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2012年2月20日 (月)

戦世と平和の島唄、その5

「命どぅ宝」

もう一つ、これと双璧をなすような、平和の唄がある。それが「命(ヌチ)どぅ宝」だ。津嘉山寛喜氏の作詞・作曲である。

「♪忘(ワシ)てぃ忘らりみ 戦世ぬ哀り 思(ウ)び出(ヂヤ)する毎(グトゥ)に 身ぬ毛立(キダ)ちゅさ ジントヨ 語てぃ行か戦 ジントヨ 命どぅ宝」=忘れようとしても忘れられない あの戦争の世の哀れさよ 思い出すたびに 身の毛もよだつよ、本当に語り継いで行かなきゃ 戦争のこと 本当に 「命こそ宝」だよ。

「♪戦凌(イクサシヌ)ぢゅんでぃ ガマや籠(クマ)たしが ガマん又地獄(ジグン) 鬼(ウニ)の住家(シミカ、ハヤシを繰り返す)」=砲弾とびかう戦をしのごうと ガマにこもり隠れたが ガマもまた地獄 鬼の住み家だったよ。

「♪二度とぅあぬ地獄 繰り返いちなゆみ 永遠ぬ平和 御願(ウニゲ)さびら (ハヤシを繰り返す)」=二度とあのような地獄を 繰り返してはいけない 永遠の平和がもたらされるように 心からお願いします。

「♪何時(イチ)ん何時までぃん 忘りてぃやならん 沖縄ぬ心(ククル) 命どぅ宝」=いつまもでいつまでも 決して忘れてはいけない 沖縄の心である 「命こそ宝」だということを。   

ひとこと注釈するとすれば、ガマに隠れたがガマも、また鬼の住み家だったという部分だ。これは、最後の激戦の地となった南部ではとくに、住民はガマに避難したが、日本軍の司令部が首里から南部に撤退してくると、日本兵が住民をガマから追い出す事例が頻発した。軍と住民が混在して隠れていたガマでは、子どもが泣き叫ぶと「米軍に見つかるから殺せ」と命じられ、我が子に手をかけざるをえなかった母親もいる。方言を話すとスパイ視され、軍の命令に少しでも抵抗すると虐殺された例もある。先に米軍に保護されて、ガマに投降を呼びかけにきて、殺された住民もいた。これらはまさに「ガマも鬼の住家」だったという表現を裏付ける出来事である。

二度とあの戦争、地獄を繰り返してはならない、語り継いでいこう、「命どぅ宝」だぞ。この揺るがぬ平和への誓い、平和への決意が込められている。

「命どぅ宝」という名言が最初に使われ出したのは、沖縄戦ではない。それより大分前だという。一九三〇年(昭和五年)に上演された「琉球処分」をテーマにした山里永吉作の「史劇・首里城明け渡し」の中だという。王国廃止によって東京に連れて行かれる最後の国王・尚泰(ショウタイ)が詠んだ琉歌「戦世(イクサユ)ん済(ス)まち 弥勒世(ミルクユ)んやがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」に由来するという。この琉歌の意味は「いくさのような混乱した時代も終わる

やがて平和で豊かな時代(弥勒世)がやってくるだろう 嘆くなよみんな 命あってこそ、命こそ宝だ」。沖縄芝居で使われたこのセリフが、その後庶民の中に広がったらしい(沖縄国際大学非常勤講師・大城将保氏による)。

それは、沖縄戦を通して全県民の実感となったのだろう。ウチナーンチュの心を象徴する言葉として、繰り返し使われるようになった。

アメリカ浮世の中で

郷土が戦場となり、焼き尽くされ、破壊尽くされた沖縄。復興に立ち上がったものの、食べるものも働く場所もままならない。米軍の占領支配のもとで、仕事と言えば軍作業しかない現状があった。「アメリカ節」という唄がある。

「♪アメリカ浮世(ウチユ)のいちなしもん ハーバーハーバー 軍作業 雨(アミ)にん風(カジ)にんちちかってぃ いえいえ姉さん乗らんかね」=アメリカ浮き世は忙しい 港、港の軍作業 雨にも風にもうちかって仕事だ イェーイェー姉さん(船に?)乗らないかね。

「♪アメリカ浮世のばちくゎいもん 配給事務所の古うぇんちゅ くらさにまぢりて 穴ふがち 金網いっちん そういらに」=アメリカ浮き世でうまくやった者は 配給事務所の古ネズミ 暗闇にまぎれて 穴をあけ軍用品をかじり取る 捕まって金網に入れられたが また入ったよ。

「♪アメリカ浮世や 民主主義 人んだまさん うしちきらん 平和と自由の花咲かち 笑ひかんとて 行ちゃびらや」=アメリカ浮き世は民主主義だ 人をだまさない 抑圧もしないはず 平和と自由の花を咲かせよう 笑い飛ばして行こうじゃないか。   

