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2012年3月29日 (木)

琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて、その1

 この「琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて」は、前にブログにアップしてあるが、ダウンロードしないと読めない形式だったので、今回そのまま全文が読める形式にして再度アップする。

 

  

  「琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて ー愛と哀しみの島唄余聞ー」

「愛と哀しみの島唄」を読んだ人から、「琉球舞踊を何回か見たけれど、舞踊にも恋歌が多いように思うけれど、どうなんですか?」という質問があった。琉球舞踊には、古典舞踊と雑踊(ゾウウドィ)がある。

これら舞踊で使われる曲目は、琉球王国の時代からの古典音楽が中心であり、雑踊りには民謡も使われる。舞踊の音楽を演奏するのを「地謡(ジウテェ)」という。舞踊にだけ演奏される曲目があるわけではない。だから、「愛と哀しみの島唄」で書いたことは、そのまま舞踊にも当てはまるわけだ。舞踊で使われる音楽も、当然恋歌は多いことになる。

ただ、そう言ってしまえばそれだけのことになる。せっかくなので、舞踊と恋歌の関係を探ってみたい。

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       首里城で開かれた「中秋の宴」で披露された琉球舞踊

琉球舞踊とは

はじめに、琉球舞踊といってもあまりなじみがない人が多いので、少し予備知識として紹介しておきたい。古典舞踊は、琉球王朝の時代に、首里王府の下で完成された。古典音楽も、王府で奏でられたものである。だから、古典舞踊に古典音楽が主に使われるのはそういう不可分の関係がある。

古典舞踊には、お年寄り姿で長寿と子孫繁栄を願う「老人踊り」、美少年たちが扇子を持ち踊る「若衆踊り」、古典舞踊の代表的な踊りで優美な「女(ウンナ)踊り」、沖縄空手を基本に大和芸能を取り入れた若者による「二才(ニーシェー)踊り」、身分の違いや男女の区別なくさまざまな組み合わせで踊る「打組(ウチクミ)踊り」などがある。なかでも、古典舞踊を代表する「女踊り」は、衣装も紅型(ビンガタ)の打ち掛けを羽織り、とてもあでやかである。ゆったりとした優雅な踊りが多い。花笠や愛しい人に着物を織るため糸を紡ぐ「かせかけ」を使った踊りなど、琉舞の魅力に満ちている。といっても女性が踊るのではない。男性が女装して踊った。いまでは、女性の舞踊家が多くなっているが、もともとは女形の芸だった。

古典舞踊は、中国の皇帝が派遣する冊封使(サッポウシ)が国王の認証のために琉球に来たとき、もてなしの宴で披露された。歌三線、台詞、踊りの総合芸術である「組踊(クミウドゥイ)」も創作され、演じられた。冊封使が乗ってくる船を「御冠船(ウカンシン)」と呼んだので、冊封使を歓待する舞踊や組踊など芸能を総称して「御冠船踊(ウカンシンウドゥイ)」と言った。

ちなみに、琉球王朝では、舞踊を踊るのは、民間の芸人ではない。琉球では、冊封使をもてなすのは、王府にとって最も大事な仕事である。「歌い踊る行為は役人の公務そのものとされていた」(金城厚氏著『沖縄音楽入門』)。だから、踊りはすべて女性ではなく、男性が踊ったのである。

王府は、冊封使をもてなす芸能公演のために踊奉行(オドゥイブヂョウ)という役職まで設けていた。だから王府の役人たちが、大事な任務として歌三線や舞踊の腕を磨いた。 

琉球王国は、500年ほど昔、国内では「刀狩り」をしたので、「サムレー」とよばれた士族も、大和の武士のように、腰に刀を差さない。大和では床の間に刀を飾ったが、琉球では床の間に三線を飾ったといわれる。だから、王府の役人も大和の武士のように、日頃剣術などの訓練をするのではなく、芸能に励んだようだ。

こうした古典舞踊とは別に、那覇の街中から生まれたのが「雑踊り」である。明治になり、琉球王国が廃止されて、王府で芸能にたずさわっていた士族たちは、職を失った。身に付けた芸能を生かして、「組踊」や古典舞踊を那覇の芝居小屋で上演するようになった。こうした興業芝居の中から生まれたのが「雑踊り」である。

