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2012年3月20日 (火)

大漁唄がない沖縄の不思議、その1

大漁唄がない沖縄の不思議

 このテーマですでにブログにアップしてあるが、ダウンロードしないと全文が読めない形式だったので、改めでそのまま全文が読める形式で紹介する。

はじめに

沖縄といえば、周囲を海に囲まれていて漁業は盛んだ。沖縄本島でも離島でも漁港はとても多い。爬龍船の競漕・ハーリー、ハーレーは、各地で盛大に行われる。そこでは、豊漁と航海安全を願う行事だと言われている。
 こうした光景を見ていると、沖縄ではどこでも昔から漁業が盛んだったのだろう。豊漁を願う祭り、行事も古い伝統があるのだろうと思いがちである。でも、ちょっと不思議なのは、そんな祭り、行事ではどこでも軽快な民謡が流れ、踊りも登場するけれど、豊漁を願う唄、大漁唄はあまり聞いたことがないことだ。

民謡でとっても多いのは、農作物の満作豊年、五穀豊穣を願う唄、そして豊作で幸せな世を意味する「世果報(ユガフウ)」「ミルク世(ユ)」を願う唄である。そして夏となれば、各地で豊年祭や年貢を完納したことを祝う祭りがとても盛んだ。

日本民謡だと、大漁節、大漁唄い込み、ソーラン節などすぐ頭に浮かぶ。なのに、この沖縄はこれだけ民謡は多いのに、ほとんど大漁の唄は聞いたことがない。海人(ウミンチュ、漁師)の町である糸満市の伝統あるハーレー(サバニによる舟こぎ競争)を見に行っても、芸能船が出て民謡と踊りを披露していたが、登場するのは、「稲しり節」という稲作の唄や「だんじゅかりゆし」という海の安全を願う唄である。大漁の唄は流れない。テレビ、ラジオの民謡番組でも殆ど聞かない。なぜだろうか。そこには歴史に由来する原因があるはずだ。 069        奥武島のハーリーで勝利して喜ぶ漕ぎ手たち

その背景として考えられるのは、沖縄の漁業の歴史は意外に古くないのではないか、ということ。県内各地に漁港があり、漁業をしているのも、案外、その歴史は古くないのではないか。琉球王府の時代は、漁業を専業とする人々がいたのは、糸満など一部だったと聞く。本島でも離島でも大部分の地方では、魚を食料として獲ってはいても、それを生業とする漁業はなかったのではないだろうか。だから、大漁唄があまり生まれなかったのではないだろうか。そのように思った。

また、これだけ海に囲まれどこでも漁ができる条件がありながら、漁業といえば糸満といわれ、しかも糸満漁師が、石垣島や奄美諸島まで出かけて、そこに住みつき、集落を形成していたことも不思議だった。これだけ、各地に漁港があるのに、なぜ糸満漁師だけが遠くまで出かけていったのか。そこには糸満以外では、ほとんど漁業がなかったという事情があるのではないか。つまり大漁唄がないという事情と同じ原因があるのではないだろうか。そんなことが頭に浮かんでいた。

もうすでに結論を先に書いたようなものだが、そんな問題意識ですこし探ってみたい。

南島歌謡の中で大漁唄はわずか〇・二%しかない

琉球王府の時代は、糸満など除いて漁業がほとんどなかったといっても、魚を獲らないわけではない。古代から厳しい自然の南島に生きる人々にとって、海の魚介類はとても大事な食糧源でもあった。だから、魚介類をつねに獲って食べて生きてきたことは間違いない。しかし、琉球王府の時代には、それは、農業の合間に魚を獲る、自給自足の生活の補完する程度のものだった。なにしろ、王府に納めなければならない年貢は、米や粟、上布などが決められ、それを現物で納めなければならない。八重山、宮古など先島では、人間の頭割りで税金を課す人頭税が重くのしかかった。海産物を役人、王府に現物税として納めることもあったが、それは米や粟に代わるものではない。

