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2012年2月29日 (水)

人頭税哀歌、その2

八〇を超える村が廃村になる

財政のひっ迫から移住による開拓を強引にすすめる政策が、いかに無謀なものだったのかを物語るのが、新たに建設した村々が、次々に人口が減少して、廃村になっていることだ。戦後、琉球民政府の衛生部長を務めた大浜信賢氏が、「八重山の廃村」を調査研究している。それによると、廃村の数は、石垣島で二三村、西表島で二三村、その他各離島で三四村、合計八〇廃村という多くにのぼるという(『八重山の人頭税』)。

 開拓で創設された新村は、いずれも八重山の風土病ともいうべきマラリアの「巣窟」というべきところだという。マラリアの有病地でない場所は、住民は経験からわかっていて、すでに定着し繁栄しており、人頭税の増収を目的とする開拓は、恐ろしいマラリアの有病地しか残っていなかった。そんな悪条件の場所に新しい村を創設するのは「無辜の良民を有病地の火葬釜に投げ込むのも同然」だったという。

 大浜氏は、こんなに廃村が多い原因として次のように結論づけている。なんといっても移住地が①マラリアの有病地であること②新設部落の立地条件について蔵元(地方行政庁)がまったく考慮にいれていないこと③人頭税の苛酷さが住民に部落の繁栄をきずきあげるゆとりをまったく与えていなかったことがあげられる。廃村の陰に、どれほど多くの貧しい人々の血と汗と涙が流され、命が奪われたことだろうか。

ムチ打ちと拷問で責め立てる

 農民が耕作するのにも、役人は監視し、少しでも遅れるとムチで尻を打たれたという。

「耕作の善し悪しを役人に報告させ、気を抜いている者は尻を打つようにと命じておきましたが、十分にその成果がでていない」

「今後、百姓を近所の七、八人ずつで組をつくり⋯⋯村はずれ、道々の筋に小屋を作り、朝は辰時(午前七時)に出て、各人に書付けの木札を渡し、晩は戌の時分(午後七時∼九時)に出て、百姓が帰り次第、右の札を受け取って通すこと。もし朝に遅れる者はただちに尻をむちで打ち、役人へ引き渡すこと」。

こんな記述が、八重山の地方行政庁ともいうべき蔵元から、首里王府への問い合わせや報告と、王府からの布達などの往復文書集(「参遣状(マイリツカワシジョウ)抜書」)にある。

このように、百姓に組を作らせ、朝早く出かけて、夜は夜星を仰ぐまで働かせる。なんの罪を犯したわけでもないのに、遅れただけで尻を打つなんて、まるでドレイのような野蛮な扱いではないだろうか。

 石垣島に「むり星ゆんた」という唄がある。

「♪ウハラ田の側に 田小屋を作りなさり 田小屋に泊まりなさり ここに宿ってみたら 上がりなさる星は 群れ星が上がりなさる 群れ星の後から 牡牛星座が上がりなさる 牡牛星座の後から オリオン星座が上がりなさる オリオン星座を見なさり 群れ星を目標にして 米を作り作りなされよ 稲の穂をおろしなされよ」

「群れ星」とは昴星座のことである。星座が歌われているからといって、ロマンチックな話ではない。田小屋に泊まり込んで、オリオン星座、昴星を見る時間まで農作業をした労苦がうかがわれる唄だ。

 もし、人頭税を滞納するとどうなるか。村番所に呼び出されて、「かし木」に入れられる。「かし木」とは、一種の拷問器である。両足を丸太で挟んで締め付けるようなものだという。いったんこの拷問を受けると、大抵が身体に障害を受け、「疋人」(ヒキニン、障害者)といわれて、一生を日陰者として暮らすことになったという。十字架もあったそうで、未納の多い者や村の内法(村の内規)を侵した者は、多くはこの十字架にしばりつけられ、罪の度合いによって一日から五日も縛られた。また科鞭(トガブチ)といって、長さ一尋(ヒロ、両手を広げた長さ)、周り五寸の樫木で叩きつけられる。村番所から、滞納者の悲鳴が絶えなかったそうである。滞納で村に住めなくなり、逃亡したり、中には山賊になる例もあったという。これらは『伊良部村史』が伝える苛酷な実態である。

 重い人頭税をなんとか逃れたい、なくしてほしいという農民の願いを込めた唄が有名な「漲水(パルミズ)のクイチャー」だ。クイチャー(声合)は、宮古を代表する唄であり、踊りである。もともと山も川もない宮古島は、雨水が頼りであり、雨乞いの踊りだったそうだ。

