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2012年3月 1日 (木)

人頭税哀歌、その3

定額人頭税で楽なったのか?

一六三七年に制度化された人頭税は、二〇年余り後の一六五九年には、定額になったという。宮古、八重山から王府に納める貢租額が一定であるという意味だ。定額制は「人口の変動によらず、毎年の納税額を一定にする」ものであるとし、あたかも人頭税の性格が変わったように見る見解がある。でも人頭税の過酷さに少しも変わりはないというか、よりひどい結果をもたらしたという。というのは、なぜ定額になったのかをみるとはっきりする。人頭税を導入した後、過重な負担などによって、八重山など人口は減少した。人口が減れば、納税額も減ることになる。そこで、宮古、八重山それぞれに「これだけは必ず納めろ」という責任額を定め、人口の増減によって集める税額が影響を受けないように税制を変えた。だから、人口が減っても、作況が悪くても、定められた年貢は責任をもって納めなければならない。ここに定額人頭税の本質がある。

実際に定額制で、人口が増えて税額が低くなるのなら、農民たちは子どもを多く産み育てるだろう。実際、先に見たように、一六八〇年頃から一時は人口が急増した時期があった。しかし、一七七一年に「明和の大津波」で八重山・宮古諸島で一万二千人にのぼる死者・行方不明者を出した。その後も災害や疫病の流行、大飢餓が相次ぎ八重山で人口は激減する。「八重山の受難時代」と呼ばれ、その後も人口は増えない。人口が増えれば人頭税が定額で軽くなるのなら、「産めよ増やせよ」となるはずだが、現実は逆だった。嬰児埋殺や間引きが横行した。188

 大津波で打ち上げられたと伝えられる石垣市大浜の大岩

先島から王府に納める貢租額が一定であったとしても、農民の家族単位で見れば、納税額は一定ではない。それに王府への貢租以外の付加税がとても多い。だから子どもが増えて、一五歳になれば納税の義務が生じ、一家の納税額は増える。いまでも重税にあえいでいるのに、これ以上増えればとても納められない、となるのは必然だろう。それに、貧窮する家庭では子どもを何人も養うこと自体が、とても苦しい。たとえ子どもを育てても、「納税ドレイ」のように生きるという、親と同じ苦しみを味あわせるだけだ、という思いがある。これらが、非道なことだとわかっていても、赤ちゃんの埋め殺し、間引きに走らせる動機となったようだ。

さすがに首里王府も、これには頭を悩ませたようだ。首里王府が布達した文書に次のような記述が再三出てくる。「八重山では人口が増えれば上納や公役が増えると考え、生まれた赤子を埋殺するという人間とも思えない行為がある。⋯⋯人の守るべき道にはずれ、とんでもないしわざである」(「与世山親方<ヨセヤマウェーカタ>八重山島規模帳<キモチョウ>」)

「結局諸役人の者たちが勝手なことを行ない、百姓の難儀を顧みずいろいろ理不尽な取り扱いをして辛苦を受けさせているところから、百姓どもにあっては情を失い、ついに右のような邪俗(流産したり赤子を育てない風俗を指す)になってきていると聞いている」(「御手形写抜書<オテガタウツシヌキガキ>」)

王府は、こうした悪習を止めさせるように再三、指示している。そして、人口の減少はゆるがせにできない問題であり、一九世紀半ばには、子どもを男女五人以上か男子ばかり四人出産した者は夫婦とも免税にする、という優遇策をとった。といっても、免税分は村の他の者たちの負担になった。

また、障害者も後年になって年貢を免除されるようになったが、やはり村の他の者たちの負担とされた。なかには、あまりの重税に、自分の手足を切断して「疋人」(障害者)になって重税を免れようとする人も出てきたという。自殺者や脱村者らも出た。

