戦世と平和の島唄、その1
「戦世と平和の沖縄島唄」をブログにあっぷしてあるが、ダウンロードしないと全文が読めいない形式になっていた。それで、改めて全文がそのまま読める形式にして、再度アップすることにした。
戦世(イクサユ)と平和の沖縄島唄
目次
はじめに
軍歌にも哀しみが滲む
現在でも歌われる「戦世の唄」
戦争協力の唄も作られた
戦闘部隊がいなかった沖縄
秘められた非戦の願い
ひめゆりの悲劇
戦世を恨む母
激戦の地が主題に
撃沈された輸送船の哀れ
親兄弟、妻子と別れ別れに
郷土は戦さ場になった
PW(戦争捕虜)無情
南洋に渡った移民は
ハワイ移民の苦渋
懐かしき生まり島
戦争が終わった、おおいに踊ろう
「兄弟小節」にも平和の思いが
「艦砲の食い残し」とは
「命どぅ宝」
アメリカ浮世の中で
「平和な島」の願いこめ
「時代の流れ」
これぞウチナーンチュ魂
「戦争はじめたのは誰か」
ポップス系の島唄でも
民を見捨てた戦さの果てに
時代を映し出す島唄
「戦場の哀り(イクサバノアワリ) 何時が忘りゆら(イチガワシリユラ) 忘りがたなさや 花ぬ二見よ」と歌われる。(戦争の哀れはいつか忘れられるだろうか 忘れがたいのは 花の二見の美しさだよ)
はじめに
県民の四人に一人が犠牲になるという悲惨な沖縄戦を体験した沖縄では、戦争と平和をテーマとした民謡がたくさん作られている。ポップス的な感覚の歌を含めると、さらに多くの平和を願う島唄が作られ、歌われてきた。ここで島唄と呼ぶのは、沖縄の民衆の間で作られ、歌われている唄という意味で使う。
沖縄戦の体験と言うだけでなく、島を占領した米軍が、沖縄を「極東のキーストーン」(要石)と位置付け、巨大な軍事基地を建設したため、日本で戦争が終わっても、沖縄では戦後六四年がたっても、毎日、戦闘機が飛び交い、軍事訓練が行われている。実弾演習の流れ弾が、民家にまで飛んでくるという物騒さだ。
米軍基地がある故に、県民がさまざまな被害を受けている点でも、また米軍が郷土から海外での戦争に直接出撃しているという点でも、戦争は遠い過去のものではない。
そのため、二度と戦争を繰り返してはならないという平和の願いは、党派を超えて全県民の共通の認識になっている。だから、「こんな歌手が」「こんな曲が」と思えるような、数々の島唄で、命と平和の尊さが歌われている。恐らく、それは沖縄に住んでみなければ、およそ実感できないほどである。実際、私自身が、そうだった。沖縄に移住して三年半がたち、改めてそのすごさを思い知らされた。
沖縄では、戦争の時代を「戦世(イクサユ)」と呼ぶ。一度どうしても、「戦世と平和の島唄」について、書いておきたいと思った。
ただし、沖縄民謡の工工四(クンクンシー)と呼ばれる楽譜が出版されているのは、まだすべてではない。CDに録音しているのもまだ一部だ。その上、とてもそれらのすべてを目にする、耳にすることはできない。だから、ここでは、もっとも網羅した曲数が多いと思われる滝原康盛編著『沖縄民謡工工四』全一二巻と同『沖縄民謡大全集』、それに備瀬善勝、松田一利編著による『歌詞集 沖縄のうた』を中心に、その他の目にすることができた島唄を加えて、紹介をしてみたい。
といっても、民謡はほとんどがウチナーグチ(沖縄語)で書かれている。だから歌詞はとても難しい。方言というより「琉球語」と言われるくらいだから半端じゃない。でも、原文を見ることで味わいがあるし、沖縄の島唄の雰囲気が味わえる。だからできるだけ、原文を載せて、筆者のわかる範囲でヤマトグチ(共通語)に訳してみた。
ただし、訳は正確とは言い難い。間違いもある。私流の独断的な訳もある。ただ、歌詞に込められた思いがなんとか伝わればいい、という思いである。本来は、歌詞全部を紹介したいところだが、あまりにも膨大になるので、さわり部分にとどめざるを得ない。それと、一部にもう歌詞の原文は省略して、ヤマトグチの訳だけにしたのもあるのでご了承願いたい。
「軍歌」にも哀しみが滲む
沖縄民謡にも、戦前や戦争中に作られたいわば「民謡軍歌」とでもいうべき唄がある。私が通っている民謡三線サークルで演奏する楽譜集にも一曲入っている。「軍人節」という。サークルのおばあは、戦争中の唄を「戦世の唄」と呼んでいた。つまり「いくさの時代の唄」という意味である。
