのんで会いにいく様子がよく歌われる。「敷島タバク」という曲がある。敷島たばこは火がつきやすいが、染屋の一人娘はなかなか落ちないと歌い出す。だが、忍んで逢いに行く。

「♪わが家に来る時は 上座から入っても 下座から入っても 足音を立てないでよ 上座はおじいが 下座はおばあがいる 起きて寝たふりをしているから 私は中座にいます」。なぜ、寝たふりをしているのか、娘の監視をしているのか、よくわからない。でも最後は「♪遊ばす親は若くなって 遊ばさない親は カラスになれよ 罰が当たって」と歌うから、面白い。まあ一種の恋愛讃歌なのだろう。

八重山の新城(アラグスク)島にも「はいきだユンタ」という古謡がある。大要を紹介する。

「♪家の窓口には犬が寝ている、マヤ(猫)が寝ている、踏んで鳴かさないようにね。下部屋には母が、上座敷には父が寝ている、誤って踏んで『これ誰か』と怒鳴られないようにしてね。ムシロを敷き枕を並べて、抱いても竹床が音をさせないように注意して、乙女よ」。抱き合った時の様子まで大胆に描写している。古い時代の性風俗までよくわかるユーモラスな唄だ。八重山には他にも、白昼に山に行って抱き合う性行為をあっけらかんと歌った古謡もある。奔放な恋の様子が描かれている。実におおらかだ。

伊江島を舞台にした「仲村渠(ナカンダカリ)節」は、悲しい伝説のある唄だ。

「♪仲村渠家の側戸に すだれを下げておいたときは 大丈夫ですから それを確かめて 忍んでいらして下さい」

昔は、若者が彼女に家に忍んで行く時は、家の人に大丈夫か否かの合図として、すだれの上げ下げを目印にしたという。仲村渠家は旧家で、娘の交際にもうるさかったという。実は、この家の娘のマカトゥーは絶世の美女で、島の青年の憧れの的だったという。しかし彼女は海を隔てた伊平屋島に、松金という恋人がいた。彼に会うのに海岸に出かけたところを、運悪く村の青年に見られた。青年は嫉妬して「マカトゥーを見たぞ!」と叫んだ。見つけられた彼女は、恥ずかしさのあまり、断崖から身を投げたという。こんな悲劇の物語が残されている(仲宗根幸市編著『琉球列島 島うた紀行第三集』)。

いま私がとてもはまっている唄に「伊良部(イラブ)トウガニ」という曲がある。これも恋仲の二人を歌って、とっても味わいのある恋歌だ。宮古民謡を代表する唄である。でも節回しがとても難しく、難曲だと言われている。でもなんとか歌えるようになったので、わが家においでの方にはお聞かせします。

唄では、男は宮古島、女は伊良部島にいる。海で隔てられた間柄である。

「♪伊良部島と宮古島・平良(タイラ)の間の海に 渡れる瀬があればよいのに」

「♪渡る瀬はなくても 舟があるじゃないの 小舟で通って下さい」

「♪夕暮れ時には あなたを愛しく思うよ 寝間の板戸は 開ける際に音がするので ムシロ戸を下げて待っていてね」

 海で隔てられても、恋する二人には障害にならない。逢引きを重ねた様子がうかがえる。「板戸は音がするからムシロ戸を下げていて」というくだりなど、思わずクスッと笑いがこみ上げる。余談ではあるが、先島などでは、昔の貧しい百姓の家は、板の戸はつけられなくて、ムシロを戸の代わりに吊るして使っていたそうである。この唄に登場する女性の家は、板戸を使っているので、あまり貧乏ではない家だったのだろうか。

 彼女の家に忍んで行くことを、俗な表現では「夜這い」と言った。昔のこうした習慣を『八重山民俗誌』(喜捨場永洵著)から見てみよう。

「心に秘めた女性の家に夜這いをすることも度々あって、親の知らない間にいつしか夫婦同然の仲になることもあった。そこで遂に親同志がこれを後日に認めるということであった。その内に子供が産まれると、男は女の家で起居し、女の家の農事にも加勢をするなど母権制社会の時代を少しくとどめていた。そこで佳き日を選んでごく簡単な結婚式を後日に取り行うといういわゆる『連れ子結婚』の風習があった」。

 008            夕暮れ時

恋に命まででかけて

「クラハ山田」という唄は物語になっている。

恩納村(オンナソン)山田に住む巫女(ミコ)のクラハは美人で有名だ。彼女を思う男が忍んで通ってきた。「宿を頼もう。煙草だけでも吸わせて下さい」。遠くから来て疲れているというので、やむなく家に入れると「あなたを思い遠くから来た。煙草を吸いに来たのではない。思いを語りたい」。女は「話す言葉はありません。親兄弟に聞かれたら大変です」と拒むが「ああ、聞き届けてくれないなら、死んだ方がましだ」。あまりの熱烈な愛の告白に胸をうたれたのか、彼女は「命までかけての思いなら従います」と受け入れる。男は「七夜に及び通って、思いがかなった。通わなければ、かなわなかった」と喜ぶ。

「愛を受け入れてくれないなら死んだ方がまし」というのは、いささか唐突な感がある。でも激しい愛情の表現なのだ。恋に命をかける唄は、沖縄では珍しくない。

「桑むい節」という唄は、こう歌う。

「♪桑つみを口実に 私は山に登っていますから 貴方は草刈りを口実に来て下さい そこで真心で語り合えれば 私は骨になって朽ち果ててもかまわないわ」

沖縄でも、明治から昭和にかけて養蚕が奨励された。蚕のエサである桑の葉をつむのは主に若い娘の仕事だった。「終日、親の監視下にあった当時の女性にとって、公認の桑摘みは、期せずして『自由と解放』をもたらしてくれた」という(上原直彦著『語やびら島うた』)。それにしても「骨になって朽ち果ててもよい」とは、なんという女性の情念だろうか。

「月ぬまぴろーま節」もとっても情緒ある唄だ。「月の真昼間(マピィローマ)」とは月が上天にあり、まるで昼間のように照らされる時をいう。なんと、素敵な表現ではないだろうか。

「♪月が真夜中に頭上に来た時は最も干潮で 乙女が人目忍んで来る潮時でもある」

「♪お月様に祈願して 夜空の星に『夜半参り』して 恋する人に逢わせて下さい」

「♪思いを寄せる人に逢わせてくれないなら いっそ私の命を捨てましょうか」

「夜半参り(ヤファンメリ)」とは、夜中に女性が男装をして拝所に参り、彼に逢わせてほしいと祈願することだという。命をかけても逢わせてほしい願う恋心は、半端じゃない。

「命どぅ宝」と、何よりも命を大切に思うウチナーンチュ(沖縄人)が、恋の炎が燃え上がれば、もう命も惜しまないとは、なんという激しい情熱だろうか。

心変わりすれば刀刃(カタナバ)にかける

 見染めあった二人が、永遠の愛情を誓った民謡は、星の数ほどある。私の通っている民謡三線サークルで、来年二月の地域福祉まつりで演奏する課題曲をすでに特訓しているが、その中に「肝(チム)がなさ節」という唄がある。「肝」は心という意味である。009         ヒット曲「肝かなさ節」を歌う饒辺愛子さん

「♪彼がする可愛がりは 肌の可愛がり 年を重ねるに従って 心の可愛がりになる 心から可愛いでしょう 思いが可愛いでしょう」

「♪世間は急流のような 夢の間であっても お互いに心で 可愛がりあってこその浮世である」

恋する二人の愛情は、「肌の可愛がり」から、さらに「心からの愛情」になってこそ、いつまでも深く結ばれることを歌い上げている。

命をかけるほど愛し合う男女の間だけに、どちらかが心変わりするのは、絶対に許せない。ちょっとギクッとするような歌詞が含まれているのが「十七八節」という唄だ。

女「♪私は遊び好き、貴方も遊び好き 互いに遊び好きだから遊ぼう 夢の浮世(ウチユ)を語り合って遊ぼう」

男「♪もし貴女の心が変わって 私をすそにするならば 刀刃(カタナバ)にかけて恨みを晴らすよ 貴女の心が変わらないようにね」

女「♪貴方が腰に差す刀の鞘が 二つあるけれど 夫を二人持つことはないですよ 貴方の心も変わらないでね」

心変わりすれば刃にかけて恨みを晴らすとまで言い切る。これほど激しい感情を詠んだ唄は、さすがにあまり見かけない。それだけ真剣な恋であることの証と言えるだろう。

愛情のシンボルは「手巾」

沖縄民謡では、女性が好きな男性に愛情のしるしとして贈る物がある。それは手巾(てぃーさーじ)、はやくいえば手拭いである。曲によって手布と書いたり、手拭と書いたりするが同じことである。

「加那よー」という唄では、次のように歌われる。

「♪加那よ 貫木屋(ヌチヂヤ)ぬ 離屋(アサギ)よ 加那よ 手拭(ティサジ) 布立てぃてぃ」

「♪加那よ 我が思る里によ 加那よ 情呉(ナサキクィ)らな」。

意訳すると、「貫き木のある家(金持ちの家)の離れ屋に 布を織る機を置き 愛する人のため手拭を織り 私が慕う彼氏に 手拭を贈り、愛情をあげたい」。

このように手巾は恋歌には、欠かせない「愛の表現」である。早弾きの軽快なこの唄は、毛遊びの場では定番の曲となっていた。

なぜ、手巾が愛情のしるしなのか。現代では、手拭はもちろん、布地や衣服はありふれた存在であるが、昔は布、織物がたんなるファッションではなかった。古来、布はどこでも女性が織ってきたが、そこには途方もない長い時間と労力を注がれた。いわば布は女性の精魂が込められていた。だから、沖縄では、手巾は女性の愛情を表現するものであった。女性は手巾をいつも携えていたそうだ。そして、手織りの手巾を恋人に贈ったという。とくに、女性から恋人に思いを込めたしるしとして、花染めの手巾を贈る習わしがあったそうだ。八重山では嫁入りの際には持参したとも聞く。

石垣島の「月夜浜節」は、こう歌っている。

木綿畑は一面真っ白で月夜浜のようだ。木綿花から良い糸を紡ごう。出来た繊維は細くて美しい。「♪吹けば飛ぶような 最上品の手巾を織って 貴方を持ちましょう」

沖縄ではまた、女性は男の兄弟「えけり」を守る「おなり神」と言われる。映画「男はつらいよ フーテンの寅」でいえば、妹さくらは、兄の寅さんを守る「おなり神」なのである。

女性が贈る手巾は、「霊力(せじ)」を持つと信じられていた。だから、男たちが旅する際には、姉妹である女性は手巾を贈った。「男たちが旅に行くとき、自分を保護する霊力体として、肌身をはなすことがなかった」という(宮城栄昌著『沖縄女性史』)。このように、手巾は愛情のシンボルであり、霊力をもつ「お守り」のような存在であった。女性の心魂が込められているという点では、どちらも共通するものがある。

012

芭蕉を使った織物の芭蕉布を作る様子を、芭蕉布の古里といわれる大宜味村喜如嘉(オオギミソンキジョカ)の芭蕉布会館に行った際、ビデオの映像で見たことがある。芭蕉の幹から糸を取り出し、機織り機で布に織り上げる。気の遠くなるような根気強い手作業だ。これを見ていると、一枚の布には女性の汗と涙が込められ、とても尊い産物であることがよくわかる。織り上げた手巾に魂が込められているというのも、なにかわかる感じがした。

恋歌では、布だけでなく布を染めることも愛情の表現としてよく使われる。布地に染めることから転じて、彼氏や彼女の愛する心を染めるというように、愛情の表現として使われる。とてもロマンチックな表現ではないだろうか。日本の共通語でも「見染める」という表現があるのも、なにか似通ったものがあるのだろうか。

例えば「思鶴小(ウミチルグヮー)」という唄は「♪あなたと私は結ばれて 染めて染めあった 二人だから あの世までも いつの世までも 二人はいっしょだよ」と歌う。

「石くびり」という情け唄は「♪忘れようとするが 心に深く思い染めて あきらめることができず わが心が痛むだけです」と歌う。

愛情を「染める」ことに関連して、民謡でしばしば「浅地(アサジ)に染める、に染める」という表現が出てくる。ズバリ

「浅地紺地」という唄もある。

「♪紺地染みゆとぅ思てぃ 染みたしが浅地 染みらわん浅地 色やちかん、色やちかん」

はじめは、浅地とか紺地というのは、着物の染め方や色の一種のことだとばかり思っていた。それはとんでもない思い違いだった。浅地、紺地というのは、着物の染めの一種ではあるが、着物の染色で、浅地は薄く染めるので、転じて恋愛をさす場合に「浮気」を意味する。紺地は濃く染めるので「本気」を意味する。つまり、恋や愛情の度合いを示す代名詞になっているのだ。だから、先の唄の意味は「本気だと思って 身も心もささげたのに 浮気だった 尽くしても 心は離れていくばかり」となる。

紺地

   これは芭蕉布ではなく、南風原の琉球絣を織っているところ

Photo          伊江島にある歌碑は「仲村柄節」となっていた

2012年2月25日 (土)

愛と哀しみの島唄、その1

 「愛と哀しみの島唄」をすでにブログにアップしてあるが、ダウンロードしなければ全文が見れない形式だた。それで今回、ダウンロードしなくても、そのまま全文が読めるようにして、再度アップすることにした。

 愛と哀しみの島唄

目次
 はじめに                            

なぜ恋歌がたくさんあるのだろうか?               

庶民の恋愛はかなり自由だった                  

恋の舞台は「モーアシビー」                   

月の夜は気持ちもそわそわ                    

「ムシロ戸下げて待っていて」とは?               

恋に命までかけて                        

心変わりすれば刀刃にかける                   

愛情のシンボルは「手巾(ティーサージ)」            

とても多い悲恋、別離、片思い唄                  

たくましい琉球弧の女性たち                   

意外に多い「恨み節」                      

戦世が招いた悲                          

恋人を引き裂く「島分け」の悲劇                 

強制移住させた責任を問う                    

役人と現地妻の涙の別れ                     

悲哀を味わされた「旅妻」                    

恩典もあった現地妻                        

美しい娘「ヌズゲマ」の悲歌                    

安里屋ユンタをめぐる奇妙な謎                  

なぜ気高い女性像がつくられたのか                

人頭税のもとでの幾多の哀史                   

抵抗する女性の姿を伝える                    

役人を笑い飛ばす庶民の心意気                  

遊女と士族をめぐる恋歌                     

妾を持った士族                          

終わりに                            

はじめに

沖縄の民謡、島唄は、さまざまな題材があるが、なかでも男女の恋愛を主題にした恋歌がとっても多い。これはもう半分以上を占めるのではないかと思えるほどだ。恋をテーマにしているといっても、幸せな恋ばかりではない。片思いの唄もあれば、愛しあっていても結ばれない、悲しい恋もあれば、失恋の唄もある。心変わりした恋人への恨みの唄もある。愛情の表現も沖縄の特有の彩りがある。

なによりも、琉球王朝時代からの長い歴史を刻んだ恋歌、情け唄、哀歌がたくさんある。「情け唄」というのも沖縄ならではの表現だ。「情け」とは、愛情と同じだ。「情けをかける」といえば、愛情を注ぐことである。「志情(シナサキ)」といえば、もっと深い仲になる。「情け唄」とは、もう恋歌そのものである。「情け」には、親子の愛情も入るが、ここでは恋歌と同じ意味で使った。これらの唄は、沖縄本島だけでなく、宮古島、八重山諸島など島ごとに、特色ある恋歌、悲恋の唄がある。時代によって、王朝時代からの古謡や民謡もあれば、昭和になって作られた新しい民謡もあり、それぞれ特色がある。035

       「恋歌」「情け唄」といえば、盛和子さんはとっても情感がある唄者だ

今回は「愛と哀しみの島唄」について、書いてみよう思う。といっても、思い立って調べてみると、調べれば調べるほど、たくさんの恋歌がある。出版されている「民謡集」だけでも、さまざまあり、その上活字になっている民謡もすべてではない。だからとりあえず、自分が民謡三線サークルで練習している民謡や代表的な「民謡集」などに収録されている民謡、島唄だけを対象にした。それと、表題に「島唄」とつけたが、実際は民謡に限らざるを得ない。広い意味の島唄といえば、いま沖縄で盛んに創り出されているポップス的な感覚の歌も入るだろう。でもそれまで対象にすると間口が広がりすぎる。それに「島唄」という表現は、沖縄ではほぼ民謡と同じ意味で使われている。

なぜ恋歌がたくさんあるのだろうか?

沖縄民謡には、恋歌がとっても多いのはなぜだろうか? 日本の歌謡曲、演歌だって恋歌がとても多いから、沖縄民謡だけが多いのではないだろう。でも日本の民謡に限ると、その中で恋歌が一番多いとは言えないだろう。でも沖縄は古くから歌われてきた民謡を含めて、やたら恋歌が多い。それに、昭和になってからの新民謡は、本土でいえば演歌のような存在である。演歌では愛と情けはもう中心テーマである。だから、新民謡で恋歌が多いのは当然かもしれない。

それにしても、島唄で恋歌が多いのは、何か理由があるはずだ。にわかにその答えを出すのは無理だ。それでも、いまいくつか頭に浮かぶことがある。

一つは、南島に生きる人々の情熱的な性格である。それは、恋の国、情熱の国と言われるイタリアやスペインなどに通じるラテン的な気性があるように感じる。おおらかで楽天的である。相手を好きになれば、じっと胸に秘めて待つのではなく、焦がれる思いを伝えて愛情を確かめ合う。恋の炎は燃えあがりやすいのだろう。その半面、熱情が冷めると別れるのも早いのだろうか。なにしろ離婚率は沖縄が全国一位である。

それに、南島は年間のうち、五月から一〇月まで六カ月は暑い夏だ。気分は否が応でも開放的になる。夏は夜も長い。ということは、昼間は暑いからじっとしている。動き出すのは夜という、夜間徘徊の行動パターンになりやすい。日本のどこでも、恋が生まれるのは、なんといっても夏が多いだろう。沖縄は、昔から、若い男女は、夜は野原や浜辺に繰り出し、歌って踊る「毛遊び」(モーアシビー)が盛んだった。いまはそれに代わって、夏と言えば浜辺に繰り出す「ビーチパーリー」(パーティーといわずになぜかパーリーという)が大好きだ。遊び仲間や幾組かの家族でビーチに出かけて、バーベキューやスイカ割りなどに興じる。泊まり込みで遊ぶことも多い。

それになにより祭りと芸能が大好きだ。これは夏だけでない。秋でも春でも冬でも年中、なんだかんだと祭りをやっているし、芸能をやる。沖縄の盆踊りであるエイサーは青年会が中心になってやっている。綱曳きやハーリー(爬竜船の競争)も大好きで、沖縄中の各島、町村ばかりか字ごとにやっている。これらの祭り、イベントの中心になるのはなんといっても若者だ。若者が集まり一つのことに力を合わせてやっていれば、出会いがあり、恋も芽生えるだろう。エイサーは、男性が勇壮に太鼓を打ち、女性は「イナグモーイ」(女舞い)といって、可愛い着物姿で手踊りをする。お盆の大分前から、毎夜集まって練習する。「エイサーは婚活ですからね」とラジオの民謡番組でも話していたぐらいだ。エイサー仲間で結婚する人もかなりいるようだ。

離島という厳しい自然のなかで、生きてきた島の人々にとって、民謡や踊りなど芸能は、なによりも大きな楽しみである。それは、嬉しいこと、苦しいこと、悲しいことなど庶民の思いを唄にする。そこにはみんなの気持ち、感情が代弁されている。なかでも、人を愛する恋心や別れ、悲恋など恋愛をめぐる出来事は、人生に深く刻まれた忘れられないことである。だから日々の暮らしや生きるなかで誰もが体験し、見聞してきた出会いと愛や恋、悲恋の話が、民謡として歌われたのは当然のことかもしれない。003

庶民の恋愛はかなり自由だった

民謡は、古くは数百年も昔から歌われてきた歴史がある。沖縄の民謡の恋歌を知るには、昔の恋愛と結婚の事情はどうだったのかを見る必要がある。以前に「琉球悲劇の文学者 平敷屋朝敏」のことを書いたことがある。それを読んだ人は繰り返しになるが、琉球王朝の時代は、身分制度が確立していた。本土の士農工商の階級制度と少し違い、琉球では、大名(貴族)、士族(サムレー)、百姓に分かれていた。このうち、大名や士族は、儒教士族が深く根を下ろし、封建道徳と身分制度にしばられて、恋愛の自由はなかったといわれる。結婚は、親が相手を決め、子どもは親には逆らえない。親の許さない恋愛は、不義・密通と同様の罪だった。

「(首里では)結婚相手の選択権は父親にだけあって、肝腎な息子や娘にはなく、子供たちには、相手選択の自主性が全然認められていなかったのである。その点は那覇の士族社会でも同様であった。明治時代までそれは続いた」(『那覇市史資料篇第二巻中の七』)。ここで、首里、那覇と区別しているのは、戦前は別の市だったからである。士族は同じ身分の士族同士で結婚し、士族と百姓の結婚はなかった。義理による結婚にしばられる士族にとっては、那覇にある遊郭に出向いて、遊女と遊ぶことだけがいわば「恋愛」というべき楽しみだったそうだ。

格式を重んじる士族と違って、百姓(平民)は、士族よりはまだ恋愛の自由があったようだ。だから、恋歌は庶民のなかから生まれた唄が圧倒的に多い。ただし、平民も親が相手を決める場合がかなり多かったというし、恋愛にも限界があった。相手は、同じ間切(マギリ、今の町村)の者でなければならなかった。それは、女性が他の間切・村に嫁ぐと、間切・村にかけられる夫役を負担する人数が減り、その分の負担が全体にかかってくるからだった。どうしても、他所から嫁をもらう場合は、「馬酒代」とかよばれる金額を支払わなければいけない。それは、嫁ぐ女性の六〇歳までの夫役銭を、嫁にもらう夫が一時に支払うものであったという。

恋愛の様相は、民謡のなかに反映されている。士族が登場する恋歌は、妻が相手ではない。恋話の相手は遊郭の女性である。平民の場合は平民同士の恋話になる。ただし、士族・役人と平民の女性との恋歌もあるが、これには深い背景がある。それは後半で紹介することになろう。

恋の舞台は「モーアシビー」

若い男女の出会いと恋愛が生まれる舞台となったのは、なんといっても野原や浜辺に出かけて、夜の更けるのも忘れて歌って踊り遊ぶことだ。その代表的なものが「モーアシビー」(毛遊び)である。「野遊び」と書く場合もある。八重山などでは「夜遊び」「道遊び」「芝遊び」などとも言ったという。

「♪月(チチ)さやか今宵 三味線ぬ音小(ウトゥグヮ) 肝(チム)ぬわさみちゅさ 遊(アシ)でぃ行かな (今日ぬ毛遊び 語てぃ

「♪遊び毛や我した 花ぬ若者ぬ恋語(クイカタ)れ所 情所(ナサキドゥクル) (同じ)」

「花ぬ毛遊び」というこの唄は、こういう歌いだしだ。意味は「月の美しい今宵 三線の音色に心はうきうきしている 遊んで行こう 今日は毛遊びだ 語り合い遊ぼう」「毛遊びは われわれ若者が恋を語るところ 愛情をかわすところだよ」。

野原や砂浜で車座になり、三線を弾きならし、馴染みの唄を次々に歌いあう。太鼓を打ち鳴らし、ハヤシと指笛が飛び交う。そしてカチャーシーなど踊り舞う。泡盛も酌み交わす。もう夜が更けるのも忘れるのは当たり前だ。恋が生まれるのも自然の成り行きだろう。モーアシビーでは、歌は決まった歌詞だけでなく、即興で自分の気持ちをのせて歌ったという。歌は恋の対話の手段として使われたそうだ。

八重山の民俗に詳しい喜捨場永洵(キシャバエイジュン)氏は『八重山民俗誌』で次のように書いている。

「日頃の重労働を癒すが如く、天気のよい月夜の晩などには村の青年男女等が一同
に会し、謡い遊び、かつ興ずることがあった」「このような時には、三味線などをもち出し、村迦れの道々や或いはまた浜などにおいて青年男女が村歌や島の歌などをともに謡い、かつ舞ったり踊ったりしていた」「歌や三線は勿論のこと盛んに恋愛行為などに及んでいた」。

役所は、この若者たちの「モーアシビー」を「風俗の乱れ」「無益なるもの」と見ていた。だから、「度々禁止せられたにも拘らず、当時の青年男女の間では相当流行していた」そうである。島の人々が生きる上で欠かせない毛遊び、芸能、恋愛の場を禁止するというこんな野暮な命令は、「禁酒令」と同じだ。いくら命令を出しても絶対に止めさせることはできなかったのだろう。

歌三線を習う時、だれもが最初に覚える曲に「安波節(アハブシ)」がある。こんな歌詞がある。「♪かりゆしぬ遊び 打ち晴れてからや 夜(ユ)ぬ明きてぃ太陽(ティダ)ぬ 上がるまでぃん」。

つまり、「楽しいお祝いの遊びが始まったら 夜が明けて太陽が上がるまで 大いに遊ぼう」という意味である。この琉歌は、民謡の中でも超有名な歌詞であり、その他のいろんな唄でも使われている。というのは、沖縄民謡の歌詞は大半が琉歌である。琉歌は和歌と違って字数が、八八八六である。この字数にあわせれば、他の曲にもすぐのせられる。だから沖縄民謡は、やたら替え歌が多い。同じ唄でも、いろいろな歌詞がある。

(注)これからは、原文を書いていない場合は訳文で書く。原文ばかりだと読むのが面倒なので、原文をできるだけ省略して、訳文にする。独断と偏見の訳文になるかもしれない。許しくだされ。

「砂辺の浜」という唄はこういう歌詞だ。

「♪砂辺(シナビ)浜下りて 語ろう今宵 愛の浜風(ハマカジ)にのってまた遊ぼう」

「♪遊びたわふれて 更ける夜もしらない しばし忘れよう 恋し砂辺浜」。

このように、野外に繰り出し、夜の更けるのも忘れて、太陽が上がるまで遊ぼう、という歌詞は、もう沖縄民謡では無数に登場する。

 若者の夜遊びだから、妻や子どもができても続けるのは、彼女から嫌がられたようだ。それを歌った曲がある。「桃売アン小(モモウィアングヮ)」という。女性が山桃を売って、彼氏に布を買い着物を着せたいといい、男性もそれに応えて、互いに夫婦になろうという恋歌である。

