戦世と平和の島唄、その2
戦闘部隊がいなかった沖縄
ちなみに、沖縄から軍隊に入るには、いつも港から船で出て行く別れが描かれている。それは、沖縄が島だからというだけではない。沖縄は昔から軍事基地の島だったと錯覚する向きもあるがそれは違う。実は昭和一六年(一九四一年)の夏までは、日本軍の常駐部隊も軍事施設も存在しない全国唯一の県だったからである(『沖縄県の百年』)。
一八七九年(明治一二年)に「琉球処分」で琉球王国は廃止されて、沖縄県とされたあと、明治政府は熊本鎮台の分遣隊を沖縄に派遣した。しかし、日清戦争後、台湾を植民地にしたため、明治二九年(一八九六年)に、分遣隊が九州に撤退してからは「沖縄県には軍馬一頭」といわれるように、戦闘部隊のいない稀有な県になっていた。
沖縄から兵隊に召集されると、熊本に置かれた第六師団の歩兵連隊に入隊することが多かったようだ。だから、唄に「熊本節」と言う題名がつき、「熊本の城内の務め」と言う下りがあるのは、このためだろう。沖縄に政府が軍隊を大規模に配備したのは、昭和一九年(一九四四年)のこと、戦局が急迫してからである。
ここで、さらに話は横道に入る。国民を軍隊に強制召集する徴兵令のことにふれておきたい。徴兵令は日本では一八七三年(明治六年)に実施されたが、沖縄はそれより大分遅れた。「琉球処分」で天皇制国家に組み込まれてから、本土より二五年遅れて一八九八年(明治三一年)に、県民一般への徴兵令が実施された。日露戦争には、沖縄出身者が二〇〇〇人参加したという(NHK〇九年四月五日「ジャパンデビュー」)。
日本が侵略の手を広げ、日中戦争、太平洋戦争へと突入するなかで、県出身の兵士も、中国や南方など戦地に送られて行った。そして、郷土が戦場となった沖縄戦では、二万八〇〇〇人を超える県出身の軍人・軍属が死亡している。
秘められた非戦の願い
話を民謡に戻す。普久原朝喜作曲で忘れてならないのが「無情の唄」という曲だ。この唄には、どこにも戦争の言葉はない。やはり、男女掛け合いで歌う。愛しあいながら離れ離れに暮らさなければならない、男女の愛情がテーマの唄のように見える。愛する二人が一緒にいられない悲しみを「浮世(ウチユ)無情なむん」と歌う。
「♪女、あきよ思里(ウミサト)や 知らん他所島(ユスジマ)に 暮さらん暮し しちょらとぅ思ば 浮世無情なむん」=ああ、恋しいあなたは、知らない他所の島に行ってしまった どんな暮らしをしているのだろうか 浮世は無情なものだ。
「♪男、無蔵や故郷に 我身(ワミ)や渡海隔(チケヒ)ぢゃみ 儘(ママ)ならん恋路(クイジ) 思(ウ)みぬ苦(ク)りさ 浮世無情なむん」=彼女は故郷にいる わが身は海を遠く隔てた離れた所にいる ままならない恋路である 会いたいのに会えない この思いの苦しさよ 浮世は無情なものだ。
私も、今この唄を歌っているが、最初、歌の隠された意味を知らなかった。だからてっきり、「同じ沖縄の中で、彼が仕事か何かで離島に出かけていて、会えないということなのかなあ。でも離島でも沖縄の県内なら、知らない他所の島というのは変だし、会うことはできるのに、おかしな歌詞だなあ」と思ったことだった。
でも、これが戦地、とくに南の知らない島に出征して、愛する男女が引き裂かれた「戦世の無情」を歌った唄というのなら、とてもよく理解できる。そいう意味では、秘められた非戦の唄といえるのかもしれない。
いずれにしても、戦争を主題にしたこれらの唄が作られたときは、まだ、侵略の道を突き進む日本軍が、敗退して米軍が沖縄に上陸する事態になるとは、夢にも思わなかっただろう。ましてや、沖縄が本土防衛と国体護持のために、時間稼ぎの「捨て石」にされ、悪夢のような地上戦に、子どもから老人を含めて県民みんなが巻き込まれるとは想像もできなかっただろう。
「ひめゆり」の悲劇
