無料ブログはココログ

« 人頭税哀歌、その3 | トップページ | 宇栄原の拝所を歩く »

2012年3月 1日 (木)

人頭税哀歌、その4

怨霊になった女の無念

賄女について、「愛と哀しみの島唄」では、八重山の民俗や古謡に詳しい喜舎場永珣氏が「賄女は羨望の的だった」と見ているのは一面的な評価だ、と批判を込めて書いた。特典があったため、希望する女性や親もいただろうが、でも賄女になるのは恐れられたし、それを拒否して死を選んだ女性の古謡もあることを紹介した。これを書いた時は、まだ喜舎場氏に対する批判の論文は見たことがなかった。でもその後、この喜舎場氏の見方を正面から批判する論考を読んだので、やはり自分と同じように見ている人たちがいたことに心強く思った。

賄女の真実についての重要な証言があるので、この論考を紹介したい。八重山の黒島出身の當山善堂氏が書いた「『賄女』に関する一考察」(『人頭税廃止百年記念誌 あさぱな』)である。黒島の実例を記載している。

黒島のトゥヌスク・カマトさんの例は次の通りである(要旨)。

十六歳の時、黒島に赴任してきた目差役人の賄女となった。役人は任期満了により妻子の待つ石垣島に帰り、カマトは二人の幼児を抱えて黒島に置き去りにされた。その後、カマトは連れ子を持つ身で島の百姓と結婚して五男二女をもうけた。人並みには幸せだったかもしれない。ところが生前、カマトは胸をえぐるような言葉を繰り返し話した。「決して綺麗な女の子を産むもんじゃないよー。女の子は綺麗になるもんじゃないよー」。これは美人に生まれると、すぐ役人に目をつけられることを恐れたからだ。「カマトの悲痛・無念の叫びが、心に響いてくるではないか」と當山氏は記している。

ところが、なんとこのカマトは、実は當山氏の母方の曾祖母だという。まだこれだけで終わらない。カマトを賄女にして、捨てて帰った役人の系図を調べてみると、この役人と正妻との間の子どもの子、つまり孫にあたる人物が、なんと當山氏が人生の師匠と仰いでいる人だったという。なんと皮肉な結果ではないだろうか。

人頭税が明治後期まで続いたため、離島の狭い世界の中では、関係者や子孫がまだ生き、暮らしているのである。こんな実話を聞くと、人頭税時代の悲劇が身近にあったことを実感させられる。

もう一つ実話を紹介する。やはり黒島のフナットゥ・ブンタの例である(要旨)。

ブンタは飛びっきり色白の美人だったので、村番所役人の賄女として白羽の矢が立った。彼女はきっぱり断った。にもかかわらず村番所のある宮里村の役人宅まで無理やり連れて行かれた。それでもブンタは屋敷の後ろの石垣を乗り越え、逃げ出してわが家に帰った。再び強引に連れ戻されたブンタは、ひどい折檻を受けついに命を奪われた。ブンタには結婚を誓った人がいて、当時の習慣通り恋男は彼女の家に通い、そこで寝泊まりしていたともいわれる。無念の思いでこの世を去ったブンタの魂は、命を落とした宮里村と隣村の仲本村の近辺に怨霊となって夜な夜な泣き声を発し、火の玉となって現れた。この伝承は一切の記録がないという。

こんな言い伝えがあること自体、とても「賄女は羨望の的だった」と片づけるわけにはいかない。なぜ喜舎場氏ほどの見識ある人が、賄女については、美化ばかりするのだろうか? その謎について、當山氏は次のような見解をのべている。