「♪女、この布で着物を縫って着せるから 今から後はもう毛遊びはしないでね」

「♪男、着物が心からの形見なら 今から後はもう毛遊びをしないよ」

彼女がいながら、他所の女性らと夜更けまで遊ぶのを「止めて」というのは当然だろう。

 若者の夜遊びは、宮古島でも同じだった。昔は村の番所=ブーンミャーの広場で、月の夜は宮古の軽快な踊りの「クイチャー」が行われたそうだ。「若い男女にとっては、クイチャーあそびは、恋を語る絶好のチャンスで、恋人同士はクイチャーの後の逢引きを楽しむことになる」(『伊良部村史』)。

 また、年齢の近い親しい仲間を「トンカラ」と呼び、「トンカラヤー」と呼ばれる家で、男女別々に寝泊まりする風習があったという。この風習は、結婚し互いに同棲するまでの間続けられた。朝になると、「娘たちは一斉に起き出して我が家へ急ぐ。せっせと立ち働く。このときが若い男の思いを寄せる娘への求愛、求婚のチャンスである」。そして各戸を訪ね、男女はお互いの意思を確かめ合い、結婚へこぎつける、ということになったという(同書)。当時の、若者たちの姿が目に浮かぶようだ。

 月の夜は気持ちもそわそわ002_2

若者たちが遊んだり、逢引きをするのは、なんといっても闇を照らす月の夜が最適だ。沖縄の離島の星空は美しい。月の夜はとりわけロマンチックだ。もう三年前の秋、首里城で「中秋の宴」があり見に行ったことがある。首里城の御庭(ウナア)の舞台で、優雅な伝統芸能が演じられ、その天空に満月が青白い光を放っていた。琉球王朝の時代を思わせる光景だった。月の美しさ、男女の出会いと恋の喜びを歌った唄は、とっても多い。

その名もずばり「月夜の恋」という曲がある。

「♪月の夜になれば 気持ちがそわそわする 二人が決めた待合場所に 急いで行かなければ ああ月の美しいことよ」

「♪月が西の空に下がり やがて夜が明ける 二人が結ばれて 家に戻る嬉しさよ いつまでも心が変わらないでね」

月の夜に、恋仲になった若者は、それこそ数え切れないほどいたことだろう。

 石垣島には「山はれーユンタ」という唄がある。やはりこんな歌詞である。

山原村の村番所にヌズレーマという美女がいた。こんなに美しい十五夜の名月の夜は遊ぼうよ。古老が「今夜は神を拝む日だから遊んではいけない」というが、若者はきかない。蛇皮張りの三味線を肩にかけ出かけると、娘さんとぱったり出会った。

「♪遊びに行こうよ カニだって白浜に下りて遊んでいるのに 黙っていられようか 浜に下りてこの月夜の浜で遊ぼう」。

もう満月の夜になれば、遊びに出る若者は誰も止められない。カニだって遊んでいるのだから。なぜ、若い男女が遊ばないでいられようか。

沖縄は、いまでもみんなよく月を見る。夜のリスナー参加の人気ラジオ番組「団塊花盛り」では、「今夜は月がきれいね」「きれいな十三夜の月が出ているよ」。こんなメールがよく紹介される。「さっき私も見たけれど、とってもきれいでしたね」とDJも応える。東京ではなかなかこんな話題にはならないだろう。夜空の月も星も美しい沖縄ならではかもしれない。昔はいまのような光害もなく、もっときれいだっただろう。浮かれないのがおかしいかもしれない。

「月ぬかいしゃ節」は八重山で子守唄として有名だ。「かいしゃ」とは美しいという意味だ。歌詞を見ると「♪東から上がる満月の夜 沖縄も八重山も照らして下さい」といいながら、内容はとても子守唄にはおさまらない。

「♪あれだけ美しい月の夜だ われわれ一同 語り遊びましょう」

「♪ビラマ(男性)の家の東方の庭に 茉莉花(マツリカ)が咲いている 花を取るのを口実に 彼を見てこよう」

「♪女童(ミヤラビ、娘)の家の門に 花染め手拭いを落とし、それを取るのを口実に 娘の家に会いに行こう」。

こんな歌詞が続く。これでなぜ子守唄なのか。不思議だ。もう立派な恋歌ではないか。

      若い男女が躍動するエイサー(古波蔵青年会)

遊ば」

2012年2月22日 (水)

ビギンの平和ソング「金網移民」

 BEGINの島唄シリーズ3作目「オモトタケオ3」の『沖縄三線で弾くビギンの唄本』を買った。その中にはじめて見る、聴く曲があった。「金網移民」という。どういう意味なのか? 不思議な題名だなと思っていた。

 歌詞を見ると、なんか意味ありげだ。「♪道路にお重をならべたら フェンスに向かって両手を合わす」と歌われる。あれ、これって、米軍基地に向かって手を合わせることになる。ん?? 移民というと、南米やハワイ、北米などすぐ頭に浮かぶ。沖縄は戦前から、たくさんの移民が海を渡ったからだ。でも、どうも、海外に出ていった移民のことではない。そこで、歌詞をつぶさに読み込むと、これは、米軍基地によって故郷を追われた人たちのことを指していることがわかってきた。

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 歌詞の全文を紹介する。

 はるかボリビア ペルーより ふるさと遠く 金網移民 呼べば振り向く距離なのに あなたはいまなお 帰れない
 そこから何が見えますか うた三線はありますか 一年一度の仕送りを 果たすために働いて 肝苦りさ(チムヌグリサ) 肝苦りさ(チムヌグリサ) わした金網移民
 道路にお重をならべたら フェンスに向かって両手を合わす 日傘を持つのはお孫さん あなたはいまなお待ちわびて 
 ほこりを巻き上げバスが行く 泣きたいほど青い空 平御香(ヒラウコウ)が全部燃えるまで
もう少し 側にいて 肝苦りさ(チムヌグリサ) 肝苦りさ(チムヌグリサ) わした金網移民
 そこから何が見えますか うた三線はありますか 一年一度の仕送りを 果たすために 笑ってる 肝苦りさ(チムヌグリサ) 肝苦りさ(チムヌグリサ) わした金網移民
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 沖縄戦のあと、生きるために不可欠の宝の土地を住民は米軍に奪われた。。先祖伝来の土地は、目の前にありながら、金網で仕切られて入れない。だから「はるかボリビア ペルーよりふるさと遠く」と歌われる。それが金網移民である。戦前戦後、南米に多くの移民が渡ったが、距離は遠いけれど、時間とお金をかければ、故郷の沖縄に帰れる。でも、基地に故郷を奪われた住民は、県内に住んでいても帰れない。

 

006 基地の中には、先祖のお墓もある。住民が祈願してきた大切な御嶽(ウタキ、拝所)、湧水もある。
 「道路にお重をならべたら フェンスに向かって両手を合わす」というのは、基地の中にあるお墓にむかって、料理を詰めた重箱を供え、うーとーとー(祈る)することを表している。写真にみえるのは、金網の中にあるお墓である。これは、米海兵隊の普天間飛行場の中を見たものである。基地のそばにある佐喜眞美術館の屋上からのぞくことができる。

075   写真は普天間基地内にある喜友名泉の金網の外で祈願した跡。金網の中に入れず、外で線香を焚いた様子がうかがわれる。

 「一年一度の仕送り」とは、沖縄では、祈願するさいに、線香を束にした平御香を燃やすとともに、あの世で使うお金「うちかび」を燃やす。先祖がお金で不自由しないように、燃やして渡すのである。これが「一年一度の仕送り」の意味である。
 

005_2    この写真も、普天間飛行場の中である。お墓が道路わきにある。
 「金網移民」は、こうした金網で土地を追われた住民の情景を描いている。そこには、戦後67年がたち、日本に復帰して40年がたっても、いまだに先祖伝来の土地に帰れない、人々の苦しみ、悲しみ、不条理への抗議の心が、ビギンらしい表現の中に、巧みに歌い込まれている。
 「肝苦りさ(チムヌグリサ) 肝苦りさ(チムヌグリサ) わした金網移民」。この言葉は、「肝」とは心のことであり、心の痛み、苦しみ、悲しみを表現するウチナーグチである。ここに、この唄の結晶があるのではないだろうか。

2012年2月21日 (火)

戦世と平和の島唄、その7

ポップス系の島唄でも

民謡とは言えない若い歌い手によるポップス系の唄にも、とてもよい平和の島唄がたくさんある。とても全部はふれられないので、いくつか紹介したい。

有名なのはTHE BOOМ「島唄」である。「♪でいごの花が咲き 風を呼び嵐が来た でいごが咲き乱れ 風を呼び嵐が来た 繰り返す悲しみは島渡る波のよう ウージの森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら⋯⋯」という歌詞だ。でいごがたくさん咲くと台風が多く来ると伝えられている。初めのカ所はそれが念頭にあるだろう。問題は、次の所である。

「ウージの下で」とは、沖縄のことを知らなければ理解ができないことだ。「ウージ」とはサトウキビのこと。人間の背丈よりはるかに高いウージの林は、男女の出会いと語らいの場になったのだろう。沖縄戦では隠れ場所にもなった。だから米軍は、掃討作戦でウージ畑を焼き払うこともした。では「ウージの下」とは何か。激戦地の南部は、地表が琉球石灰岩で覆われ、水は地下に流れ洞穴(ガマ)をつくっている。ウージ畑の下はガマになっているのである。多くの住民がガマに避難した。砲弾で傷つきガマに逃げた人もいるし、隠れたガマで米軍の攻撃を受け死傷した人もいる。ガマにはさまざまな悲劇の人間ドラマがあった。

この曲の二番では「♪ウージの森で歌った友よ ウージの下で八千代の別れ」と歌う。つまり、サトウキビ畑で出会い、ともに歌った愛しい彼女と、永遠の別れをしなければならなかった、辛い物語が秘められている。作詞作曲した宮沢和史は、県外人だが、沖縄に来た時に、「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れた際、そこでひめゆり部隊の生き証人として沖縄戦の実相を語り継いでいるおばあから話を聞いて、その女性に捧げるためにこの唄を作ったという。

「♪島唄よ風に乗り 届けておくれ私の涙」「♪海よ宇宙よ神よいのちよ このまま永遠に夕凪を」と歌う胸内には、死者への哀悼の意と平和への祈りが込められている。

若手の民謡歌手の神谷千尋(カミヤチヒロ)が歌う「空よ海よ花よ太陽よ」は、フォーク系の島唄だ。作ったのは、岸本しゅん平という作詞家だ。

「♪夢の欠片 埋もれてる 深い憂いの果て 遥か昔の 悲しみの夏 小さなこの島の」「♪どこまでも 青く広がる 輝く海と空 紡ぎ合わせた 小さな祈り 寄せる波は静か」と続く。夢や希望を抱きながら無残に押しつぶされた無数の人々の「悲しみの夏」を決して忘れてはいけない、「小さな祈り」を紡ぎ合わせ、「空よ海よ花よ太陽よ 島の祈り届け」と歌う。そして最後は「平和の願い届け⋯⋯」と静かに終わる。声高ではないが、「島の祈り」がじーんと胸にしみる曲である。 

森山良子の歌う「ザワワ、ザワワ」の「さとうきび畑」は名曲だ。突然海の向こうから戦争がやって来て、「鉄の雨」に撃たれ父は死んだ、と歌う。モロ沖縄戦を主題にしている。ただ、あまりによく知られているので、紹介するまでもないので省く。

海勢頭(ウミセト)豊氏は、「さとうきびの花」「月桃」など、沖縄から平和の音楽を創り出している作曲家だ。沖縄戦を描いた映画「GAМA(ガマ)――月桃の花」の挿入歌「月桃」から紹介したい。

「♪摩文仁の丘の 祈り歌に 夏の真昼は 青い空 誓いの言葉 今も新たな ふるさとの夏」

「♪海はまぶしく キャン(喜屋武)の岬に 寄せる波は 変らねど 変わるはてない 浮世の情け ふるさとの夏」

「♪六月二三日待たず 月桃の花散りました 長い長い 煙たなびく ふるさとの夏」

「♪香れよ香れ 月桃の夏 永久(トワ)に咲く身の花心 変わらぬ命 変わらぬ心

民を見捨てた戦さの果てに

サザンオールスターズの桑田佳祐が作詞作曲した唄に「平和の琉歌」がある。これは桑田が一九九六年に、一七年ぶりに訪れた沖縄で演奏されたと聞く。沖縄の現実を深く知っていないと作れない歌詞だ。彼がただものではないことを証明する曲である。沖縄人の作品ではないが、沖縄そのものが主題になっているので、島唄に入れた。011

    写真は、「平和の琉歌」も歌うネーネーズ
「♪この国が平和だと 誰が決めたの? 人の涙も渇かぬうちに アメリカの傘の下 夢も見ました 民を見捨てた戦争(イクサ)の果てに 蒼いお月様が泣いております 忘れられないこともあります 愛を植えましょうこの島へ 傷の癒えない人々へ 語り継がれてゆくために」

「♪この国が平和だと 誰が決めたの? 汚れ我が身の罪ほろぼしに 人として生きるのを 何故に拒むの? 隣り合わせの軍人さんよ 蒼いお月様が泣いております 未だ終わらぬ過去があります 愛を植えましょうこの島へ 歌を忘れぬ人々へ いつか花咲くその日まで」

沖縄に住んでいると、「この国が平和だと誰が決めたの?」というフレーズは、違和感なく響く。前にも書いたように、戦争と隣り合わせにいるからだ。「アメリカの傘の下 夢を見ました」というのも、軍国日本による「民を見捨てた戦争の果てに」、アメリカの支配下で生きるしかなかった。基地で雇われ働き、中には基地から軍用品をかっぱらう「戦果アギヤー」で稼いだ人もいる。米兵相手の商売をして日々の暮らしを立てざるを得なかったのが、沖縄の現実だった。

とくに「汚れ我身の罪ほろぼしに」とは何か。侵略の戦争をはじめ、国民と沖縄県民にどれほどの苦難を与えたことか。しかも、そのあげくに、沖縄全土をアメリカに差し出し、軍事基地としていまなお自由勝手に使わせ、莫大な税金まで注ぎ込んでいる。「罪ほろぼし」に、平和だといわれても、「沖縄振興」だと補助金をばらまかれても、傍若無人な米軍基地の現状は何ら変わらない。その日本政府への批判は鋭い。

「人として生きる」権利を拒む「隣り合わせの軍人」、つまり米軍のことを厳しく告発していることが、注目される。街のど真ん中にまで、基地がドンと居座るこの沖縄。米軍機の爆音や墜落、米兵による女性への暴行、タクシー強盗など犯罪の多発によって、「人として生きる権利」がどれほど侵されてきたことか、これからも侵され続けるのか。米軍は「良き隣人」でありたいというが、それが軍事基地である限り、「良き隣人」になどなりえない。この曲は、沖縄県民が、人間らしく生きることを抑圧する日米安保体制の欺瞞性というかその本質を、桑田流のわかりやすい言い回しで暴き出している。

民謡歌手の女性四人グループ「ネーネーズ」もこの曲を歌っている。こちらは、沖縄を代表する唄者の一人、知名定男作詞のウチナーグチの歌詞が付け加えられている。

「♪御月様前(オチチョウメー)たり泣(ナ)ちや呉(ク)みそな やがてぃ笑ゆる節(シチ)んあいびーさ 情知らさな くぬ島ぬ 歌やくぬ島ぬ 暮らしさみ いちか咲かする愛の花」=お月さまの前で泣いてくれるな やがて笑える時節もあるよ この島の情けを知らせよう 歌はこの島の暮らしそのもんだよ いつかきっと咲くだろう 愛の花が。

この加わった歌詞の部分には、告発だけでなく、「いま辛いことがあっても決して希望を失わない、やがて笑える日がきっと来るよ」というウチナーンチュの肝心(チムグクル)がとてもよく表現されている。

沖縄県系ぺルー移民の三世、アルベルト城間(下写真)を中心に結成された沖縄初のラテン系バンド・ディアマンテスの唄に「片手に三線を」という曲がある。リーダーでボーカルのアルベルト城間が作曲し、歌詞は方言の先生らとの合作になっている。「♪青年(ニーセター)よ 三線片手に弾き鳴らし 平和求めて共に この船で旅立とう」「♪青年よ 壊れた壁に橋渡し 遠く離れた友に この夢を届けよう」「♪哀しく 繰り返してきた思い出を 気持ち高めて 輝く未来(アシタ)へ 変えてゆこう」。

この歌には、県系のペルー移民としての、これまでのさまざまな苦労や悲哀と、それに打ち克ってきた歩み、そして沖縄とペルーへの熱い思いがある。苦しい時、悲しい時、さまざまあっても、慰め合う言葉より、三線弾いて励まそう、世界に目を向け、旅立とう、と歌う。これはペルー三世ならではの心境が込められているし、ウチナーンチュ魂もとても感じられる。ラテン的な色彩がにじんだ島唄である。

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 五月四日に開かれた那覇ハーリー会場で、彼らのライブがあり、初めてナマで見ることができた。この唄を歌ってくれたが、彼の熱いメッセージが伝わってきた。

時代を映し出す島唄

こうして見てくると、戦争の時代、戦後の復興と平和にかかわる島唄が実にたくさん作られ、歌われ、歌い継がれてきたことがわかる。沖縄民謡は、伝統的にはいくつかのジャンルがある。それは、お祝いの唄や五穀豊穣や豊年の世を祈る唄、人が生きる上での教訓を表した曲、恋愛や夫婦の愛情、親子の愛情、人間の喜怒哀楽、働く尊さ、島の景色と人情の美しさを歌った曲などたくさんの唄がある。でも、戦前の民謡では「平和の島唄」は、寡聞にして知らない。戦前は、平和の声を上げることが弾圧の対象だったから、当然かもしれない。

でも、あの痛ましい戦争、とくに悲惨な沖縄戦を体験した戦後は、戦争の悲惨を繰り返してはならないという非戦の誓い、平和の願いは、沖縄民謡にかかわるあらゆる人たち、唄者たちにとって、心からの叫びとなっている。だから、これほど数え切れないほどの「平和の島唄」が作られてきた。曲名に直接に平和の名がついていなくても、平和の願いを込めた民謡、島唄は、もっともっとたくさんある。これほど多くの「戦世と平和」を主題にした民謡、島唄が作られた地方は、全国を見回してもおそらく他にはないだろう。それだけの規模と広がりと深さをもち、それが人々の共感を集め、支持され、愛されていることを改めて痛感した。

「戦世と平和の島唄」が、戦中、戦後と作り続けられている要因として、ふれておきたいのは、それが沖縄民謡、島唄の特性に根ざしているということである。それは、民謡が文字通り、庶民が日々、生き、暮らす、その日常の営みから、喜びや悲しみ、苦労や楽しみ、人々の共通の感情を表現することを本性としているからだ。島はまた、暮らしの中に芸能が息づいている。唄は、島に暮らす人々の身近にいつもある存在だ。子どもの時から、祭りと芸能は生活の中に密着していきずいている。

だから唄を作るのもたいてい専門の作曲家や作詞家ではない。民謡の歌い手は、いま流に言えば、シンガーソングライターであり、民謡と島唄は、沖縄フォークソングとも言えるものだ。みんな自分と周りの人々が歩む人生と暮らしの中から唄を作る。だから、庶民が生きた社会、人々の暮らしと人生を巻き込む出来事は、民謡にも鏡のように映し出される。時代を敏感に反映するのはなんら不思議ではない。むしろ、そこに沖縄民謡、島唄の特徴と魅力があると言えるかもしれない。

長々と書いてきたが、「戦世と平和の島唄」はこれで終わりではない。ここでふれていない唄でも、まだまだたくさんある。これは、あくまでも私が目にしたものをピックアップしたにすぎない。沖縄で活動する歌手が歌っている、さまざまな唄の中には、平和への祈り、命と平和の尊さがいろいろな形で刻み込まれている。これからもまだまだ、たくさんの「平和の島唄」が作られるに違いない。こられの唄のフォローはある意味で際限がない。この原稿はいったんここで幕引きとしておきたい。

           (終わり、沖縄戦から六四年の二〇〇九年五月一〇日
                       文責・沢村昭洋

参考文献 滝原康盛編著『沖縄民謡工工四』全一二巻、同『沖縄民謡大全集』、備瀬善勝、松田一利編著『歌詞集 沖縄のうた』、『新沖縄文学五二号、島うたでつづる沖縄の昭和史』、上原直彦著『島うたの周辺 ふるさとばんざい』『島うたの小ぶしの中で』『語やびら島うた』、沖縄国際大学大学院地域文化研究科「ウチナーンチュのエンパワーメントの確立―沖縄音楽社会史の変遷を通して」、新城俊昭著『琉球・沖縄史』、『沖縄の百年』、琉球新報社『沖縄戦新聞』、その他インタネットの関連サイト。

2012年2月20日 (月)

戦世と平和の島唄、その6

「時代の流れ」

島唄の名手として、聞くたびにほれぼれする唄者に嘉手苅林唱(カデカルリンショウ)がいる。彼の唄に「時代の流れ」という唄がある。「♪唐(トウ)ぬ世(ユ)から 大和ぬ世 大和ぬ世から アメリカ世 ひるまさ変たる 此ぬ沖縄」と歌い出す。

沖縄は、琉球王朝の時代、国王は中国の皇帝の臣下となり、国王が亡くなると皇帝の使者である冊封使(サッポウシ)が来て次の国王を任命していた。中国に仕えた時代を「唐ぬ世」という。

ちょうど四〇〇年前の一六〇九年、薩摩に侵略された。つまり大和の支配下にも入った。それから中国と大和の両国に属していた。「大和ぬ世」の始まりである。そして、一八七九年(明治一二年)には、明治政府が琉球藩を廃止し、沖縄県を設置する「琉球処分」を押し付け、琉球王国は滅びた。完全な「大和ぬ世」である。

一九四五年に沖縄戦が終結し、軍国日本が敗戦を迎えると、沖縄は日本から切り離され、米軍の占領支配となった。つまり「アメリカぬ世」である。

小さな島国だった琉球・沖縄は、たえず大国の影響や支配を受けてきた。「世」というのは、一つの時代を特徴づける独特の表現である。唄は「中国の時代から大和の時代、大和の時代からアメリカの時代、不思議に変わってきたこの沖縄」という意味だ。唄はこのあと、「♪昔銭(ンカシージン)ぬ計算(サンミン)や 一貫二貫どさびたしが 今や計算まで変て」。つまり、昔はお金の計算も一貫、二貫(二銭、四銭)と言ったのですが、いまや計算まで変わってしまった、と歌う。

沖縄は特に、米軍による占領の下で、日本通貨は通用せず、米軍が発行する緊急通貨のB型軍票(B円)になり、その後ドルとなり、さらに、日本に復帰してからは円というように、たびたび通貨が変わったのである。唄はこの後も、時代の流れ、変化とともに沖縄の社会と風俗が様変わりした様子をユーモアたっぷりに歌っている。

同じく時代の変化を歌った曲に「戦後数え唄」がある。こちらも、沖縄民謡の大御所で早弾きの名手・登川誠仁(ノボリカワセイジン)が歌っている。訳さなくても分かるぐらいだが訳しておく。

「♪一つ人々 聞ちみそり 時代や変わてぃ アメリカ世なてぃ 沖縄ぬ島や 乗い物びけい バスからハイヤー 多くなてぃ 用事かりくり車ぬ上から」=一つみなさん 聞いておくれ 時代は変わってアメリカ支配の世の中になった 沖縄の島々は 乗り物ばかり増えた バスからハイヤー・タクシーが多くなり あれこれ用事をするにも車の上からだよ。 

「♪五つ移民ぬ人ぬ達(チャ)や 故郷離りてぃはるばるとぅ あがと大和からん 沖縄に来(チ)ゃるたみに 沖縄ぬ人口ん 多くなてぃ 豊かにないびさ 沖縄ぬ島や」=五つ移民に出かけていた人々が 故郷を離れはるばると遠くに行っていたが 帰ってくるし、大和に行っていた人々も 沖縄に帰って来ている 沖縄の人口は多くなっている これからは豊かになるだろう 沖縄の島々は。

「♪九つ心(ククル)や広々(ヒルビル)とぅ お金は天下の廻りもの 富貴(ウェーキ) 貧乏(ヒンスウ)や 坂(ヒラ)ぬ下(ウ)り上(ヌブ)い 皆さん互に働らちゃい 心合わちょてぃ 御立(ウタ)ちみそり」=九つ心は広々と持とう お金は天下の回りものだよ 金持ちや貧乏と 坂を下ったり上ったりすることもあるだろう みなさんお互いに 大いに働こう 心合わせて 立ち上がろうよ。

ここでは、時代の変化を、ユーモアを交えて歌っている。それだけにとどまらず、「心を合わせて立ち上がろう」と呼びかけているのが、戦争による犠牲と荒廃にくじけないウチナーンチュのたくましさと心意気が出ているところだ。

     

これぞウチナーンチュ魂

その精神を見事に表現した唄に

「ヒヤミカチ節」がある。「ヒヤミカチ」という言葉は、よく民謡でも使われるが、初めはまるで意味くじわからなかった。要するに「エイヤー! と身を奮い立たせる」ことだという。戦争による惨状の上に、異民族による軍事支配に置かれた沖縄だが、それにくじけない、屈しない、希望を失わない、心を合わせて、わが身を奮い立たせて、進もうという気概がそこに感じられる。こうしたウチナーンチュ魂があったから、今日の復興があるのだろう。「ヒヤミカチ節」も少しさわりを紹介する。

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         沖縄市にある「ひやみかち節」の歌碑

「♪名に立ちゅる沖縄 宝島でむぬ 心打ち合わち 御立ちみそり ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチ ウキリ」=名前の知られたこの沖縄 宝島なんだから 心を一つに合わせて 立ち上がろうではないか 奮い立とう!