沖縄戦の悲劇を象徴する一例として「ひめゆり看護隊」がある。沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の女子学徒でつくられた「従軍看護婦隊」である。野戦病院で看護にあたり、米軍の砲撃に倒れたり、「捕虜になるより自決を」という日本軍の方針のもとで「自決」に追いやられた。女子学徒による「従軍看護婦隊」は、「ひめゆり」だけではない。県立・私立合わせて七校から「白梅」や「梯梧(デイゴ)」など六部隊が編成されて四五七人が動員され、一八〇人が死亡している。死亡率は実に四一%に達する。
ひめゆり部隊を描いた曲に「姫百合の唄」がある。「広く知られた沖縄の 犠牲になった女学生 姫百合部隊の物語」と始まる。作られたのは一九六六年だという。最初聞いた時は、殉国美談のような歌詞が気になり、好きになれなかった。
「♪御国(ミクニ)の郷土を守らんと 細い腕にも力こぶ 姫百合マークのあで姿」
「♪他所の見る目もいじらしく 弾丸飛び散るその中で 艦砲射撃もなんのその」。こんな歌詞が続くからだ。歌詞は、ヤマトグチ(共通語)である。
歌は一〇番まであって、物語はだんだん残酷な戦場の現実を反映するリアルな内容に変わっていく。
「♪何時か敵は上陸と 聞いた時には姫百合も 共に散ろうとひとしずく」
「♪無理に心を励ませど 体をささえる食もなく のどをうるおす水もなし」
「♪焼けて飛び散る我が郷土 見るにしのびぬ焼野原 天地に神も召しませぬ」
「♪根気も意地もつきはてて 死なばもろとも姫百合は 散って惜しまぬ若桜」
「♪とうとう玉砕ひめゆりは 地下で共に泣くかしら 淋しく泣いている夏の虫」
「食もなく、水もない」「根気も意地もつきはてて」、最後は「玉砕」に追いやられる。天地に神もいないのか、地下で淋しく「夏の虫」とともに泣いている、という悲惨な最期が歌われている。哀切きわまりない物語になっている。
戦世を恨む母
戦争で子どもを失った母親の悲しみを歌った唄もある。苦労して育てた子どもが兵隊にとられて戦死してしまった母。沖縄戦で幼い子どもを引き連れて戦場を逃げまどった母。筆舌につくしがたい苦悩と痛苦の体験は、数え切れないほどあるだろう。
「戦場を恨む母」はこう歌う。
「♪戦世にあたて 哀りさみ産子(ナシグヮ) 知らんゆす島ぬ 土に散らち」=戦争の世となり、可哀そうに愛しいわが子は、知らないよその島(南方か)で戦死し土に散ってしまった。
「♪あとかたんねらん 産子身ぬ哀(アワ)り 戦恨みとて 我袖ぬらち」=戦死してあとかたもない 愛しいわが子の身の哀れなことよ 戦争を恨み 涙で自分の袖をぬらす。
「帰らぬ我が子」という唄も、朝夕、懐に入れ育てた可愛いわが子を、思いもよらない「風」が吹き、つまり戦争になり兵士として取られ、「帰らぬ人」となったと歌う。
「♪神と崇(アガ)みらり 花に例(タト)らりて 咲ち美(チュ)らさ百合(ユイ)ぬ 匂(ニヲ)い残(ヌク)ち」=若きわが息子は 神とあがめられ 花に例えられ 百合のように美しく咲いて その匂いを残しながら 戦地に行った。
「♪泣くなよや母親(アンマ) 淋しさんみそな 我(ワ)んや戦世ぬ 華どやたる」=泣くなよ母さん 淋しさを見せるな 私は戦争の世の 華なのだから⋯⋯。
「♪死出ぬ永旅ぬ 戻(ムド)らりんやりば かなし親兄弟(ウヤチョウデ)と 語てやしが」=死出の長旅も 戻られるものであれば 愛しい親兄弟と 語り合いたいけれど。
沖縄戦での親子の運命を歌った曲に「戦世ぬ産し子(イクサユヌナシグヮ)」という唄がある。
「♪夫(ヲト)や花散りて 岩板(イワイタ)に祭(マチ)て いちゃし育(スダ)てゆが 二人(タイ)ぬ産し子」=夫は戦死し岩陰に葬り祀った これからどのようして 二人のわが子を育てようか。
「♪五ち六ち童(ワラビ) かむる物無(ムヌネ)えらん やーさんどうやアンマ 泣ちゅる苦りさ」=五歳、六歳の子どもたち 食べる物もない 「ひもじいよ母さん」と泣くけれど 何も与える食べ物もない ああこの苦しさ。
「♪産し子やしはてて 手ゆ合わち御願(ウヌ)げ 命(ヌチ)すくてたぼり 我夫(ワヲト)がなし」=わが子は痩せはてて弱っている 手を合わせて祈願する 命を救って下さい わが夫さま。