戦争が終わっていつまでも、うちひしがれてはいられない。「大和世」に代わる「アメリカ世」という異民族の支配のもと、軍作業で米兵にこき使われた。軍用品を盗み取る「戦果アギャー」に走り、銃撃される人も出た。それでも、「ナンクルナイサー」(なんとかなるさー)の精神を忘れず、たくましく生きていった。唄にはそんな時代の雰囲気が感じられる。

033 在沖米海兵隊基地司令部があるキャンプフォスター(キャンプ瑞慶覽)

民主主義の国だと思ったアメリカは、県民のあわい期待を裏切り、占領軍として横暴な姿をさらけ出してくる。人をだまさないどころか、銃剣とブルドーザーで土地を奪い、金網で囲いこみ基地をつくっていった。県民の宝である土地も海も空も、米軍の思うがままに支配し、専制的な権力者として君臨した。

米軍の土地強奪と基地建設に抵抗して立ち上がった伊江島の人々の行動を描いた唄がある。「陳情口説」である。「口説」とは「くどぅち」といって、一つの旋律にのせて、物語風の歌詞を七五調で歌う民謡の一つの形式である。わからない沖縄語は( )で訳する。

「♪世界(シケ)にとゆまる(名高い)アメリカぬ 神ぬ人びと わが土地ゆ 取て軍用地うち使てぃ(使ってしまった)」

「♪畑ぬまんまる金網ゆ まるくみぐらち(巡らせ) うぬすば(その側)に 鉄砲かたみてぃ番さびん(鉄砲担いで番をしている)

「♪たんでぃ主席ん 聞ちみしょり(どうか主席様聞いてください) わした(私ら)百姓がうめゆとてぃ(あなたの前に出て) う願(ニゲ)いさびしんむてぃぬふか(お願いするのはよほどのことです)

「♪親ぬ譲りぬ畑山(ハルヤマ)や あとてぃ(あってこそ)命や ちながりさ(つながっている) いすじわが(ただちに私たちの) 畑取ぅいむるし(畑を取り返して下さい)

「♪那覇とぅ糸満、石川ぬ 町ぬ隅(シミ)うてぃ(隅々で) 願(ニゲ)さりば(お願いすると) 私達(ワシタ)う願いん聞(チ)ちみせん(私たちの願いを聞いてくれました)

一九五五年に米軍によって土地を強奪され、家も焼かれた伊江島の島民たちが、全県民にこの理不尽な土地取り上げを訴えようと、本島に渡り歩きまわった。「乞食行進」と呼ばれる。行進しながら三線にのせて歌ったのが、この「陳情口説」である。別名「乞食口説」とも呼ばれる。島民の一人、野里竹松氏の作詞である。

伊江島民のたたかいは、全県的な「゛島ぐるみ闘争゛への引き金となった」のである(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)。Photo_4

      写真は伊江島の闘いを伝える「ヌチドゥタカラの家 

米軍は、県内で強制接収した軍用地を「一括払い」と称して、土地を買い上げて永久使用する方針を打ち出した。


これに反対する県民は「土地を守る四原則」を掲げて立ち上がり、一九五六年には、「島ぐるみの土地闘争」の大きなうねりへと発展していった。そして、「一括払い」をくい止め、地料の適正補償をさせることになった。

「平和な島」の願いこめ

沖縄戦の痛苦の体験と新たな米軍の軍事基地の重圧の中で、県民にとって平和はかけがえのない大事なものである。平和そのものをテーマとした唄もいくつも作られた。

そのものずばり「平和節」という唄がある。

「♪世ぬ中や変て かん平和なとい 此(ク)ぬまゝに先ん なてどやしが 願(ニガ)らねいうちゅみ 世界(シケ)ぬ平和」=世の中は大きく変わって 平和な世になった このまま先々になって、どうなるだろうか 願うのは世界の平和だよ。

「♪平和なる御代(ミユ)に 身が産子(ナシグヮ)立てて 栄えださな沖縄 広く知らさ 此りど御万人(ウマンチュ)ぬ 望(ヌズ)みでむね」=平和な世の中になり わが子たちを盛りたてて 豊かに栄える沖縄をつくり 広く知らせよう これぞ世の中のみんなの望みだものね。

「♪人に生(ウンマ)りとて 望みまぎまぎと 果さらんうちゅみ ないど定み 共に手ゆとやい 此ぬ沖縄作(チュク)ら」=人に生まれてきて 望みは大きくもって 果たさなければいけないのが定めだよ ともに手を取り合って この沖縄をつくっていこう。