「七転(クル)び転でぃ ヒヤミカチ起(ウ)きり 我(ワ)した此ぬ沖縄 世界(シケ)に知らさ (あとは同じ)」=七転び転んで 奮い立って起き上がろう われらの沖縄を 世界に知らせようではないか。

039_2 この唄は、アメリカに移民として渡っていた今帰仁(ナキジン)村出身の平良新助(左写真)が、一九五三年ころロスアンゼルスから沖縄に帰って来て、郷土の過酷な状況を目にし、人々に希望と誇りを取り戻そうと思って、この歌詞を作ったそうだ。これに名高い古典音楽家の山内盛彬(セイヒン、右下写真)が共感して作曲したという。演奏はかなり難しい曲だが、歌ってみると、とっても曲に込めた思いが伝わってくる。  

さて、沖縄は、二七年間におよぶ「アメリカ世」から、一九七二年(昭和四七年)に、日本に復帰し「大和ぬ世」に戻った。米軍の居座りはそのままだが、形の上では日本の憲法の下にはいった。先に紹介した「時代の流れ」などの唄は、まだそこまではふれていない。それに、戦争と平和のことも直接の主題にはしていない。040

しかし、嘉手苅氏は、実は世の中の移り変わり、「時代の流れ」に鋭く切り込むような唄を歌っている。沖縄が復帰する三、四カ月前に「下千鳥」という民謡のメロディーにのせてこんな唄を歌ったという。上原直彦氏が、嘉手苅氏と一緒に三線をつま弾いていて、聞いたと言って紹介している話である(『島うたの周辺 ふるさとばんざい』)。

「♪下ぬ居てぃ上ん 成り立ちゆるたみし 下ぬねん上ぬ ぬ役立ちゆが」=下人民があってはじめて成り立つお上 下人民を無視した お上にどれ程の意味あいがあろうか。

「♪あたらわが沖縄 品物ぬたとぅい 取たい取らったい 上にまかち」=ああ、わが生り島沖縄 まるで売り物買い物の品物のようだ 人民の意志は全く反映されず アメリカに売り渡したり 買い戻したり お上まかせだ。

「♪思みば身ぬ毛だち 戦世ぬ哀り またんく戻ち あらばちやすが」=思えば身の毛もよだつ あの戦争の悲惨さよ 日本に戻れば また戦争に巻き込まれはしないか不安だ。

「ダーグに丸みらり 大舟ぬ心地 戦世ぬあわり 肝(チム)にかかてぃ」=復帰すれば 団子のように丸められ 大きな舟に乗った心地はするが なぜかあの戦争の悲惨さが心にかかる。

歌詞の訳は上原氏の訳にそいながら少し簡略にしている。上原氏はこの唄を聞いた時の印象を次のように書き残している。

「駆使された言葉は決して上品なものではないが、日常語で移りゆく゛時゙をうたっているだけに、異様なまでの迫力で聞く者を圧倒し、彼のもつ『怨念』いわゆる『怨み節』に慄然としない訳にいかなかった」

たしかに、支配者の都合によって沖縄を品物扱いのようにし、そのためいかに民衆が振り回され、辛酸をなめさせられたが見事に表現されている。「怨み節」というのだろうか、すごみさえ感じさせる唄だ。その意味で、先の「時代の流れ」というタイトルの唄の続編に位置しているといえよう。だが、実は続編と言うより、本質編とでもいうべき唄ではないかと思う。

ここで余談であるが、林昌の人柄を示すエピソードを紹介する。上原氏がかつて、林昌との一問一答で聞いたことがあるという。「問 好きな人、まず歴史上の人物」「答 歴史上? みんな死んでいて、つき合いがないから⋯⋯居ない」「問 生きている人では」「答 瀬長亀次郎」。(上原直彦著『島うたの小ぶしの中で』)沖縄人民党委員長の亀次郎は、戦後の米軍の強圧的な支配に対抗し、沖縄県民の心を代表するシンボル的な存在だった。林昌も反骨的な精神の持ち主で、大いに共感するところがあったのだろう。

「戦争はじめたのは誰か」

この上原直彦自身が、作詞家であり、戦争そのものをテーマとした唄を書いている。「命口説(ヌチクドゥチ)」という。あの戦争は「身ぬ毛立ちさみ 恐(ウス)るしや 此の世ぬ地獄や」と歌い出す。歌詞は一一番まであり、全編を通して「身の毛もよだつ」沖縄戦の実相を語り、何のため戦争を起こしたのか、誰が戦争を始めたのか、と鋭く問う。

「♪四、艦砲射撃 雨霰(アミアラリ) あたら生(ンマ)り島 散々に 火の海火の山 なちねらん」=艦砲射撃が雨あられのように降り注ぎ 惜しくもわが生まれ島はさんざんに 青い海も緑の山も焼かれてしまった。

「♪八、いかに物言(ムヌイ)やん 草木やてぃん 命あるたみし 焼かりりば アキヨアキヨとぅ 泣かなうちゅみ」=いかに物を言わない草木だって 命があるからには 焼かれれば ああ、あわれと泣かないことがあろうか。

「♪九、戦争起(ウ)くちゃし 何(ヌ)ぬ為(タミ)か 戦争始みたし 誰(タル)やゆが 神ぬ仕業か 人故(フィトゥユイ)か」=戦争を起こしたのは いったい何のためなのか 戦争を始めたのは誰なのか 神の仕業か人間の仕業なのか。

「♪一〇、戦世んしぬぢ みるく世ん 迎(ンケ)えるさみとぅ思(ミ)ば ありくりとぅ 国ぬユサユサ 果てぃやねらん」。この部分の訳はあとから書く。

最後に「あぬ戦争 エイ! 子や孫に 語らとてぃ 何時ん忘りるな 命口説」と終わる。いつまでも戦争を忘れずに子や孫に語り継ごう、と平和への願いを込めている。

この唄を歌ったのは山内昌徳という唄者だ。彼自身が、徴兵され中国の戦線を転戦し、命一つひっさげて帰った体験者だ。戦後は戦ったアメリカに雇われ軍作業につき、ときに倉庫から軍用物資を取り「センクヮ」(戦果)を上げる、という生活をし、複雑な心境だったそうだ。でも常にあるのは「戦争を恨むと同時にもつ反戦の姿勢と、今ある命の尊さと讃歌である」という唄者だった(上原著、前掲書)。

十番の歌詞の中で、「国ぬユサユサ(ゴタゴタ)」のくだりは、これだけでは何を指しているのか意味がわからない。この一節を詠んだのは嘉手苅林昌の母親だという。沖縄が日本に復帰して自衛隊が駐屯するという動きを聞いて作ったそうである。だから、訳するとこうなる。「あの戦争も終って、もう平和な世の中になるだろうと思えば、自衛隊だ、軍隊だと国中がゆれにゆれる。イヤな予感!」。これも、上原氏が紹介していることである。

作詞家・ビセカツ(備瀬善勝)は、平和の島唄をいくつも作っていることで知られる。「やさしい心を武器にして」(普久原恒勇作曲)という曲も、なかなかすごい唄だ。ヤマトグチの歌詞でわかりやすい。

「♪戦さの嫌いな 人が住み 戦争を放棄(ヤメ)た この邦(クニ)に 誰が決めたか 基地がある やさしい心を 武器にして 平和な邦を 造ろうよ 平和な邦を 造ります ※手をつなごう 世界をつなごう 人間の輪で 人の和で」

「♪希望に燃える 島人(シマンチュ)に 自然の恵み 満ちている 平和の誓い 忘れずに やさしい心を 武器にして 理想の邦を 築こうよ 理想の邦を 築きます ※繰り返し」

「♪小さな島から 反戦を 大きな声で 呼びかけりゃ 地球を救う もとになる やさしい心を 武器にして 協和の世紀 迎えよう 協和の世紀 迎えます ※繰り返し」

戦世と平和の島唄、その5

「命どぅ宝」

もう一つ、これと双璧をなすような、平和の唄がある。それが「命(ヌチ)どぅ宝」だ。津嘉山寛喜氏の作詞・作曲である。

「♪忘(ワシ)てぃ忘らりみ 戦世ぬ哀り 思(ウ)び出(ヂヤ)する毎(グトゥ)に 身ぬ毛立(キダ)ちゅさ ジントヨ 語てぃ行か戦 ジントヨ 命どぅ宝」=忘れようとしても忘れられない あの戦争の世の哀れさよ 思い出すたびに 身の毛もよだつよ、本当に語り継いで行かなきゃ 戦争のこと 本当に 「命こそ宝」だよ。

「♪戦凌(イクサシヌ)ぢゅんでぃ ガマや籠(クマ)たしが ガマん又地獄(ジグン) 鬼(ウニ)の住家(シミカ、ハヤシを繰り返す)」=砲弾とびかう戦をしのごうと ガマにこもり隠れたが ガマもまた地獄 鬼の住み家だったよ。

「♪二度とぅあぬ地獄 繰り返いちなゆみ 永遠ぬ平和 御願(ウニゲ)さびら (ハヤシを繰り返す)」=二度とあのような地獄を 繰り返してはいけない 永遠の平和がもたらされるように 心からお願いします。

「♪何時(イチ)ん何時までぃん 忘りてぃやならん 沖縄ぬ心(ククル) 命どぅ宝」=いつまもでいつまでも 決して忘れてはいけない 沖縄の心である 「命こそ宝」だということを。   

ひとこと注釈するとすれば、ガマに隠れたがガマも、また鬼の住み家だったという部分だ。これは、最後の激戦の地となった南部ではとくに、住民はガマに避難したが、日本軍の司令部が首里から南部に撤退してくると、日本兵が住民をガマから追い出す事例が頻発した。軍と住民が混在して隠れていたガマでは、子どもが泣き叫ぶと「米軍に見つかるから殺せ」と命じられ、我が子に手をかけざるをえなかった母親もいる。方言を話すとスパイ視され、軍の命令に少しでも抵抗すると虐殺された例もある。先に米軍に保護されて、ガマに投降を呼びかけにきて、殺された住民もいた。これらはまさに「ガマも鬼の住家」だったという表現を裏付ける出来事である。

二度とあの戦争、地獄を繰り返してはならない、語り継いでいこう、「命どぅ宝」だぞ。この揺るがぬ平和への誓い、平和への決意が込められている。

「命どぅ宝」という名言が最初に使われ出したのは、沖縄戦ではない。それより大分前だという。一九三〇年(昭和五年)に上演された「琉球処分」をテーマにした山里永吉作の「史劇・首里城明け渡し」の中だという。王国廃止によって東京に連れて行かれる最後の国王・尚泰(ショウタイ)が詠んだ琉歌「戦世(イクサユ)ん済(ス)まち 弥勒世(ミルクユ)んやがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」に由来するという。この琉歌の意味は「いくさのような混乱した時代も終わる

やがて平和で豊かな時代(弥勒世)がやってくるだろう 嘆くなよみんな 命あってこそ、命こそ宝だ」。沖縄芝居で使われたこのセリフが、その後庶民の中に広がったらしい(沖縄国際大学非常勤講師・大城将保氏による)。

それは、沖縄戦を通して全県民の実感となったのだろう。ウチナーンチュの心を象徴する言葉として、繰り返し使われるようになった。

アメリカ浮世の中で

郷土が戦場となり、焼き尽くされ、破壊尽くされた沖縄。復興に立ち上がったものの、食べるものも働く場所もままならない。米軍の占領支配のもとで、仕事と言えば軍作業しかない現状があった。「アメリカ節」という唄がある。

「♪アメリカ浮世(ウチユ)のいちなしもん ハーバーハーバー 軍作業 雨(アミ)にん風(カジ)にんちちかってぃ いえいえ姉さん乗らんかね」=アメリカ浮き世は忙しい 港、港の軍作業 雨にも風にもうちかって仕事だ イェーイェー姉さん(船に?)乗らないかね。

「♪アメリカ浮世のばちくゎいもん 配給事務所の古うぇんちゅ くらさにまぢりて 穴ふがち 金網いっちん そういらに」=アメリカ浮き世でうまくやった者は 配給事務所の古ネズミ 暗闇にまぎれて 穴をあけ軍用品をかじり取る 捕まって金網に入れられたが また入ったよ。

「♪アメリカ浮世や 民主主義 人んだまさん うしちきらん 平和と自由の花咲かち 笑ひかんとて 行ちゃびらや」=アメリカ浮き世は民主主義だ 人をだまさない 抑圧もしないはず 平和と自由の花を咲かせよう 笑い飛ばして行こうじゃないか。   

戦争が終わっていつまでも、うちひしがれてはいられない。「大和世」に代わる「アメリカ世」という異民族の支配のもと、軍作業で米兵にこき使われた。軍用品を盗み取る「戦果アギャー」に走り、銃撃される人も出た。それでも、「ナンクルナイサー」(なんとかなるさー)の精神を忘れず、たくましく生きていった。唄にはそんな時代の雰囲気が感じられる。

033 在沖米海兵隊基地司令部があるキャンプフォスター(キャンプ瑞慶覽)

民主主義の国だと思ったアメリカは、県民のあわい期待を裏切り、占領軍として横暴な姿をさらけ出してくる。人をだまさないどころか、銃剣とブルドーザーで土地を奪い、金網で囲いこみ基地をつくっていった。県民の宝である土地も海も空も、米軍の思うがままに支配し、専制的な権力者として君臨した。

米軍の土地強奪と基地建設に抵抗して立ち上がった伊江島の人々の行動を描いた唄がある。「陳情口説」である。「口説」とは「くどぅち」といって、一つの旋律にのせて、物語風の歌詞を七五調で歌う民謡の一つの形式である。わからない沖縄語は( )で訳する。

「♪世界(シケ)にとゆまる(名高い)アメリカぬ 神ぬ人びと わが土地ゆ 取て軍用地うち使てぃ(使ってしまった)」

「♪畑ぬまんまる金網ゆ まるくみぐらち(巡らせ) うぬすば(その側)に 鉄砲かたみてぃ番さびん(鉄砲担いで番をしている)

「♪たんでぃ主席ん 聞ちみしょり(どうか主席様聞いてください) わした(私ら)百姓がうめゆとてぃ(あなたの前に出て) う願(ニゲ)いさびしんむてぃぬふか(お願いするのはよほどのことです)

「♪親ぬ譲りぬ畑山(ハルヤマ)や あとてぃ(あってこそ)命や ちながりさ(つながっている) いすじわが(ただちに私たちの) 畑取ぅいむるし(畑を取り返して下さい)

「♪那覇とぅ糸満、石川ぬ 町ぬ隅(シミ)うてぃ(隅々で) 願(ニゲ)さりば(お願いすると) 私達(ワシタ)う願いん聞(チ)ちみせん(私たちの願いを聞いてくれました)

一九五五年に米軍によって土地を強奪され、家も焼かれた伊江島の島民たちが、全県民にこの理不尽な土地取り上げを訴えようと、本島に渡り歩きまわった。「乞食行進」と呼ばれる。行進しながら三線にのせて歌ったのが、この「陳情口説」である。別名「乞食口説」とも呼ばれる。島民の一人、野里竹松氏の作詞である。

伊江島民のたたかいは、全県的な「゛島ぐるみ闘争゛への引き金となった」のである(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)。Photo_4

      写真は伊江島の闘いを伝える「ヌチドゥタカラの家 

米軍は、県内で強制接収した軍用地を「一括払い」と称して、土地を買い上げて永久使用する方針を打ち出した。


これに反対する県民は「土地を守る四原則」を掲げて立ち上がり、一九五六年には、「島ぐるみの土地闘争」の大きなうねりへと発展していった。そして、「一括払い」をくい止め、地料の適正補償をさせることになった。

「平和な島」の願いこめ

沖縄戦の痛苦の体験と新たな米軍の軍事基地の重圧の中で、県民にとって平和はかけがえのない大事なものである。平和そのものをテーマとした唄もいくつも作られた。

そのものずばり「平和節」という唄がある。

「♪世ぬ中や変て かん平和なとい 此(ク)ぬまゝに先ん なてどやしが 願(ニガ)らねいうちゅみ 世界(シケ)ぬ平和」=世の中は大きく変わって 平和な世になった このまま先々になって、どうなるだろうか 願うのは世界の平和だよ。

「♪平和なる御代(ミユ)に 身が産子(ナシグヮ)立てて 栄えださな沖縄 広く知らさ 此りど御万人(ウマンチュ)ぬ 望(ヌズ)みでむね」=平和な世の中になり わが子たちを盛りたてて 豊かに栄える沖縄をつくり 広く知らせよう これぞ世の中のみんなの望みだものね。

「♪人に生(ウンマ)りとて 望みまぎまぎと 果さらんうちゅみ ないど定み 共に手ゆとやい 此ぬ沖縄作(チュク)ら」=人に生まれてきて 望みは大きくもって 果たさなければいけないのが定めだよ ともに手を取り合って この沖縄をつくっていこう。

平和の尊さを歌った曲に「守礼の島」という唄もある。これはヤマトグチの歌詞だ。

「♪青い海原 吹くそよ風が 明るい情けを 乗せて来る 島の皆さん今日は ハイ今晩は 守礼の邦に 花が咲く 愛の島」
 「♪島の平和の 願いを込めて 楽しみ悲しみ 分かち合い 島榕樹(ガジュマル)の 根の如く ハイ逞しく 守礼の邦に 花が咲く 愛の島」

「♪人情豊かな 緑の島で 親しく暮らそう 何時までも 守礼の光 身に浴びて  ハイ進もうよ 守礼の邦に 花が咲く 愛の島」

琉球は古来、中国と日本の両国に属していたが、中国皇帝からは、琉球はとても忠誠を尽くす国として「守礼之邦」と呼ばれていた。それは、首里城の入口にある門に「守礼之邦」と書かれた額が掲げられていることにも示されている。それに、琉球はその昔、三つの国に分かれて争っていたが、六〇〇年近く前に、統一国家になった。

その後、国内での争いは止めて、武力より芸能を重んじ、「武の国」ではなく「文の国」として知られていた。沖縄県民は、そのことをとても誇りに思っている。この「守礼の島」という表現と唄には、二度と戦争を繰り返さない平和の島、守礼の光を浴びていつまでも幸せに暮らせるように、という願いが込められている。

「平和の鐘」という唄にも「守礼の国」が歌われている。先に紹介した「兄弟小節」を作った前川朝昭の作詞作曲である。これもヤマトグチだ。

「♪辛い浮世を 鼻唄まじり 皆んなと共に 行末を 思いに深く ふけるとき ※守礼の国に 光あり 平和の鐘が 鳴りひびく」

「♪胸に平和の 願いをこめて 明るい島の 建設に 皆さん力を 合わせて 守礼の国に 光あり 平和の鐘が 鳴りひびく ※ハヤシ繰り返し」

「♪恋し祖国を 離れて居ても 心は結ぶ 金の糸 錦を飾りて 帰える時 ※ハヤシ繰り返し」

「辛い浮世を鼻唄まじり」というあたりに、沖縄人が辛酸をなめても、希望を失わず「なんくるないさー」=「なんとかなるさー」という楽天性を持ち続けて、たくましくともに手を携えて進もうという気概が感じられる。

この唄は、「恋し祖国を離れて居ても⋯⋯」というように、たんに平和への願いだけでなく、アメリカにより祖国日本から切り離され、米軍による占領支配が続く現状からの脱却と祖国復帰への願いが強く込められている。006

      極東最大といわれる米空軍嘉手納基地

実は、歌詞を省略したが、二番、三番には「ひざもと離れた淋しさに 帰る望みを抱きしめて」「沖にチラホラ明かりが見える 飛んで行きたや親元へ」という歌詞もある。占領下で民謡でも「祖国復帰」をズバリと言いにくい状況があったのだろう。「帰る望み」とか「親元」などの間接的な表現ながら、祖国復帰の願望が「赤い糸」のように貫かれている。

平識ナミさんという人が作詞した曲に「平和の願い」がある。すでに紹介した「帰らぬ我が子」「摩文仁の華」など平和の島唄をいくつも書いている作詞家だ。この唄は、戦後も沖縄が米軍支配のもとで戦争と固く結びつけられていることを告発して、平和への願いを込めている。胸をうたれる曲だ。

「♪沖縄(ウチナ)てぃどぅ島や 何時(イチン)ん戦世(イクサユ)い やしやしとぅ暮す 節(シチ)やいちが ※ディー我(ワ)ったー 此の島沖縄 平和願(ニガ)らな 此ぬ沖縄」=沖縄という島は いつまで戦世が続くのか 安心して暮らせる時節が来るのはいつの日か さあわがこの島・沖縄 平和を願おう この沖縄。

「♪忘(ワシ)るなよ互(タゲ)に 哀り戦世や 世間御万人(シキンウマンチュ)ぬ 肝(チム)にすみてぃ ※ハヤシを繰り返す」=忘れるなよお互いに 悲しい戦争の世を 世間のみんなが 心にしっかり染めて。

「♪思事(ウムクトゥ)や一道(チュミチ) 恋(クイ)しさや大和 やがて御膝元(ウヒザムトゥ) 戻(ムドゥ)る嬉(ウリ)さ ※ハヤシを繰り返す」=思うことはただ一つ 恋しい祖国・日本のこと やがて祖国の膝元に 戻る嬉しさよ。

こうした唄に示された祖国復帰とは、海外の戦争に直結した米軍基地、県民にさまざまな事件、事故による危険と被害をもたらす基地の重圧から解放されたい、異民族による軍事支配ではなく、平和の憲法の祖国に、基地のない平和の島となって復帰したいというのが当然の願いであった。その後、形の上では祖国復帰を果たしたけれど、米軍基地の現状はなんら変わらない。県民と国民の期待は裏切られたままだ。そこに、今日でも県民を苦しめる根源がある。

     

2012年2月19日 (日)

戦世と平和の島唄、その4

懐かしき生まり島

働き口が少なく、貧しい沖縄からは、本土にも多数の人たちが働きに出て行っていた。若い女性たちは、紡績工場に女工として出掛けて、故郷の親たちの生活を助けていた。戦前の紡績女工といえば、「女工哀史」で知られる低賃金と劣悪な労働条件におかれ、富国強兵の日本を支えていた。沖縄の紡績女工の悲哀を歌った島唄はいくつもある。

「紡績数え歌」は、女工の労働のきつさや親や友達とも離れた寂しさなど歌われている。歌詞はヤマトグチに訳した。

「♪一ツ人々、みなさん聞いてください 募集人の言葉にだまされて 大和の紡績工場に来てしまった 来てしまった」

「♪二ツ双親 聞いてください 朝は三時に起こされて 朝から晩まで立ち仕事 立ち仕事」

「♪三ツ見たい会いたいが あんなに遠く離れた沖縄では自由にならない 手紙を通して 様子をうかがう 様子をうかがう」

「♪八ツ屋敷の中に 工場は建っているが 屋敷の中にかくまれて 自由にならない 自由にならない」 

沖縄の「歌姫」と呼ばれる我如古(ガネコ)より子が歌いヒットした「女工節」も、やはり、親もと離れた淋しさや仕事の辛さが歌われる。

「♪親元ゆはなり 大和旅行(タビィ)ちゅし 淋しさやあてん 勤(チト)みでむねよ」=親元を離れて 大和で働くため旅立って行きます 淋しくはないよ しっかり勤めてくるからね。

「♪大和かい来りば 友一人(ドシチュイ)ん居らん 桜木にかかて 我(ワ)んや泣(ナ)ちゅさよ」=大和に来れば もう友達は誰一人いない 桜の木に寄りかかって 私はただ涙を流している。

「♪紡績やアンマ 楽んでる来(チ)ゃしが 楽や又あらん 哀りどーアンマ」=お母さん 紡績は楽でお金が儲かると聞いてきたが ぜんぜん楽なんかじゃない 哀れなものだよ お母さん。 

どれほどのたくさんのウチナーンチュ(沖縄人)が、仕事を求めて出て本土に渡ったことか。就職先では沖縄人たちは、いわれなき差別を受けたという。いまでも大阪の大正区は沖縄系の人たちが多いことで有名だ。横浜市鶴見区にも沖縄ストリートがある。

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本土にいた人たちは、沖縄に米軍が進攻し、激しい地上戦になったことで、故郷がどうなったのか、気掛かりでならなかった。戦後、焦土と化した沖縄のことを風の便りに聞き、心配しながら故郷をしのぶ唄に「懐しき故郷」がある。

「♪夢に見る沖縄(ウチナー) 元姿(モトシガタ)やしが 音(ウト)に聞(チ)く沖縄 変て無(ネ)らん 行(イ)ちぶさや 生(ウンマ)り島」=夢に見る故郷・沖縄は元の姿のままだが 便りに聞こえてくる沖縄は 戦争ですっかり変わってしまったという 行ってみたいな わが生まれた島よ。

「♪平和なて居(ヲ)むぬ 元ぬ如(グト)自由に 沖縄行く船に 乗(ヌ)してたぼり 行ちぶさや 生り島」=平和になったから 元のように自由に 沖縄に行く船に 乗せて下さい 行ってみたいな わが生まれた島よ。

「♪何時(イチ)が自由なやい 親兄弟(ウヤチョウデー)ん揃(スル)て うち笑いうち笑い 暮すくとや 行ちぶさや 古里に」=いつか自由になったら 親兄弟みんな揃って 大いに笑って暮らそうではないか 行ってみたいな わが生まれた島よ。

作詞、作曲したのは、先に紹介した普久原朝喜だ。戦前に沖縄を離れて大阪で暮らしていた。故郷が激しい地上戦に見舞われ、親戚や友人・知人がどれだけ犠牲になり、生まれた地域がどのようになったのか、心配でたまらない。といってもどうすることもできない。でもいつか、自由に「懐かしい故郷」に行って、親兄弟も揃って暮らせる日が来るだろう、という心境が歌われている。望郷の念が込められている。

普久原氏は、関西沖縄県人会の集会に合わせてこの曲を作り歌った。「集まった県人は、ただ涙、また涙で肩をだきあって泣いたという」(上原著、『島うたの周辺 ふるさとばんざい』)。

 

戦争が終わった、おおいに踊ろう

地獄のような戦争がようやく終わったことは、なににもまして嬉しいことだった。その喜びの感情をストレートに表現した唄がある。

「となり組へいへい」と言う曲は、戦時中の「隣組」のイメージがあるが中身は違う。

「♪戦世んしまち みるく世(ユ)に向(ン)かてぃ サア 我した沖縄島 むてい栄い サア となり組 へいへい」=戦争が終わって これから平和で豊かな世の中に向かっていく サア われら沖縄島 大いに栄えていくだろう サアとなり組 へいへい。

