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2012年3月19日 (月)

ユバナウレ考、その3

「金志川金盛がアヤゴ」

八重山編でも書いたが、宮古島の土豪、金志川金盛(キンスカーカナムリ)は、仲宗根豊見親(ナカソネトーミオヤ、名高き領主のこと)に随行して、首里王府に背いた石垣島のオヤケ・アカハチや与那国島の鬼虎(ウニトラ)の征討に参戦した。しかし、帰還する途中に仲宗根豊見親は金志川金盛が邪魔になり、多良間島の土原春源に命じて、同島で殺させたと伝えられる。宮古島の「金志川金盛がアヤゴ」は、この物語の前半部分だという。多良間島には、金志川金盛を祀る「ウチバルウガン」があるそうだ。

 「♪金志川の金盛 ユナウラシ(世直らせ)」と始まる。金盛は賢い人、与那国の鬼が島の尻の虎(鬼虎)が、御主御物の上納を戻し、飲んだと聞いた金盛は、武士を揃えて船立てをなされた、多良間からの船頭は土原の鳴り響く親よ、と歌われる。英雄談だが、途中で終わった感じだ。囃子は勇敢な金盛を讃える意味で使われている。

「東間のブナガマ」

「♪東間の南宗根の ブナガマよ ユヤナオレ(世は直れ)」と歌われる。ブナガマは子どもと思っていたが、お仮屋の七庫裡(部屋)の主になり、男の子を生んだので、屋敷までブナガマのもの。こんな歌意である。これも、囃子はブナガマを讃える意味で使われている。

「根間の主」

「♪根間の主がサーサー 乗っておられる御船」と歌い出し、いくつか囃子の後に「ヤナドゥ ユヤナウレ(世は直れ)」と歌う。根間の主が、乗られる船は、相船(公用船)で池間崎を行く頃、扇を取って送ろう、という内容の歌である。
 根間の主が首里王府に船で旅立つとき、妻のカナガナが夫の航海の無事を祈る様子が歌われている。昔は、船の航海には危険がつきものだった。この場合の囃子は、夫の無事を願ったものだろう。

「米の籾」

「♪米の籾(マイノアラ)米の籾よ 選りすぐるように ユヤナウレ」と歌い出す。このあとも、友達ともユヤナウレ、(愛しい人とは)一夜、片夜の間でも離れてはおれないよ ユヤナウレ、一夜で百年の縁も結ばれる ユヤナウレ、一夜会わないと一〇日、二〇日会わないようだ ユヤナウレ。短い曲だが、囃子が七回も繰り返される。この囃子は、愛しい人といつも会いたいという気持ちが「ユヤナウレ」に込められている。

「アーピツアアゴ」(粟摺り歌、伊良部島)

「♪今年蒔く粟が 一〇月蒔く種が サアサア ヨウヤナオレ」と始まる。蒔いた粟が数珠玉のように実ったら、天貢物納めて、残りはおじいさん、おばあさんを招いて昼七日、夜七日を遊ぼう。こんな歌である。囃子は、作物が実り豊作になることを願っている。

「ユナウンの姉ガマ」(宮古島狩俣)

「♪ユナウン(屋号)の(部落の)行き果ての姉さん なオれ(豊かな世に直れ)」と歌い出す。吉(よ)かる人の子であるから、早朝水を取りなさい、さあ朝の潮干狩りに海に下りよう、潮は引かない、満ちてしまったので、親になんと言おう、友だちがきれいな玉を落とし、捜しているうちに潮は満ちてきたと言いなさいと教えてくれた。こんな内容の話である。長い曲のわりに、「なオれ」の意味があまりない。

「ピトゥマサのマユカリャ」(同狩俣)

