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2012年2月27日 (月)

愛と哀しみの島唄、その4

役人と現地妻の涙の別れ

つい、恋歌から離れてしまった。話を恋歌に戻したい。八重山や宮古の古い民謡を歌っていると、首里王府から任命されて派遣された役人が任期を終えて島を離れるとき、現地妻と別れる悲しみを歌った唄に、たびたび出会う。「与那国ションカネ」「多良間ションカネ」などがある。哀愁を帯びた旋律で、とっても味わいがある。いずれも八重山、宮古を代表するような情け唄の名曲である。

「与那国ションカネ」は、こう歌う。

「♪お別れの盃は胸に迫り 涙があふれて とても飲めません」

「♪片帆を上げたら気が気ではなく 諸帆を上げたら 両眼から涙が落ちてきます」

「♪与那国に海を渡るのは 池の水を渡るようなもの 心易々と渡ってきて下さい」

 与那国島では、島に派遣される役人は、白砂の美しい「なんた浜」から船で出入りした。任期を終えて帰任する役人は、この浜で妻子と涙の別れをしたという。与那国は石垣島からも遠く離れた日本最西端の島であり、渡海するにも「池の水」のようにやさしくはない。でもあえて「池の水」のように穏やかな海だと歌っているところに、気軽に海を渡ってきてほしい、という願いが込められているようだ。

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「多良間ションカネ」もやはり、役人を浜に見送りに行く様子が歌われる。

「♪前泊の小道から 浜へ降りる坂から ご主人の船を送ります」

「♪片手で子どもを連れて 片手には瓶の酒を持って 主人の船を見送りに行きます」

「♪東に立つ白雲のように また上方に立つ乗り雲のように 偉くなって下さい 私のところに帰ってきて下さい」

八重山、宮古の島々に、沖縄本島や他の島から派遣される役人は、妻子の同伴はできなかった。現地の女性を賄女とさせていた。早く言えば、現地妻である。なぜ、本妻でもないのに、こうも別れの悲しみが歌われるのだろうか、ちょっと理解ができないというか不思議だった。でも、考えてみると現地妻といっても、一緒になった島の女性にとって、役人は夫と同じである。子どもをもうけ、何年も寝食をともにした家族である。家族としての愛情を深めているだろう。そんな家族が引き裂かれることになる。再び会える日がくるかどうかもわからない。永遠の別れになるだろう。だから、残される女性にとっては、やり切れない悲しみである。これほど唄に歌われているということは、背景にたくさんの涙の別れがあったことだろう。139_2        石垣島のビーチ

悲哀を味わされた「旅妻」

島に派遣された役人と現地妻をめぐっては、数々のドラマがある。だからとにかく唄も驚くほど多く残されている。そこには、先島の歴史の断面が見える。少しその様相を見てみてみたい。『村誌たらま島 孤島の民俗と歴史』から紹介したい。多良間(タラマ)島は宮古島と石垣島の中間にあり、離島の中の離島である。士族の多い島で、島の上級役職の大部分を、他島の出身者で占めていた。他島出身の役人は、島の女性を囲うならわしがあり「旅妻」と呼ばれた。「旅妻」とは「旅先の妻」というような意味らしい。

島に来る役人は「滞在中同棲し、転勤するときは置き去りにする。若い子女たちは、新任の役人が来るたびにこれにおびえ、人目を避けるような生活をしなければならなかった。いっぽう島の中堅男子たちは、この犠牲を決めるために苦悩したという。命令を受けた女子はこれに反することはできなかった。断わって役人の感情を害すると、村全体に仕返しがくるおそれがあったからである。旅妻をさけるために近隣の男と結婚したかたちをとるという例も多かった。また、井戸で水汲みをしている女子を強引に番所につれて行ったという話なども伝わっている」。役人の横暴にどれほど多くの女性たちが、悲哀を味あわされたことだろうか。これが現地妻をめぐるリアルな現実である。

与那国島には、先の別れの歌とはまったく異なる、悲しい物語が伝わっている。「いとぅぬぶてぃ節」という唄になっている。

「♪絹布のように美しい年頃の娘 以前から評判高い生まれで 一人っ子が生まれていた ただ一人の子であったそうだ 目差主(メサシシュ、助役)に妾になれと乞われ 与人(ユンチュ、村長)に同じく望まれ」