隣(トゥナ)いぬ ハンシーたい でぃちゃよ 打ち揃(スル)てぃ サア 話出来(ディキ)らさな けえ 隣いびれい」=お隣のおばあさん さあ行こう みんなそろって 大いに話し合いしよう ちょっとお隣の付き合いだから サアとなり組 へいへい。

戦争中では、国民の草の根から戦争に動員する末端組織だった隣組が、戦争が終われば一変したのだろう。沖縄は地域の共同体的な結びつきが特に強いところだ。お隣さん同士、みんなで楽しく、仲良く、暮らしていこうという気分にあふれている。

もう一つ「パチクヮイ節」という唄がある。これは、「うまくいったー、ヤッター」と喜びの心境を表す言葉だという。

「♪今日(キユ)ぬ吉る日(ユカルヒ)に 御万人(ウマンチュ)ん揃(スル)てぃ 祝(ユエ)ぬ寿(クトゥブチ)に 踊(ウドゥ)いみしょり サーサ パチクヮイヤサ」=今日のこのよき日に 世間のみんながそろって お祝いに 大いに踊ろう さーさ うまくいった、ヤッター。

「♪平和なる御世に 命ん伸び伸びとぅ 栄てぃ行く文化 眺む嬉(ウリ)さ」=平和な世の中になって 命は大いに伸びて 栄えて行く文化を 眺めることができる嬉しさよ。

 

「兄弟小節」にも平和の思いが

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「行逢りば兄弟」=いちゃりばちょーでー。これは「一度会えばもう兄弟」という意味だ。島に生きるウチナーンチュの、人とのつながりを大切にする気質を表す代表的な言葉となっている。その名言をそのまま唄にした名曲がある。前川朝昭作詞、屋良朝久作曲の「兄弟小節(チョウデーグヮーブシ)」という。一九五二年(昭和二七年)頃に作ったといわれる。文字通り「♪行逢りば兄弟 何隔(ヌウヒダ)てぬあが 語れ遊(アイ)ば」と歌う。「一度会えば兄弟 何の隔てがあろうか 語り合って遊ぼう」ということだ。 写真は与那原町にある「兄弟小節」の歌碑。

 

この唄を創作した陰にも、戦世と平和がかかわっている。前川さんが戦後、雨がしとしと降る日、那覇市のメインストリートである国際通りを歩いていた。そこでばったりと戦友に会った。その時、前川さんの口から出た言葉がある。「汝(イヤ)ーん 生ちょーてーさやー 元気やてぃまた、行逢ちょーる節(シチ)んあてーさやー」。やあ、あなたも生きていたか、お互いに生き抜いて元気だから、またこうして出会える時節もあったよ、というような意味だ。

「兄弟小節」の三番に、ほとんど同じ言葉が歌われている。

「♪嵐世(ユ)ぬ中ん 漕(コ)ぢ渡(ワ)て互(タゲ)に 又行逢(イチャ)るくとん あてる嬉しゃ 行逢りば兄弟 何隔てぬあが 語れ遊ば」=嵐のような戦争の世も こぎ渡ってお互いに会えることができた うれしいことよ。一度会えば兄弟 何の隔てがあろうか 語り合い遊ぼう。

「♪たまに友(ドシ)行逢て いちゃし別りゆが 夜(ユ)ぬ明きて太陽(ティダ)ぬ 上がるまでん (同じハヤシ)」=たまに友人と会って どのようにして別れようか 夜が明けて太陽が上がるまで 遊ぼう。 

この歌の作られたエピソードを知って、前川氏の出身地である与那原(ヨナバル)町では、平和の思いを世界に発信するため、この唄の歌碑を二〇〇五年に建立した。このように、目に見えるように戦争と平和の言葉を使っていなくても、平和への願いが込められた唄は、実にたくさんある。

 

艦砲の喰い残し」とは

平和の島唄の白眉とでも言うべき唄がある。「艦砲(カンポウ)ぬ喰(ク)ぇーぬ004 くさー」という曲だ。その意味は「艦砲射撃の喰い残し」、つまり戦争で砲弾の嵐の中を生き残った者ということだ。全文、原文で紹介し、訳文をのせたいところだが、何分長くなるので、訳文で紹介し、最後の五番だけ、原文と合わせて紹介したい。

「♪若い時は戦争の世の中だった 若い花は咲くことができなかった 家の先祖、親兄弟も艦砲射撃の的になり 着るものも食うものもなにもない ソテツを食って暮らした あなたも私も お前も俺も 艦砲の食い残し」

「♪神も仏も頼れない 畑は米軍基地として金網に囲まれ 金にならない 家は風で吹き飛ばされ 米軍の物資をかっぱらう『戦果』担いで しょっ引かれ ひっくり返し返され もてあそばれて 心は誠実だったのにねえ」

「♪泥の中から立ち上がって 家庭を求めて妻をめとり 子どもが生まれ 毎年生まれ 次男、三男カタツムリみたい 苦労の中でも子どもらの 笑い声を聞き 心を取り戻す」

「♪平和になってから幾年たつか 子どもたちも大きくなっているが 射られたイノシシがわが子を思うように 戦争がまた来るのではと思って 夜中も眠れなくなる」

五番は原文から。「♪我親(ワウヤ)喰ゎたる あぬ戦争(イクサ) 我島(ワシマ)喰ゎたる あの艦砲 あの艦砲 生(ウンマ)りて変てん 忘らりゆみ 誰(タア)があぬ様 しいいんじゃちゃら 恨でん悔でん あきじゃらん 子孫末代(シスンマチデェ) 遺言(イグン)さな」=わが親を奪ったあの戦争 わが島を破壊したあの艦砲射撃 たとえ生まれ変わっても忘られようか 誰があのような戦争を強いたのか ああ恨んでも悔やんでも あきらめきれない このことは子孫末代まで 遺言してしっかり伝えなければいけない。

014   「艦砲ぬ⋯⋯」を歌う、比嘉さんの娘さんでつくる「でいご娘」

すごい歌詞である。一九七一年に比嘉恒敏さんという方が作った。この当時は、アメリカによるベトナムへの侵略の戦争が激しかった時代である。沖縄が出撃の拠点とされた。県民にとっても、沖縄戦の悪夢をよみがえらせるような時代だったのだろうか。歌詞を読んでいると、そんな思いがしてくる。

この唄は、この当時とてもヒットしたという。県民の感情とピッタリくるものがあったのだろう。いまでも歌われている。それこそ「子孫末代まで遺言して伝えるべき唄」と言えるだろう。

戦世と平和の島唄、その3

親兄弟、妻子と別れ別れに

 沖縄に筆舌に尽くせないような苦難をもたらした戦争がようやく終わった。その時の心境を歌った曲がある。「敗戦数え唄」である。沖縄戦に防衛隊員として動員された立場で歌っている。

「♪三ツ御国ぬ為とぅむてぃ 竹槍かたみてぃ戦てぃん 物量とぅ科学にうゆばらん くぬ戦さ」=お国のためと思って 竹槍を担いで戦った しかし、米軍の物量と科学にはとてもおよばない この戦争だった。

「♪六ツ無法なこの戦さ 親兄弟妻子(ウヤチョウデートゥジックヮ)に別りやい あの世に先立つ戦友ぬ 数知ゆみ」=無法なこの戦争で 親兄弟、妻子と別れ別れになった あの世に先だった戦友は 数知れないほどだ。

兵隊として出征していて島に帰って来た人たちを歌った「復員の唄」という曲もある。

「♪戦世ん終(ウワ)てぃ 島戻(ムドゥ)てぃ来(チ)ゃしが 夢(イミ)に見る我が家 かたん無(ネ)らん チャー 忘りらん」=戦争が終わって 島に戻ってきたが 夢にまで見たわが家は もう影も形もない どうしても忘れられない。

「♪親兄弟ぬ行方(ユクイ) 訪(タジ)にらねやしが 頼る方無(カタネ)らん いちゃがすゆら チャー 忘りらん」=親兄弟の行方を 訪ね歩くが 頼りにする人もいない どうすればよいのか どうしても忘れられない。

郷土は戦さ場になった

激しい地上戦による未曽有の惨状を、なんとか生き延びて終戦を迎えた兵士や住民は、米軍によって北部を中心に設けられた捕虜収容所と難民収容所に集められた。戦争の恐怖から逃れたとはいっても、この収容所での暮らしもまた辛い日々だった。満足な食糧もない、粗末なテント暮らしで、栄養不足や病気で命を落とす人がいた。

その収容所暮らしの中でも、ウチナーンチュ(沖縄人)は三線と民謡は忘れられない。ブリキ缶で胴を作ったカンカラ三線をつまびき、新しく曲も作り、歌ったという。いまもとても愛されている曲に「屋嘉節(ヤカブシ)」がある。金武(キン)村屋嘉の収容所で作られた曲だ。下は屋嘉節の歌碑。

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「♪懐ちかしや沖縄(ウチナー) 戦場(イクサバ)になやい 世間御万人(シキンウマンチュ)ぬ ながす涙」=懐かしい故郷・沖縄が戦場になってしまった どんなに世間のたくさんの人々が みんな涙を流していることだろうか。

「♪涙(ナダ)ぬでわんや 恩納山(ウンナヤマ)のぶて 御万人とともに いくさしぬじ」=涙でぬれたわが身 恩納山に登って 多くの人とともに 戦争をしのいだ。

「♪無蔵(ンゾ)や石川村(イシチャムラ) 茅葺(カヤブ)ちぬ長屋 わんや屋嘉村ぬ 砂地(シナジ)まくら」=離れ離れになった彼女は 石川村の茅葺きの長屋にいる 私は屋嘉村の 浜辺の砂地をまくらに寝る日々だよ。

「♪ぬんち焦(ク)がりとが 屋嘉村の枯れ木 やがて花咲(サ)ちゅる 節(シチ)んあゆさ」=戦争で焼け焦がれてしまった 屋嘉村の枯れ木も やがて美しい花を咲かせる 季節がまたやってくるだろう。

「♪戦世の跡の 焼け野原見りば 又ん無ん如(ネングゥトニ)に お願(ニゲ)しゃびら」=戦争の跡の焼け野原を見れば、こんな悲惨な戦争は再び起きることのないようにお願いしたい。
 最後の歌詞は、登川誠仁が歌う屋嘉節に入っている。この歌詞があってこそ歌が生きると思う。

PW(戦争捕虜)無情

同じ屋嘉の捕虜収容所で生まれた曲に「PW無情」がある。PWとは「Prisoner of War」(戦争捕虜)の頭文字をとったものだ。唄は、言い換えれば「捕虜無情」となる。これがまた、驚くことに「屋嘉節」とほとんど酷似した歌詞なのだ。

「♪恨みしゃや沖縄 戦場さらち 世間御万人ぬ 袖ぬらち 浮世無情なむん」というのが一番だ。この後もそっくりである。それは、やはり裏話がある。

収容所で演芸部長をしていた金城守堅氏が、歌詞(琉歌)を書いて、沖縄人捕虜隊長をしていた山田有昴氏のところにもってきたそうで、その歌詞を新城長保氏とともに添削したのが「PW無情」だという。添削前の原歌が「屋嘉節」で、補作したのが「PW無情」だそうだ。ただし、「PW無情」の方は、各歌詞の最後に「浮世(ウチユ) 無情なむん」とか「PW哀(アワ)りなむん」という文句がついているところに違いがある。

「屋嘉節」は「山内節」という曲に歌詞をのせて歌う。「PW無情」は、先に書いた普久原朝喜の「無情の唄」にのせて歌うそうだ。だからメロディーはまったく違う。(参考・沖縄国際大学大学院地域文化研究科「ウチナーンチュのエンパワーメントの確立―沖縄音楽社会史の変遷を通して」)

名護市の二見(フタミ)にあった難民収容所にいた照屋朝敏氏が作った民謡に「二見情話」がある。ウチナーンチュがとても好きな曲だ。男女掛け合いで歌う。私たち夫婦も好きで、自宅でもカラオケでもよく歌う。

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「♪二見美童(ミヤラビ)や だんじゅ肝清(チムヂュ)らしゃ 海山の眺み 他所(ユス)にまさてぃよ」=二見の乙女は とっても心が美しい 海山の眺めは またどこにもまさる美しさだ。

「♪待ちかにて居(ウ)たる 首里上(スイヌブ)いやしが 出(イン)ぢ立ちゅる際(チワ)や 別りぐりしゃよ」=待ちかねていた 首里に戻る日がやってきた 出発する際に お別れしなければならないこの辛さよ。

「♪戦場(イクサバ)ぬ哀(アワ)り 何時(イチ)が忘(ワシ)りゆら 忘りがたなさや 花ぬ二見よ」=戦争による悲惨さは いつか忘れられるだろうか それにしても忘れがたいのは 花の二見のことだ。

二見の女性はじめ、親しんだ人々の心の清らかさ 景色のうつくしさ、別れの辛さを歌いながら、平和への思いが込められている。

曲を作った照屋さんは、南部の摩文仁から米軍の命令によって、他の投降者らとともに船で、名護市の大浦湾に入り、この二見に来た。村民は快く迎え入れてくれ安心したそうだ。ある日、村長事務所で年長者会議があり、その席上で二見の唄の創作の要請があり、二カ月後に完成したのがこの唄だという。

「これは平和祈念と二見の人への命からなる感謝をこめた御礼のメッセージでもある」。いま二見に建立されているこの唄の歌詞を刻んだ記念碑に、照屋さんはこう記している。

歌碑を見ていて奇妙なことに気付いた。いま歌われている歌詞は六番まであるのに、この歌碑は五番までしかない。いま歌っている「行逢(イチャ)たしや久志小(クシグヮ)⋯⋯」(出会ったのは久志だった)という三番の歌詞の部分がない。なぜなのか。照屋さんが作詞した当初はなかったのが、その後付け加わったのだろうか。沖縄民謡では、他の人が付け加えるというのは、よくある話だ。それに、歌詞集にのっている歌詞と歌碑とまた少し違いがあるのもよくあることである。

この美しい二見と大浦湾はいま危機に立たされている。というのは、日米両政府がすぐそばの、辺野古(ヘノコ)の浜辺と海を埋め立てて、V字型の滑走路を持つ巨大な米海兵隊の新基地を建設しようとしているからだ。騒音被害や墜落の危険で住民生活は壊され、ジュゴンのえさ場となっている青く澄んだ海も破壊される。美しい風景は激変する。こんな無謀きわまりない計画は、絶対に許してはいけない。

南洋に渡った移民は

戦争が終わって、本土に疎開していたり働いていた人、南洋群島に移民で出て行った人々らが、郷里の沖縄に帰って来た。その人々の心情をこめた唄がある。

サイパンやテニアン、ロタ、パラオはじめ南洋群島には、たくさんの日本人が渡っていた。そのなかでも、南方に近い沖縄からサトウキビ作りなどでたくさん出かけた。南洋への移住者の中でも、沖縄人は多数を占めていた。サイパンにいた四万二五四七人の日本人のうち、六一%が沖縄人だった。

貧しい島国の沖縄からの移民は、南洋諸島約五万人、フィリピン群島約一万七〇〇〇人、南米約四万八〇〇〇人、ハワイ二万人余、さらに北米、マレーシア・シンガポールと広がっていた。だから、移民をテーマにした唄もたくさんある。

「南洋小唄」は、恋しい故郷の親兄弟と別れてきたが、やがて、成功して故郷に錦を飾り帰りたいという思いを歌う。「南洋浜千鳥」は、やはり旅先で故郷をしのぶ唄だ。「移民小唄」は、「♪無理なお金も使わずに 貯めたお金は国元の 故郷で祈る両親に 便り送金も忘れるな」とやはり、移民先で親を思う気持ちや頑張って錦を重ねて帰りたいという夢を歌っている。「サイパン数え唄」「シンガポール小唄」などもある。南方への移民の唄は、ある意味、戦世の時代の産物といえるかもしれない。

南米や北米、ハワイにはいまでもたくさんのウチナーンチュとその子孫たちが暮らしている。これらは同じ海外でも、日本軍が侵略の手を伸ばし、占領したところではない。しかし、南洋群島は他とは事情がまったく違う。そこは移民にとって予期せぬ悲劇の舞台となった。

「南洋数え唄」からいくつか紹介したい。数え唄だから、時間を追った歌詞ではない。

「♪一つとサーノエー 広く知られた サイパンは 今はメリケン(米国)の 旗が立つ 情けないのよ あの旗よ」

「♪三つとサーノエー 見れば見るほど涙散る 山の草木も 弾の跡 罪なき草木に疵(キズ)つけて」

「♪四つとサーノエー 四方(ヨモ)山見れば 敵の陣 一日陣地を 築(キズ)き固め 明日来る来る日本軍」

「五つとサーノエー 何時迄も 捕虜と思ったよ やがて助ける 船が来る 御待(オマ)ちしましょう 皆様よ」

「♪九つとサーノエー これから先の 我々は 助けられたり 助けたり 同じ日本の人だもの」 

米軍が反抗に転じ、日本軍が占領していたサイパンなど南洋の島々を攻撃し上陸すると、沖縄からの移民を含め民間人も戦闘に巻き込まれ、日本軍の玉砕とともに「集団自決」においやられるなど、多くの犠牲者が出た。沖縄出身の犠牲者は、一万二八二六人にのぼるそうだ。いまは、これらの島々で犠牲になった人たちを追悼するために毎年、南洋群島慰霊墓参団が訪れている。今年で、四〇回を数える。

戦死や玉砕を免れて、沖縄に帰ることができた人たちの気持ちを歌ったのが「南洋帰り」という唄だ。

「♪汝(イャー)とぅ我(ワ)んとぅや よう三郎(サンダー) 南洋帰りのコンパニー 戦に追ゎーってぃ 洞穴(ガマ)ぐまい 空襲 艦砲 雨降らち あんしん生ちちょる 不思議(ヒルマサ)さよ あゝ懐(ナチ)かさよ テニアン サイパン ロタ パラオ」=お前と俺とは 南洋帰りの同じ仲間だ 戦争に追われてガマに隠れ住んだ 空襲や艦砲射撃で 雨のように砲弾が降ってきた よくもまあ なんとか生きていることか 不思議だよ ああ懐かしい故郷よ。

「♪(南洋帰りのコンパニーまで同じ)杯交(サカジチカワ)ちょてぃ ありくりとぅ 思い出話や 尽(チ)くさらん やっぱり平和や 良いむんや あゝまた行かや」=お互いにお酒を飲み杯を交わし合い あれこれと思い出話をすると 尽きることがない。やっぱり平和はいいものだ。平和のもとで また南洋にいってみたいなあ。

ハワイ移民の苦渋

ハワイ移民も多かったが、日米が戦争に突入したため、予想もしない立場に置かれた。だから少しふれておきたい。沖縄移民は、サトウキビ畑の作業などにつき、やがて土地を借りて栽培する人も出て、パイナップル栽培に進む人もいた。「ハワイ節」という曲は、その当時の雰囲気が歌われている。

「♪四、五年(シグニン)ぬ内に 人勝(ヒトゥマサ)い儲(モ)きてぃ 戻(ムドゥ)てぃ来(チ)ゅる 御願(ウニ)げ しちょてぃ 呉(クィ)りよ サヨサー 願(ニガ)てぃ呉りよ」=四、五年の内に 人よりもお金を儲けて 帰ってこれるように 祈願していてくれ 願っていてくれよ。

「♪別り路ぬ那覇港 悲しさや里前 袖(スディ)濡らす涙 忘(ワ)してたぼな サヨサー 忘してたぼな」=お別れの那覇港 悲しさつのるあなた 袖を濡らす涙を 忘れないでね。

「儲けてくるよ」といって出かけても、太平洋を渡ってハワイまで行くのは大変な冒険であるし、いつ帰れるかもわからない。涙にくれる別れだった。

「ハワイ便り」も、憧れのハワイにやってきたが、親兄弟、彼女とも別れてきた淋しさや、故郷でみんな幸せに暮れせることを願った唄である。

夢を見ながら出かけたハワイ移民であるが、真珠湾攻撃が行われると、状況が一転した。日本人は「敵国人」となり、県系人でも逮捕されて米本土の収容所に入れられる人も出た。日系人二世で組織する「一〇〇歩兵部隊」に志願し、アメリカへの愛国心を示すために勇敢にたたかう人々がいた。

沖縄移民の二世も、志願して通訳兵として沖縄に来た人がかなりいる。「知りあいに会える、ウチナーンチュを助けられるのでは」という嬉しさと、逆に「なぜ同じウチナーンチュに銃を向けるのか」と言われるのでは、という恐ろしい気持ちが交錯したという。通訳兵として、ガマに隠れていた県民に投降を呼びかけて、救出する役割を果たし、県民を救ったので、後に感謝状をもらった人もいる。

ハワイ移民で沖縄に帰って来ていた人が、アメリカ事情を知っているため、命を救った例もある。読谷村波平にあるシムクガマでは、約一〇〇〇人が避難していたが、その中にハワイ帰りが二人いた。米兵が投降を呼びかけた時、英語ができたので、ガマに日本兵がいないことを伝え、米軍は捕虜を殺さないことを知っていたので、住民を説得して救出された。同じ地区のチビチリガマでは、避難していた約一四〇人のうち八三人が集団自決する痛ましい結果を招いた。同じ地区でガマに避難しても、生死が分れたらしい。

ハワイの名前のつく島唄がいくつもあるのは、こうした移民の背景がある。

「ハワイ小唄」は、次のように歌っている。

「♪ハワイ島渡てぃ 島ぬ夢(イミ)見りば 戦(イクサ)さる人(ヒトゥ)どぅ な恨(ウラ)みゆる な恨みゆる」=ハワイ島に渡って来て 沖縄の島の夢を見れば 悲惨な戦争を起こした人を恨みたい。

「♪戦世ん終(ウワ)てぃ 波風(ナミカジ)ん立とぅな 夢(イミ)に幻(マブルシ)に 拝(ウガ)でぃ暮さ 拝でぃ暮さ」=戦争がようやく終わった もう波風はたてない 夢に幻に 島のことを拝んで暮らそう。

戦争も終わって、沖縄に帰って来た喜びを歌った曲に、「ハワイ行進曲」がある。

「♪サヨサー 沖縄に着いた 沖縄の港 久しぶりに着いた デイゴ咲く島に 戻る嬉さ サヨサー 戻る嬉さ」。唄はこのあと、離れ離れになっていた彼女に、焦がれる心を打ち明け、彼女は「私もOKよ」と応じる。二人の愛情が歌われている。

ハワイの県系人たちは、焦土と化した沖縄に心を痛め、復興のために衣料から食糧、種豚など救援物資を送り、沖縄戦災救済運動を繰り広げ、復興の手助けをした。

ハワイでは「郷土救済の歌」という曲が作られ、三線にのせて歌われたという。

「♪恨めしや戦さ罪トガんねらん ウチナ萬民に地極みして」=何の罪科もないウチナーの万民に地獄の苦しみを与えた戦争が恨めしい。

「♪ウチナお間切(マギリ)や一家族でち思て 先じ揃りて救ら今の立場」=ウチナー全住民は一家族と同じ。まずは皆こぞって郷土の今の苦難を救おう。

こんな趣旨で六番まである。沖縄戦災救援運動でどんな物資が送られたのかをテーマにした「恵みの歌」という曲もある。唄には、衣類、種物、郵便、学用品、豚、薬が歌い込まれている。これらは、『新沖縄文学』の特集の「移民地の琉歌と三味線」で野原廣亀氏が紹介している。ハワイに移民した人々が、郷里を遠くはなれても、同じウチナーンチュとして古里の荒廃と苦難に心を寄せる愛郷心が滲み出ている唄だ。

2012年2月18日 (土)

八重岳の桜並木をめぐる秘話

 沖縄のカンヒザクラの名所として知られる本部町の八重岳の桜並木は、いつ,、だれがつくったのか、これまで分からないまま見ていた。
 2012年2月18日付け「琉球新報」に、本部町在住の島袋貞三さんが「桜日和」と題するエッセーを投稿していた。これを読み、そのいわれがようやく分かったので、紹介しておきたい。011

 島袋さんの投稿文は要旨、次のようにのべている。
 八重岳には、芭蕉敷(バショウシキ)と呼ばれる集落があった。沖縄戦で、山は戦場になり、米軍の攻撃で焼き尽くされ、双方の兵士や住民ら多くの人々が犠牲になった。戦後、郷土の荒廃とすさんだ人の心を癒すにはどうしたらいいのか。1962年に町長になった渡久地政仁さんは、この課題に向き合い、63年、琉米親善委員会で当時の司令官にかけ合い2万ドルを補助してもらった。
 その金で八重岳の入り口から頂上に至る道路に桜の木を植えた。荒れた山だった八重岳を、桜の花によって癒やしの森につくり変えた。芭蕉敷の人たちにも協力してもらい、年々桜の木は増えていった。043

 八重岳のカンヒザクラを見るたびに、なぜこの山の道路沿いに桜並木ができたのか、知りたかった。桜の木は、それほど古くはない。戦後植えられたものかもしれないとは思った。このエッセーを読んでようやくわかった。
 八重岳も沖縄戦で戦場になったことは聞いていたが、桜並木ができたことにも、戦争の影響があったとは初めて聞いた。本部町の郷土を愛する渡久地町長と住民の努力があったからこそ、桜の名所が生れたことに、感動を覚えた。

 「戦争で犠牲になった人々の慰霊と、これから育っていく子どもたちの将来への希望を込めた桜並木になるように」と渡久地さんは願ったそうだ。いまや本部町の「日本一早い桜まつり」は、一大イベントとなり、多くの県民、県外観光客にピンク色の花の彩りと香りを届けている。これからは、八重岳の桜を見に行った時は、先人の苦労と願いに深く思いを寄せながら見たいと改めて思ったことだ。
 それにしても、こういう八重岳の桜並木の由来、先人の努力について、書かれた案内板などがなにもないのが残念だ。案内板があれば、見物に訪れる人たちにも広く知ってもらうことができる。ぜひ、町、観光協会などで設置を考えてほしいものである。