「軍人節」は男女の掛け合いで歌う。沖縄民謡は掛け合いの唄がとても多い。
「♪男、無蔵(ンゾ)とぅ縁結(インムシ)でぃ 月読(チチユ)みば僅(ワジ)か 別りらねなゆみ 国ぬ為でむね 思切(ウミチ)りよ思無蔵(ウミンゾ)よ」=彼女と結ばれて 月日はまだわずかなのに 別れなければならない国のために あきらめてくれ 愛しい彼女よ。
以下はヤマトグチの訳文だけで紹介する。
「♪女、あなたは軍人 なんで泣きますか 笑って戻ってくださるようお願いしましょう 国のために 働いてください」
「♪男、軍人の勤めは うれしいが 銭金のことで苦労する 母親はどうするのか」
「♪女、たとえ困難に陥っても 心配しないで母のことは 忘れて下さい あなた」
「♪男女、涙よりほかに 言うことはない さようなら 明日の日に別れと思えば、この二人どうなるのか 私たち二人はこれからどうなっていくのだろうか」
ここでは、夫は軍人になった以上、「国のためだからあきらめてくれ」と言い、妻は「国のため働いて下さい」と送らざるをえない。妻と母は出征する夫のことが心配であり、夫は残していく妻と母親がどんなに苦労するのか気掛かりでならない。本土の軍歌のように「♪勝ってくるぞと勇ましく」というような、勇ましさはどこにもない。家族が引き裂かれ、愛する人を送らざるをえない。「涙よりほかに言うことはない」という、別れの辛さ、不安と悲哀にみちている。
これは、昭和を代表する沖縄民謡の作り手であり、唄者である普久原朝喜(フクハラチョウキ)の作詞作曲である。でも決して、戦意高揚の唄ではないところが、やっぱり沖縄民謡である。一種の厭戦歌ではないか、と見る人もいる。
実は、この「軍人節」を創作した普久原氏が検閲を受けたとき、「担当係官は『琉球の民謡フゼイに大日本帝国軍人の尊称を節名とするとは何ごとか!』と、内容を知ろうともせず一蹴してしまった」そうだ。琉球放送ラジオディレクターをしていて、民謡の作詞家でもある上原直彦氏が『島うたの周辺 ふるさとばんざい』で紹介している話だ。
しかし、普久原氏は歌うことをやめなかった。「軍人」という言葉がタイトルとして認められないのなら、どうせ中味は、相手に判らない。日本帝国軍人係官が好みそうな節名をつけてやろうと考え、問題の「軍人節」を「出征兵士を送る歌」と改題、連作の「熊本節」を合わせて「入営出船の港」として申請したところ、「よしよし、オキナワもんもようやくニッポン人になったか、御国のために尽力するように」と激励さえ受けて許可されたという。上原氏の紹介するエピソードである。
「軍人節」を改題して、「熊本節」と合わせて歌ったというが、この「熊本節」は、別名「出征出船の唄」という。やはり兵士を送る男女掛け合いの歌である。
「♪男、我身(ワン)や熊本ぬ城内(シロウチ)ぬ務(チト)み 無女(ンゾ)や母親ぬ御側勤(ウスバチト)み」=わが身は熊本の城内の務め 彼女は母親のそばにいて勤める。
「♪女、我身や母親ぬ孝事方(コウジガタ)すむめ 里(サトゥ)や国ぬ為尽(タミチク)ちたぼれ」=私は母親の側で孝行するから あなたはお国のために尽くして下さい。以下訳文だけで。
「♪男、三年の務めを終わって 帰るまでの間 手柄を立てることを願ってくれよ」
「♪男女、那覇港に来れば さびしいことよ 男、彼女よ、女、あなた、袖を濡らす涙を忘れないでね」
やはり「軍人節」と同様に、別れの辛さ、悲しみが唄に込められている。ウチナーグチ(沖縄語)では、恋人である彼女のことを「無蔵、無女(ンゾ)」と言い、彼氏のことを「里」という。「里前(サトメ)」という言い方もする。男と女の読み方も、男は「いきが」、女は「いなぐ」と言う。とかく慣れるまでは、民謡の歌詞は難しいのである。なぜ、そういうのかの説明をすると、長くなるので省略する。
「出征出船の唄」もやはり「国のため尽くして下さい」と建前では言うが、港で船を見送る女と出征する男の「袖を濡らす涙」は止めようもない。今生の別れになるのかもしれない二人なのだから。
戦前は船で出征していった那覇港。いま手前は米軍の那覇軍港になっている
現在でも歌われる「戦世の唄」
軍人の彼が出征し、その安否を心配する女性の心を歌った曲に「国ぬ花」がある。