早いテンポの曲にあわせた軽快な踊りが多い。衣装も芭蕉布の着物など庶民の服装である。見ていても楽しいので、庶民にはとても人気があったという。初めの頃は、庶民的な女性の踊りが呼び物になっていたという。

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             首里城の「中秋の宴」から         

舞踊の半分は恋歌

大分前置が長くなった。本題に入る。舞踊曲に恋歌が多いといっても、どれほどの割合を占めるのだろうか。印象ではなく、データとして明らかにしたいと思う。沖縄県立図書館で文献を探すと、ちょうど「安冨祖(アフソ)流琉球舞踊地謡工工四第1巻」があった。安冨祖流というのは、古典音楽の野村流、堪水流とともに、三大流派の一つである。「工工四」とは、楽譜のことだ。つまり、この本は、琉球舞踊に使われる歌三線の楽譜集のことだ。

舞踊曲は、一曲だけで踊るのは少なくて、大抵が数曲をセットにして舞踊曲名としている。「女踊り」は、三部構成を基本にしている。まず出羽(ンジファ)という、踊り手が舞台下手から中央まで出てくる振りがある。次に、中踊(ナカウドィ)という舞台中央での本踊りがある。そして、入羽(イリファ)という、本踊りが終わって再び下手の幕内に入るまでの動作がある。

舞踊曲は、歌詞の内容で共通性がある曲や関連がある曲を組み合わせたり、組むことで変化をつけ、踊りの効果もあがるようになっている。たとえば「諸屯(シュドゥン)」という曲は恋歌ばかり3曲からなっている。「松竹梅」と名付けられた舞踊曲は、古典音楽6曲で成り立っている。

安冨祖流の楽譜集に収められている曲数は、セットになった舞踊曲名としては39曲あり、そこに入っている「節名」と呼ばれる単発の唄の曲名として88曲ある。このなかから、男女の情愛、好きな人への思い、離れている淋しさなど恋愛にかかわる唄を数えてみた。すると、舞踊曲名では、恋歌が入っているものは22曲で、56%を占める。そこに組まれている「節名」は、恋歌が39曲を数え、45%を占める。

古典音楽には、早弾きのカチャーシーはないので、この舞踊曲集では、このほか、付録として、リズム練習曲とカチャーシー舞いの曲目が16曲ある。そのうち10曲、つまり63%は恋歌である。ただし、ここでは、同じ曲、とくに恋歌がいくつかの舞踊曲名に組まれているが、それだけその曲が好まれていることの証である。

つまりは、舞踊に使われる曲目の、およそ半分は恋歌だということがわかる。これまで島唄のなかで恋歌が多いことは、わかっていたので、舞踊曲でも多いだろうと予想はしていたが、データとして判明したのは初めてだ。予想以上の多さである。

歌詞は琉歌がもとになる

もう一つ、事前の説明をしておきいたいことがある。それは曲の歌詞は、琉歌が基本であることだ。琉歌は、大和の和歌の7・5語調とは異なり、字数が「8886」の30字からなっている。そこに琉歌のリズムがある。そのためというか、同じ曲でも、いくつもの歌詞がある。それは、琉歌の本歌があると、後世にいくつもの琉歌が作られ、歌詞として付け加えられる。字数の決まった琉歌であるため、メロディにすぐのせて歌える。だから、替え歌のように別の歌詞が作られるのである。いつの間にか、本歌は忘れられ、後に作られた歌詞の方が有名になった曲もある。

逆に、メロディの方も、どの曲も琉歌をのせる点では共通性がある。だから、有名な琉歌、みんなに好かれる琉歌は、他の曲にもすぐに援用される。だから、日本の歌謡曲なんかのように、メロディと歌詞が一体化していない。流動性がある。「あれ、この歌詞は、こんな曲にも使われているのか」と思うことがよくある。まあ、こういうところにも、琉球の古典音楽や沖縄民謡の一つの特徴と面白さがある。

それから、漢字のふりがなについてお断りしておきたい。沖縄の読み方には二通りある。つまり、ウチナーグチ(沖縄語)の読み方と共通語の読み方である。たとえば「沖縄」の読み方も、共通語では「おきなわ」だが、ウチナーグチでは「うちなー」となる。民謡、古典音楽はすべて、ウチナーグチ、沖縄語が基本である。だからできるだけ、ふりがなもそれにそっていきたい。

      

      

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