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2012年3月24日 (土)

大漁唄がない沖縄の不思議、その5

なぜ糸満の漁業は発達したのか

 琉球全体では、漁業は発達しないばかりか、抑圧さえされたなかで、糸満は例外だった。琉球王府時代はもちろんのこと、廃藩置県の後も同じ状況が続いていた。

先に紹介した沖縄の水産事情の調査報告(西南地区中央水産調査員)では、明治になった一八八八年(明治二一)の時点でも「各島々の沿岸に住む人々、生活を営む途はおおむね農業を専業としており、漁業に従事する者はきわめてまれ」な中で「糸満村は、管下第一の漁村で、その漁業に熱心なのは驚くべきものがある」と述べていた。その後、一八八七年(明治二〇)代でも「漁業を専業とするものはほとんど糸満漁民にかぎられていました」(同書)。

『糸満市史資料編12、民俗資料』では、次のように記している。

「沖縄では、古くから漁業者のことをイチマナーと呼ぶことが多いように、漁業者の代名詞として糸満を考えることが普通である。それは、往時の糸満が住民のほとんどが漁業者という沖縄では珍しい“純漁村”であったことやその規模も全国的にみても大きかったことに理由がある」

明治三五年(一九〇二)になっても、糸満の漁業者数約四〇〇〇人を数え、沖縄の漁業者一〇人の内六人は糸満で占められていた。沖縄漁業に占める地位が、量的にも質的にも糸満は「独占的な立場にあり、漁業技術の面からも卓越した存在である」と指摘されている(同書)。

 糸満の海人が豊漁と安全を祈願する白銀堂

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では、海に囲まれた沖縄で、なぜ糸満だけ漁業が突出して発展したのだろうか。王国全体では、農業重視の政策がすすめられている中で、農業ではなく漁業を専業的に営むことが勝手にできるだろうか。そこには、何らかの首里王府とのかかわりがあるはずである。

加藤久子さんは『糸満アンマー ―海人の妻たちの労働と生活―』で次のように指摘している。「王府時代の『勧農政策』の体制下にあったにもかかわらず、土地が狭いため農業による収益は不可能であり、首里王府は糸満に対し漁業を命じた。津々浦々漁猟が許され、藩主や高官に魚類を提供したと記録にあるように、いわば漁業は糸満の専売特許であった」(「記録にある」の注に玉城伍郎著『糸満社会史』を参照している)。

 ただし、土地が狭いから漁業を命じたというのは、少し疑問がある。海に面し地方で土地が狭いというなら、糸満だけでなく、沖縄中にほかにも同じ条件の地方はある。もっと深い理由があるはずである。

それは、琉球が中国に進貢し、皇帝から国王として認証してもらう冊封(サッポウ)関係にあったことと関わりがある。というのは、琉球は進貢し、冊封を受けることによって中国貿易を認められ、国家事業として中国、東南アジア、日本、朝鮮を結んだ中継貿易を営み、大きな利益をあげてきた。琉球から中国への輸出品のなかで、重要品目が海産物だった。清代に琉球船が中国に持ち込んだ三回分の商品のリストが手元にある。これで見ると、昆布、鱶鰭(フカヒレ)、鮑魚(干アワビ)、海参(カイジン=干しなまこ)が圧倒的に多い。中華料理の高級食材が含まれている。昆布は北海道からの流通であるが、その他の海産物の大部分は沖縄産である。この進貢品の海産物の重要な産地が糸満だったのだ。

「鱶鰭の生産は、糸満の一手専売と考えられ事実、明治二五年鱶漁獲量の約九一%は糸満で占められているのである。漁村の少ない沖縄で、鱶釣りという技術の伴う漁業は極めて限られた地域のものであったことがいえ、糸満の独占的な立場が反映するのである」。上田不二夫氏は「糸満漁民の発展」でこう指摘している。

『糸満市史 民俗資料』では「王府時代の糸満漁業」について、次のように述べている。「琉球王府時代における糸満漁業は、鱶釣りやイカ釣り、飛魚刺し網といった沖合域の漁業を中心として、それに採貝や採藻を目的とする沿岸の潜水漁業で構成されていたといえる。いわば、漁業の発展段階としては先進的な段階にある沖合漁業が中心であったわけである」

このように、糸満漁業は漁業技術の上でも「先進的な段階」にあり、漁業の内容からみても、中国貿易に不可欠な海産物の産地であり、王府にとって糸満漁業は特別な存在だったと思われる。

上田氏は、糸満と中国貿易を結びつける直接的な資料は、「現在までのところほとんど見つかっていない」としながらも、次のように結論付けている。

「糸満の漁村としての発展が王朝時代にみられること、貿易の内容をみると海産物の占める比重の大きいこと、糸満の漁業種類が鱶釣り、鯣釣り、潜水漁業など中国貿易の中心となる海産物生産に深く関係していることなど、極めて密接なものがあるといえよう」

実際に、長期にわたった中国との進貢貿易が明治七年(一八七四)停止されると、鱶鰭、海参などの海産物を柱とする中国貿易の需要がなくなったことで、糸満漁業は大きな影響を受けた。このため、糸満漁業は転換を余儀なくされた。それまで沖合漁業を中心としていたのが、沖合漁業ではなく、沿岸漁場への依存度が高まった。沖合漁場から沿岸漁場へというのは、日本の漁業の発展方向とは、まるで正反対の方向だという。

