愛と哀しみの島唄、その3
とても多い悲恋、別離、片思いの唄
幸せな恋愛ばかりではない。むしろ、悲しい別れの唄や片思い、切ない思いを歌にたくした曲もとても多い。いまよく練習している「無情の月」という曲は、こう歌う。
「♪千里の道でも 陸路であれば 行こうと思えば自由に行ける でも一里の距離でも 海で隔てられた船道では 自由にならない」
「♪貴方への思いを 貫き通している そのことを貴方に知らせたいが もう玉と散っていない 袖に涙するばかりだ」
「♪わが身に幸せの光は ささないのか 無情に照る月だけが 光り輝いている」
なぜ、愛する二人が別れなければならないのか。唄は明らかにしていない。でも「玉と散る」といえば、彼が戦場で散ったのではないだろうか? サークルのおじいに聞いてみたが、この唄は「戦世」の唄ではないという。真相はまだ不明だ。
「白雲節」という曲もやはり、恋仲の二人が海を隔てて離れている。
「♪飛ぶ鳥のように 自由に飛べれば 毎夜行き逢って 語り合えるのに」
「♪例え海を隔てて 別れていても 白雲にのせて この思いを知らせたい」
「♪一人淋しく 眺め見る雲が 貴女の姿に見え 忘れがたい」
沖縄では夏は毎日、青い空に、入道雲がもくもくと立つ。人の姿にも似た形になることもよくある。白雲にのせて「思いを知らせたい」とか、白雲が「貴女の姿に見える」というのは、とてもよくわかる。
次は、琉球王府の時代の実話に題材をえた悲恋の唄である。「瓦屋情話(カラヤジョウワ)」という。美人に生まれたがゆえに、中国から渡ってきた瓦職人に見染められた。瓦職人は王府の要請にこたえ琉球にとどまる条件に、妻を望んだ。白羽の矢が立った女性は言い交わした彼氏がいたのに、王府の命令で生き別れにさせられ、瓦屋の妻にさせられてしまった。
「♪私の身体は瓦屋村にあるが 心は貴方のお側にあります 忘れようとしても忘れられない 貴方の情け」
「♪瓦屋の頂に登って 真南を見ると 古里の村が見えるが 貴方の姿は見えない」
こんな悲恋の物語である。実際に漂着した中国人が、国に帰るのを欲せず、那覇の国場村に住み、妻をめとり、陶舎を造り瓦器を焼いたという。「我国(琉球のこと)瓦を焼くこと此れよりして始まる」と伝えられている(『遺老説傳』)。沖縄は赤瓦が有名だが、瓦焼きの始まりはここにあるようだ。
瓦職人の名を渡嘉敷三良(トカシキサンラ)という。彼が住んだ国場村とは、わが家のすぐ近くだ。しかも、その子孫がいて、家屋敷も残っている。妻は、沖縄大学の民俗学のフィールドワークで、国場の付近の住民が、昔から祈りをする御嶽(ウタキ)御願(ウガン)の場所や史跡を見て回った際、今は増築されたこの家屋敷も見たという。
悲恋の唄で多いのが、一度は愛情を交わし合った仲なのに、男が心変わりして離れていって結ばれない話である。「情の唄」という曲はこういう内容だ。
女「♪思いあう仲 離れられない仲なのに どうして貴方は心変わりして 私の思いをあだにするの」
男「♪思いをあだにする 私ではない 義理にしばられて 貴女と私は思うように 自由にはならない」
女「♪昔バカな人の言ったことを守って 義理にしばられているのね 義理って何なの? 染めて下さい、という私の思いを あだにするの」
つまり、女性は愛情をなによりも大切にして思い続けているのに、男性は世間体や義理にしばられて愛情を貫けないのだ。
「デンスナー節」という唄も、男の身勝手を歌う。
男「♪初めて会ったのに 情けまでかけてくれて 愛しい貴女は夫がいないのか」
女「♪夫がいればどうして 貴方に情けをかけようか 私を愛して下さい」
男「♪結ばれたいが 地元に私を待っている人がいる 自由にならない」
このように女性は恋に自由に生きるのに、男性は義理にしばられて愛情を貫けないという構図は、あのオペラ「カルメン」と同じである。自由な女、カルメンに比してドン・ホセは軍隊や母親のしがらみから、まっすぐに恋に走れない。闘牛士エスカミーリョに魅かれるカルメンに嫉妬したホセは、カルメンを刺し殺すという悲劇に終わる。義理にしばられる男と、恋に一途な女性という関係は、スペインも沖縄も、やはり共通するものがあるようだ。日本の民謡では、こういうテーマがあるかどうか知らないが、沖縄民謡では、なぜかとても多い。