Hirara     「漲水のクイチャー」が得意なhiraraさん

漲水とは、宮古の地名で、港がある。宮古は、人頭税廃止のために勇敢に立ち上がり、農民の代表を東京まで送り出し、ついに廃止を勝ち取った。沖縄の歴史の中でも金字塔として輝いている。これは後から詳しくふれたい。その時に上京団を送り出し、迎えたのが漲水港であり、この唄が歌われたという。唄はこんな歌詞だ。

「♪漲水港の船着き場の砂が 粟や米になって上がってきたら 島全体の三〇余りの村の兄さんたちは 厳しい税金のために働くことなく 楽になるよ」

「♪大神後(ウガングス)の海岸に寄せる波が 織物の糸になって上がってきたら 島全体の三〇余りの村の姉さんたちは 厳しい税金のために 麻を紡がないで 糸もかけないで 楽になるよ」

 クイチャーは、沖縄本島のカチャーシと同様に、とっても軽快でうきうきするようなリズムだ。でもこの唄には血を吐くような思いが込められており、歌詞の内容は、とてつもなく重い。といっても、軽快な唄を聞くと、苦しいけれど、それにめげないで、楽天的に生きてきた宮古の人々の心意気が感じらとられる。

 

ドレイのような「名子」が明治まで

人頭税をどうしても納められない百姓は、ドレイのような境遇に身を落とした。それが「名子」と呼ばれる身分である。「名子」の「名」は土地、「子」は労力の提供者を意味するそうだ。役人の家でドレイ的な奉公をして、人頭税の負担を免れるものである。とくに宮古に多く、八重山では聞かないそうだ。薩摩の植民地となっていた奄美諸島には、「家人(ヤンチュ)」と呼ばれる人がいた。年貢が納められず借金がかさみ「債務ドレイ」となったもので、名子と同じような存在だ。幕末には人口の約三割もいたという。

宮古では、士族の役人は、役職によって、名子を何人抱えることができると定員が決められていた。名子を抱えれば、役人は自分が名子から税を徴収できた。役人は自分の年貢高を補うために、名子を使う習慣をつくったという。名子を出した村は、村に残った他の農民たちが、名子の分まで年貢を負担したので、農民はいっそう窮乏したという。

名子は、役人のドレイのようになる点では、非人間的な存在ではあるが、滞納によって恐ろしい「かし木」の責苦を受けずにすむ。だから、人頭税を恐れる農民は、縁者を頼って役人の家に奉公することを自分から願い出たという。

本来、どんな時代であっても、人間は人間らしく生きたいという感情をもっているはずだ。それが、ドレイのような虐げられた身分に、みずから願い出る人が後を絶たなかったところに、人頭税の非情さが表れているといえそうだ。

人頭税の上にあぐらをかく役人の腐敗と横暴もひどかった。役人は個人的に必要なものを百姓に無償で出させた。野菜や魚、カヤやススキ、縄、ミキ(酒)など供出させる。同じ士族でも下級だと無禄で、百姓より軽いが人頭税の負担がある。上級の役人になるために点数稼ぎをしなければいけない。「人民を差別し、私用し、定納に割重(ワリカサ)みして私服する中で私財を積み、それを賄賂や寄進に使う」(『平良市史通史編』)ということが横行した。 

公役で農民を使うことも頻繁だった。八重山には「二〇日オーデーラ」という言葉がある。つまり月に二〇日、公事(コウジ)に出る。役所が求める仕事に出ることを意味する。たとえば、役所が必要とする船材や建築用材の切り出しの労役などその一例だ。間切(現在の町村)役人に与えられた「オエカ地」という田畑への、私的は労役もひどかった。

八重山農民は「一カ月に二〇日間は公役(廿日公事)に服させたのだから、農民には自分の田畑を耕して人頭税納付の準備をする時間がない。したがって農民は、月夜および金星(シカマ星)の光を利用してまで耕作しなければならなかった」(大浜氏『八重山の人頭税』)。信じがたいほどの酷使ぶりである。001_2    

悲しい人口淘汰の伝説

 人頭税の非人間的な本質は、人間が増える、家族が増えると税金が増えることに示される。日本一、出生率の高い沖縄では、「子どもは宝」と言われる。本来、子ども、家族が増えることは喜ばしいことだ。でも、人頭税の下では、喜べない。だから、人口が増えるのを調整したという数々の悲しい伝説が残っている。

