無料ブログはココログ

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月

2012年3月31日 (土)

琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて、その3

愛の契りは深い

愛情と契りの深さを表現した舞踊に「天川(アマカー)」がある。「天川節」はこんな歌詞だ。

 「♪天川の池(イチ)に 遊ぶ鴛鴦(ウシドゥイ)の 思ひ羽(ウムヒバ)の契(チヂ)り 与所(ユス)や知らぬ」

「天川の池に遊ぶおしどりの 思ひ羽に表わした固い契りのように 私と彼女の契りは固く深く 愛し合っていることを誰も知らない」

 「思ひ羽」とは、おしどりのオスの両側にあるイチョウの葉のような羽のことである。

002

                嘉手納町比謝川のそばにある「天川」の歌碑

もう一つの「仲順節(チュンジュンブシ)」は、次のように歌う。

「♪別れても互(タゲ)に 御縁(グイン)有てからや 糸に貫(ヌ)く花の 切(チ)れて退(ヌ)きゅめ」

「別れてもお互いにご縁があるからには またお会いできるでしょう 糸に貫かれた花は散り去ることがないように 二人の縁はしっかり結びついています」

 愛し合いながら、なんらかの理由で別れなければならない二人。でも「糸に貫けれた花」は決して散ることはない、と契りの深さを歌っている。

 やはり若い男女の愛情表現を、芸にしたものに「加那よー天川」がある。これは、早弾きの軽快な曲で、恋歌であるから、とっても人気がある。夜になると野原や砂辺に若者が集まり、歌や踊りに興じた「モーアシビー」では定番の曲だった。

「加那よー」はこんな歌詞である。

 「♪加那よー面影(ウムカジ)の 立てばよー加那よー 宿に居(ウ)らりらぬ でちゃよー押連(ウシチ)れてよー よー加那よー 遊(アシ)で忘(ワシ)ら」

「愛しい人の面影が立って 家にじっとして居れない さあ、連れ立って遊び あの人のことは忘れましょう」

「♪加那よー貫木屋(ヌチヂヤ)の あさぎよー加那よー 手巾布(ティサジヌヌ)たてて 我が思(ウム)る里によー加那よー 情呉(ナサキクィ)らな」

「立派に建てられた離れで 手巾を織って 私が思いを寄せている 愛しい人に差し上げましょう」

「♪加那よー情呉る びけいよー加那よー 手巾呉てぬすが がまくくん締(シィ)めるよー みんさ呉らな」

「愛情の印なら なんで手巾なのですか 腰にきりりと締める ミンサ帯を上げましょう」

「♪加那よー遊で忘ららぬよー加那よー 踊(ウドゥ)て忘りらな 思勝(ウミマサ)ていきゆさよー 加那よーあれが情」

「遊んでも踊っても あなたのことを忘れることができません それでも思いはつのるばかりです」

「島尻天川節(シマジリアマカワブシ)」は次のような歌詞である。

 「♪天川の池(イチ)やよ 千尋(シンピル)も立ちゅいよ うりよりも深くよ 想(ウム)て呉(クィ)て給(タボ)れよ」

「天川の池の深さは千尋(1尋は約1・8㍍)ほどもあります それよりも深く私のことを思って下さい」

 愛しい人への熱い思いがこもっている曲である。歌三線で演奏するさい、三線は早弾きなのに、歌うのはゆったり声を長くのばしながら歌うので、とても難しい。私も「加那よー」はなんとか弾けるが、「島尻天川」の方は、まだ歌がお手上げ状態である。

 

別れのつらさを歌う

愛する者の別れを歌った舞踊曲に「伊野波節(ヌファブシ)」がある。「伊野波節」「恩納節(ウンナブシ)」「長恩納節」の3曲からなっている。「伊野波節」を紹介する。

「♪逢はぬ夜(ユ)のつらさ 余所(ユス)に思(ウミ)なちゃめ 恨めても 偲ぶ恋の習や」 

「愛しい人と逢えない夜のつらさは 他人事だと思っていたのに あの人のつれなさを怨みつつ 逢いに行かずにおれない この恋の切なさを何としよう」

「安富祖流工工四」でこの歌だけだが、他の歌詞も紹介したい。

「♪伊野波の石こびれ 無蔵(ンゾ)つれて登る にやへむ石こびれ 遠さはあらな」

「伊野波の石ころ道を 別れるあなたを連れて登るが いかに遠くても いつまでも続いてほしい道」

「♪明方の空(スラ)や 覚出(ウビジャ)ちゃさ昔(ンカシ) あれと きのぎのの 別れしゅたす」

「明け方の空を眺めると 昔のことが思い出される あの人と添寝した 暁の別れのことを」

こんな別れの悲しさや忍ぶ恋のつらさ、忘れられない思いなどが歌われる。「石こびれ」の歌詞は一説によると、山原の伊野波村の坂道を登った所に、かつてハンセン病の隔離場所があり、移住を命じられた夫を見送る妻のひたむきな思いを詠んだ歌だという。

これに続くのが「恩納節」である。

「♪恩納松下(ウンナマチシタ)に 禁止(チジ)の碑(フェ)の立つし 恋忍(クイシヌ)ぶまでの 禁止やねさめ」

「恩納番所の松の木の下に いろいろな禁止の札が立っているが まさか恋まで禁止するような立札ではないでしょう」

「♪七重八重(ナナイヤイ)立てる まし内の花も 匂ひ(ニウイ)移(ウチ)すまでの 禁止やねさめ」

「七重八重に厳重に張り回した垣根の花でも 香りが外に出ることまでは禁止することはできないでしょう」

これは「大切に育てている花(箱入り娘)であっても 恋を語らうことまで禁止はできないでしょう」という意味である。

021   「恩納節」で歌われる恩納ナヴィーの歌碑

「長恩納節」は、こう歌う。

「♪逢はぬ徒(イタヂ)らに 戻(ムドゥ)る道すがら 恩納嶽(ウンナダキ)見れば 白雲(シラクム)のかかる 恋(クイ)しさや結(チ)めて 見欲(ミブ)しやばかり」

「恋しいあなたに逢えずに 空しく帰る道すがら恩納岳を見ると 白雲がかかって見ることができない その様を見るとますます恋心がつのって 逢いたい気持ちでいっぱいになり ほんとうに切ないかぎりです」

これらの歌には、愛しい彼に逢えないつらさ、逢わずにはいられない切なさが共通して歌われている。「恩納節」は、有名な歌人・恩納ナビィの琉歌である。役人があれこれ禁止の立札を立てても、恋まではだれも禁止できないでしょう、という恋への激しい情熱、役人にもたじろがない、おおらかな心意気が歌われている。

遊女と士族の忍びの恋

恋愛の自由のなかった士族が遊女との偲び逢いをテーマにした曲はいくつもある。「花笠踊り」のなかの「花笠節」もその一つである。

「♪花笠造(チュク)やい 面顔隠(ウムカヲゥカク)ちょうて 梅(ンミ)の匂い 里と我が仲 忍ばんむんぬん 我がうてちちゅみ」

「花笠を作って顔を隠しているが 梅の匂いがする 貴方と私は忍びあわなければいけない仲 私は落ち着いていられようか」

「♪手紙ぬ来(チ)ゃんてん 御状(グジョウ)ぬ来ゃんてん 我がうてちちゅみ 枕並びて云(イ)ち聞(チ)かさんむん 我がうてちちゅみ」

「手紙が来ても御状が来ても私は落ち着かない 枕を並べてお話を聞かせてくれないので 私は落ち着かない」

雑踊りの中で数少ない打組み踊りの一つ「川平節(カビラブシ)」も士族と遊女との恋を歌う。曲は物語風に展開する。男女の掛け合いで進む。12番まである。さわりを紹介する。

「彼女の面影に引かれて 私は笠に顔を隠して忍んで逢いに来た」と始まる。彼女は、生涯あなたを連れて遊びたいが、遊女の身では自由にならないと答える。遊女でも自由にならないということはない、私のことを心に染めてくれと迫る。でも彼女は、どうにもならないから、他所に行って欲しいという。彼は他所に行くのなら何のため心を焦がして泣いているのか、と諦められない。もう少し時節を待ってほしいという彼女に向かい、「いっそここで死のう」と迫る。ついに彼女も「命を捨てるほどの思いなら、あなたと一緒になりたい」と応える。

「天のお助けか神の引きあわせか あなたを連れて家に戻れるなんて なんとうれしいことよ」

 この曲はもともと、石垣島の川平に伝わる歌だが、それが本島に伝わり、士族と遊女の恋愛話になったそうである。 

遊女との恋歌では「花風」が名高い。那覇の辻が遊女の街として知られ、首里の士族らが訪れた。「花風節」は、もともと辻の遊女が歌っていた曲だという。

「♪三重城(ミイグスク)に登て 手巾(ティサジ)持上(ムチャ)げれば はや船(フニ)の習(ナレ)や 一目(チュミ)ど見ゆる」

「恋しい人のお見送りをするため 三重城(那覇港入口にある)に上って手巾を打ち振ると 船が早いので一目しか見えない すぐ遠くへ消えて行ってしまった」

これに続くのが「述懐節(シュツクエーブシ)」である。なんと50節前後も歌詞があるという。

「♪朝夕さも御側(ウスバ) 拝(ウガ)みなれ染(ス)めの 里や旅しめて 如何(イチャ)し待ちゆが」

「朝晩いつもおそばにいて 恋しいお顔を見て楽しく暮らしていたのに こんど旅に出ていかれて 私はどうしてお待ちしましょうか」

「♪別れゆるきはや 遺言葉(イクトゥバ)も絶えて 袖(スデ)に散り落(ウチ)る 涙ばかり」

「別れるときにいう言葉もなくなって 袖に散り落ちるのは 涙ばかりである」

他にも、こんな歌が続く。「愛の喜び、やるせなさ、恋の悲しみ、慕情、別れの切なさ、ままならぬ浮世など、恋をテーマに自由奔放に表現した情感豊かな歌ばかり集めたもの」(『おきなわの歌と踊り』)、それがこの曲だという。

2012年3月30日 (金)

ヒスイカズラの色彩に酔う

 南城市でヒスイカズラが咲き誇っている。 014_2 テレビで放送されたので、是非ツレに見せたいと思い、テレビ局に問い合わせると、すぐ場所を教えてくれた。2010年4月に、名護市で私は一度見たことがある。あまりに美しい色彩が脳裏に深く刻まれていた。沖縄でも、とても珍しい花なので、このニュースを見た時、これはツレも是非見たいだろうと思ったのだ。

 咲いているのは、玉城垣花のTさんという個人宅。垣花公民館のすぐ後で、家の前に大きなガジュマルの木がある。

 家の前には、「自由に見学して下さい」という看板を出してくれていた。結構、テレビ、新聞で見て、花を見に来る方がいるそうだ。

 家の人に声をかけると、おばあちゃんが、孫を抱いて出てきて、丁寧に説明してくれた。

013  家の塀を越えて、外にもたくさん蔓が伸びて垂れ下がり、花を咲かせている。「外は太陽があたり、色がさめているので、中の方が色がいいですよ」と案内してくれた。

004 エメラルドグリーンというのか、宝石のヒスイを思わせる色彩と形である。マメ科のつる性植物。フィリピンのルソン島、ミンドロ島などの限られた地域の熱帯雨林にしか自生しないとのこと。英名は「ジュードバイン」で和訳すると「翡翠蔓」となるそうだ。

011  まだ蕾のもある。ツルから薄い紫色ぽい蕾が伸びて、蕾からエメラルドグリーンの花びらが伸びて咲く。 庭に作られた花の棚にヒスイカズラのツルが四方八方に広がり、無数のツルが下がり、花を開かせている。

002  「ヒスイカズラって、沖縄でもめったにないですよね?」「そう、これだけ咲いているところは他にはないはずよ」とのこと。「植えてからもう7年になるかね。これ全部、一本のツルから伸びているんだよ」

007  これが、元になる木というかツルである。「なかなか育てるのが難しい花でね。分けても育てられないのよ」。昨年はあまり咲かなかったが、一年間隔でよく咲くようだ。

008  地面には、落ちた花びらが広がっていた。「咲いているのは、あと2週間ぐらいだろうね」 。
「花びらを拾っていく人もいるよ。花びらを合わせると蝶のような形になりますよ」。

010  なるほど、蝶を思わせる。お言葉に甘えて、花びらをいただいてきた。誰かに上げようかな、と思って。でも長くはもたないだろう。

009  お孫さんがあまりに可愛いので、一枚パチリ。おばあちゃんが「また来年も見に来て下さい」とやさしく言ってくれた。

017  垣花の集落は、道路の真ん中に井戸(カー)がある。その前は、拝所になっている。集落を少し降りたところに、有名な「垣花ヒージャー」がある。南部で名高い井泉である。しかし、集落から下に水汲みに降りて行くのは一苦労なので、集落の中に井戸を掘ったのだろうか。いまは、垣花ヒージャーからポンプで水を汲み上げて使っているそうだ。

 井戸の向うに見えるガジュマルの木の横に、ヒスイカズラの咲くTさん宅がある。

琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて、その2

愛する人に布を織り贈る

恋歌の中身にはいっていきたい。「安冨祖流琉球舞踊地謡工工四第1巻」を中心に、川平朝申氏著『おきなわの歌と踊り』、玉城節子氏著『翔舞―琉舞に魅せられて』など、他の著書も参考にして、紹介したい。

愛しい彼や彼女に大切なものを贈りたい、そして抱いている思いを伝えたいという心情はいつの世も変わらない。舞踊曲にもそんな曲がいくつもある。

わずらわしいかもしれないが、琉歌の魅力を少しでも味わうために、琉歌そのものと歌意を紹介するのを基本としたい。

081

              志多伯豊年祭で踊られた「かせかけ」

「かせかけ」という舞踊曲から見たい。「かせかけ」は、恋する人に着物を贈るため女性が糸を紡ぐ姿を描く。その中の「干瀬節(フィシブシ)」はこう詠う。

「♪七読(ナナユミ)と二十読(ハテェン) 綛掛(カシカ)けて置(ウ)きゆて 里が蜻蛉羽(アケズバニ) 御衣よ(ンシュユ)すらね」。

「細かく細かく糸を綛いで あなたのために蜻蛉(アキツ、とんぼ)の羽のような 薄くてきれいな御衣(ミゾ、着物)を作って差し上げましょう」という歌意である。

とんぼのことを「あきつ」というのは、日本では万葉集にも出てくる古い言葉だ。それが沖縄では生きている。彼氏のことは「里」と呼び、彼女のことは「無蔵(ンゾウ)」と呼ぶ。「無蔵」は女性のイメージとはかけ離れている。なぜ、こんな言葉が彼女を意味することになるのだろうか。もともとの語源をたどると「無惨」だという。「無惨」から「かわいそう」になり、「かわいそう」が「可愛い」に変化した。さらに沖縄では「可愛い」から「彼女」に転化して、「無蔵」と呼ぶようになったらしい。ややこしい。

同じ舞踊曲に組まれた「七尺節(シチシャクブシ)」は、こんな琉歌である。歌意も紹介する。

「♪枠の糸綛(イトカシ)に 繰り返し返し 掛けて面影(ウムカジ)の 勝(マサティ)て立ちゅさ」

「糸枠に糸を繰り返し巻き付けていくにつれて あなたの面影がますます立ち勝ってきます」

 「♪綛掛けて伽(トゥジ)や ならぬものさらめ 繰り返し返し 思(ウミ)ど勝る」

「糸作りの仕事で思いを紛らわそうと 枠に糸を繰り返し返し巻きつけるのですがあなたへの思いの方が強くなるばかりです」。

 「かせかけ」は、写真で見るように、両手に糸巻きを持ち、糸を操る所作を美しく踊る。「ときめく思いを美しい布に織りあげて、愛する人に贈るという麗しい習俗はいにしえからあって、乙女たちは丹精を込めて糸を紡ぎ、布を織ったのである」(大城學氏著『沖縄芸能史概論』)。沖縄では、愛しい人に手巾(ティーサージ、てぬぐい)を織り贈る習慣があったことは、「愛と哀しみの島唄」でもふれたところだ。

次に「本貫花(ムトゥヌチバナ)」という舞踊曲は、「貫花」という花びらで作るレイのような花飾りがテーマだ。「金武節(チンブシ)」はこう歌う。

「♪春の山川に 散り浮ぶ桜 すくい集めてど 里や待ちゅる」

「春の山川に散って浮かんでいる 桜の花びらをすくい集めて あなたを待っています」

「白瀬走川節(シラシハイカーブシ)」も、似た内容である。

 「♪白瀬走川に 流れゆる桜 掬(スクティ)て思里に 貫(ヌ)ちゃいはけら」

「白瀬走川の流れに浮いている桜の花びらを すくい集めて糸に貫き止め 恋しい人にかけてあげたい」

 桜の花びらをすくい集める。二つの曲に共通している。ただし、ここで少し疑問がある。沖縄の桜と言えば、ピンク色のカンヒザクラである。これは、ソメイヨシノとはまったく異なる。花びらが釣鐘のように垂れていて、散るときもボタっと釣鐘状の花びら全体が落ちる。ソメイヨシノのように花びらが、風に吹かれて一枚一枚舞い散る風情はない。沖縄にはソメイヨシノはない。カンヒザクラで貫花が作れるだろうか。川面に花びらが浮かぶ風景も見たことがない。

この歌は、桜が川面に舞い散る花びらの美しい情景を歌に詠む、大和流の美意識が持ち込まれたのではないか。そんな気がする。日本では、桜の美しさを歌った曲は山ほどあるけれど、沖縄では桜を歌った曲はきわめて少ない。そこには、カンヒザクラしかないという「うちなー桜事情」があるのではないだろうか。

 むんじゅる平笠で惚れさせよう

「むんじゅる」という舞踊曲は、恋歌ばかりを集めている。

「早作田節(ハイチクテンブシ)」はいくつも歌詞がある。ここではこんな琉歌である。

 「♪若さひとときの 通い路の空(スラ)は 闇のさく坂も(ヒラン) くるまとう原(バル)」

「若い時の恋人のもとに通う道は 闇夜のけわしい坂道であっても 砂糖車(サーターグルマ)の通るような平坦な道に思えるものだ」。

砂糖車とは、回転させてサトウキビを絞る車のこと。牛に引かせていた。

「むんじゅる節」はこんな琉歌だ。「むんじゅる」とは麦わらで作った笠のことである。

「♪むんじゅる平笠美(チュ)らものや 美童(ミヤラビ)ま頂(チヂ)にちい居して 花染手巾(ハナズミティサジ)や前(メー)に結(ムシディ)で 二才惚(ニーセーフ)らしむぬ」

「むんじゅる平笠のきれいなことよ 娘の頭にちょこんとのせて 花染手巾は帯の前に結び 若者たちをひきつけ惚れさせようか」

「♪照喜名坂(テルキナフィラ)からヨウをなよ むんじゅる平笠かぶるなよ 津波古(チーファヌク)の主(シュ)の前(メー)が な打(ウ)ち惚(フ)りゆんどー」

「番所のある照喜名の坂を通る時は娘さんよ むんじゅる平笠をかぶるなよ 役人の津波古さまがさらに惚れるぞ 気をつけなさいよ」

 この曲は粟国島が舞台である。そこの照喜名という所は、島の娘さんに恐れられた代官詰所があった。津波古というのは役人の名前である。「役人の津波古には気をつけろ」と注意を喚起している歌詞だ。

役人が職権を背景にして、村の美しい娘に目をつけ自分の意のままにするとか、賄女(現地妻)にしたことは、「愛と哀しみの島唄」で詳しく書いた。

次の「揚芋の葉節(アゲンムヌファブシ)」も、むんじゅる笠つながりになっている。

「♪里が張て呉(クィ)てる むんじゅるの笠や 被(カ)んでわん涼(シダ)さ 縁(イン)がやゆら」

「あなたが作ってくれたむんじゅる笠は美しく 被っても涼しいことよ 二人は結ばれる縁なのでしょうか」。

これらは、むんじゅる平笠を被って踊る、情緒豊かな歌と踊りだという。

056        首里城にあがった満月

 

月の美しい夜は

 月の夜は、若いカップルにとって出会いの時である。舞踊曲にも、月の夜をテーマにした曲集に「瓦屋節(カラヤーブシ)」がある。そこには3曲入っている。

「ながらた節」はこんな琉歌である。

「♪でちやよ押(ウ)し連(チ)れて ながめやい遊(アシ)ば 今日(チュウ)や名に立ちゆる 十五夜(ジュウグヤ)だいもの」

「さあ、一緒に連れ立って月見にでも行きましょう。今日は名高い十五夜ですもの」

「瓦屋節」は次のような琉歌だ。

「♪押す風も今日や 心有(ククルア)てさらめ 雲(クム)晴れて照(ティ)らす 月(チチ)の清(チュラ)さ」

「そよ吹く風も今日は心あるもののごとく 空は雲がすっかり晴れて 照り輝く月が美しい」

「しょうんがない節」も月を眺める歌詞である。「しょんがねーぶし」と読む。

「♪月もながめたい でちやよ立ち戻(ムドゥ)ら 里や我が宿に 待居(マチュ)らでもの」

「月もたっぷり眺めた さあ、連れ立って家に戻ろう あの方は私の家で待っているだろう」

「月の夜節(チチヌユーブシ)」は、別の曲集に入っているが、月の夜つながりで紹介したい。歌詞は5番まであるが、もう恋歌の極地のような唄である。

 「♪月の夜も夜(ユル)い 闇の夜も夜い 里が参る夜(メルユル)ど な夜さらめ」

「月夜ならば あなたが私の方へ忍んで来て下さい 闇夜ならば私があなたの所へ忍んで参ります」

「♪指輪(イビナギ)の情 さす間(エダ)の情 頭毛(カシラギ)の形見 幾世までも」

「指輪の愛情は 指にさす間だけの愛情であるが 髪の毛の形見(共に白髪になるまで変わらない愛情)こそ永遠の形見である」。こんな具合である。

空気が澄み、星空も月も美しい南の島では、月の夜は若い人々の恋を誘ったというのは、とてもよくわかる。旧暦が生きている沖縄では、「今日は十三夜」とか「今日は十五夜」とか、「いま月がとてもきれいだ」などとすぐ話題になる。

