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2012年2月29日 (水)

人頭税哀歌、その1

 「愛と哀しみの島唄」の続編にあたる「人頭税哀歌」をすでにブログにアップしてあるが、ダウンロードしないと読めない形式だった。それで全文をすぐ読める形式で再度、アップしておきたい。

あゝ!何のために生れてきたのか

     ―人頭税哀歌―

目次

「あの世に消えたい」                        3             

一五歳から五〇歳まで男女にのしかかる                4            

水田がない島にも米を上納させる                   6           

八〇を超える村が廃村になる                     8

ムチ打ちと拷問で責め立てる                     9

ドレイのような「名子」が明治まで                  10

悲しい人口淘汰の伝説                        11 

定額人頭税で楽になったのか?                    13

泣く子を柱にしばり布を織る                     14

賄女をめぐる悲哀                          17

怨霊になった女の無念                        18

ジュゴンも人頭税で上納した                     20

悪税への抵抗のうねり                        21

宮古農民の勇敢なたたかい                      23

人頭税廃止のあやぐ                         25

                                                               

私の拙文「愛と哀しみの島唄」を読んだ人から「人頭税のことをもっと知りたい」という要望があった。人頭税がかけられたのは、石垣島をはじめとする八重山の島々と宮古島など先島だった。八重山、宮古の古い民謡は、この時代のつらい日々の営みの中から生まれたものがとても多い。すでに拙文の中で、いくつも紹介した。でも、まだふれていないものがある。人頭税の中身にも詳しくはふれていなかった。

いうまでもなく人頭税とは、田畑の面積や貧富に関係なく、人間の頭割りで税金をかけることである。といっても、実際にそれがどのように庶民を苦しめたのか、琉球列島の離島のことだけに、その実態はなかなか知られていない。沖縄でも「人頭税は本当に極悪非道な税だったのか?」と疑問視する議論がかなりある。それで、今回は人頭税そのものについて、少し分け入り、これにまつわる古謡、民謡も探ってみたい。もう最初からマニアックなテーマであるし、小難しい話だけに、とても付き合えないかと思うけれど、乗りかかった以上、書いてみたい。興味のありそうなところだけでも眺めていただければ、望外の喜びである。

Photo

      地機で布を織る女の図。蔵元絵師の絵に勝手に彩色したもの

「あの世に消えたい」

「年から年中追いまわされて働かされ、夜も昼も上納のために苦しめられて働いても、これはけっきょく義務づけられた人頭税納付のためでしかない。こんなに苦しんで得たものは、官に上納するための収穫であって、ほんとうに自分の家庭のために得ようと思うなら、シカマ星(金星)の光で働いて収穫を得ねばならぬ。ああ!私はなんのためにこの世に生まれてきたのだろうか」。

これは、当時の農民の嘆きの声である。大浜信賢氏が『八重山の人頭税』で紹介している。「納税ドレイ」のように働かされ、生きるしかない農民の血を吐くような叫びが聞こえる。

 人頭税は、なぜ悪税なのだろうか? わかっているようだが、「悪平等の制度でもなかった」という意見がある。もし、この税制が現代に導入されたとすれば、その本質はわかりやすい。年収二〇〇万円以下のワーキングプア(働く貧困層)も、年収一億円を超える社長でも、同じ人間一人当たりで税金をかけるとすれば、こんな悪平等はない。まあ古い時代に貧しい離島のなかでは、これほど極端な格差はない。みんなが貧しかったからだ。でも、貧しい人ほど負担が重いこの悪税のひどさは同じだろう。

しかも沖縄の人頭税は、琉球王朝の時代のことだけではない。明治になって、沖縄が日本国家に組み入れられてからも、二〇世紀の初頭まで八重山、宮古島の人々は、前近代的な悪税にしばりつけられていた。

人頭税の始まりは、今から四〇〇年前に薩摩が琉球を侵略し、琉球王府が薩摩に米や上布などを差し出すようになってからだ。薩摩は琉球の石高をつかむため検地を実施し、薩摩への貢納額を決めた。首里王府は、八重山、宮古島では一六三七年に人口を調査して、人頭税を実施した。

