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2012年4月

2012年4月30日 (月)

「遊びションガネー」の元歌

 首里のアルテで、宮古民謡の名手Tさんを中心として歌三線好きが集まった。民謡専門の人もいれば、ギターと三線の両方を弾ける人もいる。ウクレレ、マンドリンも登場。マンドリンで早弾きの「唐船ドーイ」も奏でた。それぞれ、味わいがあり、楽しいひと時だった。

 私は、「遊びションガネー」を歌ってみた。恋歌であり、上手く歌うのは難しいが、好きな歌の一つである。和訳で紹介する。

 「♪愛しい人の面影が立たなければ 忘れられる時もあるだろうに 」
 「♪気楽に遊んだ人の面影は あまり思い出すことはないけれど 愛しい貴方の面影は朝に夕に浮かぶ」
 「サーサースーリ ションガネー」の囃子が入る。

 カメラを忘れたので、写真がない。今夜の半月の写真である。

002 

 集まったみんなが、それぞれ好きな曲を歌った。そのなかで、八重山民謡唄者のsonoさんが「遊びションガネー」の元歌である、パナリ島(新城島)の「前ぬ渡節」を歌ってくれた。
 この曲の歌詞を「沖縄音楽大全データベース」から和訳で紹介する。

 「♪離(新城島)の前の渡(海) 波照間島の北の渡 スーリ ションガネ スーリ ショウライ」
 「♪糸を延えて(その上から) ご招待する 布を延えて(その上から) お供する 囃子」

 元歌だけに旋律は似ている。でも、微妙に違う。元歌は「遊びションガネー」と比べて、少しコブシを回すような表現がある。でも替え歌の方では、削がれてもう少しシンプルになった感じだ。sonoさんのきれいな声と歌のうまさと相まって、元歌の方がとても味わいがある。
 歌詞はまるっきり違う。「遊びションガネー」のような恋歌とは何の関係もない。新城島の王府時代の日常の暮らしの中から生れた曲だ。

 003        薄雲が少しかかり、おぼろ月夜である

 ある人の解説だと、新城島では米が作れないので、西表島に渡って米作り行っていた。その安全と役人の離島航海の安全を歌ったものだとのこと。ただ、ここで紹介した歌詞は、西表島ではなく、波照間島になっている。昔は、波照間島からも西表島に米作りに出かけていた。同じ歌で歌詞がいろいろあるのだろうか? その関係はまだよくわからない。

 八重山民謡は、本島で編曲し、歌詞を変えて、別の歌にした曲が20曲以上あるそうだ。ただ、編曲してよくなてっているのもあるかもしれないが、概して元歌の方に味わいがある。
 その典型が子守唄である。「あがろーざ節」は、本島では「子守節(クムイブシ)」となっているが、「あがろーざ節」は、歌うととっても味わいがあり、私も好きな名曲である。「子守節」になると、似て非なる曲となる。あまり歌う気持ちがわかない。不思議だ。

 

2012年4月29日 (日)

沖縄に漁業を奨励した上杉茂憲、その3

宮古島

離島の現状はどうだったのか。上杉県令は、久米島、宮古島、石垣島について巡回して報告している。ただし、久米島、石垣島には、漁業についての記述がない。記述があるのは宮古島である。

宮古島に渡った上杉県令は、「海猟を営むものはなきや」質問した。「猟する者はなきにあらされとも是を営業とする者はなし」と答えている。重ねて問答が繰り返された。「近海には魚少なきや」「甚多し」、「如何なる魚ありや」「永良部鰻、蛸、海賊(烏賊=イカの間違い?)、大蝦(伊勢エビか?)は最も多し」、「然らは已後農業の余隙を以て一層盛大に漁業を興すは如何」「尤も農業の余暇には魚漁を為す者あり唯専業とする者なきのみなり」。

そのあと上杉県令は「汝等の考にては如何思ふや当地は多分の荒蕪地も無き様に聞き及へり就ては富国の一助ともなるへきに付爾来は猶漁業を盛大にするの見込みなきや」と漁業を盛大にするように促すと、「如仰至極尤ものことと存するに付余暇次第漁業を盛大にする様心掛けへし」と答えた。また「糸満辺より魚猟に来る者なきや」「遇々に来る者あり」と答えている。

宮古島でも、魚を獲る者はいるが、あくまで農業の暇に魚を獲るにすぎない。漁業を専業とする猟師はいない。糸満海人が漁業に出かけていた様子がうかがえる。上杉県令は、宮古島は漁業の条件に恵まれているが、土地は開拓できる荒蕪地(荒れて雑草など生い茂った土地)はないので、漁業の振興を奨励している。島の役人らは、上杉の意見に「至極尤も」と同意しているが、あくまで「余暇次第漁業を盛大にする様心掛け(る)」とのべている。これは、農業を基本にしながら、その余暇に漁業をするよう心掛けるというのにすぎない。

045          石垣島の川平湾(文章とは関係ない)

八重山、宮古島では、貧富にかかわらず人間の頭割で税金を課す人頭税が強いられていた。人頭税は、米、粟、貢布など現物で納税することが原則である。たとえ漁業で収益をあげても、現金で納税することはできない。これでは、重税に加え現物納税を求められる庶民は、漁業を盛大にすることなど、とてもできない。

上杉県令は、県内を巡回することによって、王府時代の制度をそのまま残した「旧慣温存策により過重な租税負担のために疲弊の極にある県内の農村」の現実を見て、「二回に亘って根本的改革の必要を上申した」(『沖縄県史11』の「沖縄県日誌解題」)のである。「旧慣」は、先島の人頭税を始めとする重い税制と農地の個人所有を認めず、農民に一定の年限で耕作地を割り替える古い土地制度などが柱であり、農民はまるで「納税奴隷」のような存在にされたままだった。旧支配層と役人は、この旧慣の上にあぐらをかき、甘い汁を吸ってきた。だから、改革には強く抵抗した。政府は上杉の改革の上申に応じずに旧慣温存を続け、上杉県令を更迭した。

上杉県令が漁業を奨励した後、県内の漁業ははたして発展に向かったのか。上杉県令が巡回した七年ほど後、一八八八年(明治二十一)に、沖縄の水産事情を調査した西南地区中央水産調査員の報告がある。

「各島々の沿岸に住む人々、生活を営む途はおおむね農業を専業としており、漁業に従事する者はきわめてまれである。こうしたなかで、本島島尻地方兼城(カネグスク)間切糸満村は、管下第一の漁村で、その漁業に熱心なのは驚くべきものがある」と記録されている。一八八七年(明治二十)代では、漁業を専業とするものはほとんど糸満漁民にかぎられていた(『沖縄の歴史第二巻近代編』の「第三節水産業」)。

漁業の専業者の推移を見てみると、明治20年(1887)にはわずか1234人しかいない。明治25年(1892)でも1934人とあまり増えていない。明治26年(1893)に2684人に増え、明治27年(1894)5532人に増えた。といっても、先にのべたように、県内人口のわずか1%にすぎなかったのである。

さらに、上杉県令の巡回から22年ほど後の1903年(明治36)に書かれた『沖縄県土地整理紀要』の附録・第5章風土民物に、漁業の現状についての記述がある。

「本県の地勢上海岸線の長くして魚塩の利多きに比すれは其産額頗(スコブ)る少量にして、事業旺盛ならす」(『沖縄県史第3巻各論編2経済』、カタカナをひらがなに直した)と記している。また漁業者は4000余戸あるが、糸満、港川、久高島、奥武島など数カ所における専業者であるとのべている。

翌年に書かれた『沖縄県森林視察復命書』第1章総説でも、同様に「水産業者は六千余あれとも、地勢上海岸線の長くして魚塩の利多きに比し頗る不振にして⋯⋯」(同『沖縄県史第3巻』)とのべ、やはり海に囲まれ海岸線は長いのに、漁業は極めて不振であることを記している。

カツオ漁について、鹿児島県や宮崎県の漁業者からカツオ釣りの方法やカツオ節の製造を学んで、沖縄でカツオ漁とカツオ節製造が発展してくるのも、1900年(明治33年)代に入ってからである。
 鰹漁獲高を見ると、明治31~35年平均で1万300貫だったのが、明治42~大正2年平均では、39万2016貫と、明治後期から急増し、40倍近くになっている。(『沖縄県史第3巻』掲載の「農商務統計表」から)

このように沖縄でなかなか漁業が広がらなかったのには、他にもいくつかの要因がある。たくさん魚を獲っても、売りさばく大きな消費地が近くにない。遠隔地に運ぶには、鮮魚を保存する必要があるが、沖縄には、魚を干物にする習慣がない。豚肉の塩漬けはあっても、魚の塩漬け、醤油漬けもない。冷凍の氷もない。
 大和の場合は、日本列島には海からは遠い、内陸部や山岳地方がたくさんあり、海産物の保存加工が発達した。たとえば、富山で獲れたブリが、塩漬けされ飛騨地方に運ばれ「飛騨ブリ」として野麦峠を越えて信州の松本に運ばれた。駿河(静岡県)、相模(神奈川)から海産物が塩漬け、醤油漬けの保存加工されて、海のない甲斐(山梨)に運ばれた。中でもアワビは馬で運ぶうちに醤油がしみてちょうど良い味になった。「鮑の煮貝」として山梨の名産である。京都も海のない都には、各地から保存加工された海産物が集まった。ニシンの干物である身欠きニシンを使ったニシンそばは有名である。015

    牧志公設市場でのマグロの解体ショー。沖縄は生マグロが美味い

沖縄は島国だから、干物や塩漬けをつくる必要はなかっただろう。県内のどこでも、沿海部や海に近い場所なので、いつでも魚は獲れるからだ。これは、昔だけではなく現代でも同じである。沖縄産の干物を食べたいと思っても、どこにもない。スーパーで干物を売っているのは、たいていが九州など大和産である。

しかし、これらは、漁業があまり発達しなかった背景としては、副次的な要因にすぎないだろう。根本的には、王府時代以来の農業重視の政策と過酷な税制が続いたからである。

宮古島では、上杉が巡回した10年余り後、1892年(明治25)から、農民たちは人頭税の廃止を求めて立ち上がった。人頭税廃止運動は、沖縄県の歴史でも画期的な庶民の抵抗運動だったが、実際に人頭税が廃止されたのは、それからさらに10年後1903年(明治36)である。

人頭税を始め、王府時代からの古い土地、税制の「旧慣」は、農業による搾取が基本とされており、農業重視の政策を続けられてきた。地方役人は、漁業を奨励されても、実際にはなかなか漁業の振興に力が入らないし、農民は漁業にいそしむ余裕はなかっただろう。

1899年(明治32)にようやく旧慣改革に向けた土地整理が始まった。旧慣が改革されたことが、糸満など一部の地域ではなく、沖縄県内の各地で漁業が発展する条件を切り開いたのではないだろうか。これが、私なりの勝手な推理であり、結論である。

 (終わり。二〇一二年四月二六日   文責・沢村昭洋)

 

 

2012年4月28日 (土)

沖縄に漁業を奨励した上杉茂憲、その2

大宜味間切

国頭地方の大宜味では、村中を視察し、海浜に出ると「土人の漁業を観る、疎拙笑ふへし」とのべている。庶民の暮らしむきに目を注いだ上杉県令といえども、まだ沖縄人を「土人」呼ばわりする偏見が横行する時代だった。海辺で観た漁業の様子は「笑ふへし」と評しているのは、まだよほど漁の仕方が稚拙だったのだろうか。

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            大宜味村喜如嘉の山々

国頭間切

国頭番所では上杉県令が質問した。「此辺海浜なり、漁業する者はなきや」。これにたいし「村々の寄留人漁業をなす、其他村々に45人つゝあり、唯釣りするのみ」と答えている。さらに「近辺の海には魚居るならん、其場所を知るや否」と質問すると「多分にあるなり」と答えた。再度「魚鰕(エビ)多しと云えは、汝等に奨励したき事あり、此辺山もあり、畠もあるけれとも、将来人口繁殖すれは、自然に田畠不足を生す、農隙(ヒマ)に漁業を教へ、村方の立安き様に、致し度と思ふが、汝等の意見は如何」と質問と意見をのべた。これに対し「現今は一般債務償却のため、精々尽力中なれは、全消却の後、網をも結ひ、舟をも作りて、人民に漁業を教ゆへし」と答えた。

海辺で魚も多いのに、漁業をする者は少ない。上杉県令は、国頭は山も田畠もあるけれど、将来、人口が増加すれば、田畠も不足することを心配して、漁業を教えることを奨励している。役人の答弁で注目されるのは、債務が多いことだ。債務を返済し終わったあとに、網や舟を造って、漁業をすることを教えたいと答えている。といっても、実際には重い債務の返済は容易ではなかっただろう。

 