 

2012年3月29日 (木)

琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて、その1

 この「琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて」は、前にブログにアップしてあるが、ダウンロードしないと読めない形式だったので、今回そのまま全文が読める形式にして再度アップする。

 

  

  「琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて ー愛と哀しみの島唄余聞ー」

「愛と哀しみの島唄」を読んだ人から、「琉球舞踊を何回か見たけれど、舞踊にも恋歌が多いように思うけれど、どうなんですか?」という質問があった。琉球舞踊には、古典舞踊と雑踊(ゾウウドィ)がある。

これら舞踊で使われる曲目は、琉球王国の時代からの古典音楽が中心であり、雑踊りには民謡も使われる。舞踊の音楽を演奏するのを「地謡(ジウテェ)」という。舞踊にだけ演奏される曲目があるわけではない。だから、「愛と哀しみの島唄」で書いたことは、そのまま舞踊にも当てはまるわけだ。舞踊で使われる音楽も、当然恋歌は多いことになる。

ただ、そう言ってしまえばそれだけのことになる。せっかくなので、舞踊と恋歌の関係を探ってみたい。

033

       首里城で開かれた「中秋の宴」で披露された琉球舞踊

琉球舞踊とは

はじめに、琉球舞踊といってもあまりなじみがない人が多いので、少し予備知識として紹介しておきたい。古典舞踊は、琉球王朝の時代に、首里王府の下で完成された。古典音楽も、王府で奏でられたものである。だから、古典舞踊に古典音楽が主に使われるのはそういう不可分の関係がある。

古典舞踊には、お年寄り姿で長寿と子孫繁栄を願う「老人踊り」、美少年たちが扇子を持ち踊る「若衆踊り」、古典舞踊の代表的な踊りで優美な「女(ウンナ)踊り」、沖縄空手を基本に大和芸能を取り入れた若者による「二才(ニーシェー)踊り」、身分の違いや男女の区別なくさまざまな組み合わせで踊る「打組(ウチクミ)踊り」などがある。なかでも、古典舞踊を代表する「女踊り」は、衣装も紅型(ビンガタ)の打ち掛けを羽織り、とてもあでやかである。ゆったりとした優雅な踊りが多い。花笠や愛しい人に着物を織るため糸を紡ぐ「かせかけ」を使った踊りなど、琉舞の魅力に満ちている。といっても女性が踊るのではない。男性が女装して踊った。いまでは、女性の舞踊家が多くなっているが、もともとは女形の芸だった。

古典舞踊は、中国の皇帝が派遣する冊封使(サッポウシ)が国王の認証のために琉球に来たとき、もてなしの宴で披露された。歌三線、台詞、踊りの総合芸術である「組踊(クミウドゥイ)」も創作され、演じられた。冊封使が乗ってくる船を「御冠船(ウカンシン)」と呼んだので、冊封使を歓待する舞踊や組踊など芸能を総称して「御冠船踊(ウカンシンウドゥイ)」と言った。

ちなみに、琉球王朝では、舞踊を踊るのは、民間の芸人ではない。琉球では、冊封使をもてなすのは、王府にとって最も大事な仕事である。「歌い踊る行為は役人の公務そのものとされていた」(金城厚氏著『沖縄音楽入門』)。だから、踊りはすべて女性ではなく、男性が踊ったのである。

王府は、冊封使をもてなす芸能公演のために踊奉行(オドゥイブヂョウ)という役職まで設けていた。だから王府の役人たちが、大事な任務として歌三線や舞踊の腕を磨いた。 

琉球王国は、500年ほど昔、国内では「刀狩り」をしたので、「サムレー」とよばれた士族も、大和の武士のように、腰に刀を差さない。大和では床の間に刀を飾ったが、琉球では床の間に三線を飾ったといわれる。だから、王府の役人も大和の武士のように、日頃剣術などの訓練をするのではなく、芸能に励んだようだ。

こうした古典舞踊とは別に、那覇の街中から生まれたのが「雑踊り」である。明治になり、琉球王国が廃止されて、王府で芸能にたずさわっていた士族たちは、職を失った。身に付けた芸能を生かして、「組踊」や古典舞踊を那覇の芝居小屋で上演するようになった。こうした興業芝居の中から生まれたのが「雑踊り」である。

早いテンポの曲にあわせた軽快な踊りが多い。衣装も芭蕉布の着物など庶民の服装である。見ていても楽しいので、庶民にはとても人気があったという。初めの頃は、庶民的な女性の踊りが呼び物になっていたという。

 041

             首里城の「中秋の宴」から         

舞踊の半分は恋歌

大分前置が長くなった。本題に入る。舞踊曲に恋歌が多いといっても、どれほどの割合を占めるのだろうか。印象ではなく、データとして明らかにしたいと思う。沖縄県立図書館で文献を探すと、ちょうど「安冨祖(アフソ)流琉球舞踊地謡工工四第1巻」があった。安冨祖流というのは、古典音楽の野村流、堪水流とともに、三大流派の一つである。「工工四」とは、楽譜のことだ。つまり、この本は、琉球舞踊に使われる歌三線の楽譜集のことだ。

舞踊曲は、一曲だけで踊るのは少なくて、大抵が数曲をセットにして舞踊曲名としている。「女踊り」は、三部構成を基本にしている。まず出羽(ンジファ)という、踊り手が舞台下手から中央まで出てくる振りがある。次に、中踊(ナカウドィ)という舞台中央での本踊りがある。そして、入羽(イリファ)という、本踊りが終わって再び下手の幕内に入るまでの動作がある。

舞踊曲は、歌詞の内容で共通性がある曲や関連がある曲を組み合わせたり、組むことで変化をつけ、踊りの効果もあがるようになっている。たとえば「諸屯(シュドゥン)」という曲は恋歌ばかり3曲からなっている。「松竹梅」と名付けられた舞踊曲は、古典音楽6曲で成り立っている。

安冨祖流の楽譜集に収められている曲数は、セットになった舞踊曲名としては39曲あり、そこに入っている「節名」と呼ばれる単発の唄の曲名として88曲ある。このなかから、男女の情愛、好きな人への思い、離れている淋しさなど恋愛にかかわる唄を数えてみた。すると、舞踊曲名では、恋歌が入っているものは22曲で、56%を占める。そこに組まれている「節名」は、恋歌が39曲を数え、45%を占める。

古典音楽には、早弾きのカチャーシーはないので、この舞踊曲集では、このほか、付録として、リズム練習曲とカチャーシー舞いの曲目が16曲ある。そのうち10曲、つまり63%は恋歌である。ただし、ここでは、同じ曲、とくに恋歌がいくつかの舞踊曲名に組まれているが、それだけその曲が好まれていることの証である。

つまりは、舞踊に使われる曲目の、およそ半分は恋歌だということがわかる。これまで島唄のなかで恋歌が多いことは、わかっていたので、舞踊曲でも多いだろうと予想はしていたが、データとして判明したのは初めてだ。予想以上の多さである。

歌詞は琉歌がもとになる

もう一つ、事前の説明をしておきいたいことがある。それは曲の歌詞は、琉歌が基本であることだ。琉歌は、大和の和歌の7・5語調とは異なり、字数が「8886」の30字からなっている。そこに琉歌のリズムがある。そのためというか、同じ曲でも、いくつもの歌詞がある。それは、琉歌の本歌があると、後世にいくつもの琉歌が作られ、歌詞として付け加えられる。字数の決まった琉歌であるため、メロディにすぐのせて歌える。だから、替え歌のように別の歌詞が作られるのである。いつの間にか、本歌は忘れられ、後に作られた歌詞の方が有名になった曲もある。

逆に、メロディの方も、どの曲も琉歌をのせる点では共通性がある。だから、有名な琉歌、みんなに好かれる琉歌は、他の曲にもすぐに援用される。だから、日本の歌謡曲なんかのように、メロディと歌詞が一体化していない。流動性がある。「あれ、この歌詞は、こんな曲にも使われているのか」と思うことがよくある。まあ、こういうところにも、琉球の古典音楽や沖縄民謡の一つの特徴と面白さがある。

それから、漢字のふりがなについてお断りしておきたい。沖縄の読み方には二通りある。つまり、ウチナーグチ(沖縄語)の読み方と共通語の読み方である。たとえば「沖縄」の読み方も、共通語では「おきなわ」だが、ウチナーグチでは「うちなー」となる。民謡、古典音楽はすべて、ウチナーグチ、沖縄語が基本である。だからできるだけ、ふりがなもそれにそっていきたい。

      

      

2012年3月28日 (水)

三線好きがアルテ・カフェで集う

 首里にあるアルテ赤田カフェで、宮古民謡の名手Tさんを中心に、民謡三線を愛好する人たちが集う機会があった。Tさんから誘いがあり、三線を持って参加した。

 いくつかの民謡を歌った。なかでも、建築家のUさんが、2月のアルテ・ファクトリーで私が歌った「今帰仁天底節」を聞かせてほしい、というリクエストがあり、もう一度歌ってみた。

006  この唄は、天底(アミスク)生れの女性が、家が貧しいため7歳の年に、叔母を頼って大阪に出ていくが、冷たくされていびり出されて、花街に落ちていくという悲運な女性の物語である。実在の人物をモデルにした唄であると紹介した。

 すると、リクエストしたUさんが思いがけないことを話し出した。「そのモデルの女性と私はあったことがあるんですよ。もう90歳を超えていたけれど。生れは、石川(うるま市)の方だということだったけれど。だからこの唄を聞きたいとずっと思っていたけれど、これまで聞けなくて、初めて聞きました。ありがとうございました」とお礼を述べてくれた。

 会ったのが何年前なのか、詳しくはわからない。でも、唄のモデルがそんな高齢で達者でいらっしゃったことに驚いた。もう随分、過去の話だと思っていたので。

 カフェに集まっていたTNさんは、「Uさんから、今帰仁天底節を歌ってほしいと頼まれたけれど、私は歌えなかったので、今日歌ってもらってよかったですよ」と言ってくれた。奇遇である。004

 ただ、この唄のモデルは、仲宗根幸市さんによると、今帰仁村の天底ではなく、呉我山(ゴガヤマ)の出身で、歌では天底にしたとのことだった。だから、モデルとは別人物の可能性もある。ただし、Uさんが会われた女性も、この唄に歌われたような辛くて哀しい人生を歩んできたのは確かだろう。そういう意味では、この唄のモデルは特定の個人というより、貧困の時代に、同じ境遇を歩んだ多くの女性の人生を反映しているのかもしれない。

 こういう話に接すると、ウチナーンチュの日常の暮らしや生き方の中から生み出された沖縄民謡のスゴサを改めて実感する。
 ほかにもツレとのデュエットで「二見情話」、ツレの囃子で八重山の「トゥバラーマ」など歌ってみた。TNさんから「この唄は聞き事(チチグゥトゥ)でしたね」と言われた。

 宮古民謡の名手、Tさんの民謡を聞くのは初めてだ。いくつかの宮古民謡を歌ってくれた。三線はとっても味わいのある弾き方である。唄はもちろん、宮古民謡ならではの歌い方と発声で、素晴らしい歌だった。なかでも「多良間ションカネ」「伊良部トーガニ」の名曲は、CD録音で聞いてきた歌手の唄を上回る、情感があり、聞きごたえのあるものだった。Tさんの歌で聞くと、宮古のどの民謡も、それぞれにとっても味わいがある。

003  さすが宮古民謡のコンクールでグランプリを受賞した人々が、さらにノドを競い合って優勝したという実力の持ち主ならではだった。

 また、TNさん、Hさんもそれぞれ自慢の曲を披露してくれた。TNさんは、私のブログも見て、拙文を読んでくれていた。感謝、感謝である。

010

 4月からは、月に一度、「三線を楽しむ会」として続けていくことになり、とても楽しみである。

 

 

2012年3月27日 (火)

改作される沖縄民謡・仲筋ぬぬべーま節

 琉球王府の時代、八重山の離島や石垣島の遠島地にある村番所に役人が派遣されていた。単身で赴任する役人の世話をする「賄い女」(現地妻)をテーマとして唄である。
 竹富島の役人が、上納布の原料である苧麻と素焼き甕を得るために、産地である新城島(パナリ)の役人から条件として要求された「賄い女」の派遣を受け入れた。白羽の矢がたったのが竹富島の仲筋のヌベーマだった。「一人娘を送り出した親の自責の念と娘への憐憫の情が、ひきしまった旋律に乗せて描かれている」(當山善堂氏著『精選八重山古典民謡集』)。          

    写真は竹富島の集落風景Photo

 歌詞を訳文で紹介する(同書か

ら)。
 「♪仲筋村のヌベーマは その村の娘は 一人っ子の女の子であった たった独りの気に入り娘であった パナリ(新城島)の役人に嫁がせた 気に入りの夫に嫁がせた 何ゆえに嫁がせたのか いかなる理由で嫁がせたのか ブー(苧麻)を手に入れるために 素焼きの水瓶を得るために」

 問題は「気に入りの夫に嫁がせた」という歌詞だ。唄には、苧麻と素焼き甕を手に入れるため、たった一人の気に入りの娘を「賄い女」として出した親の無念の気持ちが込められている。「気に入りの夫」に嫁がせたのなら、喜ばしいはずではないか。無念の気持ちと矛盾する歌詞だ。

 當山氏によると、3番下の句の歌詞は、従来「肝ぬ夫 持つぁしょーり」と「うどぅぎゃ夫 持つぁしょーり」の二通りの歌詞があり、ここでは「肝ぬ夫」(気に入りの夫)を使用したとのことだ。「うどぅぎゃ夫」とは「損を被る夫・気に染まない夫」を意味し、「肝ぬ夫」とは正反対の意味になる。後者の「気に染まない夫」という歌詞が、この哀歌とはとてもよく調和する。

 古い明治年間の歌詞集はすべて「肝ぬ夫」であるが、大正年間から昭和40年代までの歌詞集は二つの表現が相半ばし、現在の工工四本(楽譜)はほとんど「うどぅぎゃ夫」を採用しているとのこと。

 當山氏は、この改作は八重山の民謡や民俗の名著を残している喜舎場永珣氏の「直接・関節の影響によって多くの歌詞本や工工四本では『ウドゥギャー』が主流になったのではないか」という仮説をたてている。

 當山氏は「うどぅぎゃ夫」(気に染まない夫)という表現は、「役人を指す言葉としては品がなさ過ぎ」という理由で否定的である。013     写真は水瓶ではない。与那国の花酒を入れた甕だ(2010年離島フェアー)

 當山氏の本書は、とても労作で学ぶところが多い。けれども、この部分の見解には同意しかねる。仮に喜舎場氏が「肝ぬ夫」を「うどぅぎゃ夫」と変え、その後これが主流となったとすれば、これはこの唄の主題にそった適切な改作だと思う。
 それに、この曲が本来、「親の自責の念と娘への憐憫の情」を歌った曲の主題からすれば、元歌の歌詞は「うどぅぎゃ夫」(気に染まない夫)だったのではないだろうか。それを誰かが、「肝ぬ夫」という真逆の歌詞に改作したのではないか。そんな気がする。
 もともとこの唄が作られた時、全体の歌意からみてとても違和感のある「肝ぬ夫」という歌詞だったとは思えないからだ。

 もしその通りなら、「うどぅぎゃー夫」という歌詞に変えたのは、元歌の歌詞を復元させただけということになる。まだ、私はこの曲は歌ったことがない。けれども、もし、「肝ぬ夫」という歌詞なら、歌うのにとても抵抗があっただろう。だから、この部分が変えられたのは、本来の唄の主題にそったよい改作だったと私的には思う。

2012年3月26日 (月)

改作される沖縄民謡・与那国ションカネー節

 沖縄民謡は、古い民謡だと歌詞も古くからの変わらない歌詞だと思いがちだ。でも、古い民謡は、歌い継がれていくうちに、後世の人々によって、さまざまな手が加えられている。歌詞が追加されている場合もあれば、歌詞を改作している場合もある。よい歌詞になっていればよいが、元歌より悪くなっている場合もある。

 いま『精選八重山古典民謡集』(編著・當山善堂)を読んでいるところだ。改作の一つに「与那国ションカネー節」がある。同書では「しょんかね節」としている。この唄は、与那国に赴任していた役人と、賄い女(現地妻)の別れの悲哀を歌った名曲である。

034_2  

 改作されているのは、2番である。
「♪片帆持たしば 肝ん肝ならぬ 諸帆持たしば 両目ぬ涙落とぅし」と歌う。訳すると「船出の際に片帆が上がると 胸が締めつけられ すべての帆が上がると 涙が(両目から)止めどなく溢れ出ます」という内容である。

 でもこれはもともとは違う歌詞だった。「片帆持たしば 片目ぬ涙落とぅし」であった。それが「大濱安伴師匠の時代になって『キゥムン キゥムナラヌ(肝ん肝ならぬ)』に創り変えられたものであり、人々の共感を呼び愛唱されている」(同書)という。大濱安伴師匠とは、八重山民謡の立派な工工四(楽譜)集を出版した方であり、同書は八重山民謡を学ぶには欠かせない本である。

 私が「与那国ションカネー節」を学んでいる大濱さんの工工四や本島でつくられた滝原康盛氏編著の工工四も、やはり「肝ん肝ならぬ」となっている。与那国出身の八重山民謡の唄者・宮良康正さんもこの歌詞で歌っている。

 でもなぜ変えられたのか、その理由がどうにも納得できない。當山氏によると、「片目だけから涙が流れるのはおかしい」という指摘があり、変えられたという。そんな理由で、先人が生み出した歌詞が簡単に変えられていいのだろうか。私は、いくつかの理由から元歌の歌詞が優れていると思う。032    2011年離島フェアーで演奏する女性の唄者。このときは「与那国小唄」を歌った。

 それは、まず片目から涙が出ないというのは、乱暴な決め付けではないだろうか。片目からうっすらと涙がにじむことなどは、あることである。私のツレも「片目から涙が出ることはあるよ」と話している。それに、歌謡はリアリズムで書くのではなく、ポエムとして表現するのだから、リアリズムからいえば少しおかしいことがあっても、詩的な表現の世界ではなんの問題もない。むしろ当たり前のことではないだろうか。

 なによりも、「片帆を持てば、片目から涙が落ちる 諸帆を持てば諸目(両目)から涙が落ちる」という歌詞は、対句となっており、相対して悲しみを強調するようにされている。
 しかも、船が島を離れようとする動きに合わせて、最初は「片目から涙」、次には「両目から涙」と悲しみが強まる表現になっている。とてもよく練り上げられた優れた表現である。

 改作された歌詞では、この対句の表現と、動きに合わせて悲しみが強まる表現は完全に壊される。

 當山さんが「八重山毎日新聞」にこの本の原稿を掲載した際に、石垣市の詩人Yさんから意見が寄せられたそうだ。Yさんは「『片帆・片目から諸帆・諸目へ』という掛け言葉を用いて時間の経過とともに変化していく感情の高まりを表現する元歌のほうが、優れているのではないでしょうか」と改作に疑問を投げかけている。

 當山さんはこの意見にたいして、「なるほどという気がしますので、当該歌詞の復活について真剣に検討したい」と述べている。ぜひ、元歌の歌詞を復活させていただきたいと思う。

  おまけ004  2012年3月26日、金星と木星の間に三日月が入り、3つの月星が連なるという珍しい星空だった。

 

 

2012年3月25日 (日)

大漁唄がない沖縄の不思議、コメント

東京在住 Kさんから、次のような意見が寄せられたので、要旨を紹介します。

 いつもながら新しい問題意識をもってチャレンジする心意気に敬服します。微小な経験から討論に参加します。

 知人Oさんの恩名村にいる両親のお宅に泊めてもらったとき、Oさんのおじさんが漁師だというので食事をしながらひとしきり漁の様子を聞きました。興味深い話でした。

 おじさんの漁の仕方は浦島太郎のような個人的なもので、月の出ている夜中にひとりで海岸に出かけ、先祖伝来の秘密の磯で釣りをしたり、漁具を仕掛けたりするというものでした。翌日、とれたさかなを近所に売って歩くという素朴なものです。沖縄では、日常、食料としての魚には名称はなく、すべて「さかな」だそうですね。いちいち名づけていては面倒なほど多彩なのでしょう。

 Oさんのおじさんのような漁の仕方が昔からかなりあるのだとすれば、そもそも「大漁」という事態はおこらないし、必要もなかったでしょう。たくさんとれば運ぶこと、売り切ることが難しくなります。その日ぐらしをするうえでは、わずかな漁獲量で十分なのだと思います。

054 

 Oさんの子どもは恩名村の浜辺にちょっと出かけるだけで、モズクを拾ったり、小さなタコを捕まえたりします。その日は家族みんなでそれをおかずにするのです。

 つまり沖縄では、ほとんどの人にとって海は身近で、収獲は日常的なのです。

そこからは「大漁」という発想は出にくいのではないかと思います。

 もうひとつ考慮する必要があるのは気象条件で、沖縄は年中、暑い日が多く雪は降りません。これは冷凍保存が昔から不可能だったということです。

私のふるさとは京都・伏見です。伏見の山里、醍醐では昔から雪を穴倉に保存して、アイスクリームのような食品をつくり宮中に納めていたそうで、たいへんおいしく「醍醐味」の由来はここにあるとのことです。雪で川魚を冷凍保存することもあったことでしょう。

沖縄でも日干しや、くん製にする保存法はあったでしょうが、生のさかながいつでも食べられるのに、わざわざまずい干物に人気はなかったのではないでしょうか。個人的な好みですが、私は、干物は敬遠ですし、伊豆七島のクサヤに至ってはノーサンキューです。

 保存、運搬、交換をしやすく、租税として搾取するうえでも便利なのは、穀物などの農産物です。農業普及の理由がここにあり、漁業といえるほどのものは限られていた理由も上記のようなことがあるのではないかと私は思います。 

2012年3月24日 (土)

赤いサクランボが実る

 カンヒザクラが散り、新緑が映える季節は、赤いサクランボが実る頃である。首里の末吉公園に立ち寄ってみた。012  末吉公園は、那覇市内では与儀公園、漫湖公園と並ぶカンヒザクラの名所である。

007  サクランボは赤く色づいていた。でも、なぜか少ない。実っている木が少ないし、実っている木でも、サクランボの数が多くない。

001  といっても、赤い実はいかにも美味しそうだ。006  美味しそうに見えるが、手にとってかじってみると、「酸っぱい!」。それに種が大きい。皮と種の間の果肉の部分は、薄い。食べるところはほとんどない。

 先日、「琉球新報」で与儀公園で幼稚園の園児たちがサクランボを見ている記事があり、サクランボは果実酒や煮詰めてジャムにすると書かれていた。まだ沖縄のサクランボの果実酒も見たことがない。こんな種の大きい実でジャムが作れるだろうか?

