戦世と平和の島唄、その7
ポップス系の島唄でも
民謡とは言えない若い歌い手によるポップス系の唄にも、とてもよい平和の島唄がたくさんある。とても全部はふれられないので、いくつか紹介したい。
有名なのはTHE BOOМの「島唄」である。「♪でいごの花が咲き 風を呼び嵐が来た でいごが咲き乱れ 風を呼び嵐が来た 繰り返す悲しみは島渡る波のよう ウージの森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら⋯⋯」という歌詞だ。でいごがたくさん咲くと台風が多く来ると伝えられている。初めのカ所はそれが念頭にあるだろう。問題は、次の所である。
「ウージの下で」とは、沖縄のことを知らなければ理解ができないことだ。「ウージ」とはサトウキビのこと。人間の背丈よりはるかに高いウージの林は、男女の出会いと語らいの場になったのだろう。沖縄戦では隠れ場所にもなった。だから米軍は、掃討作戦でウージ畑を焼き払うこともした。では「ウージの下」とは何か。激戦地の南部は、地表が琉球石灰岩で覆われ、水は地下に流れ洞穴(ガマ)をつくっている。ウージ畑の下はガマになっているのである。多くの住民がガマに避難した。砲弾で傷つきガマに逃げた人もいるし、隠れたガマで米軍の攻撃を受け死傷した人もいる。ガマにはさまざまな悲劇の人間ドラマがあった。
この曲の二番では「♪ウージの森で歌った友よ ウージの下で八千代の別れ」と歌う。つまり、サトウキビ畑で出会い、ともに歌った愛しい彼女と、永遠の別れをしなければならなかった、辛い物語が秘められている。作詞作曲した宮沢和史は、県外人だが、沖縄に来た時に、「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れた際、そこでひめゆり部隊の生き証人として沖縄戦の実相を語り継いでいるおばあから話を聞いて、その女性に捧げるためにこの唄を作ったという。
「♪島唄よ風に乗り 届けておくれ私の涙」「♪海よ宇宙よ神よいのちよ このまま永遠に夕凪を」と歌う胸内には、死者への哀悼の意と平和への祈りが込められている。
若手の民謡歌手の神谷千尋(カミヤチヒロ)が歌う「空よ海よ花よ太陽よ」は、フォーク系の島唄だ。作ったのは、岸本しゅん平という作詞家だ。
「♪夢の欠片 埋もれてる 深い憂いの果て 遥か昔の 悲しみの夏 小さなこの島の」「♪どこまでも 青く広がる 輝く海と空 紡ぎ合わせた 小さな祈り 寄せる波は静か」と続く。夢や希望を抱きながら無残に押しつぶされた無数の人々の「悲しみの夏」を決して忘れてはいけない、「小さな祈り」を紡ぎ合わせ、「空よ海よ花よ太陽よ 島の祈り届け」と歌う。そして最後は「平和の願い届け⋯⋯」と静かに終わる。声高ではないが、「島の祈り」がじーんと胸にしみる曲である。
森山良子の歌う「ザワワ、ザワワ」の「さとうきび畑」は名曲だ。突然海の向こうから戦争がやって来て、「鉄の雨」に撃たれ父は死んだ、と歌う。モロ沖縄戦を主題にしている。ただ、あまりによく知られているので、紹介するまでもないので省く。
海勢頭(ウミセト)豊氏は、「さとうきびの花」「月桃」など、沖縄から平和の音楽を創り出している作曲家だ。沖縄戦を描いた映画「GAМA(ガマ)――月桃の花」の挿入歌「月桃」から紹介したい。
「♪摩文仁の丘の 祈り歌に 夏の真昼は 青い空 誓いの言葉 今も新たな ふるさとの夏」
「♪海はまぶしく キャン(喜屋武)の岬に 寄せる波は 変らねど 変わるはてない 浮世の情け ふるさとの夏」
「♪六月二三日待たず 月桃の花散りました 長い長い 煙たなびく ふるさとの夏」
「♪香れよ香れ 月桃の夏 永久(トワ)に咲く身の花心 変わらぬ命 変わらぬ心」
民を見捨てた戦さの果てに
サザンオールスターズの桑田佳祐が作詞作曲した唄に「平和の琉歌」がある。これは桑田が一九九六年に、一七年ぶりに訪れた沖縄で演奏されたと聞く。沖縄の現実を深く知っていないと作れない歌詞だ。彼がただものではないことを証明する曲である。沖縄人の作品ではないが、沖縄そのものが主題になっているので、島唄に入れた。
