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2012年3月21日 (水)

大漁唄がない沖縄の不思議、その2

王府は漁業を抑圧した?

なぜ、漁業に従事する人がほとんどいなかったのか。重税に追われて余裕がないということではあるが、そこには首里王府が農業を奨励し、農民が漁業に精を出すことは抑えるという政策をとってきたことがある。

沖縄の漁業について研究している上田不二夫氏は、琉球王国時代の社会について次のように指摘している。

琉球は「その歴史的な出発は遅く、古代的な社会体制を随所に残したままの特異な封建社会であったという。とはいっても、その統治上の基本策は農業を中心とした社会の確立であり、その面では本土と同じといえる。このような農業を中心とした社会、それも自給自足的な社会の中で生産の安定しない漁業は、農業の補助的立場に位置づけられ、状況によっては抑圧の対象にもなっているのである」(中楯興編著『日本における海洋民の総合研究―糸満系漁民を中心として』の中の「糸満漁民の発展」)。

首里王府でとくに勧農政策を強力に推進した政治家に、蔡温(サイオン)がいる。王府で行政のトップである三司官につき、らつ腕をふるった政治家として名高い。一七三四年には「農務帳」を公布した。蔡温は著書『平時家内(チネー)物語』(一七四九年)のなかで、自分の領地の農民の心得を説いている。063    首里にある蔡温住居跡。蔡温の書が掲示されている

「海辺之百姓者少々魚ヲ取候而終日海辺ニ罷出家業之働致油断其漸々致衰微候儀笑止千万ニ候漁猟勝手之作方占抜群相増候働ハ其通ニ候左様ニハ無之徒ニ海辺ニ出ケ間敷手隙ヲ費候儀不計得至極ニ候此儀思慮可有之候」

漢文なので、上田氏の訳文と解説を紹介する。

「海辺の百姓のなかには漁に夢中になって農業をおろそかにするものがいるが、漁が得意で農業よりも多く稼げるというならともかく、いたずらに漁にでるのは家業を衰微させるというのである」「これによっても『海』を農地に代えて利用するということは、生活の安定、向上の面から不定的であり、むしろ抑圧する姿勢がみてとれる」

王府による「勧農政策」は離島でも徹底された。宮古島の大神島(オオガミジマ)は農耕に適する土地が狭く、海に出ることが島民の仕事だった。しかし、日常の食料(農産物)に事欠くありさまで、王府は島民を宮古本島に移住させたけれど、依然として漁業にいそしみ農業に力を注がないので、他の村から農民を移住させて一緒にして、農業へと転換させたという。また、多良間(タラマ)島に近い水納(ミンナ)島では、島民が漁獲物をもって年貢を納めるよう望んだのに対し、村役人が島の産業そのものを農業へ転換させ、役人は王府から表彰された。

上田不二夫氏は、歴史書『球陽』からこれらの事例を紹介したうえで、次のようにのべている。

「このような事例から、封建制度の進展とともに、従来の漁村が農村へと転換させられ、沿海村落であっても農業そのものに監視がともなう状況では、漁業を主とすることは不可能であったろう」(『沖縄の海人―糸満漁民の歴史と生活』)。

ここで「農業そのものに監視がともなう」と述べているのは、王府の時代に、役人らが耕作に出る農民を朝夕監視して、朝少しでも遅れるとムチで尻を打たれるという仕組みにされていたことを指す。こんな監視があるもとでは、漁業を主とすることはできないことは当然である。このように、島であるがゆえに、徹底した農業政策の影響を受け、漁村も農村に転換させられたことを明らかにしている。

こうした「勧農政策」と漁業の関係のなかで、もうひとつ重要なことは、かつては存在した漁業にかかわる祭りや行事も消えていったと見られることである。

沖縄大学学長も務めた安良城盛昭(アラキモリアキ)氏は、一七世紀末から一八世紀半ばにかけた時期に、首里王府が祭祀の禁止と再編成をすすめたことを明らかにしている。なぜなのか。その理由として、①祭りやタブーが多すぎて農耕の妨げになること②祭りにひまどって農耕をしない日が一年に沢山あること③祭りに費用がかかりすぎること、などをあげている(安良城著『新・沖縄史論』)。その中で久米島の「シュク」(スクともいい、アイゴの稚魚)の祭りを例にあげている。

044    いまハーリーをみんなが楽しんでいる(屋慶名ハーリー)

島尻村では、一七〇三年に「シュク祭」が禁止されている。ここでは毎年稲のウマティ(稲の大祭)の翌日に、「シュク祭」といって、ノロ(神女)や神人・村人たちが集まって、網をたて舟をこぐ真似をして「シュク」をつかまえる漁猟の模倣儀礼を行なっていた。「シュク」がたくさん獲れるような真似事をすることによって、実際の豊漁を願うお祭りであった。この祭りが禁止されたという。