010  民謡ではサクランボを歌った曲は聴いたことがない。ヤマモモ(山桃)は、「桃売りアン小(モモウイアングヮー)」がある。「祖慶漢那節(スウキカンナブシ)」という各地の産物を売る民謡でも、ヤマモモ売りが出てくる。サクランボの曲がないのは、あまり食べられないからではないだろうか。

大漁唄がない沖縄の不思議、その5

なぜ糸満の漁業は発達したのか

 琉球全体では、漁業は発達しないばかりか、抑圧さえされたなかで、糸満は例外だった。琉球王府時代はもちろんのこと、廃藩置県の後も同じ状況が続いていた。

先に紹介した沖縄の水産事情の調査報告(西南地区中央水産調査員)では、明治になった一八八八年(明治二一)の時点でも「各島々の沿岸に住む人々、生活を営む途はおおむね農業を専業としており、漁業に従事する者はきわめてまれ」な中で「糸満村は、管下第一の漁村で、その漁業に熱心なのは驚くべきものがある」と述べていた。その後、一八八七年(明治二〇)代でも「漁業を専業とするものはほとんど糸満漁民にかぎられていました」(同書)。

『糸満市史資料編12、民俗資料』では、次のように記している。

「沖縄では、古くから漁業者のことをイチマナーと呼ぶことが多いように、漁業者の代名詞として糸満を考えることが普通である。それは、往時の糸満が住民のほとんどが漁業者という沖縄では珍しい“純漁村”であったことやその規模も全国的にみても大きかったことに理由がある」

明治三五年(一九〇二)になっても、糸満の漁業者数約四〇〇〇人を数え、沖縄の漁業者一〇人の内六人は糸満で占められていた。沖縄漁業に占める地位が、量的にも質的にも糸満は「独占的な立場にあり、漁業技術の面からも卓越した存在である」と指摘されている(同書)。

 糸満の海人が豊漁と安全を祈願する白銀堂

117

では、海に囲まれた沖縄で、なぜ糸満だけ漁業が突出して発展したのだろうか。王国全体では、農業重視の政策がすすめられている中で、農業ではなく漁業を専業的に営むことが勝手にできるだろうか。そこには、何らかの首里王府とのかかわりがあるはずである。

加藤久子さんは『糸満アンマー ―海人の妻たちの労働と生活―』で次のように指摘している。「王府時代の『勧農政策』の体制下にあったにもかかわらず、土地が狭いため農業による収益は不可能であり、首里王府は糸満に対し漁業を命じた。津々浦々漁猟が許され、藩主や高官に魚類を提供したと記録にあるように、いわば漁業は糸満の専売特許であった」(「記録にある」の注に玉城伍郎著『糸満社会史』を参照している)。

 ただし、土地が狭いから漁業を命じたというのは、少し疑問がある。海に面し地方で土地が狭いというなら、糸満だけでなく、沖縄中にほかにも同じ条件の地方はある。もっと深い理由があるはずである。

それは、琉球が中国に進貢し、皇帝から国王として認証してもらう冊封(サッポウ)関係にあったことと関わりがある。というのは、琉球は進貢し、冊封を受けることによって中国貿易を認められ、国家事業として中国、東南アジア、日本、朝鮮を結んだ中継貿易を営み、大きな利益をあげてきた。琉球から中国への輸出品のなかで、重要品目が海産物だった。清代に琉球船が中国に持ち込んだ三回分の商品のリストが手元にある。これで見ると、昆布、鱶鰭(フカヒレ)、鮑魚(干アワビ)、海参(カイジン=干しなまこ)が圧倒的に多い。中華料理の高級食材が含まれている。昆布は北海道からの流通であるが、その他の海産物の大部分は沖縄産である。この進貢品の海産物の重要な産地が糸満だったのだ。

「鱶鰭の生産は、糸満の一手専売と考えられ事実、明治二五年鱶漁獲量の約九一%は糸満で占められているのである。漁村の少ない沖縄で、鱶釣りという技術の伴う漁業は極めて限られた地域のものであったことがいえ、糸満の独占的な立場が反映するのである」。上田不二夫氏は「糸満漁民の発展」でこう指摘している。

『糸満市史 民俗資料』では「王府時代の糸満漁業」について、次のように述べている。「琉球王府時代における糸満漁業は、鱶釣りやイカ釣り、飛魚刺し網といった沖合域の漁業を中心として、それに採貝や採藻を目的とする沿岸の潜水漁業で構成されていたといえる。いわば、漁業の発展段階としては先進的な段階にある沖合漁業が中心であったわけである」

このように、糸満漁業は漁業技術の上でも「先進的な段階」にあり、漁業の内容からみても、中国貿易に不可欠な海産物の産地であり、王府にとって糸満漁業は特別な存在だったと思われる。

上田氏は、糸満と中国貿易を結びつける直接的な資料は、「現在までのところほとんど見つかっていない」としながらも、次のように結論付けている。

「糸満の漁村としての発展が王朝時代にみられること、貿易の内容をみると海産物の占める比重の大きいこと、糸満の漁業種類が鱶釣り、鯣釣り、潜水漁業など中国貿易の中心となる海産物生産に深く関係していることなど、極めて密接なものがあるといえよう」

実際に、長期にわたった中国との進貢貿易が明治七年(一八七四)停止されると、鱶鰭、海参などの海産物を柱とする中国貿易の需要がなくなったことで、糸満漁業は大きな影響を受けた。このため、糸満漁業は転換を余儀なくされた。それまで沖合漁業を中心としていたのが、沖合漁業ではなく、沿岸漁場への依存度が高まった。沖合漁場から沿岸漁場へというのは、日本の漁業の発展方向とは、まるで正反対の方向だという。

専業漁業の地だった糸満には、大漁唄があるのだろうか。先に一つ古謡を紹介した。糸満の豊漁と航海安全を願う伝統ある行事に糸満ハーレーがある。その際歌われるものに「ハーレー歌」がある。漁師の氏神である白銀堂やヌル殿内(どぅんち=神女ノロの家)に豊漁と安全を祈願し、円陣を組んで踊りながらハーレー歌を歌う。いまはハーレーの終了後、「ハーレー歌大会」も模様される。

ハーレー歌の歌詞は、豊漁祈願の内容ではない。一つは「首里の国王さま いついつまでも」と讃える歌詞だ。二つ目は「♪でィき按司(アジ)ぬ 乗(ヌ)いみせる御舟(ミブニ) 世果報(ユガフウ)待ち受けてィ 走(ハイ)ぬ美(チュ)らさ」

最初の「でィき按司ぬ」は、誰かを指しているようだが意味がわからない。その後は「乗っていらっしゃるお舟 豊年の世待ち受けて 走る美しさよ」という意味だろう。「世果報」とは、豊作や平和で幸せな世を意味する。この中に、漁師であれば豊漁や航海安全、家族の繁栄などの願いが込められているのではないだろうか。

 029
                 糸満ハーレー

糸満ならではの異色の民謡がある。「シンガポール小(グヮ)」という。糸満漁人は、戦前は漁場を求めて遠く南洋諸島、フィリピン、シンガポールまで出稼ぎに行った。その海人が作り歌ったという。歌詞は、親兄弟と別れ、お金を稼ぐために外国に行く。福岡の門司から出て、香港を通りシンガポールに着く。シンガポールは当時、珍しい自動車が走るが、ピストル強盗も出て恐ろしいよ。概略こんな風な内容で、豊漁を願う唄ではない。

「海ヤカラ」という唄がある。「海ヤカラ」とは糸満では漁猟にたけた者を指す。「糸満・海やからのまち宣言」をしているほどだ。でも、唄の歌詞は、娘さんが海ヤカラに惚れたというような中身で、大漁や漁猟のことではない。

このように、糸満はやはり海人の村だっただけに、豊漁や海の安全を願う行事や古謡、歌はいろいろある。ただ狭い意味での大漁唄はないが、それは恐らく漁業の形態の違いなどがあるのではないか。糸満漁業の典型である「アギヤー」という追い込み漁は、漁夫たちが海面をたたいて魚を網に追い込む漁法なので、とても歌なんか歌っていられない。そういう漁法の違いなどが背景にあるだろう。

 

漁業の発展は明治の末期以降
沖縄の漁業の発展を阻んでいた障害が取り除かれて、漁業が発展するのは明治末期以降である。すでに漁業が専業化していた糸満では、漁法も先進的であった。代表的なものに、中央に袋状になった網をはり、漁夫たちが泳ぎながら海面をたたいて魚群を袋の方に追い込む「追い込み漁」がある。すでに明治二三年(一八九〇)頃には、「アギヤー」という大型の追い込み網が考案され、糸満漁業はさらに大きく発展する。

といっても、県内各地でも漁業が盛んになってきた。各地の漁場に出漁していた糸満漁師たちは、周辺の漁民とトラブルを起こした。糸満漁法は、海域の魚を獲りつくすため、資源の枯渇を恐れられ、県内の他地域からは締め出されることにもなった。こうした事情もあり、糸満海人は、八重山、奄美諸島をはじめ県外本土、さらには遠く海外まで進出していったのである。

「明治三五年に導入された『漁業法』は、糸満にとって県内各地の海から締め出される結果となり、県外や海外への漁業出稼ぎ(タビアッキ=)の原因にもなった」(『糸満市史 民俗資料』)

沖縄全体の漁業が発展に向かいつつあったといっても、明治四四年(一九一一)統計では、産業別生産額に占める比率で見ると、農業七五・六%に対し、水産業はまだわずか四・五%にすぎなかった。大正時代に入り、カツオ漁業が本格的に展開されてきて、水産業の比重もだんだん大きくなっていった。大正一一年(一九二二)にようやく一一%を超えた。

そして今日のように沖縄の漁業は、恵まれた環境を生かして隆盛をみるに至った。現在、マグロやカジキ、イカ、カツオ類など沿海漁業を始め、モズク、クルマエビ養殖などが盛んだ。なかでも、近海での生鮮マグロの水揚げでは、全国三位を誇る生鮮マグロの一大産地となっている。

おわりに

というわけで、沖縄には大漁唄がなぜないのか、少ないのかをテーマとした。だが、豊かな民謡があることを書くのはやさしいが、ないことを書くのは難しい。なによりも、ないことを書いてもあまり共鳴する内容に乏しい。ついつい、大漁唄のことを入り口にして、沖縄の漁業史の一面を記すようなことになってしまった。漁業なんか一知半解で、門外漢が首を突っ込むと的外れなこともあるだろう。ご容赦願いたい。

最後に、これからの展望について述べて終わりにしたい。

周囲を海に囲まれた有利な条件を生かして漁業が豊かに発展してゆけば、海人と漁業の祭りと芸能なども、さらにいろんな形で発展していくだろう。海と海人と漁業をテーマとした民謡、島唄がさらに生まれる可能性も秘めているのではないだろうか。それを期待したい。      

(終わり。 二〇一一年八月一日    文責・沢村昭洋)   

      

  

2012年3月23日 (金)

F&Yフォークライブを楽しむ

ウチナーフォークユニット「f&y」のライブに久しぶりに行った。糸満にある「風は南から」で毎月恒例のライブだ。「ふーみー」とyosiakiさんの二人である。008

 「風南」は、3月からリニューアルオープンした。でも、内装は新しくしたが、店内の雰囲気は変わらない。「ふーみー」がrbcラジオで毎週放送している「フォークティダボックス」のヘビーリスナーである「ヤンママさん」「まっちゃん」らの顔も見える。

004
 「f&y」の演奏が始まる。「今日は新しいお客さんもいるので、定番曲をやっていきましょう」と、得意の「かぐや姫」から「ふきのとう」「NSP」「チャゲアス」、さらには洋楽のヒットナンバーを披露した。NSPの「昨日からの逃げ道」は、初めて聞いたが、なかなかよい曲だった。

 2人が昨年と変わったのがヘアースタイルと帽子。ふーみーは長髪をバッサリ切ったので帽子をかっこよく被る。yosiakiさんも、前はゲバラのようなキャップだったが変えた。018  昨年12月の写真と比べると一目瞭然(南城市のカルカフェで)。

  ライブでは、ふーみーが「沖縄を代表するスーパーギターリスト」と称するyosiakiさんのギターに酔いしれた。「ホテルカリフォルニア」など、ギターテクニックが映える。
 ライブ1部では、いつもは後半で演奏する「ふきのとう」のノリのよい「春雷」を熱唱し盛り上がった。

003 汗だくでフォークを熱演する2人だが、実は昨年夏ごろからだろうか、めまいに悩まされている。2人が同じ頃、めまいに襲われた。病院に行って少し休んだが、ライブ活動は続けている。休み時間に「なでしこジャパンの沢選手のようですね」とツレがyosiakiさんに話しかけると、「まったく同じですよ」。疲れやストレスが原因のようだ。

 前は、楽譜を見るとめまいがするといっていた。でもこの日のライブでは、そんなそぶりも見せないで、元気な演奏を続けた。 

012

 ふーみーのトークは、小学校6年生の息子の所属する恩納村仲泊の「タグラクビー」(タックルをしないラクビー)チームが、沖縄代表として、全国大会に出たこと。決勝リーグまでいく活躍をした息子たちの活躍に大喜び。子煩悩な父親の素顔を見せた。

 2部に入ると、盛り上がる。後ろではずっと立って踊る。前でも、元気な熟女というかおばちゃんも登場し、タンバリンを持って前に出て踊る。ツレも踊りだす。
 

  アンコールに応えて「アリス」の「チャンピオン」「冬の稲妻」になると、前も後ろも踊り出してライブは最高潮。楽しいひと時だった。

 

018_2

大漁唄がない沖縄の不思議、その4

日本で漁業の歩みは

ここで、日本列島というか大和には、大漁唄が結構あるが、では漁業はどれくらいの歴史があるのだろうか、見てみたい。手元に適当な資料がないので、インターネットの百科事典「ウィキペディア」から簡略に見ておきたい。

縄文時代以前から日本人の祖先たちは漁や採取によって魚介類を収穫していたと考えられる。鎌倉時代には、漁を専門とする漁村があらわれ、魚・海藻・塩・貝などを年貢として納めるようになった。室町時代にはさらに漁業の専門化がすすみ、沖合漁業がおこなわれるようになり、市の発達や交通網の整備、貨幣の流通など商業全般の発達に漁業も組み込まれていった。江戸時代には遠洋漁業がおこなわれ、また上方で発達した地曳網による大規模な漁法が全国に広がるなど、漁場が広がった。077

           奥武島の地先の海

 

もちろん、日本の沿岸のどこでも漁業の専業化がすすんだとは思わないが、漁業を専業としたのは糸満だけだった琉球とは、かなり様相が異なる。亜熱帯の沖縄では、豊漁でたくさん魚が獲れても、昔は保冷ができない。だからすぐに腐る。消費地も限られている。交通網も整備されていない状況では、魚がたくさん獲れても生かせないだろう。自給自足的な漁業にとどまらざるをえなかった面もあるだろう。

ここで、日本の漁業を背景に生まれた大漁唄については、見ておきたい。幸い、インターネット「yahoo百科事典」で、竹内勉さんが解説している。それから要旨を紹介する。

大漁唄とは、漁業に従事する漁民が、大漁を祈願し、またそれに感謝して、漁の神へ捧げる祝い唄の総称である。この大漁唄、大漁節には次の四種類に分類できる。

 正月二日に漁師が網元に集まり、仕事始め祝いと海上安全、豊漁そして網元の繁栄を願って歌う祝い唄。「ヨイヤナ」「ションガエ節」「まだら」「エンコロ節」「ヨイコノ節」など。

 大漁のおり、船上で海の神に感謝し、次の大漁を願いつつ歌う祝い唄。「大漁唄い込み」「鯨の唄」「鯛の大漁唄」など。

 大漁に際し、氏神様へ報告に行き、社殿で奉納する祝い唄。「銚子の大漁節」「千越し祝い唄」など。

 大漁ののち漁師たちが網元の家に集まり、大漁祝いの祝宴のおり、歌う祝い唄で、これは先のものを借用することが多い。

これらは大漁唄に限ったものだが、これ以外にまだ漁業の労働歌などもある。たとえば鰊(ニシン)場作業歌はたくさんあり、ソーラン節もその一つである。貝殻節もつらい帆立貝漁から生まれたという。これらもまだ一部にすぎない。やはり、大和の大漁唄、漁業を歌った曲は、たくさんの種類と民謡があるのだ。

海産物が租税にもされた

琉球王府の時代の年貢の基本は、米や粟、上布だったが、役所と役人の食料とするために、魚介類を租税の一つとして納めることもあった。

たとえば、漁獲りが盛んだった宮古諸島の伊良部(イラブ)島など「漁業による税金を納めるための親海(ウヤイン)という制度」があったという。「親海とは、一五才から五〇才までの男子が磯漁などで得た漁獲物を必ず納めなければならないし、蔵元の役人や地方番所の役人には特に上質の魚を毎日体長五寸以上を五尾ずつ献上すべき義務が漁業地の佐良浜にも課されていた。そのため、漁師たちは宮古島の各海岸海域を漁区として泊海(トマイン=浜で寝泊まりして漁をする=)を行い、献上魚を納めて帰るという習慣が続いた」(『伊良部町漁業史』)

014 

 

 

           沖縄ではいま「ヤイトハタ」(ミーバイ)養殖が盛んだ

この制度は、なんと一八九七年(明治三〇)頃まで続いたという。

八重山では、海産物や地上の産物など合計四八種類もの上木(ウワキ)税(物産税)があった。現物で納める税である。たとえば、海産物では、ナマコ、貝柱、トコロテン、ハマグリ、海人草(カイニンソウ=生薬になる)その他。地上の産物では、煙草、キクラゲ、菜種子油、綿花、唐竹(トウチク)、牛皮、松明、その他があった。

新城(アラグスク)島で、ジュゴンを人頭税として王府に納入した。島の人たちは、ジュゴン獲りに懸命になった。島にはジュゴン獲りの唄がある。「ザントゥリユンタ」という。「ザン」とはジュゴンのことだった。でもこれは例外的なものである。

琉球王府は、沿岸村落の地先の海を、「海方切(ウミホウギリ)」といって、間切、島ごとに使用する区域を定めていたという。村落の地先の海を独占的に使用できるが、各種の義務を負わされた。義務の中には、海産物を納める義務『海雑物(ウミゾウモノ)』の存在もあった。また、海は陸地と一体となった領域と理解され、農業用の肥料となる海藻を取る場でもあった。
 「王府の政策からいえば、農業をするのに必要な場であり、専業漁業者にとって必要な漁場というとらえ方は基本的に無かったものと考えられる。つまり、地先の海の利用法とは農業の合間に漁業をするといった程度の位置付けしかなかったということになろう」(上田不二夫著『沖縄の海人―糸満漁民の歴史と生活』)

沿岸村落の百姓にとって、「海雑物」を納めれば、年貢の米や粟、上布などは免除や軽減されるというものではない。それはそれで厳しく取り立てされる。だから、百姓は農業で重労働をしたうえに、海産物なども獲って上納しなければならない。二重、三重に課税を強いられたことになる。

      

    

2012年3月22日 (木)

大漁唄がない沖縄の不思議、その3

薩摩の支配下で加重される年貢

琉球で漁業が発展しないばかりか、漁業も漁船の建造も抑圧された背景に、農業重視の勧農政策や林業保護の政策があった。では、海に囲まれた南島の琉球で、なぜこれほどまでに「勧農政策」が徹底されたのだろうか。そこには、琉球が薩摩藩によって侵略され、支配され、搾取された現実が横たわっている。

一六〇九年に琉球に侵攻した薩摩の島津氏は、琉球の検地をおこない、琉球の総石高を八万九千石余りと定め、島津への貢物(仕上世=シノボセ)は、年貢米九千石、ほかに芭蕉布、琉球上布、むしろなど納めさせることを定めた。八重山、宮古など先島には、人間の頭割りで年貢を納めさせる人頭税が強いられた。このもとで、王府は税収をあげて、薩摩への貢納を果たすために、百姓に対する苛酷な徴税を徹底した。年貢は、基本的には米や粟である。先島の人頭税は、現物で納入することが義務付けられていたので、他のもので代納することはできなかった。