安波村

安波村に行くと、川があった。「安波川は沖縄第一の川なる由、大雨等にて、洪水はなきや」「川魚生殖する様子なり、魚釣するものありや」と質問すると「川幅広きゆへ、水害なし」、「(魚は)小児遊戯に捕る位なり」と答える。
 「海に漁業するものはなきや」と聞くと、「漁夫なし」、さらに「海荒きゆへ、魚少きや」と聞けば「潮汐の時に漁することあり」と答えた。上杉県令は「漁業は大利あり、間切へも申出て、汝等周旋して、村民に漁業を教えなは、利潤あらん」と説いた。
 さらに、採薪や耕田などで暇がない、漁業をするのは非なりと思うのか質問すると「漁業を教ゆるも、利ありと思へとも、其術を知らさるを如何せん」と答える。さらに「然らは此上は、汝等周旋して、役所にも申し出て、人民に漁業を教ゆる事に尽力せよ」と強調した。
 安波村でも、漁業に従事する漁夫はいない、漁業に利があると思っても、漁業する術を知らないと答えている。ここに、食料として魚を獲ることはあっても、漁業を生業とするような、漁師もいないし、その技術もないという、この時代の現状がよく表れている。

今帰仁間切

今帰仁番所で上杉県令は、ここでも「漁業のものはなきや」と質問した。すると「磯辺に居る者、少々漁せり」と答えたので、さらに「活計に致すか、将た自用に充るのみか」と問うと「本部羽地辺に、販売するなり」と答えている。上杉県令は、ここでも「漁業は大利あり、汝等着意して、益々其利を興すへし」と説いている。

今帰仁あたりは、少しは漁をして、それも自家用の食料とするだけではなく、本部や羽地あたりにも販売に行っていたとのべている。北部の山原地方で、少しでも漁をしていた今帰仁は、例外的な存在だろう。

浜本村

ここでも「漁父(夫)はなきや」と質問すると「釣りするなり」と答え、「多く獲るや」と聞くと「能く釣り獲るときは、四五十斤を得るなり、其漁夫は糸満村の者30人位、当村の者は10人位なり」と答えた。上杉県令は「瀕海(海がせまる意味)の地なれは、漁業は村方の大利ならん、漸次漁父の増加する様、汝等尽力せよ」と説いた。

浜本村では、魚をよく獲る者はいるけれど、大半は糸満の海人(ウミンチュ、漁師)であり、地元の者は少数であることがわかる。

名護間切

名護番所で上杉県令が質問した。「此地は瀕海なり、漁業する者はなきや」「糸満辺より来り、漁りする事あり、然し当年は当地飯料不足せし故、彼等皆伊江島に移転す、当地は大漁なく、松魚(カツオ)なともとれさるなり」と答えた。さらに「村方に於て、漁父はなきや」と問うと「専業とする者なけれとも、農事の間隙に漁す」と答えた。
 これを受けて上杉県令はここでも次のように意見をのべた。「汝等の見込みは如何、意ふに当地は土地瘠せ、甘蔗(サトウキビ)を生せす、然れは後世人民の繁殖するに随ひ、貧民も加わるへし、幸に海に瀕し魚多し、因て農隙に漁業を興す見込みはなきや」。これに対し「当地は瘠土なり、培養に注意せさるへからす、故に漁業に遑(イトマ)あらす」と賛同しなかった。

上杉県令は納得せず「培養に夫れ程、日時を費耗せすとも、宜しかるへし、是迄巡回せし、瀕海の諸間切、漁業は何れも嫌へり、是は村方の大利となるへきものなるが如何」と重ねて質した。「田畑を耕作す隙に、採薪して利を得、余力あれは、草を刈りて、肥料となし、且つ藍を製して、大利を得、故に人民一般、漁業するを好ます」と漁業の振興に抵抗した。上杉県令はさらに「薪を販売する、一年の額幾何なるや」と問うと「大利とはならす、唯日用の物品を購求するのみ」と答えた。

これを受け、上杉県令は「漁業を起すは、大利ならんと思ふ、故に猶是事件は、所長に協議し、汝等も篤と勘考せよ」と説いたので「皆拝す」と記している。

名護では、漁業についての意見はそうとう執拗である。これだけ海に面し、魚も多くて絶好の条件に恵まれていながら、それまで巡回してきた間切、村々は「漁業は何れも嫌へり」とのべている。これまでの対応には、納得できないのだろう。魚を獲っても農業のひまにするぐらい。県令が漁業を起こせば大利になることを説いても、土地が瘠せているから、培養が必要で、漁業する暇がないとか、薪取り、草刈りなど忙しい、さらに「漁業を好まない」と言い逃れをする。あれこれと口実をのべて抵抗する役人に、県令が我慢ならない様子がうかがえる。

これほど、間切の役人たちが、県令が漁業は大きな収益があると奨励しても、抵抗するのはなぜだろうか。そこには、琉球王国の農業を税金の基盤とする政策があったのだろう。当時は、糸満など以外には、漁業を専業とするほどの技術もない、漁業をさせても、税収はさほど上がらない。それより農業で確実に搾り取ることを重視したのだろう。

006       海に浮かぶ古宇利(コウリ)島、屋嘉地(ヤカチ)島

恩納間切

 恩納番所で上杉県令は「此地は海に瀕す、漁業の者ありや」と質問した。「谷茶村より上は、地狭き故、漁業者多し但し獲もの多きときは、日々百斤位、少なきときは十日も獲ものなきことあり」と答えた。
 上杉県令はこれを受けて「後来人益繁殖すれは、地益狭隘(キョウアイ)とならん、況や当地は地狭く、且甘蔗なし、現今漁業者あるは、誠に幸福と云うへし、将来篤く注意して、其漁具の便否を研究し、自今益漁業者多からしめよ」と意見をのべた。

さらに「平生漁し獲る魚は、何等の魚なるや」と尋ねた。「ガツン魚、シユク魚、ヒウ魚等多し、カツヲは甚少し、又蛸もとれるなり」と答えた。

 ここでは、谷茶村には漁業する者が多いけれど、漁獲量は多い日もあれば獲れない日もあり安定していない様子が見える。沖縄民謡でも有名な「谷茶前(タンチャメー)」がある。「谷茶前の浜にスルル(キビナゴ)が寄ってきているよ、スルルじゃない、ミジュン(イワシ)だよ」と歌われる。多少の漁をしていたことが歌でもわかる。ただ、恩納は海岸線が長いのに、漁をしていたのは谷茶くらいだったのだろうか。

 上杉県令は、漁業者がいることは「幸福」だと讃えたうえで、将来は人口が増加するけれど土地はせまく甘蔗もないので、漁具もよく研究して、漁業者を増やすように進言している。

このように、上杉県令が本島各地を巡視した結果をみても、日々の食料として魚を獲る者はいても、漁業を専業とする者は、糸満以外にはきわめて少ない。漁業をするといっても、あくまで農業の暇に漁業をするところがほとんどであることがわかる。

『沖縄の歴史第二巻近代編』の「第三節水産業」でも次のように指摘している。

「上杉県令の沖縄本島各地を巡回した際に、漁業に従事するのが少ないことを知り、漁業の奨励をしようとする意向をしめします。それに対し、地方の役人は『今は、負債を償却するため、精いっぱい力を尽くしている。その負債を償却したのち、網を結んで、舟を作って、人々に漁業を教える』と答えています」。
 しかし、実際には、農民らは、「納税に追いまくられ、負債償却のために『尽力』しなければなりませんでした。そのため農民は、漁業を営む余裕などなく、すばらしい条件を生かすことはできませんでした。したがって漁業を専業とするものはほとんどいませんでした⋯⋯そうしたなかで糸満漁民だけは例外でした」。

2012年4月26日 (木)

沖縄に漁業を奨励した上杉茂憲、その1

沖縄に漁業を奨励した上杉県令

 「琉球処分」で琉球王国が廃止され、沖縄県になってから2代目の沖縄県令(いまの知事にあたる)に上杉茂憲(モチノリ)がいる。上杉は県内各地を巡礼して『巡回日誌』を残したことで知られる。1881年(明治14)5月18日に任命され、一カ月をかけて本島の南部から中頭、国頭まで全35間切(いまの町村)を巡回した。さらに久米島、宮古島、八重山の各島々をそれぞれ半月にわたり視察した。
 東北の米沢藩出身で最後の藩主だった上杉が、自分の県令として職責をまっとうするために、まだ交通も不便だった時代に、県内の離島を含めて巡回して、つぶさに記録を残していることは、驚くべきことだ。そのなかに、沖縄県発足の当時の沖縄の漁業の現状をうかがう記述がいくつもある。

 すでに「大漁唄がない沖縄の不思議」で、海に囲まれた沖縄で、日常生活に食料として魚を獲って食することはどこでもあるが、魚を獲ることを専業とする意味で、漁業を営む地域は、糸満以外にはほとんどなかったことを書いた。これを書いた時も、上杉県令が国頭(クニガミ)地方を視察したさい漁業を奨励したことを書いておいた。

Photo

 

でも、『巡回日誌』を詳しく読むと、沖縄での産業振興の上で、漁業の条件に恵まれながら、漁業が盛んでないことに留意して、漁業をめぐる事情を聴取して、たびたび意見をのべている。その中から、目についたおもなものを紹介しておきたい。

 注・原文はカタカナだが読みにくいので、ひらがなの表記とした。「間切(マギリ)」とは、いまの町村の単位。いくつもの村で構成されており、「村」はいまの字にあたる。

 兼城間切糸満村

当時の糸満村は、首里、那覇(当時は別の自治体)に次ぐ「一大部落」だった。糸満は「漁業を以て恒産とす」。そして「漁し獲る所の魚鰕(エビ)は、皆那覇に運搬して鬻く(ヒサク、売る)、該地沖縄漁業の鼻祖たるを以て、本島沿海の地は無論、先島諸島等へ派出し、その利権を専にす」とのべている。
 つまり、糸満村は漁業を専業として営み、漁で獲れた魚やエビなどはみんな那覇に運搬して売りさばいている。糸満は、沖縄の漁業の先進地であり、本島の沿海部から宮古、八重山の先島にも進出して、漁業を繰り広げ収益をあげていることを明らかにしている。

 勝連間切津堅島

勝連番所で津堅島(ツケンジマ)の様子を聞いた。「人口400人、蕃薯は他間切に比すれば、味最も宜し、往々輸出をなし、農業の余力を以て、漁業に尽力す、浜比嘉島、大概津堅島に同し」。あくまで農業が中心であり、余力で魚を獲っているようだ。

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         豊漁を祈願し魚の神輿を担ぐする平安座島の伝統行事・サングヮチャー

 与那城間切

                  

与那城番所で、平安座島(ヘンザジマ)、宮城島などの概況を聞いた。「薯麦米豆等を産し糧食に不足なき内、平安座は、少々不足なり、然し漁業の利を以て之を補助す、高離(宮城島)伊計の二島は、島中の作物を以て、自活するに足れり」。ここでは三島のうち、宮城、伊計の二島は農産物で食料が足りるが、平安座島は足りないので漁業をしていることが紹介されている。なぜ平安座だけ足りないのか、農地と人口の関係なのだろうか。ただ平安座はかなり昔から、漁業をしているらしい。
 番所で、「今平安座島を、巡視せしに、漁業の具を認めざるは如何」と質問すると「皆漁業稼きの者、出船せし跡なり」と答えている。ここでは、農業の暇にというよりも、みんなが漁業に励んでいる様子がうかがえる。

2012年4月25日 (水)

中西繁「廃墟と再生」展を観る

120425_113601_2  洋画家・中西繁さんの「廃墟と再生」展が4月25日から始まり、浦添市美術館に観に行った。5月6日まで。中西さんは2010年、やはり同美術館で「棄てられた街in沖縄」展を行い、強い感銘を受けた。

 中西さんは、もともと建築家。その傍ら絵を描き、パリの雨に濡れた街など描くとピカ一。とても情緒がある。人気のある画家の一人である。その中西さんが、1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに、壊滅に陥った都市を描きだし、「廃墟」をシリーズで書き続けている。

 Photo  アウシュビッツ、チェルノブイリ、サラエボ、ベオグラード、ヒロシマ、神戸など「廃墟」が展示されていた。廃墟は美しくない。普通は絵画の対象になりにくいだろう。しかし、中西さんが描いた「廃墟」は、無言の中に、廃墟をつくりだした戦争、人種差別、原発事故、震災などによるすざましい破壊、人間の命と尊厳の抹殺などを描きだす。圧倒的な迫力で観る者に迫ってくる。

2 上の絵は、チェルノブイリの石棺。前にも見ているが、東北大震災のあと、福島原発の事態を見ると、生々しく迫る。
 前回からの2年間に大震災が起きた。中西さんがテーマとする「廃墟」シリーズの対象は、本来新たに起きてほしくはない。でも、不幸にも日本で、未曾有の破壊と「廃墟」をもたらした。中西さんは、南三陸の「廃墟」を長さ6・48㍍もある大きな作品に描いていた。絵の前に立つと、あたかも大津波の被害の現場に立っているかのように錯覚させられる。災難に遭った人々のことが胸をよぎる。

Photo_2  展示のもう一つのテーマが「LAND・SCAPE(ランド・スケープ)」。ヨーロッパの歴史ある街、パリの雨にぬれた歩道など描いている。廃墟を見終わったあとで見ると、色彩の美しさ、街の明るい風景になにかホッとする。上の写真では、上段が「棄てられた街」、下段が「LAND・SCAPE」である。

Photo_3 沖縄の風景も、ブセナビーチの夕陽、首里城の2点が展示されている。これは前回も観ていた。この「廃墟」と「LAND・SCAPE」は、相反するようであるが、都市の破壊と創造というか、つながっているものがある。廃墟の街もかつては、みんな美しい、人々が生き暮らしてきた街である。戦争や災害は一瞬にしてそんな人間の営みも町並みも破壊するのだ。
 この都市と廃墟を見る中西さんの絵には、建築家としての見識と視点が生きているように思う。

