愛と哀しみの島唄、その1
「愛と哀しみの島唄」をすでにブログにアップしてあるが、ダウンロードしなければ全文が見れない形式だた。それで今回、ダウンロードしなくても、そのまま全文が読めるようにして、再度アップすることにした。
愛と哀しみの島唄
目次
はじめに
なぜ恋歌がたくさんあるのだろうか?
庶民の恋愛はかなり自由だった
恋の舞台は「モーアシビー」
月の夜は気持ちもそわそわ
「ムシロ戸下げて待っていて」とは?
恋に命までかけて
心変わりすれば刀刃にかける
愛情のシンボルは「手巾(ティーサージ)」
とても多い悲恋、別離、片思い唄
たくましい琉球弧の女性たち
意外に多い「恨み節」
戦世が招いた悲
恋人を引き裂く「島分け」の悲劇
強制移住させた責任を問う
役人と現地妻の涙の別れ
悲哀を味わされた「旅妻」
恩典もあった現地妻
美しい娘「ヌズゲマ」の悲歌
安里屋ユンタをめぐる奇妙な謎
なぜ気高い女性像がつくられたのか
人頭税のもとでの幾多の哀史
抵抗する女性の姿を伝える
役人を笑い飛ばす庶民の心意気
遊女と士族をめぐる恋歌
妾を持った士族
終わりに
はじめに
沖縄の民謡、島唄は、さまざまな題材があるが、なかでも男女の恋愛を主題にした恋歌がとっても多い。これはもう半分以上を占めるのではないかと思えるほどだ。恋をテーマにしているといっても、幸せな恋ばかりではない。片思いの唄もあれば、愛しあっていても結ばれない、悲しい恋もあれば、失恋の唄もある。心変わりした恋人への恨みの唄もある。愛情の表現も沖縄の特有の彩りがある。
なによりも、琉球王朝時代からの長い歴史を刻んだ恋歌、情け唄、哀歌がたくさんある。「情け唄」というのも沖縄ならではの表現だ。「情け」とは、愛情と同じだ。「情けをかける」といえば、愛情を注ぐことである。「志情(シナサキ)」といえば、もっと深い仲になる。「情け唄」とは、もう恋歌そのものである。「情け」には、親子の愛情も入るが、ここでは恋歌と同じ意味で使った。これらの唄は、沖縄本島だけでなく、宮古島、八重山諸島など島ごとに、特色ある恋歌、悲恋の唄がある。時代によって、王朝時代からの古謡や民謡もあれば、昭和になって作られた新しい民謡もあり、それぞれ特色がある。
「恋歌」「情け唄」といえば、盛和子さんはとっても情感がある唄者だ
今回は「愛と哀しみの島唄」について、書いてみよう思う。といっても、思い立って調べてみると、調べれば調べるほど、たくさんの恋歌がある。出版されている「民謡集」だけでも、さまざまあり、その上活字になっている民謡もすべてではない。だからとりあえず、自分が民謡三線サークルで練習している民謡や代表的な「民謡集」などに収録されている民謡、島唄だけを対象にした。それと、表題に「島唄」とつけたが、実際は民謡に限らざるを得ない。広い意味の島唄といえば、いま沖縄で盛んに創り出されているポップス的な感覚の歌も入るだろう。でもそれまで対象にすると間口が広がりすぎる。それに「島唄」という表現は、沖縄ではほぼ民謡と同じ意味で使われている。
なぜ恋歌がたくさんあるのだろうか?