追記
 芭蕉敷の集落は、明治時代に住民が開拓で入り、集落をつくっていた。戦後も1950年に30戸ほどあったけれど、住民の流出が続き、75年に最後の住民が出て、無人の里になったそうである。

2012年2月17日 (金)

戦世と平和の島唄、その2

戦闘部隊がいなかった沖縄

ちなみに、沖縄から軍隊に入るには、いつも港から船で出て行く別れが描かれている。それは、沖縄が島だからというだけではない。沖縄は昔から軍事基地の島だったと錯覚する向きもあるがそれは違う。実は昭和一六年(一九四一年)の夏までは、日本軍の常駐部隊も軍事施設も存在しない全国唯一の県だったからである(『沖縄県の百年』)。

一八七九年(明治一二年)に「琉球処分」で琉球王国は廃止されて、沖縄県とされたあと、明治政府は熊本鎮台の分遣隊を沖縄に派遣した。しかし、日清戦争後、台湾を植民地にしたため、明治二九年(一八九六年)に、分遣隊が九州に撤退してからは「沖縄県には軍馬一頭」といわれるように、戦闘部隊のいない稀有な県になっていた。

沖縄から兵隊に召集されると、熊本に置かれた第六師団の歩兵連隊に入隊することが多かったようだ。だから、唄に「熊本節」と言う題名がつき、「熊本の城内の務め」と言う下りがあるのは、このためだろう。沖縄に政府が軍隊を大規模に配備したのは、昭和一九年(一九四四年)のこと、戦局が急迫してからである。

ここで、さらに話は横道に入る。国民を軍隊に強制召集する徴兵令のことにふれておきたい。徴兵令は日本では一八七三年(明治六年)に実施されたが、沖縄はそれより大分遅れた。「琉球処分」で天皇制国家に組み込まれてから、本土より二五年遅れて一八九八年(明治三一年)に、県民一般への徴兵令が実施された。日露戦争には、沖縄出身者が二〇〇〇人参加したという(NHK〇九年四月五日「ジャパンデビュー」)。

日本が侵略の手を広げ、日中戦争、太平洋戦争へと突入するなかで、県出身の兵士も、中国や南方など戦地に送られて行った。そして、郷土が戦場となった沖縄戦では、二万八〇〇〇人を超える県出身の軍人・軍属が死亡している。

秘められた非戦の願い

話を民謡に戻す。普久原朝喜作曲で忘れてならないのが「無情の唄」という曲だ。この唄には、どこにも戦争の言葉はない。やはり、男女掛け合いで歌う。愛しあいながら離れ離れに暮らさなければならない、男女の愛情がテーマの唄のように見える。愛する二人が一緒にいられない悲しみを「浮世(ウチユ)無情なむん」と歌う。

「♪女、あきよ思里(ウミサト)や 知らん他所島(ユスジマ)に 暮さらん暮し しちょらとぅ思ば 浮世無情なむん」=ああ、恋しいあなたは、知らない他所の島に行ってしまった どんな暮らしをしているのだろうか 浮世は無情なものだ。

「♪男、無蔵や故郷に 我身(ワミ)や渡海隔(チケヒ)ぢゃみ 儘(ママ)ならん恋路(クイジ) 思(ウ)みぬ苦(ク)りさ 浮世無情なむん」=彼女は故郷にいる わが身は海を遠く隔てた離れた所にいる ままならない恋路である 会いたいのに会えない この思いの苦しさよ 浮世は無情なものだ。

私も、今この唄を歌っているが、最初、歌の隠された意味を知らなかった。だからてっきり、「同じ沖縄の中で、彼が仕事か何かで離島に出かけていて、会えないということなのかなあ。でも離島でも沖縄の県内なら、知らない他所の島というのは変だし、会うことはできるのに、おかしな歌詞だなあ」と思ったことだった。

でも、これが戦地、とくに南の知らない島に出征して、愛する男女が引き裂かれた「戦世の無情」を歌った唄というのなら、とてもよく理解できる。そいう意味では、秘められた非戦の唄といえるのかもしれない。

いずれにしても、戦争を主題にしたこれらの唄が作られたときは、まだ、侵略の道を突き進む日本軍が、敗退して米軍が沖縄に上陸する事態になるとは、夢にも思わなかっただろう。ましてや、沖縄が本土防衛と国体護持のために、時間稼ぎの「捨て石」にされ、悪夢のような地上戦に、子どもから老人を含めて県民みんなが巻き込まれるとは想像もできなかっただろう。

「ひめゆり」の悲劇

沖縄戦の悲劇を象徴する一例として「ひめゆり看護隊」がある。沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の女子学徒でつくられた「従軍看護婦隊」である。野戦病院で看護にあたり、米軍の砲撃に倒れたり、「捕虜になるより自決を」という日本軍の方針のもとで「自決」に追いやられた。女子学徒による「従軍看護婦隊」は、「ひめゆり」だけではない。県立・私立合わせて七校から「白梅」や「梯梧(デイゴ)」など六部隊が編成されて四五七人が動員され、一八〇人が死亡している。死亡率は実に四一%に達する。

Photo     白梅学徒隊の自決の壕に建つ碑

ひめゆり部隊を描いた曲に「姫百合の唄」がある。「広く知られた沖縄の 犠牲になった女学生 姫百合部隊の物語」と始まる。作られたのは一九六六年だという。最初聞いた時は、殉国美談のような歌詞が気になり、好きになれなかった。

「♪御国(ミクニ)の郷土を守らんと 細い腕にも力こぶ 姫百合マークのあで姿」

「♪他所の見る目もいじらしく 弾丸飛び散るその中で 艦砲射撃もなんのその」。こんな歌詞が続くからだ。歌詞は、ヤマトグチ(共通語)である。

歌は一〇番まであって、物語はだんだん残酷な戦場の現実を反映するリアルな内容に変わっていく。

「♪何時か敵は上陸と 聞いた時には姫百合も 共に散ろうとひとしずく」

「♪無理に心を励ませど 体をささえる食もなく のどをうるおす水もなし」

「♪焼けて飛び散る我が郷土 見るにしのびぬ焼野原 天地に神も召しませぬ」

「♪根気も意地もつきはてて 死なばもろとも姫百合は 散って惜しまぬ若桜」

「♪とうとう玉砕ひめゆりは 地下で共に泣くかしら 淋しく泣いている夏の虫」

「食もなく、水もない」「根気も意地もつきはてて」、最後は「玉砕」に追いやられる。天地に神もいないのか、地下で淋しく「夏の虫」とともに泣いている、という悲惨な最期が歌われている。哀切きわまりない物語になっている。

戦世を恨む母

戦争で子どもを失った母親の悲しみを歌った唄もある。苦労して育てた子どもが兵隊にとられて戦死してしまった母。沖縄戦で幼い子どもを引き連れて戦場を逃げまどった母。筆舌につくしがたい苦悩と痛苦の体験は、数え切れないほどあるだろう。

「戦場を恨む母」はこう歌う。

「♪戦世にあたて 哀りさみ産子(ナシグヮ) 知らんゆす島ぬ 土に散らち」=戦争の世となり、可哀そうに愛しいわが子は、知らないよその島(南方か)で戦死し土に散ってしまった。

「♪あとかたんねらん 産子身ぬ哀(アワ)り 戦恨みとて 我袖ぬらち」=戦死してあとかたもない 愛しいわが子の身の哀れなことよ 戦争を恨み 涙で自分の袖をぬらす。

「帰らぬ我が子」という唄も、朝夕、懐に入れ育てた可愛いわが子を、思いもよらない「風」が吹き、つまり戦争になり兵士として取られ、「帰らぬ人」となったと歌う。

「♪神と崇(アガ)みらり 花に例(タト)らりて 咲ち美(チュ)らさ百合(ユイ)ぬ 匂(ニヲ)い残(ヌク)ち」=若きわが息子は 神とあがめられ 花に例えられ 百合のように美しく咲いて その匂いを残しながら 戦地に行った。

「♪泣くなよや母親(アンマ) 淋しさんみそな 我(ワ)んや戦世ぬ 華どやたる」=泣くなよ母さん 淋しさを見せるな 私は戦争の世の 華なのだから⋯⋯。

「♪死出ぬ永旅ぬ 戻(ムド)らりんやりば かなし親兄弟(ウヤチョウデ)と 語てやしが」=死出の長旅も 戻られるものであれば 愛しい親兄弟と 語り合いたいけれど。

沖縄戦での親子の運命を歌った曲に「戦世ぬ産し子(イクサユヌナシグヮ)」という唄がある。

「♪夫(ヲト)や花散りて 岩板(イワイタ)に祭(マチ)て いちゃし育(スダ)てゆが 二人(タイ)ぬ産し子」=夫は戦死し岩陰に葬り祀った これからどのようして 二人のわが子を育てようか。

「♪五ち六ち童(ワラビ) かむる物無(ムヌネ)えらん やーさんどうやアンマ 泣ちゅる苦りさ」=五歳、六歳の子どもたち 食べる物もない 「ひもじいよ母さん」と泣くけれど 何も与える食べ物もない ああこの苦しさ。

「♪産し子やしはてて 手ゆ合わち御願(ウヌ)げ 命(ヌチ)すくてたぼり 我夫(ワヲト)がなし」=わが子は痩せはてて弱っている 手を合わせて祈願する 命を救って下さい わが夫さま。

「鉄の暴風」と呼ばれたほど、嵐のように砲弾が降りそそぐ戦場で、どれほど多くの親子が、地獄のような惨状に巻き込まれたことか。

銃弾で撃たれて子どもを亡くした親、火炎放射器で親を焼かれた子ども、隠れていたガマで泣きやまぬ子を軍の命令で殺させられた母親、家を継ぐ長男を守るため、弟妹を見捨てざるをえなかった親、一家が全滅した家族――。想像を絶するような悲劇がつくりだされた。この唄からも、戦場を逃げまどう親子の姿が見えてくる。

激戦の地が主題に

沖縄戦での激戦の地を主題にした曲もある。「嘉数高台(カカジタカダイ)」という唄だ。一九四五年四月一日、沖縄の読谷(ヨミタン)から北谷(チャタン)にかけての海岸に上陸した米軍は、ほとんど反撃にあわずに一気に本島中部に攻めよせた。日本軍は宜野湾市から浦添市、那覇市にかけて、高地を軸に三本の防御ラインを構え、地下壕を掘り、陣地を築いていた。南下する米軍と激しい戦闘になったのが、この宜野湾市の嘉数高地である。唄は戦争が終わったあとから、戦争をしのび平和を祈る内容だ。

007       嘉数高台に建っている歌碑

「♪大戦終(ウフイクサオワ)て、一昔(ヒトンカシ)過て、世界(シケ)に知らりゆる きざし見して アー嘉数高台」=あの大きな戦争が終わって 一昔が過ぎて この激戦が広く世間に知られる きざしが見えてきた ※アー嘉数高台よ(以下ハヤシは同じ)。

「♪年や新(アラタ)まて 平和御代拝(ミユウガ)で 願事(ニゲゴト)ん叶て 名うち出(ン)じて アー嘉数高台」=年は新たになり 平和の世の中を迎えて 願い事もかなって 嘉数高台の名前をうち出した。 

「♪新名(アラタナ)ゆ取たる 村人ぬ手本(テフン) 弾ぬ雨(アミ)降りたる 戦偲(シヌ)ぶ=嘉数高台の新たな名が広がった 村人の努力のたまものだ 弾の雨が降った戦争をしのぶ。

「♪あまた御仏(ミフトキ)ん 安々(ヤシヤシ)とみそり 合掌(ニゲグト)や永久(トワ)に村ぬ守り」=数多くの戦没者の方々 安らかにお眠り下さい 手を合わせて祈ることは 永久に村を守ること。

「♪大嶽(ウフタキ)や後(クサ)て 花に囲まりて 共に村起(ムラ)ち 幾世(イクユ)迄ん」=守り神のいる御獄(ウタキ)を後ろにひかえ 花に囲まれて ともに村を起こそう いつの世までも幸せに。

いまは、この付近は高台から青い海を眺めるよい住宅地となっている。でも、北東の方向を見ると、米軍の海兵隊の基地・広大な普天間飛行場が広がり、空を米軍機がしょっちゅう飛んでいる。二〇〇四年八月には、基地に隣接する沖縄国際大学の構内に米軍ヘリが墜落し炎上する重大な事故が起きた。イラクの戦争にもここから出撃していった。ここでは戦争は過去のものではない。まだ隣り合わせにある。宜野湾市の心臓部に居座るこの基地は、即刻閉鎖してほしい、というのが市民、県民の願いである。

日本軍が首里城地下の司令部壕を放棄して南部に司令部を移したため、沖縄戦の最後の激戦の地となったのが、糸満市の摩文仁(マブニ)である。この地を主題にした「摩文仁の華」という唄もある。この摩文仁で犠牲になった無数の人々への鎮魂歌である。

「♪下て行く道ぬ 石段ぬ数(カジ)や 世界(シキ)ん御万人(ウマンチュ)ぬ 涙(ナダ)にくむて 涙にくむて」=摩文仁の丘から降りて行く道の 石段の数を踏みしめながら歩いていくと  世間のたくさんの人々の 涙がそこにはこもっている。

「♪海にうち向(ン)かて 淋しさや産子(ナシグヮ) 干瀬(ヒシ)打ちゅる波や 我肝(ワチム)しみて 我肝しみて」=海に向かって 亡くなった我が子のことを思うと 浜辺に打ち寄せる波の音が 淋しくわが心にしみるよ。

「♪一束(チュタバイ)ぬ花に 我が想(ウム)いくみて 受取(ウキト)りよ産子 親(ウヤ)ぬ情け 親ぬ情け」=一束の花をたむける わが親の悲しい思いを受け取ってくれ 愛しいわが子よ 子を思い続ける親の情けを。

撃沈された輸送船の哀れ

沖縄戦では、この地上戦での犠牲だけでなく、沖縄から本土への疎開に向かったり、本土から沖縄に来る貨客船など、民間の船が米軍の魚雷攻撃を受けた。たくさんの船が沈没し、多数の県民、子どもたちが犠牲になった。

一四〇〇人を超える犠牲を出した学童疎開船「対馬丸」の悲劇はよく知られている。戦局の悪化とともに、日本政府は沖縄県から本土、台湾への疎開計画を決めた。一九四四年八月二一日に、疎開する学童や引率の教員、一般疎開者ら一七八八人が乗った対馬丸は、奄美大島近くの悪石島付近で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。

「対馬丸の歌」は、「♪いのちみじかく青汐に 花と散りつつ過ぎゆけり 年はめぐれど帰りこぬ おさなきみおの目には見ゆ」と歌われる。これは、楽譜を見ていない。インターネットで、この唄が紹介されていたので、ここに記しておきたい。別にアニメ映画「対馬丸 さようなら沖縄」(一九八二年)の主題歌もあるという。

対馬丸より一年前の一九四三年五月二六日に、大阪から沖縄・那覇港に向かう貨客船「嘉義丸(カギマル)」がやはり奄美大島の沖で、米軍の魚雷攻撃を受けて沈没した。幼い子から老人まで三二一人が犠牲になった。やはり、鎮魂歌「嘉義丸のうた」が作られている。この唄には、隠れたエピソードがある。

作詞したのは、奄美・加計呂麻島(カケロマジマ)の鍼灸師・朝崎辰恕(タツジョ)さん。「嘉義丸」の生存者、福田マシさんを治療した際、福田さんの嘆きに心を痛め、三味線の名手だった朝崎さんは、この唄を作ったという。その直後の六月一八日には、島の集会所で唄を披露した。一時、この唄は流行したそうだが、まだ戦時中のこと。当局からこの唄は歌うことを禁止され、長らく忘れ去られていたそうだ。

それを、作者の娘でやはり奄美島唄の唄者である朝崎郁恵さんが、父が歌っていた「嘉義丸のうた」を復元してアルバムに収めたという。復元したのは、郁恵さんが偶然に「嘉義丸」の生存者と出会い、悲劇を風化させてはならないという思いからだった。

それと、面白いのは、この曲は沖縄民謡のヒット曲、「十九の春」ととても似ていることだ。なぜ二つの曲が、似ているのか。それは、実は両曲とも、ルーツが同じだそうだ。与論島で歌われていた「与論小唄」と言われる。沖縄や奄美では、作詞をして、すでにある曲のメロディーにのせて、いわば替え歌として歌うのがとても盛んだ。歌詞は七字五字でつづる七五調になっているから、七五調で詩を作れば曲にすぐのせられる。

前置きが長くなった。この曲の内容を紹介する。

「♪散りゆく花は また咲くに ときと時節が 来るならば 死に逝く人は 帰り来ず 浮き世のうちが花なのよ」

「♪ああ憎らしや 憎らしや 敵の戦艦 魚雷艇 打ち出す魚雷の 一発が 嘉義丸船尾に 突き当たる」

「♪親は子を呼び 子は親を 船内くまなく 騒ぎ出す 救命器具を 着る間なく 浸水深く 沈みゆく」

「♪波間に響く 声と声 共に励まし 呼びあえど 助けの船の 遅くして 消えゆく命の はかなさよ」

悲劇の情景が目に浮かぶようだ。朝崎さんは、沈没から六五年たった二〇〇八年五月二六日の慰霊祭でこの曲をアカペラで歌った。

「嘉義丸はまだこの海の底に眠っております。⋯⋯嘉義丸が撃沈されてから六五年たった今、犠牲になられた沢山の方々の冥福を祈り、平和のために私たちに何が出来るかを考え、行動していきたいと思います」と自身のブログに記している。

奄美・沖縄など南西諸島の近海では、日米開戦の一九四二年から四四年七月までの二年七カ月の間に、民間船舶五七隻が沈没された。その大半は米軍の潜水艦による攻撃のためだった。これらは日本の陸海軍に徴用された船舶だった。潜水艦による商船への無制限攻撃は国際法違反にあたるそうだが、米軍は、船舶が軍事物資の輸送など重要任務を負っていると見て、攻撃を加えていたという(琉球新報社「沖縄戦新聞」から)。

戦世と平和の島唄、その1

 「戦世と平和の沖縄島唄」をブログにあっぷしてあるが、ダウンロードしないと全文が読めいない形式になっていた。それで、改めて全文がそのまま読める形式にして、再度アップすることにした。

 戦世(イクサユ)と平和の沖縄島唄
 

目次 

はじめに                               
 軍歌にも哀しみが滲む                         

現在でも歌われる「戦世の唄」                     

戦争協力の唄も作られた                        

戦闘部隊がいなかった沖縄                       

秘められた非戦の願い                         

ひめゆりの悲劇                                        

戦世を恨む母                             

激戦の地が主題に                           

撃沈された輸送船の哀れ                        

親兄弟、妻子と別れ別れに                       

郷土は戦さ場になった                         

PW(戦争捕虜)無情                         

南洋に渡った移民は                          

ハワイ移民の苦渋                           

懐かしき生まり島                           

戦争が終わった、おおいに踊ろう                    

「兄弟小節」にも平和の思いが                     

「艦砲の食い残し」とは                        

「命どぅ宝」                             

アメリカ浮世の中で                          

「平和な島」の願いこめ                        

「時代の流れ」                            

これぞウチナーンチュ魂                        

「戦争はじめたのは誰か」                       

ポップス系の島唄でも                         

民を見捨てた戦さの果てに                       

時代を映し出す島唄                          

074  名護市二見(フタミ)に建立されている「二見情話」の歌碑。

「戦場の哀り(イクサバノアワリ) 何時が忘りゆら(イチガワシリユラ) 忘りがたなさや 花ぬ二見よ」と歌われる。(戦争の哀れはいつか忘れられるだろうか 忘れがたいのは 花の二見の美しさだよ) 


 はじめに

県民の四人に一人が犠牲になるという悲惨な沖縄戦を体験した沖縄では、戦争と平和をテーマとした民謡がたくさん作られている。ポップス的な感覚の歌を含めると、さらに多くの平和を願う島唄が作られ、歌われてきた。ここで島唄と呼ぶのは、沖縄の民衆の間で作られ、歌われている唄という意味で使う。

沖縄戦の体験と言うだけでなく、島を占領した米軍が、沖縄を「極東のキーストーン」(要石)と位置付け、巨大な軍事基地を建設したため、日本で戦争が終わっても、沖縄では戦後六四年がたっても、毎日、戦闘機が飛び交い、軍事訓練が行われている。実弾演習の流れ弾が、民家にまで飛んでくるという物騒さだ。

米軍基地がある故に、県民がさまざまな被害を受けている点でも、また米軍が郷土から海外での戦争に直接出撃しているという点でも、戦争は遠い過去のものではない。

そのため、二度と戦争を繰り返してはならないという平和の願いは、党派を超えて全県民の共通の認識になっている。だから、「こんな歌手が」「こんな曲が」と思えるような、数々の島唄で、命と平和の尊さが歌われている。恐らく、それは沖縄に住んでみなければ、およそ実感できないほどである。実際、私自身が、そうだった。沖縄に移住して三年半がたち、改めてそのすごさを思い知らされた。

沖縄では、戦争の時代を「戦世(イクサユ)」と呼ぶ。一度どうしても、「戦世と平和の島唄」について、書いておきたいと思った。

ただし、沖縄民謡の工工四(クンクンシー)と呼ばれる楽譜が出版されているのは、まだすべてではない。CDに録音しているのもまだ一部だ。その上、とてもそれらのすべてを目にする、耳にすることはできない。だから、ここでは、もっとも網羅した曲数が多いと思われる滝原康盛編著『沖縄民謡工工四』全一二巻と同『沖縄民謡大全集』、それに備瀬善勝、松田一利編著による『歌詞集 沖縄のうた』を中心に、その他の目にすることができた島唄を加えて、紹介をしてみたい。

といっても、民謡はほとんどがウチナーグチ(沖縄語)で書かれている。だから歌詞はとても難しい。方言というより「琉球語」と言われるくらいだから半端じゃない。でも、原文を見ることで味わいがあるし、沖縄の島唄の雰囲気が味わえる。だからできるだけ、原文を載せて、筆者のわかる範囲でヤマトグチ(共通語)に訳してみた。

ただし、訳は正確とは言い難い。間違いもある。私流の独断的な訳もある。ただ、歌詞に込められた思いがなんとか伝わればいい、という思いである。本来は、歌詞全部を紹介したいところだが、あまりにも膨大になるので、さわり部分にとどめざるを得ない。それと、一部にもう歌詞の原文は省略して、ヤマトグチの訳だけにしたのもあるのでご了承願いたい。

「軍歌」にも哀しみが滲む

沖縄民謡にも、戦前や戦争中に作られたいわば「民謡軍歌」とでもいうべき唄がある。私が通っている民謡三線サークルで演奏する楽譜集にも一曲入っている。「軍人節」という。サークルのおばあは、戦争中の唄を「戦世の唄」と呼んでいた。つまり「いくさの時代の唄」という意味である。

「軍人節」は男女の掛け合いで歌う。沖縄民謡は掛け合いの唄がとても多い。

「♪男、無蔵(ンゾ)とぅ縁結(インムシ)でぃ 月読(チチユ)みば僅(ワジ)か 別りらねなゆみ 国ぬ為でむね 思切(ウミチ)りよ思無蔵(ウミンゾ)よ」=彼女と結ばれて 月日はまだわずかなのに 別れなければならない国のために あきらめてくれ 愛しい彼女よ。

以下はヤマトグチの訳文だけで紹介する。

「♪女、あなたは軍人 なんで泣きますか 笑って戻ってくださるようお願いしましょう 国のために 働いてください」

「♪男、軍人の勤めは うれしいが 銭金のことで苦労する 母親はどうするのか」

「♪女、たとえ困難に陥っても 心配しないで母のことは 忘れて下さい あなた」

「♪男女、涙よりほかに 言うことはない さようなら 明日の日に別れと思えば、この二人どうなるのか 私たち二人はこれからどうなっていくのだろうか」

ここでは、夫は軍人になった以上、「国のためだからあきらめてくれ」と言い、妻は「国のため働いて下さい」と送らざるをえない。妻と母は出征する夫のことが心配であり、夫は残していく妻と母親がどんなに苦労するのか気掛かりでならない。本土の軍歌のように「♪勝ってくるぞと勇ましく」というような、勇ましさはどこにもない。家族が引き裂かれ、愛する人を送らざるをえない。「涙よりほかに言うことはない」という、別れの辛さ、不安と悲哀にみちている。

これは、昭和を代表する沖縄民謡の作り手であり、唄者である普久原朝喜(フクハラチョウキ)の作詞作曲である。でも決して、戦意高揚の唄ではないところが、やっぱり沖縄民謡である。一種の厭戦歌ではないか、と見る人もいる。

実は、この「軍人節」を創作した普久原氏が検閲を受けたとき、「担当係官は『琉球の民謡フゼイに大日本帝国軍人の尊称を節名とするとは何ごとか!』と、内容を知ろうともせず一蹴してしまった」そうだ。琉球放送ラジオディレクターをしていて、民謡の作詞家でもある上原直彦氏が『島うたの周辺 ふるさとばんざい』で紹介している話だ。

しかし、普久原氏は歌うことをやめなかった。「軍人」という言葉がタイトルとして認められないのなら、どうせ中味は、相手に判らない。日本帝国軍人係官が好みそうな節名をつけてやろうと考え、問題の「軍人節」を「出征兵士を送る歌」と改題、連作の「熊本節」を合わせて「入営出船の港」として申請したところ、「よしよし、オキナワもんもようやくニッポン人になったか、御国のために尽力するように」と激励さえ受けて許可されたという。上原氏の紹介するエピソードである。

「軍人節」を改題して、「熊本節」と合わせて歌ったというが、この「熊本節」は、別名「出征出船の唄」という。やはり兵士を送る男女掛け合いの歌である。

「♪男、我身(ワン)や熊本ぬ城内(シロウチ)ぬ務(チト)み 無女(ンゾ)や母親ぬ御側勤(ウスバチト)み」=わが身は熊本の城内の務め 彼女は母親のそばにいて勤める。

「♪女、我身や母親ぬ孝事方(コウジガタ)すむめ 里(サトゥ)や国ぬ為尽(タミチク)ちたぼれ」=私は母親の側で孝行するから あなたはお国のために尽くして下さい。以下訳文だけで。