「♪ピトゥマサ(屋号)のマユカリャ(女名) ヨーナウリ(世は直れ)」と始まる。マユカリャは近所でも名高い美人、母が言うには来間島の夫を約束してある、優男の夫をと談合してあるが、私はいやです、いやだと言うのに持たすというのでいやとも言えず、じゃあ行きましょう、行った翌年、粟、麦を蒔けば繁茂し、粟俵、米俵を積み重ね、貢物として納めた、半搗きで貢納した。囃子は、美人に生まれたマユカリャがいやいや親の決めた男性と結婚するが、とても豊作になり、幸せに暮らした様子が歌われている。この女性が幸せになってほしいという願いを込めた囃子のようだ。 先に紹介した「来間添う女メガ」と、女性の名は違うけれど、話しがとても似ている。

「豊年のうた」(同狩俣)055      「豊年のうた」を歌う女性グループ「乙女椿」

「♪正月であるから 新年であるから ヨーイディーバ ヨーイダギユー ソイドゥカギサヌ ユーヤナオレ」と歌う。これは、文字通り豊作、豊年を願う、弥勒世を願う歌である。貢物に納めて、残ったら「粟酒を造って 米の酒を醸造して」と結んでいる。囃子は、豊年の願いそのものである。

「真南風為すメガママ」(池間島)

「♪前南(地名)の真南風にするメガママ ヨーイウヤキ ヨーナヲリャガヨー(富貴な世に直れ)」と始まる。メガママが一七歳の盛りに、底の屋の後結いの男が女と三カ月いて、伊良部に行って、帰って来ない、大主は願いをかなえる神だから、明日までに真南風にしてください、伊良部の下の方を見れば、小舟が大帆を持ちあげてくる、私の夫の舟だろう。こんな歌意であるが、囃子は、伊良部にいって帰れない夫が無事に帰ってこられるよう願ったものである。

まとめ

「ユバナウレ」の用例を三〇余り見てきた。使われ方を分類すると、文字通り「世は直れ、世はよくなってほしい」という意味と、「豊作の世を願う」「豊かな世になれ」という意味で使われている例が、半分近くを占めている。苦しい農民にとって、「世は直れ」と「実り豊かな世になれ」は密接につながっているのだろう。

不幸せな女性、人々のことを歌って「ユバナウレ」が「幸せにはってほしい」という意味で使われているのも、四例ほどある。もっと前向きに、「立派な人になってほしい」という意味の使われ方も二例あった。
 さらには、特定の個人、歴史上の人物を取り上げ、「立派な人物だよ」と賛美する意味で使われている例も三例あった。英雄讃歌の囃子の使われ方は、八重山では、宮古関係の金志川金盛の「ゆんた」だけで、他には見当たらなかった。多いのは宮古島周辺である。これは、首里王府に反旗を翻した石垣島や与那国島の豪族、首長を、宮古島の支配者が王府軍を先導して遠征した、古い歴史が背景になっているのではないだろうか。

この他、「ユバナウレ」が「航海の無事を祈る」「愛しい人に会いたい」という意味で使われている例もある。かなれ幅広い意味でも使われている。
 こうした「幸せになれ」「立派な人になれ」など、幅広い意味で使われているのも、もともとは「世は直れ」から派生して、幅広く使われるようになったのだろう。歌詞を見ただけでは、囃子の意味あいがはっきりしないのもいくつもあった。そいう場合も、歌を盛り上げるために、囃子はとても効果的である。
 「ユバナオレ」という囃子が、辛い世の中、不合理な現実がなんとか変わってほしい、「豊年の世になってほしい」という願望を込めた歌謡に使われると、とてもよくマッチする。歌っていて、囃子にも気持ちが入ってくる。

少し、注意を要するのは、辛く哀しい現実をリアルに歌った曲であっても、「世は直れ」という囃子が使われない歌謡もけっこうあることだ。なぜ使われていないのかは、いまはまだよくわからない。
 たとえば、役人の女になることを拒否して山に入り死ぬ女性を歌う八重山の「いきぬぼうじぃゆんた」、手先の器用な女性を無理やり連れて行き細上布の絵図をもとに機織りを強要する「あろざてー」、宮古島では、結婚間もないのに強制移住で生き別れさせられた男女を歌った「島分けのアーグ」などがある。いずれも「ユバナウレ!」と叫びたいところだろう。ただ、使われていないといっても、これらの歌謡の痛切極まる内容には変わりない。

