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2012年2月28日 (火)

愛と哀しみの島唄、その6

遊女と士族の恋歌

最後に紹介したいのは、那覇にあった遊郭の遊女と士族との恋歌である。沖縄では、遊郭のことを尾類=じゅりという。これは「女郎」と同義語だそうだ。女郎と書いて「じゅり」とも読ませている。

困窮した百姓たちは、娘の身売りをしなければ、滞納する上納物は納められない状況にあった。一六七二年に、那覇で初めて辻、仲島に二つの遊郭を設け、方々に散らばっていた遊女を集め、公娼制度を認めたという(宮城栄昌著『沖縄女性史』)。遊女は、地方の貧しい家の娘が身売りされてくることが多かった。

遊郭といっても「歌舞音曲もやった。芸妓の性格を持っていた。金銭の力で身を売らない信念と誇りを持っていた」という。これが辻の「ジュリ気質」だった(『那覇市史資料篇第二巻中の七』)。

 

なぜか、那覇の恋歌は、この尾類、遊女にかかわる唄が多い。士族がそれだけ遊郭で遊ぶことが多かったからなのだろうか。

「ヒンスー尾類小(ジュリグヮー)」という唄は、こんな歌詞である。「ヒンスー」とは貧しいことだ。

「♪貧乏な遊女は呼びなれて 抱きなれて 金持ち遊女は気位が高い 手が出ない」

「♪馬車持ち兄さんに 呼ばれた時は 砂糖のかけら貰えるよ 呼ばれろよ」

「♪泡瀬(アワセ)の青年に 呼ばれろよ 塩のおこげをもらえるよ」

「♪糸満の兄さんに呼ばれた時は カツオの内臓貰えるよ グルクンの頭貰えるよ」

貧しい遊女の姿が映し出されている。

遊女が詠んだこんな琉歌がある。「親ぬ産し口や 尾類んちや産さん 哀りからなたる 尾類どぅやゆる」。どんな親でも、遊女にするために子どもを生むのではない、困窮のために遊女になったのだ、というような意味である。極貧のために、どれほどの女性が遊女に身を落としたことか。


 辻の遊郭に入口には、西武門という門があった。門は「じょう」と読むので、「にしんじょう」と読む。遊女は勝手に門から街中に出れなくなっていたので、遊びにきた男性をこの門で見送ったそうだ。首里の士族を送る際の様子を歌った唄がある。

西武門節」という。沖縄芝居で歌われヒットした曲だ。

男「♪出かけるよお前」、女「お待ち下さいあなた 西武門まではお送りします」男「♪おしどりの契り変わらないように 染めてあげるからお前を紺地色に」

女「♪染めるならあなた 小烏(コガラシ)のようにね 浅地なら(浮気の意味)ご免ですよ」

女「♪今日は首里に帰って いついらっしゃるのあなた」
男「お前の面影とともに 忍んで来るよお前」

女「♪次に来る時は人力車で来てね 私は西武門でお待ちしています」

男「♪淋しく一人 私は帰って行くのに お前は宿に戻って 華やかな宴だよ」

遊郭で遊んだ帰りの遊女と士族の関係の雰囲気が、とてもよく表現されている。恋仲ではあっても、遊女と士族だから、彼が「紺地色に染めてあげる」、つまり本気で愛してあげるよ、といっても、彼女はどこまで信じていいのか。「浮気ならご免ですよ」というのも、これまでも信じて裏切られたことをたびたび体験しているのかもしれない。彼が帰り際に「お前は宿に戻って華やかな宴だ」というのも、また他の男の相手をするのか、という淋しさがよぎる。とても情感のある曲なので、民謡でも人気がある。

008 尾類の遊女でありながら、琉球王朝の時代を代表する女流歌人として名高い吉屋(ヨシヤ)チルーを歌った曲に「吉屋物語」がある。吉屋は恩納村(オンナソン)で生まれた。「チルー」というのは「鶴」のウチナーグチ(沖縄語)の言い方だ。ちなみに、吉屋チルーと並ぶ女流歌人に恩納ナビーがいる。やはり、恩納村の生まれ。二人とも恩納村の出身で、同じ一八世紀を代表する歌人だ。恩納ナビーはやはり「ナベ、鍋」のウチナーグチだ。「ツル」「ナベ」というと味気ないが、「チルー」「ナビー」と言うと、とっても可愛く聞こえる。ここにもウチナーグチの優しい表現が見える。「吉屋物語」の歌詞を紹介する。写真は、比謝橋のある吉屋チルーの歌碑