たとえば、宮古諸島の池間島の実例を見てみたい。

「池間島は、もともと面積が小さいうえにやせ地が多く、島に住む殆どの人たちは漁業によって生計をたてていた。しかし一六三七年(寛永一四年)の人頭税時代に入ると、上納物はあくまで粟と上布であった。したがって穀納するためには、島に産するアワだけでは到底おさめきれず、そのため人々は人頭税を完納するために、あるいは増え続ける島人の食料をまかなうために隣の島に出向き、土地をたがやして粟などをつくるという、いわば出作り耕作をしなければならなかった」(『伊良部町漁業史』)。

薩摩支配による人頭税の施行前は、宮古島周辺でも漁業で生計をたてていた人々がいたことがわかる。でも、漁業を中心にして農業をおろそかにしていては過重な人頭税を完納できない。完納するためには、近くの島に出かけて耕作することまでしなければいけない。もっぱら漁業に従事して暮らすような余裕は、とてもなかったことを意味する。

薩摩の支配下では、沖縄本島から離島まで、民衆は過酷な徴税に苦しめられ、あえいでいた。しかも、台風や干ばつなど厳しい自然のもとで、凶作になればたちまち滞納に陥る。王府が厳しく取り立てをすればするほど、農村は疲弊し窮乏化した。

蔡温が農作業の手引書「農務帳」を配布し、百姓をもっぱら農業生産に従事するようにさせたのも、王府財政が窮迫するという事情からであった。つまり、百姓が魚獲りにばかり熱中して、農業をおろそかにすれば、王府の財政も薩摩への貢納も立ち行かなくなる。だから、漁をすることは抑圧の対象にさえなったのである。

202      平安座島のサングヮチャー。魚の神輿をかつぐ

海神祭の意味するものは何か

沖縄には大漁唄がない、少ないというと、「でも」と思い浮かぶのは、県内各地の漁港などで、盛んに行われている海神祭(ウンジャミ、ウンガミ)のことである。そこでは必ず豊漁と海の安全を祈願する。そして、ハーレー、ハーリーの競漕も盛んである。

これらを見ていると、海神祭は昔から、漁民の祭りで、豊漁や安全を祈願するのが当たり前のような感覚になる。でもこれは、必ずしも古い歴史と伝統があるものばかりではない。近年になって漁業が県内各地に広がり、発展していった中で、豊漁祈願の祭りが盛んになったものがかなりあるのではないだろうか。

といっても、もともと各地に残る海神祭そのものは古い伝統がある。しかしながらそ由来は、必ずしも漁師の祭りということではない。もっと別の姿をしている。

大宜味村塩屋(シオヤ)の海神祭の模様を、テレビの映像で前に見たことがある。塩屋の海神祭は、集落の豊作や豊漁を願う神事として国の重要無形民俗文化財にも指定されている。地域の拝所「アサギ」を巡り、神酒や舞をささげ豊作や健康を祈願する。歌や踊りを披露して祭事を盛り上げる。そこでは、海の彼方のニライカナイにいる神や山の神をムラに迎え、祭りの場で歌や踊りを披露してもてなすのだ。さらに、サバニを漕ぎ競う「ハーリー」が行われる。浜辺では各集落の女性が、腰のあたりまで海水につかり、にぎやかな歌や太鼓で男性の乗るハーリーを出迎える。

塩屋だけでなく、沖縄本島北部の海神祭は、共通して次のような特徴がある。

「国頭村から大宜味村にかけての一帯では、旧暦七月盆後の亥(イ)の日にウンガミが行われる。集落からやや離れた神アシャギと呼ばれる祭場にムラの女性神人が中心となって海の神、山の神を招き、神人が神と一体となって歌や踊りを繰り広げる(神遊び)。そして再び神々をもとの世界へお送りして祭りを終える。祭りの後日、臼太鼓がムラの女性達によってムラの広場で直会(ナオライ)として踊られることが多い」(久万田晋著『沖縄の民俗芸能論』)

海神祭では、何を祈願しているのだろうか。

大宜味村謝名城(ジャナグスク)のウンジャミは、漁労や狩猟の模倣儀礼を行ない、村の女たちの祭りであるウシデーク(臼太鼓)と呼ばれる踊りで歌われるウンジャミのウムイは、つぎのような歌意である。

「海の彼方ニライ・カナイからこの島にいらっしゃって、神さまたちは神遊びに慣れ、踊りに慣れておられるから、この狭い島ではさぞかし踊ることもできず、神遊びもし足らず踊り足らないことでしょうが、どうか精いっぱい楽しく歌い踊ってください」(矢野輝雄氏著『沖縄舞踊の歴史』)。海の神、山の神に歌や踊りを楽しんでもらうことによって、豊作や健康の願いをかなえていただきたいという趣旨だろう。

大宜味村の塩屋・田港(タミナト)・屋古(ヤコ)のウンガミの神歌のなかで、ノロ(神女)の祈願の内容を見てみたい。
 「ニレー、竜宮から、甘種子を、鷲の鳥が口にくわえていらっしゃり、庶民の食え幸せ、新たな幸せ、作物の満作をお助けくださり、海からの寄り物、恵み物もお助け下さい」(『やんばるの祭りと神歌』から訳文で紹介)。やはり一番の願いは作物の豊作である。また海から恵みの寄り物があることを願っている。海からの寄り物とは、漁業ではなく、海岸には様々な漂着物があり、しばしば恵みをもたらしたことを指す。

海の祭りでもう一つふれておきたいのは、勝連半島沖にある平安座島(ヘンザジマ)の「サングヮチャー」である。旧暦三月三日に行われる。この時期は、一年で潮の干満がもっとも大きい時で、浜下りという伝統行事がある。女性が浜に下りて身を清めるとされているが、実際には浜に下りて遊ぶ日であり、「女の節句」といわれる。
 平安座島のサングヮチャーは、琉球王時代から約二〇〇年続く、伝統行事である。大漁や豊作を祈願する由緒ある祭りである。こちらは、二〇一一年四月に初めて出かけて、実際に行事を見ることができた。

075     

集落の拝所で、ノロ(神女)が並べられた二匹の生きた魚の一匹を、銛(モリ)で突いて肩に担ぎ舞い踊る(写真)。そして魚を捧げる「トゥタヌイユー」という儀式が有名である。この後、タマン(和名ハマフエフキ)の形の大きな神輿を若者たちが担ぎ、島の南東約四〇〇㍍沖にあるナンザ島に海を歩いて渡り、島にある御嶽(ウタキ)に祈願してくる行事である。

集落の拝所では歌と踊りを奉納する。突いた魚を肩に乗せて踊る時、次のような意味の歌が歌われる。

「ニライの海 カナイの海 マクブ魚は砂を掘って隠れる タマン魚は渦を巻くように群れを成す 白網を大きく張れ 一心にひけ 獲り込み網ですくいあげよ 大銛を打ち込んで突き捕獲せよ 大型のマクブは ノロ様に差し上げよう 美味なるタマンは ノロ様に差し上げよう」

豊漁や豊作への願いが込められているようだ。また、祝いの場では必ず演奏される「かぎやで風節」や、その替え歌も歌われた。替え歌の歌詞を紹介する。

「♪海人(ウミンチュ)ぬ願や 波風ん静か ちりてぃちゅる魚(イユ)ぬ羽ぬ美(チュ)らさ」
(歌意・漁師の願いは波風が静かで海は穏やか 獲れる魚の羽が美しいことよ)

この替え歌はあまり古い感じがしない。でも、この行事は見るからに、海人の祭りのようだ。王府時代から続いているとすれば、例外的な行事だろうか。

2012年3月21日 (水)

大漁唄がない沖縄の不思議、その2

王府は漁業を抑圧した?

なぜ、漁業に従事する人がほとんどいなかったのか。重税に追われて余裕がないということではあるが、そこには首里王府が農業を奨励し、農民が漁業に精を出すことは抑えるという政策をとってきたことがある。

沖縄の漁業について研究している上田不二夫氏は、琉球王国時代の社会について次のように指摘している。

琉球は「その歴史的な出発は遅く、古代的な社会体制を随所に残したままの特異な封建社会であったという。とはいっても、その統治上の基本策は農業を中心とした社会の確立であり、その面では本土と同じといえる。このような農業を中心とした社会、それも自給自足的な社会の中で生産の安定しない漁業は、農業の補助的立場に位置づけられ、状況によっては抑圧の対象にもなっているのである」(中楯興編著『日本における海洋民の総合研究―糸満系漁民を中心として』の中の「糸満漁民の発展」)。

首里王府でとくに勧農政策を強力に推進した政治家に、蔡温(サイオン)がいる。王府で行政のトップである三司官につき、らつ腕をふるった政治家として名高い。一七三四年には「農務帳」を公布した。蔡温は著書『平時家内(チネー)物語』(一七四九年)のなかで、自分の領地の農民の心得を説いている。063    首里にある蔡温住居跡。蔡温の書が掲示されている

「海辺之百姓者少々魚ヲ取候而終日海辺ニ罷出家業之働致油断其漸々致衰微候儀笑止千万ニ候漁猟勝手之作方占抜群相増候働ハ其通ニ候左様ニハ無之徒ニ海辺ニ出ケ間敷手隙ヲ費候儀不計得至極ニ候此儀思慮可有之候」

漢文なので、上田氏の訳文と解説を紹介する。

「海辺の百姓のなかには漁に夢中になって農業をおろそかにするものがいるが、漁が得意で農業よりも多く稼げるというならともかく、いたずらに漁にでるのは家業を衰微させるというのである」「これによっても『海』を農地に代えて利用するということは、生活の安定、向上の面から不定的であり、むしろ抑圧する姿勢がみてとれる」

王府による「勧農政策」は離島でも徹底された。宮古島の大神島(オオガミジマ)は農耕に適する土地が狭く、海に出ることが島民の仕事だった。しかし、日常の食料(農産物)に事欠くありさまで、王府は島民を宮古本島に移住させたけれど、依然として漁業にいそしみ農業に力を注がないので、他の村から農民を移住させて一緒にして、農業へと転換させたという。また、多良間(タラマ)島に近い水納(ミンナ)島では、島民が漁獲物をもって年貢を納めるよう望んだのに対し、村役人が島の産業そのものを農業へ転換させ、役人は王府から表彰された。

上田不二夫氏は、歴史書『球陽』からこれらの事例を紹介したうえで、次のようにのべている。

「このような事例から、封建制度の進展とともに、従来の漁村が農村へと転換させられ、沿海村落であっても農業そのものに監視がともなう状況では、漁業を主とすることは不可能であったろう」(『沖縄の海人―糸満漁民の歴史と生活』)。

ここで「農業そのものに監視がともなう」と述べているのは、王府の時代に、役人らが耕作に出る農民を朝夕監視して、朝少しでも遅れるとムチで尻を打たれるという仕組みにされていたことを指す。こんな監視があるもとでは、漁業を主とすることはできないことは当然である。このように、島であるがゆえに、徹底した農業政策の影響を受け、漁村も農村に転換させられたことを明らかにしている。

こうした「勧農政策」と漁業の関係のなかで、もうひとつ重要なことは、かつては存在した漁業にかかわる祭りや行事も消えていったと見られることである。

沖縄大学学長も務めた安良城盛昭(アラキモリアキ)氏は、一七世紀末から一八世紀半ばにかけた時期に、首里王府が祭祀の禁止と再編成をすすめたことを明らかにしている。なぜなのか。その理由として、①祭りやタブーが多すぎて農耕の妨げになること②祭りにひまどって農耕をしない日が一年に沢山あること③祭りに費用がかかりすぎること、などをあげている(安良城著『新・沖縄史論』)。その中で久米島の「シュク」(スクともいい、アイゴの稚魚)の祭りを例にあげている。

044    いまハーリーをみんなが楽しんでいる(屋慶名ハーリー)

島尻村では、一七〇三年に「シュク祭」が禁止されている。ここでは毎年稲のウマティ(稲の大祭)の翌日に、「シュク祭」といって、ノロ(神女)や神人・村人たちが集まって、網をたて舟をこぐ真似をして「シュク」をつかまえる漁猟の模倣儀礼を行なっていた。「シュク」がたくさん獲れるような真似事をすることによって、実際の豊漁を願うお祭りであった。この祭りが禁止されたという。

上田不二夫氏は、安良城氏の研究を紹介して、次のようにのべている。

首里王府の祭祀禁止と再編成という「この過程で漁業に関連する行事も消えていったことは、容易に想像できる」、「シュク祭」のような「漁業につきものの、このような行事が禁止される状況こそ、勧農政策の具体的な漁業への影響例になるかとも思える」(「糸満漁民の発展」)

これらは、かつて行なわれていた豊漁を祈願する祭り、行事が、久米島以外でも消えていった可能性があることを示唆しているのではないだろうか。

これは蔡温が三司官になる前のことだ。蔡温はより徹底して勧農政策を推し進めたのである。

漁船の製造も制限した

沖縄の漁業の発展を阻害した要因は、このような勧農政策だけではない。もう一つの注目すべき点として、漁業には不可欠な漁船を造ること自体を王府が制限したことがある。井手義則氏は「沖縄産業の変遷と水産業の位置」(『日本における海洋民の総合研究―糸満系漁民を中心として』)で、次のように指摘している。

「この農本主義政策の展開による沖縄水産業の発展阻害について、さらにひとつ注目しておきたい点がある。それは、漁業の基本的生産手段たる漁船の製造制限政策が存在したことである。『沖縄県水産一班』で大村八十八は、『農業林業は古来之に制度を立て制限奨励共に尽せりと雖も漁業に至りては藩政一の制度の設なく却て林業保護の為め間接に漁業を禁制したるかの嫌なきにあらず即ち元文二年(一七三七年)⋯⋯設定せられたる所謂漁船定数の制を施し置県当時迄行はれたり』と述べ、農林業に関しては奨励策がたてられたのに対し、漁業についての制度は設けられず、むしろ林業保護のために漁業禁制政策がとられ、漁船建造が制限されたことを指摘している」。

この林業保護の政策を確立したのも蔡温であった。七つの林政指導書を出して造林に力を注いだ。その結果、漁獲用・運搬用の刳舟(クリブネ)についても、大木ははじめから禁止され、雑木を材料にした舟しか造れなかった。藩政時代においても、大木伐採を制限するために、各間切島村の造船を制限して『定数船舶』と称し、その手続き、及び林産物の搬出について、厳重な取り締まりがされていたという。

蔡温以来の林業保護政策は、明治時代に入ってもしばらく続き、船舶の製造制限が解禁されたのは、明治二二年(一八八九)のことである。

007      林業保護政策がとられていた山原の森

井手氏はこれらを明らかにしたうえで、次のように結論づけている。

「かくて、『勧農政策』によって漁業従事そのものすらが圧迫されるとともに、林業保護政策によって漁業生産手段の基本たる漁船建造が制限されることにより、沖縄における漁業の発展、産業としての水産業の展開は、押し止められたまま推移せざるをえなかったのである」「そうした政策の下で発展契機を摘み取られてきた水産業が、本格的に展開を開始するのは明治期に入ってからである」 

こうした事情は、いま漁業がとても盛んな八重山諸島でも同じだった。石垣島の水産業の歩みを『石垣市史 民俗上』で見てみたい。

「八重山における水産業は明治中期頃に沖縄本島の糸満から出稼ぎに来た専業漁民の定住によって、本格的なあゆみをみせる。糸満系漁民が渡来した背景には、その頃八重山では、水産業は自給自足程度にしか展開されておらず、当時、商品価値の高かった海人草などの海藻類や夜光貝などの貝類が豊富に採集できたこと」などがあったと述べている。やはり、石垣島では魚を獲っても自給自足の程度であり、漁業を専業とする人たちはいなかったのである。

八重山では、農業をおろそかにして漁をする農民に、漁を禁ずることがあった。たとえば、一七〇二年に王府は八重山の木垣による網漁をしていた百姓に対し、農業を疎かにしているとの理由でこの漁を禁じたという(ネット「糸満海人工房・資料館」)。木垣について説明はない。八重山でも垣(カチ)と呼ばれる漁法があった。昔は浅瀬に石垣を積み、満潮時に海藻を食べに来た魚が、干潮時に石垣に阻まれて海に戻れないでいるところを網や手づかみで獲った。それと同じような漁法ではないだろうか。

一九五九年に石垣島を訪れた、彫刻家の岡本太郎はその印象をこう記している。

「たとえば海に囲まれていながら、ほとんど漁村がない。はじめ不思議に思えた。しかし考えてみれば、いくら魚をとっても買ってくれる相手がいなければ漁業なんて成り立たない」(『沖縄文化論―忘れられた日本』)。

戦後も石垣島の各地の集落では、魚を獲って食べてはいても、漁猟を生業とする漁業はまだ限られており、島で漁村はあまりなかったことを示している。

2012年3月20日 (火)

大漁唄がない沖縄の不思議、その1

大漁唄がない沖縄の不思議

 このテーマですでにブログにアップしてあるが、ダウンロードしないと全文が読めない形式だったので、改めでそのまま全文が読める形式で紹介する。

はじめに

沖縄といえば、周囲を海に囲まれていて漁業は盛んだ。沖縄本島でも離島でも漁港はとても多い。爬龍船の競漕・ハーリー、ハーレーは、各地で盛大に行われる。そこでは、豊漁と航海安全を願う行事だと言われている。
 こうした光景を見ていると、沖縄ではどこでも昔から漁業が盛んだったのだろう。豊漁を願う祭り、行事も古い伝統があるのだろうと思いがちである。でも、ちょっと不思議なのは、そんな祭り、行事ではどこでも軽快な民謡が流れ、踊りも登場するけれど、豊漁を願う唄、大漁唄はあまり聞いたことがないことだ。

民謡でとっても多いのは、農作物の満作豊年、五穀豊穣を願う唄、そして豊作で幸せな世を意味する「世果報(ユガフウ)」「ミルク世(ユ)」を願う唄である。そして夏となれば、各地で豊年祭や年貢を完納したことを祝う祭りがとても盛んだ。

日本民謡だと、大漁節、大漁唄い込み、ソーラン節などすぐ頭に浮かぶ。なのに、この沖縄はこれだけ民謡は多いのに、ほとんど大漁の唄は聞いたことがない。海人(ウミンチュ、漁師)の町である糸満市の伝統あるハーレー(サバニによる舟こぎ競争)を見に行っても、芸能船が出て民謡と踊りを披露していたが、登場するのは、「稲しり節」という稲作の唄や「だんじゅかりゆし」という海の安全を願う唄である。大漁の唄は流れない。テレビ、ラジオの民謡番組でも殆ど聞かない。なぜだろうか。そこには歴史に由来する原因があるはずだ。 069        奥武島のハーリーで勝利して喜ぶ漕ぎ手たち

その背景として考えられるのは、沖縄の漁業の歴史は意外に古くないのではないか、ということ。県内各地に漁港があり、漁業をしているのも、案外、その歴史は古くないのではないか。琉球王府の時代は、漁業を専業とする人々がいたのは、糸満など一部だったと聞く。本島でも離島でも大部分の地方では、魚を食料として獲ってはいても、それを生業とする漁業はなかったのではないだろうか。だから、大漁唄があまり生まれなかったのではないだろうか。そのように思った。

また、これだけ海に囲まれどこでも漁ができる条件がありながら、漁業といえば糸満といわれ、しかも糸満漁師が、石垣島や奄美諸島まで出かけて、そこに住みつき、集落を形成していたことも不思議だった。これだけ、各地に漁港があるのに、なぜ糸満漁師だけが遠くまで出かけていったのか。そこには糸満以外では、ほとんど漁業がなかったという事情があるのではないか。つまり大漁唄がないという事情と同じ原因があるのではないだろうか。そんなことが頭に浮かんでいた。

もうすでに結論を先に書いたようなものだが、そんな問題意識ですこし探ってみたい。

南島歌謡の中で大漁唄はわずか〇・二%しかない

琉球王府の時代は、糸満など除いて漁業がほとんどなかったといっても、魚を獲らないわけではない。古代から厳しい自然の南島に生きる人々にとって、海の魚介類はとても大事な食糧源でもあった。だから、魚介類をつねに獲って食べて生きてきたことは間違いない。しかし、琉球王府の時代には、それは、農業の合間に魚を獲る、自給自足の生活の補完する程度のものだった。なにしろ、王府に納めなければならない年貢は、米や粟、上布などが決められ、それを現物で納めなければならない。八重山、宮古など先島では、人間の頭割りで税金を課す人頭税が重くのしかかった。海産物を役人、王府に現物税として納めることもあったが、それは米や粟に代わるものではない。

私が通う民謡三線サークルで、練習する民謡一〇〇曲ほどの中には、大漁唄はない。魚を歌った曲では、有名な「谷茶前(タンチャメー)」があるぐらいだ。「♪前の浜にスルル(キビナゴ)が寄ってくるよ、あれはスルルじゃない、大和ミジュン(イワシ)だよ」と歌う。でも、豊漁を祈願する唄ではない。そのあと、「若い青年たちが、魚を獲り、娘さんが頭に載せて売りに行く、魚を売って帰りの娘たちの香りのかぐわしいことよ」と歌うから、やっぱり沖縄的である。

     写真は、餌づけされて寄ってくる魚(恩納村)

大漁唄がまったくないわけではない。先日、ラジオで流されていた民謡に大漁を歌った曲があった。「新川大漁節」という。ただこの曲の作曲者は普久原恒勇(フクハラツネオ)さんである。普久原さんは、「芭蕉布」をはじめ数々のヒット作がある現役の作曲家だ。だから戦後も一九六〇年代以降の作曲だと思われる。「をどる黒潮ユイサーユイサー 一番竿に銀のうろこがとびはねる ヒヤとびはねる ユイサーユイヒヤ」と歌う。歌詞はウチナーグチ(沖縄語)ではなく、ヤマトグチ(共通語)だ。いかにも新しい曲の感覚である。

