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2012年2月19日 (日)

戦世と平和の島唄、その3

親兄弟、妻子と別れ別れに

 沖縄に筆舌に尽くせないような苦難をもたらした戦争がようやく終わった。その時の心境を歌った曲がある。「敗戦数え唄」である。沖縄戦に防衛隊員として動員された立場で歌っている。

「♪三ツ御国ぬ為とぅむてぃ 竹槍かたみてぃ戦てぃん 物量とぅ科学にうゆばらん くぬ戦さ」=お国のためと思って 竹槍を担いで戦った しかし、米軍の物量と科学にはとてもおよばない この戦争だった。

「♪六ツ無法なこの戦さ 親兄弟妻子(ウヤチョウデートゥジックヮ)に別りやい あの世に先立つ戦友ぬ 数知ゆみ」=無法なこの戦争で 親兄弟、妻子と別れ別れになった あの世に先だった戦友は 数知れないほどだ。

兵隊として出征していて島に帰って来た人たちを歌った「復員の唄」という曲もある。

「♪戦世ん終(ウワ)てぃ 島戻(ムドゥ)てぃ来(チ)ゃしが 夢(イミ)に見る我が家 かたん無(ネ)らん チャー 忘りらん」=戦争が終わって 島に戻ってきたが 夢にまで見たわが家は もう影も形もない どうしても忘れられない。

「♪親兄弟ぬ行方(ユクイ) 訪(タジ)にらねやしが 頼る方無(カタネ)らん いちゃがすゆら チャー 忘りらん」=親兄弟の行方を 訪ね歩くが 頼りにする人もいない どうすればよいのか どうしても忘れられない。

郷土は戦さ場になった

激しい地上戦による未曽有の惨状を、なんとか生き延びて終戦を迎えた兵士や住民は、米軍によって北部を中心に設けられた捕虜収容所と難民収容所に集められた。戦争の恐怖から逃れたとはいっても、この収容所での暮らしもまた辛い日々だった。満足な食糧もない、粗末なテント暮らしで、栄養不足や病気で命を落とす人がいた。

その収容所暮らしの中でも、ウチナーンチュ(沖縄人)は三線と民謡は忘れられない。ブリキ缶で胴を作ったカンカラ三線をつまびき、新しく曲も作り、歌ったという。いまもとても愛されている曲に「屋嘉節(ヤカブシ)」がある。金武(キン)村屋嘉の収容所で作られた曲だ。下は屋嘉節の歌碑。

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「♪懐ちかしや沖縄(ウチナー) 戦場(イクサバ)になやい 世間御万人(シキンウマンチュ)ぬ ながす涙」=懐かしい故郷・沖縄が戦場になってしまった どんなに世間のたくさんの人々が みんな涙を流していることだろうか。

「♪涙(ナダ)ぬでわんや 恩納山(ウンナヤマ)のぶて 御万人とともに いくさしぬじ」=涙でぬれたわが身 恩納山に登って 多くの人とともに 戦争をしのいだ。

「♪無蔵(ンゾ)や石川村(イシチャムラ) 茅葺(カヤブ)ちぬ長屋 わんや屋嘉村ぬ 砂地(シナジ)まくら」=離れ離れになった彼女は 石川村の茅葺きの長屋にいる 私は屋嘉村の 浜辺の砂地をまくらに寝る日々だよ。

「♪ぬんち焦(ク)がりとが 屋嘉村の枯れ木 やがて花咲(サ)ちゅる 節(シチ)んあゆさ」=戦争で焼け焦がれてしまった 屋嘉村の枯れ木も やがて美しい花を咲かせる 季節がまたやってくるだろう。

「♪戦世の跡の 焼け野原見りば 又ん無ん如(ネングゥトニ)に お願(ニゲ)しゃびら」=戦争の跡の焼け野原を見れば、こんな悲惨な戦争は再び起きることのないようにお願いしたい。
 最後の歌詞は、登川誠仁が歌う屋嘉節に入っている。この歌詞があってこそ歌が生きると思う。

PW(戦争捕虜)無情

同じ屋嘉の捕虜収容所で生まれた曲に「PW無情」がある。PWとは「Prisoner of War」(戦争捕虜)の頭文字をとったものだ。唄は、言い換えれば「捕虜無情」となる。これがまた、驚くことに「屋嘉節」とほとんど酷似した歌詞なのだ。

