戦世と平和の島唄、その4
懐かしき生まり島
働き口が少なく、貧しい沖縄からは、本土にも多数の人たちが働きに出て行っていた。若い女性たちは、紡績工場に女工として出掛けて、故郷の親たちの生活を助けていた。戦前の紡績女工といえば、「女工哀史」で知られる低賃金と劣悪な労働条件におかれ、富国強兵の日本を支えていた。沖縄の紡績女工の悲哀を歌った島唄はいくつもある。
「紡績数え歌」は、女工の労働のきつさや親や友達とも離れた寂しさなど歌われている。歌詞はヤマトグチに訳した。
「♪一ツ人々、みなさん聞いてください 募集人の言葉にだまされて 大和の紡績工場に来てしまった 来てしまった」
「♪二ツ双親 聞いてください 朝は三時に起こされて 朝から晩まで立ち仕事 立ち仕事」
「♪三ツ見たい会いたいが あんなに遠く離れた沖縄では自由にならない 手紙を通して 様子をうかがう 様子をうかがう」
「♪八ツ屋敷の中に 工場は建っているが 屋敷の中にかくまれて 自由にならない 自由にならない」
沖縄の「歌姫」と呼ばれる我如古(ガネコ)より子が歌いヒットした「女工節」も、やはり、親もと離れた淋しさや仕事の辛さが歌われる。
「♪親元ゆはなり 大和旅行(タビィ)ちゅし 淋しさやあてん 勤(チト)みでむねよ」=親元を離れて 大和で働くため旅立って行きます 淋しくはないよ しっかり勤めてくるからね。
「♪大和かい来りば 友一人(ドシチュイ)ん居らん 桜木にかかて 我(ワ)んや泣(ナ)ちゅさよ」=大和に来れば もう友達は誰一人いない 桜の木に寄りかかって 私はただ涙を流している。
「♪紡績やアンマ 楽んでる来(チ)ゃしが 楽や又あらん 哀りどーアンマ」=お母さん 紡績は楽でお金が儲かると聞いてきたが ぜんぜん楽なんかじゃない 哀れなものだよ お母さん。
どれほどのたくさんのウチナーンチュ(沖縄人)が、仕事を求めて出て本土に渡ったことか。就職先では沖縄人たちは、いわれなき差別を受けたという。いまでも大阪の大正区は沖縄系の人たちが多いことで有名だ。横浜市鶴見区にも沖縄ストリートがある。
本土にいた人たちは、沖縄に米軍が進攻し、激しい地上戦になったことで、故郷がどうなったのか、気掛かりでならなかった。戦後、焦土と化した沖縄のことを風の便りに聞き、心配しながら故郷をしのぶ唄に「懐しき故郷」がある。
「♪夢に見る沖縄(ウチナー) 元姿(モトシガタ)やしが 音(ウト)に聞(チ)く沖縄 変て無(ネ)らん 行(イ)ちぶさや 生(ウンマ)り島」=夢に見る故郷・沖縄は元の姿のままだが 便りに聞こえてくる沖縄は 戦争ですっかり変わってしまったという 行ってみたいな わが生まれた島よ。
「♪平和なて居(ヲ)むぬ 元ぬ如(グト)自由に 沖縄行く船に 乗(ヌ)してたぼり 行ちぶさや 生り島」=平和になったから 元のように自由に 沖縄に行く船に 乗せて下さい 行ってみたいな わが生まれた島よ。
「♪何時(イチ)が自由なやい 親兄弟(ウヤチョウデー)ん揃(スル)て うち笑いうち笑い 暮すくとや 行ちぶさや 古里に」=いつか自由になったら 親兄弟みんな揃って 大いに笑って暮らそうではないか 行ってみたいな わが生まれた島よ。
作詞、作曲したのは、先に紹介した普久原朝喜だ。戦前に沖縄を離れて大阪で暮らしていた。故郷が激しい地上戦に見舞われ、親戚や友人・知人がどれだけ犠牲になり、生まれた地域がどのようになったのか、心配でたまらない。といってもどうすることもできない。でもいつか、自由に「懐かしい故郷」に行って、親兄弟も揃って暮らせる日が来るだろう、という心境が歌われている。望郷の念が込められている。
普久原氏は、関西沖縄県人会の集会に合わせてこの曲を作り歌った。「集まった県人は、ただ涙、また涙で肩をだきあって泣いたという」(上原著、『島うたの周辺 ふるさとばんざい』)。
戦争が終わった、おおいに踊ろう
地獄のような戦争がようやく終わったことは、なににもまして嬉しいことだった。その喜びの感情をストレートに表現した唄がある。
「となり組へいへい」と言う曲は、戦時中の「隣組」のイメージがあるが中身は違う。
「♪戦世んしまち みるく世(ユ)に向(ン)かてぃ サア 我した沖縄島 むてい栄い サア となり組 へいへい」=戦争が終わって これから平和で豊かな世の中に向かっていく サア われら沖縄島 大いに栄えていくだろう サアとなり組 へいへい。
「♪隣(トゥナ)いぬ ハンシーたい でぃちゃよ 打ち揃(スル)てぃ サア 話出来(ディキ)らさな けえ 隣いびれい」=お隣のおばあさん さあ行こう みんなそろって 大いに話し合いしよう ちょっとお隣の付き合いだから サアとなり組 へいへい。