私が通う民謡三線サークルで、練習する民謡一〇〇曲ほどの中には、大漁唄はない。魚を歌った曲では、有名な「谷茶前(タンチャメー)」があるぐらいだ。「♪前の浜にスルル(キビナゴ)が寄ってくるよ、あれはスルルじゃない、大和ミジュン(イワシ)だよ」と歌う。でも、豊漁を祈願する唄ではない。そのあと、「若い青年たちが、魚を獲り、娘さんが頭に載せて売りに行く、魚を売って帰りの娘たちの香りのかぐわしいことよ」と歌うから、やっぱり沖縄的である。

     写真は、餌づけされて寄ってくる魚(恩納村)

大漁唄がまったくないわけではない。先日、ラジオで流されていた民謡に大漁を歌った曲があった。「新川大漁節」という。ただこの曲の作曲者は普久原恒勇(フクハラツネオ)さんである。普久原さんは、「芭蕉布」をはじめ数々のヒット作がある現役の作曲家だ。だから戦後も一九六〇年代以降の作曲だと思われる。「をどる黒潮ユイサーユイサー 一番竿に銀のうろこがとびはねる ヒヤとびはねる ユイサーユイヒヤ」と歌う。歌詞はウチナーグチ(沖縄語)ではなく、ヤマトグチ(共通語)だ。いかにも新しい曲の感覚である。

他に、船と海をテーマにした唄、航海と安全にまつわる唄はいろいろあった。琉球から中国に往来した唐船を歌った「唐船(トウシン)ドーイ」、薩摩との往復の航海を歌う「上り口説(クドゥチ)」「下り口説」、戦後も沖縄と大和を結んだ船を歌った「通い船」、伊江島への渡し船を歌った「伊江島渡し船」など数々ある。

では大漁唄は、どれくらいあるのか、沖縄の古謡や民謡、島唄のなかでどれくらいの割合であるのか、確かなデータとして調べてみたい。それで、もっとも適当な資料として選んだのが琉球の古謡を集めた『南島歌謡大成―沖縄編』である。これに収録されている古謡のなかに、どれくらい漁業のことや大漁を祈願する歌謡があるのだろうか。これは沖縄本島に残る歌謡だけを対象にしているが、この大著に収録されている歌謡を数えると、合計九三六にのぼる。しかし、いくら探しても大漁の祈願らしい歌謡はわずか二つしかない。つまり〇・二%にすぎない。

大漁の歌謡であったのは、やはりというか現在の糸満市糸満に残る「ちなうるくーの祈願」である。訳文で紹介する。「子の方の御神加那志 国元の御神加那志 何性の人が 船を造ってありますので 子の方の御神も 国元の御神も 船に乗り込みなさって 何性(の人)が航海に行ったら いつも手柄を 懐に すぐ突っ込ませて下さって 又船のいっぱい 大漁させて 海に出ても 旅の行き戻りも 糸の上から(航海安全に) いい天気から 取らせてください」。分りにくい内容だが、大漁の願いと航海の安全が歌われていることは確かである。

もう一つは座間味(ザマミ)村に残る「大漁の物願い(かやーぬむんにげー)」である。

「マジョジ魚 マクブ魚 タマミ魚 ざ打ちする 羽打ちする 大息する 真亀魚(亀) 肝の限り 心の限り⋯⋯」と歌われる。書いても意味がよくわからない歌なので省略する。
 
ただし、魚を獲ったり、食べたりする模様が登場する古謡はいくつかある。八重山では「魚獲りに行こう」(「まれちゆんた=竹富島」)、「港にミジヌ魚(イワシ)が来ている パダラ魚が群れている」(「みなとゆんた=石垣市白保」、「新村ゆんた=黒島」)と歌う。儒良(ジュゴン)の登場する歌もある。「儒良の夫婦を料理しよう」(「はとぅままり」=竹富島)、儒良が網にかかり、食べようとするが儒良を許す(「古見の主=宮古島狩俣」)。これらは、魚を獲り食べる風景が歌われてはいても、大漁祈願の歌ではない。