「♪誰(タ)がし名付きたが 吉屋言る人や 琉歌(ウタ)ぬ数々や 代々に残(ヌク)て」

「♪あてなしが童 家庭(チネエ)ぬ困難に 女郎花(ジュリハナ)に落てて 行ぢゃるいたさ」

「♪女郎花に落てて 行ちゅる道しがら 渡る比謝橋(ヒジャバシ)に 恨みくめて」

「♪琉歌にちながりて 見染めたる里と 想い自由ならん 此(ク)ぬ世(ユ)しでて」

だいたい分かる歌詞だが、念のため意味を書く。「誰が名付けたか、吉屋という人や 琉歌の数々を世に残して。貧しさのため まだ子どもだったのに 女郎に落ちて行く辛さよ。女郎に落ちて行く道すがら 渡る比謝橋に 恨みをこめる。琉歌を詠みあった縁で 見染めた彼氏は いくら思っても一緒にはなれない この世では」。

比謝橋というのは、遊郭のある仲島に向かう道中、読谷と嘉手納の境にかかる橋だ。チルーが見染めた彼氏は、首里の中里若按司(ワカアジ)といわれる。按司は大名の身分にあたる。厳然とした身分制の下では、いくら愛しあっても結ばれない不幸な出会いだった。

いま紹介した歌は、吉屋チルーが詠んだ琉歌ではない。唄の間にチルーの詠んだ琉歌が挟まれている。琉歌は「ツラネ」と言って、独特の節をつけて読み上げる。

「恨む比謝橋や 情(ナサキ)ねん人ぬ 我(ワ)ん渡さんと思(ム)て 掛きてうちえさ」。「恨みの比謝橋よ 情けのない人が 私を遊郭に渡そうと思って この橋を掛けたのか、この橋さえなければ⋯⋯」というような意味である。女郎に売られるわが身の不幸、辛さを橋への恨みの形で表現している。吉屋チルーはわずか一九歳でこの世を去った。まことに薄幸の歌人である。


 妾を持った士族

士族は恋愛の自由はなかったといったが、その半面、士族の役人などは、妾をもつことがあったようだ。だいたい、琉球国王は、王妃以外に何人もの側室を置いていた。第二尚氏の四代目、尚清王は、王妃の他に夫人三人、妾一人がいた。一七代目の尚灝(ショウコウ)王は、王妃の他に夫人二人、妻八人がいた。琉球王国が廃止され最後の国王となった尚泰王は、明治中期まで生きていたが、やはり王妃の他に夫人二人、妻六人いた。夫人、妻といってもやはり側室である。まるで一夫多妻制のようである。

士族は、家系の存続をなにより重視する。本妻に子どもが生まれないと、妻が夫に妾を持って子どもを生ませるよう勧めることさえあった。先に紹介した名高い政治家・蔡温の父がそうだった。子どもの生まれない本妻のたっての要望で、妾に子どもを生ませた。すると数年後、本妻に子どもが生まれた。それが蔡温だ。異母兄弟になるけれど、兄弟は仲良く暮らしたそうだ。これは、ちょっと本題から離れてしまった。


 首里王府から離島に派遣される役人が、旅先で現地妻を持つことを、本妻も公認していたようだ。だから、役人との間に子どもができたら、「役人の子どもとして奥様からも愛された」ともいう。


 本妻と妾の関係を歌った唄もある。与那国島の
「スユリディヌドゥンタ」という曲だ。

内間間切の新城親方家の息子は、名門をカサにきて、一人の妻で満足せず、西方の島に渡って、美女を妾にし、歓楽にふけっていた。首里王府から御用の王命があり、驚いたが、妾の家には礼服を用意できないので失望した。本妻にお詫びをすると、本妻は蝶型の礼服と羽衣のような礼服を用意し、着させて首里城へ行かせた。途中、大雨で礼服はずぶ濡れになり登城できなかった。本妻を苦しめた罪だと懺悔した。

「♪本妻が非常によい 家にいる刀自(トジ、妻)を 一段と見上げて悟った」。

本妻を賛美する唄である。刀自とは、家の戸主のことだが、沖縄では妻のことである。いまは「妻」と書いて「とじ、つじ」と読んでいる。


 終わりに

最後に、先にふれたもう一人の女流歌人、恩納ナビーを上げたい。彼女の代表的な琉歌がある。「恩納岳(オンナダケ)あがた 里が生まれた島 もりもおしのけて こがたなさな」。歌の意味は「恩納岳の向こう側は、彼氏が生まれた村である 山も押しのけて こちら側に引き寄せたい」。山を押しのけても彼氏を引き寄せたい、とはなんという激しい情熱のほとばしりであろうか。悲運の歌人、吉屋チルーの悲しみと恨みに染められた琉歌とは、対照的である。018