写真は、「平和の琉歌」も歌うネーネーズ
「♪この国が平和だと 誰が決めたの? 人の涙も渇かぬうちに アメリカの傘の下 夢も見ました 民を見捨てた戦争(イクサ)の果てに 蒼いお月様が泣いております 忘れられないこともあります 愛を植えましょうこの島へ 傷の癒えない人々へ 語り継がれてゆくために」
「♪この国が平和だと 誰が決めたの? 汚れ我が身の罪ほろぼしに 人として生きるのを 何故に拒むの? 隣り合わせの軍人さんよ 蒼いお月様が泣いております 未だ終わらぬ過去があります 愛を植えましょうこの島へ 歌を忘れぬ人々へ いつか花咲くその日まで」
沖縄に住んでいると、「この国が平和だと誰が決めたの?」というフレーズは、違和感なく響く。前にも書いたように、戦争と隣り合わせにいるからだ。「アメリカの傘の下 夢を見ました」というのも、軍国日本による「民を見捨てた戦争の果てに」、アメリカの支配下で生きるしかなかった。基地で雇われ働き、中には基地から軍用品をかっぱらう「戦果アギヤー」で稼いだ人もいる。米兵相手の商売をして日々の暮らしを立てざるを得なかったのが、沖縄の現実だった。
とくに「汚れ我身の罪ほろぼしに」とは何か。侵略の戦争をはじめ、国民と沖縄県民にどれほどの苦難を与えたことか。しかも、そのあげくに、沖縄全土をアメリカに差し出し、軍事基地としていまなお自由勝手に使わせ、莫大な税金まで注ぎ込んでいる。「罪ほろぼし」に、平和だといわれても、「沖縄振興」だと補助金をばらまかれても、傍若無人な米軍基地の現状は何ら変わらない。その日本政府への批判は鋭い。
「人として生きる」権利を拒む「隣り合わせの軍人」、つまり米軍のことを厳しく告発していることが、注目される。街のど真ん中にまで、基地がドンと居座るこの沖縄。米軍機の爆音や墜落、米兵による女性への暴行、タクシー強盗など犯罪の多発によって、「人として生きる権利」がどれほど侵されてきたことか、これからも侵され続けるのか。米軍は「良き隣人」でありたいというが、それが軍事基地である限り、「良き隣人」になどなりえない。この曲は、沖縄県民が、人間らしく生きることを抑圧する日米安保体制の欺瞞性というかその本質を、桑田流のわかりやすい言い回しで暴き出している。
民謡歌手の女性四人グループ「ネーネーズ」もこの曲を歌っている。こちらは、沖縄を代表する唄者の一人、知名定男作詞のウチナーグチの歌詞が付け加えられている。
「♪御月様前(オチチョウメー)たり泣(ナ)ちや呉(ク)みそな やがてぃ笑ゆる節(シチ)んあいびーさ 情知らさな くぬ島ぬ 歌やくぬ島ぬ 暮らしさみ いちか咲かする愛の花」=お月さまの前で泣いてくれるな やがて笑える時節もあるよ この島の情けを知らせよう 歌はこの島の暮らしそのもんだよ いつかきっと咲くだろう 愛の花が。
この加わった歌詞の部分には、告発だけでなく、「いま辛いことがあっても決して希望を失わない、やがて笑える日がきっと来るよ」というウチナーンチュの肝心(チムグクル)がとてもよく表現されている。
沖縄県系ぺルー移民の三世、アルベルト城間(下写真)を中心に結成された沖縄初のラテン系バンド・ディアマンテスの唄に「片手に三線を」という曲がある。リーダーでボーカルのアルベルト城間が作曲し、歌詞は方言の先生らとの合作になっている。「♪青年(ニーセター)よ 三線片手に弾き鳴らし 平和求めて共に この船で旅立とう」「♪青年よ 壊れた壁に橋渡し 遠く離れた友に この夢を届けよう」「♪哀しく 繰り返してきた思い出を 気持ち高めて 輝く未来(アシタ)へ 変えてゆこう」。
この歌には、県系のペルー移民としての、これまでのさまざまな苦労や悲哀と、それに打ち克ってきた歩み、そして沖縄とペルーへの熱い思いがある。苦しい時、悲しい時、さまざまあっても、慰め合う言葉より、三線弾いて励まそう、世界に目を向け、旅立とう、と歌う。これはペルー三世ならではの心境が込められているし、ウチナーンチュ魂もとても感じられる。ラテン的な色彩がにじんだ島唄である。