喜舎場氏は、王府が先島を差別したことには敏感に反応するが、「いざ地元の離島、地域や女性に関する事象を捉える段になると、無意識のうちに『差別』意識が露呈してしまう」「今でも頻繁に聞かされうんざりするのは先祖が『士族』であったという石垣島四カ村(八重山の士族の九割が住む)の人たちの『某島の某家の子孫は士族の血を受け継いでいるから優秀なのだ』というような自らの血筋と結び付いた『士族意識』を振りかざした言い草だ」という。つまり、士族の家系の出身者は、いまだに「士族意識」にとらわれ、「差別意識」で見る傾向があるということに、その原因を求めている。045

    石垣島の川平湾。記事とは関係ない  

沖縄は、本土から見ればとても差別をされてきた。ただその沖縄の内部では、士族が多く住んでいた首里の出身の人はいまでも、士族の家系の出身であることを誇りに思っている。士族出身は百姓出身を、沖縄本島は、八重山、宮古島など離島を、見下ろす傾向があることはいなめない。

このように、役人が権力をかさにきて、女性を虐げたことが主要な問題だと思うが、ただし、賄女になれば利得があったため、貧しいがゆえに、希望する女性や親がいたこともまた事実だと思う。こういう側面も含めて、複眼的に見なければ歴史のリアルな認識にはならない。

ジュゴンも人頭税で上納した!

人頭税は、本租の米、粟、上布だけでなく、海産物や地上の産物など合計四八種類もの上木税(ウワキゼイ、物産税)があったという。現物で納めるものである。たとえば、海産物では、ナマコ、貝柱、トコロテン、ハマグリ、海人草(カイニンソウ、生薬になる)その他。地上の産物では、煙草、キクラゲ、菜種子油、綿花、唐竹(トウチク)、牛皮、松明その他あった。その他にも、船材や建築用材の伐り出しのため一カ月以上にわたる労役もあったという。

竹富島に「シキダブンの唄」がある(『八重山の人頭税』から)。

「♪四八種の上目税(物産税)や船具を納め なお本税である米穀七、八俵や御用布も首尾よく納め それでも生命があるのは奇蹟だ 自分の力ではなく 神霊の御加護のたまものだ」

神の助けでもなければ納めきれないほど人頭税が重税だったことがうかがわれる。

この物産税の中で、目を引くのは西表島の南にある新城島(アラグスクジマ)だけで納付すべき海産物に海馬(カイバ)、つまりジュゴンがあったことである。この島の周辺は、海藻が豊富で、ジュゴンの捕獲には適していた。島では、人頭税として米穀の他にジュゴンの肉を塩漬けにして王府に上納することを命じられていた。なぜジュゴンの肉が必要だったのだろうか? それは、首里王府では、この肉を乾燥させて貯蔵し、安産の妙薬として服用したと伝えられている。

島には、ジュゴンを祭った「海馬の嶽」(拝所)があり、捕獲のシーズンになると、島民はこぞってここに詣で、大漁祈願祭を挙行したという。海に出で、ジュゴンが海藻を食った場所を発見したら、網を張り、いったん帰る。「海馬の嶽」に詣で、大漁の祈りをささげた後、斧と鉈を神前から受け取って出る。網にかかったジュゴンの尾部の急所に向けて斧で痛撃する。仰向けになっているのを滅多打ちにして捕獲したという。

ジュゴン獲りの古謡が新城島にある。ジュゴンのことを「ザン」といった。文字通り「ザントゥリユンタ」という。

「♪新城の若者たちは シルビ山の中に入って アダンの気根を切り取って オーハマボーの表皮を剥ぎ取って 四日ほど干し晒して 大目の網を編み造り ザンを捕る漁船に大網を積み込みなさい 魚猟船をば漕いでみたら 白保の真謝村の東口まで ザン漁を探して行ったら 行き来してみたところ 潮が干いて見てみれば 儒良(ジュゴン)の夫婦が隠れていた 魚猟船に引上げて 漕ぎつ漕ぎつつ 我が島へついた 前泊に下ろしなさい 儒良を見るべく走ってきた」(要約)