他に、船と海をテーマにした唄、航海と安全にまつわる唄はいろいろあった。琉球から中国に往来した唐船を歌った「唐船(トウシン)ドーイ」、薩摩との往復の航海を歌う「上り口説(クドゥチ)」「下り口説」、戦後も沖縄と大和を結んだ船を歌った「通い船」、伊江島への渡し船を歌った「伊江島渡し船」など数々ある。

では大漁唄は、どれくらいあるのか、沖縄の古謡や民謡、島唄のなかでどれくらいの割合であるのか、確かなデータとして調べてみたい。それで、もっとも適当な資料として選んだのが琉球の古謡を集めた『南島歌謡大成―沖縄編』である。これに収録されている古謡のなかに、どれくらい漁業のことや大漁を祈願する歌謡があるのだろうか。これは沖縄本島に残る歌謡だけを対象にしているが、この大著に収録されている歌謡を数えると、合計九三六にのぼる。しかし、いくら探しても大漁の祈願らしい歌謡はわずか二つしかない。つまり〇・二%にすぎない。

大漁の歌謡であったのは、やはりというか現在の糸満市糸満に残る「ちなうるくーの祈願」である。訳文で紹介する。「子の方の御神加那志 国元の御神加那志 何性の人が 船を造ってありますので 子の方の御神も 国元の御神も 船に乗り込みなさって 何性(の人)が航海に行ったら いつも手柄を 懐に すぐ突っ込ませて下さって 又船のいっぱい 大漁させて 海に出ても 旅の行き戻りも 糸の上から(航海安全に) いい天気から 取らせてください」。分りにくい内容だが、大漁の願いと航海の安全が歌われていることは確かである。

もう一つは座間味(ザマミ)村に残る「大漁の物願い(かやーぬむんにげー)」である。

「マジョジ魚 マクブ魚 タマミ魚 ざ打ちする 羽打ちする 大息する 真亀魚(亀) 肝の限り 心の限り⋯⋯」と歌われる。書いても意味がよくわからない歌なので省略する。
 
ただし、魚を獲ったり、食べたりする模様が登場する古謡はいくつかある。八重山では「魚獲りに行こう」(「まれちゆんた=竹富島」)、「港にミジヌ魚(イワシ)が来ている パダラ魚が群れている」(「みなとゆんた=石垣市白保」、「新村ゆんた=黒島」)と歌う。儒良(ジュゴン)の登場する歌もある。「儒良の夫婦を料理しよう」(「はとぅままり」=竹富島)、儒良が網にかかり、食べようとするが儒良を許す(「古見の主=宮古島狩俣」)。これらは、魚を獲り食べる風景が歌われてはいても、大漁祈願の歌ではない。

いずれにしても、一〇〇〇近い歌謡のなかで大漁祈願の歌が、わずか二つということは、大漁唄はほとんど例外的にしかないということである。

もう一つ、琉球民謡から島唄ポップスまで収録した最新の『歌詞集 沖縄のうた』を調べてみた。収録した曲数は三七九曲にのぼる。でも、大漁唄は先に紹介した「新川大漁節」だけである。やはり〇・二六%にすぎない。それも民謡としては極めて新しい曲である。戦前からの民謡には大漁唄は皆無である。

 

漁業は糸満漁民だけだった

これだけ魚獲りや大漁を歌った曲がないということは、その根底に沖縄における漁業の現実がある。沖縄の水産業の歴史はどうなっていたのだろうか。『沖縄の歴史第二巻近代編』の「第三節水産業」から紹介する。以下はその引用である。

沖縄県は六十あまりの島々からなり、水産業を営むのには、地理的にすばらしい条件に恵まれていました。ところが一八七七年(明治十)代に、上杉県令の沖縄本島各地を巡回した際に、漁業に従事するのが少ないことを知り、漁業の奨励をしようとする意向をしめします。それに対し、国頭(クニガミ)地方の役人は「今は、負債を償却するため、精いっぱい力を尽している。その負債を償却したのち、網を結んで、舟を作って、人々に漁業を教える」と答えています。それからもわかりますように、納税に追いまくられ、負債償却のために「尽力」しなければなりませんでした。そのため農民は、漁業を営む余裕などなく、すばらしい条件を生かすことはできませんでした。したがって漁業を専業とするものはほとんどいませんでした。ただ農業のあいまをぬって「四人~五人ニテ引網スルノミ」(大宜味間切=オオギミマギリ)、あるいは「専業トスル者ナケレドモ、農業ノ間隙ニ漁ス」(名護間切=ナゴマギリ)という程度でした。しかし、そうしたなかで糸満漁民だけは例外でした(注・間切はいまの町村にあたる)。

 一八八八年(明治二十一)に、沖縄の水産事情を調査した西南地区中央水産調査員の報告によりますと、

「各島々の沿岸に住む人々、生活を営む途はおおむね農業を専業としており、漁業に従事する者はきわめてまれである。こうしたなかで、本島島尻地方兼城(カネグスク)間切糸満村は、管下第一の漁村で、その漁業に熱心なのは驚くべきものがある。その不完全な漁船にのって遠く数十里(一里=四キロ)もはなれた遠海に出漁している。また、ほかの島々に出稼ぎして、その遺利(イリ、とりのこされた利益)を収めるなど、けんめいに働いている。また、婦人もほとんど男の捕獲した魚類を市場におくるなどの労働に従事している。老若男女の別なく、村をあげて、一生漁業に従事している」と記録されています。

 それからもわかりますように、一八八七年(明治二十)代では、漁業を専業とするものはほとんど糸満漁民にかぎられていました。一八九四年(明治二十七)になっても五千名程度しかおらず、沖縄県の全人口の一パーセントというわずかな比率しかしめていません。

ここに引用したとおり、海のそばに住む百姓たちも、年貢を納税するのに追われて、漁業を営む余裕はない、だからあくまで基本は農民であり、漁業を専業とする住民は糸満以外にほとんどいなかったことがわかる。

漁業と言えば、すぐ頭に浮かぶのがカツオ漁である。沖縄はいまカツオ漁が盛んだし、カツオ節をつくり、たくさん消費する県である。でも琉球王府の時代は、カツオ漁はまったくなかった。当然、カツオ節という保存食の製造も知らなかった。カツオ漁とカツオ節の製造が始まったのは近代になってからである。

明治三一年(一八九八)鹿児島県人が慶良間諸島でカツオ釣り漁業を始めた機会に、島民が漁船の運用や漁法の伝習を受けたことなどが、沖縄本島でのカツオ釣り漁業とカツオ節製造の始まりだという。明治の後期である。

137          糸満漁港の旧正月風景

053

2012年3月19日 (月)

ユバナウレ考、その3

「金志川金盛がアヤゴ」

八重山編でも書いたが、宮古島の土豪、金志川金盛(キンスカーカナムリ)は、仲宗根豊見親(ナカソネトーミオヤ、名高き領主のこと)に随行して、首里王府に背いた石垣島のオヤケ・アカハチや与那国島の鬼虎(ウニトラ)の征討に参戦した。しかし、帰還する途中に仲宗根豊見親は金志川金盛が邪魔になり、多良間島の土原春源に命じて、同島で殺させたと伝えられる。宮古島の「金志川金盛がアヤゴ」は、この物語の前半部分だという。多良間島には、金志川金盛を祀る「ウチバルウガン」があるそうだ。

 「♪金志川の金盛 ユナウラシ(世直らせ)」と始まる。金盛は賢い人、与那国の鬼が島の尻の虎(鬼虎)が、御主御物の上納を戻し、飲んだと聞いた金盛は、武士を揃えて船立てをなされた、多良間からの船頭は土原の鳴り響く親よ、と歌われる。英雄談だが、途中で終わった感じだ。囃子は勇敢な金盛を讃える意味で使われている。

「東間のブナガマ」

「♪東間の南宗根の ブナガマよ ユヤナオレ(世は直れ)」と歌われる。ブナガマは子どもと思っていたが、お仮屋の七庫裡(部屋)の主になり、男の子を生んだので、屋敷までブナガマのもの。こんな歌意である。これも、囃子はブナガマを讃える意味で使われている。

「根間の主」

「♪根間の主がサーサー 乗っておられる御船」と歌い出し、いくつか囃子の後に「ヤナドゥ ユヤナウレ(世は直れ)」と歌う。根間の主が、乗られる船は、相船(公用船)で池間崎を行く頃、扇を取って送ろう、という内容の歌である。
 根間の主が首里王府に船で旅立つとき、妻のカナガナが夫の航海の無事を祈る様子が歌われている。昔は、船の航海には危険がつきものだった。この場合の囃子は、夫の無事を願ったものだろう。

「米の籾」

「♪米の籾(マイノアラ)米の籾よ 選りすぐるように ユヤナウレ」と歌い出す。このあとも、友達ともユヤナウレ、(愛しい人とは)一夜、片夜の間でも離れてはおれないよ ユヤナウレ、一夜で百年の縁も結ばれる ユヤナウレ、一夜会わないと一〇日、二〇日会わないようだ ユヤナウレ。短い曲だが、囃子が七回も繰り返される。この囃子は、愛しい人といつも会いたいという気持ちが「ユヤナウレ」に込められている。

「アーピツアアゴ」(粟摺り歌、伊良部島)

「♪今年蒔く粟が 一〇月蒔く種が サアサア ヨウヤナオレ」と始まる。蒔いた粟が数珠玉のように実ったら、天貢物納めて、残りはおじいさん、おばあさんを招いて昼七日、夜七日を遊ぼう。こんな歌である。囃子は、作物が実り豊作になることを願っている。

「ユナウンの姉ガマ」(宮古島狩俣)

「♪ユナウン(屋号)の(部落の)行き果ての姉さん なオれ(豊かな世に直れ)」と歌い出す。吉(よ)かる人の子であるから、早朝水を取りなさい、さあ朝の潮干狩りに海に下りよう、潮は引かない、満ちてしまったので、親になんと言おう、友だちがきれいな玉を落とし、捜しているうちに潮は満ちてきたと言いなさいと教えてくれた。こんな内容の話である。長い曲のわりに、「なオれ」の意味があまりない。

「ピトゥマサのマユカリャ」(同狩俣)

「♪ピトゥマサ(屋号)のマユカリャ(女名) ヨーナウリ(世は直れ)」と始まる。マユカリャは近所でも名高い美人、母が言うには来間島の夫を約束してある、優男の夫をと談合してあるが、私はいやです、いやだと言うのに持たすというのでいやとも言えず、じゃあ行きましょう、行った翌年、粟、麦を蒔けば繁茂し、粟俵、米俵を積み重ね、貢物として納めた、半搗きで貢納した。囃子は、美人に生まれたマユカリャがいやいや親の決めた男性と結婚するが、とても豊作になり、幸せに暮らした様子が歌われている。この女性が幸せになってほしいという願いを込めた囃子のようだ。 先に紹介した「来間添う女メガ」と、女性の名は違うけれど、話しがとても似ている。

「豊年のうた」(同狩俣)055      「豊年のうた」を歌う女性グループ「乙女椿」

「♪正月であるから 新年であるから ヨーイディーバ ヨーイダギユー ソイドゥカギサヌ ユーヤナオレ」と歌う。これは、文字通り豊作、豊年を願う、弥勒世を願う歌である。貢物に納めて、残ったら「粟酒を造って 米の酒を醸造して」と結んでいる。囃子は、豊年の願いそのものである。

「真南風為すメガママ」(池間島)

「♪前南(地名)の真南風にするメガママ ヨーイウヤキ ヨーナヲリャガヨー(富貴な世に直れ)」と始まる。メガママが一七歳の盛りに、底の屋の後結いの男が女と三カ月いて、伊良部に行って、帰って来ない、大主は願いをかなえる神だから、明日までに真南風にしてください、伊良部の下の方を見れば、小舟が大帆を持ちあげてくる、私の夫の舟だろう。こんな歌意であるが、囃子は、伊良部にいって帰れない夫が無事に帰ってこられるよう願ったものである。

まとめ

「ユバナウレ」の用例を三〇余り見てきた。使われ方を分類すると、文字通り「世は直れ、世はよくなってほしい」という意味と、「豊作の世を願う」「豊かな世になれ」という意味で使われている例が、半分近くを占めている。苦しい農民にとって、「世は直れ」と「実り豊かな世になれ」は密接につながっているのだろう。

不幸せな女性、人々のことを歌って「ユバナウレ」が「幸せにはってほしい」という意味で使われているのも、四例ほどある。もっと前向きに、「立派な人になってほしい」という意味の使われ方も二例あった。
 さらには、特定の個人、歴史上の人物を取り上げ、「立派な人物だよ」と賛美する意味で使われている例も三例あった。英雄讃歌の囃子の使われ方は、八重山では、宮古関係の金志川金盛の「ゆんた」だけで、他には見当たらなかった。多いのは宮古島周辺である。これは、首里王府に反旗を翻した石垣島や与那国島の豪族、首長を、宮古島の支配者が王府軍を先導して遠征した、古い歴史が背景になっているのではないだろうか。

この他、「ユバナウレ」が「航海の無事を祈る」「愛しい人に会いたい」という意味で使われている例もある。かなれ幅広い意味でも使われている。
 こうした「幸せになれ」「立派な人になれ」など、幅広い意味で使われているのも、もともとは「世は直れ」から派生して、幅広く使われるようになったのだろう。歌詞を見ただけでは、囃子の意味あいがはっきりしないのもいくつもあった。そいう場合も、歌を盛り上げるために、囃子はとても効果的である。
 「ユバナオレ」という囃子が、辛い世の中、不合理な現実がなんとか変わってほしい、「豊年の世になってほしい」という願望を込めた歌謡に使われると、とてもよくマッチする。歌っていて、囃子にも気持ちが入ってくる。

少し、注意を要するのは、辛く哀しい現実をリアルに歌った曲であっても、「世は直れ」という囃子が使われない歌謡もけっこうあることだ。なぜ使われていないのかは、いまはまだよくわからない。
 たとえば、役人の女になることを拒否して山に入り死ぬ女性を歌う八重山の「いきぬぼうじぃゆんた」、手先の器用な女性を無理やり連れて行き細上布の絵図をもとに機織りを強要する「あろざてー」、宮古島では、結婚間もないのに強制移住で生き別れさせられた男女を歌った「島分けのアーグ」などがある。いずれも「ユバナウレ!」と叫びたいところだろう。ただ、使われていないといっても、これらの歌謡の痛切極まる内容には変わりない。

それにしても、「ユバナウレ」の囃子が使われた曲が、なぜこれだけ多いのだろうか。そこには、八重山、宮古島での耐えがたい現実があったからだろう。琉球王府の時代、八重山、宮古島は、人間の頭割で税金をかける人頭税(ニントウゼイ)が明治後期まで二〇〇年以上も続いた。農民、百姓は王府に人頭税納めるためだけに生きている農奴のような存在に置かれていた。そればかりではなく、権力をかさにきた役人の横暴によって、理不尽なことがまかり通った。その一端は、紹介した歌謡の中にも見ることができる。

「ユバナウレ」の囃子について、とても重要な指摘を耳にした。それは、一七七一年に「明和の大津波」のあと、「ユバナウレ」の囃子がよく使われるようになったということである。これは、八重山民謡の大御所、大工哲弘さんが話されていること。大工さんの弟子である杉田園さんが教えてくれた。

「明和の大津波」では、八重山・宮古諸島で一万二千人にのぼる死者・行方不明者を出した。琉球諸島の先島にとっては、二〇一一年三月一一日の東北大震災と大津波に匹敵するような未曾有の大災害である。さらには、その後も災害や疫病の流行、大飢餓が相次ぎ八重山で人口は激減するほどだった。「八重山の受難時代」と呼ばれている。王府による重税と大災害によって、苦しめられた庶民は、心底から「ユバナオレ!」「世は直れ!」と叫んだことだろう。そんな血の叫びが、民謡、古謡に映し出されて、この囃子を使った曲が多くなったのではないか。それはまた、庶民の心の奥底に響き、深い共感を呼び、支持されたのだろう。
 「世は直れ」と言えば、大和的な感覚では、「世直し」を意味する。封建時代には、百姓が「世直し」を公然と口にはできないことだった。沖縄民謡の場合は、それほど、ストレートに政治的な変革まで求める「世直し」とまでは、いえないかもしれない。でも、語感として現状への批判、プロテストの精神が感じられる。王府の圧政下でこれだけ、たくさんの歌で「ユバナオレ=世は直れ」と公然とみんなが声高らかに歌うというのは、なかなかスゴイことではないだろうか。沖縄の庶民のたくましさを感じさせる。
 祭りや芸能の場で、「ユバナウレ」を盛り込んだ数々の歌を、みんなが歌う。それは、辛く哀しい世の中を嘆き悲しむだけではなく、辛さを生き抜いていく、哀しみを乗り越えためにも、欠かせないことだったのだろう。
 考えてみると、沖縄の民衆の苦しみは、琉球王国時代だけではない。戦前の「ソテツ地獄」から、郷土が地獄と化した沖縄戦、さらにはその後の占領米軍による軍政と基地の重圧、悲願の日本復帰を果たして以降も、日本の米軍基地の七四%が集中し、日本政府の背信行為が続く。この現状は、なにも変わらない。
 そんな沖縄で、「世は直れ」「平和で豊かな世にしてほしい」という叫びは過去のことではない。「ユバナウレ!」はいまも生きている。そんなことを改めて痛感させられた。

     (終わり。2012年3月18日。文責・沢村昭洋)

追記

「ユバナウレ」について、沖縄県立芸術大学の波照間永吉教授が「『世ば稔れ』考」という論考を雑誌「沖縄文化」114号、115号に発表されていることがその後、わかった。波照間氏は、もともと「よ(世)」の語義は、穀物の稔り、実りのサイクルを意味すること、「ナウル」も穀物の「稔る」を意味する語として使われてきたことを解明している。説得力のある説明であるが、この拙文はそのままアップしておくので、関心のある方は、波照間氏の論文を読んでいただきたい。なお、FC2ブログの「レキオ島唄アッチャー」http://rekioakiaki.blog.fc2.com/で、波照間氏の論考のさわりを紹介しているので、そちらも参照していただきたい。

        2015年1月14日 沢村昭洋

 

 

2012年3月18日 (日)

ユバナウレ考、その2

 

「正月ゆんた<綱引き歌>」(黒島)

「♪今日の日を元にして 黄金の日を元にして ウーヤキ ユバナウレ ソリユバナウレ」と歌い出す。黄金の日を元にして黒島の男たちは心を一つにもち、今年の世を祈願しよう、豊作になったらみんなの名前を鳴り響かせよう、その果報を願おう、という歌意である。この曲では、囃子は豊年の祈願の意味で使われている。

「船越ゆんた」(黒島)
「♪伊原間村を建てた者は 船越村に分けた者は ササユワイヌ サスリ ユバナウリ」と歌い出す。移住で伊原間村を建てた者は、船越村に分けた者は(役人の名前をあげて)、この人たちが我らを分けたよ、次にはその人たちを分けてやろう、その時の主は頭(役職名)になるな、目差(役職名)になるな、と開拓のため強制移住をさせた人たちに、恨みの目を向けている。「ユバナウリ」はまさしく、「こんなひどい移住をさせたるような世の中は間違っている、直れ!」という叫びの声に聞こえる。 ただし、強制移住をテーマとして曲は、ほとんど恨みと抗議の歌詞は、途中から逆に移住したことを喜ぶ歌詞に変転する。この曲の場合も、恨みの歌詞の最後に、伊原間、船越にいて嬉しい、その時の主は頭になってくださいと真逆の内容になる。これもあまりにも不自然である。だれかが、作為的に曲の歌詞を変えたとしか思えない。

 考えてみると、この囃子も変である。「イワイヌ」という「祝い」の囃子と「世は直れ」という囃子は、本来意味が反対のはずだ。それが一対になっているからである。

 「船越ゆんた」とほぼ同じ内容で「舟越節」がある。この曲は実は、沖縄本島で琉球古典音楽の「祝い節」に編曲されている。小浜光次郎氏著の『八重山の古典民謡集』の琉球古典と八重山古典の類似曲一覧表に記されている。
 「祝い節」は、元歌と思われる「舟越節」の島分けの悲劇とは何の縁もない歌詞になっている。「お祝い事が続くよ この世の嬉しいことよ」という、めでたい歌詞が続く。ところが、囃子は「祝いぬ サー スリ ユバナウレ」が繰り返される。めでたい世を祝う歌詞だから「ユバナウレ=世は直れ」というのは、少し歌詞とはズレがある。多分、元歌の「舟越節」では「ユバナウレ」が使われているので、歌詞は換骨奪胎して、異なる歌詞にしながら、囃子だけは、元歌の「ユバナウレ」をそのまま残したのではないだろうか。本島で歌われる古典や民謡で「ユバナウレ」が使われるのは、少ない。私が知っているのはいまのところ「祝い節」と「夜雨節」がある。

「いんしがーぬ金盛ゆんた」(黒島)
宮古島の土豪、金志川金盛(キンスカーカナムリ)の与那国征討を歌った長大な歌謡の後半部分にあたる歌だ。新城島、黒島にだけこの歌は伝承されているという(「沖縄音楽大全データベース」)。

「♪金志川の ホーホーユバナオレ」と歌い出す。いんしがーぬ(金志川)の金盛は賢い者、国(村)を治めていこう、宮古島、八重山島は何事もなく、与那国島は帰されているので、思慮深い主に申し上げ、東崎に帰って来て、芭蕉の船を造り、明かりを灯し、刀を取り持ち、島の中央に飛んで行き、切りに切って行くと、二〇歳の乙女に行き会い、真首を抱いて飛びまわり、そのため与那国島は現存している。
 囃子は、金盛が立派な人物だと讃える意味がある。新城島には、金志川金盛の古墓があるそうだ。