戦争中では、国民の草の根から戦争に動員する末端組織だった隣組が、戦争が終われば一変したのだろう。沖縄は地域の共同体的な結びつきが特に強いところだ。お隣さん同士、みんなで楽しく、仲良く、暮らしていこうという気分にあふれている。
もう一つ「パチクヮイ節」という唄がある。これは、「うまくいったー、ヤッター」と喜びの心境を表す言葉だという。
「♪今日(キユ)ぬ吉る日(ユカルヒ)に 御万人(ウマンチュ)ん揃(スル)てぃ 祝(ユエ)ぬ寿(クトゥブチ)に 踊(ウドゥ)いみしょり サーサ パチクヮイヤサ」=今日のこのよき日に 世間のみんながそろって お祝いに 大いに踊ろう さーさ うまくいった、ヤッター。
「♪平和なる御世に 命ん伸び伸びとぅ 栄てぃ行く文化 眺む嬉(ウリ)さ」=平和な世の中になって 命は大いに伸びて 栄えて行く文化を 眺めることができる嬉しさよ。
「兄弟小節」にも平和の思いが
この唄を創作した陰にも、戦世と平和がかかわっている。前川さんが戦後、雨がしとしと降る日、那覇市のメインストリートである国際通りを歩いていた。そこでばったりと戦友に会った。その時、前川さんの口から出た言葉がある。「汝(イヤ)ーん 生ちょーてーさやー 元気やてぃまた、行逢ちょーる節(シチ)んあてーさやー」。やあ、あなたも生きていたか、お互いに生き抜いて元気だから、またこうして出会える時節もあったよ、というような意味だ。
「兄弟小節」の三番に、ほとんど同じ言葉が歌われている。
「♪嵐世(ユ)ぬ中ん 漕(コ)ぢ渡(ワ)て互(タゲ)に 又行逢(イチャ)るくとん あてる嬉しゃ 行逢りば兄弟 何隔てぬあが 語れ遊ば」=嵐のような戦争の世も こぎ渡ってお互いに会えることができた うれしいことよ。一度会えば兄弟 何の隔てがあろうか 語り合い遊ぼう。
「♪たまに友(ドシ)行逢て いちゃし別りゆが 夜(ユ)ぬ明きて太陽(ティダ)ぬ 上がるまでん (同じハヤシ)」=たまに友人と会って どのようにして別れようか 夜が明けて太陽が上がるまで 遊ぼう。
この歌の作られたエピソードを知って、前川氏の出身地である与那原(ヨナバル)町では、平和の思いを世界に発信するため、この唄の歌碑を二〇〇五年に建立した。このように、目に見えるように戦争と平和の言葉を使っていなくても、平和への願いが込められた唄は、実にたくさんある。
「艦砲の喰い残し」とは
平和の島唄の白眉とでも言うべき唄がある。「艦砲(カンポウ)ぬ喰(ク)ぇーぬ くさー」という曲だ。その意味は「艦砲射撃の喰い残し」、つまり戦争で砲弾の嵐の中を生き残った者ということだ。全文、原文で紹介し、訳文をのせたいところだが、何分長くなるので、訳文で紹介し、最後の五番だけ、原文と合わせて紹介したい。
「♪若い時は戦争の世の中だった 若い花は咲くことができなかった 家の先祖、親兄弟も艦砲射撃の的になり 着るものも食うものもなにもない ソテツを食って暮らした あなたも私も お前も俺も 艦砲の食い残し」
「♪神も仏も頼れない 畑は米軍基地として金網に囲まれ 金にならない 家は風で吹き飛ばされ 米軍の物資をかっぱらう『戦果』担いで しょっ引かれ ひっくり返し返され もてあそばれて 心は誠実だったのにねえ」
「♪泥の中から立ち上がって 家庭を求めて妻をめとり 子どもが生まれ 毎年生まれ 次男、三男カタツムリみたい 苦労の中でも子どもらの 笑い声を聞き 心を取り戻す」
「♪平和になってから幾年たつか 子どもたちも大きくなっているが 射られたイノシシがわが子を思うように 戦争がまた来るのではと思って 夜中も眠れなくなる」
五番は原文から。「♪我親(ワウヤ)喰ゎたる あぬ戦争(イクサ) 我島(ワシマ)喰ゎたる あの艦砲 あの艦砲 生(ウンマ)りて変てん 忘らりゆみ 誰(タア)があぬ様 しいいんじゃちゃら 恨でん悔でん あきじゃらん 子孫末代(シスンマチデェ) 遺言(イグン)さな」=わが親を奪ったあの戦争 わが島を破壊したあの艦砲射撃 たとえ生まれ変わっても忘られようか 誰があのような戦争を強いたのか ああ恨んでも悔やんでも あきらめきれない このことは子孫末代まで 遺言してしっかり伝えなければいけない。
すごい歌詞である。一九七一年に比嘉恒敏さんという方が作った。この当時は、アメリカによるベトナムへの侵略の戦争が激しかった時代である。沖縄が出撃の拠点とされた。県民にとっても、沖縄戦の悪夢をよみがえらせるような時代だったのだろうか。歌詞を読んでいると、そんな思いがしてくる。
この唄は、この当時とてもヒットしたという。県民の感情とピッタリくるものがあったのだろう。いまでも歌われている。それこそ「子孫末代まで遺言して伝えるべき唄」と言えるだろう。
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