ジュゴンを殺してその肉を塩漬けにするなんて、いまならごうごうたる非難を受けるだろう。これも人頭税のなせるわざである。

ちなみに、人頭税はすべてがお金による納付はだめで、現物で納付しなければならなかった。だから米や粟などを沖縄本島まで運搬した。その運搬の経費や運送中に目減りする分も、正租(王府の収入となる)、重出米(オモデマイ、薩摩藩に貢納する)に加えて、それらを合計して人頭割として徴収された。米や上布を売りさばいて、現金にすれば運搬の経費もいらないのに、明治時代になってもあくまで現物で納付させられた。また、米や粟など作物は指定されて、勝手に他の作物を作ることもできない。サトウキビが換金作物として栽培されるようになってからも、八重山、宮古ではあくまで米や粟の現物納入を義務付けているため、人頭税時代はサトウキビも自由に作れなかったという。

悪税への抵抗のうねり

先島に生きる人々への過酷きわまる人頭税と役人の横暴にたいして、住民はただ忍従するだけではなかった。さまざまな形での不服従と抵抗、抗議の声を早くから上げていた。その抵抗の一端は、「愛と哀しみの島唄」(下)でも紹介した。

伊良部島の「石嶺ぬあこう木ぬアーグ」という唄は、役人の側に仕えよという要求に、身を売ることを拒否した女性を描いていた。宮古島の民謡「豆が花」は、一七歳の娘を「俺にくれ」という役人が、拒めば難しい細物(クマムヌ)上布を織らせるぞと脅すが、これに屈しない娘と親の勇気ある抵抗を歌っている。

多良間島では、「旅妻」(現地妻)を求める役人にたいし、名指しされた娘の兄がイグン(銛)をもって反抗し、役人を追い払い、その後は島民全員が拒否するようになったと伝えられている。ここまで振り返って気づくのは、これらの抵抗はいずれも宮古島周辺と多良間島での抵抗であることだ。八重山諸島は見当たらない。古謡を探しても、抵抗の実話は探せなかった。これは偶然なのか?

004      多良間島は黒糖で有名だ。離島フェアーで。記事とは関係ない

これについて石垣島出身の大浜信賢氏はこう嘆いている。

「人頭税の苦しみは、八重山人にとっては宮古以上のものであったに違いない。しかし、八重山人の没法子(メイファーズ、なるようになる)的性格は、苦しみをはねのけようとする積極性もなく唄や踊りにうつつをぬかして、ほとんど泣き寝入りの形になっている」「これに対し宮古農民はまったく違う」。

こうのべて、人頭税廃止に立ち上がった宮古島でのたたかいを高く評価している。宮古島のたたかいは、この後詳しくふれたい。大浜氏は八重山を愛するゆえに、厳しすぎるのかもしれない。八重山島民は、表立った抵抗の姿は見えてこないが、さまざまな形で抵抗があったにちがいない。賄女に強要され、これを拒否して山に入り、死んでも屈従しなかった女性の唄も、その表れだろう。「安里屋ユンタ」で竹富島以外の島で歌われる唄は、安里屋のクヤマが、目差(助役)も与人(村長)も拒否して、夫にするなら島の男を選ぶという歌詞だ。ここにも、抵抗の精神が込められていると思う。

ただ、記録に残っている人頭税への抵抗と廃止の闘争は、宮古島や多良間島しかない。

人頭税が施行されてまだ四〇年もたたない一六七八年、多良間島民は、人頭税によるひどい徴税に抵抗して立ち上がった。「長期にわたる抗租運動を展開し、遂に地方権力に対して絶望的な蜂起を敢行した」という(西里喜行著「沖縄近代史における本島と先島」=『近代沖縄の歴史と民衆』)。もう少し中身を知りたいが史料がない。