「白骨節(シラクチブシ)」はちょっとすさまじい歌詞だ。愛しあう二人だが、この世では結ばれない仲。互いに強く愛しあい、彼と手を取り合って海に身を投げる。
「♪離すなよ 死出ぬ旅に行くまでや」
「♪堅く信じて 命を捨てたのに 彼は心変わりして 死ぬる命が惜しくなった」「♪無情にも私一人 荒波の中に捨てて 行方がわからない」
死出の旅まで約束しながら、彼女を一人荒波の中に置き去りにするとは、究極の裏切りである。女の恨みの唄、怨念の唄である。
たくましい琉球弧の女性たち
田端義夫が歌って全国的にヒットした「十九の春」は、歌詞がなかなか面白い。
女「♪私があなたに惚れたのは 丁度一九の春でした いまさら離縁と言うならば もとの十九にしておくれ」。十九歳の乙女の心を奪いながら、離縁をちらつかせる男の身勝手に一歩も引き下がらない。男「♪枯木に花が咲いたなら 十九にするのもやすけれど」と開き直る。女「♪見捨て心があるならば 早くお知らせ下さいね 年も若くあるうちに 思い残すな明日の花」。あなたが見捨てるなら、私はまだ若いから花を咲かせたいから、早く言ってよ、と未練たらしいことは言わない。男がさらに「同じコザ市に住みながら 逢えぬ我身のせつなさよ」と未練がましい。でも女は「♪主さん主さんと呼んだとて 主さんにゃ立派な方がある いくら主さんと呼んだとて 一生忘れの片思い」と歌う。男の身勝手に未来がないことをすっかり見通している。
この唄のルーツは、沖縄には近い与論島の「与論小唄」だそうだ。歌詞もメロディもとても似ている。与那国島出身の本竹祐助さんが歌詞の補作をして歌ってヒットさせた。歌詞の内容は大筋で「与論小唄」と同じだ。いまでは沖縄民謡として全国で知られた人気曲になっているのだからおかしな話ではある。でもここには、沖縄・奄美諸島に生きる女性のたくましさがとてもよく表現されている。
意外に多い「恨み節」
民謡を歌っていて、少し意外な感じがするのは、恋仲の二人が「心変わりするなよ」と互いに誓い合う唄が多いことだ。永遠の愛を誓うことは、どこでもあるだろう。でも、これだけ強調されるのは、逆に言えば、恋に燃え上がっても、やがて心変わりして別れるケースが多いという、現実が反映しているのかもしれない。
すでにいくつか男の身勝手や「心変わり」の唄を紹介したのもその一例だ。
「想偲(ウミシヌ)び」という曲は、女性に去られた男心を歌う。
「♪朝夕、愛しい貴女の面影が立つ 思い焦がれる 心の侘しさよ」
「♪貴女の心が変わって 他所の男に心を染めてしまったら この世をあきらめて 夢の花を散らそう」
「ほたる火」という唄もやはり心変わりを恨む唄だ。
「♪いつまでもと思って 語り合った二人だが 彼女の心が変わって 無情にも私を捨てて 他所に行ってしまった」
「♪無情なこの世界(シケ)に 生まれた我身と心の切なさよ」。
両方の唄とも、サークルの練習曲に入っている。でも、男が彼女に捨てられた唄は、どうも未練たらしい。「捨てられたのは彼にも問題があったのでは」と思ってしまう。なんか惨めったらしくて好きになれない。歌っても気持ちが入らないから不思議だ。
捨てられた男を歌っても「愛の雨傘」という唄は、ちょっと変わっている。
男は「♪私の心をかきむしった 悪魔の女め 浅ましい根性の 罰当たり女め」と毒づく。別の女性から「♪恨んでどうなるの 忘れなさい彼女のことは 芝居でも見に行きましょう 御供します」と慰められる。男は彼女に恋をし「心から愛して 変わらないでね」と言う。彼女も「貴方のお好きなように 白地の私を染めて下さい」と応じる。男は最後に「私を捨てた女よ 今では笑い草だ」と見返す。これはこれで、男の変わり身の早さにとまどう。それにしても、ちょっと異色の歌詞であることは間違いない。