「鉄の暴風」と呼ばれたほど、嵐のように砲弾が降りそそぐ戦場で、どれほど多くの親子が、地獄のような惨状に巻き込まれたことか。
銃弾で撃たれて子どもを亡くした親、火炎放射器で親を焼かれた子ども、隠れていたガマで泣きやまぬ子を軍の命令で殺させられた母親、家を継ぐ長男を守るため、弟妹を見捨てざるをえなかった親、一家が全滅した家族――。想像を絶するような悲劇がつくりだされた。この唄からも、戦場を逃げまどう親子の姿が見えてくる。
激戦の地が主題に
沖縄戦での激戦の地を主題にした曲もある。「嘉数高台(カカジタカダイ)」という唄だ。一九四五年四月一日、沖縄の読谷(ヨミタン)から北谷(チャタン)にかけての海岸に上陸した米軍は、ほとんど反撃にあわずに一気に本島中部に攻めよせた。日本軍は宜野湾市から浦添市、那覇市にかけて、高地を軸に三本の防御ラインを構え、地下壕を掘り、陣地を築いていた。南下する米軍と激しい戦闘になったのが、この宜野湾市の嘉数高地である。唄は戦争が終わったあとから、戦争をしのび平和を祈る内容だ。
「♪大戦終(ウフイクサオワ)て、一昔(ヒトンカシ)過て、世界(シケ)に知らりゆる きざし見して アー嘉数高台」=あの大きな戦争が終わって 一昔が過ぎて この激戦が広く世間に知られる きざしが見えてきた ※アー嘉数高台よ(以下ハヤシは同じ)。
「♪年や新(アラタ)まて 平和御代拝(ミユウガ)で 願事(ニゲゴト)ん叶て 名うち出(ン)じて アー嘉数高台」=年は新たになり 平和の世の中を迎えて 願い事もかなって 嘉数高台の名前をうち出した。
「♪新名(アラタナ)ゆ取たる 村人ぬ手本(テフン) 弾ぬ雨(アミ)降りたる 戦偲(シヌ)ぶ=嘉数高台の新たな名が広がった 村人の努力のたまものだ 弾の雨が降った戦争をしのぶ。
「♪あまた御仏(ミフトキ)ん 安々(ヤシヤシ)とみそり 合掌(ニゲグト)や永久(トワ)に村ぬ守り」=数多くの戦没者の方々 安らかにお眠り下さい 手を合わせて祈ることは 永久に村を守ること。
「♪大嶽(ウフタキ)や後(クサ)て 花に囲まりて 共に村起(ムラ)ち 幾世(イクユ)迄ん」=守り神のいる御獄(ウタキ)を後ろにひかえ 花に囲まれて ともに村を起こそう いつの世までも幸せに。
いまは、この付近は高台から青い海を眺めるよい住宅地となっている。でも、北東の方向を見ると、米軍の海兵隊の基地・広大な普天間飛行場が広がり、空を米軍機がしょっちゅう飛んでいる。二〇〇四年八月には、基地に隣接する沖縄国際大学の構内に米軍ヘリが墜落し炎上する重大な事故が起きた。イラクの戦争にもここから出撃していった。ここでは戦争は過去のものではない。まだ隣り合わせにある。宜野湾市の心臓部に居座るこの基地は、即刻閉鎖してほしい、というのが市民、県民の願いである。
日本軍が首里城地下の司令部壕を放棄して南部に司令部を移したため、沖縄戦の最後の激戦の地となったのが、糸満市の摩文仁(マブニ)である。この地を主題にした「摩文仁の華」という唄もある。この摩文仁で犠牲になった無数の人々への鎮魂歌である。
「♪下て行く道ぬ 石段ぬ数(カジ)や 世界(シキ)ん御万人(ウマンチュ)ぬ 涙(ナダ)にくむて 涙にくむて」=摩文仁の丘から降りて行く道の 石段の数を踏みしめながら歩いていくと 世間のたくさんの人々の 涙がそこにはこもっている。
「♪海にうち向(ン)かて 淋しさや産子(ナシグヮ) 干瀬(ヒシ)打ちゅる波や 我肝(ワチム)しみて 我肝しみて」=海に向かって 亡くなった我が子のことを思うと 浜辺に打ち寄せる波の音が 淋しくわが心にしみるよ。
「♪一束(チュタバイ)ぬ花に 我が想(ウム)いくみて 受取(ウキト)りよ産子 親(ウヤ)ぬ情け 親ぬ情け」=一束の花をたむける わが親の悲しい思いを受け取ってくれ 愛しいわが子よ 子を思い続ける親の情けを。
撃沈された輸送船の哀れ
