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2012年3月23日 (金)

大漁唄がない沖縄の不思議、その4

日本で漁業の歩みは

ここで、日本列島というか大和には、大漁唄が結構あるが、では漁業はどれくらいの歴史があるのだろうか、見てみたい。手元に適当な資料がないので、インターネットの百科事典「ウィキペディア」から簡略に見ておきたい。

縄文時代以前から日本人の祖先たちは漁や採取によって魚介類を収穫していたと考えられる。鎌倉時代には、漁を専門とする漁村があらわれ、魚・海藻・塩・貝などを年貢として納めるようになった。室町時代にはさらに漁業の専門化がすすみ、沖合漁業がおこなわれるようになり、市の発達や交通網の整備、貨幣の流通など商業全般の発達に漁業も組み込まれていった。江戸時代には遠洋漁業がおこなわれ、また上方で発達した地曳網による大規模な漁法が全国に広がるなど、漁場が広がった。077

           奥武島の地先の海

 

もちろん、日本の沿岸のどこでも漁業の専業化がすすんだとは思わないが、漁業を専業としたのは糸満だけだった琉球とは、かなり様相が異なる。亜熱帯の沖縄では、豊漁でたくさん魚が獲れても、昔は保冷ができない。だからすぐに腐る。消費地も限られている。交通網も整備されていない状況では、魚がたくさん獲れても生かせないだろう。自給自足的な漁業にとどまらざるをえなかった面もあるだろう。

ここで、日本の漁業を背景に生まれた大漁唄については、見ておきたい。幸い、インターネット「yahoo百科事典」で、竹内勉さんが解説している。それから要旨を紹介する。

大漁唄とは、漁業に従事する漁民が、大漁を祈願し、またそれに感謝して、漁の神へ捧げる祝い唄の総称である。この大漁唄、大漁節には次の四種類に分類できる。

 正月二日に漁師が網元に集まり、仕事始め祝いと海上安全、豊漁そして網元の繁栄を願って歌う祝い唄。「ヨイヤナ」「ションガエ節」「まだら」「エンコロ節」「ヨイコノ節」など。

 大漁のおり、船上で海の神に感謝し、次の大漁を願いつつ歌う祝い唄。「大漁唄い込み」「鯨の唄」「鯛の大漁唄」など。

 大漁に際し、氏神様へ報告に行き、社殿で奉納する祝い唄。「銚子の大漁節」「千越し祝い唄」など。

 大漁ののち漁師たちが網元の家に集まり、大漁祝いの祝宴のおり、歌う祝い唄で、これは先のものを借用することが多い。

これらは大漁唄に限ったものだが、これ以外にまだ漁業の労働歌などもある。たとえば鰊(ニシン)場作業歌はたくさんあり、ソーラン節もその一つである。貝殻節もつらい帆立貝漁から生まれたという。これらもまだ一部にすぎない。やはり、大和の大漁唄、漁業を歌った曲は、たくさんの種類と民謡があるのだ。

海産物が租税にもされた

琉球王府の時代の年貢の基本は、米や粟、上布だったが、役所と役人の食料とするために、魚介類を租税の一つとして納めることもあった。

たとえば、漁獲りが盛んだった宮古諸島の伊良部(イラブ)島など「漁業による税金を納めるための親海(ウヤイン)という制度」があったという。「親海とは、一五才から五〇才までの男子が磯漁などで得た漁獲物を必ず納めなければならないし、蔵元の役人や地方番所の役人には特に上質の魚を毎日体長五寸以上を五尾ずつ献上すべき義務が漁業地の佐良浜にも課されていた。そのため、漁師たちは宮古島の各海岸海域を漁区として泊海(トマイン=浜で寝泊まりして漁をする=)を行い、献上魚を納めて帰るという習慣が続いた」(『伊良部町漁業史』)

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           沖縄ではいま「ヤイトハタ」(ミーバイ)養殖が盛んだ

この制度は、なんと一八九七年(明治三〇)頃まで続いたという。

八重山では、海産物や地上の産物など合計四八種類もの上木(ウワキ)税(物産税)があった。現物で納める税である。たとえば、海産物では、ナマコ、貝柱、トコロテン、ハマグリ、海人草(カイニンソウ=生薬になる)その他。地上の産物では、煙草、キクラゲ、菜種子油、綿花、唐竹(トウチク)、牛皮、松明、その他があった。

新城(アラグスク)島で、ジュゴンを人頭税として王府に納入した。島の人たちは、ジュゴン獲りに懸命になった。島にはジュゴン獲りの唄がある。「ザントゥリユンタ」という。「ザン」とはジュゴンのことだった。でもこれは例外的なものである。

琉球王府は、沿岸村落の地先の海を、「海方切(ウミホウギリ)」といって、間切、島ごとに使用する区域を定めていたという。村落の地先の海を独占的に使用できるが、各種の義務を負わされた。義務の中には、海産物を納める義務『海雑物(ウミゾウモノ)』の存在もあった。また、海は陸地と一体となった領域と理解され、農業用の肥料となる海藻を取る場でもあった。
 「王府の政策からいえば、農業をするのに必要な場であり、専業漁業者にとって必要な漁場というとらえ方は基本的に無かったものと考えられる。つまり、地先の海の利用法とは農業の合間に漁業をするといった程度の位置付けしかなかったということになろう」(上田不二夫著『沖縄の海人―糸満漁民の歴史と生活』)

沿岸村落の百姓にとって、「海雑物」を納めれば、年貢の米や粟、上布などは免除や軽減されるというものではない。それはそれで厳しく取り立てされる。だから、百姓は農業で重労働をしたうえに、海産物なども獲って上納しなければならない。二重、三重に課税を強いられたことになる。

      

    

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