それにしても、「ユバナウレ」の囃子が使われた曲が、なぜこれだけ多いのだろうか。そこには、八重山、宮古島での耐えがたい現実があったからだろう。琉球王府の時代、八重山、宮古島は、人間の頭割で税金をかける人頭税(ニントウゼイ)が明治後期まで二〇〇年以上も続いた。農民、百姓は王府に人頭税納めるためだけに生きている農奴のような存在に置かれていた。そればかりではなく、権力をかさにきた役人の横暴によって、理不尽なことがまかり通った。その一端は、紹介した歌謡の中にも見ることができる。

「ユバナウレ」の囃子について、とても重要な指摘を耳にした。それは、一七七一年に「明和の大津波」のあと、「ユバナウレ」の囃子がよく使われるようになったということである。これは、八重山民謡の大御所、大工哲弘さんが話されていること。大工さんの弟子である杉田園さんが教えてくれた。

「明和の大津波」では、八重山・宮古諸島で一万二千人にのぼる死者・行方不明者を出した。琉球諸島の先島にとっては、二〇一一年三月一一日の東北大震災と大津波に匹敵するような未曾有の大災害である。さらには、その後も災害や疫病の流行、大飢餓が相次ぎ八重山で人口は激減するほどだった。「八重山の受難時代」と呼ばれている。王府による重税と大災害によって、苦しめられた庶民は、心底から「ユバナオレ!」「世は直れ!」と叫んだことだろう。そんな血の叫びが、民謡、古謡に映し出されて、この囃子を使った曲が多くなったのではないか。それはまた、庶民の心の奥底に響き、深い共感を呼び、支持されたのだろう。
 「世は直れ」と言えば、大和的な感覚では、「世直し」を意味する。封建時代には、百姓が「世直し」を公然と口にはできないことだった。沖縄民謡の場合は、それほど、ストレートに政治的な変革まで求める「世直し」とまでは、いえないかもしれない。でも、語感として現状への批判、プロテストの精神が感じられる。王府の圧政下でこれだけ、たくさんの歌で「ユバナオレ=世は直れ」と公然とみんなが声高らかに歌うというのは、なかなかスゴイことではないだろうか。沖縄の庶民のたくましさを感じさせる。
 祭りや芸能の場で、「ユバナウレ」を盛り込んだ数々の歌を、みんなが歌う。それは、辛く哀しい世の中を嘆き悲しむだけではなく、辛さを生き抜いていく、哀しみを乗り越えためにも、欠かせないことだったのだろう。
 考えてみると、沖縄の民衆の苦しみは、琉球王国時代だけではない。戦前の「ソテツ地獄」から、郷土が地獄と化した沖縄戦、さらにはその後の占領米軍による軍政と基地の重圧、悲願の日本復帰を果たして以降も、日本の米軍基地の七四%が集中し、日本政府の背信行為が続く。この現状は、なにも変わらない。
 そんな沖縄で、「世は直れ」「平和で豊かな世にしてほしい」という叫びは過去のことではない。「ユバナウレ!」はいまも生きている。そんなことを改めて痛感させられた。

     (終わり。2012年3月18日。文責・沢村昭洋)

追記

「ユバナウレ」について、沖縄県立芸術大学の波照間永吉教授が「『世ば稔れ』考」という論考を雑誌「沖縄文化」114号、115号に発表されていることがその後、わかった。波照間氏は、もともと「よ(世)」の語義は、穀物の稔り、実りのサイクルを意味すること、「ナウル」も穀物の「稔る」を意味する語として使われてきたことを解明している。説得力のある説明であるが、この拙文はそのままアップしておくので、関心のある方は、波照間氏の論文を読んでいただきたい。なお、FC2ブログの「レキオ島唄アッチャー」http://rekioakiaki.blog.fc2.com/で、波照間氏の論考のさわりを紹介しているので、そちらも参照していただきたい。

        2015年1月14日 沢村昭洋

 

 

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