沖縄民謡には、恋歌がとっても多いのはなぜだろうか? 日本の歌謡曲、演歌だって恋歌がとても多いから、沖縄民謡だけが多いのではないだろう。でも日本の民謡に限ると、その中で恋歌が一番多いとは言えないだろう。でも沖縄は古くから歌われてきた民謡を含めて、やたら恋歌が多い。それに、昭和になってからの新民謡は、本土でいえば演歌のような存在である。演歌では愛と情けはもう中心テーマである。だから、新民謡で恋歌が多いのは当然かもしれない。
それにしても、島唄で恋歌が多いのは、何か理由があるはずだ。にわかにその答えを出すのは無理だ。それでも、いまいくつか頭に浮かぶことがある。
一つは、南島に生きる人々の情熱的な性格である。それは、恋の国、情熱の国と言われるイタリアやスペインなどに通じるラテン的な気性があるように感じる。おおらかで楽天的である。相手を好きになれば、じっと胸に秘めて待つのではなく、焦がれる思いを伝えて愛情を確かめ合う。恋の炎は燃えあがりやすいのだろう。その半面、熱情が冷めると別れるのも早いのだろうか。なにしろ離婚率は沖縄が全国一位である。
それに、南島は年間のうち、五月から一〇月まで六カ月は暑い夏だ。気分は否が応でも開放的になる。夏は夜も長い。ということは、昼間は暑いからじっとしている。動き出すのは夜という、夜間徘徊の行動パターンになりやすい。日本のどこでも、恋が生まれるのは、なんといっても夏が多いだろう。沖縄は、昔から、若い男女は、夜は野原や浜辺に繰り出し、歌って踊る「毛遊び」(モーアシビー)が盛んだった。いまはそれに代わって、夏と言えば浜辺に繰り出す「ビーチパーリー」(パーティーといわずになぜかパーリーという)が大好きだ。遊び仲間や幾組かの家族でビーチに出かけて、バーベキューやスイカ割りなどに興じる。泊まり込みで遊ぶことも多い。
それになにより祭りと芸能が大好きだ。これは夏だけでない。秋でも春でも冬でも年中、なんだかんだと祭りをやっているし、芸能をやる。沖縄の盆踊りであるエイサーは青年会が中心になってやっている。綱曳きやハーリー(爬竜船の競争)も大好きで、沖縄中の各島、町村ばかりか字ごとにやっている。これらの祭り、イベントの中心になるのはなんといっても若者だ。若者が集まり一つのことに力を合わせてやっていれば、出会いがあり、恋も芽生えるだろう。エイサーは、男性が勇壮に太鼓を打ち、女性は「イナグモーイ」(女舞い)といって、可愛い着物姿で手踊りをする。お盆の大分前から、毎夜集まって練習する。「エイサーは婚活ですからね」とラジオの民謡番組でも話していたぐらいだ。エイサー仲間で結婚する人もかなりいるようだ。
離島という厳しい自然のなかで、生きてきた島の人々にとって、民謡や踊りなど芸能は、なによりも大きな楽しみである。それは、嬉しいこと、苦しいこと、悲しいことなど庶民の思いを唄にする。そこにはみんなの気持ち、感情が代弁されている。なかでも、人を愛する恋心や別れ、悲恋など恋愛をめぐる出来事は、人生に深く刻まれた忘れられないことである。だから日々の暮らしや生きるなかで誰もが体験し、見聞してきた出会いと愛や恋、悲恋の話が、民謡として歌われたのは当然のことかもしれない。
庶民の恋愛はかなり自由だった
民謡は、古くは数百年も昔から歌われてきた歴史がある。沖縄の民謡の恋歌を知るには、昔の恋愛と結婚の事情はどうだったのかを見る必要がある。以前に「琉球悲劇の文学者 平敷屋朝敏」のことを書いたことがある。それを読んだ人は繰り返しになるが、琉球王朝の時代は、身分制度が確立していた。本土の士農工商の階級制度と少し違い、琉球では、大名(貴族)、士族(サムレー)、百姓に分かれていた。このうち、大名や士族は、儒教思想が深く根を下ろし、封建道徳と身分制度にしばられて、恋愛の自由はなかったといわれる。結婚は、親が相手を決め、子どもは親には逆らえない。親の許さない恋愛は、不義・密通と同様の罪だった。
「(首里では)結婚相手の選択権は父親にだけあって、肝腎な息子や娘にはなく、子供たちには、相手選択の自主性が全然認められていなかったのである。その点は那覇の士族社会でも同様であった。明治時代までそれは続いた」(『那覇市史資料篇第二巻中の七』)。ここで、首里、那覇と区別しているのは、戦前は別の市だったからである。士族は同じ身分の士族同士で結婚し、士族と百姓の結婚はなかった。義理による結婚にしばられる士族にとっては、那覇にある遊郭に出向いて、遊女と遊ぶことだけがいわば「恋愛」というべき楽しみだったそうだ。