「♪男、三年の務めを終わって 帰るまでの間 手柄を立てることを願ってくれよ」

「♪男女、那覇港に来れば さびしいことよ 男、彼女よ、女、あなた、袖を濡らす涙を忘れないでね」

やはり「軍人節」と同様に、別れの辛さ、悲しみが唄に込められている。ウチナーグチ(沖縄語)では、恋人である彼女のことを「無蔵、無女(ンゾ)」と言い、彼氏のことを「里」という。「里前(サトメ)」という言い方もする。男と女の読み方も、男は「いきが」、女は「いなぐ」と言う。とかく慣れるまでは、民謡の歌詞は難しいのである。なぜ、そういうのかの説明をすると、長くなるので省略する。

「出征出船の唄」もやはり「国のため尽くして下さい」と建前では言うが、港で船を見送る女と出征する男の「袖を濡らす涙」は止めようもない。今生の別れになるのかもしれない二人なのだから。

027

戦前は船で出征していった那覇港。いま手前は米軍の那覇軍港になっている

現在でも歌われる「戦世の唄」

軍人の彼が出征し、その安否を心配する女性の心を歌った曲に「国ぬ花」がある。

「♪親ぬ染みなちぇる 枕我ね捨てぃてぃよ 軍人ぬ里とぅ契(チヂ)りさしが 聞ちぶさや里が 里が便(タ)ゆい」=親の情が染み込んだ枕を捨てて 軍人の彼と契を交わしたが どうしているのだろうか、聞いてみたい彼の便りを。

「♪里や白雲い 風吹ちゅるままによ 今(ナマ)や北満ぬ草葉枕 国ぬ花でむね 我んや泣かん」=彼は空には白雲が浮かび 風が吹きわたる 中国東北部(満州北部)で今や草葉を枕にしている 軍人は国の花だから 私は泣かない。

「♪千里離りてぃん 夢路(イミジ)あら里前よ 夢にしみじみとぅ 知らちたぼり 国ぬ花でむぬ 我んや泣かん」=千里も離れているが 夢路あればあなた様 夢の隅々に 無事であることを知らせて下さい 国ぬ花ですから私は泣かない。

出征した彼のことが気掛かりでならない。ひたすら無事でいてほしい、便りがほしいと願うばかりだ。そんな彼女の痛々しい気持ちが込められている。「軍歌」というよりは、戦前の女性の辛い思いを描いた唄だから、現代でも堂々と歌われている。

戦争や軍人を直接、テーマとしていないが「親心(ウヤグクル)」という唄も「戦世」を映し出した曲である。子どもを大切な「宝」として、苦労して育てる親心を歌っている。しかし、それにとどまらない。四番まであるが、各節の最後は「産子育(ナシグヮスダ)てぃや御国ぬ為にん」「親に孝行 御国ぬ為にん」「産子多さや 御国ぬ為にん 御国ぬ栄えや 臣下(シンカ、国民)どぅ宝」となっている。子どもを立派に育てるのは「御国のため」、たくさん子どもを生むのも「御国のため」、そして「御国に尽くせ」と言う。「産めよ増やせよ」「尽忠報国」という「戦世」の精神が詰まっている。一九四一年(昭和一六年)、やはり普久原朝喜の作だという。まさに太平洋戦争に突入する時代の産物だ。

でもこの唄は、戦争そのものを主題にしているわけではないので、「御国のために」という古臭いフレーズがあっても、いまでもよく歌われる。私が入っているサークルでもよく歌っている。ウチナーンチュ(沖縄人)は、一時の苦労があっても、子どもをたくさん生み、立派に育てることは、何より大事なことだという価値観が根強い。だから、唄に込められた子どもを「宝」として育てる「親心」は、時代は変わっても変わらない精神として受け止められているからだろう。

戦争協力の唄も作られた

 沖縄民謡は、世相をとてもよく反映する。一九三八年(昭和一三年)に日中戦争が始まり、国家総動員法がつくられた。さらに一九四一年、太平洋戦争に突入した。侵略の戦争を「聖戦」と信じ込ませ、これに従わないと「非国民」扱いされ、世の中が戦時一色に染められると、沖縄民謡も戦意高揚の唄が登場する。

「強い日本人」「新体制の唄」「肉弾」「戦地節」「戦勝節」「名誉の負傷兵」「隣り組」「勇士の妻」「別れの盃」「銃後の妻」「銃後の護り」「銃後の乙女」という具合である。これらは『新沖縄文学五二号、島うたでつづる沖縄の昭和史』の中の「昭和しまうた年表」からピックアップした。

というのも、当然のことではあるが、いまは戦争協力の「民謡軍歌」を歌う人はいない。だから、いま発行されている民謡の歌詞集の中にも収録されていない。戦時の唄がわかる貴重なレコードがある。現代の唄者の一人、金城実が出した「時代―戦時戦後をうたう」というLP盤だ。その中に一二曲を収録し、戦時の唄も何曲かある。これは名盤復刻としてCDが出され、現在インターネットでも試聴することができる。

この中に、沖縄ならではの面白い唄がある。「裸足禁令の唄」という。那覇市を裸足で歩くのを禁止する「裸足取締規則」という県令が一九四一年に施行された。大日本帝国の臣民が街中を裸足で歩くのは恥ずかしいことだというのだ。違反者には罰金が科せられた。

「♪紀元二千六百一年一月一日佳日(ユカルヒ)に 那覇市に裸足禁止県令 御定めなやびたん ※うかっとすなよー でーじどーやー はだしなてぃから」=※以下のハヤシの部分だけ訳すると「うっかりするなよ 大変だよ 裸足になっていると」

「♪那覇に参(モウ)らば祖父祖母(ウスメーハーメー)ん サバ小(グヮ)やてぃん履ち参りよ 裸足から歩ちね 科料さりやい 迷惑すさ はじかさむんやさ はだしなてぃから きがぬもとぅどー」=那覇にくるおじいもおばあも ぞうりを履いてきなさいよ 裸足で歩くと罰金とられるよ 迷惑するよ 恥ずかしいよ 裸足になっていると怪我のもとだよ。

「♪守礼の邦の県民が裸足なてぃ歩ちゅしや 支那の国売って喰いゆる 蒋介石とゐぬむんてぃさ でーじどーやー はだしなてぃから いちむしてぃんどー」=守礼の邦の県民が裸足になって歩いていると 中国を売って食っている蒋介石と同じだぞ。 

 当時、国民にも植え付けられられていた中国への蔑視の文言はあるが、裸足で歩くのは帝国臣民とはいえないということだろう。四番目の歌詞では「物乞いと間違えられるよ」とも歌っている。

この県令が施行された「紀元二六〇一年」は、真珠湾攻撃が行われた年だ。こんなことまで締め付けるのは、やはり県民を戦争に総動員する戦時体制の一環なのだろう。方言を使うことも禁止され、方言を使えばスパイ視されたほどだ。この唄は、県民の日常生活のありようにまで関与し、規則でしばりあげることへの風刺に満ちている。

「民謡軍歌」の中で、もう一つふれておきたいのが「銃後の護り「銃後の妻」という唄だ。これはヤマトグチで紹介する。

「銃後の護り」は「♪男が生まれてくれば軍人になる 女が生まれれば銃後の護りになる」「♪前の店の息子たちは軍人の勤めだから 店の番頭の手がない 私が銃後の護りになる」「♪村の若者たちは軍人の勤めだ 畑を作る手がない 頑張れよ 銃後の護り」という内容だ。

「男生まれれば軍人に」と一見すると勇ましそうに見えるが、若い男手がいなくなった町も農村も「手がない」、苦労を強いられる現状を皮肉たっぷりに「ちばりよー 銃後の護り」と歌う。かなり風刺のきいた「軍歌」である。

「銃後の妻」はこう歌う。「♪あなたは戦場に笑って立って下さい 私はこちらにいて あなたの無事をお祈りします」「♪私は戦場に立って自分のことは露ほども思わない わが子のことを思い それが気にかかる」「♪勝ち戦さをみせて 戻ってくる時は わが子と旗を振ってお迎えします」。やはり、軍人として出征する以上、「露と散る」覚悟をするが、妻と子のことが気掛かりだ。妻は「国の為だから、苦しくても私は泣かない」と我慢せざるを得ない。そんな戦争のため引き裂かれる夫婦の心境が歌われる。

これを歌ったときは、戦場に行くのは夫だったが、しかし、無謀な戦争の結末は、沖縄に残った妻子も、あの沖縄戦で「鉄の暴風」の中にさらされたのである。

これまで紹介したのは、沖縄でも本島の唄が中心だった。石垣島をはじめ八重山にも戦争を映し出した唄がある。「遺族の涙」「身代り警備」「伊舎堂隊の唄」などである。上原直彦著『語やびら島うた』で紹介している。

そのなかの最後の唄「伊舎堂(イシャドウ)隊の唄」は、モロ軍歌である。石垣市に生まれた伊舎堂用久大尉を主人公にしている。一九四五年(昭和二〇年)三月二六日早朝、「誠十七飛行隊」の伊舎堂隊長はじめ二六機が八重山特攻基地白保飛行場を飛び立ち、最初の特攻機となった。

「♪目ざす目標 敵空母 たたきつぶせよ あゝ伊舎堂隊」

「♪重い爆弾 かかえ込み 行くは東の空遠く ドンと一発 決死隊 またと還らぬ あゝ若桜」

「♪国の御為お母さん 花と散ります あゝお母さん」

これは元歌は古賀政男作曲の「愛の小窓」で、その替え歌だという。無謀な戦争のため、「神風」など特攻隊の攻撃によって、沖縄の海にどれほどの若い命が散ったことだろう。一見勇ましいが、悲壮感がただよっている。

 子守唄にも戦争が反映している。八重山で歌われた「愛の子守唄」だ。

「♪坊やの父ちゃん どこへ行った チンダラホイ あの海越えて 南の小島におわします ホイヤホイ よい子はねんねしな」

「♪坊やはよい子だ 泣かずにね にこにこ父さんの お帰り土産は なんでしょね 坊やはよい子だ ねんねしな まぶたに浮ぶ 父さまの面影 夢見ましょう」

「♪坊やが大きくなったなら 島の歩みの 明るい男になりましょう ホイヤホイ よい子はねんねしな」

 父親が「南の小島」に行ったのが、移民であればもう少し夢のある話になってもよいがそうではない。父は出征したのだろう。「まぶたに浮ぶ父さんの面影」はもはや「夢に見る」しかない、還らぬ人となっていることがうかがえる。わが子が島の発展に役立てる立派な「明るい男」になってほしい、と願う母親の姿は切ない。(二つの唄の歌詞は、いずれも上原著『語やびら島うた』から)

2012年2月16日 (木)

アルテで今帰仁天底節を歌う

 音楽好きが集い、自由に演奏できるアルテ・ミュージックファクトリー。2月のテーマは「冬」だった。沖縄民謡では、冬の歌は案外少ない。季節語が入っていないが、「今帰仁天底節」を選んだ。
 この曲は、今帰仁(ナキジン)村の天底(アミスク)に生れた女性が、家が貧しいため叔母を頼って7歳の時に大阪に行く。叔母の家も貧しかったのか、冷たくされる。罪のないのに朝夕、鞭で打たれる。泣く泣く出されて花街に落ちていく。心では泣きながら、顔では笑って、知らない客を相手にする、花街の女の辛さ、悲しみを歌っている。
 曲を通して、冬のような寒々とした情景が浮かぶから、これを選曲した。
 007_2  アルテで1人で演奏するのは3回目。でも、まだ本番で三線を弾きはじめると、自由に手が動いてくれない。三線は難しくない曲なのに、ミスが続く。歌詞の3番あたりから、やっとまともに動き出した。
 歌は、花街に落ちていかざるをえなかった女性の哀しみに思いを込めて歌った。前は、歌いながら、うるうるすることがたびたびあった。気持ちが入るからだ。

 ファクトリーが終わった後の打ち上げ会で、宮古民謡の名手から「三線は何年弾いているの。よかったよ」と言ってくれた。他の人からも「胸に響きましたよ」「この曲は知っていても、そのいわれは知らなかった」など感想が寄せられた。
 それにしても、三線が普段の稽古通りに弾けるのはいつの日か。難しい!

2012年2月14日 (火)

阪神・広島の練習試合を観戦

 プロ野球の沖縄でのキャンプが始まってもうすぐ半月。阪神と広島の練習試合があるので、沖縄市営野球場に見に行った。

029  沖縄市営野球場は広島カープのキャンプ地なので、「めんそーれ広島カープ」のノボリが林立し、空にはコイが泳いでいる。

022  試合はもう1回の裏だった。内野スタンドはびっしり埋まっていた。阪神の試合はとくに、トラキチが関西から大挙、キャンプを見に来ているので、観衆が多いので評判だった。この日もその通りだ。関西弁が聞こえる。

025 大阪のABC放送が、練習試合なのに、テレビ中継もやっているようだ。バックネット裏最上段に陣取って放送していた。
 026  ネット裏とグランドの両サイドには、カメラもズラリと並ぶ。
 試合に入る前の口上が長すぎる。さあ試合だ。

020  1塁側の内野席から観戦した。やはりコイが泳いでいる。広島は、栗原、東出、広瀬ほかギュラーメンバーが先発に揃い、阪神は若手中心だった。024

 都合で5回までしか見れなかったが、投手の球がそれほど速いと思わないけれど、振り遅れる姿が目立った。快音はあまり聞かれない。バッターはまだこれからの感じだ。

 阪神は、和田新監督が1点を取ることを重視する練習をしていたと報道された。試合でも、バンドを再三試み、バンドの構えからヒッティングに転じるなど、細かい野球を試みていた。阪神もこれまで、大砲を並べる野球が主だった。飛ばない球への対応とし、1点を取ることを重視するのは大切になっている。

018 それにしても、練習試合なのに、阪神、広島とも応援団がスゴイ。太鼓もとどろき、外野からトランペットも響く。応援団はもう、ペナントレース開幕なみのヒートぶり。広島が先制点を上げると、写真の赤ヤッケ姿の「協力会」メンバーが立ち上がって「バンザーイ」 。いやはや、ファンはありがたいね。

032 帰り際にバスに乗り込もうとする選手を目撃。なんと石井琢朗選手ではないか。今年は野手コーチと選手を兼任している。横浜ベイスターズの全盛時代に横浜球場で応援したこともある。42歳とは思えない若々しさ。ツレが「石井琢朗さん、応援してますよ」と声をかけると、会釈して応えてくれた。
 広島は、投手陣が充実してきている。落合前中日監督は「広島はいいよ」と評価が高いとか。打撃陣がよくなれば、面白い活躍ができるかもしれない。

2012年2月13日 (月)

地域福祉まつりで民謡好評

 私が通っているある老人福祉センターで、恒例の「地域福祉まつり」が開かれた。民謡三線サークルは、2曲を演奏した。「新宮古節」「夫婦船」である。
 サークルでは、昨年のまつりが終わったあとに、もう演奏する曲目を決めて、一年近くも定例日には必ず演奏してきた。その成果を披露した。

 「新宮古節」は、宮古民謡の「あやぐ」の旋律にのせて歌う。貧乏しても親戚を見捨てるなとか、心の中を知らない人の甘口にのってはいけない、など人生の教訓歌。「夫婦船」は、やはり夫婦はいつまでも睦まじく助け合い生きる大切さを歌う。これも教訓歌である。

 010  演奏が始まると、みんなのってきて、30人ほどが息がぴったり合っている。声もよく響いている。本番の2週間ほど前の練習では、まだ「みんな早くなるねー」と先生が嘆く。そればかりか、始まるとすぐ音がバラけて合わないことがあった。でも本番では、ぴっしり決まった。
 終わって幕が閉まると先生は「上等でしたね」と満足そうだった。

 翌週のサークルの日には、幹事が「まつりでの民謡の演奏はとっても人数は多くて、よくあっていたと好評でした。ご苦労さまでした」と労をねぎらった。先生もいろいろ演目があったなかで「民謡が一番よかったですよ、と褒められて、私も鼻高々でした」と感謝した。「本番に強いねー」と隣に座るおじいがつぶやいていた。

 まつりでは、子どもからお年寄りまで、さまざまな芸能を披露する。琉球古典音楽や琉舞、民踊、社交ダンスなど多彩な演目が次々演じられた。
 ただし、中学生のコーラスや古典の演奏でも、場内がざわざわ、ざわざわとしゃべり声が絶えない。司会者が静かに聴くように呼び掛けるが、効果なし。そんななかでも、民謡は人数も多いし、歌三線の音量もよく響くし、民謡はみんなよく知っていて、人気が高い。だから、雑音も少ない。あとから、ツレが撮影したビデオを見ても、堂々とした演奏だったと思う。

 センターでは、祭りの際に毎回、このセンターを利用するお年寄りの中で、90歳以上の人の名前を大書して張り出す。今年は、なんと21人もいた。わがサークルからも3人ほど入っている。前より90歳以上が増えているからスゴイ。「あやかりたい」と思ったことだ。

 翌週の練習の時、前に座る高齢のおばあが先生にリクエストをした。なんと本番が終わったのに、また「新宮古節」「夫婦船」の2曲だ。「もういいよー」と誰もが思った。でもおばあいわく。「終わった後も弾かないと、すぐ忘れるからさあ」。もはや、誰もあがらえない。また演奏した。終わると、近くのおばあいわく。「本番が終わった後やっと覚えたよ」。
 そういえば、本番の際もまだ、歌詞を覚えていない人がかなりいた。写真で最前列に座っている私の背中には、歌詞を書いた紙が張り付けられている。「背中借りるよ」とリハーサルの時からの約束だった。民謡の演奏では、背中は前からは見えないので、覚えられない歌詞を張るのには、絶好の場所なのだ。

2012年2月12日 (日)

ことしも漫湖さくらまつり

 わが家近くの漫湖公園で、「第7回漫湖さくらまつり」が開かれた。今年は、カンヒザクラが7分咲きくらいで、まつりにはちょうどいい時期だ。天気も青空が広がり、薄着で十分のまつり日和になった。

007  おばあ、おじいからよちよち歩きのちびっこまで、古波蔵や与儀など周辺の住民が駆け付けた。

008  漫湖公園は野外ステージがあるので、芸能の披露にはうってつけ。2日間にわたり午前中から夜までたくさんの芸能が演じられた。014

 学校の父母などの出店も例年のように出ていたが、今年は「与儀食堂」なんて、レトロな感じの看板まであった。「欲しいな」と思っていたジーマミー豆腐(ピーナッツ豆腐)を売っていたので、買って帰った。泡盛のあてになった。手作りらしい味だった。

022 まつりといえばエイサー。いくつもの団体が出演したが、写真は「よぎっ子エイサー隊」。

035  目玉といえば「カチャーシー大会」。だれでも飛び入りで参加できる。25人がエントリーして、5人1組で踊りを競った。写真は、最後に全員が踊ったものである。

030  わがツレもじっとしていられない。参加した。カチャーシーといっても、みんな自由に踊ってよい。審査はあるが、踊りが上手なだけでなく、面白い踊り、ユニークな踊りも審査の対象となる。
 ツレは最初のグループだったが、舞台から飛び出してパフォーマンスを繰り広げた。けっこうみんなに受けていた感じだ。

033  ちびっこたちも、大人に負けず、小さな手を上げては可愛い踊りを見せた。中には、ほとんど踊りにならない子もいる。
 さあ、審査結果の発表だ。特別賞からの発表。最初に、なんとわがツレが受賞した。賞品もいただいた。037
 驚いたのは、隣にいた高齢のおばあが踊り、3等に入賞したことだ。
 隣に座っていたとき、さかんに立ち上がろうとして腰を浮かすが、中腰までいっても立てない。何回も何回も、地面に手をつかずに立とうとする。「お手伝いしましょうか」と声をかけたが「いや、いらない。前は立てたんだけど、なかなか立てないので、立つ訓練をしているところだからさ」というではないか。歩くのも不自由なのかなあと心配していた。それが、なんとカチャーシー大会にエントリーした。それだけでなく、入賞までしてしまった。たしかに上手い。
 「踊り上手だったですね」と帰ってきたおばあに声をかけた。「前はね、トロフィーもらってたよ」とさらりといってのけた。トロフィーは一等賞の人だけもらえる。さすが、ウチナーおばあである。

043  舞台の芸能の演舞には、もう立って踊りながら拍手する。2月とはいえ、太陽が照りつけると、紫外線は強い。だからおばあもタオルを頭にのせ、サンバイザーをつけている。向うに見える女性(多分)もすっぽりフードを頭にかぶっている。

003  最後に、サクラをもう一度見てみたい。いま那覇市内が見ごろを迎えたところだ。

2012年2月11日 (土)

花の街路樹、その3

真っ赤に燃えるデイゴ 
 

 沖縄といえば、なんといってもデイゴだろう。公園にも多いし、街路樹にも多い。ずんぐりした樹形で、根も広く大きく地表に盛りあがる。
 この近辺では、那覇市から豊見城市を通り、糸満市に抜けていく県道7号線は、デイゴの並木が続く。私は勝手に「デイゴ通り」と名付けている。デイゴは、4月下旬に咲く。南島らしい華麗な花である。県花だけに那覇市内でも、たくさん巨木がある。しかし、深刻な問題がある。害虫のヒメコバチにやられて花が咲かない木、枯れた木が多い。  2011年は咲くのも遅く、おもろまちにある新都心公園のデイゴが咲いていると聞いたので見に行った。写真がそれである。

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 デイゴの木の東側にあたる部分で、たくさん花が開いていた。デイゴは年によって咲き方が異なる。デイゴの花にはメジロがたくさん飛んできていた。盛んに花から蜜を吸っている。 
「♪デイゴの花が咲き 風を呼び 嵐がきた」とtheboomの名曲「島唄」でも歌われている。
 デイゴのたくさん咲くかどうか
で、台風が多いとか少ないとかいうけれど、ホントかどうかわからない。010_2


 沖縄のデイゴにとって由々しき問題が起きている。それはヒメコバチという害虫がデイゴの木について、花を咲かせなくし、さらには大木を枯らせていることである。
 漫湖公園でも4年ほど前に、木が枯れてきて何本もデイゴの大木を根元からバッサリと伐り倒した。痛ましかった。
 ヒメコバチは瞬く間に、本島に広がったようだが、この害虫からデイゴの木を再生させる方法はある。薬剤を幹に注射すればよい。
ただし、薬剤の費用がとても高い。デイゴの木もたくさんあるので、那覇市などまだ、再生の動きは出てこない。誇りある県花が、ヒメコバチにやられて、花が咲かない、枯れていくのを放置してよいのだろうか。心を痛めている人は多い。

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 石垣島や竹富島では、もう5,6年前からヒメコバチにやられてデイゴは咲かなくなった。なんとかデイゴを再び咲かせたいと、竹富町では、2010年に島のデイゴに薬剤の樹幹注入をしたという。薬剤だけで1回200万円もかかるそうだ。竹富島だけで、何百万円も費用がかかるが、町には予算がない。それで、何と公民館からお金を借りて実施したそうだ。なぜ公民館が金持ちなのか? 昨年4月下旬に、30人ほどで薬剤をデイゴの樹幹に注入した。
 デイゴはたちまち元気を取り戻し、葉が青々と茂った。そして、2011年3月には、見事に花が咲いたという。私たちが竹富島にいった3月12日、真っ赤なデイゴの花が、少しだが咲きだしたところだった。

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 竹富島のデイゴの再生には、多くの人たちの支援の輪があった。「竹富島のデイゴを救おう」というブログでの呼びかけも行われた。格闘家の長洲力の関連商品の収益も一部を寄付したらしい。デイゴチャリティーコンサートも開かれた。
 町役場の職員が、ラジオで語っていたことによると、支援が広がり募金が何百万円も集まり、公民館にも借りたお金を返済できたという。
 竹富島では、学校の卒業式にデイゴの花をいけて、卒業生をおくる習慣があったという。デイゴが咲かないと伝統行事も途絶える。でも、2011年3月14日の竹富中学校の卒業式は、デイゴがいけられ、卒業生を見送ったという。
 やっぱり県民はデイゴには、特別の思いがあるのではないだろうか。

冬に咲く街路樹・オオバナソシンカ

 冬に咲く街路樹は少ない。例外がオオバナソシンカである。漢字で書くと「大花蘇芯花」。マメ科の花木だ。中国原産の高木で、沖縄で見られるソシンカの仲間の中で、最も鮮やかな大きな花を咲かせる。

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 花の形がランに似ていることから英名でオーキッドツリーとも呼ばれている。また葉っぱの形が羊のひづめ(蹄)に似ていることからヨウテイボク(羊蹄木)とも呼ばれているという。ネットの「海洋博公園みどりの王国、都市緑化植物図鑑」から紹介した。

熱帯・亜熱帯に生育する植物で、公園樹、街路樹などとして利用されているそうだ。確かに沖縄県内では各地に街路樹として植えられている。 

当初、この花の名前がわからなくて、ネットで調べていると、そっくりの花があった。最初はこれかと思った。それは「ムラサキソシンカ」という。
 中国やインドが原産で熱帯から亜熱帯に広く植栽されている落葉低木である。紅紫色の花を咲かせる。「ソシンカ」の花の色は、白、紫、紅紫までいろいろあるという(ネットの「沖縄花図鑑」)。

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 私が見たのはエンジではあるが、紫色のソシンカは見ない。図鑑で確かめると、やはりオオバナソシンカが正解だと思う。

 「花の島」といわれる沖縄でも、さすがに真冬に咲く花は限られている。

 カンヒザクラや梅は冬に咲くが、これらは街路樹にはない。だから、街路樹で冬に咲く花といえば、この花が代表格である。

 いま咲き誇っている。那覇市内の泉崎というところの、「りうぼう」というスーパーのある通りが、この街路樹が立ち並んでいる。いわば「オオバナソシンカ通り」といってもよいくらいだ。写真はこの通りの花である。

 ただし、この花は、前から気になっていたけれど、花の名前が分らなかった。
 気になっていたといっても、美しさからではない。冬に咲くので珍しい。それと、実は花が咲いても、全体の姿はあまり美しくない。なんかすっきりしない。その理由は、木の葉がたくさん茂っているなかに、花を開かせるので、花が目立たない。木の葉が花の美しさを邪魔している。012_3

 花びらだけに接近してみれば、それなりに美しい。エンジの色合いはよい。でも、花木として見ると、美しくない。「もう少しすっきりしろよ」と言いたくなる。
 写真を撮っていると、おばさんが通りかかったので「この花はなんていう花ですか?」と尋ねた。「これは昔からある花ではないわね。新しい花だと思いますよ。なんだったかなあ。なんとかけサクラ。確かそういったわね。ああそうそう、南洋サクラっていうんじゃないの」と教えてくれた。
 帰ってから調べてみると、南洋サクラは別の花のようだ。図鑑でみると、オオバナソシンカであることがわかった。
 まだ花の街路樹のすべてではない。でも、身の回りにあるのは、こんな花木である。四季に応じて花の街路樹が楽しめるのも、沖縄ならではなのかもしれない。

 終わり

二〇一二年二月七日  文責・沢村昭洋

2012年2月10日 (金)

花の街路樹、その2

暑さに負けず咲くオオバナサルスベリ 035

  焼けつくような真夏に咲く花が、もう一つある。オオバナサルスベリである。花はうす紫色でとっても可憐だ。色合いがとってもさわやかな花だ。ギラギラと照りつける太陽の下で、咲いている姿をみると、「この暑いのによくぞきれいな花をつけているよねー」と思わずいたわりたくなる。
041  普通のサルスベリは、大和にも沖縄にもたくさんあり、夏には咲いている。でも、花は極めて小さい。小さな花びらがたくさんついている。
 オオバナサルスベリは、名前の通り、花がとても大きくて見ごたえがある。
インドから東南アジア、オーストラリア北部に分布する半落葉性高木で、サルベリの仲間である。
 039 ネットの「沖縄花図鑑」によると、フィリピンでは、「バナバ」と呼び、葉を乾燥させて、バナバ茶をつくる材料にする。葉を煎じて糖尿病や肥満の民間薬として利用されるそうだ。
 私的には、とっても好きな花だ。その色合いがいい。暑さのなかで、真っ赤な花を見ると、余計に暑苦しくなる気がする。でも、この花を見ると、なんかすがすがしく感じるからである。  
 残念なことに、2011年は、相次ぐ台風の影響で、塩枯れしていたが、その後また咲いて、二度咲きした。
例年のような満開の状態にはならなかった。だから、写真はたしか2009年のものである。


 不思議な花木・トックリキワタ

 この写真の花は、トックリキワタという。沖縄では街路樹に多い。2010年は9月初めから咲きはじめたが、2011年は、台風の影響か、遅くて10月下旬に咲きだした。12月末まで咲いている。カンヒザクラにも似たピン004_4ク色なので、あたかも秋に咲く桜の感じもある。でも「秋桜」といえばコスモスである。これは南米原産なので、「南米桜」という人もいる。
010  花びらは、かなり大きい。花びらが落ちても落ちても次々に咲くので、34カ月も長く咲いている。なぜ南米原産の花がたくさん、沖縄にあるのだろうか?