次はユンタではない。豊年祭の歌である。

「ありぬ渡からの歌」(石垣島白保)

「♪東の海から船が来なさるそうだ ピヤガ ユヌトウホンガナシーヨ チヤユバユバ ユバナウル」で始まる短い曲だ。どんな船だろう、粟俵、米俵を積んで来られる 弥勒世(豊年)を恵まれてという内容である。囃子は、豊年を願う意味で使われているのだろう。

「いんきやらぬの歌」(同白保)

「♪いんきやらの加那叔父 ヒヤユバナウレ」で始まるやはり短い曲だ。網の目をつくり、下の浜に下ろし、フクラビ魚のとんま者、網を知らないで縛られ、スクラ魚の愚鈍者、網を知っており白保村の上に、弥勒世を恵まれ。こんな内容だ。珍しく魚を獲る話である。ここでは、囃子は、豊年の「弥勒世」を願う意味が込められている。

 これまで『南島歌謡大成』から紹介したが、これ以外にも『八重山古典民謡工工四』にも掲載されている。歌の訳文がないので、曲名と囃子だけを紹介しておく。 

「真栄(マザカイ)節」は「ウヤキヤゥヌ ユバナヲレ」、「上原ぬ島(ウィバルヌスィマ)節」は「ユバナヲレ」、「とぅまた節」は「シターリヤゥヌ ユバナヲレ」、「夜雨(ユルアミ)節」は「スリユバナヲレ」、「とーすい」は「ハリユバナヲレ」と歌う。「黒島節」は「ウヤキユバナヲレ スリユバナヲレ サースリユバナヲレ」と囃子が三回も繰り返されている。「しきた盆節」は「ウヤキユウバヤゥタボラレ」という囃子だが、これも「豊な世になってください」という願いの囃子であり、「ユバナウレ」と同じ趣旨だと思う。 

宮古編
宮古島と周辺諸島の民謡にも、「ユバナウレ」の囃子はよく使われている。なかでも「アーグ」「クイチャー」という歌謡に多い。それは「アーグ」「クイチャー」が民衆の生活の場で生まれた「生活労働歌」が多いからだろう。農作物の豊作や世の中の平和、航海の安全などを祈願するものなどがある。また歴史と伝説に登場する人物を讃える英雄讃歌もある。八重山の歌謡と比べて、こういう英雄讃歌が多いのも宮古の特徴である。それは、宮古島の歴史が反映している。

「雨乞いのアーグ」(池間島)

「♪クイチャー踊りが出たからには くとぅシっじゅーや なをれ(今年中は<世は>直れ<豊作になれ>」と歌い出す。このあとも、来年の世は勝り重ねて直れ、今年播く種の直れば(実れば)大きな家も小さな家も寄り集まる俵で富貴(金持ちになる) 直り世(栄える世)の雨加那志よ、と歌う。雨乞いによって、作物が実り、豊作になり、豊かになることをひたすら願う歌謡である。ここでは、「直れ」が「実れば」「豊作になれ」「栄える世」というように、豊作と繁栄の願いを込めた囃子として使われている。

「直り世(ノーイユー)の雨加那志」(同)

 この曲は、「雨乞いのアーグ」の中心部分を独立の歌にしたものだ。短い歌詞であり、後半部は、先に紹介したのと同じく、今年播く種が実れば富貴になる、クイチャー踊りが出たからには「今年の世は直れ(豊作になれ) 来年の世は勝って重ねて直れ」と歌う。

「池間マージメガ」(同)

「♪池間島に 布織村に生まれた 富貴なマージメガ 離れ(島)にいる マージメガ なうり(豊かな世に直れ)」と歌い出す。マージメガの立派な兄は火立番であるが伊良部島に行った、兄に代わって私が火立番をする。この後、歌詞はちょっと卑猥な表現になっていくので省略する。なぜ「なうり」の囃子なのか、マージメガを讃える意味があるのだろうか。

「山原の底家のヌチディ姉」(同)

「♪山原の底家(屋号)のヌチディ姉 なオり(豊かな世に直れ)」と始まる。ヌチディ姉は美しい生まれをしているから、貰い手がないだろうと言っていたら、大主は願いをかなえて下さる、神だから、私の島の二部落の男たちが貰い手にくるだろう、一人にだけ抱かれるのだ。こんな歌詞であるが、美しい可愛い生まれの女性がなぜ貰い手がないというのか不可解である。でも、売れ残ると心配するから、願いがかなうようにという意味で「なオり」の囃子が使われているのだろう。

「来間添う女メガ」(同)

「♪来間で評判なメガの よーなうれ やはら みやらびぬ よーなオれー」と始まる。囃子の意味は「豊かな世にしてほしい 物ごし柔らかな女の世直れ」。メガが生まれたが、母は意地悪、父は嫉妬深い者と言って、恋人と大声で話し、メガは一緒にならないといいながら、母の声、父の声であるから一緒になっていよう、メガが嫁いだ年に、大麦は一〇年分、一〇〇年分もできていたので母に献上しよう、父に差し上げよう、というような歌意である。これは、父、母の声に応えて嫁いだ女性が、豊かに、幸せになってほしい、という意味でこの囃子が使われているではないだろうか。

「マンチキとマンジャクがアーグ」(同)

「♪マンチキとマンジャクの 二人が かりヨすなオり(嘉例吉直れ)」と歌い出す。二人は幼いころから夫婦で、離れることがない夫婦だった、マイグムイという悪い邪魔者、夜這い人が入り、火で明るくしてみると薪の下に隠している、本当に怒った。これも、短い歌詞で歌意がつかみにくい。囃子の意味もよくわからない。

「かにつみがうえーに」(多良間島)

「♪沖縄の久米島に生まれた ヨナウーレ」と始まる。かにのメガのウエーニ(女名)は、五人の子、七人の子を生んだが女の子、また孕んだ。生まれた子はまた女、男の船乗りは生まれないが、男の子だと言って名前をつけ、親だけで育てた、学問も習わし、親の代理で唐に行った、水を浴びにと言ったら水は嫌い、女郎買いをと言ったら女郎は嫌いだと言いなさい。こんな歌意である。この曲の場合、囃子は「立派になれ」という意味だろう。

「土原の女按司のアーグ」(多良間島)

「♪土原の按司(アジ)は 女按司は名を揚げようと イルラが世や直れ」と始まる。大和への乗り出し、大和刃を取り持って、阿旦(アダン)山を薙ぎ開けて、日本屋を葺いて、女按司は鳴響(トヨ)もう。こんな歌意である。勇敢な女性の按司(豪族)を褒めたたえた曲である。ここでは囃子は、女性按司の名声を揚げ、立派になるのを願う意味で使われている。それにしても、沖縄本島では、女性按司の英雄談は聞かない。でも、与那国島には女性首長のサンアイ・イソバがいたことで有名だ。

036   離島フェアーの三線店の前で演奏してくれた子ども。メッチャ三線が上手い

024   2011離島フェアーで八重山民謡を披露するお兄さんたち

2012年3月17日 (土)

ユバナウレ考、その1

ユバナウレ考

 

 沖縄民謡は、本体の歌詞に続いて囃子(ハヤシ)が入るのが通常である。いろんな囃子があり、歌を盛り上げるのに、欠かせない存在である。大和の民謡とは異なる、とてもユニークな囃子がたくさんある。

 有名なのには「安里屋ユンタ」の「マタハーリヌチンダラカヌシャマヨ」とか、「唐船どーい」では「ハイヤセンスルユーイヤナー」、「かいされー」では「ジントヨー」、八重山の「トゥパラーマ」だと「ツンダサーヨー ツンダサー」など代表的なものだろう。囃子が入らないと物足りなさを感じるほどだ。

 囃子は、「ジントヨー」は「本当だよ」など、意味がはっきりしているものもある。でも、聞いても意味がよく分らない囃子がある。それぞれ、由来があり、語源はあるだろう。でも、いざその意味を探るといろいろな説があり、はっきりしないことが多々ある。だから、あまり詮索しないで、歌を盛り上げる役割だけを重んじればいいかな、と受け止めている。

030       2011年離島フェアーで民謡を披露する唄者 

 そんななかで、とても興味をひかれる不思議な囃子がある。「ユバナウレ」である。八重山民謡でも、宮古民謡でも、いずれもよく登場する。これは、漢字で書くと意味は分りやすい。「世ば直れ」と書く。つまり「世の中が直れ」「世の中が良くなれ」となる。「世が良くなれ」という意味だけではなく、「豊作の世になれ」「豊年の世になれ」というような願いを込めて使われている場合もある。

 私がいま歌っている民謡では、八重山の「安里屋節」に使われている。原歌は竹富島の歌である。「安里屋のクヤマは、生まれたときから美人だった」と始まり、一節ごとに「ユバナウレ」が繰り返される。

 宮古民謡の「豊年のうた」でも、「ユバナウレ」と同系統の「ユヤナウレ」が繰り返される。こちらは、豊作、豊年を願う歌詞である。だから、この曲では、歌の題名通り、囃子は「豊作の世になってほしい」という意味になるだろう。

 それにしても、民謡の囃子にしては「ユバナウレ」は、その言葉の意味を考えると、たんに音楽を盛り上げるというだけではない。なかなか社会的な意味と背景がある囃子である。琉球王府の時代に生きた人々の願望が込められている。興味深い囃子である。
 「ユバナウレ考」と題したが、たいして「考」というほどのものではない。「世は直れ」という意味は、はっきりしているが、八重山と宮古の民謡、古謡で、「ユバナウレ」がどのように使われているのかを、実証してみたいという思いである。
 資料として『南島歌謡大成』の八重山編、宮古編の中から拾ってみた。同書は原文と訳文が掲載されているが、囃子以外は訳文で要旨を紹介する。ただし、囃子の「ユバナウレ」は、島によって、歌によって少し表現の違いがあるが、歌の味わいを残すため、原文通りで、カタカナ表記を基本とする。

八重山編

 八重山の民謡、古謡といっても、いろんな種類がある。歌謡の種類によって、囃子があまりつかないものもある。囃子がついても、さまざまな種類がある。「ユバナウレ」がつくのは「ユンタ」に多い。ユンタとは、「作業労働歌を中心にした叙事的歌謡である」「人々の生活にまつわる農耕、家造り、船作り、航海、貢納等々はもちろんのこと、労働の苦しみや恋の喜びなどまでユンタの中に取り込まれている」のである(外間守善氏の解説)。庶民の暮らしにつながりが深い歌謡だからこそ、「ユナバウレ」のような囃子が多く使われたのだろう。次に紹介するのは、そのユンタである。 

「まへらちぃゆんた」(石垣島新川)
「♪マヘーラチィ(女名)の ハイヤースーリー 乙女の イラヨイサヌ 生まれはね ハーリーユーバナウレ」と歌う。次のような歌意である。五歳の時に親と別れ、七歳の時に母親と別れていた、自分だけで暮らすことができず、叔母、いとこ叔母のもとに行き 付け人だと思われ、下女と叱られて、朝井戸に下りて水を持ってこい、鍋、釜を据え、ご飯を据え、山に入り薪を取って来い、畑に出てこいと言いなさる。そして親、兄弟をしのぶ。幼くして親と別れた女性の辛い人生が歌われている。囃子は、「良い世の中になってほしい」という哀切をおびた願いが込められている。

「くんのーらぬぶなれーま」(同新川)
「♪古見(地名)の浦の ヨイサ ブナレーマ(女名) ヨイサ イラヨイユバナヲル」と歌い出す。次のような歌意である。美与底(ミユシク、古見の異称)の乙女、初夏になったら怜悧(賢い)者が生まれ、貢布の主になり、浜晒しで晒しなさり、浜晒しの美しさは、自分の貢物を取り持つ。短いので意味がつかみにくい。

 同じ内容の曲でも、石垣島平得の「古見の浦のぶなれーま」では囃子は「ユバナウレ」ではなく、「ヤリクヌショーシーヌ」が使われている。

「崎山ゆんた」(石垣島石垣)

「♪崎山の新村を建てたのは サーヨイサ シュラヨイヌ ハリユバナウル」と歌い出す。次のような歌意である。崎山の新村を何故に建てたのか、波照間島の下八重山の内から男子六名、女子八名が分けられ、誰の上と思っていたら、私の上になってしまった。許して下さい。許すことはできない、と泣く泣く分けられ、立った。ニクイ頂(地名)に登り、生まれ島を見上げ、生みの親の真顔を見ようとすると、目に涙が出て見えない。
 途中から歌詞の流れも、曲調も変わる。崎山の新村がましだ、港に魚が寄ってくる、乙女に網を紡がせ、網を打たせよう、という内容である。前半とは真逆の歌詞になっている。後半では、「ユバナウル」の囃子も消えている。
 この曲には、波照間島の村を分けて、住民を分けて石表島の崎山に開拓のため強制移住させた「島分け」の犠牲になった庶民の嘆きと抗議の叫びが込められている。「世ば直れ」という囃子がピッタリと合う哀歌である。でもそれが、後半は移住して住んで良かったというから、不自然極まる。とってつけたような歌詞に変わっている。

「東(アガル)かーら」(石垣島川平)
「♪東から来る船は 我が世の船 ウヤキ世バナウレ」と歌い出す。歌は次のような趣旨だ。東から来る船は、方壁には粟俵、方壁には米俵を積んで来る、粟では粟酒を、米では米神酒を造り、親戚をお招きして祝いをする。ここでは、囃子は、「豊かな世を」と願う意味で使われている。

「やまばれーぬしぃくぬやーゆんた」(同川平)
「♪山原村の底の家のムスビャーマ(女名) ヤラトウバ ハエハリヨウ ユバナウレ」と歌い出す。次のような歌意である。今夜は遊ぼう、底の家に遊ぼう。遊ばない、わが親は計算細かいので。走廻蟹(パルマーカニ)さえ浜を下りて遊んでいる、我等もみな遊びましょう。女性に遊ぼうと誘うけれど、なかなか応じない。そんな様子が歌われている。ここでは、囃子はあまり意味のある使われ方ではないようだ。

「安里屋節」(石垣島)

「♪安里屋のクヤマは とても美しく生まれた ウヤキヨーヌユバナウレ」と歌い出す。美人のクヤマさんは、目差主(メサシシュ、助役)、与人(ユンチュ、村長)から賄女になるよう望まれたが、役人は嫌です、島の男を夫に持った方が後のためになるはずだよと歌う。一~四番までは「ユバナウレ」が囃子として繰り返されるが、「島の夫を持つ」という五番になると、囃子は「ヘイヨーシュラヨー」と変わる。クヤマさんが、赴任した役人より島の男を選んだので、もはや「世ば直れ」という必要性がなくなったのだろうか。このあたりがなかなか興味深い。囃子がたんに歌謡の効果を上げるためだけではなく、しっかり意味付けがあることがうかがわれる。

461      竹富島に残る安里屋クヤマさんの家

ただし、前に「愛と哀しみの島唄」で紹介したが、離島に赴任する役人の賄女になれば、いろいろと特典があったので、望んでなる人もいた。竹富島のクヤマさんも実際にはそうだったという。だから抵抗するクヤマ像は、権威をふりかざす役人への民衆の反感がつくりだしたのかもしれない。
「しぃむきどう」(石垣島登野城=トノシロ)

「♪下側の 南側の ハイヤーサー 美人 ハーイヨー ハイヤーヨー ヨーバーナーウリー」と歌い出す。美人は幼い時から親を知らない夫を持ち、言葉を言うたびに夫はいないという、自分の衣装を取り立て、中の道を走り下り、見上げると思っている愛しい人が来る、ここに立ってはならない、私の家に下りて語ろう。こんな筋の歌詞だがいま一つ、意味あいがつかめない。なにか哀しい女性の物語が秘められているようだ。

「しぃむばれーゆんた」(石垣島平得)

 この曲も、五歳の時に親に捨てられ、叔父、叔母を頼ったけれど下男、下僕とされ、かぶる笠は縁がない、着物は袖がない、父がいれば縁のある笠をかぶり、母がいれば袖のある着物を着ただろうに、と歌う。「ハーリヌ世バナホリ」と囃子が入る。「まへらちぃゆんた」と似た歌詞である。不幸な女性への同情と幸せになってほしいという願望が、この囃子に込められているのだろう。

「くんやちぢゆんた」(石垣島宮良)

「♪古見岳の頂上 片一方の場所に ハリユウバナウレ」と歌い出す。次のような歌意である。九年母木(クニブ木、ミカン)を植え、あさぎ家の中に、美しい畳を敷き、絹幕を吊り、どの親(お役人様)をお招きする、わたし女頭(ブナズ、役職名)乙女のお伴をする、寝床までも。役人が村の女性に寝床までお伴をさせていた様子がうかがえる。理不尽なことは直してほしいという思いが込められえいるのだろうか。

「名佐真屋<ゆんた>」(竹富島)

「♪なさま屋の御門に 茉莉花を 咲かしなさり ヨーバナーブーレー」と歌い出す。この曲は、なさま屋の門の茉莉花の花折にかこつけて、愛しい人を見て来よう、という内容である。哀しみや苦しみはない。恋歌である。「ヨバナウレ」の囃子は好きな人と結ばれるように、という願いが込められているのだろうか。

「んだろまゆんた」(竹富島)

「♪チンダラヨー ンダロマ(女名)の ヨホー 乙女の生まれは ヨーバナブーレ」と歌い出す。次のような歌意である。幼い時から美しい生まれをして、女郎をするとは思わなかった、私を笑ったからといって私の体をもってくれるものか、笑う者の目に日傘をさしてみせよう。不幸な生まれをし、女郎に落ちた女性を歌っている。

ただ悲運を哀しむだけではなく、女性をあざ笑う者に対して、笑う者の目に日傘、耳に皮草履をはかせる、と厳しく立ち向かう。遊女を歌う民謡は、哀しい運命を嘆く曲が多い。こんなに開き直って生きる女性の姿を描いた歌は他に知らない。囃子は、薄幸の女性が幸せになってほしいという願いが込められているではないか。

「正月ゆんた<綱引き歌>」(黒島)

「♪今日の日を元にして 黄金の日を元にして ウーヤキ ユバナウレ ソリユバナウレ」と歌い出す。黄金の日を元にして黒島の男たちは心を一つにもち、今年の世を祈願しよう、豊作になったらみんなの名前を鳴り響かせよう、その果報を願おう、という歌意である。この曲では、囃子は豊年の祈願の意味で使われている。

2012年3月16日 (金)

丘の上はつつじの花園

 沖縄はうりずんの季節を迎えた。この時期、東村のつつじ祭り が始まった。昨年は、早く行きすぎて、2分咲きくらいだったので、今年は三月中旬に行った。001_2

 5万本のつつじが咲き誇る、というのが売りだ。入り口の山の正面は、4,5分咲きというところか。でも、丘の上に上がると、日当たりの良いところは、もう満開状態だった。

005  つつじの香りがすごい。甘い香りがあたり一面に漂う。満開の花は、ミツバチが飛びまわっている。羽音がする。

006  家を早く出たので、2時間足らずで到着した。まだ、花を見に来る人は少ない。この、土、日曜日は、もっと咲くから、花は見頃。でも、大型観光バスを連ねてくるので、交通渋滞になるらしい。

007  お天気は、曇りでまだ寒い感じだった。ツレは花の中に入っていった。この丘は、花だけでなく、海の眺めも最高のロケーションだ。

 つつじの花園を見ながら歩いて行くと、会場はどこにいっても、民謡が流れてくる。この日は、「国ぬ花」が流れた。「戦世の唄」である。軍人の彼は、遠い戦地に出征し、草葉を枕に寝ている。沖縄にいる彼女は、彼のことを心配し、千里離れていても、夢に出れるなら出て、無事な姿を知らしてほしい、と歌う。けっして戦意高揚の唄ではない。戦争が愛する二人を引き裂いた悲しい時代を表す唄だ。でも、祭りではあまり歌われない曲だ。つつじ祭りは、いつも民謡が流れる。

015  面白いつつじを見つけた。白いつつじなのに、花びらの半分は薄いエンジ色だ。この花木の中で、1輪だけが、こんな花びらになっていた。

012  山原は新緑の季節。山の木々たちがいっせいに新芽を出している。すべてのものが生き生きとするうりずんを象徴する。カンヒザクラは、新緑の間に、サクランボをつけている。まだ少ないが、赤く色づいていた。

009  山原の森に来ると、いつもカメラを向けるのは、この大きなシダである。他の樹木は、大和の木々とそんなに変わりはない。でも、この巨大シダだけは、絶対に大和にはない。山原の森を実感させてくれるのである。

2012年3月11日 (日)

アルテで「絆」を歌う

 恒例のアルテミュージックファクトリーの3月のテーマは「絆」。大震災にちなんだテーマだが、いざ選曲となると、歌三線ではぴったりくる曲がなく悩ましい。「新デンサー節」にした。

001  この唄は、沖縄の歌三線の賛歌である。民謡の大御所、登川誠仁の作である。歌三線は、世間に広く知られている。みんなで心一つに合わせて、学んできた唄を歌い、世のためにつくそう、と歌う。そういう互いに力を合わせて、世のために尽くそうという心が、絆であるという思いから選曲した。

 歌三線は、曇っている心も明々と照らし、心晴ればれとなる、いつも若々と、笑って人生を歩んでいける、というような歌詞が続く。

 でもいざ三線を弾いてみると、手がやっぱり動かない。アップテンポの曲だけれど、案外簡単だから、いいと思った。なのに、緊張したのか、思い通りに手が動かない。ミスが続く。囃子三板は、つれあいがやってくれ、聴衆の手拍子で三線のミスは、目立たなくなった。いつまでこの乱調は続くのだろうか。