 中西さんは、あいさつ文の中で、戦争や核兵器、原発依存を厳しく告発し、平和と安全を守る重要性を訴えていた。熱い心を持った画家である。

 中西さんが、美術館のエントランスホールで、絵の公開制作を行っていたのには驚いた。その絵は福島原発の惨状を描いていた。下の写真は、その模様の写真が撮れないので、裏側から撮ったものだ。中西さんも写っていない。ただ、これだけ大きいカンバスに描いていることが分かるだろう。精力的に絵筆を持って描いていた。
  「廃墟」の絵はどれも大作である。廃墟にたたずむとその破壊の凄まじさに気分は決して高揚しないだろう。だが、これだけの「廃墟」の大作は、内面から突き動かす、ほとばしるような情熱、使命感、エネルギーが持続しなければ、とても制作できないだろう。そんなことを感じさせられた。

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 前回も今回も、これだけの絵画展なのに、無料である。確か、前回も沖縄に作品を運搬するだけでも多額の費用がかかるけれど費用持ち出しで、沖縄の人たちに見てもらいたいと、展示をしたと聞いた記憶がある。今回も恐らくそんな努力があるだろう。中西さんと美術館関係者に感謝したいと思った。

 

白い夾竹桃が咲く

 夾竹桃といえば、ほとんど見かけるのはピンクの花だ。近くの漫湖公園では、いま白い夾竹桃が咲き乱れている。

016_2  夾竹桃は、葉っぱが竹のように細く、花が桃の花に似ているから、この名前がついたという。桃の花はピンクだから、夾竹桃はピンクが多いのだろう。でも白も黄色もあるという。

018  インド原産で、江戸時代に中国を経由して日本に渡ってきたとのことだ。大和では、「夏に咲く花 夾竹桃」と歌われ、夏の花のイメージが強い。でも、沖縄では、咲いていないのは、短い冬の間だけといってもよい。恐らく3月から11月まで咲いている。

019  といっても、あくまでピンクの夾竹桃のこと。白い夾竹桃は、咲きだすのは4月くらいだが、ピンクの花ほど長くは咲かない。
 それに花びらも写真で見るように、一重咲きだ。ピンクの花は、花びらが幾重にもある八重咲きが多い。同じ夾竹桃といっても随分違う。

027 花びらが落ちると、下にある葉の上に乗っかっている。なにか風情がある。

 ただ、夾竹桃は有害な防御物質をもつため、害虫はこないという。

021  

 白い夾竹桃は、テニスコートの周囲の金網に沿って咲いている。花びらは、コート内にもたくさん落ちてくる。たくさん咲くわりには香りはしない。

 でも白い夾竹桃はすがすがしくて、ピンクの花より好きだ。022

2012年4月24日 (火)

炎のようなアフリカンチューリップツリー

 火炎木が近くの漫湖公園はじめあちこちで咲いている。名前の通り、炎のような赤みがかったオレンジ色が青い空に映える。ノウゼンカズラ科の花。火焔木ともいう。003  西アフリカ原産で、英名ではアフリカンチューリップツリーというらしい。なんとなく、花の雰囲気が伝わる名前だ。火炎木も、花を表している。

 004  4月にデイゴより少し早いくらいに咲きだす。ネットで見ると、1年を通じて咲くと説明があるが、沖縄では、一年中は咲かない。4月頃から年に2,3回は咲く。

032 日本では、沖縄や小笠原諸島で庭木に植えられているとのことだ。デイゴなんかのように枝は横に張るのではなく、高く伸びている。10㍍余りは高さがある。枝の先に、大きくて派手な花を咲かせている。

008  落ちた花びらもデカイ! この火炎木とジャカランダ、ホウオウボクを合わせて「世界の三大花木」と呼ぶそうだ。このうち、ジャカランダは、沖縄では見かけない。嘉手納にあるとういうが、まだ見たことがない。次に嘉手納に行った時は、見てみたい。

025  この写真を見れは、名前の由来がわかるだろう。

2012年4月23日 (月)

デイゴ咲く。でも少ないなー

 沖縄の県花であるデイゴが咲きだした。といっても、少ない。なぜだろう。

046  このデイゴは、那覇市内の与儀公園。公園内にはたくさんデイゴの木があるので、咲いている木がボツボツある。

051  でも、デイゴの木全体からいえば、10分の1以下の木でしか咲いていない。わが家近くの漫湖公園では、いまだまったく咲いていない。

048  デイゴは、害虫のヒメコバチにやられて咲かない、木が枯れる被害が広がった。でも今年咲かないのは、ヒメコバチではない。
 デイゴ並木が続く「デイゴ通り」と勝手に名付けている那覇ー糸満の県道7号は、とにかくデイゴの木は異常に葉っぱが繁っている。葉が多過ぎる木は、だいたい花は咲かない。
 デイゴが咲かない年は、台風が少ないのではないか。昨年はデイゴがよく咲き、台風が本島に何度も直撃した。デイゴも台風も気象の状態により、変わるから、なにか因果関係があるかもしれない。

050  まだ咲く寸前のものもあり、これからもっともっと咲いてほしい。台風は来なくていいけれど。

2012年4月22日 (日)

フォーク歌手ふーみーが三線を弾く

 かぐや姫のカバーが得意なフォーク歌手ふーみーが、読谷村にあるJAの農産物直売所「ゆんた市場」の1周年記念イベントに出演した。
 糸満にある「風は南から」でのライブには毎月、行っている。今月も26日、行く予定だが、読谷に行って見たいと思い出かけた。 リハーサルから三線を抱えていた。いつもギターしか見たことがない。でも三線も弾けるので、地元青年会のエイサーの地謡(ジカタ)をやっていることは知っていた。でも、実際に三線を弾くのは見たことがなかった。

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039  ふーみーは、恩納村でも西の読谷村に近い仲泊に住んでいる。読谷は準地元のような場所だ。演奏が始まると聴衆が増えてきた。

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 三線では、オリジナル曲「南の島(フェーヌシマ)」で始まった。とてもテンポのよい曲。三線の早弾きのテクニックがスゴイ。ギターで鍛えているからだろうか。
 情け唄「肝(チム)にかかてぃ」「島人ぬ宝」など島唄を披露する。

032  ギターに持ち替えて、「サザンオールスターズも歌ってみようね」と言って「平和の琉歌」も歌った。ギターを持っても、いつものフォーク、かぐや姫はやらない。

040 もう一度、三線に持ち替えて、最後はカチャーシー。みんな踊りだす。わがツレもピンクのウェアー姿で踊った。
 糸満ライブに行っても、見れないふーみーが見えた。観光客を相手に店で演奏をしているから、そういうプログラム構成で今日はやったようだ。

 014  ふーみーの後は、読谷高校のダンス部が踊った。なんと、ダンス部には、ふーみーの娘さんが参加している。上写真は、リハーサル。

042  本番で踊るこの4人のうち1人が、娘さんだ。
 実は、ふーみーはこのダンスの音楽も担当していた。このときは、フォーク歌手というより、娘さんのパパという感じだ。彼は、とても子煩悩でもある。

2012年4月18日 (水)

琉球村を探訪、その2

 琉球村の古民家を見た後は、サーターヤー(製糖風景)の広場に出た。

031  中央にサーター車がある。牛が回るとこのサーター車が回り、車と車の間にサトウキビを差し込むと汁が絞り出され、カスのキビが出てくる。牛をひくのは若いにーにーだが、サトウキビを差し込むのはおじい、おばあ仕事のようだ。

032  のんびりした作業風景である。「昔はどこでもみんなこんなサーターヤーがあったさねえ」とサークルの仲間が話す。「サーター組」があり、共同作業で黒糖をつくっていた。
 ここでの、黒糖つくりは、昔の風景を見せる見世物のようだ。このキビの搾り汁を煮詰めて黒糖にする。

 そばに売店があり、黒糖を売っていた。ツレの土産にピーナッツ黒糖を買った。「これって、ここで作っているの?」と尋ねると「いや、これは伊江島産ですね」という。袋のシールを見ると、確かに「伊江島産」だ。伊江島はピーナッツの産地だからだ。
 でも、その伊江島のピーナッツを前に買って、販売元に問い合わせると「これは伊江島産でなく、中国産ですね」と言われて、ビックリしたことがある。まあ、そんなものらしい。

033  なぜか水車がある。これも昔ウチナー風景なのだろうか。

 一回りして出てくると、レストランがある。

034  団体客は2階で用意されていた。沖縄そばにすこし料理がついた。昼になると、「ちゃんぷるー劇場」で、芸能ショーが始まった。最初は 琉舞の「四つ竹」。

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 続いて軽快な「汀間当(ティーマトゥー)」「谷茶前(タンチャメー)」などの踊り、さらには「兄弟小節(チョーデーグヮーブシ)」などの歌三線を披露した。「谷茶前」は、地元の恩納村が舞台の歌だ。民謡には珍しく、「スルル魚(キビナゴ)が浜に寄ってきてるよ」と魚が登場する。

041  地謡(ジカタ)の若いにーにーは、早弾きでもなかなか上手だった。

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 出口近くに、達筆の書の屏風があった。「これ、なんと書いてあるのかなあ?」とおじいが首をかしげていた。見ると、「万国津梁之鐘」に刻まれた銘文である。琉球が日本、韓国、中国など東アジアの諸国との友好と交易を通じてかけ橋となり、諸国の物産があつまり、栄えている様子が記されされている。職員がこの書の原文と意味を書いたコピーをもってきてくれ、おじいも納得していた。

042  ツレへの土産はこの「ふ泡ふ泡石けん」。なんと「ハブ油」が入っているとか。いま人気商品である。でも高いので箱では買えない。ばら売りで買った。
 琉球村は、沖縄の古くからの暮らし、民俗、文化をひとあたり知るのには手ごろな施設である。ただ、より詳しく知ろうとすると物足りなくなるろうが。一度見ておきたかったので、ピクニックで行けたのは幸いだった。

 

琉球村を探訪、その1

 私が通っている三線サークルで、4月恒例の遠足というかピクニックがあった。行き先は琉球村。県内各地から、古民家が移築されている。国・登録有形文化財になっている。

001  初めて行った。国道58号線から旧国道に入る。恩納村山田にある。うっそうとした森が続き、その昔、フェーレー(盗賊)が出没したのもうなづける。「フェーレーはいつまでたんだろうね」とHさんに聞くと「明治までいただろうね」とのこと。

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 入り口すぐに旧仲宗根家がある。築約200年。読谷村の座喜味(ザキミ)から移築した。
 屋根のシーサーがとっても面白い恰好だった。

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旧島袋家。名護市羽地より移 築した。築約120年。

004  大きなカメがいくつもある。おばあたちは懐かしそうにみる。「これで天水を貯めたよ」というのは宮古島出身のおばあ。もう90歳近い。「この前も愛媛行ってきたよ」とまだ元気、元気。「うちでは水汲んできてこれに貯めてたよ」と元バスガイドのHさん。今帰仁村出身だ。
 生活には欠かせないカメだった。話が少し異なるのは、水事情が多少違うのだろ。

 豪農の家だった、旧島袋家では、三線の体験をさせていた。なぜか、教えるのはチョンダラー(京太郎)、エイサーでは道化役である。013  旧西石垣家は石垣市から移築した。築約80年。まだ新しい方だ。機織り体験や漆喰シーサーの絵付けもさせている。

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 旧比嘉家。南城市玉城百名から移築した。築約129年。女性が琉舞の練習をしていた。 

017  カメがあるのは、泡盛の古酒をつくるさい、古い泡盛に少し新しい泡盛を入れて「仕注ぎ」をする。そのやり方を説明していた。そこでなぜ、踊りの練習なの? 見せるためではない。

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 旧大城家。那覇市首里から移築。王府の重臣、与那覇親方(ウェーカタ)の邸宅。築約200年。ここでは、お茶を飲ませていた。でも入り口でおじさんが変わった三線を弾いていた。

023  三線の胴は一つで、棹が二本ある。それに下の棹は6本の弦を張れる6弦。上の棹は通常の3弦だ。「下の棹は本調子、上の棹は2揚と調弦を変えて使い分けているのですか?」と質問した。答えは違う。「下はね、早弾き、上は情け歌をする。聞いてみてごらん。合っているだろう」とさっそく、下の棹で早弾きを弾き鳴らし、上で「涙そうそう」をつま弾いた。

 なるほど。サークルのメンバーはみんな三線をやっているから、興味しんしん。応えるのも嬉しそうに話す三線おじさんだった。

022  旧大城家を支える柱は、曲がった木を生かしている。長いくなるので、このあとは、次にしましょうね。

2012年4月17日 (火)

ヒージャー(ヤギ)が遊ぶ大石公園

 那覇市識名の大石公園でテッポウユリを見て帰ろうとすると、リヤカーに金網を積んだおじさんに逢った。「ユリきれいですね」とツレが声をかけると「きれいでしょう。ユリだけでなく、ヒージャーもいるので見ていって下さい」というではないか。