五月四日に開かれた那覇ハーリー会場で、彼らのライブがあり、初めてナマで見ることができた。この唄を歌ってくれたが、彼の熱いメッセージが伝わってきた。
時代を映し出す島唄
こうして見てくると、戦争の時代、戦後の復興と平和にかかわる島唄が実にたくさん作られ、歌われ、歌い継がれてきたことがわかる。沖縄民謡は、伝統的にはいくつかのジャンルがある。それは、お祝いの唄や五穀豊穣や豊年の世を祈る唄、人が生きる上での教訓を表した曲、恋愛や夫婦の愛情、親子の愛情、人間の喜怒哀楽、働く尊さ、島の景色と人情の美しさを歌った曲などたくさんの唄がある。でも、戦前の民謡では「平和の島唄」は、寡聞にして知らない。戦前は、平和の声を上げることが弾圧の対象だったから、当然かもしれない。
でも、あの痛ましい戦争、とくに悲惨な沖縄戦を体験した戦後は、戦争の悲惨を繰り返してはならないという非戦の誓い、平和の願いは、沖縄民謡にかかわるあらゆる人たち、唄者たちにとって、心からの叫びとなっている。だから、これほど数え切れないほどの「平和の島唄」が作られてきた。曲名に直接に平和の名がついていなくても、平和の願いを込めた民謡、島唄は、もっともっとたくさんある。これほど多くの「戦世と平和」を主題にした民謡、島唄が作られた地方は、全国を見回してもおそらく他にはないだろう。それだけの規模と広がりと深さをもち、それが人々の共感を集め、支持され、愛されていることを改めて痛感した。
「戦世と平和の島唄」が、戦中、戦後と作り続けられている要因として、ふれておきたいのは、それが沖縄民謡、島唄の特性に根ざしているということである。それは、民謡が文字通り、庶民が日々、生き、暮らす、その日常の営みから、喜びや悲しみ、苦労や楽しみ、人々の共通の感情を表現することを本性としているからだ。島はまた、暮らしの中に芸能が息づいている。唄は、島に暮らす人々の身近にいつもある存在だ。子どもの時から、祭りと芸能は生活の中に密着していきずいている。
だから唄を作るのもたいてい専門の作曲家や作詞家ではない。民謡の歌い手は、いま流に言えば、シンガーソングライターであり、民謡と島唄は、沖縄フォークソングとも言えるものだ。みんな自分と周りの人々が歩む人生と暮らしの中から唄を作る。だから、庶民が生きた社会、人々の暮らしと人生を巻き込む出来事は、民謡にも鏡のように映し出される。時代を敏感に反映するのはなんら不思議ではない。むしろ、そこに沖縄民謡、島唄の特徴と魅力があると言えるかもしれない。
長々と書いてきたが、「戦世と平和の島唄」はこれで終わりではない。ここでふれていない唄でも、まだまだたくさんある。これは、あくまでも私が目にしたものをピックアップしたにすぎない。沖縄で活動する歌手が歌っている、さまざまな唄の中には、平和への祈り、命と平和の尊さがいろいろな形で刻み込まれている。これからもまだまだ、たくさんの「平和の島唄」が作られるに違いない。こられの唄のフォローはある意味で際限がない。この原稿はいったんここで幕引きとしておきたい。
(終わり、沖縄戦から六四年の二〇〇九年五月一〇日)
文責・沢村昭洋
参考文献 滝原康盛編著『沖縄民謡工工四』全一二巻、同『沖縄民謡大全集』、備瀬善勝、松田一利編著『歌詞集 沖縄のうた』、『新沖縄文学五二号、島うたでつづる沖縄の昭和史』、上原直彦著『島うたの周辺 ふるさとばんざい』『島うたの小ぶしの中で』『語やびら島うた』、沖縄国際大学大学院地域文化研究科「ウチナーンチュのエンパワーメントの確立―沖縄音楽社会史の変遷を通して」、新城俊昭著『琉球・沖縄史』、『沖縄の百年』、琉球新報社『沖縄戦新聞』、その他インタネットの関連サイト。
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