「♪親ぬ染みなちぇる 枕我ね捨てぃてぃよ 軍人ぬ里とぅ契(チヂ)りさしが 聞ちぶさや里が 里が便(タ)ゆい」=親の情が染み込んだ枕を捨てて 軍人の彼と契を交わしたが どうしているのだろうか、聞いてみたい彼の便りを。
「♪里や白雲い 風吹ちゅるままによ 今(ナマ)や北満ぬ草葉枕 国ぬ花でむね 我んや泣かん」=彼は空には白雲が浮かび 風が吹きわたる 中国東北部(満州北部)で今や草葉を枕にしている 軍人は国の花だから 私は泣かない。
「♪千里離りてぃん 夢路(イミジ)あら里前よ 夢にしみじみとぅ 知らちたぼり 国ぬ花でむぬ 我んや泣かん」=千里も離れているが 夢路あればあなた様 夢の隅々に 無事であることを知らせて下さい 国ぬ花ですから私は泣かない。
出征した彼のことが気掛かりでならない。ひたすら無事でいてほしい、便りがほしいと願うばかりだ。そんな彼女の痛々しい気持ちが込められている。「軍歌」というよりは、戦前の女性の辛い思いを描いた唄だから、現代でも堂々と歌われている。
戦争や軍人を直接、テーマとしていないが「親心(ウヤグクル)」という唄も「戦世」を映し出した曲である。子どもを大切な「宝」として、苦労して育てる親心を歌っている。しかし、それにとどまらない。四番まであるが、各節の最後は「産子育(ナシグヮスダ)てぃや御国ぬ為にん」「親に孝行 御国ぬ為にん」「産子多さや 御国ぬ為にん 御国ぬ栄えや 臣下(シンカ、国民)どぅ宝」となっている。子どもを立派に育てるのは「御国のため」、たくさん子どもを生むのも「御国のため」、そして「御国に尽くせ」と言う。「産めよ増やせよ」「尽忠報国」という「戦世」の精神が詰まっている。一九四一年(昭和一六年)、やはり普久原朝喜の作だという。まさに太平洋戦争に突入する時代の産物だ。
でもこの唄は、戦争そのものを主題にしているわけではないので、「御国のために」という古臭いフレーズがあっても、いまでもよく歌われる。私が入っているサークルでもよく歌っている。ウチナーンチュ(沖縄人)は、一時の苦労があっても、子どもをたくさん生み、立派に育てることは、何より大事なことだという価値観が根強い。だから、唄に込められた子どもを「宝」として育てる「親心」は、時代は変わっても変わらない精神として受け止められているからだろう。
戦争協力の唄も作られた
沖縄民謡は、世相をとてもよく反映する。一九三八年(昭和一三年)に日中戦争が始まり、国家総動員法がつくられた。さらに一九四一年、太平洋戦争に突入した。侵略の戦争を「聖戦」と信じ込ませ、これに従わないと「非国民」扱いされ、世の中が戦時一色に染められると、沖縄民謡も戦意高揚の唄が登場する。
「強い日本人」「新体制の唄」「肉弾」「戦地節」「戦勝節」「名誉の負傷兵」「隣り組」「勇士の妻」「別れの盃」「銃後の妻」「銃後の護り」「銃後の乙女」という具合である。これらは『新沖縄文学五二号、島うたでつづる沖縄の昭和史』の中の「昭和しまうた年表」からピックアップした。
というのも、当然のことではあるが、いまは戦争協力の「民謡軍歌」を歌う人はいない。だから、いま発行されている民謡の歌詞集の中にも収録されていない。戦時の唄がわかる貴重なレコードがある。現代の唄者の一人、金城実が出した「時代―戦時戦後をうたう」というLP盤だ。その中に一二曲を収録し、戦時の唄も何曲かある。これは名盤復刻としてCDが出され、現在インターネットでも試聴することができる。
この中に、沖縄ならではの面白い唄がある。「裸足禁令の唄」という。那覇市を裸足で歩くのを禁止する「裸足取締規則」という県令が一九四一年に施行された。大日本帝国の臣民が街中を裸足で歩くのは恥ずかしいことだというのだ。違反者には罰金が科せられた。
「♪紀元二千六百一年一月一日佳日(ユカルヒ)に 那覇市に裸足禁止県令 御定めなやびたん ※うかっとすなよー でーじどーやー はだしなてぃから」=※以下のハヤシの部分だけ訳すると「うっかりするなよ 大変だよ 裸足になっていると」
「♪那覇に参(モウ)らば祖父祖母(ウスメーハーメー)ん サバ小(グヮ)やてぃん履ち参りよ 裸足から歩ちね 科料さりやい 迷惑すさ はじかさむんやさ はだしなてぃから きがぬもとぅどー」=那覇にくるおじいもおばあも ぞうりを履いてきなさいよ 裸足で歩くと罰金とられるよ 迷惑するよ 恥ずかしいよ 裸足になっていると怪我のもとだよ。