この後は残念ながら歌詞がわからない。美人に生まれたために、役人から現地妻にと求められた彼女は、役人の命令を拒絶して、とうとう山に逃げて露と果てたという。

与那国にはもう一つ哀歌がある。「ながなん節」という。歌詞の大要を紹介する。

中並家の美童(ミヤラビ)は世に評判の小町娘でした。真保久利(男の名前)と私は幼少の頃から許婚(イイナズケ)になっていた、一組の夫婦だから別れることはできない。夜遊びは浜に下りる。家巡り佐事(ヤーマルサジ、取締役)には見つかるな、残酷な権力者に抱かれるな。そう言っていたのに、いつの間にか家巡り佐事に見つけられ、佐事に抱かれ、佐事と私は日に日に染まっていった。真保久利と私は日に日に遠のいていった。

愛しあっていた男女が、役人が介在してきて、とうとう二人の仲を引き裂き、役人が彼女を奪い、彼女も役人に魅かれていった⋯⋯。とても切ない物語である。

「権力を背景にした役人の威嚇と強制で、かよわい女性を責め立て、無理やりに現地妻にさせられ、許婚とも別れさせられた封建時代の悲惨な裏面史恋物語をうたっている」と小浜光次郎著『八重山の古典民謡集』では解説している。

恩典もあった現地妻

ただ、現地妻をめぐってはちょっと複雑な様相がある。というのは、現地妻になることを望んだ例があることだ。唄にあるように、愛しあう恋仲になった例もある。なぜ、赴任した間だけの「妻」であり、生涯をともにできる見通しもないのに、あえて「旅妻」になろうとするのか。それについて、多良間島『村誌』はこう語る。

「役人の在任中は島民より上級な生活ができ、税負担も島民に配分されたりした。まれにはこの面の打算で積極的に旅妻になることを志望する者もいたようである。同棲後、相思に走る例もあったようである。これは民謡『多良間ションカネ』からも察せられる」。つまり苦しい島の暮らしの中で、少し楽な生活ができたり、税の負担を免れる、あるいは役人が離れるとき土地をもらえた例もあるようだ。旅妻を志望するのも、人頭税に苦しめられてきた悲惨な島の現実があるのだ。

旅妻になっても、多少楽な暮らしは一時のことである。「役人が島を去った後の彼女たちは、娼婦のような傷を負い、再婚も困難な境遇におちぶれるのがふつうであった」。

この役人の身勝手や横暴に対する、驚くような抵抗があったことも、この『村誌』は伝えている。「この旅妻のならわしを断ち切ったのも島民であった。役人がオークボヤー(源河家)の女子を旅妻にしたいと来たのを、兄がイグン(銛)をもって反抗、役人を追い払ったという。近隣の人たちも応援し、役人はついにあきらめて帰った。以後、島民全員が拒否するようになったので、役人もこの要望を口に出さなくなったといわれる」。勇気ある島の人々の抵抗が、島の女性を救ったのはすごいことだ。

宮古島に近い池間島には、現地妻を痛烈に風刺する唄がある。「池間の主」という。村長格の与人(ユンチュ)を住民は「主(シュ)」と呼んだ。

「♪池間の主は金持ちで、驚くばかりの金持ちだ。私も池間の主であったなら、私も離れ(池間島)の親主であったなら、池間の家でミガガマ(賄女の名前)のつくる煮物を食べてみたいものだ。神家にいた頃のミガガマは、花の咲くような美しさだったが、大親の家に行ってからは、灰かぶりの猫のようだ。灰かぶりの猫であっても、灰かぶりの犬であっても、大親主に気に入られているなら、それでよいではないか」。

どうもこの唄は、池間の主に可愛がられるウヤンマ(現地妻)のミガガマをねたんで、「灰かぶりの猫」と痛烈な皮肉をあびせているようだ。

美しい娘「ヌズゲマ」の悲歌

役人から妾にと望まれ、それを拒み死を選んだという、八重山の古謡を紹介したい。美しい娘「ヌズゲマ」を歌った哀歌だが、声を失うほど悲しみが深い。

「♪宮良村に生まれたヌズゲマは絶世の美人だった 頭(役職名)親に見染められ、村役人に望まれた 頭だから、役人だからいやと断わった 頭と役人は私を連れていこうと走ってきた 山に籠って死ぬよ 首を吊り死のうとしたが死ねない 三カ月も長く山の密林を歩いた 大本(オモト)山に登って水を飲もう 川の辺りに辿りつき 水を飲もうとうつ伏せしたら 私の命は終わりをつげた 死体の片眼からドゥスヌ木 片耳からトゥムヌ木が生えた 立派に生えた木から 船材が伐採されて 公用船の石垣船が造られた 頭親に乗られ、役人にも乗られた 生き肌に乗られず 死に肌に登られた」