与那国島には、「人枡田(ヒトマスダ)」と呼ばれる田がある。島の人々が号令とともにこの田に集まり、遅れてきて田に入りきれなかった人は、淘汰されたと伝えられる。「クブラバリ」と呼ばれる岩の大きな割れ目がある。男子でも跳び越えるのは難しいほどだ。この割れ目で妊婦を跳び越えさせた。跳び越えられず落ちれば命はない。跳び越えられても、妊婦なら流産するといわれる。私はまだ、与那国島には行ったことがない。でも、人頭税の苛酷さを伝える話として有名だ。

 ただし、大浜信賢氏によると、「人枡田」や「クブラバリ」が人口淘汰のために本当に利用されたのかどうかは、疑問があるという。というのは、「人枡田」への集合を競い合えば、田に近い集落の住民は断然有利だけれど、田から遠い集落の住民は不利なので、あまりに不公平だからだ。「クブラバリ」が本当なら、人がたくさん亡くなっているはずだ。だけど、昔からここで人骨は発見されていない。沖縄は死者への弔いをとても大切にする。死者の霊を慰める拝所や墓があって当然だが、それらもないという。

 ではなぜ、こんな伝説があるのだろうか? 大浜氏は、人頭税時代よりずっと昔、与那国島で人口が三万人くらいに達し、食糧難を切り抜けるため、酋長たちが人口制限の残酷な方法を考え出したのではないか、と古い伝説をもとに推測している。

 もし人頭税以前の伝説が真実であったとしても、ではなぜ、そこから人骨が出ない、拝所や墓もないのか? やっぱり同じ疑問にぶつかる。

 とはいっても、何の根拠もなく、こんな悲しい伝説が残るとは考えられない。まったくの作り話とも思えない。伝説には、なんらかの島の悲しい歴史がしみ込んでいると思えて仕方ない。

 人頭税のもっとも痛ましい結果は、恐らく産んだ赤ちゃんの埋め殺しだろう。「愛と哀しみの島唄」でも、人口調節のために、嬰児殺しが横行したと書いた。その時はまだ、リアルな実態を知らなかった。その後、その生々しい現実を知るにつけ、背筋が凍る思いがした。やはり前述の大浜氏が、体験者の証言をもとに伝えている。

 八重山の各村では、あの家でもこの家でも、赤ちゃんを産むとただちに始末したという。一六八一年ころから、赤ちゃんの埋め殺しが始まったという。人口が急増した時期と重なる。その方法は、家の裏庭に穴を掘り、産みたての赤ちゃんを久葉(クバ、ビロウのこと)の葉に包み、穴に入れて、その上にアガザイ(シャコガイ、シャゴウをひっくるめて呼ぶ)で押さえて、生き埋めにする。埋められた赤ちゃんは、すぐ死亡する場合もある。なかには二、三日たってもまだかすかな泣き声が聞こえる場合もあり、通りかかった人が、助け出して養育したという例がいくつもあるという。

 竹富島の豊見本次郎さん(トミモトジロウ、実名)は、長男でありながら、埋められた。封建時代のことではない。明治八年ごろのことだ。村の有力者が通りかかった。「埋殺処置をして三日になるのに、まだ生きているというのは、この嬰児になにか徳がそなわっているということに違いない。この子は自分がもらいうけて養育しようと思うが、どうだろう」と両親と話し合い育てた。その後、すくすく成長して村一番の働き手になったそうだ。同じように、有田加那さん(実名)も救い出されて、粟作りでは村一番といわれたそうだ。

 竹富島のK家では、これまで四人も埋め殺し、五人目も処置した。狂乱せんばかりの妻は、夫に向って「あの泣き声は私ら夫婦を恨んでいる声のように聞こえる」といった。夫は「心配するな。これは皆、人頭税のせいだ。私が始末するから安心しろ」といって、始末したという。大浜氏はもっとリアルに記述しているが、あまりにおぞましいので略する。その後、この家には怨霊のたたりか、生まれてくる子は、蛸のような骨なし子で、一所懸命に怨霊退散の祈願に手を尽くしたと伝えられているそうだ。

わが子を愛おしく思い、手塩にかけて育てたいというのは、人間だれもがみんな願うことである。「だのに天下の悪税、人頭税は、この親の本能を断ち切り、嬰児埋殺という悲しくも惨酷な手段を、親たちに犯さしめる。この世の中に、これ以上にミゼラブル(無情)なことがまたとあろうか」。大浜氏は悲憤を込めてこう記している。

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