格式を重んじる士族と違って、百姓(平民)は、士族よりはまだ恋愛の自由があったようだ。だから、恋歌は庶民のなかから生まれた唄が圧倒的に多い。ただし、平民も親が相手を決める場合がかなり多かったというし、恋愛にも限界があった。相手は、同じ間切(マギリ、今の町村)の者でなければならなかった。それは、女性が他の間切・村に嫁ぐと、間切・村にかけられる夫役を負担する人数が減り、その分の負担が全体にかかってくるからだった。どうしても、他所から嫁をもらう場合は、「馬酒代」とかよばれる金額を支払わなければいけない。それは、嫁ぐ女性の六〇歳までの夫役銭を、嫁にもらう夫が一時に支払うものであったという。
恋愛の様相は、民謡のなかに反映されている。士族が登場する恋歌は、妻が相手ではない。恋話の相手は遊郭の女性である。平民の場合は平民同士の恋話になる。ただし、士族・役人と平民の女性との恋歌もあるが、これには深い背景がある。それは後半で紹介することになろう。
恋の舞台は「モーアシビー」
若い男女の出会いと恋愛が生まれる舞台となったのは、なんといっても野原や浜辺に出かけて、夜の更けるのも忘れて歌って踊り遊ぶことだ。その代表的なものが「モーアシビー」(毛遊び)である。「野遊び」と書く場合もある。八重山などでは「夜遊び」「道遊び」「芝遊び」などとも言ったという。
「♪月(チチ)さやか今宵 三味線ぬ音小(ウトゥグヮ) 肝(チム)ぬわさみちゅさ 遊(アシ)でぃ行かな (今日ぬ毛遊び 語てぃ
「♪遊び毛や我した 花ぬ若者ぬ恋語(クイカタ)れ所 情所(ナサキドゥクル) (同じ)」
「花ぬ毛遊び」というこの唄は、こういう歌いだしだ。意味は「月の美しい今宵 三線の音色に心はうきうきしている 遊んで行こう 今日は毛遊びだ 語り合い遊ぼう」「毛遊びは われわれ若者が恋を語るところ 愛情をかわすところだよ」。
野原や砂浜で車座になり、三線を弾きならし、馴染みの唄を次々に歌いあう。太鼓を打ち鳴らし、ハヤシと指笛が飛び交う。そしてカチャーシーなど踊り舞う。泡盛も酌み交わす。もう夜が更けるのも忘れるのは当たり前だ。恋が生まれるのも自然の成り行きだろう。モーアシビーでは、歌は決まった歌詞だけでなく、即興で自分の気持ちをのせて歌ったという。歌は恋の対話の手段として使われたそうだ。
八重山の民俗に詳しい喜捨場永洵(キシャバエイジュン)氏は『八重山民俗誌』で次のように書いている。
「日頃の重労働を癒すが如く、天気のよい月夜の晩などには村の青年男女等が一同に会し、謡い遊び、かつ興ずることがあった」「このような時には、三味線などをもち出し、村迦れの道々や或いはまた浜などにおいて青年男女が村歌や島の歌などをともに謡い、かつ舞ったり踊ったりしていた」「歌や三線は勿論のこと盛んに恋愛行為などに及んでいた」。
役所は、この若者たちの「モーアシビー」を「風俗の乱れ」「無益なるもの」と見ていた。だから、「度々禁止せられたにも拘らず、当時の青年男女の間では相当流行していた」そうである。島の人々が生きる上で欠かせない毛遊び、芸能、恋愛の場を禁止するというこんな野暮な命令は、「禁酒令」と同じだ。いくら命令を出しても絶対に止めさせることはできなかったのだろう。
歌三線を習う時、だれもが最初に覚える曲に「安波節(アハブシ)」がある。こんな歌詞がある。「♪かりゆしぬ遊び 打ち晴れてからや 夜(ユ)ぬ明きてぃ太陽(ティダ)ぬ 上がるまでぃん」。
つまり、「楽しいお祝いの遊びが始まったら 夜が明けて太陽が上がるまで 大いに遊ぼう」という意味である。この琉歌は、民謡の中でも超有名な歌詞であり、その他のいろんな唄でも使われている。というのは、沖縄民謡の歌詞は大半が琉歌である。琉歌は和歌と違って字数が、八八八六である。この字数にあわせれば、他の曲にもすぐのせられる。だから沖縄民謡は、やたら替え歌が多い。同じ唄でも、いろいろな歌詞がある。
(注)これからは、原文を書いていない場合は訳文で書く。原文ばかりだと読むのが面倒なので、原文をできるだけ省略して、訳文にする。独断と偏見の訳文になるかもしれない。許しくだされ。
「砂辺の浜」という唄はこういう歌詞だ。
「♪砂辺(シナビ)浜下りて 語ろう今宵 愛の浜風(ハマカジ)にのってまた遊ぼう」
「♪遊びたわふれて 更ける夜もしらない しばし忘れよう 恋し砂辺浜」。