 「?そういえばヤギがいる話を聞いたことがあるな」と思い出した。「22頭いるんですよ。その他に4頭おもろまちの銘苅古墳群にいます。ええ、あそこもこちらのヒージャーですよ」と言う。銘苅古墳群を前に見に行ったとき、ヤギが数頭遊んで草を食べていたことを思い出した。

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 「あそこのヒージャーは、草を食べさせるために放し飼いにしているんです。草を食べてくれるので、草刈費用が年間150万円節約になるんですよ」という。スゴイ!120416_094201

  「ヒージャー愛好会ですか」とツレが聞くと「名刺をどうぞ」と取り出した。そこには「大石公園ヒージャー愛好会会長 大城永一」と記されている。ヒージャーを愛して、この大石公園で放し飼いにしている。ヒージャーのフンはユリの肥料にもなっているとか。大城さんはこの活動で、ヒージャーたちは「那覇市DU協働まちづくり 協働大使」に任命されている。
 

 公園を一周すると見えるとのこと。回っていくとヒージャー小屋が見えてきた。小屋にいるだけではなく、なんと上写真のように、岩山の上に5,6頭が群れている。なぜ、岩山にいるのか? ヒージャーは高いところが好きだという。狭い岩の頂部にせめぎあい、群れている。  

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 小屋にいるヒージャーは、自由に出て草を食べられるのに、小屋でエサをやると、ずぼらなのか、外に出ずに金網の中でウロウロしている。
 でも、見ているとやがて、ヒージャーは角と角、頭と頭を思いっきりぶつけ合う「ヒージャーオーラセ」を始めた。闘牛ではなく「闘ヤギ」である。
 優しい顔をしたヒージャーだが、闘争本能はすごい。後ろ足だけで立ち上がり、頭を振り下ろしてゴツン、ゴツンとぶつけ合う。「ヒージャーオーラセ」は、北部の瀬長島、名護市勝山など有名である。120416_094503

 それにしても、小高い山のような公園の自然を生かして、金網で仕切るだけで、ヒージャーを放し飼いにして、子どもたちにも見て、触れ合えるようにする取り組みには感心する。大変な時間と労力、費用を伴うのに、「協働大使」の肩書に誇りをもってやっているようだ。

041  こちらは、銘苅古墳群で草を食べるヒージャー達である。前に撮ったものである。

2012年4月16日 (月)

大石公園で満開のテッポウユリを見る

 那覇市識名にある大石公園 でテッポウユリが咲いているというので、見に行った。120416_091501_2  ここには6000株のテッポウユリが植えられているとのこと。駐車場から出て公園の入り口にさしかかると、もうユリの甘い香りが一面にただよっている。

120416_091603  公園は、小高い山になっている。その入り口の斜面の道の両側にテッポウユリが咲いている。もう満開だ。まだ蕾もあるが、一番の見ごろだろう。120416_091602  もう4年ほど前にも見に来たことがある。テッポウユリといえば、伊江島のユリ祭りが有名だ。昨年、行った時は、まだ早くてほとんど咲いていなかった。ことしも、4月21日からユリ祭りが始まるようだ。でも恐らく那覇市内の方が暖かいので早く満開になっているだろう。

120416_091702  このユリは、ユリの名産地である沖永良部島の和泊町(ワドマリチョウ)の有志から贈られた花だという。素晴らしいプレゼントではないか。沖永良部といえば民謡の「永良部百合の花」がある。前も紹介したけれど、戦前からアメリカにも輸出してきた。だから歌詞では、ユリのことを「黄金花 島によ咲かさ」「百合や捨てぃるなよ 島ぬよ宝」「百合つくてぃ遊ば 砂糖つくてぃ暮らさ」と歌われる。

120416_091604  ユリを宝のように大事にし、ユリをつくって遊ぼう、サトウキビと黒糖をつくって暮らそう、と歌う。私の持っている歌詞では、5番目に「出船入船ぬ和泊ぬ 港ヤリクヌ 百合ぬ賑わいに 島はよ明ける」と歌われている。多分、ユリを出荷するのに、和泊の港に船が出入りし、にぎわいを見せていたのだろう。そんな風景が目に浮かぶ。

  120416_095001 テッポウユリは、美しい花なのに、鉄砲の名がつくのはふさわしくない気もする。ただ、ユリの花が四方八方に 鉄砲のように開いていることは確か。一株に平均して5、6輪の花が咲いている。中には、上写真のは、12輪咲いて、まだ蕾が3輪ある。すごい咲き方だ。平均5輪としても、6000株なら3万輪の花となる。那覇市内では、大石公園はユリの名所である。

  公園は高い地にあるので、眺めは最高。那覇市内が一望できる。夜は夜景もきれいだろう。120416_092501

2012年4月15日 (日)

日本復帰を願うトゥバラーマを歌う

 首里赤田で行われるアルテミュージックファクトリーの4月のテーマは「友」。私が選曲したのは、八重山の名曲「トゥバラーマ」である。曲名の語源は「逢いたい愛しい人」というような意味。ただ、歌詞は昔からの歌詞だけでなく、新しくたくさんの歌詞がつくられてきた。
 その一つ、戦後のまだ沖縄が米軍統治の時代、1956年(昭和31)に東京に招かれた八重山芸能団の大浜津呂氏がつくった歌詞「日本復帰の悲願のトゥバラーマ」がある。これは、沖縄の苦しい現実を大和の人たちに訴えた内容だ。
 その囃子で「ヤマトのウヤガナシー」と繰り返す。「大和の親たちよ」という意味だろうが、大和の人々と沖縄県民は、実際には親子という関係ではない。だから「大和の同胞たち」、つまり「大和の友人の皆さん」と訴えているのだから、「友」のテーマに合っていると選んだ。

017  この曲は、唄者の実力に応じてその歌の魅力が限りなく広がる。特に、高音が伸びて響かないと、歌の魅力は伝わらない。それに、囃子はより高い声が必要で、なかなか難曲だ。でも、今年、復帰40周年にあたるので、この歌詞をどうしても歌いたかった。

 歌い出すと、三線はたいして技を必要としないので、そこそこできた。歌は、思うようには歌えない。ただ声を張り上げている感がある。それでも、復帰前の沖縄の人々の切々たる思いが込められた歌詞だから、その当時の人たちの感情に、少しでも近づけたら幸いだった。

 囃子は、ツレがやってくれた。前に二人で練習に歌った時、宮古民謡の名手Tさんから「これだと、八重山の人が聞いたらナンダと思うから、歌う前に、『素人ですから』とことわった方がよい」とアドバイスされた。その旨、歌う前にことわった。実際に歌ってみると、なんとか囃子もこなせた。
 歌い終わると、「よかったよ」と言ってくれる人もいた。曲に込められた内容が少しでも伝わればうれしい。ツレの囃子についても、友人のKさんは「トゥバラーマは100回くらい聞いているけれど、あれでいいんじゃないの」と評価してくれた。

014  「日本復帰の悲願のトゥバラーマ」の歌詞を紹介する。
「♪戦世どぅ 我(パナ)恨みゆる 人の親子(ウヤファー)ん散り散りなしねーぬゆ」
 (戦争の世を私は恨む 沖縄の人々の親子も散り散りにしてしまった)
 囃子「イーラー ンゾーシーヌ イランデドゥバナーウモリ」

「♪南ぬ風(パイヌカジマ)まぬするする吹くばしゅやー 沖縄ぬ人ぬ泣きうんで思いたぼうり」
 (南からの風がするすると吹いてきたら、沖縄の人たちが泣いていると思って下さい)
 囃子「イーラー ンゾーシーヌ ヤマトゥヌ ウヤガナシィ」

「♪なまぬいっとぅくぅどぅ 此ぬ(クヌ)苦しゃんしょうる やがてぃ親元ん戻らりどぅしぃー」
 (今のひと時がこんなに苦しいけれど やがて親元に戻られるよ)
 囃子「イーラー ンゾーシーヌ ヤマトゥヌ ウヤガナシィ」
(参考『南島歌謡大成ー八重山編』)

 この歌詞を歌うたびに、日本復帰によって苦しい異民族支配から逃れ、安心して住める平和な沖縄を願った沖縄県民のこの心に、日本政府は応えてきたのか、裏切り続けたのではないか。そんな思いがいつも胸をよぎる。

 今月は、少し出演者が少なかった。それぞれ皆さん、頑張っていた。
 打ち上げ会では、第1部とは違ったリラックスのなかで、それぞれ自慢の演奏、歌を披露した。032  私も「イラヨイ月夜浜」とリクエストがあって、もう一度「トゥバラーマ」を、今度はもともとの歌詞で歌った。なぜか、八重山づいている。

2012年4月14日 (土)

宜野湾市大山の湧水を見る、その3

 宜野湾市大山で2つの湧水を見た後、大山小学校の後ろにあるアラナキガーに降りた。こちらは、近づくともう水が流れ落ちる音が聞こえていた。

035  大きなパイプから勢いよく水が流れている。農家のおじさんが手を洗っていた。

031  別に大きなパイルがあり、水を導水してこのコンクリートの大きな水槽に貯めている。水槽からは、数十本の小さなパイプが出ている。つまり、このパイプで各農家の田に水を送っているのだ。

 田芋はお盆と正月に最も需要があるので、それに間に合わせるように、10か月前には子芋の茎を切って田に植える。夏には、田の水温が上がり過ぎて、根腐れが起き、病気になりやすいので、毎夕、田の水を抜いて冷たい水と入れ替えるという。だから田芋の栽培にとって、水はなにより大事だ。

033  パイプはそれぞれの田に向かって伸びている。これだけパイプが多いというのは、ここの湧水が豊富だから、それだけこの水に依存している農家が多いのだろう。

 これから台風シーズンに向かうが、田芋は背は高く、葉が大きいので倒れやすい。倒れると根から病気でやられることがある。農家にとっては、台風は心配だ。

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 無事に田芋を収穫しても、まだ安心できない。田芋は茹でてみるまでは品質が分からない。天然水で1時間、茹でてきれいに茹であがれば出荷できるという。なかなか手間のかかる仕事だ。

 下写真は、茹でた田芋。店頭に並べられている。

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 田畑に作業している人は、みんなおじいさんばかり。若い世代はいない。湧水の場所を尋ねたおじさんも「ターンムつくっている人はおじいさんばかりでね。あとを継ぐ人がどうなるのかねえ」と心配顔だった。

 たぶん、田芋は高級食材といっても、とても手間がかかる。そのわりに栽培の規模は小さい。年寄り仕事ならなんとかやていけるが、若い世代がこれだけで一人前の生活をするには厳しいのだろう。そんな気がした。

2012年4月13日 (金)

宜野湾市大山の湧水を見る、その2

 宜野湾市大山の戦前、軽便鉄道が走っていた道・ケービンミチの道沿いにある湧水の2番目は、ヤマチチャガーである。

025  大山のケービンミチの西側は畑、田が広がっている。その向うにビルが見えるのは、58号線のバイパス沿いの開発地域である。

026  ヤマチチャガーが見えてきた。こちらは、コンクリートの水槽があり、水が流れるパイプが1本だけある。その奥にも、小さなガマがあり、水が湧いているらしく、水が貯まっていた。でも、水量はさほどでもないようだ。
 大山の湧水は、いまは生活用水としてより、農業用水として活用されている。また、見た限りでは、拝所が見当たらない。なぜだろうか。

027  こちらも田に水をはっている。田芋をつくるのだろうか。

 田芋が普通のイモ類と違うのは、八百屋でもスーパーでも、必ず茹でたものを売っている。里芋のようにイモの煮っ転がしのような料理をするのではない。たいていは煮たイモをつぶして調理する。
 代表的な田芋料理に「どぅるわかしー」がある。茹でた田芋と、その茎を使い、シイタケ、かまぼこ、三枚肉、出し汁などと合わせてペースト状になるまで練り上げる料理だ。田芋田楽も、砂糖を入れてつぶすようにまぜる。砂糖醤油唐揚げなど定番メニューである。ケービンミチに下写真のような看板が出ていた。田芋パイも美味しい。農家にたいして「子芋(皮ムキ)買い取り致します」と呼びかけている。

024  田芋料理は結婚式など祝い事、お正月などお目出度いときに、沖縄では欠かせない料理だ。なぜ祝いの席に出されるのだろうか。それは、それは、親芋の周りに子芋がたくさんつくので、子孫繁栄の象徴とされたから。

 わが家では、里芋の煮っ転がしは大好きなメニューだが、ターンムは調理法を知らないで煮て失敗して以来、買ったことがない。八百屋ではよく見るが、結構手間がかかるので、いまだ挑戦していない。ただし、田芋を使ったパイやパンなどは買って食べるが、とても美味しい。

2012年4月12日 (木)

宜野湾市大山の湧水を見る、その1

 宜野湾市の大山地区にはたくさんの湧水がある。市のど真ん中に居座る米軍普天間基地の西側にあたる。国道58号線と同じ58号バイパスに挟まれた地域だ。普天間飛行場のある広大な高台で降った雨が、地下水となり、高台から平地に下りてきたこの当たりで、湧き出ている。

 国道58号線からさらに西側に入ると、戦前にあった軽便鉄道が走っていた道にでる。「ケービンミチ」と呼ばれている。旧軽便鉄道の大山駅と真志喜駅との間には、7つの湧水がある。いくつか回りたい。
 でも史跡に指定されている湧水ではないので、案内の標識や説明板は期待できない。だから、探すのが一苦労になる。付近で畑で作業をしていた老夫婦に尋ねてみた。「ヒャーカーガーはこの近くにありますか?」。するとおじさんは、作業の手を休めわざわざ畑を出てきて、「この先を左に折れて降りるとありますよ」。ついでに、軽便鉄道のこともツレが聞いたら「大山駅のあったのはこの先ですよ。もう当時を偲ぶものはほとんどないですが」と答えてくれた。

017  ヒャーカーガーが見えた。コンクリートで完全に整備され、昔の様子はわからないが、水量はとても豊富だ。きれいな水がこんこんと湧き出ている。019  3か所の水の出る口からとめどなく清水が流れ出る。住民の日々の生活用水として使ってきた他の湧水に比べると、あまり水を多様に利用している様子はうかがえない。水の出ていく先を見ると、農地に向かって水は水路を流れていく。

023  水路を流れる水も豊富だ。その先に何があるだろうか。水を使う作物があるのだろうか?