「♪恨みしゃや沖縄 戦場さらち 世間御万人ぬ 袖ぬらち 浮世無情なむん」というのが一番だ。この後もそっくりである。それは、やはり裏話がある。

収容所で演芸部長をしていた金城守堅氏が、歌詞(琉歌)を書いて、沖縄人捕虜隊長をしていた山田有昴氏のところにもってきたそうで、その歌詞を新城長保氏とともに添削したのが「PW無情」だという。添削前の原歌が「屋嘉節」で、補作したのが「PW無情」だそうだ。ただし、「PW無情」の方は、各歌詞の最後に「浮世(ウチユ) 無情なむん」とか「PW哀(アワ)りなむん」という文句がついているところに違いがある。

「屋嘉節」は「山内節」という曲に歌詞をのせて歌う。「PW無情」は、先に書いた普久原朝喜の「無情の唄」にのせて歌うそうだ。だからメロディーはまったく違う。(参考・沖縄国際大学大学院地域文化研究科「ウチナーンチュのエンパワーメントの確立―沖縄音楽社会史の変遷を通して」)

名護市の二見(フタミ)にあった難民収容所にいた照屋朝敏氏が作った民謡に「二見情話」がある。ウチナーンチュがとても好きな曲だ。男女掛け合いで歌う。私たち夫婦も好きで、自宅でもカラオケでもよく歌う。

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「♪二見美童(ミヤラビ)や だんじゅ肝清(チムヂュ)らしゃ 海山の眺み 他所(ユス)にまさてぃよ」=二見の乙女は とっても心が美しい 海山の眺めは またどこにもまさる美しさだ。

「♪待ちかにて居(ウ)たる 首里上(スイヌブ)いやしが 出(イン)ぢ立ちゅる際(チワ)や 別りぐりしゃよ」=待ちかねていた 首里に戻る日がやってきた 出発する際に お別れしなければならないこの辛さよ。

「♪戦場(イクサバ)ぬ哀(アワ)り 何時(イチ)が忘(ワシ)りゆら 忘りがたなさや 花ぬ二見よ」=戦争による悲惨さは いつか忘れられるだろうか それにしても忘れがたいのは 花の二見のことだ。

二見の女性はじめ、親しんだ人々の心の清らかさ 景色のうつくしさ、別れの辛さを歌いながら、平和への思いが込められている。

曲を作った照屋さんは、南部の摩文仁から米軍の命令によって、他の投降者らとともに船で、名護市の大浦湾に入り、この二見に来た。村民は快く迎え入れてくれ安心したそうだ。ある日、村長事務所で年長者会議があり、その席上で二見の唄の創作の要請があり、二カ月後に完成したのがこの唄だという。

「これは平和祈念と二見の人への命からなる感謝をこめた御礼のメッセージでもある」。いま二見に建立されているこの唄の歌詞を刻んだ記念碑に、照屋さんはこう記している。

歌碑を見ていて奇妙なことに気付いた。いま歌われている歌詞は六番まであるのに、この歌碑は五番までしかない。いま歌っている「行逢(イチャ)たしや久志小(クシグヮ)⋯⋯」(出会ったのは久志だった)という三番の歌詞の部分がない。なぜなのか。照屋さんが作詞した当初はなかったのが、その後付け加わったのだろうか。沖縄民謡では、他の人が付け加えるというのは、よくある話だ。それに、歌詞集にのっている歌詞と歌碑とまた少し違いがあるのもよくあることである。

この美しい二見と大浦湾はいま危機に立たされている。というのは、日米両政府がすぐそばの、辺野古(ヘノコ)の浜辺と海を埋め立てて、V字型の滑走路を持つ巨大な米海兵隊の新基地を建設しようとしているからだ。騒音被害や墜落の危険で住民生活は壊され、ジュゴンのえさ場となっている青く澄んだ海も破壊される。美しい風景は激変する。こんな無謀きわまりない計画は、絶対に許してはいけない。

南洋に渡った移民は

戦争が終わって、本土に疎開していたり働いていた人、南洋群島に移民で出て行った人々らが、郷里の沖縄に帰って来た。その人々の心情をこめた唄がある。

サイパンやテニアン、ロタ、パラオはじめ南洋群島には、たくさんの日本人が渡っていた。そのなかでも、南方に近い沖縄からサトウキビ作りなどでたくさん出かけた。南洋への移住者の中でも、沖縄人は多数を占めていた。サイパンにいた四万二五四七人の日本人のうち、六一%が沖縄人だった。