子どもが多い家族や障害者など免税にし、免除の対象者が増えれば増えるほど、その負担は、村全体にのしかかってくる。これも定額人頭税のなせる結果である。

「定額人頭税制度になってからの村全体の敵は、なんといっても脱村者、不具廃疾者、妊婦、産褥中の婦人および多子養育中の婦人等であった。したがって、村にとっては人口を制限して、村全体の税額を減らすという手段をとったり、あるいは村一円のすべての人々が不具廃疾者、産褥中の婦女の少ない状態をつくりだし、村の全人口が定額人頭税完納にむかって、邁進できる少数精鋭主義の傾向にむかわざるをえなかった」。大浜氏はこう指摘している。

注:産褥(サンジョク)とは、妊娠・出産による体の変化が妊娠前の元に戻るまでの期間をいう。

泣く子を柱にしばり布を織る

一五歳から五〇歳までの女性には、布を織り上納することが課せられた。人頭税の布には、米や粟の代わりに本租から差し引かれる上納布と、御用布があったそうだ。御用布は、王府や薩摩などから注文がくる。品種や数量が注文によって毎年変わった。御用布を織れば、本来は褒美として「代米」が出ることになっていたが、百姓には配布されず役人が掠め取っていたという。役人の腐敗ぶりがうかがわれる。

貢布がいかに女性を苦しめたのか、竹富島で実際に上納布を織った女性からの聞き取り記録から紹介する(『人頭税廃止百年記念誌あさばな』の石垣久雄氏の論文より)。

上納布を織るのに五人一組のグループがつくられた。「五人組は年に七反を上納しなければならなかった。役人が指定した難しい模様を、工夫してこなすのは大変な作業だった。五人は原料の栽培に始まり、糸紡ぎから染め、織り、布晒しまで共に連帯して責任を持たされた。当時は今と違って地機(ヂバタ)で布を織った。納期が迫ってくると女頭(ブナジィ)の指導の下に、琉球松のたいまつを灯して幾晩も夜なべした」。Photo_2    地機で布を織る女性。石垣市の博物館に展示されている写真

地機とは、表紙の図にあるように、織り手が地面に座り込んで織る原始的な機織りのことだ。一反織るのに気の遠くなるような時間と労力を要したという。「女頭」とは村番所に奉公する女性で、役人の補助役をしたようだ。

貢布は、身分の高い者は簡単な布を担当し、紺細上布など難しい布は平民が負担したそうだ。経糸が二〇ヨミ、一八ヨミ(ヨミは本数の単位)といった細かい麻糸で織られる紺細上布は、細かい糸を紡ぐには高度の技術が要され、染色から織り手まで熟練者をそろえなければならない。上納された宮古上布、八重山上布の多くは、薩摩に送られ「薩摩上布」となって、将軍に献上され、全国にも流通した。

織物の縞柄(シマガラ、絵形)は王府や薩摩から指定されてきた。複雑な絵形になると、一日に二、三寸か四、五寸織るのがやっとで、一反を織りあげるのに二、三カ月かかる。割り当ての三反を織るのに、なんと半年を要したという。これだけ苦労して織りあげる宮古上布などを、織った女性たちは貢納するだけで、自分たちはいっさい身につけることはなかったという。

作業は自宅ではなく、村番所の織布小屋で行われた。小屋は劣悪な環境だった。

「織場は暗黒いところに十数人が雑居し、布筑(ヌノチク)とよばれる者の監督を受けて、織立に従事し、多数の幼児は母を慕って舎外に群集していた。獄舎のようだったという」。織女はここで一年の半分ほども働かされたという(島尻勝太郎著論文「宮古農民の人頭税廃止運動」)。これは宮古島の実例である。

八重山も基本は同様だが、つらい夜業が多かったようだ。

「織物に手を着けるまでは、婦女は毎晩番所に集合し、松明の光で苧麻(チョマ)糸を紡ぎ、佐事補佐(サジブサ)と称する監視役の下で夜業を強行させられた。昼は野良仕事で疲れ、夜は夜業に酷使される。まったく残酷の一語につきるというものである」「昼間の野良仕事で疲れて居眠りでもする者があれば、佐事補佐は、長い竹でその女を叩いて目をさまさせ、ふたたび夜業を強制する」