専業漁業の地だった糸満には、大漁唄があるのだろうか。先に一つ古謡を紹介した。糸満の豊漁と航海安全を願う伝統ある行事に糸満ハーレーがある。その際歌われるものに「ハーレー歌」がある。漁師の氏神である白銀堂やヌル殿内(どぅんち=神女ノロの家)に豊漁と安全を祈願し、円陣を組んで踊りながらハーレー歌を歌う。いまはハーレーの終了後、「ハーレー歌大会」も模様される。

ハーレー歌の歌詞は、豊漁祈願の内容ではない。一つは「首里の国王さま いついつまでも」と讃える歌詞だ。二つ目は「♪でィき按司(アジ)ぬ 乗(ヌ)いみせる御舟(ミブニ) 世果報(ユガフウ)待ち受けてィ 走(ハイ)ぬ美(チュ)らさ」

最初の「でィき按司ぬ」は、誰かを指しているようだが意味がわからない。その後は「乗っていらっしゃるお舟 豊年の世待ち受けて 走る美しさよ」という意味だろう。「世果報」とは、豊作や平和で幸せな世を意味する。この中に、漁師であれば豊漁や航海安全、家族の繁栄などの願いが込められているのではないだろうか。

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                 糸満ハーレー

糸満ならではの異色の民謡がある。「シンガポール小(グヮ)」という。糸満漁人は、戦前は漁場を求めて遠く南洋諸島、フィリピン、シンガポールまで出稼ぎに行った。その海人が作り歌ったという。歌詞は、親兄弟と別れ、お金を稼ぐために外国に行く。福岡の門司から出て、香港を通りシンガポールに着く。シンガポールは当時、珍しい自動車が走るが、ピストル強盗も出て恐ろしいよ。概略こんな風な内容で、豊漁を願う唄ではない。

「海ヤカラ」という唄がある。「海ヤカラ」とは糸満では漁猟にたけた者を指す。「糸満・海やからのまち宣言」をしているほどだ。でも、唄の歌詞は、娘さんが海ヤカラに惚れたというような中身で、大漁や漁猟のことではない。

このように、糸満はやはり海人の村だっただけに、豊漁や海の安全を願う行事や古謡、歌はいろいろある。ただ狭い意味での大漁唄はないが、それは恐らく漁業の形態の違いなどがあるのではないか。糸満漁業の典型である「アギヤー」という追い込み漁は、漁夫たちが海面をたたいて魚を網に追い込む漁法なので、とても歌なんか歌っていられない。そういう漁法の違いなどが背景にあるだろう。

 

漁業の発展は明治の末期以降
沖縄の漁業の発展を阻んでいた障害が取り除かれて、漁業が発展するのは明治末期以降である。すでに漁業が専業化していた糸満では、漁法も先進的であった。代表的なものに、中央に袋状になった網をはり、漁夫たちが泳ぎながら海面をたたいて魚群を袋の方に追い込む「追い込み漁」がある。すでに明治二三年(一八九〇)頃には、「アギヤー」という大型の追い込み網が考案され、糸満漁業はさらに大きく発展する。

といっても、県内各地でも漁業が盛んになってきた。各地の漁場に出漁していた糸満漁師たちは、周辺の漁民とトラブルを起こした。糸満漁法は、海域の魚を獲りつくすため、資源の枯渇を恐れられ、県内の他地域からは締め出されることにもなった。こうした事情もあり、糸満海人は、八重山、奄美諸島をはじめ県外本土、さらには遠く海外まで進出していったのである。

「明治三五年に導入された『漁業法』は、糸満にとって県内各地の海から締め出される結果となり、県外や海外への漁業出稼ぎ(タビアッキ=)の原因にもなった」(『糸満市史 民俗資料』)

沖縄全体の漁業が発展に向かいつつあったといっても、明治四四年(一九一一)統計では、産業別生産額に占める比率で見ると、農業七五・六%に対し、水産業はまだわずか四・五%にすぎなかった。大正時代に入り、カツオ漁業が本格的に展開されてきて、水産業の比重もだんだん大きくなっていった。大正一一年(一九二二)にようやく一一%を超えた。

そして今日のように沖縄の漁業は、恵まれた環境を生かして隆盛をみるに至った。現在、マグロやカジキ、イカ、カツオ類など沿海漁業を始め、モズク、クルマエビ養殖などが盛んだ。なかでも、近海での生鮮マグロの水揚げでは、全国三位を誇る生鮮マグロの一大産地となっている。

おわりに

というわけで、沖縄には大漁唄がなぜないのか、少ないのかをテーマとした。だが、豊かな民謡があることを書くのはやさしいが、ないことを書くのは難しい。なによりも、ないことを書いてもあまり共鳴する内容に乏しい。ついつい、大漁唄のことを入り口にして、沖縄の漁業史の一面を記すようなことになってしまった。漁業なんか一知半解で、門外漢が首を突っ込むと的外れなこともあるだろう。ご容赦願いたい。

最後に、これからの展望について述べて終わりにしたい。

周囲を海に囲まれた有利な条件を生かして漁業が豊かに発展してゆけば、海人と漁業の祭りと芸能なども、さらにいろんな形で発展していくだろう。海と海人と漁業をテーマとした民謡、島唄がさらに生まれる可能性も秘めているのではないだろうか。それを期待したい。      

(終わり。 二〇一一年八月一日    文責・沢村昭洋)   

      

  

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