多良間島民の反抗はたびたび繰り返されたようだ。

宮古島では一八四八年以後、数年にわたって島全体を震え上がらせた疑獄事件「割重事件』が起きた。地方役人が私腹を肥やすために、人頭税に割り増しをして徴収し着服していた事件だ。この割り増し徴収に苦しむ宮古島十数か村の農民たちの、積もり積もった不満が噴出し、王府も「放置すれば暴動の起きる機運となった。不正摘発に乗りださざるをえなくなった」。関係した一三人の役人らに王府への上国を命じたが、病気を口実に拒否したため、役人らは免職の上に流罪となった(『平良市史第一巻通史編Ⅰ』)。

多良間島でも一八五五年、「多良間騒動」と呼ばれる事件が起きた。税の割り増しは、多良間島でも行われていたが、王府による処分があった後も、島の役人は不正を改めようとしなかった。そこで島の農民たちは、島を管轄する宮古政庁(蔵元)を飛び越して、首里王府に直訴を企てた。

多良間島は、宮古と石垣島の間にある孤島である。海を渡って沖縄本島に行くのさえ、とてつもなく大変なことだ。でも代表五人は直訴状を持ち、くり舟二隻を筏に組み、七日かけて本島に到着し、王府に直訴した。直訴状は次のように訴えていた。

「島の役人たる砂川大主(スナカワウフヌシ)などは、上納のほかに、身勝手に課税し、私腹を肥やしており、島民はこの苛酷な重税に苦しんでいる。この実情を調査して適当な処置を考えてほしい」(『村誌たらま島 孤島の民俗と歴史』)。

王府は直ちに役人を派遣して、不正役人は捕えられ免職になり、主謀者は首里で断罪になったとも伝えられている。直訴した五人は銀のかんざしなど褒章を与えられたという。この行動は「人民の人民の名による最初の勝利の記録」と評価されている(『平良市史第一巻通史編Ⅰ』)。

一八六〇年には、宮古島で首里王府の悪政を非難した告発文書を、薩摩商人に託して、那覇にある薩摩在番奉行所に投書しようとする事件が起きた。「悪政に困弊する島民を公道の下に救ってほしい」というような嘆願文だった。薩摩藩に届かず王府の手に入り、投書しようとした、宮古島の元島尻与人(シマジリユンチュ)・波平恵教は処刑されたという。

断罪されたのは、王府を批判し薩摩に救済を直訴しようとしたからだ。村長格の元役人が薩摩に告発しようとしたことは、王府にも衝撃を与えただろう。

宮古農民の勇敢なたたかい

明治維新で近代に踏み出した日本のなかで、琉球も最終的に「琉球処分」で王国は廃止され、沖縄県に置き換えられて、帝国国家に組み込まれた。日本の一県となったにもかかわらず、沖縄の人民は、先島の人頭税をはじめ琉球王府時代の古い仕組みのままに据え置かれた。この古い制度を「旧慣」と呼んだ。「旧慣温存」に対して人頭税の廃止を求めて立ち上がったのが宮古島の農民らである。

明治国家の同じ国民となっても、内地と宮古は大きな違いがあった。反別当たりでみると、田では宮古農民は内地の二倍以上の税率で租税を取られ、所得は内地の五分の一に満たない。畑は内地の三倍の税率で租税を取られ、所得は二分の一に満たなかった(「租税減免請願之理由書」から)。このような歴然たる差別を受けていた。

明治二〇年代のはじめから、農民らが島役所に出かけて税金の減額を嘆願したという。とくに人頭税は廃して、地租に改めること、米や粟、上布など現物で納めることを廃して、貨幣で上納することに改正することなどを懇願した。しかし、何の取り計らいもないので、県庁にも出かけて嘆願したけれど、受け入れられなかったという。民衆の不満は高まるばかりだった。

農民の不満の爆発を恐れて、島役所や県庁は明治二六年三月、「名子」の廃止などを打ち出したが、逆に士族・役人が抵抗し、農民らは怒りを強めていた。おりしも宮古島に真珠の養殖の目的で来島していた新潟県出身の中村十作と糖業普及のため滞在していた那覇出身の城間正安がいた。「納税ドレイ」のような農民の惨状に同情し、島民の運動に協力し、リーダー格にもなった。