ここで、ちょっと横道にそれる。恨み唄で思いだしたのは、言霊(コトダマ)信仰のことである。沖縄や奄美諸島では、口から出た言葉には、霊力があると信じられていた。言霊、「ことだま」という。琉球弧だけでなく、日本でも少なからず言霊信仰はあったのではないか。というのは、今でも子どもに名前をつけるとき、子どもがこう育ってほしいという思いを名前に託す。縁起の悪い言葉は名前にしないし、口にもしたくない。数字の「四」は死に通じるから避ける習慣がある。これらも一種の言霊信仰の名残りなのだろう。
南島では「優れた歌をよめば、その歌にそなわる霊力で目的をまっとうすることができると固く信じられている」と島唄の評論家である仲宗根幸市氏は指摘する(『「しまうた」を追いかけて』)。
問題は恨みの唄である。恨みを込めることになるからだ。ところで奄美では、呪いを歌とする「逆歌(サカウタ)」「サカ歌」というのが存在するという。「サカ」とは、この世とは逆の世界、つまりあの世のことを指している。言霊によって恨みのある人を呪う、あの世に送ることができると考えられていたそうだ。「逆歌」を仕掛けられた場合は、返し歌ではねのけなければならない。「逆歌の掛け合いは生命を賭けるため、真剣勝負の世界」だったという(仲宗根氏、前掲書)。ここまでくると、ちょっとおぞましすぎる世界だ。沖縄では、そういうことまでは聞かない。でも「恨み唄」が多いことは確かだ。
戦世(イクサユ)が招いた悲恋
悲恋の唄というか恨みの唄というか、「嘆きの梅」という興味深い曲がある。
男「♪鶯(夫)の留守に情けない梅(妻)は あのような夜鴉(夜遊びの男)に宿まで貸した ※(はやし)そうなったのは誰が悪いのか」
女「♪昔から聞きなれた夫の声は 年が経つにつれ 聞きたくもない ※同」
男「♪貴女の私は離れられない縁なのに 他の男に迷ってついて行くのか ※同」
女「♪一寸の慰めに夜遊びの男に迷い 後は心は悔んで泣き苦しんでいる ※同」。
ちょっと見るとただの恋のもつれの唄のようだ。でもこの唄の深層には戦争があるという。戦世の時代、夫が出征すると、生きて帰ってこれるのかわからない。生死不明の場合がある。戦死の誤報の例もある。妻一人生きていくのは大変だった。浮気をした人もいれば、死んだと思って再婚した人もいた。夫が復員してみると、残酷な現実を目にする。こんな例はけっして珍しくなかった。この唄は、鶯を出征した夫、梅を妻、夜鴉を妻の相手の男と置き換えてみれば、なるほど戦世の悲運の物語として見えてくる。
注目すべきは、一節ごとに繰り返される「そうなったのは誰が悪いのか」のはやしの言葉だ。戦争で出征しなければ二人は幸せに暮らせたはずだ。「誰が悪いのか」は鋭い問いかけである。唄は戦前、戦後に数々の民謡を作った知名定繁の作詞作曲である。
庶民が日々、生き暮らすなかから生まれる民謡は、時代をまるごと映しだす。戦世には、戦争によって引き裂かれた恋愛がどれほどあっただろうか。これはこの前の拙文「戦世と平和の沖縄島唄」で書いたので触れない。
といいながら、一つ不思議なのは、戦世の中での恋歌、情け唄はたくさんあるのに、戦後の米軍統治のもとでの、米兵と沖縄女性の恋の唄は、聞いたことがない。実際にはたくさんの恋があったし、いまもあるだろう。なのに、米兵との恋歌がないのはなぜだろうか。
考えられるのは、米兵との恋は、幸せになった女性もたくさんいるけれど、そんなケースばかりではない。むしろ、米兵が沖縄女性と恋愛しても結局、いつの間にか姿を消したり、帰国する時に捨てていった例もある。恋人の米兵が、ベトナムなどに派遣され戦死した人もいる。結婚して二人で渡米したけれど、彼が帰国すると心変わりして、離別の道を歩んだ例もある。恋が実らず悲しい、辛い思いをした沖縄女性がどれほどいるだろうか。米兵との恋歌がないのは、そんな事情があるからだろうか。
西表島などで開拓を断行したのだ。王府の収入を増やすには、未開の地の開拓が手っ取り早いと見たのだろう。
とくに、琉球王朝の時代に、らつ腕をふるった政治家として名高い蔡温(サイオン)が、この強制移住を進めたという。そのやり方は、住民の事情などまるで無視し、冷酷そのものだった。部落内の道路を、密かに、ここからここまでと区切って、この中にいる者はすべて「新村建設の寄人」、つまり移住者だと命令をしたという。そのため、恋人であろうと引き裂かれた。