このように、野外に繰り出し、夜の更けるのも忘れて、太陽が上がるまで遊ぼう、という歌詞は、もう沖縄民謡では無数に登場する。
若者の夜遊びだから、妻や子どもができても続けるのは、彼女から嫌がられたようだ。それを歌った曲がある。「桃売アン小(モモウィアングヮ)」という。女性が山桃を売って、彼氏に布を買い着物を着せたいといい、男性もそれに応えて、互いに夫婦になろうという恋歌である。
「♪女、この布で着物を縫って着せるから 今から後はもう毛遊びはしないでね」
「♪男、着物が心からの形見なら 今から後はもう毛遊びをしないよ」
彼女がいながら、他所の女性らと夜更けまで遊ぶのを「止めて」というのは当然だろう。
若者の夜遊びは、宮古島でも同じだった。昔は村の番所=ブーンミャーの広場で、月の夜は宮古の軽快な踊りの「クイチャー」が行われたそうだ。「若い男女にとっては、クイチャーあそびは、恋を語る絶好のチャンスで、恋人同士はクイチャーの後の逢引きを楽しむことになる」(『伊良部村史』)。
また、年齢の近い親しい仲間を「トンカラ」と呼び、「トンカラヤー」と呼ばれる家で、男女別々に寝泊まりする風習があったという。この風習は、結婚し互いに同棲するまでの間続けられた。朝になると、「娘たちは一斉に起き出して我が家へ急ぐ。せっせと立ち働く。このときが若い男の思いを寄せる娘への求愛、求婚のチャンスである」。そして各戸を訪ね、男女はお互いの意思を確かめ合い、結婚へこぎつける、ということになったという(同書)。当時の、若者たちの姿が目に浮かぶようだ。
若者たちが遊んだり、逢引きをするのは、なんといっても闇を照らす月の夜が最適だ。沖縄の離島の星空は美しい。月の夜はとりわけロマンチックだ。もう三年前の秋、首里城で「中秋の宴」があり見に行ったことがある。首里城の御庭(ウナア)の舞台で、優雅な伝統芸能が演じられ、その天空に満月が青白い光を放っていた。琉球王朝の時代を思わせる光景だった。月の美しさ、男女の出会いと恋の喜びを歌った唄は、とっても多い。
その名もずばり「月夜の恋」という曲がある。
「♪月の夜になれば 気持ちがそわそわする 二人が決めた待合場所に 急いで行かなければ ああ月の美しいことよ」
「♪月が西の空に下がり やがて夜が明ける 二人が結ばれて 家に戻る嬉しさよ いつまでも心が変わらないでね」
月の夜に、恋仲になった若者は、それこそ数え切れないほどいたことだろう。
石垣島には「山はれーユンタ」という唄がある。やはりこんな歌詞である。
山原村の村番所にヌズレーマという美女がいた。こんなに美しい十五夜の名月の夜は遊ぼうよ。古老が「今夜は神を拝む日だから遊んではいけない」というが、若者はきかない。蛇皮張りの三味線を肩にかけ出かけると、娘さんとぱったり出会った。
「♪遊びに行こうよ カニだって白浜に下りて遊んでいるのに 黙っていられようか 浜に下りてこの月夜の浜で遊ぼう」。
もう満月の夜になれば、遊びに出る若者は誰も止められない。カニだって遊んでいるのだから。なぜ、若い男女が遊ばないでいられようか。
沖縄は、いまでもみんなよく月を見る。夜のリスナー参加の人気ラジオ番組「団塊花盛り」では、「今夜は月がきれいね」「きれいな十三夜の月が出ているよ」。こんなメールがよく紹介される。「さっき私も見たけれど、とってもきれいでしたね」とDJも応える。東京ではなかなかこんな話題にはならないだろう。夜空の月も星も美しい沖縄ならではかもしれない。昔はいまのような光害もなく、もっときれいだっただろう。浮かれないのがおかしいかもしれない。
「月ぬかいしゃ節」は八重山で子守唄として有名だ。「かいしゃ」とは美しいという意味だ。歌詞を見ると「♪東から上がる満月の夜 沖縄も八重山も照らして下さい」といいながら、内容はとても子守唄にはおさまらない。
「♪あれだけ美しい月の夜だ われわれ一同 語り遊びましょう」
「♪ビラマ(男性)の家の東方の庭に 茉莉花(マツリカ)が咲いている 花を取るのを口実に 彼を見てこよう」
「♪女童(ミヤラビ、娘)の家の門に 花染め手拭いを落とし、それを取るのを口実に 娘の家に会いに行こう」。
こんな歌詞が続く。これでなぜ子守唄なのか。不思議だ。もう立派な恋歌ではないか。
若い男女が躍動するエイサー(古波蔵青年会)
遊ば」
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