平和の尊さを歌った曲に「守礼の島」という唄もある。これはヤマトグチの歌詞だ。

「♪青い海原 吹くそよ風が 明るい情けを 乗せて来る 島の皆さん今日は ハイ今晩は 守礼の邦に 花が咲く 愛の島」
 「♪島の平和の 願いを込めて 楽しみ悲しみ 分かち合い 島榕樹(ガジュマル)の 根の如く ハイ逞しく 守礼の邦に 花が咲く 愛の島」

「♪人情豊かな 緑の島で 親しく暮らそう 何時までも 守礼の光 身に浴びて  ハイ進もうよ 守礼の邦に 花が咲く 愛の島」

琉球は古来、中国と日本の両国に属していたが、中国皇帝からは、琉球はとても忠誠を尽くす国として「守礼之邦」と呼ばれていた。それは、首里城の入口にある門に「守礼之邦」と書かれた額が掲げられていることにも示されている。それに、琉球はその昔、三つの国に分かれて争っていたが、六〇〇年近く前に、統一国家になった。

その後、国内での争いは止めて、武力より芸能を重んじ、「武の国」ではなく「文の国」として知られていた。沖縄県民は、そのことをとても誇りに思っている。この「守礼の島」という表現と唄には、二度と戦争を繰り返さない平和の島、守礼の光を浴びていつまでも幸せに暮らせるように、という願いが込められている。

「平和の鐘」という唄にも「守礼の国」が歌われている。先に紹介した「兄弟小節」を作った前川朝昭の作詞作曲である。これもヤマトグチだ。

「♪辛い浮世を 鼻唄まじり 皆んなと共に 行末を 思いに深く ふけるとき ※守礼の国に 光あり 平和の鐘が 鳴りひびく」

「♪胸に平和の 願いをこめて 明るい島の 建設に 皆さん力を 合わせて 守礼の国に 光あり 平和の鐘が 鳴りひびく ※ハヤシ繰り返し」

「♪恋し祖国を 離れて居ても 心は結ぶ 金の糸 錦を飾りて 帰える時 ※ハヤシ繰り返し」

「辛い浮世を鼻唄まじり」というあたりに、沖縄人が辛酸をなめても、希望を失わず「なんくるないさー」=「なんとかなるさー」という楽天性を持ち続けて、たくましくともに手を携えて進もうという気概が感じられる。

この唄は、「恋し祖国を離れて居ても⋯⋯」というように、たんに平和への願いだけでなく、アメリカにより祖国日本から切り離され、米軍による占領支配が続く現状からの脱却と祖国復帰への願いが強く込められている。006

      極東最大といわれる米空軍嘉手納基地

実は、歌詞を省略したが、二番、三番には「ひざもと離れた淋しさに 帰る望みを抱きしめて」「沖にチラホラ明かりが見える 飛んで行きたや親元へ」という歌詞もある。占領下で民謡でも「祖国復帰」をズバリと言いにくい状況があったのだろう。「帰る望み」とか「親元」などの間接的な表現ながら、祖国復帰の願望が「赤い糸」のように貫かれている。

平識ナミさんという人が作詞した曲に「平和の願い」がある。すでに紹介した「帰らぬ我が子」「摩文仁の華」など平和の島唄をいくつも書いている作詞家だ。この唄は、戦後も沖縄が米軍支配のもとで戦争と固く結びつけられていることを告発して、平和への願いを込めている。胸をうたれる曲だ。

「♪沖縄(ウチナ)てぃどぅ島や 何時(イチン)ん戦世(イクサユ)い やしやしとぅ暮す 節(シチ)やいちが ※ディー我(ワ)ったー 此の島沖縄 平和願(ニガ)らな 此ぬ沖縄」=沖縄という島は いつまで戦世が続くのか 安心して暮らせる時節が来るのはいつの日か さあわがこの島・沖縄 平和を願おう この沖縄。

「♪忘(ワシ)るなよ互(タゲ)に 哀り戦世や 世間御万人(シキンウマンチュ)ぬ 肝(チム)にすみてぃ ※ハヤシを繰り返す」=忘れるなよお互いに 悲しい戦争の世を 世間のみんなが 心にしっかり染めて。

「♪思事(ウムクトゥ)や一道(チュミチ) 恋(クイ)しさや大和 やがて御膝元(ウヒザムトゥ) 戻(ムドゥ)る嬉(ウリ)さ ※ハヤシを繰り返す」=思うことはただ一つ 恋しい祖国・日本のこと やがて祖国の膝元に 戻る嬉しさよ。

こうした唄に示された祖国復帰とは、海外の戦争に直結した米軍基地、県民にさまざまな事件、事故による危険と被害をもたらす基地の重圧から解放されたい、異民族による軍事支配ではなく、平和の憲法の祖国に、基地のない平和の島となって復帰したいというのが当然の願いであった。その後、形の上では祖国復帰を果たしたけれど、米軍基地の現状はなんら変わらない。県民と国民の期待は裏切られたままだ。そこに、今日でも県民を苦しめる根源がある。

     

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