 それは沖縄は海外移民が盛んだったことと関係がある。戦前から、南米に移民としてたくさんの県民が渡った。
 1963年、琉球政府からの派遣医師として南米に赴任し、ボリビアから帰国した当間恵氏によって、この花の種が持ち帰られたのが最初だという。
 1964年に、琉球政府農林局に勤めていた天野鉄夫氏が、種を持ち帰って自宅の庭に植えたのが、沖縄のこの花木の親木だという話もある。020

ただ、現在のように街路樹としてたくさん、この木があり花を咲かせるようになったのは、1987年、オリオンビールの創立30周年で行われた「花の国際交流事業」の役割が大きいようだ。          
 ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルーなどの沖縄県人会の協力で、トックリキワタやゴールデンシャワーなどの花の苗100万本が寄贈され、県内の市町村に配布された。そのうち10万本がトックリキワタだという。
 なぜ、トックリキワタという名前なのか。それは、この木そのものが名前の由来を表している。この花木の幹は、写真のように、一番下は細く、中ほどは膨らみ、上はまた細くなっていて、まるで徳利のような形だ。南米では、スペイン語で「酔っ払いの木」017 という呼び名があるそうだ。やはり、この形状からきている呼び名である。

「キワタ」というのは、この花が終わり春になると、握りこぶしほどの大きさの実がなる。この実がやがて、パクリと割れて開くと、中から野球のボールほどの真っ白な綿が出てくるのだ。まことに、奇妙というか不思議な木である。この木の綿は、ぬいぐるみやクッションに詰められるというが、沖縄ではあまり実用に役立っているという話を聞かない。
 もうひとつ、奇妙なのは、この幹全体に、まるで恐竜の背中のような、トゲができることだ。万が一にも、このトゲに身体を当てるとヤバイことになる。だから、街路樹には向かないという人もいる。
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トックリキワタの綿を集めて利用しようとし ている人に初めて出会った。野球のボールほどの実の皮がパクリと割れると、中から真っ白な丸まった綿が出てくる。近くの「なかよし公園」で、その綿を見た。
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この公園の木はとても大きい。実のなりようも尋常ではなかった。
 もう割れて綿が出ているだろうと思い写真を撮りに行った。すると2人連れの男性がいた。長く柄が伸びる道具を使い、綿を落とし、拾い集めていた。何をしているのだろか? ツレが話しかけた。見覚えのある顔である。実は、綿を落としていたのはNHK沖縄のアナウンサーの白鳥哲也さんだった。
 105 「今年10月に世界のウチナーンチュ大会があるでしょう。トックリキワタは南米から持ってきて県内に広がった花ですから、006ペルー、ボリビア、アルゼンチンなど南米から来る人たちに、この綿を入れてお守りを作り、みなさんの国から持ってこられたトックリキワタが、沖縄でこんなに育っているんですよ、と伝えようと思って集めているんですよ」というではないか。驚いた。なんと5000個も作るという。白鳥さんらは、「NPO沖縄イケメン連」に所属し、このNPOがそういう取り組みを進めているという。
 2011年10月に開かれた世界のウチナーンチュ大会とは、戦前から南米やハワイ、アメリカ本土など世界中に移住していった沖縄県人が、各国から一堂に集まるもので、今回で5回目。
 白鳥さんらは、トックリキワタが南米から贈られて広がった花の由来をもう知らない県民もいるので、こうした取り組みを通して、由来についても知らせるきっかけにもしたいという。白鳥さんもウチナーンチュではないはずだが、こうした自分が所属するNPOで取り組みをしているのには感心した。お守りに入れて、南米からきたウチナーンチュにお渡しすれば、お里帰りとなり、もらった人たちも嬉しいことだろう。その後、多分渡したはずである。
 わが家の近くの与儀小学校の前の通りの街路樹は、「トックリキワタ通り」と言えるほどの並木である。だから白鳥さんもこちらに来たが、昨年はなぜが実と綿が少なかった。子どもたちが「近くのなかよし公園にたくさんあるよ」と教えてくれて、公園に来たということだった。以上がトックリキワタの1年の変化である。この木の不思議な魅力が分かるのではないだろうか。

 鮮やかなゴールデンシャワー

 この見事な黄色の花は、シャワーツリー。一般名はゴールデンシャワーという。やはりマメ科の花木で、インド原産だとか。小さな花がたくさんあつまって房のようになる。ハワイでは街路樹によく植えられ、タイ王国では国花になっているそうだ。
 先に書いたように、南米から花の国際交流事業で持ち込まれた花木の一つだという。この木は、わが家近くの古蔵小学校の校庭に咲いている。
 ピンク・シャワーというのもあり、確かハワイから贈られたといって、漫湖公園に木がある。ピンクはその後、赤になり白く変色すると、聞くが、実際にはピンクしか見たことがない。

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 花の後は、大きなサヤインゲンガのような、長い実をつける。この実は、なかのベトベトした果肉を便秘薬として使用するそうだ。ネットの「シンガポールでみつけた花たち」で紹介している。そのように利用されているのだろう。

花の街路樹、その1

 花の街路樹編ー沖縄の花だより

沖縄の街路樹には、花が咲く木が多い。寒い冬から、春も猛暑の夏も秋も、四季それぞれに可憐な花が咲いている。散歩をしていても、車で走っていても目を楽しませてくれる。
 長く住んだ東京では、街路樹といえば、イチョウかケヤキがやたら多かった。ケヤキの新緑やイチョウの紅葉もそれぞれに美しいが、花咲く街路樹はほとんど見た記憶がない。
 それに比べて、沖縄は、私の住む那覇市とその近辺に限っても、とても花の街路樹は多い。だから、沖縄に住んでから、花を見るたびに「これはなんていう花だろうか」と、気になりだした。少しずつ花の名前もわかり、親しみももてるようになった。私のブログでも、何回か「花の街路樹」を紹介してきた。
 先に「沖縄の花だより」をまとめたが、街路樹まで入れるとあまりに膨大になるので、「花の街路樹編」として、別編としてみた。紹介は、季節ごとではなくアトランダムである。

南米原産のイペー004_2

 花の街路樹で、2,3月頃に咲く花に「イペー」がある。沖縄でもまだ寒いころから咲きだす。鮮やかな黄色の花だ。花びらは、ラッパ状である。そのラッパが四方八方に向かって咲いている。コガネノウゼンともいうらしい。
 009_2 イペーが、街路樹として道路の両側に植えられ、咲き誇っているのは、那覇市の繁多川(ハンタガワ)地域である。首里城から、谷筋をはさんで対岸にあたる地域だ。
 イペーは、ノウゼンカズラ科に属する。このノウゼンカズラは世界に数百ともいわれる種類があるという。

 「トランペットフラワー」という呼び名もあるという。なるほどその名前もうなずける。わが家のマンションの玄関口にも、このイペーが花開く。
 022 花の街路樹は、沖縄から移民としてたくさんの県民が渡った関係で、南米から贈られてきた南米原産の花 がよくある。だから街路樹にも、南米原産の花木がよくある。このイペーも、南米原産。緑化樹木として、沖縄に導入されたという。ブラジルから、パラグァイ、ボリビア、アルゼンチンに分布しているという。
 中でも、ブラジルでは国花とされているという。 023

 イペーは、黄色だけではない。ピンク色の種類もある。とくに見事なのは、那覇市の県立図書館の駐車場入り口に咲く木である。とても高い木である。
 2011年にイエローのイペーの写真を撮った後、県立図書館に回ると、もうすでにほとんど花は散っていた。この写真は2009年に撮ったものである。
 やはり花はラッパ状鐘形で、紫紅色である。枝端に集まって咲く。公園、庭園、街路樹に適しているという。これも南米から種子が送られてきて、各地で植栽されてい る。
 ブラジルでは、この木は重要な用材の一つで、船舶や電柱、家具、建築などに用いられるとのこと。案内板で、こんなことが記されていた。こちらでは「イッペイ」と表示していた。
 花にはメジロがやってきて蜜を吸っていた。

沖縄的街路樹事情

 ここで、沖縄の街路樹について026 ふれておきたい。というのは、沖縄の街路樹は特別な意味あいがあるからだ。それは、なにより、年間の半分は夏といってもよい暑さに見舞われる。木の葉の多い街路樹があると、緑陰がつくられ、とてもありがたい。沖縄は歩く人はとても少ない。自転車も少ないが、歩く時は、この木陰のありがたさが身にしみてわかる。自動車でも、信号で停車する場合も、木陰で停車したい。木陰と日向では、車内への影響はまるっきり違うからだ。
 街路樹は、枝葉の多いのが緑陰をつくるのに適している。といっても、あまりに木の葉が茂りすぎて、信号をすっぽり隠しているところが多い。標識も隠れている。右写真の通りなんか、もういつも茂りすぎて、信号も標識もよく見えない。樹木で信号が隠れるなんて、交通安全上は大問題だ。だが、沖縄の樹木の生長は半端じゃない。だから、信号が見えにくいなんて、いちいちいってはいられない。
 年1回は剪定する。それも丸坊主にするほど、枝と葉を伐る。
「もっとたびたび伐ってよ」といいたいが、そう簡単じゃない。予算のことだけではない。別の問題が起きるからだ。
 伐る時には、剪定のための作業車が道路を一車線、完全に閉鎖する。そのため、必ず交通が渋滞する。車で走っていて渋滞している時、「なぜだろうか」と思うと、だいたい街路樹の剪定だ。交通の少ない夜に作業というわけにはいかない。危ないからだ。まあ、「よんなー、よんなー(ユックリ、ユックリ)」気長に運転するしかない。それがウチナー街路樹事情である。

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燃えるような花木・ホウオウボク

 真夏に咲く花といえば、沖縄ではなんといってもホウオウボクである。鳳凰木と書く。那覇市内の街路樹ではもっとも多いだろう。「ホウオウボク通り」があちこちにある。なぜかといえば、上の写真で見るように、樹形は笠のような形をして、大きな枝葉をたくさんつけるので、樹下は夏でも涼しいからだ021
 熱帯三大花樹の一つだという。マダガスカル原産で、熱帯地方では、街路樹としてよく植えられている。沖縄でも、それにならっている。
 花は鮮やかな赤である。しかも、たくさん花が咲き誇るので、見た目には少し暑苦しいほどだ。
 わが家の近くの大通りも、ホウオウボクが立ち並ぶ。花咲くころは、街の大通りが、燃えるような赤い花々の通りとなる。

 ただ、2011年は5月の2号台風が沖縄本島を直撃した。猛烈な暴風が大量の海水を運び、あらゆる樹木と花木にも襲いかかった。例年は、強風が吹いても、そのあと大雨が降るので塩水が流される。ところが今回は暴風のあとも雨はない。塩水は降りかかったままだった。一夜にして、沖縄中の公園や街路樹、山野の樹木が茶色に変色してしまった。塩枯れしたのだ。
 こんな光景は、沖縄に移住して初体験である。ホウオウボクも葉枯れして無惨な姿をさらした。
 ところがである。1、2ヶ月のあと、枯れた枝葉の後から、新しい葉がいっせいに芽吹いてきたではないか。しかも、梅雨明けの7月からは、鮮やかな真っ赤な花を開かせた。たちまちのうちに、あっちでもこっちでも、見事なホウオウボクの花が咲き誇る姿が見られた。

005  それにしても、咲き方が例年以上にスゴイ。上の通りに咲いている写真は、その時のものである。どのホウオウボク通りをみても、燃えるように咲き誇る。もはや暑苦しいほどの咲き方である。
 それには理由があった。台風で塩枯れしてしまった花木は、樹木の本能というのか、生き残るために、これまで以上に新芽をつけ、花を咲かせるようになったのだ。新聞でも、そのような見方が報じられた。まことに、けな気である。
 左の写真は、ホウオウボクではない。その花木の下に咲いていたサンダンカである。この咲き方も、尋常ではない。004_3
 サンダンカの名前の由来は、花が年間3回咲き、花柄も3段になるから。こちらは、ほとんど年中咲いている気がする。でも5月から2月頃咲くというから、咲かない期間が短い。庭や公園にとても多い。
 もう一度、話はホウオウボク戻る。花が終わると、青くて長い剣のようなサヤがたくさんなる。やはりマメ科の花だ。サヤはすごい数である。これが、冬にかけて、色が茶色に変色し枯れたようになる。008_2
 「このサヤって、何かに使えないのかなあ」と見るたびに思う。沖縄に来る同級生に、このホウオウボクと巨大なサヤエンドウのようなシロモノの話をすると、「実が入っているの?」と聞かれた。でも写真で見るように、中には何も実のようなものはない。

2012年2月 8日 (水)

沖縄の花だより、その5

番外編。沖縄の桜の不思議   

 沖縄の桜は、大和の桜と違う不思議がいろいろある。
 その1。なによりソメイヨシノは沖縄にはなくて、カンヒザクラであること。色は白ではなく、ピンクであること。ピンク一色だと、桃の花みたいだ。ただし、同じ木で、ピンクと白が混じって咲いていることがかなりあるのも変である。

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 その2。桜前線は南下する不思議。一度寒さがきて、暖かくなってきて咲くので、沖縄でも一番気温の低い北から咲く。それも山の上から咲きだす。だんだん低い所に降りてくる。北から順次、南でも咲きだす。2011年も、沖縄本島では、1月7日に開花宣言が出たが、もっと南で暖かい石垣島は12日に開花したという具合だ。沖縄では、桜は春ではなく、冬の花なのだ。これが一番の不思議である。それに、梅と桜は開花の時期にあまり差がない。

 その3。花が釣鐘状になっているので、下に向かって咲く。花びらが散るといっても、ソメイヨシノのように、風に花びらがヒラヒラと舞う光景はない。釣鐘状の花全体が、ボトリと落ちるので、あまり風情はない。したがって、大和のように、桜吹雪が舞うとか、水面一面に花びらが浮くなどという光景はない。そこいらに、ボトリ、ボトリと落ちている。

その4。大きな木がない。ソメイヨシノは大木がけっこうある。でも、沖縄戦で焼けた木も多いかもしれない。それにしても、小さな木が多い。八重岳はさすがに古い木が道路の両側に並木になっていて、桜の木のアーチになっている。木の成長が悪いのではない。沖縄は台風がよく来て、風が強いので樹木は上に伸びては折れるから、しっかり根を張り枝を横に伸ばす。桜の木も、ずんぐりしている。大和のソメイヨシノのような大木は、ボキッと折れてもたないだろう。
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その5。桜の美しさを歌った唄がほとんどない。大和では、いまも「桜歌ブーム」かと思うほど作られている。昔から、和歌でもよく詠まれている。でも、島唄には桜を歌った曲はほとんどない。琉歌はあまり知らないが、わずかに舞 踊曲「貫花」の「竹富節」に「川に流れる桜花をすくいとり貫いて花飾り(レイ)を作ろう」という歌がある。でも、カンヒザクラで、貫花は作れないと思う。不可解な歌詞である。大和では、長い冬が終わり、春が来ると桜が満開になる。いかにも春の象徴である。でも沖縄では、冬もいろいろ花があり、桜といっても特別の花ではない。唄がないのはそのためだろう。
 その6。桜の木の下で、お花見をしない。沖縄は、よく野外に出て、飲んだり食べたりする。月見も盛んだ。でもお花見はしない。「花より団子」とばかりに、花の下でブルーシートを敷いて、宴会をして騒ぐ、なんていう東京の光景など、ばか騒ぎに
しか見えない。
 沖縄の桜祭りといえば、花を見て、舞台の芸能発表を楽しむ。まあ、大和でもお花見をしない地方も結構あるらしいので、お花見がどこでもあると思うのが間違いのようだ。

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  その7。メジロが花の蜜を吸いに群がる。これは、ソメイヨシノでもある。でも、東京ではメジロそのものがあまり見かけない。だから花見に行ってもメジロが来る姿は見た記憶がなかった。沖縄は、とにかく桜の季節には、メジロが群がるように集まる。どこからこんなにたくさんやってくるのか、と思うくらいだ。
 その8。花が終わると、サクランボがとてもたくさん実をつけ、真っ赤に色づく。一見して美味しそうに見えるが、種ばかりで食べるところがない。メイヨシノも実をつけるようだが、残念ながら見た記憶がない。
 その9。ソメイヨシノはたいてい、お城が桜の名所であるが、沖縄の城跡は、桜の名所と言えば、今帰仁城跡か名護城跡ぐらい。世界遺産の首里城も勝連城跡も中城城跡も座喜味城跡も、桜はほとんどない。庭園の識名園にもない。
 その10。桜見物のツアーに、たんかん狩り、ひまわり祭がいっしょに組まれること。たんかんとは、ミカンの一種である。ミカンといえば大和では秋だろう。でも沖縄は冬の今がシーズンだ。大和では春、夏、秋の花と果物が、沖縄では、冬に一緒楽しめるというのが、また不思議である。                   

 

おまけ

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 これはメイフラワー。
 公園の管理人に教えてもらった。メイフラワーといえば、イギリスからアメリカへの移住者が乗った船として有名だ。花はこれと無関係で「5月の花」の意味だ。別名「花吹雪(ハナフブキ)」。この名前がピッタリくる。南アフリカ原産だとか。沖縄では3月に咲く。よく見かける。多分暖かいからだろう。
 でも、大和ではメイフラワーといえば、西洋サンザシの変種で「八重紅花」という花のことを指す。まったく別の花だ。造園家の仲程路芳氏によれば、メイフラワーはいくつかの花の通称で、一般的にはバラ科のサンザシやツツジ科のアメリカイワナシを指す。どちらも寒冷地の花なので沖縄では咲かない。写真の花は、シソ科のイボザのことで、和名をフブキバナというそうだ。同じ名前でも花はいろいろあるようだ。
 さて、まだまだ花はある。花の街路樹がいろいろあるので、別編にしたい。
             (終わり 二〇一二年一月八日 文責・沢村昭洋)

沖縄の花だより、その4

喜如嘉のオクラレルカ

 芭蕉布の里でしられる大宜味村喜如嘉(オオギミソンキジョカ)で、4月になると、オクラレルカが見ごろである。山間の水田は、薄紫色の花が一面に広がっている。
 
 オクラレルカは、花菖蒲の一種だ。本来は、葉を生け花用として、本土に出荷しているという。水田なのでもともとはお米を作っていた。でも、いまは休耕田となっている。オクラレルカを栽培して、コメは作っていない。

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 前年も見に来たが、なんか 115_3 前年より葉の丈が長い感じ。花の咲きもよい。年によって、咲き方にも差があるようだ。 店では、5本100円で売られていた。見ていると、おじいがまだ花が開かない蕾の茎を切り取って集めている。どうするのかと思うと、蕾そのものを売るため、束にしてバケツに入れていた。
「蕾はどれくらいで咲くんですか?」と尋ねると「もう今夜から咲くよ」という。随分早く咲くんだ。オクラレルカだけではなく、コスモスも咲いている。
 122 コスモスといえば、秋桜と書いて大和は秋の花と思い込んでいるだろうが、沖縄は春に咲く。花菖蒲もコスモスもつつじもだいたい同じ頃さくのだ。オクラレルカの咲く中に、別の花があった。ポンテデリアというらしい(左上)。売店でも売っていた。 もう一つ、生け花に使う茎のようなものも植えていた。フトイという(右下)。118
 「おや?」と思う看板があった。それは、「ネコをはなすな!」と注意喚起をしている看板だ。沖縄ではネコは「マヤー」と呼ぶ。はじめて見た時は、意味不明の感じがしたが、よく見ると簡単である。つまり、ネコをはなすと野鳥がせっかく飛んできても、
ネコにやられてしまうということだろう。 
野鳥がたくさん水田には来るそうだ。フトイの間にも、鳥がやってきていた。
042 「喜如嘉のターブク(水田)みんなで守ろう」と呼びかけている。喜如嘉小学校の子どもたちが設置したものだ。
 このとてものどかで穏やかな田園風景の集落に、昭和初期、村長の専横に怒りを爆発させた喜如嘉の青年男女が中心となって、山原(ヤンバル)を揺るがす「村政革新運動」があった。
 なぜ静かなこの村で、炎のように激しい運動が燃え上がったのだろうか。
 沖縄では、昭和初期に入ると「ソテツ地獄」といわれた経済不況に見舞われた。当時、大宜味村は、県内の42町村の中でも、税金が戸数割総額で第5位、一戸当たり平均で第2位、納税戸数で第20位という重税で村民は苦しめられていた。そんな時、村当局が公用林を売るという事件が起こり、これが怒りの発端になった。
 1931年(昭和6)、村政革新同盟がつくられ、25歳以下の青年のほとんど全員が参加したという。村当局の無謀な財政政策に反対し、役場費の削減、村長らの給料の削減、不当な夫役や寄付金の廃止から、村長の辞職勧告も要求した。さらに既成の村の組織に代わる住民組織の結成や消費組合の結成、初の農村メーデー実施など急進的な運動に発展した。それだけに、警察の徹底した弾圧を受けた。
 この運動は「昭和初期の社会運動史のうえで特筆されるべき重要な意義をもっていた」。『喜如嘉誌』はこう記している。昭和初期に、この山間の花の集落で、庶民によるたくましい抵抗の歴史があったことに驚かされた。
054_2  花を見て歩いていても、ついつい、その土地の庶民の暮らしと民俗、歴史に関心を持ってしまう。これもよくもわるくも一つの習性なのだろう。喜如嘉には、芭蕉布会館がある。いまでも、芭蕉から線維を取り出し、芭蕉布を織りあげる作業をしている。 

 94歳のウトさんが育てるあじさい園
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梅雨の時期、毎年みごとなあじさいを咲かせる沖縄北部の本部町にある「よへなあじさい園」を2011年5月に訪れた。山肌に20万本といわれるあじさいが、ちょうど満開の時期を迎えていた。毎年、見に来ているが、今年はなにか青の色が例年よりも、鮮やかに感じる。圧倒されるような彩である。

例年より寒い日が続いたので、開花は少し遅れ気味だった。まだ少し早いかな、と心配したが、心配は無用。いまが一番の見ごろだろう。この日は、土曜日とあって、たくさんの人たちが来ている。子ども連れ、それも、お母さんと子どもとおばあちゃんという組み合わせが多い。お父さんの姿は少ない。このあじさい園は、饒平名(ヨヘナ)ウトさんが、一人でコツコツとあじさいを植え、育ててきたものである。
003 ウトさんは、ことし94歳だという。おりしも、すぐ目の前を歩いているのは、ウトおばあちゃんではないか。連れ合いが声をかけたら、やっぱりウトさんである。「お元気そうですね。長生きの秘訣はなんですか?」

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 「そうねえ。畑仕事をずっとやってきたことと、食べ物は好き嫌いなく、なんでも食べることかねえ」と笑いながら答える。笑い顔がとてもチャーミングだ。「いつ94歳になられたんですか?」「大正5年(1916年)生れだから、12月15日が誕生日だよ」という。
 「もうすぐカジマヤーですね」「いやあ、まだまだ」と答えた。
カジマヤーとは数え年で97歳になったお祝いだ。童心にかえる意味で風車(カジマヤー)を持たせることから、この名称になっている。ウトさんは「まだ」というが,年内に12月15日で95歳になるから、もうすぐだ。
 左上は、ウトさんのお家。まだ草取りなどはやるそうだ。いま連日、たくさんの人が花を見に来るので、あじさい園の中にある茶店のあたりにいると、声をかけられるようだ。