貧しい島国の沖縄からの移民は、南洋諸島約五万人、フィリピン群島約一万七〇〇〇人、南米約四万八〇〇〇人、ハワイ二万人余、さらに北米、マレーシア・シンガポールと広がっていた。だから、移民をテーマにした唄もたくさんある。

「南洋小唄」は、恋しい故郷の親兄弟と別れてきたが、やがて、成功して故郷に錦を飾り帰りたいという思いを歌う。「南洋浜千鳥」は、やはり旅先で故郷をしのぶ唄だ。「移民小唄」は、「♪無理なお金も使わずに 貯めたお金は国元の 故郷で祈る両親に 便り送金も忘れるな」とやはり、移民先で親を思う気持ちや頑張って錦を重ねて帰りたいという夢を歌っている。「サイパン数え唄」「シンガポール小唄」などもある。南方への移民の唄は、ある意味、戦世の時代の産物といえるかもしれない。

南米や北米、ハワイにはいまでもたくさんのウチナーンチュとその子孫たちが暮らしている。これらは同じ海外でも、日本軍が侵略の手を伸ばし、占領したところではない。しかし、南洋群島は他とは事情がまったく違う。そこは移民にとって予期せぬ悲劇の舞台となった。

「南洋数え唄」からいくつか紹介したい。数え唄だから、時間を追った歌詞ではない。

「♪一つとサーノエー 広く知られた サイパンは 今はメリケン(米国)の 旗が立つ 情けないのよ あの旗よ」

「♪三つとサーノエー 見れば見るほど涙散る 山の草木も 弾の跡 罪なき草木に疵(キズ)つけて」

「♪四つとサーノエー 四方(ヨモ)山見れば 敵の陣 一日陣地を 築(キズ)き固め 明日来る来る日本軍」

「五つとサーノエー 何時迄も 捕虜と思ったよ やがて助ける 船が来る 御待(オマ)ちしましょう 皆様よ」

「♪九つとサーノエー これから先の 我々は 助けられたり 助けたり 同じ日本の人だもの」 

米軍が反抗に転じ、日本軍が占領していたサイパンなど南洋の島々を攻撃し上陸すると、沖縄からの移民を含め民間人も戦闘に巻き込まれ、日本軍の玉砕とともに「集団自決」においやられるなど、多くの犠牲者が出た。沖縄出身の犠牲者は、一万二八二六人にのぼるそうだ。いまは、これらの島々で犠牲になった人たちを追悼するために毎年、南洋群島慰霊墓参団が訪れている。今年で、四〇回を数える。

戦死や玉砕を免れて、沖縄に帰ることができた人たちの気持ちを歌ったのが「南洋帰り」という唄だ。

「♪汝(イャー)とぅ我(ワ)んとぅや よう三郎(サンダー) 南洋帰りのコンパニー 戦に追ゎーってぃ 洞穴(ガマ)ぐまい 空襲 艦砲 雨降らち あんしん生ちちょる 不思議(ヒルマサ)さよ あゝ懐(ナチ)かさよ テニアン サイパン ロタ パラオ」=お前と俺とは 南洋帰りの同じ仲間だ 戦争に追われてガマに隠れ住んだ 空襲や艦砲射撃で 雨のように砲弾が降ってきた よくもまあ なんとか生きていることか 不思議だよ ああ懐かしい故郷よ。

「♪(南洋帰りのコンパニーまで同じ)杯交(サカジチカワ)ちょてぃ ありくりとぅ 思い出話や 尽(チ)くさらん やっぱり平和や 良いむんや あゝまた行かや」=お互いにお酒を飲み杯を交わし合い あれこれと思い出話をすると 尽きることがない。やっぱり平和はいいものだ。平和のもとで また南洋にいってみたいなあ。

ハワイ移民の苦渋

ハワイ移民も多かったが、日米が戦争に突入したため、予想もしない立場に置かれた。だから少しふれておきたい。沖縄移民は、サトウキビ畑の作業などにつき、やがて土地を借りて栽培する人も出て、パイナップル栽培に進む人もいた。「ハワイ節」という曲は、その当時の雰囲気が歌われている。

「♪四、五年(シグニン)ぬ内に 人勝(ヒトゥマサ)い儲(モ)きてぃ 戻(ムドゥ)てぃ来(チ)ゅる 御願(ウニ)げ しちょてぃ 呉(クィ)りよ サヨサー 願(ニガ)てぃ呉りよ」=四、五年の内に 人よりもお金を儲けて 帰ってこれるように 祈願していてくれ 願っていてくれよ。

