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2012年3月22日 (木)

大漁唄がない沖縄の不思議、その3

薩摩の支配下で加重される年貢

琉球で漁業が発展しないばかりか、漁業も漁船の建造も抑圧された背景に、農業重視の勧農政策や林業保護の政策があった。では、海に囲まれた南島の琉球で、なぜこれほどまでに「勧農政策」が徹底されたのだろうか。そこには、琉球が薩摩藩によって侵略され、支配され、搾取された現実が横たわっている。

一六〇九年に琉球に侵攻した薩摩の島津氏は、琉球の検地をおこない、琉球の総石高を八万九千石余りと定め、島津への貢物(仕上世=シノボセ)は、年貢米九千石、ほかに芭蕉布、琉球上布、むしろなど納めさせることを定めた。八重山、宮古など先島には、人間の頭割りで年貢を納めさせる人頭税が強いられた。このもとで、王府は税収をあげて、薩摩への貢納を果たすために、百姓に対する苛酷な徴税を徹底した。年貢は、基本的には米や粟である。先島の人頭税は、現物で納入することが義務付けられていたので、他のもので代納することはできなかった。

たとえば、宮古諸島の池間島の実例を見てみたい。

「池間島は、もともと面積が小さいうえにやせ地が多く、島に住む殆どの人たちは漁業によって生計をたてていた。しかし一六三七年(寛永一四年)の人頭税時代に入ると、上納物はあくまで粟と上布であった。したがって穀納するためには、島に産するアワだけでは到底おさめきれず、そのため人々は人頭税を完納するために、あるいは増え続ける島人の食料をまかなうために隣の島に出向き、土地をたがやして粟などをつくるという、いわば出作り耕作をしなければならなかった」(『伊良部町漁業史』)。

薩摩支配による人頭税の施行前は、宮古島周辺でも漁業で生計をたてていた人々がいたことがわかる。でも、漁業を中心にして農業をおろそかにしていては過重な人頭税を完納できない。完納するためには、近くの島に出かけて耕作することまでしなければいけない。もっぱら漁業に従事して暮らすような余裕は、とてもなかったことを意味する。

薩摩の支配下では、沖縄本島から離島まで、民衆は過酷な徴税に苦しめられ、あえいでいた。しかも、台風や干ばつなど厳しい自然のもとで、凶作になればたちまち滞納に陥る。王府が厳しく取り立てをすればするほど、農村は疲弊し窮乏化した。

蔡温が農作業の手引書「農務帳」を配布し、百姓をもっぱら農業生産に従事するようにさせたのも、王府財政が窮迫するという事情からであった。つまり、百姓が魚獲りにばかり熱中して、農業をおろそかにすれば、王府の財政も薩摩への貢納も立ち行かなくなる。だから、漁をすることは抑圧の対象にさえなったのである。

202      平安座島のサングヮチャー。魚の神輿をかつぐ

海神祭の意味するものは何か

沖縄には大漁唄がない、少ないというと、「でも」と思い浮かぶのは、県内各地の漁港などで、盛んに行われている海神祭(ウンジャミ、ウンガミ)のことである。そこでは必ず豊漁と海の安全を祈願する。そして、ハーレー、ハーリーの競漕も盛んである。

これらを見ていると、海神祭は昔から、漁民の祭りで、豊漁や安全を祈願するのが当たり前のような感覚になる。でもこれは、必ずしも古い歴史と伝統があるものばかりではない。近年になって漁業が県内各地に広がり、発展していった中で、豊漁祈願の祭りが盛んになったものがかなりあるのではないだろうか。

といっても、もともと各地に残る海神祭そのものは古い伝統がある。しかしながらそ由来は、必ずしも漁師の祭りということではない。もっと別の姿をしている。

大宜味村塩屋(シオヤ)の海神祭の模様を、テレビの映像で前に見たことがある。塩屋の海神祭は、集落の豊作や豊漁を願う神事として国の重要無形民俗文化財にも指定されている。地域の拝所「アサギ」を巡り、神酒や舞をささげ豊作や健康を祈願する。歌や踊りを披露して祭事を盛り上げる。そこでは、海の彼方のニライカナイにいる神や山の神をムラに迎え、祭りの場で歌や踊りを披露してもてなすのだ。さらに、サバニを漕ぎ競う「ハーリー」が行われる。浜辺では各集落の女性が、腰のあたりまで海水につかり、にぎやかな歌や太鼓で男性の乗るハーリーを出迎える。