すでに、その前にも人頭税があったという説もある。これは、古代には御嶽(ウタキ、拝所)の祭祀をおこなう時とかその他の行事や工事など、物入りのある時は各戸に割り当てて粟や酒など「ぶー」を取り寄せていたという。「この『ぶー』の観念が発達したのが人頭税であろう」(稲村賢敷著『宮古島庶民史』)と見られる。これは現代でも、地域の自治会が会費を各戸の頭割りにするのと似ているだろう。地域で住民が共同の暮らしを営む上では、ある意味で自然の流れだったのかもしれない。

しかし、薩摩に支配された琉球王府が、先島を植民地のように扱い、住民から最大限に年貢を搾り取るための手段として人頭税を課したこととは、まったく質的に異なる。

人頭税は、明治三六年(一九〇三年)に最終的に廃止されるまで、実に二六六年の長きにわたって最悪の酷税として、先島の住民に塗炭の苦しみを与え続けた。

ただし、断っておきたいのは、沖縄本島と周辺の離島の人民も、税制が異なっていても、薩摩に支配された首里王府の下で、過酷な重税と抑圧によって、苦しめられたことには変わりない。でも、その違いを書き出すと長くなりすぎるので、省略する。

 

一五歳から五〇歳までの男女にのしかかる

では、人頭税はどのように課せられたのだろうか。人口を調査して、一五歳から五〇歳までの男女を年齢によって上、中、下、下下に区分して、税率に少し傾斜をつけて税をかけた。男女を同列に扱い税をかけるというのも、人頭税ならではのひどいやり方である。八重山は米が基本で、宮古は粟を納めた。女性は布を納めさせられた。納税には、琉球王府に納める正租だけでなく、薩摩藩に上納する重出米(オモデマイ)があり、米や粟など運搬するための経費や途中での口減り分も加えて貢租とされた。さらに、労役の代わりに米を出す夫賃米(ブチンマイ)、市町村税にあたる公費、村費、滞納予備の貯蓄費など人頭数で割り当てられた。後には、勧業費、衛生費、学校費なども負担させられた。

布を上納する女性も、正租、夫賃米は免除されたが、それ以外のものはみんな頭割りで負担させられた。貢租は、米や粟など現物で納めなければいけない。だから、サトウキビが換金作物として有利であっても、農民は自由に作れなかった。

住民は身分制で士族、平民(百姓)に分かれていたが、士族の負担は平民の半分くらいだったという。しかも士族が人口の四割ほども占めるほど多かった。その上、先島にいる役人は士族の出身で、頭(カシラ)、首里大屋子(シュリオウヤコ)、与人(ユンチュ)、蔵筆者(クラヒッシャ)といった上級役人は在職中も免職後も、夫婦とも終身、免税されたという。役人や士族が免税や税負担が軽い分は、そのまま平民にしわ寄せされた。

このように、王府と薩摩への二重の貢租に加え、公費をはじめ数々の追加の税が重いことが、過酷な負担となった。宮古島では三万五〇〇〇人ほどの人口に対し、役人、小使が合わせて七五六人もいた。これら役所の経費から役人らの給料、さらに死んだ役人の子孫に払う費用まで、農民らの血税でまかなわれたのである。

八重山では、役所を運営する予算にあてる「所遣米(トコロツカイマイ)」が次第に増えて、明治一二年(一八七九年)の琉球王国が最終的に廃止された「琉球処分」の頃には、「王府への貢租額に匹敵する額まで増大する」(黒島為一著「人頭税」)という膨張ぶりだった。

その陰で農民の暮らしはどんな実態にあったのだろうか。宮古の実例を見てみたい。農民は粟を作っても大半の人は粟の味も知らない。サツマイモを常食としていた。味噌を持つ者さえ島民の四人に一人ほどにすぎず、海水に水を加えて、サツマイモの葉やツル、海藻を煮て食べた。醤油さえ口に入らなかった。家といえば丸木を組み、草で屋根をふき、四面を囲んだだけの粗末な掘立小屋のようなものである。屋内も大半の人は土間だった。これは何百年も昔のことではない。明治の中期頃の姿である。一年の収穫より年貢の方が多いという例さえあった。農民はただ人頭税を納めるためにだけ、生き、働くような存在だった。