018  水路の先には、ターンム(田芋)畑が広がっていた。田芋といっても、タイモではなく、里芋に近いが、里芋とも違う。水田で作るので、水が必要だ。沖縄の伝統料理には欠かせない食材だ。宜野湾の大山は、ターンムの産地として名高い。湧水が豊富にあるから、昔は稲作が盛んだった。でも、いまは稲作に代わり換金作物としてターンムが作られている。

022 ターンムについては、後日詳しく紹介したい。

 

2012年4月11日 (水)

宜野湾市野嵩の湧水を見る

 宜野湾市は湧水が多いところだ。その一つ、野嵩(ノダケ)の「野嵩クシヌカー」をたまたま写真で見て行ってみたくなった。

009_2  野嵩は、米海兵隊普天間基地の東側にあたり、近くに市役所がある。
このクシヌカーは市指定史跡である。昔から野嵩の区民の共同生活用水として長く利用されてきた。005  長方形の大きな水槽の根元から水が湧き出る。手前側をせき止めて、4か所に貯まった水を出す余水口を設けている(下写真)。

003  湧き口の左右、後背には4段の積みをして土留めとしている。見事な石積みのようだが、草がびっしりと蔽っていてよく見えない。

 004  長年、飲み水から洗濯、イモ洗い、水浴びなど生活用水として使われただろう。湧水口から湧き出た水は、さらに下手の「クムイ」に流し込まれ、牛馬の水浴びにも利用されたという。

001  さらに区民の伝統行事であるウマチー(祭)やウビナディなどの節々の拝礼、子どもの出生時の湯あみに使われる「産水(ウブミジ)」、新年の「若水(ワカミジ)」汲みなど、人生の節目に利用された。沖縄戦の直後の収容所時代に、水に助けられ住民もいるそうだ。

 ウビナディとは、赤ちゃんに産湯を使わせるためカーに水汲みに行く行事らしい。

006  だから、この井泉に水恩にあずかった住民が、近くや遠くの人々も拝みに訪れる場所でもあるとのことだ。

 石段の上にはデイゴの大木が3本あり、大きな樹影をつくっている。私見だが、これによって暑い時でも井泉は涼しく、洗濯などするにも暑さをしのぐのに役立ったのではないだろうか。

 集落の南側にもう一つ「メーヌカー」があるというので、近所で訪ねるとすぐわかった。やはりデイゴの木が目印だった。

 クシヌカーとは、集落の「後ろのカー」、メーヌカーとは、「前のカー」という意味だろう。016  このカーも住民共同の生活用水として利用された。さまざまな行事でも同じく利用されただろう。野嵩の湧水は二つとも、崖ではなく平地で少し窪んだ所に水が湧いている。

011  こちらは水槽のようなものがあるが、とても低い。危ないので鉄柵で蔽っている。

012  やはり余水口が2,3か所ある。ただ、いまは水量があまりない。

015  そばに拝所のようなところがあった。石にはなぜか「水」と刻まれている。メーヌカーは、市指定史跡の表示はない。だから、説明はなにもない。014  デイゴはやはりカーの上に葉を繁らせていた。

 そういえば、チラホラとデイゴの開花の話が出ているが、わが家の近くも、この野嵩のデイゴもまったく花は見えない。今年は、葉っぱがとても多い。花が咲くだろうか、少し心配でる。

沖縄で愛されるジョン万次郎、その3

万次郎から勉強した島津斉彬

万次郎ら三人は、拘留されていたい琉球を出て鹿児島に向かった。先に見たように、この時代、琉球は薩摩藩の支配下にあり、琉球での万次郎の取り扱いを考える上でも、薩摩で万次郎がどう取り扱われたのかを見ておくことが必要だと思う。昨年、好評を博したNHKの大河ドラマ「篤姫」の中でも、薩摩で藩主の島津斉彬がじきじきに万次郎から聴取するシーンがあったが、それはそのままの事実である。

ここでも、中浜明氏の前掲書からその模様を紹介したい。万次郎らは鹿児島に入り、宿舎を与えられたが、殿様の言いつけと言って、待遇はたいへんに良く、りっぱな食膳、お酒。衣類、日用品もすべてゆきとどいて賓客のもてなしだったという。当分の小遣いとして金一両も賜った。ある日、殿様から、万次郎一人だけ召された。鶴丸城の御殿へ出向くと、酒肴を賜って、それが終わると人払いをして、殿様のじきじきの御下問が始まった。万次郎は、異国の方々を旅してきた中で、わけてもアメリカ合衆国の文化の総体にわたって詳しい質問を受けたという

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 万次郎がアメリカで勉学に励んだマサチューセッツ州フェアヘーブンで開催されたジョン万祭に沖縄ジョン万次郎会からも参加した(『』結成20周年記念誌)

アメリカでは、家柄、門地といったものは問題にされないで、人はすべてその能力によって登用されていること、国王は人望のある人が入札(選挙)によって選ばれ、四年間その地位につくこと、人はみな自分の幸福と公共の幸福をいっしょに考えているから、世の中が常に栄えていること、デモクラシー、人権を尊ぶことが社会の大本の精神になっていることに始まって、蒸気船、汽車、電信機、写真術といった文明の道具の実際から数学、天文学、家庭生活の有様、結婚は家と家との結びつきではなく、一人の人と一人の人との結合であること、人情風俗にまで話が及んだという。

斉彬は、万次郎に会うより前から、西洋の科学技術や軍事などに強い関心をもち、オランダの書物をとりよせ、翻訳させて勉強していた。ヨーロッパ列強が中国に進出し、食い物にしようとしていることも熟知しており、やがて日本を狙ってくることを警戒して、これに日本がどう対応するのか、その方途を考えていた。だから、万次郎の漂着は、西洋事情を直接、耳にすることができる絶好の機会と考えたのだろう。「側近をしりぞけて、殿さまじきじきの厳重なお取り調べとは表向きのこと、国内上下の保守排外思想家たちにかくれて、殿さまの勉強が始まるのでした」(中浜明氏、前掲書)。斉彬は、万次郎が永く鹿児島に留まるように勧めたほどだった。

ここでは、西洋の進んだ科学技術や軍事の内容だけでなく、殿様の前で、日本の封建体制を根底から否定するようなアメリカのデモクラシー、人権の政治制度や思想まで堂々と話したというのは、驚くべきことではないだろうか。日本の幕藩政治の大改革を考えていた斉彬が、政治制度にも関心を持ち、質問したことは確かだろう。それだけでなく、万次郎の話の内容は、アメリカ社会と民主主義に対する的確な認識があったことを示しており、万次郎自身が、アメリカのデモクラシーを目にして日本の封建社会の後進性をいやというほど痛感し、先進的な政治制度や思想に強い共感を持っていたこともうかがえる。

ちなみに万次郎は、土佐から江戸幕府に呼び出されて取り調べをされたときも、アメリカの民主政治について、堂々と語っている。アメリカはイギリスに所属していたけれど、人民は不服従となり、独立国となって「共和之政治を相建」したこと。国王はいなく、国中の政治を掌る大統領をフラジデンといい、「国中之人民入札」(選挙)によって職につき、任期四年で交替する。国法を重んじ、大統領といえども国法に違反してはならないと述べている。さらに、万次郎は、帰国すれば日本を開国させたいと夢見ていた。幕府の取り調べでも、アメリカが日本と親睦したいというのは「積年之宿願」であり、米人が日本近海で漂流して過酷な扱いを受けたことを残念に思っており、「両国之和親」をはかりたいという主張をしている、と紹介している。ペリーが来航する前に、万次郎はこういう形で開国の必要性を説いていたのである。

062    ジョン万次郎記念碑が建つ翁長共同利用施設

明治維新、自由民権運動にも影響が

万次郎が、一五〇年余りを経てたいまも、このわずか半年滞在しただけの沖縄で、愛され、関心を持たれている背景に、万次郎がその後、日本社会に影響を与えた役割に対する評価があるからではないだろうか。もし、万次郎が自分の知識や語学力を自己の栄達や利益のためだけに使う人間だったら、このような関心はもたれなかったのかもしれない。

島津斉彬の聴き取りで、万次郎が伝えた話の内容は、斉彬のその後の政治思想や行動に直接、間接にさまざまな影響を及ぼしたであろうことは否定できない。斉彬は、こころざし半ばで亡くなるが、その後、その遺志を受け継いだ薩摩の志士たちは明治維新で大きな役割を果たした。万次郎は薩摩藩が設立した開成所の教授にも招かれた。家老の小松帯刀には外国事情などを話し、小松は「今日必要の人物です」と高く評価した。「万次郎が島津藩(斉彬)に与えた強烈なインパクトが、維新回天のエネルギーになったといっても過言ではないであろう」(『中浜万次郎集成』の解説論文)という指摘もされている。

郷里の土佐藩では、吉田東洋を先頭に藩の幹部が万次郎から海外事情を学んだという。絵師の河田小龍が書いた万次郎の海外見聞録というべき『漂巽記略』を坂本龍馬は早くから読んでいたそうだ。龍馬は、新しい日本の基本方向について、政権を朝廷に返還し、議会を設け万機公議に決するなど「船中八策」をまとめた。その骨格的な内容は、明治維新の「五箇条御誓文」に引き継がれた。「この発想の根底に万次郎の影響が多分にあったと見るのが自然である」(同前)。

後藤象二郎は、少年時代に吉田東洋の部屋で、万次郎と出会った際、万国地図をもらったという。後藤が土佐藩に殖産興業のため開成館を創立すると、万次郎は招かれ、英語その他を学生に講じた。さらに、後藤は万次郎とともに汽船など買い付けのため長崎から上海まで行った。後藤は、明治維新後に新政府に参加するが、下野して、専制政治を批判し一八七四年(明治七年)、板垣退助らとともに、民選議院(国会)の開設を求める建白書を提出し、これが自由民権運動の口火となった。万次郎がもたらしたアメリカ・デモクラシーの思想は、明治維新ではいまだ実現せず、その後、起こった自由民権運動にも、その影響が投影されているといっても過言ではないだろう。

村田典枝氏は、万次郎が新しい知識や技術にとどまらず、日本の開国や対米関係について臆することなく意見を述べ、みずからの体験を通じて学んだ人道主義や民主主義を伝えたことが、どんなに強い影響を与えたのかについて、次のように指摘している。「日本の黎明期に、新しい道を求めて模索していた多くの若者たちに、直接、間接的に影響を与えたのだった。それが開国に向けた大きなうねりの中で、やがて明治初期の自由民権運動へとつながっていった」(「ジョン万次郎とその生涯」)。

万次郎は、決して政治の表舞台に立って働くような立場ではなかった。それにもかかわらず、一五八年を経た今日も、その人と仕事に対する評価が、低下するどころか逆にさまざまなメディアでも取り上げられ、その功績が評価されている。それは、沖縄でもまったく同様である。短い期間であっても、沖縄に滞在した万次郎という人物が、幕末から明治維新という日本社会の大激動の時代に、一つのインパクトを与え、歴史を前に進めるうえで欠かせない役割を果たしたことは、万次郎にゆかりのある県民としても誇りに思えることなのだろう。だからこそ、いまなお語り継がれている理由の一つになっているのではないか、そう強く思う。

(二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に、文責・沢村昭洋)                       

2012年4月10日 (火)

6年ぶり垣花樋川を訪ねる

 友人を案内して斎場御嶽(セイファウタキ)と垣花樋川(カキノハナヒージャー)を訪ねた。全国名水百選に選ばれた垣花樋川は、6年前見ていたが、久しぶりだ。

004_2  垣花集落から急な石畳の坂道を100メートルほど降りていくと、井泉に出る。水量がとても豊富だ。うっそうと繁った林の中腹岩根から水が湧き出ている。

003  説明板があった。この井泉も、左側上はイナグンカー(女の川)で女性が使い、右側下のイキガンカー(男の川)は、男が使ったという。

005  下流の浅い水溜りはンマミジガー(馬浴川)だ。馬を洗い水を飲ませたのだろう。

イナグンカーは、主に女性が野菜洗いや洗濯をしたのだろう。

010_2

 水源からは長い樋(トイ)で水を導いている。水が樋から出たところは四角い水槽のようになっている。ここ飲み水としえ水汲みをしたのだろう。

 007  樋川から流れ使った後の水は、下方の田をうるおし、稲作が盛んだったそうだ。

 この垣花樋川の全体を垣花村の人々はシチャンカー(下の川)と呼んでいた。住民は、水汲み、水浴び、洗濯、野菜洗いなどするため、カービラ(川の坂)を往来した。水汲みその他、女性が担うことが多い。坂道を水を汲み上げたり、重い洗濯もの、野菜類を持って下り、上りするのは重労働だっただろう。