010 009
 「あじさいの青はどうして青なの?」。こういう掲示をしてくれていた。それによると、あじさいの花の色は、土壌の性質で決まる。花がブルー(青)は、酸性土壌。花がピンクはアルカリ性土壌だということである。あじさい園を回ると、本土ものあじさいのコーナーもある。沖縄のあじさいと本土ものはどう違うのか、あまりたいした違いはなさそうだ。
 
あじさい園は、実はあじさいだけではなく、他にもたくさんの花が咲き誇っている。名前もよく知らない花が多い。
 「マグニスカ」「コートダジュール」「マナナス」「ビョウヤナギ」「」各種ベゴニア「緋桐(ヒキリ)」「八重クチナシ」などなど。まあ、あじさいだけではない、花園なのである。

夜に咲く幻想的なサガリバナ 023

長い梅雨が明ける6月下旬ころに、咲きだす幻想的な花がサガリバナである。和名はサワフジという。サガリバナの名は、大きな花の木から、つるが長く下がってきて、そのつるにたくさんの蕾がつく。写真のように、その蕾は太陽が沈み、夜になると花開くのである。朝には、花びらが地面にたくさん落ちている。花の命ははかない。でも毎夜、新たな蕾が開き、新たなつるが伸びてくる。わが家近くの漫湖公園には、この花木がたくさん植えられているのでうれしい。


 年に一度、若夏(ワカナチ、初夏)の頃に咲きだし、真夏には終わるのが普通である。でも、年によって、夏の終わり頃また咲くことがある。この花は、東南アジアの熱帯や亜熱帯のマングローブ林の後背地や川沿いの湿地に自生する。日本では奄美諸島から南に咲く花だ。
 2010年には、6月に一度咲いたが、8月になってまた咲きだした。花はピンクと白がある。写真は午前3時ころ撮ったものだ。001

 甘い芳しい香りを放っていた。こんないかにも、南島らしい、幻想的な花を2度見られるのはうれしい。
 2011年には、不思議にもなんと11月に3度目の開花をした。まあ、気候的には、11月に入っても夏日になるくらいだから、不思議ではないかもしれない。
 那覇市の北にある西原町に、国史跡に指定されている内間御殿(ウチマウドゥン)を見に行ったとき、見事なサガリバナの大木に出会った。これまで見たなかでは、最も大きい巨木である。しかも枝葉はきれいな半円形を描いていて見栄えがする。天然記念物にも指定されているようだ。

 071 この巨木のサガリバナが咲いたら、壮観だろう。一度は見てみたいと思う。だが、なにしろ夜中しか咲かないので、遠くまで見に行くのは一苦労。だから、いまだに実現はしていない。



沖縄の花だより、その3

伊江島の20万株のテッポウユリ

伊江島はテッポウユリが有名だ。20万株、100万輪の花が咲く。2009年4月に妻と泊まりがけで一度行った。民謡三線サークルで再び、20114月に訪れた。でも3月に寒かったので開花が遅く、ほとんどが蕾だった。

 
下にのせた満開の写真は、2009年に見に行った時のものである。
 テッポウユリは、南西諸島や九州南部が原産であり、沖縄から奄美諸島にかけては自生している。有名な民謡がある。「永良部(エラブ)百合の花」という曲だ。
「♪永良部百合ぬ花 アメリカに咲かちヤリクヌ うりが黄金花(クガニバナ) 島によ咲かさ アングヮヨーサトゥ ナイッチャシュンガシュンガ」
 沖永良部島は、戦前からテッポウユリを作ってアメリカにもたくさん輸出して、重要な産業になっていた。だから民謡は、沖永良部の百合の花を作って、アメリカに咲かそう。百合は黄金の花、島に大いに咲かせようという歌意である。

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 伊江島では、毎年4月のユリ祭りが、一大イベントになっている。花をはじめ最近では、サトウキビからつくるラム酒など、特産物がいろいろある。
 伊江島といえば、島は悲劇の島でもある。その哀史にもふれないわけにはいかない。
 沖縄戦で、1945年4月、米軍が伊江島に上陸した。住民は島にいた日本軍とともに行動した。女性にも肉弾斬り込みをさせたり、住民の虐殺や集団自決も起きた。「沖縄戦の縮図」といわれる惨状に見舞われた。

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 その上、戦後は米軍が島を占領し、住民は慶良間諸島に強制移住させられた。島に帰ったときには、宝の土地は米軍の基地に奪われた。さらにその後、銃剣とブルドーザーでさらに土地を強奪されるという痛苦の歴史を歩んだ。同時に、住民は米軍にねばり強く抗議し、沖縄本島の人々に苦境を訴えるため「乞食行進」を行なうなど、勇敢に抵抗し続けたことで知られる。

024「千花繚乱」のハイビスカス

2011年に伊江島に行ったさいは、ユリの咲くリリーフィールドを切り上げた後「ハイビスカス園」に行った。ここは、ゴルフ場に併設されている。「世界でも珍しい品種、伊江島オリジナル品種など1000種類」があり、「千花繚乱」とうたわれている。
 ハイビスカスといえば、沖縄ではありふれた赤花だから、もう見慣れていると思っていた。ところが訪れてみて驚いた。なんという種類の多さ。花の彩りと開花の見事さ。ハイビスカスは、こんなにも華麗で美しい花だったのか!認識を新たにした。

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 ハイビスカスとは何か、という説明があった。
 ハイビスカスは、アオイ科の植物である。品種は世界では1万種類近くもあるという。花の色も、赤はもとより黄色、ピンク、オレンジその他、いろんな色の組み合わせがあり、鮮やかな色で多彩である。
 入口に、いろんな花が並ぶ花壇があった。ここは1株1000円で売っているコーナーだった。034

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まずは1輪見てみたい。大輪で、ヒダがたくさんあり、ハイビスカスというより、バラのように見える。華麗である。見事な花であるが、ハイビスカスの花の寿命は短い。通常は、花は1日限りの寿命で、朝開いた花は、夜には花を閉じる。寒い時期や大輪の花は、2日もつものもある。
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 でも、たいていは1日の命だという。そのかわり、次々に蕾ができて花開くのがこ の花である。大輪の花をいくつか紹介したい。
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ハイビスカスの人気投票があった。順位を上から5番まで紹介する。「初恋」「ラスベガス」「ピーチ姫」「ファーストラブ」「人魚姫」その他である。
 これら人気ある花がどれなのか、もうたくさんありすぎて探せない。写真では、アトランダムに花を紹介するしかない。
花にはいろいろなタイプがある。どれが、何という花か分らなくなった。「コーラルタイプ」「オールドタイプ」「ハワイアンタイプ」「伊江島オリジナル」などなど。ハイビスカス展示棟は広いが、別に栽培棟があり、そちらでは新しい品種の交配などを行っているという。

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 伊江島オリジナルのハイビスカスも、18種類が紹介されていた。ハイビスカスといえば、ブッソウゲともいう。これは、沖縄でいわゆるアカバナの名前で親しまれている。ただブッソウゲとは、ハイビスカスの基本種のことをいうそうだ。
 038 ブッソウゲといえば、かつて高知県選出の衆院議員・山原健二郎さんが沖縄に来て、次の短歌を詠んだことがある。「仏桑花 そこには咲くな そこは基地 なが紅は 沖縄のもの」。花に込めて、沖縄の心が詠まれている。
 

これでも、まだまだ紹介しきれない。あまりにも種類が多過ぎて、短い時間では、見きれない。また、ゆっくりと見に来たい。
 ハイビスカス園には可愛い猫がいて、見物に人が訪れても、われ関せずで、一人?でジャレて遊んでいた。おまけ。

沖縄の花だより、その2

 真冬に咲くひまわり

    北中城村でひまわりが2月初めに満開になったので、見てきた。2011年である。
毎年、見に行っている。つい数日前まで、沖縄も例年以上に寒かったので、少し開花が遅れ気味だった。でも20度を超す陽気が続き、ひまわりは見ごろだ。「ひまわりIN北中城」という実行委員会が、まつりを開いている。
 毎年、ひまわりは少しずつ増えている。前年の30万本から40万本に増えたという。前年より、少し背丈が低い感じだ。008_2

 大輪の花には、ミツバチが来ていた。見えにくいかもしれない、
那覇市内は、カンヒサクラが満開だ。コスモスが咲いている所もある。ひまわりも桜もコスモスも、同じ時期に咲くのが沖縄である。
 まあ、沖縄の冬の気温は、大和でいえば、晩秋か春くらいなので、秋の花、春の花がいっしょに咲いても珍しくない。

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 ひまわりも夏の花といわれるけれど、県内各地で、いろんな時期に咲く。沖縄のひまわりは、いったいいつがベストシーズンなのだろう。よくわからない。

 今回は、初めてひまわり畑で結婚式を挙げた人がいる。畑の中に式のスペースやバージンロードをつくり挙式した。その様子はテレビの報道でも見た。でも、ひまわり畑の中に、そのためのスペースをつくるのは、花を観賞する立場からすれば、あまりいただけない。023
 ひまわりも花の束を売っている。畑を歩いていると、かわいい犬に出合った。なんと、お父さんの懐から、犬が顔だけのぞかせている。あまりに可愛いので、1枚写真を撮らせてもらった。ちゃんと、顔を出してくれた。

東村のつつじ祭り

沖縄の春をつげるというキャッチフレーズで、第29回東村つつじ祭りが、3月4日から「村民の森つつじ園」で開かれた。2011年は寒いし天候不順で開花が遅れているので、例年より遅く18日に見に行った。
まだ早かった!3分咲きくらいだろう。日陰ではまったく咲いていない。本来なら、約5万本のつつじで「丘の上は満開前線」のはずだ。写真は2010年のものだ。001

 満開はもう少し先になる。といっても咲いているところは、さすがに美しい。白、 赤、ピンクと色とりどりで、つつじの甘い香りが漂っている。満開の写真は前年のものである。
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 花にはミツバチが飛んできて盛んに蜜を吸っている。
 東村といえば、世界で活躍する女子ゴルファーの宮里藍ちゃんの故郷。藍ちゃんが優勝するたびに、村長以下、村の人たちが集まり祝賀会を開いている。このつつじ祭りに合わせて、宮里藍写真展も別会場で開いていた。
でも、今回は見なかった。
 039 つつじ園は、小高い丘の上にあり、丘から眺める景色は、絶景だ。平良湾の海の色がとっても美しい。花は寂しかったが、天候も良くて眺めは最高。026
  それと、今の季節、山原(ヤンバル)は燃え立つような新緑が鮮やかである。新緑と言っても、緑だけではない。薄茶色の新しい葉もたくさんある。新緑は、太陽に光を浴びて、キラキラと輝いている。つつじ祭りの会場では、地元の農産物やつつじなど花を売る店が並んでいる。
新ジャガイモが美味しそうなので買った。面白い大根が並んでいた。

東村のこの会場をもう少し奥というか北に進むと高江という地域になる。このヤンバルの森には、広大な国有林が在沖米国海兵隊の北部訓練場(約七五〇〇㌶)となっている。ベトナム戦争の際は、このジャングルの中で海兵隊が訓練を重ねて、ベトナムの戦場に送りこまれた。010

いま、米軍の演習場の一部返還と合わせて、防衛省はこの東村高江に米軍のヘリコプターの離着陸用の軍用施設(ヘリパッド)の建設を進めようとしている。住民たちが予定地の前に座り込んでねばり強く抵抗を続けている。
 このように、山原の大自然や美しい花を見ていても、沖縄戦の傷跡や米軍基地にぶつかるのが沖縄の現実である。

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2012年2月 7日 (火)

沖縄の花だより、その1

 沖縄に住むと大和とは違った花が四季折々に咲き乱れる。南の島は、花が絶えない。東南アジアや南米原産の花もとても多い。たいてい原色に近い色ばかりで鮮やかである。そんな沖縄の花々を、このブログでも、折りにふれて紹介していた。今回、まとめて少し、文章も手直ししたり、補足した。まとまって紹介しておきたい。008          写真は、那覇市の与儀公園

沖縄の花だより―季節を彩る花々― 

 沖縄に遊びで来ていた頃は、沖縄の花といえば、ハイビスカスかデイゴくらいしか知らなかった。大和のように四季折々に多彩な花が咲くのとは違って、年中ハイビスカスが咲くだけでつまらないかな、と思っていた。でも移住してみると、まったく予想とは大違いだ。大和の花とは異なるが、四季折々に花が咲き乱れる。南の島は冬でも花は絶えない。Photo
 
亜熱帯に属する沖縄は、大和と共通の花もある。だが、もっと南の東南アジアや南米原産の花が多いのが特徴だろう。これらの花は、たいてい原色に近い鮮やかな色である。おまけに花の咲いている期間がとっても長い。
 沖縄で面食らうのは、花の咲く季節が、大和の常識とはまるでかけ離れていることだ。桜、といってもカンヒザクラであるが、サクラとひまわりとコスモスが同じ時期に咲く。その光景を初めて見た時は、驚いたことはいうまでもない。

沖縄は「チャンプルー文化」といわれ、音楽や食事を含め、世界のいろんな国の民俗、文化がまぜこぜになっている。花も季節を度外視したかのように咲き誇る。ただこれは、季節を無視しているのではない。気候的に適合するから咲いているのだと思う。
 最初から、理屈っぽい話になりだしたので、もうやめようね。これまで、おもにブログで書いてきたものをまとめてみた。ただ、それだけでは足りないので、写真と文を少し補強した。まずは、季節を追って紹介したい。

 カンヒサクラは1月に咲く冬の花
 

 沖縄の桜と言えば、ピンク色のカンヒザクラである。大和のソメイヨシノと違った趣きがある。沖縄の桜の不思議については後で書く。まずは、桜の名所といえば、本島の北部・山原(ヤンバル)に多い。
 本部(モトブ)町の八重岳(ヤエダケ)は、麓から山頂に登る道路の両脇に、古いカンヒザクラの木が並ぶ。まるでサクラのトンネルとなる。2012年は21日から八重岳で「日本一早い桜まつり」が開かれ、見てきた。まだ2、3分咲きだった。

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032  昨年は、寒いのに、両肩がモロに出たドレス姿の新婚カップルが結婚写真を撮影中だった。ツレが聞いたところ、なんと香港からこの沖縄に結婚式のた めに来ていた。この八重岳の桜の下で結婚写真を撮ることを目的にしていたというので驚いた。台湾あたりでも、とても豪華な結婚アルバムを作るのが流行らしい。香港でも同様なのかもしれない。

 

 

今帰仁(ナキジン)城跡も桜の名所である。険しい山の上に築かれ、長い石積みの城壁が見事である。14世紀に琉球が3つの国に分れて争ってい時代に、北山国の主城だった。054

石積みの立派なアーチ門をくぐると本殿に向かう、石段、石畳道が伸びている。
その両側が桜並木である。桜の木の数は少ないが、とっても風情がある。なぜか城に桜は似合う。今帰仁城跡の桜は、すぐ近くの今泊集落の人たちが戦後、植えて育てたという。写真は、2010年に行った時のものだ。
 057
北部の桜の名所の一つ、名護市の名護城(ナングスク)の桜は、2011年に見に行った。少し盛りを過ぎかけたくらいだ。でも人出が多い。ここは、長い石段の両脇が桜並木になっている。樹齢も古く、大きな桜だ。2万本あるといわれる。055
 ここは、14世紀に、名護按司(領主)が山上に城を構えた。約200年後に、按司は首里に移った。住民は、この城址に氏神を祀った。昭和3年(1928)に、神殿と拝殿を改築した記念に、城青年団が参道沿いに桜を植えたそうだ。名護城跡といっても、ここは沖縄の城跡にはつきものの石垣がない。長い参道には、石の灯篭も並ぶ。いかにも神社の参道である。063桜並木はとても見事だ。木が大きく、枝ぶりもよいので見ごたえがある。色も鮮やかである。
 北部は桜の名所が多い。八重岳は、桜は多いが、道路の両側に植えられていて、車で通りながらみるので、あまりゆっくり散策することにはならない。今帰仁城跡は、惜しむらくは桜の本数が少ない。057_2
 戦後植えたので、木も小さい。城跡と桜の取り合わせがいいが、桜そのものは見ごたえがない。その点は、名護城の桜は、見事である。難点は、石段の長さだろう。かなり登ると、道路に出る。鳥居がある。とりあえず、今回はここまでとした。上からの桜の眺めがもっとも美しい。なぜか、この日はアメリカーがとっても多かった。家族連れだ。辺野古(ヘノコ)の米軍キャンプ・シュワブや金武(キン)町のキャンプ・ハンセンからは近い。休日で桜見物に来たのだろう。その数は半端でない。米兵といえば飲酒による事件、事故がやたら多い。家族で桜を見るのはいいが、物騒な事件は根絶してほしい。


 

2012年2月 5日 (日)

サクラにはメジロが似合う

 那覇市の与儀公園のカンヒザクラが4分咲きくらいになっている。といっても、日陰の花はもう散り始め、若葉が出ている木もある。

015  写真で見るとけっこう咲いているようだが、まだ咲いていない木も多い。カンヒザクラは、ソメイヨシノのように、いっせいに開花しない。バラバラに咲くので、満開の木もあれば、まだ咲かない木もある。いつをもって満開というのかもややこしい。あと一週間くらいだろう。

008  サクラにはメジロがつきもの。いつもたくさん寄ってきて、花の蜜を吸っている。でも今年は、なぜかまだあまり見かけなかった。メジロがいないと寂しい。だが与儀公園には何羽か来ていた。ツレがその姿を撮った。

019  枝に止まって、どの花びらの蜜を吸うかなあ、と考え中だろうか。どれでもいいだろう。

021  あちらの木の花が美味しそうだから、向うに移ろう、と思ったのかどうかは分からない。が飛び渡る瞬間を上手くとらえた。ホバリングするメジロ。撮りたくてもなかなか撮れない珍しい映像ではないだろうか。

022  飛び移ってきたよ。この木の枝でたっぷり蜜を吸おう。きっとそう思っているに違いない。

024

 吸い終わるともう次の木を狙っている。

025
 サクラに来るのはメジロだけではない。その4倍くらい大きい鳥もやってきた。

028 035  日曜日なので、若い親子連れもサクラを見に来ていた。子どもとお母さんを写真に撮っていた。でもカメラではない。小さなパソコンみたい。アイパッドだろう。撮りにくそうだ。

036  おまけ。与儀公園には、憲法9条を刻んだ「恒久平和」の碑がある。昭和60年(1985)に那覇市の親泊康晴市長が建立したものだという。さすが県都の革新市政である。

037  この憲法9条の碑を読むと、地獄のような沖縄戦を体験した県民、市民には、「恒久平和」への特別の思いが込められているように感じられた。

2012年2月 4日 (土)

玉城の番所公園に立ち寄る

 沖縄本島の南部を回り、尚泰久王の墓を見た際、近くにある番所跡に立ち寄った。ここは、南城市役所に隣接して番所公園がある。入り口には、シーサーが鎮座している。016 番所とは、いまでいえば役場のことである。南城市は、玉城村、知念村、大里村、佐敷町が合併して誕生した市。旧玉城村富里に市役所がある。かつて琉球王府の時代は、玉城間切(今の町村)だったのだろう。

015  この近くに玉城(タカグスク)城跡がある。番所はかつては、この玉城城二の丸にあったけれども、尚敬王時代の初期に現在地に移転したとのことである。石碑にそう書いてある。
 尚敬王とは、第二尚氏王朝の第13代国王で、1713年から1752年まだ在位した。辣腕をふるった政治家として知られる蔡温(サイオン)を首里王府の行政トップである三司官に据えて、多くの改革を行った。教育や文化にも力を入れて「近世の名君」と呼ばれているそうだ。

019  井泉があった。番所ヌカーと呼ばれている。この水は以前簡易水道に使用されていた湧水を利用しているそうだ。

018  番所跡をあちこちで見たが、どこでもあまり整備されていなくて、「番所跡」という看板があるだけ、というところも多い。でも玉城は、番所公園として整備しているのは立派だ。惜しむらくは、もう少し、この番所の由来や役割など説明する看板でもあればよかったな、と思う。

2012年2月 3日 (金)

仲村渠樋川を再訪する

 南城市の代表的な井泉である仲村渠樋川(ナカンダカリヒージャー)を久しぶりに訪ねた。国指定重要文化財になっている。

040  この集落の共同用水施設である。古くは「うふがー」と呼ばれた。大きい井泉という意味である。大正元年(1912)にそれまで木製の樋だったのを、琉球石灰岩などを用いて造り替えたという。井泉でヒージャー(樋川)と名のつくものは、通常、水源が奥にあり、それを樋を用いて導水しているところを指す。
 036 このあたりの地形は、上に広がる高地から、海岸に向かって急坂で降りてくる途中にあたる。だから高地で降った雨が湧き出るのだろう。今年は雨が多いのに、なぜか樋川は水が枯れてほとんど出ていない。
 三か所の水の出口のある場所は「いきががー」と呼ばれる男性用の水場だ。男性を「いきが」という。その右に「いなぐがー」がある。女性用の水場である。女性は「いなぐ」と呼ぶ。
 037  こちらは少し狭い。でも、石積みで仕切られている。多分、昔は水浴びなどもするため、見えないように仕切ったのではないだろうか。「沖縄の湧水を歩く」でも紹介した。宜野湾市の森の川や喜友名泉にも、円形や三角形で仕切られた場所があった。それと同じではないかと思う。 039  珍しいものがあった。五右衛門風呂である。他の井泉ではあまり見たことがない。これは歴史がそれほど古いとは思われない。ただ、説明によると、共同風呂は、発掘調査により発見された出土品などをもとに復元されたそうである。
 拝所もある。樋川が立派だからか、拝所も立派だ。住民にとって水は命のもとであり、どこでも祈願の対象である。

035  仲村渠樋川は、男女の水場と広場、拝所、共同風呂、カービラ(石畳)によって構成されている。敷地北側からの湧水を貯水槽に貯え、水場へ流して使用されていた。041  石畳道も見事だ。もう石畳の坂道が芸術品のようである。
 このヒージャーは、昭和30年代に簡易水道ができるまでは、飲用、洗濯、野菜洗い、水浴びなどの生活用水として利用された。いまは、農業用水に利用している。
 043  石段を降りて、一段低くなっている場所が、イモ洗いのところだという。イモは土がついているので、この低い場所になったのだろう。ここからはもう排水溝につながっている。
 排水溝の前、右側に置かれた穴のあいた石板は、排水溝の手前の出張った門のようなところに、石板を差し込んで、水をせき止めて貯めるためである。044  沖縄戦では、このヒージャーも共同風呂周辺が破壊され、昭和39年(1964)に仮の改修がされ、平成16年(2004)に復元工事で、大正2年(1913)当時の樋川の状態に復元されたとのことである。これらは、説明板によった。033  このヒージャーもまだ高い場所にあるので、眺めが抜群によい。ここから、少し東に回ると、もう一つの有名な井泉である垣花樋川(カキノハナヒージャー)に行けるが、今回は時間がないし、前に見ているので止めた。

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2012年2月 2日 (木)

知念城跡を再訪する

 南城市にある知念城跡を訪ねた。5年あまり前に訪ねたことがあったが、すっかり忘れていた。城壁を見ると思い出した。

070  今回は、城跡の西側というか裏側にある知念大川(チネンウッカー)の方から、坂道を歩いて登った。

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 知念大川は、琉球開闢の祖とされるアマミキヨがこの井泉の後ろの田と玉城の受水走水(ウキンジュハインジュ)に稲を播いたといわれ、稲作の発祥の地として琉球国王も参拝した聖地だとのことである。

 知念城(チネングスク)は、沖縄各地で按司(アジ)と呼ばれる首長たちが、武力で抗争を繰り広げていたグスク時代の前半期に築かれたという。

058  城跡の東南部は、クーグスク(古城)と呼ばれ、高さ1-2㍍の野面積(ノヅラヅミ)の古い石積みの石垣に囲まれ、内部はもう森になっているとか。実際にどの部分から古城なのか、よくわからない。

 西方に高さ3㍍の切石積(石がきれいに加工されている)の城壁をめぐらせた新城がある。写真で撮ったのはほとんど、新城の部分だと思う。城壁は、東に正門、北に裏門とアーチ型の城門がある。

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 アーチ門は、崩れ落ちないように木材を組んでしっかり支えている。

062  これは、城壁の内側から見たものだ。新城は、時代が2,3世紀下って、琉球が第二尚氏の時代になり、琉球の黄金期をつくりだした尚真王の異母兄弟にあたる内間大親が築いたと伝えられるが、真偽のほどは不明とのことである。それにしても、美しい曲線をえがいた見事な石垣である。072_2 不思議なのは、尚真王の時代といえば、各地に武装して割拠していた按司を首里に集めて、武装を解除して、中央集権制を強め、国内も平穏で安定した時代である。なぜ、こんな立派な城壁を新たに築く必要があったのだろうか。これだけの城跡を築くには、相当の資金と労力を要するにちがいない。

069  県教育委員会の設置した案内板には、知念城跡について次のように説明していた。
「古くは代々の知念按司の居所であったと思われるが、それがたんなる城郭ではなく『アマミキヨ』の伝説と尚真王の権威とが結びついた宗教的城という意味で重要です」。

 061  城内で珍しい物を見つけた。「焚字炉」(フンジロー)である。これは、昔は文字の書かれた紙はとっても大切に扱われた。だから、そんな大事な紙を焼くための炉があった。それが「焚字炉」である。やはり中国文化の影響だろう。明治時代には県内にまだ残っていたらしい。いまではもう見ることはない。

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 知念按司の墓の標識があったので、行ってみようとしたが、すごい藪の坂道のようなところを進まなければいけないのであきらめた。多分、右写真の岩山の下の方にあるのではないだろうか。

 ところで、沖縄のグスク(城)はどれくらいあるのか。『南城市史総合版』に次のような記述があった。1983年実地のグスク分布調査によると、沖縄本島とその周辺離島で223か所ある。そのうち北部は45か所、中部は65か所、南部は113か所と全体の半分はこの南部にある。南部のなかでも、糸満市43か所、南城市27か所と糸満市に次いで南城市が多い。これは何を意味するのだろうか。南部はそれだけ、按司たちの抗争が激しかったことの名残りなのだろうか。まだまだ、南山国の実相については、よくわからないことが多いようだ。

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