役人の妾になるよりも死を選んだのに、死んだ後「死に肌に登られた」という女性の嘆きの声が聞こえるようだ。

この古謡は、石垣島の石垣、平得(ヒラエ)、宮良の各地区や波照間島に、同じ話をもとにした唄がある。ここでは平得の「いきぬぼうじぃユンタ」の大意を紹介した。ちょっと話はマニアックになる。といっても「もうこの長い文章全体がマニアックじゃないか」といわれそうだ。まあご容赦願いたい。この唄は人によって、大事な点で解釈が異なる。

八重山の古謡や民俗について高い見識を示された喜捨場永洵氏は、女性の最後の歌の意味を、後悔の言葉だと見て、そういう訳をしている。「頭親や求愛された役人に生前身を任せなかったのがくやしいとざんげした」(『八重山古謡上』)と言う。しかし、山に入って死んでも役人の妾になるのを拒んだ女性が、死後、船材になって乗られるのなら、生前に妾になっておけばよかったと懺悔するだろうか。どう考えても納得しがたい解釈だ。同じ唄を『八重山古謡』から再録した『南島歌謡大成』(外間守善、宮良安彦編)は、そういう解釈はしていない。素直に「生き肌に乗られず 死に肌に登られ」と訳している。

喜捨場氏の解釈の土台には、同氏の妾、現地妻についての少し一面的な見方がある。「当時は頭や村役人の賄女になるのが一般女性の最上の光栄であり羨望の的であった」のに、ヌズゲマが拒否して命を絶ったのは「どうしても合点が行かない点である」という(『八重山古謡上』)。つまり、妾になればいろいろ恩典があったから、経済的な利益を考えれば拒否するのは「常識的には考えられない」という見地だ。しかし、当時の女性が打算だけで生き方を選び、妾を「最上の光栄」と見たというのは、とても実情に合わないのではないか。現地妻、妾の「光と影」のうち影の部分をまるで無視している。

いくら貧しい平民であっても、経済的な利得だけで相手を選ぶ人ばかりではない。貧しくても愛する人と結ばれることを何より大切に思う女性は少なくない。現地妻はどんなに恩典があっても、生涯をともに歩める夫婦にはなれない。権威をかさにきた役人に隷属することを嫌悪する人もいただろう。思いを寄せる彼氏がいた人もいる。愛する人と引き裂かれた例もあるだろう。拒否して命を絶った女性の唄が残されているのは、その証しではないか。

すでに史実としても、村の女性が役人に目をつけられるのを「おびえた」とか辛い思いをしたことが伝えられている。だからこの古謡は、やっぱり妾になるのを拒否したことを後悔したのではなく、慟哭の声、悲憤の叫びと見るべきではないか。

それにしても、私がこの唄を最初に知ったのは、なんと彫刻家の岡本太郎の『沖縄文化論』によってである。彼はまだ米占領下の一九五九年に沖縄に来てこれを書いた。岡本は、本の中で「八重山の悲歌」に一章をさき、この唄をはじめいくつもの「悲歌」を紹介している。

「悲しい思い出がどうしてあのように美しいのか。八重山の辛く苦しかった人頭税時代の残酷なドラマを伝える、さまざまの歌、物語を聞いて、その美しさに激しくうたれた。美化しなければあまりに辛く、記憶にたえないからか。いやそれはほんとうに美しいからではないだろうか。そのとき、人の魂はとぎすまされ、その限りの光を放つからであろう」。八重山の哀歌が、いかに岡本に衝撃を与えたのかがうかがわれる。