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   八重山庶民を苦しめたので首里城には行かない人が今もいる

「♪哀りまま やすまりむぬやりば 苦りしやまま 失しうりむぬやりば」

これは、八重山の代表的な民謡である「とぅぱらーま」の歌詞の一つである。

現代文に訳するとこんな意味に

なる(大浜信賢著『八重山の人頭税』より)。

「あまりにもつらいから、あの世で休めるものならば あの世に行きたい。あまりにも苦しいから、あの世に消えられるものならば、あの世に消えたい」

実際に、みずから命を断つ人や夜逃げして山の洞窟で暮らす人もいた。島から舟に乗り込み、集団で脱出するということもあったそうだ。波照間島には、南の彼方に「パイパティローマ」(南波照間の意味)という楽園があると信じられていた。一六四八年、平田村の百姓四〇―五〇人が島を脱出したと、史書『八重山島伝来記』にも記されている。与那国島にも同じような「ハイドナン」(南与那国の意味)への脱出伝説がある。沖縄では、海の彼方に「ニライカナイ」という神の住む楽園があると信じられていた。「パイパティローマ」もこの楽園と重なり合っていたのだろうか。それにしても、楽園がある確かな事実は何もないのに、島を出て大海にこぎ出すというのは、尋常ではない。人頭税がもはや、生きて耐えられないほどの重圧だったことを示している。

人頭税を逃れるために、あえて自分の手足を切って「匹人」(ヒキニン、障害者)になる人もいた。役人に頼んでドレイのような「名子(ナグ)」になる人も後を絶たなかった。

 

水田がない島にも米を上納させる

いかに人頭税がひどいと言っても、税制を見るだけではその実相はまだよくわからない。人頭税によって何が起きたのか、もっと詳しく見ていきたい。

人頭税は、現物納が原則だったということは、どんな事情があろうと、宮古は粟、八重山は米を作らなければいけない。しかし、米は水の利便がなければ作れない。サンゴ礁でできた離島では、水田がほとんどない島、地域がある。八重山はたくさんの島々から成り立っている。米があまりとれない島、地域の農民は、どうしたのだろうか? 

水田で米を作れる島に通う「通耕」によって米作をした。波照間島、鳩間島、竹富島などから西表島に出かけた。といっても、西表島は恐ろしいマラリアの危険な地域が多かった。石垣島でも、マラリア有病地がいくつもある。そんな危険な場所であっても、米作りのために出かけなければならない。海が荒れると通うのも危険になる。粗末な小屋を作って、そこに泊まり込んで農作業をしたという。島だけでは二∼三〇〇人しか住めない鳩間島には、通耕によって七∼九〇〇人が暮らせたといわれる。

「ああ、考えれば、己が属島に水田なきも、琉球王府は米穀の人頭税を賦課す。之を非道と言わずして何と言う。農民の困難、誠に気の毒なり」

明治中期に沖縄を訪れ、先島の惨状も詳しく見聞した青森県弘前出身の笹森儀助は『南嶋探験』で、義憤をこめてこう記している。

八重山民謡で古典舞踊曲にもなっている「鳩間節」という曲がある。私が通っている民謡三線サークルの練習曲にも入っている。

「♪前方の海を見ると 往来する舟が 面白い眺めである」

「♪稲の穂を満載した舟 粟の穂を満載した舟の姿で 見事な眺めだ」。

初めは「なぜ舟に米や粟を積み上げるのか?」と不思議だった。水田のほとんどない鳩間島の島民は、米貢を強制され、命がけで海を渡り、西表島の未開地を開拓した。田小屋に泊まり込み、田植えをし、夏には稲粟を取り入れ、舟に積み帰ってきたという。もともと西表島にいた住民は、鳩間人をねたみ、田の返還を求めた。このため、鳩間人は新たな開拓を迫られた。そんな住民相互の対立まで引き起こしていた。唄には、西表島の住民を見返すという歌詞がある。住民が反目させられたのも、人頭税がもたらした不幸な出来事である。