塩屋だけでなく、沖縄本島北部の海神祭は、共通して次のような特徴がある。

「国頭村から大宜味村にかけての一帯では、旧暦七月盆後の亥(イ)の日にウンガミが行われる。集落からやや離れた神アシャギと呼ばれる祭場にムラの女性神人が中心となって海の神、山の神を招き、神人が神と一体となって歌や踊りを繰り広げる(神遊び)。そして再び神々をもとの世界へお送りして祭りを終える。祭りの後日、臼太鼓がムラの女性達によってムラの広場で直会(ナオライ)として踊られることが多い」(久万田晋著『沖縄の民俗芸能論』)

海神祭では、何を祈願しているのだろうか。

大宜味村謝名城(ジャナグスク)のウンジャミは、漁労や狩猟の模倣儀礼を行ない、村の女たちの祭りであるウシデーク(臼太鼓)と呼ばれる踊りで歌われるウンジャミのウムイは、つぎのような歌意である。

「海の彼方ニライ・カナイからこの島にいらっしゃって、神さまたちは神遊びに慣れ、踊りに慣れておられるから、この狭い島ではさぞかし踊ることもできず、神遊びもし足らず踊り足らないことでしょうが、どうか精いっぱい楽しく歌い踊ってください」(矢野輝雄氏著『沖縄舞踊の歴史』)。海の神、山の神に歌や踊りを楽しんでもらうことによって、豊作や健康の願いをかなえていただきたいという趣旨だろう。

大宜味村の塩屋・田港(タミナト)・屋古(ヤコ)のウンガミの神歌のなかで、ノロ(神女)の祈願の内容を見てみたい。
 「ニレー、竜宮から、甘種子を、鷲の鳥が口にくわえていらっしゃり、庶民の食え幸せ、新たな幸せ、作物の満作をお助けくださり、海からの寄り物、恵み物もお助け下さい」(『やんばるの祭りと神歌』から訳文で紹介)。やはり一番の願いは作物の豊作である。また海から恵みの寄り物があることを願っている。海からの寄り物とは、漁業ではなく、海岸には様々な漂着物があり、しばしば恵みをもたらしたことを指す。

海の祭りでもう一つふれておきたいのは、勝連半島沖にある平安座島(ヘンザジマ)の「サングヮチャー」である。旧暦三月三日に行われる。この時期は、一年で潮の干満がもっとも大きい時で、浜下りという伝統行事がある。女性が浜に下りて身を清めるとされているが、実際には浜に下りて遊ぶ日であり、「女の節句」といわれる。
 平安座島のサングヮチャーは、琉球王時代から約二〇〇年続く、伝統行事である。大漁や豊作を祈願する由緒ある祭りである。こちらは、二〇一一年四月に初めて出かけて、実際に行事を見ることができた。

075     

集落の拝所で、ノロ(神女)が並べられた二匹の生きた魚の一匹を、銛(モリ)で突いて肩に担ぎ舞い踊る(写真)。そして魚を捧げる「トゥタヌイユー」という儀式が有名である。この後、タマン(和名ハマフエフキ)の形の大きな神輿を若者たちが担ぎ、島の南東約四〇〇㍍沖にあるナンザ島に海を歩いて渡り、島にある御嶽(ウタキ)に祈願してくる行事である。

集落の拝所では歌と踊りを奉納する。突いた魚を肩に乗せて踊る時、次のような意味の歌が歌われる。

「ニライの海 カナイの海 マクブ魚は砂を掘って隠れる タマン魚は渦を巻くように群れを成す 白網を大きく張れ 一心にひけ 獲り込み網ですくいあげよ 大銛を打ち込んで突き捕獲せよ 大型のマクブは ノロ様に差し上げよう 美味なるタマンは ノロ様に差し上げよう」

豊漁や豊作への願いが込められているようだ。また、祝いの場では必ず演奏される「かぎやで風節」や、その替え歌も歌われた。替え歌の歌詞を紹介する。

「♪海人(ウミンチュ)ぬ願や 波風ん静か ちりてぃちゅる魚(イユ)ぬ羽ぬ美(チュ)らさ」
(歌意・漁師の願いは波風が静かで海は穏やか 獲れる魚の羽が美しいことよ)

この替え歌はあまり古い感じがしない。でも、この行事は見るからに、海人の祭りのようだ。王府時代から続いているとすれば、例外的な行事だろうか。

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