安里屋ユンタをめぐる奇妙な謎

沖縄民謡で、全国的にもっとも知られた唄といえば「安里屋ユンタ」だろう。

「♪君は野中のいばらの花か サーユイユイ 暮れて帰れば ヤレホニ 引き止める マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨー」。貴女は野原のいばらの花のように、野良仕事を終えて帰る時に、引き止めてくれる、という意味だ。でもこの唄は、昭和九年(一九三四)に作られた新民謡である。古くからの元歌があり、それをレコーディングする際に、ヤマトグチ(共通語)の歌詞が作られた。ついでに旋律も新たにしたいとなって、沖縄音楽の父ともいわれる宮良長包が、元歌を生かしながら作曲したのである。これで、ヒットしたのだが、歌詞は元歌とはまるで違う。

元歌は、竹富島の歌であり、実在の女性がいる。「安里屋ユンタ」「安里屋節」という唄は、何種類もあり、そこには奇妙な謎がある。元歌の歌詞を紹介する。

「♪安里屋のクヤマ乙女は 絶世の美女に生まれた」

「♪幼少の頃から 色白で器量よく生まれた」

「♪目差主(助役)に見染められ 賄い女に乞われた 与人(村長)にも望まれた」

「♪目差主は嫌です 与人親にご奉公します」

唄は続く。クヤマに拒否された目差主は、面目丸つぶれで、クヤマ以上の美人を手に入れようと村々を回った。中筋村で美女イシケマと出会った。早速両親に会って願い出て、イシケマを賄女にした。こういう歌詞である。

     写真は竹富島の安里屋クヤマの家460

ところが、これとはまるで逆の歌詞の唄がある。私が歌っているのもこちらの歌詞だ。それは、役人の目差主と与人から乞われたところまでは同じだ。その先が違う。

「♪目差主は嫌です 与人も嫌です なぜ断るのか どうして嫌なのか 後々のことを考えると 島の夫をもってこそ 村の男性を夫にしてこそ 将来のためになるのです」。あらかたこんな歌詞になっている。権力を背景にした役人の要求を拒否し、島の男性を選ぶという、とても気高い女性の姿に描かれている。

問題は、前者が地元の竹富島で歌われ、後者が竹富以外の石垣など他の島で歌われていることだ。八重山の民俗、民謡に詳しい喜捨場永洵氏は、竹富島以外で歌われている歌詞は「当時の制度を無視したつじつまのあわない」唄であり、「安里屋ユンタは竹富島で謡っているのが正統である」と言う。竹富の唄で歌うべきだと強調している。

なぜ「目差主は嫌だが上役の与人ならよい」といった唄の方が「正統」なのだろうか。喜捨場氏が「『安里屋ユンタ』考」(『八重山民俗誌下巻』)で考察している。

竹富島は当時、二つの村からなり、島を統治する役人に、与人(村長)と目差(助役)、杣山(ソマヤマ)筆者(山林係)、耕作筆者(農業係)の四人がいた。「当時の制度として役人は三カ年勤務で交代するので、妻子を勤務地に同伴することを堅く禁じられていたので、勤務地では賄女(まかない)といって村切っての器量好しを、村で選び出して奉公させる慣例がありました。竹富島の役所も安里屋も主邑である玻座間(ハザマ)村にありました。その頃は『賄女』に選ばれて与人役人に付添うということは、若い女性たちにとっては憧れでもあり羨望の的でもあり、また名誉でもありました。これは役人の力でいろいろの恩典があったからだと思われます。こうして三年経ち役人が交代すると次の『賄女』には誰がなるか下馬評が立つほどだったそうです」。

やはり賄女は「羨望の的」だったと断定する。その最大の理由は、なによりも恩典が大きいことだ。それは、賄女になれば、人頭税の御用布は免税の上に、「一般の女性が土足の上に、粗食粗衣で毎日野良仕事に従事している折、この賄女になると、美衣美食に下駄草履が許され」、「その上役人との間に子が産まれた時には、血縁関係にあり密接な交際をする優越感があった」という(喜捨場著『八重山民謡誌』)。

現地妻を「憧れ」と見るのは、多良間島で、若い女子は「おびえていた」という事情とは、まるで逆の対応だ。なぜなのか。島によって、事情が異なるのだろうか。そうではない。たぶん両方の記述とも、それなりに現実をリアルに反映しているだろう。というのは、現地妻には両面があるからだ。拒否すればにらまれる、希望すれば「恩典」がある。この現実のなかで、貧しさのなかで女性と親が「望んだ」場合もあれば、いやいやながら承諾せざるを得なかった人もいる。あくまで拒否した例もある。そこには、過酷な人頭税のもとで苦しめられた先島の人々の苦悩があったことは確かだ。

 

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