蔡温は一七一一年から一七五二年までの四二年間にわたって、なんと「八重山二〇数カ所の新村並に併合、廃村などを断行した」(喜捨場永洵著『八重山民俗誌 下』)というから凄まじい。
波照間島からの島分けの唄を紹介したい。「崎山ユンタ」「崎山節」という。これは、一七五五年ごろ、西表島の崎山という地に、女二〇〇人、男八〇人(唄では女一〇〇人となっている)が移住させられ、崎山村をつくったという。崎山村は急傾斜地であるうえ、マラリアの有病地だった。
「♪誰だれがと思い 心配していたら 私も移住者の一人 多くの人々も強制移住させられた」
「♪許して下さい 可哀想だと思って同情して下さい お役人様お願いいたします」
「♪恐れ多くも国王の命令で 絶対的であるから 同情して許すこともできない」
「♪いやいやながら 仕方なく 命令を受け 移住させられてしまった」。
こんな風に歌う哀切極まりない唄である。移住者の一人の老婆が、移住と開拓の辛さを歌ったのが「崎山ユンタ」だという。この唄を聞いた役人が、同情して老婆一人を故郷に帰したとも伝えられる。このユンタを改作したのが「崎山節」だという。
移住強制させた役人の責任を問う
島分けの唄には、まだまだ紹介したい唄がいろいろある。「舟越節(フナクヤーブシ)」は、石垣島の石垣、登野城(トノシロ)から一四八人が、同じ島内で北部の舟越、伊原間(イパローマ)、安次(ヤッサ)に新村をつくるため強制移住されたことを歌っている。ここは、やはりマラリアの有病地だった。この唄は、「生き地獄」ともいわれた苦しさの嘆きにとどまらない。島分けを実行した役人の責任を問い詰めているのが注目される。
「♪どんな役人が建てたのか どこの親方が計画したのか 当時の役人が移住を命じた 先見の目のある役人が厳命したのだ 当時の役人は最高の頭職になってくれるな 先見の目のある役人は 目差役(助役のような役職)になってくれるな」。
ただ、唄はこのあと「♪新村で暮らしているうちに 舟越村が住みよい所になった」「♪当時の役人よ 願わくば頭職になって下さい」と一八〇度逆のことを歌う。唄の流れから、とても奇妙で不自然だ。昔は、役人が歌詞を改作することがあったという。改作されたのか。それとも、役人をほめ殺ししようとしたのか、真相はよくわからない。
もう一つ上げたい。「川良山節(カーラヤマブシ)」も石垣島の石垣村、登野城村から六〇〇人を名蔵(ナグラ)村に強制移住させた。ここもマラリアで恐れられた地だったという。川良山の山道工事にもあたらせた。島分けも山道工事も辛いことだったのだろう。唄はこう歌う。
「♪川良山の上に白雲が立ったなら 彼氏と思って下さい 愛しい彼女と思って下さい」
「♪川良山がなければ 山道がなければよいのに なぜ川良山だ どうして山道なのだ」。
白雲が立ったなら愛しあう二人と思って下さい、というのは胸をつく切ない歌詞である。ラジオの民謡長寿番組のDJであり、唄の作詞者でもある上原直彦氏は,次のように解説している。
「愛しあう仲さえひき離す中央の権力が介在していた。強制労働の中でも、愛を語ることのできる平和な世がほしかったのであろう。軽快なテンポで歌われるにしては、なんとも哀調をおびているのは、八重山の民の血の叫びがあるからだ」。
開拓の地はもともと条件がよければ人が住みついているはずだ。だから開拓して新しい村を建設するのは容易ではない。石垣や西表は、マラリアがまん延する地域が各地にあった。「生き地獄」といわれるのも当然であった。琉球王朝時代に、無理して強制移住で開拓した村も結局は、住民が減って、崎山村など廃村になった村も少なくない。
実は、こうした悲劇は、遠い過去のことだけではない。沖縄戦の際にも、八重山では日本軍は米軍の進攻に備えて、石垣島や波照間島などの住民を、石垣の島内や西表島のマラリア有病地に強制避難させた。このため、たくさんの住民がマラリアで苦しめられた。亡くなった人は三六四七人にものぼる。石垣島など米軍の直接の進攻はなかったのに、悪夢のような悲劇の歴史が繰り返されたのである。
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