007  次は、ツレの順番だ。beginの「パーマ屋ユンタ」。就職で島を出る女の子を幼いころから見てきたパーマ屋との「絆」を歌っている。三線がツレの歌を邪魔しないように、バチではなく、手の爪で弾いた。こちらは手が動いて、それなりに上手く弾けた。ツレの歌は声がよく伸びて、みんなの心に届いたのではないだろうか。

 今回、はじめて私は紅型の法被、ツレはかりゆしウエアー姿を披露した。「夫婦万歳のようね」と評された。

022  打ち上げの二次会も、たちまち好きな音楽を披露する場になった。懐かしいフォークソングなどで盛り上がった。「歌三線もよってほしい」と即され、もう一度三線を手にした。今度は「永良部百合の花」。こちらも手拍子、囃子をもらって、あまりミスなく演奏できた。

 このファクトリーは、ギターの演奏が多い。洋楽系が多い。島唄は極めて少ない。まあ、まだまだ満足に弾けないが、歌三線のよさを少しでも知ってもらうために、挑戦を続けたい。

来月のテーマは「友」。さあ、なんの曲にするか、いくつか候補を上げながら、まだ迷っている。

2012年3月 2日 (金)

宇栄原の拝所を歩く

 那覇市の宇栄原(ウエバル)を歩いた。小禄地区では、字小禄や具志(グシ)を歩いたが、宇栄原はまだだった。「宇栄原は軍用地に接収されていないため昔の道や集落のかたちが残っています」(「週刊レキオ」2011年11月24日付)とのことだった。

002  この地区の高台のような位置に、宇栄原自治会館がある。立派な建物だ。すぐ隣に「上ヌ御嶽(ウタキ)」があった(下)。これは下方にある「下ヌ御嶽」と対になっているようだ。

001  住民にとって大切な御願(ウガン)の拝所である。建物の中には、石が据えられている。
その隣は、「門中の御嶽」と呼ばれている。門中(ムンチュウ)は、男系の血縁組織である。とくに門中の名前は記されていない。祠の中には、サンゴ石のようなものが祀られていた。こちらはなぜか敷地がやたら広い。

004  この側に眺めの良い「宇栄原公園」がある。さすがに、慶良間列島の島々も見える。

 ところが、突然、バリバリバリ!とけたたましい爆音がすると同時に目の前を戦闘機が低空飛行で飛び去った。「なんだ!この低空飛行は!」と驚いている間もなく、立て続けに2機、3機と飛びたつではないか。006  考えてみると、宇栄原は、那覇空港に近い。航空自衛隊が同空港を使い、しょっちゅう戦闘機が離発着している。このあと、旅客機も飛び立った。いやいや昔の雰囲気を残す集落で静かな環境かと思いきや、毎日、戦闘機の爆音にさらされる。住民は、えらい迷惑だろう。
 話がそれた。宇栄原公園は、公園は狭いが、隣接して広い建物がある。何かと思えば亀甲墓である。

008  「三戸門中之墓」とある。門中が共同で使う墓。眺めの良い場所にある。

 自治会館の建物に戻った。建物の前に、「高前原公園」がある。こちらには、いくつもの拝所などがある。003  こちらは「地頭火神」という。
011 公園の中ほどに立派な拝殿がある。「下ヌ御嶽」(上)である。コンクリートの柱は大きいし、赤瓦の屋根のつくりも頑丈そのもの。なにか、ギリシャのパルテノンの神殿を思わせる。

012  御嶽の本体も立派である。上にあった「上ヌ御嶽」と比べても、ダントツの拝所である。経費も相当かかっているだろう。

013  隣にはやはり「火の神」があった。
 高前原公園は、傾斜になっているが敷地はとても広い。御嶽や火の神は、長く住民の信仰の対象だろうが、いずれも説明板が何もない。だから、残念ながら由来、歴史などまったくわからない。

 拝所とともに、井戸(カー)がいくつもある。津真田カー、マチガワカーなどある。でも説明したものがないので、どれが何というカーなのか分からない。

014  石積みの円筒はいずれも井戸である。上に鉄柵が張られている。子どもたちが遊ぶ場だから危ないから入れないようにしている。

015  こちらは、高い場所を下った傾斜地だけれど、斜面から湧水が出ているカー、ヒージャー(樋川)はない。いずれも、平地を掘り下げて水源をえた井戸ばかりである。湧水のない土地だったのだろうか?016  公園の入り口にも、公園名を記した大石のそばに円筒形の井戸がある。
 そばにおばあちゃんが座っていたので聞いてみた。

「この辺りには、昔は5,6軒家があった。だからこのあたりで井戸を苦労して掘ったようだよ。井戸はその向うにもあり、4つくらいはある。みんなここの井戸で水を汲んで使ったよ」
 018

 公園を出て、ナカミチを抜けていくと、カミガー(上)がある。そばにいたおばさんに、カーのことを訪ねたが「私はここの人間ではないからわからないよ」。そばに石が置かれている。拝所だろうか? 

019  隣には小さな広場があった。「西ヌアシビナー」だろう。アシビナーとは「遊び庭」と書く。いまは子ども用の遊具が置かれている。かつては、ここでいろんな祭と芸能で楽しんだのだろうか?「遊び庭」という言葉、場所があること自体が、素晴らしいことだ。前川守賢のヒット曲に「遊び庭」がある。この歌を聞くと、アシビナーの雰囲気が目に浮かぶ。
 

 というわけで、それぞれの由来などわからないまま終わった。小禄地域にある字小禄、具志、宇栄原などいずれも、御嶽など拝所をとても整備して立派な拝殿をつくっている。もともと那覇市に合併する前は、小禄村だったので、古い民俗、伝統を大事にしていることが感じられた。

2012年3月 1日 (木)

人頭税哀歌、その4

怨霊になった女の無念

賄女について、「愛と哀しみの島唄」では、八重山の民俗や古謡に詳しい喜舎場永珣氏が「賄女は羨望の的だった」と見ているのは一面的な評価だ、と批判を込めて書いた。特典があったため、希望する女性や親もいただろうが、でも賄女になるのは恐れられたし、それを拒否して死を選んだ女性の古謡もあることを紹介した。これを書いた時は、まだ喜舎場氏に対する批判の論文は見たことがなかった。でもその後、この喜舎場氏の見方を正面から批判する論考を読んだので、やはり自分と同じように見ている人たちがいたことに心強く思った。

賄女の真実についての重要な証言があるので、この論考を紹介したい。八重山の黒島出身の當山善堂氏が書いた「『賄女』に関する一考察」(『人頭税廃止百年記念誌 あさぱな』)である。黒島の実例を記載している。

黒島のトゥヌスク・カマトさんの例は次の通りである(要旨)。

十六歳の時、黒島に赴任してきた目差役人の賄女となった。役人は任期満了により妻子の待つ石垣島に帰り、カマトは二人の幼児を抱えて黒島に置き去りにされた。その後、カマトは連れ子を持つ身で島の百姓と結婚して五男二女をもうけた。人並みには幸せだったかもしれない。ところが生前、カマトは胸をえぐるような言葉を繰り返し話した。「決して綺麗な女の子を産むもんじゃないよー。女の子は綺麗になるもんじゃないよー」。これは美人に生まれると、すぐ役人に目をつけられることを恐れたからだ。「カマトの悲痛・無念の叫びが、心に響いてくるではないか」と當山氏は記している。

ところが、なんとこのカマトは、実は當山氏の母方の曾祖母だという。まだこれだけで終わらない。カマトを賄女にして、捨てて帰った役人の系図を調べてみると、この役人と正妻との間の子どもの子、つまり孫にあたる人物が、なんと當山氏が人生の師匠と仰いでいる人だったという。なんと皮肉な結果ではないだろうか。

人頭税が明治後期まで続いたため、離島の狭い世界の中では、関係者や子孫がまだ生き、暮らしているのである。こんな実話を聞くと、人頭税時代の悲劇が身近にあったことを実感させられる。

もう一つ実話を紹介する。やはり黒島のフナットゥ・ブンタの例である(要旨)。

ブンタは飛びっきり色白の美人だったので、村番所役人の賄女として白羽の矢が立った。彼女はきっぱり断った。にもかかわらず村番所のある宮里村の役人宅まで無理やり連れて行かれた。それでもブンタは屋敷の後ろの石垣を乗り越え、逃げ出してわが家に帰った。再び強引に連れ戻されたブンタは、ひどい折檻を受けついに命を奪われた。ブンタには結婚を誓った人がいて、当時の習慣通り恋男は彼女の家に通い、そこで寝泊まりしていたともいわれる。無念の思いでこの世を去ったブンタの魂は、命を落とした宮里村と隣村の仲本村の近辺に怨霊となって夜な夜な泣き声を発し、火の玉となって現れた。この伝承は一切の記録がないという。

こんな言い伝えがあること自体、とても「賄女は羨望の的だった」と片づけるわけにはいかない。なぜ喜舎場氏ほどの見識ある人が、賄女については、美化ばかりするのだろうか? その謎について、當山氏は次のような見解をのべている。

喜舎場氏は、王府が先島を差別したことには敏感に反応するが、「いざ地元の離島、地域や女性に関する事象を捉える段になると、無意識のうちに『差別』意識が露呈してしまう」「今でも頻繁に聞かされうんざりするのは先祖が『士族』であったという石垣島四カ村(八重山の士族の九割が住む)の人たちの『某島の某家の子孫は士族の血を受け継いでいるから優秀なのだ』というような自らの血筋と結び付いた『士族意識』を振りかざした言い草だ」という。つまり、士族の家系の出身者は、いまだに「士族意識」にとらわれ、「差別意識」で見る傾向があるということに、その原因を求めている。045

    石垣島の川平湾。記事とは関係ない  

沖縄は、本土から見ればとても差別をされてきた。ただその沖縄の内部では、士族が多く住んでいた首里の出身の人はいまでも、士族の家系の出身であることを誇りに思っている。士族出身は百姓出身を、沖縄本島は、八重山、宮古島など離島を、見下ろす傾向があることはいなめない。

このように、役人が権力をかさにきて、女性を虐げたことが主要な問題だと思うが、ただし、賄女になれば利得があったため、貧しいがゆえに、希望する女性や親がいたこともまた事実だと思う。こういう側面も含めて、複眼的に見なければ歴史のリアルな認識にはならない。

ジュゴンも人頭税で上納した!

人頭税は、本租の米、粟、上布だけでなく、海産物や地上の産物など合計四八種類もの上木税(ウワキゼイ、物産税)があったという。現物で納めるものである。たとえば、海産物では、ナマコ、貝柱、トコロテン、ハマグリ、海人草(カイニンソウ、生薬になる)その他。地上の産物では、煙草、キクラゲ、菜種子油、綿花、唐竹(トウチク)、牛皮、松明その他あった。その他にも、船材や建築用材の伐り出しのため一カ月以上にわたる労役もあったという。

竹富島に「シキダブンの唄」がある(『八重山の人頭税』から)。

「♪四八種の上目税(物産税)や船具を納め なお本税である米穀七、八俵や御用布も首尾よく納め それでも生命があるのは奇蹟だ 自分の力ではなく 神霊の御加護のたまものだ」

神の助けでもなければ納めきれないほど人頭税が重税だったことがうかがわれる。

この物産税の中で、目を引くのは西表島の南にある新城島(アラグスクジマ)だけで納付すべき海産物に海馬(カイバ)、つまりジュゴンがあったことである。この島の周辺は、海藻が豊富で、ジュゴンの捕獲には適していた。島では、人頭税として米穀の他にジュゴンの肉を塩漬けにして王府に上納することを命じられていた。なぜジュゴンの肉が必要だったのだろうか? それは、首里王府では、この肉を乾燥させて貯蔵し、安産の妙薬として服用したと伝えられている。

島には、ジュゴンを祭った「海馬の嶽」(拝所)があり、捕獲のシーズンになると、島民はこぞってここに詣で、大漁祈願祭を挙行したという。海に出で、ジュゴンが海藻を食った場所を発見したら、網を張り、いったん帰る。「海馬の嶽」に詣で、大漁の祈りをささげた後、斧と鉈を神前から受け取って出る。網にかかったジュゴンの尾部の急所に向けて斧で痛撃する。仰向けになっているのを滅多打ちにして捕獲したという。

ジュゴン獲りの古謡が新城島にある。ジュゴンのことを「ザン」といった。文字通り「ザントゥリユンタ」という。

「♪新城の若者たちは シルビ山の中に入って アダンの気根を切り取って オーハマボーの表皮を剥ぎ取って 四日ほど干し晒して 大目の網を編み造り ザンを捕る漁船に大網を積み込みなさい 魚猟船をば漕いでみたら 白保の真謝村の東口まで ザン漁を探して行ったら 行き来してみたところ 潮が干いて見てみれば 儒良(ジュゴン)の夫婦が隠れていた 魚猟船に引上げて 漕ぎつ漕ぎつつ 我が島へついた 前泊に下ろしなさい 儒良を見るべく走ってきた」(要約)

ジュゴンを殺してその肉を塩漬けにするなんて、いまならごうごうたる非難を受けるだろう。これも人頭税のなせるわざである。

ちなみに、人頭税はすべてがお金による納付はだめで、現物で納付しなければならなかった。だから米や粟などを沖縄本島まで運搬した。その運搬の経費や運送中に目減りする分も、正租(王府の収入となる)、重出米(オモデマイ、薩摩藩に貢納する)に加えて、それらを合計して人頭割として徴収された。米や上布を売りさばいて、現金にすれば運搬の経費もいらないのに、明治時代になってもあくまで現物で納付させられた。また、米や粟など作物は指定されて、勝手に他の作物を作ることもできない。サトウキビが換金作物として栽培されるようになってからも、八重山、宮古ではあくまで米や粟の現物納入を義務付けているため、人頭税時代はサトウキビも自由に作れなかったという。

悪税への抵抗のうねり

先島に生きる人々への過酷きわまる人頭税と役人の横暴にたいして、住民はただ忍従するだけではなかった。さまざまな形での不服従と抵抗、抗議の声を早くから上げていた。その抵抗の一端は、「愛と哀しみの島唄」(下)でも紹介した。

伊良部島の「石嶺ぬあこう木ぬアーグ」という唄は、役人の側に仕えよという要求に、身を売ることを拒否した女性を描いていた。宮古島の民謡「豆が花」は、一七歳の娘を「俺にくれ」という役人が、拒めば難しい細物(クマムヌ)上布を織らせるぞと脅すが、これに屈しない娘と親の勇気ある抵抗を歌っている。

多良間島では、「旅妻」(現地妻)を求める役人にたいし、名指しされた娘の兄がイグン(銛)をもって反抗し、役人を追い払い、その後は島民全員が拒否するようになったと伝えられている。ここまで振り返って気づくのは、これらの抵抗はいずれも宮古島周辺と多良間島での抵抗であることだ。八重山諸島は見当たらない。古謡を探しても、抵抗の実話は探せなかった。これは偶然なのか?

004      多良間島は黒糖で有名だ。離島フェアーで。記事とは関係ない

これについて石垣島出身の大浜信賢氏はこう嘆いている。

「人頭税の苦しみは、八重山人にとっては宮古以上のものであったに違いない。しかし、八重山人の没法子(メイファーズ、なるようになる)的性格は、苦しみをはねのけようとする積極性もなく唄や踊りにうつつをぬかして、ほとんど泣き寝入りの形になっている」「これに対し宮古農民はまったく違う」。

こうのべて、人頭税廃止に立ち上がった宮古島でのたたかいを高く評価している。宮古島のたたかいは、この後詳しくふれたい。大浜氏は八重山を愛するゆえに、厳しすぎるのかもしれない。八重山島民は、表立った抵抗の姿は見えてこないが、さまざまな形で抵抗があったにちがいない。賄女に強要され、これを拒否して山に入り、死んでも屈従しなかった女性の唄も、その表れだろう。「安里屋ユンタ」で竹富島以外の島で歌われる唄は、安里屋のクヤマが、目差(助役)も与人(村長)も拒否して、夫にするなら島の男を選ぶという歌詞だ。ここにも、抵抗の精神が込められていると思う。

ただ、記録に残っている人頭税への抵抗と廃止の闘争は、宮古島や多良間島しかない。

人頭税が施行されてまだ四〇年もたたない一六七八年、多良間島民は、人頭税によるひどい徴税に抵抗して立ち上がった。「長期にわたる抗租運動を展開し、遂に地方権力に対して絶望的な蜂起を敢行した」という(西里喜行著「沖縄近代史における本島と先島」=『近代沖縄の歴史と民衆』)。もう少し中身を知りたいが史料がない。

多良間島民の反抗はたびたび繰り返されたようだ。

宮古島では一八四八年以後、数年にわたって島全体を震え上がらせた疑獄事件「割重事件』が起きた。地方役人が私腹を肥やすために、人頭税に割り増しをして徴収し着服していた事件だ。この割り増し徴収に苦しむ宮古島十数か村の農民たちの、積もり積もった不満が噴出し、王府も「放置すれば暴動の起きる機運となった。不正摘発に乗りださざるをえなくなった」。関係した一三人の役人らに王府への上国を命じたが、病気を口実に拒否したため、役人らは免職の上に流罪となった(『平良市史第一巻通史編Ⅰ』)。

多良間島でも一八五五年、「多良間騒動」と呼ばれる事件が起きた。税の割り増しは、多良間島でも行われていたが、王府による処分があった後も、島の役人は不正を改めようとしなかった。そこで島の農民たちは、島を管轄する宮古政庁(蔵元)を飛び越して、首里王府に直訴を企てた。

多良間島は、宮古と石垣島の間にある孤島である。海を渡って沖縄本島に行くのさえ、とてつもなく大変なことだ。でも代表五人は直訴状を持ち、くり舟二隻を筏に組み、七日かけて本島に到着し、王府に直訴した。直訴状は次のように訴えていた。

「島の役人たる砂川大主(スナカワウフヌシ)などは、上納のほかに、身勝手に課税し、私腹を肥やしており、島民はこの苛酷な重税に苦しんでいる。この実情を調査して適当な処置を考えてほしい」(『村誌たらま島 孤島の民俗と歴史』)。

王府は直ちに役人を派遣して、不正役人は捕えられ免職になり、主謀者は首里で断罪になったとも伝えられている。直訴した五人は銀のかんざしなど褒章を与えられたという。この行動は「人民の人民の名による最初の勝利の記録」と評価されている(『平良市史第一巻通史編Ⅰ』)。

一八六〇年には、宮古島で首里王府の悪政を非難した告発文書を、薩摩商人に託して、那覇にある薩摩在番奉行所に投書しようとする事件が起きた。「悪政に困弊する島民を公道の下に救ってほしい」というような嘆願文だった。薩摩藩に届かず王府の手に入り、投書しようとした、宮古島の元島尻与人(シマジリユンチュ)・波平恵教は処刑されたという。

断罪されたのは、王府を批判し薩摩に救済を直訴しようとしたからだ。村長格の元役人が薩摩に告発しようとしたことは、王府にも衝撃を与えただろう。

宮古農民の勇敢なたたかい

明治維新で近代に踏み出した日本のなかで、琉球も最終的に「琉球処分」で王国は廃止され、沖縄県に置き換えられて、帝国国家に組み込まれた。日本の一県となったにもかかわらず、沖縄の人民は、先島の人頭税をはじめ琉球王府時代の古い仕組みのままに据え置かれた。この古い制度を「旧慣」と呼んだ。「旧慣温存」に対して人頭税の廃止を求めて立ち上がったのが宮古島の農民らである。

明治国家の同じ国民となっても、内地と宮古は大きな違いがあった。反別当たりでみると、田では宮古農民は内地の二倍以上の税率で租税を取られ、所得は内地の五分の一に満たない。畑は内地の三倍の税率で租税を取られ、所得は二分の一に満たなかった(「租税減免請願之理由書」から)。このような歴然たる差別を受けていた。

明治二〇年代のはじめから、農民らが島役所に出かけて税金の減額を嘆願したという。とくに人頭税は廃して、地租に改めること、米や粟、上布など現物で納めることを廃して、貨幣で上納することに改正することなどを懇願した。しかし、何の取り計らいもないので、県庁にも出かけて嘆願したけれど、受け入れられなかったという。民衆の不満は高まるばかりだった。

農民の不満の爆発を恐れて、島役所や県庁は明治二六年三月、「名子」の廃止などを打ち出したが、逆に士族・役人が抵抗し、農民らは怒りを強めていた。おりしも宮古島に真珠の養殖の目的で来島していた新潟県出身の中村十作と糖業普及のため滞在していた那覇出身の城間正安がいた。「納税ドレイ」のような農民の惨状に同情し、島民の運動に協力し、リーダー格にもなった。

すごいのは、かつて直訴は禁じられていたが、帝国憲法には臣民に請願の権利があることに目をつけ、一気に東京に代表を派遣して国政を動かす運動に燃えあがらせたことだ。警察や士族・役人らの猛烈な妨害があったけれど、それをはねのけて一〇月には、中村、城間と宮古島の西里蒲(カマ)、平良真牛(タイラモウシ)の四人が島を出た。

上京した四人の代表団は、東京で新聞社一一社を歴訪し、人頭税法下での農民の惨状を訴え、一一社がいっせいに報道した。政府(内務省)と当時の貴族院、衆議院に人頭税廃止など求める請願書を提出した。当時、四人が実情を訴えた人物の中に、鳩山首相の曾祖父にあたる法学博士・鳩山和夫がいて、賛成してくれたという。鳩山首相はそんな史実は何も知らないだろう。