上田不二夫氏は、安良城氏の研究を紹介して、次のようにのべている。

首里王府の祭祀禁止と再編成という「この過程で漁業に関連する行事も消えていったことは、容易に想像できる」、「シュク祭」のような「漁業につきものの、このような行事が禁止される状況こそ、勧農政策の具体的な漁業への影響例になるかとも思える」(「糸満漁民の発展」)

これらは、かつて行なわれていた豊漁を祈願する祭り、行事が、久米島以外でも消えていった可能性があることを示唆しているのではないだろうか。

これは蔡温が三司官になる前のことだ。蔡温はより徹底して勧農政策を推し進めたのである。

漁船の製造も制限した

沖縄の漁業の発展を阻害した要因は、このような勧農政策だけではない。もう一つの注目すべき点として、漁業には不可欠な漁船を造ること自体を王府が制限したことがある。井手義則氏は「沖縄産業の変遷と水産業の位置」(『日本における海洋民の総合研究―糸満系漁民を中心として』)で、次のように指摘している。

「この農本主義政策の展開による沖縄水産業の発展阻害について、さらにひとつ注目しておきたい点がある。それは、漁業の基本的生産手段たる漁船の製造制限政策が存在したことである。『沖縄県水産一班』で大村八十八は、『農業林業は古来之に制度を立て制限奨励共に尽せりと雖も漁業に至りては藩政一の制度の設なく却て林業保護の為め間接に漁業を禁制したるかの嫌なきにあらず即ち元文二年(一七三七年)⋯⋯設定せられたる所謂漁船定数の制を施し置県当時迄行はれたり』と述べ、農林業に関しては奨励策がたてられたのに対し、漁業についての制度は設けられず、むしろ林業保護のために漁業禁制政策がとられ、漁船建造が制限されたことを指摘している」。

この林業保護の政策を確立したのも蔡温であった。七つの林政指導書を出して造林に力を注いだ。その結果、漁獲用・運搬用の刳舟(クリブネ)についても、大木ははじめから禁止され、雑木を材料にした舟しか造れなかった。藩政時代においても、大木伐採を制限するために、各間切島村の造船を制限して『定数船舶』と称し、その手続き、及び林産物の搬出について、厳重な取り締まりがされていたという。

蔡温以来の林業保護政策は、明治時代に入ってもしばらく続き、船舶の製造制限が解禁されたのは、明治二二年(一八八九)のことである。

007      林業保護政策がとられていた山原の森

井手氏はこれらを明らかにしたうえで、次のように結論づけている。

「かくて、『勧農政策』によって漁業従事そのものすらが圧迫されるとともに、林業保護政策によって漁業生産手段の基本たる漁船建造が制限されることにより、沖縄における漁業の発展、産業としての水産業の展開は、押し止められたまま推移せざるをえなかったのである」「そうした政策の下で発展契機を摘み取られてきた水産業が、本格的に展開を開始するのは明治期に入ってからである」 

こうした事情は、いま漁業がとても盛んな八重山諸島でも同じだった。石垣島の水産業の歩みを『石垣市史 民俗上』で見てみたい。

「八重山における水産業は明治中期頃に沖縄本島の糸満から出稼ぎに来た専業漁民の定住によって、本格的なあゆみをみせる。糸満系漁民が渡来した背景には、その頃八重山では、水産業は自給自足程度にしか展開されておらず、当時、商品価値の高かった海人草などの海藻類や夜光貝などの貝類が豊富に採集できたこと」などがあったと述べている。やはり、石垣島では魚を獲っても自給自足の程度であり、漁業を専業とする人たちはいなかったのである。

八重山では、農業をおろそかにして漁をする農民に、漁を禁ずることがあった。たとえば、一七〇二年に王府は八重山の木垣による網漁をしていた百姓に対し、農業を疎かにしているとの理由でこの漁を禁じたという(ネット「糸満海人工房・資料館」)。木垣について説明はない。八重山でも垣(カチ)と呼ばれる漁法があった。昔は浅瀬に石垣を積み、満潮時に海藻を食べに来た魚が、干潮時に石垣に阻まれて海に戻れないでいるところを網や手づかみで獲った。それと同じような漁法ではないだろうか。

一九五九年に石垣島を訪れた、彫刻家の岡本太郎はその印象をこう記している。

「たとえば海に囲まれていながら、ほとんど漁村がない。はじめ不思議に思えた。しかし考えてみれば、いくら魚をとっても買ってくれる相手がいなければ漁業なんて成り立たない」(『沖縄文化論―忘れられた日本』)。

戦後も石垣島の各地の集落では、魚を獲って食べてはいても、漁猟を生業とする漁業はまだ限られており、島で漁村はあまりなかったことを示している。

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