                   写真は恩納村にある恩納ナビーの歌碑

もう一つの有名なナビーの琉歌は、旋律がついて歌われる。

「♪恩納松下に 禁止(チジ)ぬ碑(ハイ)ぬ立ちゅうし 恋忍(クイシヌ)ぶまでぃぬ 禁止やねさみ」。

歌の意味は「恩納村の役所の前の 松の木の下に 色々と禁止事項を書いた立札が立ているけれど 恋を禁止するとは書かれていないから 恋をするのに何も恐れなくてよい」。唄は「恩納節」といい、古典の名曲として知られている。

 当時、琉球は中国皇帝の臣下となっていた。国王を任命するために、皇帝の勅使として琉球に冊封使(サッポウシ)が訪れていた。「冊封使・徐葆光(ジョホコウ)が一七一九年北部観光の途中、恩納村に一泊するというので風紀の乱れを見せたくないという役人らしい発想から青年男女の毛遊びを禁止した」という(川平朝申(カビラチョウシン)著『沖縄の歌と踊り』)。その立札だったのだろう。役人が居丈高に「禁止」の札を立てることを風刺している。そして、少しもひるまない、動じない。誰も恋を禁止なんてできないよ、若者よ、恐れることなく恋を楽しもう、と呼びかけている。そういう庶民のたくましさがある。この琉歌は、おおらかでたくましい沖縄人の精神がギュッとつまっているように思う。

沖縄は、古代から孤島苦とも言われる厳しい自然条件にある上に、薩摩の侵略を受け、琉球処分で明治の天皇制国家の支配下に置かれた。あの沖縄戦では未曽有の惨禍を受け、さらに異民族による軍事支配というたび重なる災難にあってきた。しかし、たくましく、したたかに、おおらかに、希望を失わず生き抜いてきた。一歩、一歩前に向かって歩み続けてきた。その力の源はどこにあるのだろうか?

人を愛する、恋する心は、人間のもっとも人間らしい感情の現れである。それは人が生きる力になる。人生を彩り豊かにもする。そして、恋と結婚は、人間社会が存続し、発展を続ける根源的な要素でもある。


 いままで書いてきたように、琉球・沖縄に生きる人々は、限りない恋や愛の営みの中から、数え切れない恋歌、情け唄、哀歌を作り上げてきた。八重山には、ユンタ、ジラバ、アヨウなど古謡の種類があるが、最も古いアヨウは「心」(あゆ)が転化したものであり、「心、肝に湧き起こった感情そのままをうたった歌であった」(喜捨場永洵著『八重山民謡誌』)という。「心の思いが歌」なのである。琉球の古歌謡を集めた『おもろさうし』の「オモロ」は、やはり「心の思い」から転じたものだという。古謡、民謡には島々に生きる庶民の「心の思い」、つまり「精神世界」が映し出されている。

歌や踊りなど芸能は、日々の生活の苦しさや労働の辛さから、心と体を癒し、抑圧され虐げられてきた精神を解き放ち、明日への生きる力と意欲を再生するうえで、欠かせない。哀歌も、悲しみや憤りを吐き出すことによって、悲しみを癒し、苦しみを共有しあい、くじけない心をつちかってきたのかもしれない。そんな芸能の中でも、特別な位置を占めてきたのが、恋歌、情け唄、哀歌ではなかっただろうか。そのことを改めて強く思い知らされた「愛と哀しみの島唄」である。  
 終わり。二〇〇九年九月二〇日、文責・沢村昭洋)


  参考資料

 滝原康盛編著『琉球民謡解説集』『沖縄民謡大全集』、喜捨場永洵著『八重山民俗誌』『八重山古謡』『八重山民謡誌』、仲宗根幸市編著『琉球列島島うた紀行第一、二、三集』『「しまうた」を追いかけて』、上原直彦著『語やびら島うた』『島うたの小ぶしの中で』、小浜光次郎編著『八重山の古典民謡集』、新里幸昭著『宮古歌謡の研究』、『村誌たらま島 孤島の民俗と歴史』、『平良市史第一巻通史編1』、『伊良部村史』、『那覇市史資料篇第二巻中の七』、亀井秀一著『竹富島の歴史と民俗』、鳥越憲三郎著『沖縄庶民生活史』、宮城栄昌著『沖縄の歴史』『沖縄女性史』、川平朝申著『沖縄の歌と踊り』、池宮正治著『沖縄ことばの散歩道』、岡本太郎著『沖縄文化論』、『八重山歴史読本』。ネット「島唄まじめ研究」その他の関連サイト。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

士族は、家系の存続をなにより重視する。本妻に子どもが生まれないと、妻が夫に妾を持って子どもを生ませるよう勧めることさえあった。先に紹介した名高い政治家・蔡温の父がそうだった。子どもの生まれない本妻のたっての要望で、妾に子どもを生ませた。すると数年後、本妻に子どもが生まれた。それが蔡温だ。異母兄弟になるけれど、兄弟は仲良く暮らしたそうだ。これは、ちょっと本題から離れてしまった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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