こうした米作りのために他の島に通うことにとどまらず、開拓のために強制移住させられたのが「島分け」の悲劇である。首里王府は、窮迫する財政の立て直しのため、八重山、宮古で住民を移住させ、新村を建て開拓を進めた。その際、村を通る道で線引きする「道切り」で移住者を決めたため、恋人や夫婦でも生木を引き裂くように分けられた。これは「愛と悲しみの島唄」で詳しく書いた。

恋人や夫婦が引き裂かれた悲劇を歌った民謡は前に紹介したので、ここでは、怨みをこめたとみられる「子守歌」を紹介したい。宮古島の保良(ホラ)に伝わる唄だ。

「♪お前のお父さんはどこへ行った お前のお母さんはどこへ行った 上役人たちを殺害するために毒魚を取りに行った」。これが子守歌とは! 空恐ろしい唄だ。

保良は遠く辺鄙な場所で、土地も痩せていて、次第に荒廃しつつあったので、開墾のための移民を送って村立をすることになり、同じ宮古島の砂川、友利両村から送られたという。移住民はどれほど苦労させられたことだろう。「当局の処置を怨み憤ったものと見えて、遠廻し皮肉の自嘲的態度を捨てて率直に怨嗟の声を投げつけている」(稲村賢敷著『宮古島庶民史』)。それがこの「保良の子守歌」だという。それにしても、役人を殺すため毒魚を取りにいくとは、ただごとではない。実際にそんな報復があったのかどうかはわからない。ただ、移住させられたことへの悲しみや嘆きにとどまらず、強い抗議の意思を込めていることが注目される。

 非情な強制移住は、明治になってからもあった。母親と子どもを引き裂くという移住の記録がある。明治九年(一八七六)から二年余り、目差(村の助役)をしていた役人の日記にこんな記述がある。

大浜村のカナは、祖母とまだ三歳の子を含む子ども三人を残して、白保村のタラは六歳の子ども一人残して、母親が移住させられた。祖母と子どもたちが「親子が離れては子育てに差し支える」といって移住を願い出たという。いくら祖母がいたとしても、幼子を残して母親を移住させるなんて狂気の沙汰である。

役人の旅妻(現地妻)も例外ではなかった。沖縄本島から石垣島に赴任してきて役人の旅妻となり、子どもを産んでいた女性が移住を命じられた。開拓地は風気が悪い(マラリアの危険がある)ことを心配し、母親はわが子を役人方に残せるように要望したという。旅妻も移住の対象にされたといっても、役人からも願い出があると、結局この母親は元の村に帰したという。やっぱり、役人には甘かったことがうかがえる。

ところで、石垣島の古文書を読んでいると、奇妙な記事にぶつかった。それは、百姓がみずから他の島や地域への移住を願い出たと書かれた例があることだ。なぜなのだろうか? 役人が移住を願い出るように誘導したのか、海を渡って耕作に通うのも危険が伴うので、いっそ移住を決断したのか。それとも、耕地は少ないのに年貢は重く、やむなく開拓を迫られたのだろうか。021

    「かでな道の駅」にある野國総管の銅像

とくに、八重山の人口は一六八〇年頃から百年近い間に急激に増えたという。なぜ急増したのか? 一つの理由は、甘藷(サツマイモ)の伝来だ。一六〇五年ころ中国から嘉手納の人・野國総管(ノグニソウカン)が持ち帰って、それが普及した。このため、災害などによる飢餓で苦しめられる庶民の命を救った。なにしろサツマイモはその後長く、沖縄では主食の地位を占めたのだ。これは余談である。このように、人口が増えて新たな開拓と移住が必要だったという面もあるようだ。まだ真相はよくわからない。でも、百姓が故郷を捨てるのは、よほどの事情があってのことであるのは間違いない。

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