代表四人が島に帰ったのは五カ月後のことだ。上京と滞在の費用も農民たちが貧しい中で出し合って支えた。年貢の粟八〇〇俵を倉庫番二人の協力で売却して上京費用に充てる、という驚くような事件も起きた。倉庫番は捕えられ、拷問を受けたが、盗難分は農民がみんなで負担しあい、二人の身受けを求めたそうだ。

請願運動が実を結び、その後、政府は役人を沖縄に派遣して実情を調査した。貴・衆両院はついに請願を可決するに至った。明治政府も宮古島農民らの運動を放置できなくなり、長く続いた人頭税をはじめとする旧慣温存の政策を改めることに転換する。実際に人頭税が廃止されたのは、明治三六年の「地租条例」の公布であった。

人頭税廃止のあやぐ

「人頭税廃止のあやぐ」と呼ばれる唄がある。請願のための宮古代表になった平良真牛を歌っている。歌詞は真牛の出身地が保良だからか、「保良真牛」となっている。

「♪保良真牛が沖縄(日本)に行って (人頭税廃止の)使命を果たしてくれたら 宮古島三○カ村の男たちは あくせくと耕作する苦労もなくなり富貴の世になるだろう」

「漲水(パルミズ)のクイチャー」とこの後の歌詞は同じである。

二六〇年余にわたって、先島住民に筆舌につくせない苦しめ与え、数々の悲劇を作り出してきた非人間的な人頭税を、農民が力を合わせ、島外の那覇や大和の新潟の人間の協力を得て、請願権も行使してついに悪税の廃止まで勝ち取ったのは、沖縄の歴史の上でも燦然と輝く画期的な出来事である。

もちろん、人頭税が廃止されても、税負担がなくなるわけではない。古い土地制度や税制は改められ、土地の私有権を認め、土地を対象とする地租や県税などに転換された。現物納はお金で納めるように変わった。強制されていた作物も、自由に換金作物も作れるようになった。宮古上布、八重山上布など、女性が織った布は、自由に販売できるようになった。「名子」も廃止された。「人頭税を納めるためにだけ生きている」とも言われた「納税ドレイ」のような、前近代的な収奪と抑圧の体制から抜け出す大きな一歩となったことは間違いない。それは、先島の農民らが人頭税廃止に歓喜の声をあげたことに、なによりもはっきりと示されている。

その後、民衆が期待したように税金は軽減されず、地租は高額で、地方費も増大したという。また重税反対の抵抗の行動が宮古島では噴き上がったという。とはいえ、人頭税を廃止させた民衆のエネルギーと運動の意義をいささかも低めるものではない。歴史を一歩すすめた新たな段階のもとでの次の課題となったのである。

最後にふれておきたいのは、人頭税について王府への貢租の税率はそれほどではなく、地方役人の「中間搾取」がひどく、それが住民への重い負担になった、という見方がある。たしかに、そういう側面もあるだろう。しかし、薩摩に支配される王府が、先島住民に人頭税を実施し、徹底して搾り取るために、蔵元や村番所など役所の機構を整備し、役人を配置した。士族・役人が異常に多いことが、付加税を重くしている。百姓は、いわば自分たちをムチ打ち、年貢を搾り取るための費用まで自分で負担したということになる。

最大の責任は、薩摩に支配された首里王府にある。大津波の後「八重山受難」の時代に、飢餓が心配され地方役人が要望を出しても「薩摩からの借銀高」がかさみ財政がひっ迫していると拒否し、百姓に「農耕に精を出させ」るように命じる。大飢饉があり上納布を織る女が少なくなり、島が復興するまで御用布は減少してほしいと訴えがあっても、「数量に不足なく調える」よう命じるという有り様だ。しかも、役人は百姓を働かせて「収穫を効率よく収納する」という「功績」によって「昇進を申し付ける」と役人をあおっている(いずれも「御手形写抜書」)。

こういう王府の過酷な人頭税の搾りたての中で、権力を持つ役人は率先して徴税にあたり、税を「中間搾取」し、私腹も増やすという横暴や腐敗も生まれた。単に人頭税の税率の問題だけではなく、「人頭税体制」とでもいうべき収奪と抑圧の仕組み全体が、住民をここまで苦しめたのである。

さて、振り返ってみると、今回は「人頭税哀歌」と歌いながら、民謡の紹介は少ない。それはすでに「愛と哀しみの島唄」でかなり紹介ずみだったからだ。前の拙文と合わせて見ていただければ幸いである。

それにしても、不思議なのは、八重山や宮古は「民謡の宝庫」と呼ばれるが、この生きることさえつらい、非人間的なこの時代に、たくさんの民謡が作られ、歌い継がれてきたことである。しかも、人頭税による悲哀を直接のテーマとした唄がとても多い。

八重山では、民謡は役人がかなり作ったという。といってもそこには、住民の心情や願いが反映せざるをえない。でなければ、住民が唄に共感しない。唄も廃れるだろう。つらい時代の中でこそ、人々に愛されるたくさんの民謡が生まれたのだろう。民謡は特定の人のものではない。住民みんなの共有の財産である。そうでなければ、いま聞いて、歌っても感動を受ける豊かな民謡は生まれなかっただろう。そのことを改めて感じたことを最後に付記したい。

        (終わり、二〇〇九年一一月二五日 文責・沢村昭洋)

   

 

    


参考資料 大浜信賢著『八重山の人頭税』、稲村賢敷著『宮古島庶民史』、沖縄歴史研究会編『近代沖縄の歴史と民衆』、『平良市史第一巻通史編』、『伊良部村史』、『村誌たらま島 孤島と民俗の歴史』、『人頭税廃止百年記念誌あさばな』、山内玄三郎著『大世積綾舟(ウプユツンアヤブニ)』、喜舎場永珣著『八重山古謡上、下』『八重山民謡誌』、『新琉球史近世編下』から黒島為一著「人頭税」、『沖縄県史第一巻通史』、『同第二巻政治』、『同第二一巻資料編一一旧慣調査資料』、宮城栄昌著『沖縄の歴史』、新城俊昭『琉球・沖縄史』、小浜光次郎著『八重山の古典民謡集』、外間守善、宮良安彦編『南島歌謡大成』、石垣市史叢書『与世山親方八重山島規模帳』『富川親方八重山島規模帳』『目差役被仰付候以束日記』『御手形写抜書』、その他「やいまねっと」など関連サイト。

人頭税哀歌、その3

定額人頭税で楽なったのか?

一六三七年に制度化された人頭税は、二〇年余り後の一六五九年には、定額になったという。宮古、八重山から王府に納める貢租額が一定であるという意味だ。定額制は「人口の変動によらず、毎年の納税額を一定にする」ものであるとし、あたかも人頭税の性格が変わったように見る見解がある。でも人頭税の過酷さに少しも変わりはないというか、よりひどい結果をもたらしたという。というのは、なぜ定額になったのかをみるとはっきりする。人頭税を導入した後、過重な負担などによって、八重山など人口は減少した。人口が減れば、納税額も減ることになる。そこで、宮古、八重山それぞれに「これだけは必ず納めろ」という責任額を定め、人口の増減によって集める税額が影響を受けないように税制を変えた。だから、人口が減っても、作況が悪くても、定められた年貢は責任をもって納めなければならない。ここに定額人頭税の本質がある。

実際に定額制で、人口が増えて税額が低くなるのなら、農民たちは子どもを多く産み育てるだろう。実際、先に見たように、一六八〇年頃から一時は人口が急増した時期があった。しかし、一七七一年に「明和の大津波」で八重山・宮古諸島で一万二千人にのぼる死者・行方不明者を出した。その後も災害や疫病の流行、大飢餓が相次ぎ八重山で人口は激減する。「八重山の受難時代」と呼ばれ、その後も人口は増えない。人口が増えれば人頭税が定額で軽くなるのなら、「産めよ増やせよ」となるはずだが、現実は逆だった。嬰児埋殺や間引きが横行した。188

 大津波で打ち上げられたと伝えられる石垣市大浜の大岩

先島から王府に納める貢租額が一定であったとしても、農民の家族単位で見れば、納税額は一定ではない。それに王府への貢租以外の付加税がとても多い。だから子どもが増えて、一五歳になれば納税の義務が生じ、一家の納税額は増える。いまでも重税にあえいでいるのに、これ以上増えればとても納められない、となるのは必然だろう。それに、貧窮する家庭では子どもを何人も養うこと自体が、とても苦しい。たとえ子どもを育てても、「納税ドレイ」のように生きるという、親と同じ苦しみを味あわせるだけだ、という思いがある。これらが、非道なことだとわかっていても、赤ちゃんの埋め殺し、間引きに走らせる動機となったようだ。

さすがに首里王府も、これには頭を悩ませたようだ。首里王府が布達した文書に次のような記述が再三出てくる。「八重山では人口が増えれば上納や公役が増えると考え、生まれた赤子を埋殺するという人間とも思えない行為がある。⋯⋯人の守るべき道にはずれ、とんでもないしわざである」(「与世山親方<ヨセヤマウェーカタ>八重山島規模帳<キモチョウ>」)

「結局諸役人の者たちが勝手なことを行ない、百姓の難儀を顧みずいろいろ理不尽な取り扱いをして辛苦を受けさせているところから、百姓どもにあっては情を失い、ついに右のような邪俗(流産したり赤子を育てない風俗を指す)になってきていると聞いている」(「御手形写抜書<オテガタウツシヌキガキ>」)

王府は、こうした悪習を止めさせるように再三、指示している。そして、人口の減少はゆるがせにできない問題であり、一九世紀半ばには、子どもを男女五人以上か男子ばかり四人出産した者は夫婦とも免税にする、という優遇策をとった。といっても、免税分は村の他の者たちの負担になった。

また、障害者も後年になって年貢を免除されるようになったが、やはり村の他の者たちの負担とされた。なかには、あまりの重税に、自分の手足を切断して「疋人」(障害者)になって重税を免れようとする人も出てきたという。自殺者や脱村者らも出た。

子どもが多い家族や障害者など免税にし、免除の対象者が増えれば増えるほど、その負担は、村全体にのしかかってくる。これも定額人頭税のなせる結果である。

「定額人頭税制度になってからの村全体の敵は、なんといっても脱村者、不具廃疾者、妊婦、産褥中の婦人および多子養育中の婦人等であった。したがって、村にとっては人口を制限して、村全体の税額を減らすという手段をとったり、あるいは村一円のすべての人々が不具廃疾者、産褥中の婦女の少ない状態をつくりだし、村の全人口が定額人頭税完納にむかって、邁進できる少数精鋭主義の傾向にむかわざるをえなかった」。大浜氏はこう指摘している。

注:産褥(サンジョク)とは、妊娠・出産による体の変化が妊娠前の元に戻るまでの期間をいう。

泣く子を柱にしばり布を織る

一五歳から五〇歳までの女性には、布を織り上納することが課せられた。人頭税の布には、米や粟の代わりに本租から差し引かれる上納布と、御用布があったそうだ。御用布は、王府や薩摩などから注文がくる。品種や数量が注文によって毎年変わった。御用布を織れば、本来は褒美として「代米」が出ることになっていたが、百姓には配布されず役人が掠め取っていたという。役人の腐敗ぶりがうかがわれる。

貢布がいかに女性を苦しめたのか、竹富島で実際に上納布を織った女性からの聞き取り記録から紹介する(『人頭税廃止百年記念誌あさばな』の石垣久雄氏の論文より)。

上納布を織るのに五人一組のグループがつくられた。「五人組は年に七反を上納しなければならなかった。役人が指定した難しい模様を、工夫してこなすのは大変な作業だった。五人は原料の栽培に始まり、糸紡ぎから染め、織り、布晒しまで共に連帯して責任を持たされた。当時は今と違って地機(ヂバタ)で布を織った。納期が迫ってくると女頭(ブナジィ)の指導の下に、琉球松のたいまつを灯して幾晩も夜なべした」。Photo_2    地機で布を織る女性。石垣市の博物館に展示されている写真

地機とは、表紙の図にあるように、織り手が地面に座り込んで織る原始的な機織りのことだ。一反織るのに気の遠くなるような時間と労力を要したという。「女頭」とは村番所に奉公する女性で、役人の補助役をしたようだ。

貢布は、身分の高い者は簡単な布を担当し、紺細上布など難しい布は平民が負担したそうだ。経糸が二〇ヨミ、一八ヨミ(ヨミは本数の単位)といった細かい麻糸で織られる紺細上布は、細かい糸を紡ぐには高度の技術が要され、染色から織り手まで熟練者をそろえなければならない。上納された宮古上布、八重山上布の多くは、薩摩に送られ「薩摩上布」となって、将軍に献上され、全国にも流通した。

織物の縞柄(シマガラ、絵形)は王府や薩摩から指定されてきた。複雑な絵形になると、一日に二、三寸か四、五寸織るのがやっとで、一反を織りあげるのに二、三カ月かかる。割り当ての三反を織るのに、なんと半年を要したという。これだけ苦労して織りあげる宮古上布などを、織った女性たちは貢納するだけで、自分たちはいっさい身につけることはなかったという。

作業は自宅ではなく、村番所の織布小屋で行われた。小屋は劣悪な環境だった。

「織場は暗黒いところに十数人が雑居し、布筑(ヌノチク)とよばれる者の監督を受けて、織立に従事し、多数の幼児は母を慕って舎外に群集していた。獄舎のようだったという」。織女はここで一年の半分ほども働かされたという(島尻勝太郎著論文「宮古農民の人頭税廃止運動」)。これは宮古島の実例である。

八重山も基本は同様だが、つらい夜業が多かったようだ。

「織物に手を着けるまでは、婦女は毎晩番所に集合し、松明の光で苧麻(チョマ)糸を紡ぎ、佐事補佐(サジブサ)と称する監視役の下で夜業を強行させられた。昼は野良仕事で疲れ、夜は夜業に酷使される。まったく残酷の一語につきるというものである」「昼間の野良仕事で疲れて居眠りでもする者があれば、佐事補佐は、長い竹でその女を叩いて目をさまさせ、ふたたび夜業を強制する」

上納布の納入期日までに完納するため、女性たちは不眠不休の努力をした。

「飢えて泣く子に乳を呑ませるために手を休めていても、役人は容赦なく鞭をふるった。女は心を鬼にして、泣きわめく子を柱にしばりつけ、仕事をしたのであった」(大浜信賢著『八重山の人頭税』)。

織女に布を織らしている様子を歌った民謡がある。「アシャギ節」という。

「♪村番所内の離れ屋は 極上の御用布を織るために建てられた 昼夜兼行で 機織りに努めなければならない 御用布を品よく美しく織って 縞柄も見本通りにしたら 安心して 上納でき、国王の御恵みに浴しましょう 油断するなよ、乙女らよ 粗雑な織り方をするな、女たち 精神こめて織る中に 果報がやってくるのだ」

唄は、織女を監督する役人の側から見た内容だ。織女の苦労は無視されている。

織り終わっても苦労は終わらない。これからが大変だった。先の竹富島の例だ。

「上納布が出来上がると、舟を仕立てて石垣の蔵元に納めに行った。調筆者(書記官)と呼ばれる検査官が待ち受けていて、布を受け取ると一反一反を竿に掛け点検を始める。皆『無事合格しますように』と緊張して待ち受けていると『あやはり!(柄ずれ)』と怒鳴りつけ、竿の向こう側に布を投げつける。あまりに厳しさに泣く泣く拾い上げて、女頭と何とか気を取り直して五人は糸抜きで模様合わせをやり、再検査に臨むのであった」。

厳しい検査が無事すみ、納付が終わる(収納切)と、「○○○の組(女頭の名前)は収納切したよ」と竹富島の各部落をふれ回り、完納の喜びを太鼓や拍子木をたたきながら唄を歌ったという。「布ヒカシジラバ」という曲だそうだ。

離島では、織りあげた布を役所に納めるのも一苦労だった。舟に乗り運ばなければならない。西表島に「古見(コミ)の浦のぶなれーま」という唄は、その様子を描いている。

「♪古見村のブナレーマは美与底(ミヨシク、古見の異称)の乙女だった 初夏になったので 貢ぎ布を取り持って 前の浜に走り下りて 自分の舟を押し出して 貢ぎ布を取り載せて 蔵元のある石垣島に走り下り 役人様のいる親島に飛ばしてき」(要約)

織った布を石垣島に舟で運び、海岸の仮小屋で泊まり、蔵元へ納めた。「この間、役人にたいしての世話役を強制的にさせられて帰るという習慣であった」と伝えられる(喜舎場永珣<キシャバエイジュン>著『八重山の古謡』)。

織りあげた布を検査する際に、役人が職権をカサにきて、目を付けた女性を自分のものにするという、横暴が絶えなかった。これは「愛と哀しみの島唄」で詳しく書いたので省略する。布で貢租を納めるのを「反布代納」というが、八重山の貢租の中で、「反布代納」が五五%を占め、宮古でも貢租の中で「反布代納」が五七%を占めたという。つまり、貢租の半分以上は女性の織る上布などだった。だから、人頭税のひどさは、布の上納に典型的にあらわされたともいわれる。

賄女をめぐる悲哀

前の拙文では、織女のこととともに、島に赴任してくる役人を接待する賄女、現地妻を差し出させることが横行していたことを詳しく書いた。人頭税時代の古謡には、この悲哀をテーマにした唄がとても多いので、もう少し書いておきたい。これは、人頭税の仕組みとは直接関係がないように見えるが、そうではない。

琉球のなかでも遠い宮古、八重山諸島の隅々まで、人頭税を貢納させるため、役人を配置した。役人が離島に赴任するときは、妻を同伴することは禁じられていた。役人は、米や粟、上布など年貢を納めさせるために、絶大な権力をふるった。これらが背景にあって、村の美女に目をつけては、わが物にする。各村では賄女、現地妻を差し出させる、ということが起き、数々の悲劇も生まれたのである。

役人が村の美人に、どれほど手を染めたのかを示す古謡がある。黒島の「まんがにすざ節」という唄を紹介したい。

「♪宮里村にお越しのお役人は 西表家のクマチという評判娘を賄女に望んでいた」。

仲本村では本原家の器量の良いンガイ女を、東筋では高峰家のブナリ女を、伊古村では屋良部家のマントウ女を、保里村では前盛家のタマニ女を、保慶村では赤嶺クジィラ女を、賄女に望んだ。

このような歌詞が続く。この唄は「黒島に赴任した役人が、各村々の美人で、気に入る女を賄い女にする為に、物色して歩いた、封建時代の支配者の権威と風習を謡ったものである」という(小浜光次郎著『八重山の古典民謡集』)。

石垣島平得(ヒラエ)には「なかしょうじぃぬなびゆんた」という唄がある。

「♪ナカショウジィ家のナビ(名前) あなたの夫は誰か ナビは夫はいない」

「♪これほどの美女 夫がいないといえようか」

「♪縛ったら答えるか 搦んででも問い聞け」

「♪縛られての答えは 目差主(助役)も私の夫 当たる親(村長)も私の殿 それだけではない 嘘である」

「♪縛られないうちに答えようと 筑補佐(チクブサ、役職名)も私の夫 佐事補佐(同)も私の殿」

役人たちが村の美人に、競って手を出していたことがうかがわれる。「縛ってでも問い聞け」と責めているのを見ると、村人からは快く思われていなかったのだろう。 

八重山の古謡は、しばしば人間を猫やカニに置き換えた唄がある。人間のままでは役人批判があまりにも露骨になり、弾圧されるからだろう。石垣市新川の「まやゆんた」は人妻を猫に置き換えている。「まや」とは猫のことだ。

「♪猫が子どもを生んだ 五匹の可愛い子どもを生んだ 七匹の可愛い子どもを生んだ 五匹の子どもに乳房を噛み吸われて 七匹の子どもたちに乳房を噛み吸われて あまりにも出し汁が欲しさに 年中で最大の干潮時が来たので 浅瀬を歩いていたら 夫婦蛸を見つけて 取って帰りに あいにく士族の青年に見つけられてしまった がんじがらめに縛られて 大石垣の役人宅に連行され 妻になれと強要された 家の中柱に二重に縛られて お米のご飯を与えられたら 家の子どものことを思い 喉を通らず 泣くだけだった」(歌詞は要約)

なんと残酷な仕打ちだろう。平民は士族・役人のこんな略奪的なやり方にも、抵抗もできなかったのだという。擬人体で猫の唄にされているので、この古謡も歌うのが許されたのだろう。せめてもの役人の悪行への痛烈な批判が込められている

賄女あるいは旅妻について、付け加えておくと、これらは首里王府から公認されたものではなかった。むしろ、やってはならないと禁じられていた。

「村詰の役人や筆者(書記官)が、賄女として所管の村の正女(一五歳から五〇歳までの女性)の内から抱え、上納物を免除し、その分は他の百姓どもに負担させて迷惑させ、そればかりか昼夜宿に詰め切りにさせ、夫も持つことも出来ず、婚姻の支障となることは勿論、(生まれた子を)士族に掠め入れる原因にもなっていて、どうかと思うので、必ず取り締まりを申し渡し、もし守らない者は、右の女の負担すべき上納物の弁償を申しつけた上で、役職をも解任すべきこと」

八重山にいる王府の役人らに布達された文書(「富川親方八重山島規模帳」)に、こう記されている。これは明治八年(一八七五年)の布達である。明治になっても横行していたのだ。これより一〇〇年以上昔の一七六八年に出された「与世山親方八重山島規模帳」でもやはり、役人が公用で村々に行くとき、賄女を抱え置く者がいるが「今後は賄女として村々に抱え置くのを止めること」と命じていた。王府は、表立っては再三、禁じたけれど、現実にはなくならなかった。それは、やはり人頭税の徴税の仕組みのなかでは、役人の横暴は起こるべくして起きたのだろう。

  

   

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

最近のトラックバック

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30