「♪別り路ぬ那覇港 悲しさや里前 袖(スディ)濡らす涙 忘(ワ)してたぼな サヨサー 忘してたぼな」=お別れの那覇港 悲しさつのるあなた 袖を濡らす涙を 忘れないでね。

「儲けてくるよ」といって出かけても、太平洋を渡ってハワイまで行くのは大変な冒険であるし、いつ帰れるかもわからない。涙にくれる別れだった。

「ハワイ便り」も、憧れのハワイにやってきたが、親兄弟、彼女とも別れてきた淋しさや、故郷でみんな幸せに暮れせることを願った唄である。

夢を見ながら出かけたハワイ移民であるが、真珠湾攻撃が行われると、状況が一転した。日本人は「敵国人」となり、県系人でも逮捕されて米本土の収容所に入れられる人も出た。日系人二世で組織する「一〇〇歩兵部隊」に志願し、アメリカへの愛国心を示すために勇敢にたたかう人々がいた。

沖縄移民の二世も、志願して通訳兵として沖縄に来た人がかなりいる。「知りあいに会える、ウチナーンチュを助けられるのでは」という嬉しさと、逆に「なぜ同じウチナーンチュに銃を向けるのか」と言われるのでは、という恐ろしい気持ちが交錯したという。通訳兵として、ガマに隠れていた県民に投降を呼びかけて、救出する役割を果たし、県民を救ったので、後に感謝状をもらった人もいる。

ハワイ移民で沖縄に帰って来ていた人が、アメリカ事情を知っているため、命を救った例もある。読谷村波平にあるシムクガマでは、約一〇〇〇人が避難していたが、その中にハワイ帰りが二人いた。米兵が投降を呼びかけた時、英語ができたので、ガマに日本兵がいないことを伝え、米軍は捕虜を殺さないことを知っていたので、住民を説得して救出された。同じ地区のチビチリガマでは、避難していた約一四〇人のうち八三人が集団自決する痛ましい結果を招いた。同じ地区でガマに避難しても、生死が分れたらしい。

ハワイの名前のつく島唄がいくつもあるのは、こうした移民の背景がある。

「ハワイ小唄」は、次のように歌っている。

「♪ハワイ島渡てぃ 島ぬ夢(イミ)見りば 戦(イクサ)さる人(ヒトゥ)どぅ な恨(ウラ)みゆる な恨みゆる」=ハワイ島に渡って来て 沖縄の島の夢を見れば 悲惨な戦争を起こした人を恨みたい。

「♪戦世ん終(ウワ)てぃ 波風(ナミカジ)ん立とぅな 夢(イミ)に幻(マブルシ)に 拝(ウガ)でぃ暮さ 拝でぃ暮さ」=戦争がようやく終わった もう波風はたてない 夢に幻に 島のことを拝んで暮らそう。

戦争も終わって、沖縄に帰って来た喜びを歌った曲に、「ハワイ行進曲」がある。

「♪サヨサー 沖縄に着いた 沖縄の港 久しぶりに着いた デイゴ咲く島に 戻る嬉さ サヨサー 戻る嬉さ」。唄はこのあと、離れ離れになっていた彼女に、焦がれる心を打ち明け、彼女は「私もOKよ」と応じる。二人の愛情が歌われている。

ハワイの県系人たちは、焦土と化した沖縄に心を痛め、復興のために衣料から食糧、種豚など救援物資を送り、沖縄戦災救済運動を繰り広げ、復興の手助けをした。

ハワイでは「郷土救済の歌」という曲が作られ、三線にのせて歌われたという。

「♪恨めしや戦さ罪トガんねらん ウチナ萬民に地極みして」=何の罪科もないウチナーの万民に地獄の苦しみを与えた戦争が恨めしい。

「♪ウチナお間切(マギリ)や一家族でち思て 先じ揃りて救ら今の立場」=ウチナー全住民は一家族と同じ。まずは皆こぞって郷土の今の苦難を救おう。

こんな趣旨で六番まである。沖縄戦災救援運動でどんな物資が送られたのかをテーマにした「恵みの歌」という曲もある。唄には、衣類、種物、郵便、学用品、豚、薬が歌い込まれている。これらは、『新沖縄文学』の特集の「移民地の琉歌と三味線」で野原廣亀氏が紹介している。ハワイに移民した人々が、郷里を遠くはなれても、同じウチナーンチュとして古里の荒廃と苦難に心を寄せる愛郷心が滲み出ている唄だ。

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