上納布の納入期日までに完納するため、女性たちは不眠不休の努力をした。

「飢えて泣く子に乳を呑ませるために手を休めていても、役人は容赦なく鞭をふるった。女は心を鬼にして、泣きわめく子を柱にしばりつけ、仕事をしたのであった」(大浜信賢著『八重山の人頭税』)。

織女に布を織らしている様子を歌った民謡がある。「アシャギ節」という。

「♪村番所内の離れ屋は 極上の御用布を織るために建てられた 昼夜兼行で 機織りに努めなければならない 御用布を品よく美しく織って 縞柄も見本通りにしたら 安心して 上納でき、国王の御恵みに浴しましょう 油断するなよ、乙女らよ 粗雑な織り方をするな、女たち 精神こめて織る中に 果報がやってくるのだ」

唄は、織女を監督する役人の側から見た内容だ。織女の苦労は無視されている。

織り終わっても苦労は終わらない。これからが大変だった。先の竹富島の例だ。

「上納布が出来上がると、舟を仕立てて石垣の蔵元に納めに行った。調筆者(書記官)と呼ばれる検査官が待ち受けていて、布を受け取ると一反一反を竿に掛け点検を始める。皆『無事合格しますように』と緊張して待ち受けていると『あやはり!(柄ずれ)』と怒鳴りつけ、竿の向こう側に布を投げつける。あまりに厳しさに泣く泣く拾い上げて、女頭と何とか気を取り直して五人は糸抜きで模様合わせをやり、再検査に臨むのであった」。

厳しい検査が無事すみ、納付が終わる(収納切)と、「○○○の組(女頭の名前)は収納切したよ」と竹富島の各部落をふれ回り、完納の喜びを太鼓や拍子木をたたきながら唄を歌ったという。「布ヒカシジラバ」という曲だそうだ。

離島では、織りあげた布を役所に納めるのも一苦労だった。舟に乗り運ばなければならない。西表島に「古見(コミ)の浦のぶなれーま」という唄は、その様子を描いている。

「♪古見村のブナレーマは美与底(ミヨシク、古見の異称)の乙女だった 初夏になったので 貢ぎ布を取り持って 前の浜に走り下りて 自分の舟を押し出して 貢ぎ布を取り載せて 蔵元のある石垣島に走り下り 役人様のいる親島に飛ばしてき」(要約)

織った布を石垣島に舟で運び、海岸の仮小屋で泊まり、蔵元へ納めた。「この間、役人にたいしての世話役を強制的にさせられて帰るという習慣であった」と伝えられる(喜舎場永珣<キシャバエイジュン>著『八重山の古謡』)。

織りあげた布を検査する際に、役人が職権をカサにきて、目を付けた女性を自分のものにするという、横暴が絶えなかった。これは「愛と哀しみの島唄」で詳しく書いたので省略する。布で貢租を納めるのを「反布代納」というが、八重山の貢租の中で、「反布代納」が五五%を占め、宮古でも貢租の中で「反布代納」が五七%を占めたという。つまり、貢租の半分以上は女性の織る上布などだった。だから、人頭税のひどさは、布の上納に典型的にあらわされたともいわれる。

賄女をめぐる悲哀

前の拙文では、織女のこととともに、島に赴任してくる役人を接待する賄女、現地妻を差し出させることが横行していたことを詳しく書いた。人頭税時代の古謡には、この悲哀をテーマにした唄がとても多いので、もう少し書いておきたい。これは、人頭税の仕組みとは直接関係がないように見えるが、そうではない。

琉球のなかでも遠い宮古、八重山諸島の隅々まで、人頭税を貢納させるため、役人を配置した。役人が離島に赴任するときは、妻を同伴することは禁じられていた。役人は、米や粟、上布など年貢を納めさせるために、絶大な権力をふるった。これらが背景にあって、村の美女に目をつけては、わが物にする。各村では賄女、現地妻を差し出させる、ということが起き、数々の悲劇も生まれたのである。