011  石畳道の途中には、女性たちが一息入れるナカユクイイシ(中休み石)、イーユクイイシヌヒライサ(上休み石の平石)が残っている。残念ながら写真をとらなかった。

008 面白いシーサーが置いてあった。樋川を守っているのだろうか。この井泉からいまはポンプで垣花集落に水を上げているという。

 現在は、簡易水道として地域の飲料水などの生活用水や農業用水として利用されている。

009  樋川には拝所が必ずある。住民の生活にはなくてはならない命の水だからである。

2012年4月 9日 (月)

沖縄で愛されるジョン万次郎、その2

わずか半年ほどの滞在だったのに、琉球語も勉強したというのは、驚きだ。ウチナーグチとよばれる沖縄語は、同じ日本語を母体としながら、方言というより独立の言語と呼べるほど難しさがある。沖縄に住んで三年を超えた私たちでも、まだごくわずかしか分らない。第一、沖縄人自身が、いまや沖縄語が分らない人が多くなっている。戦前から学校教育で方言を排除し、共通語を徹底することが追求されてきたからだ。万次郎も、土佐の漁師だったので話せたのは土佐弁だけである。それも一〇年にわたる外国暮らしで忘れてきていた。この沖縄滞在中に沖縄語を勉強したというのは、万次郎の旺盛な知識欲と、琉球の人々と少しでも交流したいという思いが感じられる。

050 ジョン万次郎記念碑の台座に碑建立の趣意が刻まれている

「ジョン万次郎を語る会」刊行の長田亮一氏著の『ジョン万次郎物語』は、村民との交流の模様を次のように記しています。徳門家には美人姉妹がいて、万次郎は二人の姉妹に好感を抱き、土佐の話やアメリカの話などを聞かせた。夜になれば、星空のもと、自分を取り巻く村の青少年たちに、航海術で学んだ星座や天体の仕組みなどを話したという。たとえ、半年の短い期間であっても、異国の土佐人で、しかもアメリカで暮らし、世界を航海して来た万次郎の滞在とその話は、村民にとっても強い印象を与えたことは疑いない。

万次郎が、鹿児島に向けて出発する際には、「郷里に無事着いたら便りを出しますが、若し便りがなかったら処刑されたものと思って下さい」といった別れの挨拶をしたという。万次郎は、みずから製作し大切にしていた六尺棒を形見として徳門家の主(あるじ)に進呈した。後年、病魔が沖縄南部一帯で蔓延した時、徳門家の家族が一人も病気にならなかったのはこの六尺棒のお蔭だとして、守護神のように大切にされていたが、沖縄戦で消失したという。また、万次郎が江戸に住むようになってから、一冊の分厚い本を徳門家に寄贈した。今次大戦時、アメリカ帰りの万次郎が昔滞在したというだけで、徳門家は昭和一九年(一九四四年)の戦争末期に、憲兵隊や特高の立入調査の対象にされ、万次郎が贈った本も検閲された。それもまた戦火の中で消失したという。これも、長田氏が著書で紹介している話である。

なぜ万次郎は琉球に上陸したのか

万次郎が琉球に上陸したのは、たまたま乗船した商船が近くを通ったからなのか。そうではない。当時、徳川幕府の鎖国政策の中で、漂流であっても国外への渡航はご法度であり、帰国すれば打ち首にされかねない。万次郎も打ち首を恐れていた。だから、どのようにすれば無事に帰国できるのかはよくよく検討しなければならない事柄であった。

万次郎は、前から帰国するなら琉球に上陸するのがよいと考えていた。「鎖国している日本へはいるには琉球諸島がいちばん都合がよいので、便船を得て琉球の近くまで航海して、そこで本船を離れてボートで島の一つに上陸しようともくろんでいた」(中浜明氏著、前掲書)のである。

村田典枝氏(沖縄キリスト教学院大学准教授)は、論文「ジョン万次郎とその生涯」で次のように指摘している。「万次郎は外国人たちから日本の鎖国政策についてかなり情報を得ていた。そこで、直接日本本土に上陸するよりも琉球に上陸した方が、安全で、成功率も高いと判断していた」。

なぜ、日本本土ではなく、沖縄が一番都合よいのか、成功率が高いのだろうか。いくつかの理由が考えられる。一つは、琉球の歴史的な特殊性である。琉球は、長く独立国であり、中国と冊封(さっぽう)関係にあった。冊封関係とは、琉球国王が中国皇帝の臣下になり、皇帝に朝貢し、皇帝から国王として任命を受けることである。冊封体制は、一四世紀以来、五〇〇年近くも続いている。薩摩藩に一六〇九年侵略され支配されていたが、冊封体制に変わりはない。琉球王国は中国と日本の両国に属する関係にあった。日本の幕藩体制に組み込まれているが、あくまで形式的には独立国であった。しかも、地理的には遠く離れた離島であり、中国に近い南島である。江戸幕府も異国のような扱いをしていた。そこは本土の厳格な幕府の直接的な支配とは多少の違いがあるだろう。

また、万次郎が上陸した当時、薩摩藩は守旧派の島津斉興が退き、最も開明的な島津斉彬が藩主となっていた。のちにふれるが、西洋の学問、技術、軍事などに強い関心をもっていた斉彬は、万次郎をじきじきに招き寄せ、詳しく西洋事情を聴取するほどであった。琉球王府は、万次郎への対処について、薩摩藩にお伺いを立てて対処していたことはいうまでもない。万次郎の強運はこういうところにもあるかもしれない。

こういう島国としての歴史をもち、海洋国家である琉球にとって、船の遭難による漂流、漂着は絶えず発生する問題である。それは、自国の船も何度も遭難して、中国や朝鮮、日本などに漂着し救助された。逆に、中国や朝鮮、日本その他の国々の船も遠い昔から、遭難しては琉球に漂着する。そういう場合、必ず漂流者を救助して丁重に保護し、しかも、相手の国にまで送り届けるのが慣例であった。琉球王国の膨大な外交文書を収録した「歴代宝案」という古文書の中には、漂流者の取り扱いに関する文書が、とても多い。外交の重要な一分野だった。外国からの漂流者を丁重に扱ってこそ、自国民の漂流者もまた助けてもらえる。東アジアの国々とそういう関係をきずいていた。それは海に生きる民、島国にとっては不可欠のルールでもある。その伝統は脈々と生きている。

Photo      琉球王国の貿易に使われた唐船の図

江戸幕府は当時、鎖国政策をとっていたが、対外貿易の窓口として、長崎の対オランダ、対馬の対朝鮮、函館の対蝦夷、そして琉球の対中国との貿易は公認していた。琉球は中国への朝貢の際、中国が必要とする物産を持ち込み、買ってもらう朝貢貿易で大きな利益を得てきた。中国から、国王の任命のために冊封使を乗せた御冠船(うかんしん)が那覇の港に来る時も、さまざまな中国物産を積んできて琉球王府が買い付けていた。この中国貿易は薩摩支配下でも続くばかりか、中国貿易を薩摩の管理下に置き、そこから利益をあげようとしたのだ。だから、日本は鎖国政策をとっていても、琉球では国家事業として対外貿易が堂々と営まれていた。琉球はそういう特殊な位置にあったのである。

万次郎がどこまで琉球についての事情を知っていたのかはわからないが、万次郎が琉球を上陸地点に選び、それを足がかりにして帰国しようとしたのは、なかなかの見識である。万次郎が無事に故郷に帰ることができ、さらに江戸にまで招かれたことをみても、彼がたんに幸運だっただけでなく、的確な情報を得て、賢明な選択をしたことを証明している。

万次郎は、上陸以前にも一度、琉球の離島にいったん上陸したことがあった。一八四七年に、フランクリン号に乗り込み、捕鯨航海をした際、琉球諸島に属する島の沖合に錨を降ろして上陸したのである。島民と出会ったが、相手の言葉がわからず、がっかりした。でも島で牛二頭をもらい、お返しに木綿を贈った。この島は、慶良間(けらま)諸島の渡嘉敷(とかしき)島だと長田亮一氏は書いている。

万次郎は、これより前にグァム島に寄港したさい、他の捕鯨船の船長から、日本の鎖国政策について、厳しい非難を受けた。だから、「捕鯨船のために、日本の海岸に平和な補給地が欲しい、万次郎は早くからそうした意見だった」(中浜明氏著、前掲書)。それは、グァム滞在中に、万次郎を救出してくれたホイットフィールド船長宛てに出した手紙にも表れている。「当地を出ましたら西北をさして、日本の琉球諸島に向かいます。そして無事上陸できたらと望んでいます。捕鯨船が補給を受けられるよう、港を開くようにさせたいと思ってもいます」と手紙で記している。実際には、この思いはこの時には実現できなかった。でも万次郎が琉球に強い関心を持ち、開国への希望を持っていたことを示している。

 

2012年4月 8日 (日)

沖縄で愛されるジョン万次郎、その1

この文書もすでにブログにアップしてあるが、ダウンロードしないと読めない形式だったので、そのまま全文読める形式で改めてアップする。

沖縄で愛される中浜万次郎

沖縄に移り住んで驚いたことの一つに、中浜万次郎(ジョン万次郎)がとても、県民の間でよく知られていることがある。二〇〇五年一〇月だったか、初めて沖縄本島の南部に行ったとき、地図に糸満市の大渡(おおど)海岸が中浜万次郎の上陸地点であることが記されていて、「ああ、万次郎は沖縄に上陸したのだった」と改めて認識した。沖縄に移り住むまで、万次郎がアメリカから帰国する際、沖縄に上陸したことは、まるで失念していたというか、そもそも認識がなかったという方が正確だ。東京に三〇年余暮らしていたので、万次郎に対する関心そのものが薄れていたといってよい。

 

Img086_2         ジョン万次郎の像(沖縄ジョン万次郎会の20周年記念誌から)

 この上陸地点の大渡海岸(小度浜=おどはま=といっていた)は、沖縄戦の終焉の地といわれる摩文仁(まぶに)のすぐ近くにある。沖縄戦の際、住民は海岸の岩陰や小さなガマなどに隠れたが、激しい戦闘に巻き添えになり、地区住民の半数以上が犠牲になった悲惨な歴史がある。でもいまは、海岸に岩礁が広がる浜は、シュノーケルをする若者が集まるポイントになっている。万次郎が漂流した仲間二人とボート「アドベンチャー号」を漕いでこの浜に上陸したのは一八五一年二月三日のことだ。いまから一五八年も昔になる。浜辺に立って「万次郎はどんな思いでこの浜に上陸したのだろうか」と考えながら、真っ青な海と空を眺めると、なにか感慨深いものがこみあげてきた。

 その後、図書館で万次郎に関する著書を探してみると、なんと万次郎に関する著書は、沖縄関係図書のコーナーに並べられている。しかも、沖縄の人が、万次郎の生涯を書いた本が、青少年向けや絵本を含めて何冊も沖縄の出版社から出されていることにまた驚いた。「上陸しただけで、こんなに万次郎本があるとは、いったいどういうことだろうか」「沖縄でなぜこんなに万次郎が注目されているのだろうか」と関心がわいてきた。さらに、「ジョン万次郎を語る会」という団体まであって、活動していることを知り、なおさら興味がわいてきた。沖縄に上陸したといっても、滞在したのはわずか半年ほど。「万次郎はなぜこんなに愛されているのだろうか?」。

 万次郎を語り継ぐ沖縄の取り組み

本題に入る前に、沖縄での万次郎に関する主な取り組みを紹介しておきたい。万次郎が琉球に上陸して、一四〇年の節目に当たる一九九一年、万次郎ゆかりの豊見城村(とみぐすくそん、現在は市になっている)に在住する何人かの有志によって「ジョン万次郎を語る会」がつくられた。会は、「万次郎伝」の執筆を長田亮一氏に依頼し、長田氏は九一年一〇月、『ジョン万次郎物語』を同会から刊行した。その後、会はシンポジウム、講演会など催し活動を続けている。一九九三年には、万次郎の生まれた土佐清水市と豊見城市が姉妹都市を締結し、児童生徒の交流など行うようになった。

万次郎が沖縄に上陸して一五〇年目にあたる二〇〇一年二月三日、豊見城市内で「万次郎来村一五〇年を祝う会」が開かれた。この年、六月一二日から「沖縄タイムス」紙上で「絵物語・琉球に上陸したジョン万次郎」が一二回にわたり連載された。著名な版画家の儀間比呂志さんの文・画、神谷良昌さんの案によるものだ。

二〇〇二年五月には、万次郎から四代目の中浜博さんが、万次郎の子孫としては初めて沖縄を訪れて、万次郎が滞在した豊見城の高安家の子孫と対面した。博さんは「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている」と述べたという。この年、一二月には、豊見城市の市制施行記念自主企画事業として、長田氏の著書を原作にして市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎の夢~豊見城編」が上演された。二〇〇六年一一月には、劇団四季のファミリー・ミュージカル「ジョン万次郎の夢」が宜野湾市で上演された。