すごいのは、かつて直訴は禁じられていたが、帝国憲法には臣民に請願の権利があることに目をつけ、一気に東京に代表を派遣して国政を動かす運動に燃えあがらせたことだ。警察や士族・役人らの猛烈な妨害があったけれど、それをはねのけて一〇月には、中村、城間と宮古島の西里蒲(カマ)、平良真牛(タイラモウシ)の四人が島を出た。

上京した四人の代表団は、東京で新聞社一一社を歴訪し、人頭税法下での農民の惨状を訴え、一一社がいっせいに報道した。政府(内務省)と当時の貴族院、衆議院に人頭税廃止など求める請願書を提出した。当時、四人が実情を訴えた人物の中に、鳩山首相の曾祖父にあたる法学博士・鳩山和夫がいて、賛成してくれたという。鳩山首相はそんな史実は何も知らないだろう。

代表四人が島に帰ったのは五カ月後のことだ。上京と滞在の費用も農民たちが貧しい中で出し合って支えた。年貢の粟八〇〇俵を倉庫番二人の協力で売却して上京費用に充てる、という驚くような事件も起きた。倉庫番は捕えられ、拷問を受けたが、盗難分は農民がみんなで負担しあい、二人の身受けを求めたそうだ。

請願運動が実を結び、その後、政府は役人を沖縄に派遣して実情を調査した。貴・衆両院はついに請願を可決するに至った。明治政府も宮古島農民らの運動を放置できなくなり、長く続いた人頭税をはじめとする旧慣温存の政策を改めることに転換する。実際に人頭税が廃止されたのは、明治三六年の「地租条例」の公布であった。

人頭税廃止のあやぐ

「人頭税廃止のあやぐ」と呼ばれる唄がある。請願のための宮古代表になった平良真牛を歌っている。歌詞は真牛の出身地が保良だからか、「保良真牛」となっている。

「♪保良真牛が沖縄(日本)に行って (人頭税廃止の)使命を果たしてくれたら 宮古島三○カ村の男たちは あくせくと耕作する苦労もなくなり富貴の世になるだろう」

「漲水(パルミズ)のクイチャー」とこの後の歌詞は同じである。

二六〇年余にわたって、先島住民に筆舌につくせない苦しめ与え、数々の悲劇を作り出してきた非人間的な人頭税を、農民が力を合わせ、島外の那覇や大和の新潟の人間の協力を得て、請願権も行使してついに悪税の廃止まで勝ち取ったのは、沖縄の歴史の上でも燦然と輝く画期的な出来事である。

もちろん、人頭税が廃止されても、税負担がなくなるわけではない。古い土地制度や税制は改められ、土地の私有権を認め、土地を対象とする地租や県税などに転換された。現物納はお金で納めるように変わった。強制されていた作物も、自由に換金作物も作れるようになった。宮古上布、八重山上布など、女性が織った布は、自由に販売できるようになった。「名子」も廃止された。「人頭税を納めるためにだけ生きている」とも言われた「納税ドレイ」のような、前近代的な収奪と抑圧の体制から抜け出す大きな一歩となったことは間違いない。それは、先島の農民らが人頭税廃止に歓喜の声をあげたことに、なによりもはっきりと示されている。

その後、民衆が期待したように税金は軽減されず、地租は高額で、地方費も増大したという。また重税反対の抵抗の行動が宮古島では噴き上がったという。とはいえ、人頭税を廃止させた民衆のエネルギーと運動の意義をいささかも低めるものではない。歴史を一歩すすめた新たな段階のもとでの次の課題となったのである。