「♪守礼の邦の県民が裸足なてぃ歩ちゅしや 支那の国売って喰いゆる 蒋介石とゐぬむんてぃさ でーじどーやー はだしなてぃから いちむしてぃんどー」=守礼の邦の県民が裸足になって歩いていると 中国を売って食っている蒋介石と同じだぞ。
当時、国民にも植え付けられられていた中国への蔑視の文言はあるが、裸足で歩くのは帝国臣民とはいえないということだろう。四番目の歌詞では「物乞いと間違えられるよ」とも歌っている。
この県令が施行された「紀元二六〇一年」は、真珠湾攻撃が行われた年だ。こんなことまで締め付けるのは、やはり県民を戦争に総動員する戦時体制の一環なのだろう。方言を使うことも禁止され、方言を使えばスパイ視されたほどだ。この唄は、県民の日常生活のありようにまで関与し、規則でしばりあげることへの風刺に満ちている。
「民謡軍歌」の中で、もう一つふれておきたいのが「銃後の護り」「銃後の妻」という唄だ。これはヤマトグチで紹介する。
「銃後の護り」は「♪男が生まれてくれば軍人になる 女が生まれれば銃後の護りになる」「♪前の店の息子たちは軍人の勤めだから 店の番頭の手がない 私が銃後の護りになる」「♪村の若者たちは軍人の勤めだ 畑を作る手がない 頑張れよ 銃後の護り」という内容だ。
「男生まれれば軍人に」と一見すると勇ましそうに見えるが、若い男手がいなくなった町も農村も「手がない」、苦労を強いられる現状を皮肉たっぷりに「ちばりよー 銃後の護り」と歌う。かなり風刺のきいた「軍歌」である。
「銃後の妻」はこう歌う。「♪あなたは戦場に笑って立って下さい 私はこちらにいて あなたの無事をお祈りします」「♪私は戦場に立って自分のことは露ほども思わない わが子のことを思い それが気にかかる」「♪勝ち戦さをみせて 戻ってくる時は わが子と旗を振ってお迎えします」。やはり、軍人として出征する以上、「露と散る」覚悟をするが、妻と子のことが気掛かりだ。妻は「国の為だから、苦しくても私は泣かない」と我慢せざるを得ない。そんな戦争のため引き裂かれる夫婦の心境が歌われる。
これを歌ったときは、戦場に行くのは夫だったが、しかし、無謀な戦争の結末は、沖縄に残った妻子も、あの沖縄戦で「鉄の暴風」の中にさらされたのである。
これまで紹介したのは、沖縄でも本島の唄が中心だった。石垣島をはじめ八重山にも戦争を映し出した唄がある。「遺族の涙」「身代り警備」「伊舎堂隊の唄」などである。上原直彦著『語やびら島うた』で紹介している。
そのなかの最後の唄「伊舎堂(イシャドウ)隊の唄」は、モロ軍歌である。石垣市に生まれた伊舎堂用久大尉を主人公にしている。一九四五年(昭和二〇年)三月二六日早朝、「誠十七飛行隊」の伊舎堂隊長はじめ二六機が八重山特攻基地白保飛行場を飛び立ち、最初の特攻機となった。
「♪目ざす目標 敵空母 たたきつぶせよ あゝ伊舎堂隊」
「♪重い爆弾 かかえ込み 行くは東の空遠く ドンと一発 決死隊 またと還らぬ あゝ若桜」
「♪国の御為お母さん 花と散ります あゝお母さん」
これは元歌は古賀政男作曲の「愛の小窓」で、その替え歌だという。無謀な戦争のため、「神風」など特攻隊の攻撃によって、沖縄の海にどれほどの若い命が散ったことだろう。一見勇ましいが、悲壮感がただよっている。
子守唄にも戦争が反映している。八重山で歌われた「愛の子守唄」だ。
「♪坊やの父ちゃん どこへ行った チンダラホイ あの海越えて 南の小島におわします ホイヤホイ よい子はねんねしな」
「♪坊やはよい子だ 泣かずにね にこにこ父さんの お帰り土産は なんでしょね 坊やはよい子だ ねんねしな まぶたに浮ぶ 父さまの面影 夢見ましょう」
「♪坊やが大きくなったなら 島の歩みの 明るい男になりましょう ホイヤホイ よい子はねんねしな」
父親が「南の小島」に行ったのが、移民であればもう少し夢のある話になってもよいがそうではない。父は出征したのだろう。「まぶたに浮ぶ父さんの面影」はもはや「夢に見る」しかない、還らぬ人となっていることがうかがえる。わが子が島の発展に役立てる立派な「明るい男」になってほしい、と願う母親の姿は切ない。(二つの唄の歌詞は、いずれも上原著『語やびら島うた』から)
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