沖縄戦では、この地上戦での犠牲だけでなく、沖縄から本土への疎開に向かったり、本土から沖縄に来る貨客船など、民間の船が米軍の魚雷攻撃を受けた。たくさんの船が沈没し、多数の県民、子どもたちが犠牲になった。
一四〇〇人を超える犠牲を出した学童疎開船「対馬丸」の悲劇はよく知られている。戦局の悪化とともに、日本政府は沖縄県から本土、台湾への疎開計画を決めた。一九四四年八月二一日に、疎開する学童や引率の教員、一般疎開者ら一七八八人が乗った対馬丸は、奄美大島近くの悪石島付近で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。
「対馬丸の歌」は、「♪いのちみじかく青汐に 花と散りつつ過ぎゆけり 年はめぐれど帰りこぬ おさなきみおの目には見ゆ」と歌われる。これは、楽譜を見ていない。インターネットで、この唄が紹介されていたので、ここに記しておきたい。別にアニメ映画「対馬丸 さようなら沖縄」(一九八二年)の主題歌もあるという。
対馬丸より一年前の一九四三年五月二六日に、大阪から沖縄・那覇港に向かう貨客船「嘉義丸(カギマル)」がやはり奄美大島の沖で、米軍の魚雷攻撃を受けて沈没した。幼い子から老人まで三二一人が犠牲になった。やはり、鎮魂歌「嘉義丸のうた」が作られている。この唄には、隠れたエピソードがある。
作詞したのは、奄美・加計呂麻島(カケロマジマ)の鍼灸師・朝崎辰恕(タツジョ)さん。「嘉義丸」の生存者、福田マシさんを治療した際、福田さんの嘆きに心を痛め、三味線の名手だった朝崎さんは、この唄を作ったという。その直後の六月一八日には、島の集会所で唄を披露した。一時、この唄は流行したそうだが、まだ戦時中のこと。当局からこの唄は歌うことを禁止され、長らく忘れ去られていたそうだ。
それを、作者の娘でやはり奄美島唄の唄者である朝崎郁恵さんが、父が歌っていた「嘉義丸のうた」を復元してアルバムに収めたという。復元したのは、郁恵さんが偶然に「嘉義丸」の生存者と出会い、悲劇を風化させてはならないという思いからだった。
それと、面白いのは、この曲は沖縄民謡のヒット曲、「十九の春」ととても似ていることだ。なぜ二つの曲が、似ているのか。それは、実は両曲とも、ルーツが同じだそうだ。与論島で歌われていた「与論小唄」と言われる。沖縄や奄美では、作詞をして、すでにある曲のメロディーにのせて、いわば替え歌として歌うのがとても盛んだ。歌詞は七字五字でつづる七五調になっているから、七五調で詩を作れば曲にすぐのせられる。
前置きが長くなった。この曲の内容を紹介する。
「♪散りゆく花は また咲くに ときと時節が 来るならば 死に逝く人は 帰り来ず 浮き世のうちが花なのよ」
「♪ああ憎らしや 憎らしや 敵の戦艦 魚雷艇 打ち出す魚雷の 一発が 嘉義丸船尾に 突き当たる」
「♪親は子を呼び 子は親を 船内くまなく 騒ぎ出す 救命器具を 着る間なく 浸水深く 沈みゆく」
「♪波間に響く 声と声 共に励まし 呼びあえど 助けの船の 遅くして 消えゆく命の はかなさよ」
悲劇の情景が目に浮かぶようだ。朝崎さんは、沈没から六五年たった二〇〇八年五月二六日の慰霊祭でこの曲をアカペラで歌った。
「嘉義丸はまだこの海の底に眠っております。⋯⋯嘉義丸が撃沈されてから六五年たった今、犠牲になられた沢山の方々の冥福を祈り、平和のために私たちに何が出来るかを考え、行動していきたいと思います」と自身のブログに記している。
奄美・沖縄など南西諸島の近海では、日米開戦の一九四二年から四四年七月までの二年七カ月の間に、民間船舶五七隻が沈没された。その大半は米軍の潜水艦による攻撃のためだった。これらは日本の陸海軍に徴用された船舶だった。潜水艦による商船への無制限攻撃は国際法違反にあたるそうだが、米軍は、船舶が軍事物資の輸送など重要任務を負っていると見て、攻撃を加えていたという(琉球新報社「沖縄戦新聞」から)。
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