役人が村の美人に、どれほど手を染めたのかを示す古謡がある。黒島の「まんがにすざ節」という唄を紹介したい。

「♪宮里村にお越しのお役人は 西表家のクマチという評判娘を賄女に望んでいた」。

仲本村では本原家の器量の良いンガイ女を、東筋では高峰家のブナリ女を、伊古村では屋良部家のマントウ女を、保里村では前盛家のタマニ女を、保慶村では赤嶺クジィラ女を、賄女に望んだ。

このような歌詞が続く。この唄は「黒島に赴任した役人が、各村々の美人で、気に入る女を賄い女にする為に、物色して歩いた、封建時代の支配者の権威と風習を謡ったものである」という(小浜光次郎著『八重山の古典民謡集』)。

石垣島平得(ヒラエ)には「なかしょうじぃぬなびゆんた」という唄がある。

「♪ナカショウジィ家のナビ(名前) あなたの夫は誰か ナビは夫はいない」

「♪これほどの美女 夫がいないといえようか」

「♪縛ったら答えるか 搦んででも問い聞け」

「♪縛られての答えは 目差主(助役)も私の夫 当たる親(村長)も私の殿 それだけではない 嘘である」

「♪縛られないうちに答えようと 筑補佐(チクブサ、役職名)も私の夫 佐事補佐(同)も私の殿」

役人たちが村の美人に、競って手を出していたことがうかがわれる。「縛ってでも問い聞け」と責めているのを見ると、村人からは快く思われていなかったのだろう。 

八重山の古謡は、しばしば人間を猫やカニに置き換えた唄がある。人間のままでは役人批判があまりにも露骨になり、弾圧されるからだろう。石垣市新川の「まやゆんた」は人妻を猫に置き換えている。「まや」とは猫のことだ。

「♪猫が子どもを生んだ 五匹の可愛い子どもを生んだ 七匹の可愛い子どもを生んだ 五匹の子どもに乳房を噛み吸われて 七匹の子どもたちに乳房を噛み吸われて あまりにも出し汁が欲しさに 年中で最大の干潮時が来たので 浅瀬を歩いていたら 夫婦蛸を見つけて 取って帰りに あいにく士族の青年に見つけられてしまった がんじがらめに縛られて 大石垣の役人宅に連行され 妻になれと強要された 家の中柱に二重に縛られて お米のご飯を与えられたら 家の子どものことを思い 喉を通らず 泣くだけだった」(歌詞は要約)

なんと残酷な仕打ちだろう。平民は士族・役人のこんな略奪的なやり方にも、抵抗もできなかったのだという。擬人体で猫の唄にされているので、この古謡も歌うのが許されたのだろう。せめてもの役人の悪行への痛烈な批判が込められている

賄女あるいは旅妻について、付け加えておくと、これらは首里王府から公認されたものではなかった。むしろ、やってはならないと禁じられていた。

「村詰の役人や筆者(書記官)が、賄女として所管の村の正女(一五歳から五〇歳までの女性)の内から抱え、上納物を免除し、その分は他の百姓どもに負担させて迷惑させ、そればかりか昼夜宿に詰め切りにさせ、夫も持つことも出来ず、婚姻の支障となることは勿論、(生まれた子を)士族に掠め入れる原因にもなっていて、どうかと思うので、必ず取り締まりを申し渡し、もし守らない者は、右の女の負担すべき上納物の弁償を申しつけた上で、役職をも解任すべきこと」

八重山にいる王府の役人らに布達された文書(「富川親方八重山島規模帳」)に、こう記されている。これは明治八年(一八七五年)の布達である。明治になっても横行していたのだ。これより一〇〇年以上昔の一七六八年に出された「与世山親方八重山島規模帳」でもやはり、役人が公用で村々に行くとき、賄女を抱え置く者がいるが「今後は賄女として村々に抱え置くのを止めること」と命じていた。王府は、表立っては再三、禁じたけれど、現実にはなくならなかった。それは、やはり人頭税の徴税の仕組みのなかでは、役人の横暴は起こるべくして起きたのだろう。

  

   

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