二〇〇六年四月に、第一〇回豊見城市教育長杯(ジョン万カップ)少年野球交流大会が行われ、土佐清水市からも二チームが参加した。二〇〇七年九月には、万次郎の子孫で五代目の中浜京さんが豊見城市に来て「私の大好きなジョン万次郎」と題して講演した。

二〇〇八年一二月には、「寺子屋ニッポン!じんぶん伝―ジョン万次郎琉球へ」が沖縄テレビによって制作され、フジテレビ系列で放送された。万次郎はなぜ琉球を目指したのか、琉球上陸は偶然ではない、綿密な計算があったというのが主題になっている。

 

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      豊見城市翁長に建てられたジョン万次郎記念碑

万次郎の漂流と一〇年間の外国暮らし

初めに、万次郎の漂流以来の足跡をスケッチしておこう。土佐清水市中の浜で生まれた漁師、万次郎は一八四一年に出漁した船が遭難し、アメリカの捕鯨船・ジョン・ハラウンド号に救出された。ホイットフィールド船長にかわいがられ、そこで教育を受け、さまざまな知識を得た。一八四七年には捕鯨船フランクリン号で世界の海を航海する。一八四九年には、日本に帰る旅費を稼ぐため、ゴールドラッシュのカリフォルニアで、砂金採りなどして資金を得て、ハワイに渡り仲間二人と帰国を準備する。ボート「アドベンチャー号」や土産物などを買い集めた。万次郎ら三人は、一八五〇年、ハワイ経由で上海に向かう商船・サラボイド号に乗せてもらう。ちょうど漂流して一〇年目にあたる一八五一年二月三日、琉球の小度浜に上陸した。その後、鹿児島、長崎、そして土佐藩で取り調べを受けた。当時の日本は鎖国をしており、海外渡航は厳しく処罰される状態にあったからである。

万次郎は、西洋事情に通じた知識や英語の能力をかわれて、幕府に招かれた。幕府直参の旗本となって、中浜の姓も名乗るようになる。だが、一八五四年にペリー来航のさいに幕府は、万次郎がアメリカの不利になることは好まないだろう(つまりアメリカに味方する)、ペリーに会わせない方がよいという強硬な意見があり、通訳をさせなかった。一八六〇年には、勝麟太郎や福沢諭吉らと咸臨丸に乗り渡米した。一八七〇年には、フランス・プロイセン戦争の視察でヨーロッパを訪れ、その途中にアメリカで恩人のホイットフイールド船長と二〇年ぶりに再会した。一八九八年に死亡。七一歳だった。

琉球で綱曳きにも参加した

琉球に上陸した万次郎の様子を少し詳しく見ておきたい。万次郎の孫にあたる中浜明氏の書いた『中浜万次郎の生涯』から紹介したい。万次郎の乗った船が、琉球に近づくと、ホイットモア船長は、上陸させるのは身の危険があると心配してくれた。万次郎は、日本の鎖国という国法はよく心得ています。処罰を恐れていたら、何もできないと主張した。船長は、その言葉に深く動かされ、琉球は日本へはいる場所としては、地理的には一番すぐれている、と勧めてくれた。

万次郎たちはボートに乗り移り、陸地に接近した。二月三日の朝、海岸に土地の人が出ている姿を認めた。話しかけてもいっこうに通じない。内陸の方に進んでいくと、四、五人に出会い、土地の名をたずねると、一人の若者が出てきて、日本語で、ここは琉球国の摩文仁間切(まぎり、村のような単位)の小度浜と答えた。あなたは、どこから来たのか、なんの用事で来たのかとたずねる。漂流の顛末を手短に語ると、その若者は、日本人であるからには粗末には扱われますまい、心配なさるな、といたわってくれた。そして、役人のいる所へ案内された。ここでもまた、ふかしたサツマ芋を出して接待してくれ、三人から身の上の聴き取りをされた。こんどは、那覇に護送する、と出発した。真夜中ごろ、那覇の町に入ろうとする所まで着くと、役人がやって来て、那覇には入ってはいけない、翁長(おなが、現在の豊見城市)村へ行けと命令。夜道を、八㌔も行くと翁長村に着いた。

ここの村役人をしている徳門(とくじょう、屋号)という農家に入る(家主は高安公介)。家のまわりには竹の矢来が作られた。徳門の家族八人は、隣りに茅葺き家を大急ぎで作って引っ越した。薩摩の役人に取り調べを受けた(琉球は今から四〇〇年前の一六〇九年に、薩摩に侵略されて、その支配下にあったからである)。薩摩の侍五人と琉球の役人二人が、近くで監視していた。でも、漂流民三人に対する待遇は上等だった。食事は、琉球の調理人が結構なご馳走をととのえ、お酒も添えられた。衣服、寝具にも不自由はなかった。

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    高安家5代目当主の高安亀平さんと初めてお会いした

翁長での取り調べは最初だけで、あとは何の沙汰もなく、ほうって置かれた。万次郎は琉球語の勉強を始めた。竹の矢来をくぐりに抜けて土地の人々のところにも、話に出かけた。八月の一五夜には、どこの村でも村民総出で、東西に別れて大きな綱曳きが催されるが、早くからその練習が行われるので、万次郎は自分の宿舎が村の東の方(沖縄では、東は「あがり」、西は「いり」という)にあるところから、東組に加わって綱曳きの仲間入りをした。

この綱曳きは、いまでも沖縄県内ではどこでもとっても盛んである。稲わらを集めてデッカイ綱をなうところから、集落の人々が夜ごと集まり作り上げる。綱曳きは単なるお祭り、娯楽ではない。五穀豊穣や子孫繁栄など住民の願いが込められ、神事として行われた。先端が輪の形になった雄綱、雌綱という二つの綱を合体させ、カヌチ(貫抜き棒)と呼ばれる大きな棒を差し込んで綱を結合して曳き合う。東が勝つか西が勝つかで、豊凶を占う。だから、みんな総がかりで力を振り絞って勝負する。一晩で終わらず、二晩曳きあうところもある。予行演習といっても、万次郎が村の綱曳きに参加したというのは、住民といかに親しくなっていたのかをうかがわせるエピソードである。

2012年4月 7日 (土)

改作される沖縄民謡・恋の花節

 沖縄本島で歌われる民謡「恋の花」の元歌が、八重山の「くいぬ端節」であるというのはよく知られたことである。これは、改作というよりも、替え歌である。元歌の歌詞を少し変えるというのではなく、まったく別の歌詞にしているからだ。沖縄の民謡では、替え歌はやたら多い。数えきれないほどある。元歌より替え歌が有名は場合もかなりある。

 「くいぬ端節」は、新城島が発祥の地だといわれる。『八重山古典民謡集』から、歌意のあらましを紹介する。
 クイヌパナ(地名)に上って、浜辺を眺めると、マカ(女)が布晒しをしている姿の美しいことよ。ウフイシ(岩)に上って、珊瑚礁を眺めると、マチ(男)が蛸捕りをしている仕草の面白いことよ。マチが捕った蛸はクヤーマ女に渡し、サンゴ石と一緒に渡した。近くで見ていた妻は焼きもち焼きだったので、鍋と碗を叩き割ってしまった。大道盛(ウフド-ムリゥ)に上って東の方を眺めると、百合の花かと思ってみると、実はマル(女)の下裳(カカン)であった。高根久に上って北の沖を眺めると、片帆の船だと思っていると、真帆の船だった。

 島の情景を歌っているかと思うと、男(夫)が他の女性に蛸やサンゴ石をあげて、妻が嫉妬に狂い鍋や椀を叩き割る。いかにも、昔の日常の生活の中から生れた歌だ。当時の恋模様がうかがえる。船の解釈を巡っては、いろんな意味あいがあるようだ。

097_2         那覇市波之上にある護国寺。上に鐘がある

 本島で歌われる「恋の花」は、まるっきり異なる歌詞で4番まである。意訳で紹介する。

「♪庭は雪が降り 梅は花が咲いている 貴女の懐には暖かい南風が吹いている」
「♪どうして私の庭は 梅が咲かないのに 毎夜うぐいす(彼)が通って泣くのか」
「♪波之上に行くか 薬師堂に行くか なれた薬師堂の方がましではないか」
「♪波之上の鐘を首里の鐘と思って あなたを起こして行かせるのではと 私の心を痛める」

 歌詞は、庭は雪が降っているのに、貴女の懐は暖かい、というのはかなれなまめかしい。2番も、庭に梅が咲いていないのに、うぐいすが通う、というのは、女性のもとに男が通ってくるという意味である。
 歌の中に「庭は雪が降り」というのは南島でありえない光景だし、「梅は花咲き」というのも、梅は少ないので、「雪と梅」というのは、大和的な美意識、表現の影響が色濃い。 090             波上宮

 4番の歌詞は、明らかに首里の士族が那覇の辻などの遊女との恋模様が歌われている。遊女のもとに彼が泊った際、波之上にある寺の鐘の音を、彼が日頃聞いている首里の鐘と聞き間違えて起きてしまうのではないか、と心を痛めているという話である。3番の歌詞も、かつて薬師堂といえば、女性を連れて遊びにいく場所だったという。

 この曲は、名曲なので、子どもでもよく演奏する。子どもに歌詞の内容をどう説明するのだろうか、子どもはどう理解して歌うのだろうか。気になる歌詞である。

 
 沖縄本島では、恋歌といえば、士族と遊女との恋模様を描いた曲がとても多い。

 「川平節」も、石垣島の元歌をまるっきり変えて遊女との恋歌になっている。「西武門節(ニシンジョウブシ)」は元歌「ヨーテー節」の替え歌で、やはり士族と遊女の恋歌である。

 ただ、「恋の花」のような士族と遊女の恋歌になると、 「くいぬ端節」のような島の庶民の暮らしや風俗を反映した味わいや面白さがまったく消え失せてしまう。庶民の生活感がない。他の改作した曲も、共通して元歌の味わいが失われていることがしばしばある。
 いずれにしても八重山の元歌を本島で改作した曲は、他にもとても多過ぎるので、もう終わりにしよう。
 

2012年4月 5日 (木)

読谷村役場に建つ憲法9条の碑

 読谷村役場に初めて行った。「さとうきび畑」の歌碑の場所を聞くためであった。道筋を聞いて玄関を出ると、奇妙な石碑があり、目にとまった。

008  碑の中ほどに碑文が記されている。日本国憲法第9条「戦争の放棄」の条文全文だった。

007  戦争と武力は「国際紛争を解決する手段として永久にこれを放棄する」「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と高らかにうたっている。

 同村は、1908年(明治41年)に読谷山(ユンタンジャ)間切(マギリ、現在の町村にあたる)から読谷山村となって以来、2008年で村政100周年を迎えた。

 この100年は、琉球王国から大和への世替りや2度の世界大戦、27年間の米軍統治時代を経て日本復帰への激動の時代だった。

 009  村政100周年を記念した「飛鳳」という碑が隣に建立されている。読谷村の歩みが刻まれている。年表もある。
 1943年、旧日本軍により北飛行場が建設された。
 1945年、米軍の上陸地点となった。
 1946年、村名を読谷山村から読谷村に改称した。

 日本軍が飛行場を建設したため、米軍から進攻と占領の目標になっただろう。4月1日、上陸すると読谷村一帯はたちまち、占領された。チビチリガマの悲劇に見たように、住民は多大な犠牲をこうむった。読谷村民の平和への願いは痛切である。憲法9条の碑は、村民の願いを反映したものだろう。

 2006年、読谷補助飛行場は米軍から返還になった。だが、トリイステーション(トリイ通信施設)があり、ここには悪名高いグリーンベレー(米陸軍特殊作戦部隊)が配備されており、村民は部隊の配備に反対してきた。平和を大切にする村に、トリイステーションもグリーンベレーもいらない。

2012年4月 4日 (水)

悲劇のチビチリガマを訪ねる

 読谷村に建った「さとうきび畑」の歌碑を訪ねた際、近くのチビチリガマに降りてみた。3年ほど前に一度きて、近くのシヌクガマとともに、チビチリガマを訪ねたことがある。
002

  67年前の1945年4月1日、米軍が読谷村の海岸から上陸した。日本軍はほとんど反撃らしい反撃をしなかったので、その日のうちにチビチリガマ付近に迫った。波平地区の住民約140人がガマに避難していた。米軍の捕虜になれば残酷な殺され方をする信じ込まされていた住民は、「集団自決」に追いやられ、83人もの住民が犠牲になった。そのうち6割は18歳以下の子どもらであったという。

001  ガマでは、かつて遺骨が踏み潰されたことがあったそうで、いまは立ち入りが禁止されている。記念碑があり、悲劇の事実が記されている。

 ガマの横には「世代を結ぶ平和の像」が建てられている。読谷の彫刻家、金城実さんの作である。かつて海邦国体で日ノ丸焼却事件があり、反発した者によって破壊され、もう一度再建されたそうだ。004_2