最後にふれておきたいのは、人頭税について王府への貢租の税率はそれほどではなく、地方役人の「中間搾取」がひどく、それが住民への重い負担になった、という見方がある。たしかに、そういう側面もあるだろう。しかし、薩摩に支配される王府が、先島住民に人頭税を実施し、徹底して搾り取るために、蔵元や村番所など役所の機構を整備し、役人を配置した。士族・役人が異常に多いことが、付加税を重くしている。百姓は、いわば自分たちをムチ打ち、年貢を搾り取るための費用まで自分で負担したということになる。

最大の責任は、薩摩に支配された首里王府にある。大津波の後「八重山受難」の時代に、飢餓が心配され地方役人が要望を出しても「薩摩からの借銀高」がかさみ財政がひっ迫していると拒否し、百姓に「農耕に精を出させ」るように命じる。大飢饉があり上納布を織る女が少なくなり、島が復興するまで御用布は減少してほしいと訴えがあっても、「数量に不足なく調える」よう命じるという有り様だ。しかも、役人は百姓を働かせて「収穫を効率よく収納する」という「功績」によって「昇進を申し付ける」と役人をあおっている(いずれも「御手形写抜書」)。

こういう王府の過酷な人頭税の搾りたての中で、権力を持つ役人は率先して徴税にあたり、税を「中間搾取」し、私腹も増やすという横暴や腐敗も生まれた。単に人頭税の税率の問題だけではなく、「人頭税体制」とでもいうべき収奪と抑圧の仕組み全体が、住民をここまで苦しめたのである。

さて、振り返ってみると、今回は「人頭税哀歌」と歌いながら、民謡の紹介は少ない。それはすでに「愛と哀しみの島唄」でかなり紹介ずみだったからだ。前の拙文と合わせて見ていただければ幸いである。

それにしても、不思議なのは、八重山や宮古は「民謡の宝庫」と呼ばれるが、この生きることさえつらい、非人間的なこの時代に、たくさんの民謡が作られ、歌い継がれてきたことである。しかも、人頭税による悲哀を直接のテーマとした唄がとても多い。

八重山では、民謡は役人がかなり作ったという。といってもそこには、住民の心情や願いが反映せざるをえない。でなければ、住民が唄に共感しない。唄も廃れるだろう。つらい時代の中でこそ、人々に愛されるたくさんの民謡が生まれたのだろう。民謡は特定の人のものではない。住民みんなの共有の財産である。そうでなければ、いま聞いて、歌っても感動を受ける豊かな民謡は生まれなかっただろう。そのことを改めて感じたことを最後に付記したい。

        (終わり、二〇〇九年一一月二五日 文責・沢村昭洋)

   

 

    


参考資料 大浜信賢著『八重山の人頭税』、稲村賢敷著『宮古島庶民史』、沖縄歴史研究会編『近代沖縄の歴史と民衆』、『平良市史第一巻通史編』、『伊良部村史』、『村誌たらま島 孤島と民俗の歴史』、『人頭税廃止百年記念誌あさばな』、山内玄三郎著『大世積綾舟(ウプユツンアヤブニ)』、喜舎場永珣著『八重山古謡上、下』『八重山民謡誌』、『新琉球史近世編下』から黒島為一著「人頭税」、『沖縄県史第一巻通史』、『同第二巻政治』、『同第二一巻資料編一一旧慣調査資料』、宮城栄昌著『沖縄の歴史』、新城俊昭『琉球・沖縄史』、小浜光次郎著『八重山の古典民謡集』、外間守善、宮良安彦編『南島歌謡大成』、石垣市史叢書『与世山親方八重山島規模帳』『富川親方八重山島規模帳』『目差役被仰付候以束日記』『御手形写抜書』、その他「やいまねっと」など関連サイト。

« 人頭税哀歌、その3 | トップページ | 宇栄原の拝所を歩く »

音楽」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 人頭税哀歌、その4:

« 人頭税哀歌、その3 | トップページ | 宇栄原の拝所を歩く »

最近のトラックバック

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30