いずれにしても、一〇〇〇近い歌謡のなかで大漁祈願の歌が、わずか二つということは、大漁唄はほとんど例外的にしかないということである。

もう一つ、琉球民謡から島唄ポップスまで収録した最新の『歌詞集 沖縄のうた』を調べてみた。収録した曲数は三七九曲にのぼる。でも、大漁唄は先に紹介した「新川大漁節」だけである。やはり〇・二六%にすぎない。それも民謡としては極めて新しい曲である。戦前からの民謡には大漁唄は皆無である。

 

漁業は糸満漁民だけだった

これだけ魚獲りや大漁を歌った曲がないということは、その根底に沖縄における漁業の現実がある。沖縄の水産業の歴史はどうなっていたのだろうか。『沖縄の歴史第二巻近代編』の「第三節水産業」から紹介する。以下はその引用である。

沖縄県は六十あまりの島々からなり、水産業を営むのには、地理的にすばらしい条件に恵まれていました。ところが一八七七年(明治十)代に、上杉県令の沖縄本島各地を巡回した際に、漁業に従事するのが少ないことを知り、漁業の奨励をしようとする意向をしめします。それに対し、国頭(クニガミ)地方の役人は「今は、負債を償却するため、精いっぱい力を尽している。その負債を償却したのち、網を結んで、舟を作って、人々に漁業を教える」と答えています。それからもわかりますように、納税に追いまくられ、負債償却のために「尽力」しなければなりませんでした。そのため農民は、漁業を営む余裕などなく、すばらしい条件を生かすことはできませんでした。したがって漁業を専業とするものはほとんどいませんでした。ただ農業のあいまをぬって「四人~五人ニテ引網スルノミ」(大宜味間切=オオギミマギリ)、あるいは「専業トスル者ナケレドモ、農業ノ間隙ニ漁ス」(名護間切=ナゴマギリ)という程度でした。しかし、そうしたなかで糸満漁民だけは例外でした(注・間切はいまの町村にあたる)。

 一八八八年(明治二十一)に、沖縄の水産事情を調査した西南地区中央水産調査員の報告によりますと、

「各島々の沿岸に住む人々、生活を営む途はおおむね農業を専業としており、漁業に従事する者はきわめてまれである。こうしたなかで、本島島尻地方兼城(カネグスク)間切糸満村は、管下第一の漁村で、その漁業に熱心なのは驚くべきものがある。その不完全な漁船にのって遠く数十里(一里=四キロ)もはなれた遠海に出漁している。また、ほかの島々に出稼ぎして、その遺利(イリ、とりのこされた利益)を収めるなど、けんめいに働いている。また、婦人もほとんど男の捕獲した魚類を市場におくるなどの労働に従事している。老若男女の別なく、村をあげて、一生漁業に従事している」と記録されています。

 それからもわかりますように、一八八七年(明治二十)代では、漁業を専業とするものはほとんど糸満漁民にかぎられていました。一八九四年(明治二十七)になっても五千名程度しかおらず、沖縄県の全人口の一パーセントというわずかな比率しかしめていません。

ここに引用したとおり、海のそばに住む百姓たちも、年貢を納税するのに追われて、漁業を営む余裕はない、だからあくまで基本は農民であり、漁業を専業とする住民は糸満以外にほとんどいなかったことがわかる。

漁業と言えば、すぐ頭に浮かぶのがカツオ漁である。沖縄はいまカツオ漁が盛んだし、カツオ節をつくり、たくさん消費する県である。でも琉球王府の時代は、カツオ漁はまったくなかった。当然、カツオ節という保存食の製造も知らなかった。カツオ漁とカツオ節の製造が始まったのは近代になってからである。

明治三一年(一八九八)鹿児島県人が慶良間諸島でカツオ釣り漁業を始めた機会に、島民が漁船の運用や漁法の伝習を受けたことなどが、沖縄本島でのカツオ釣り漁業とカツオ節製造の始まりだという。明治の後期である。

137          糸満漁港の旧正月風景

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