 ここから遠くない、波平にあるシムクガマには、約1000人の住民が避難していた。その中に2人のハワイ移民で帰省していた人がいた。米兵がガマの入り口で投降を呼びかけたとき、2人はガマに日本兵がいないことを米軍に説明し、住民の保護を求めた。そして住民を説得して、すべての住民が投降して、犠牲者が出なかった。同じ読谷の近くの二つのガマで、まったく対照的な結果をもたらした。
 皇民化教育と日本軍が住民に「共生共死」を強制してきたことが、いかに残酷な犠牲をまねいたのか、改めて痛感させられる。

 005  

 「平和の像」は、三線を持っている。恐らく鎮魂と平和の祈りを込めて歌っているのではないだろうか。

 記念碑のそばに「チビチリガマの歌」(金城実作詞)が板に書かれて建てられていた。003  

 1、イクサユヌアワリ(戦世のあわれ)
   ムヌガタティガボリ(物語って下さい)
   ワラビウマガ世ニ語ティタボリ(童孫世に語って下さい)
 2、ハンザチビチリヤ(波平チビチリ)
   ワシタウチナヌユ(私達沖縄世)
   ククルチムヤマチナチュサウチナ(心肝痛め泣く沖縄)
 3、ナクナチビチリヨ(泣くなチビチリよ)
   ミルクユニガティ(平和世を願って)
   ムヌシラシドクル(物知らす所チビチリガマ)

 2012年も4月1日にチビチリガマで遺族会によって慰霊祭が行われた。二度とこんな悲劇を繰り返してはならないことを、この場所は発信している。

2012年4月 3日 (火)

琉球の悲劇の文学者ー平敷屋朝敏、その4

 政治犯として処刑された朝敏(つづき)

 いずれにしても、薩摩に政治的な投書をしたことは、朝敏などのグループが当時の首里王府の政治、国王の信任の厚い蔡温の行う政治に対して批判をもち、それを告発することによって正すことを薩摩に期待した、というのが最も妥当な見方だろう。ただし、期待に反して薩摩はこれを取り上げなかった。

 蔡温が極刑に処したことは、薩摩との相談があったのか、独自の判断なのかわからないが、首里王府と蔡温の政治に対する許しがたい反逆と映ったのだろう。それにしても、投書をしただけで、はりつけとは極めて異例の処置である。

 朝敏が生きた社会はどのような時代だったのか。独立の王国だった琉球に薩摩が侵略してきたのが、一六〇九年なので、それから一〇〇年余りたっている。薩摩は琉球の中国貿易に介入し、琉球全土の検地を行って、その支配と収奪を強めた。

 そのもとで、貧しい農民はさらに貧しくなり、子女を遊女に売ったり、富農の下男下女になる人も出た。士族も増え、よいポストは王族やその縁故者が優先されるので、職につけない貧しい士族が生まれた。また金持ちと貧乏人の格差は大きくなり、社会の矛盾は激しくなっていた時代だったという。

 朝敏の作品には、このような社会状況を反映したところがあるし、彼の行動の背景ともなっているといえよう。

 ここで、朝敏を処刑した蔡温の名誉のためにひと言ふれておくと、蔡温は琉球王朝の時代に傑出した政治家として、有名な人物であることだ。一四歳で王位をついだ尚敬王のもとで、中国からの留学帰りの蔡温は師となり、国師といわれる職につき、さらに、官僚トップの三司官までのぼりつめた。

 彼は窮乏化する農村では、百姓が都市に移ることを禁止し、完全に王府の統制のもとにおき、農業生産をあげるために全力をあげるようにさせた。荒れた山の植林と山林保護を重視し、治水や港湾整備なども進めた。増加する士族の対策として、士族の商工業への転職を奨励し、那覇の商業の活性化をはかった。

 またウコンや黒砂糖の専売制度を強化して、王府の財政の立て直しをはかったという。また、中国からの帰化人の子孫といっても、彼は「薩摩のおかげで今の琉球がある」という立場で、薩摩の指導に従うことが発展の道であることを説いたのである。

 この蔡温の政治は、庶民からみれば厳しい締め付けと収奪の強化につながっただろう。平敷屋朝敏ら対立する人々からは、尚敬王に重用された蔡温の強引な政治は独善で横暴、傍若無人の振る舞いとして、映ったのだろう。

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         宮城島に建つ朝敏の妻の歌碑  

 

 和歌に込められた思い 

 朝敏にはたくさんの和歌があるが、そこには彼の思い、思想がにじみ出ているのでいくつか紹介したい。

「誰のほれ者の 筆とやい書ちゃが 酒や昔から 恋の手引き」。 

どこのバカ者が筆をとって書いたのか、酒は昔から恋の手引きであるのに、という意味だ。当時、禁酒という尚敬王の直筆の碑文に対して、朝敏が風刺したものという。

「四海波立てて 硯水なちも 思事やあまた 書きもならぬ」。 

四方の海を波立つ海水をすべて硯(スズリ)の水にしても、なお思うことは多すぎてとても書きつくせないという意味である。それほど世のあり方に言いたいことが山積していたのだろうか。

 「乱れ髪さばく 世の中のさばき 引きがそこなたら あかもぬがぬ」。 

乱れ髪のような世の中の乱れをきちんとさばかなければ、さばき損ねたらはかどらない、というような意味だろう。この時代、尚敬王の信任をうけていた蔡温の強引な政治に対する朝敏の批判が込められているようだ。

「たとひなま死じも 誰がつれて行きゆが この世やみなちゅて 一人さらめ」。 

たとえ今死んでも誰が死をともにしてくれるだろうか 政治が悪く世の中を闇にしているが 救済する者はいなく、自分一人で死んでいくだろう、という意味である。

 「赤木赤虫が 蝶(ハベル)なて飛ばば 平敷屋友寄の 遺念ともれ」。 

赤木の赤虫が蝶になって飛べば、朝敏、友寄の無念の魂の化身と思ってほしい、という意味だろう。処刑が決まった時に詠んだ和歌だという。その昔、蝶は死者の魂、化身と思われていた。彼の処刑の日には、ハンタン山の赤木に蝶が天をおおうくらいに、飛びまわったと伝えられる。平敷屋、友寄ら一五人の無念の気持ちを思い浮かばせる歌である。

朝敏の妻まなびの詠んだ和歌もある。妻は、朝敏が処刑されたあと、身分を士族から百姓に落とされ、娘とともに、高離島に流されたという。

「高離島や 物知らせどころ にや物知やべたん 渡ちたぼうれ」 

007        宮城島にある歌碑の碑文

この島はさまざまなことを教え悟らせてくれたところ。離島の苦しみ、人の情けはもう十分に知ることができました。私の生まれ育った彼の地へ命あるうちに帰り付けることを願っていますというような意味であり、その思いを込めた歌だ。母とともに流された幼い長女は、栄養失調で間もなく亡くなった。まなびは、先島に流された男の子どもたちとは、ついに会う機会をえないままこの島で亡くなったという。

 こうした和歌を読んでも、感じるのは、朝敏の和歌にも、小説にも、組踊にも、彼が何を考え、何を思い、何を主張し、どのように生きたかったのか、共通の土壌があることである。だから、組踊の作品だけを切り離して、他の者が創ったと考えるのは無理があるというか、朝敏だからこそ創作できたのだということがいっそうよくわかる。彼がみずからの信念を実践に移したことで、悲劇的な結末を迎え、自分の人生に幕を引く結果となった。

 この朝敏の悲劇は「当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった」(朝敏の追悼碑文から)といえるだろう。組踊は、琉球王朝の時代は、首里王府の独占物であったが、明治維新とその後の廃藩置県によって、琉球王朝は解体され、地方へ、離島へと流れて行った士族たちによって、組踊、歌三線なども広がっていった。村踊りなどで組踊が上演されるようになり、「手水の縁」もよく上演されたという。大正時代に一時、上演禁止になったことはあるが、再び上演を許され、沖縄民衆の熱い共感と支持を得たのである。今日でも人気の組踊の一つであり、高い評価をうけていること自体、その先駆性を示している。朝敏は、三四歳の若さで短い生涯を終えたが、その作品は永遠の生命を得て生き続けているのである。

      (終わり。二〇〇八年六月二六日。くしくも平敷屋 朝敏の命日に)

琉球の悲劇の文学者ー平敷屋朝敏覚書、その3

 「手水の縁」は朝敏の作ではないのか?

 組踊「手水の縁」の作者について、琉球大学の池宮正治氏は、これは平敷屋朝敏の作ではない、後世の作品ではないかという疑問を投げかけている。

 その理由は、組踊は冊封使を歓待するための芸能として出発し、王府から任命された踊奉行(ウドゥイブヂョウ)が作演出を行ったが、朝敏は踊奉行には任命されていないからだということだ。

組踊は冊封使を歓待するための芸能であることは事実だ。といっても、初めて玉城朝薫が組踊を上演した冊封使歓待は一七一九年で、次に冊封使が来たのは一七五六年なので、この間、実に三七年もたっている。

朝薫によって創作された組踊という芸能をしっかり継承し、発展させていくには、この間に訓練を重ね、上演することも必要だろう。冊封使が来ない間でも、王府のなかで上演される機会があったと考える方が自然だ。また、三七年の間には、朝薫以外にも組踊を創作する人物が現れたことも十分考えられる。

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  玉城朝薫作「執心鐘入」の舞台(国立劇場おきなわのパンフレットから)

平敷屋朝敏が踊奉行に任命されていなくても、才能豊かで文学作品を作っている朝敏が創作した可能性は十分ありうるのではないか。

なにより大切なのは、この作品の内容の分析そのものが、作者が平敷屋であるのか否かという問題について回答を与えている、ということだ。

 つまり、一つは「手水の縁」の主題が当時の琉球の組踊ばかりか文学全体のなかで占める特異な位置である。他に比類のない作品が他の人に簡単に書けるのか。しかも、当時の封建道徳と社会秩序に反逆するような内実を持つ作品を、他の人物が容易に書けるとは到底思えない。

もう一つは、平敷屋朝敏の作品の流れの中での位置づけである。先に紹介したように、朝敏の一連の作品を読むと、そこには一貫した流れがある。単に恋愛をテーマにしているとか、恋愛至上主義というレベルの問題ではない。

若い時代の「若草物語」「苔の下」にみられるような、この世では結ばれない二人が死出の旅にでる結末から、「萬歳」に見られるように、神の啓示、助けではあっても、封建的な義理、桎梏を乗り越えて結ばれるという画期的な結末に向かう。ここには一大飛躍の世界がある。そして「手水の縁」である。

この流れの延長線に登場するのがこの作品である。ここには朝敏の赤い糸のような熱い問題意識とその発展がある。「手水の縁」のような、他に類を見ない作品が、他の作品とかけ離れて突然変異のように生まれるわけがない。そういう意味でも、朝敏だからこそ書けたのだということが、理解できる。

 さらに言えば、この作品が封建社会の儒教道徳の否定であり、そこにはさらに当時の社会秩序、政治に対する抵抗や異議申し立ての思いが込められていると見られる。

 首里王府に提出する組踊をそういう主題をもった内容とするのには、とっても勇気がいることだ。その後、朝敏が処刑になるような政治行動をとった勇気ある人間であり、政治的人間であったことからも、この作品が書けたのだろうと容易に納得がいくところである。

 池宮氏の所説にはすでに強い反論が出されている。「組踊を聴く」の著者、矢野輝雄氏は、冊封使が来た時だけではなく、組踊が上演されたことはあるし、「踊奉行以外のものが、組踊を作ることはあり得ないことではな(い)」という。

 朝敏を作者とする最大の理由として、その作品そのものの内容を分析している。「文体にみられる緊張感や和文学による修辞法などの多用も、他に類似を見出し得ない⋯⋯恋愛至上主義を謳いあげるところに主題がある。⋯⋯(玉城朝薫の「中城若松」など)模倣作という域を超えて、平敷屋朝敏独自の文学世界を打ち立てているのを見ることができる」。「和文学の影響を受けた強烈な作風こそ、他の作者たちの組踊作品と明瞭な一線を画するものと見るべきであり、その特異性こそ平敷屋朝敏作の可能性に導くものであろう」とのべている。

 このように、作品の内容をきちんと分析すれば、朝敏の作以外にはありえないという結論に達するのである。

 當間一郎氏は、「玉城朝薫は当時の思想背景のなかで登場人物を設定し、つねに首里王府というバックボーンとつなげていくという手法がどの作品にも投入されているのに対して、朝敏は、それを可能なかぎり払拭しようと努力して、わずかながら脱け出している」「朝薫の世界では考えられぬ思想といえよう」と指摘している。

 

 さらに「当時の社会にあって若き男女の愛をあつかい、それを破たんさせるのではなくて成就させていく構成にしたのは、あっぱれという他はない。このような結末にするのは、当時としてはたいへん度胸のいることで、ずいぶん思い切った作品を完成させてくれたのである」とのべている(「沖縄芸能論考」)。

 これはとりもなおさず、この作品が誰にでも書けるような内容ではなく、朝敏のような思想をもち、それを作品世界に投影し、しかも誰に気兼ねもせずに貫く勇気をもっていなければ到底書けない組踊であることを示しているのである。

 政治犯として処刑された平敷屋朝敏

 友寄安乗(57)、朝敏(34)らは、時の政治家・蔡温の政治に不満を抱いていた。薩摩の在番奉行の役人、川西平左衛門の館に再三にわたり、文書が投げ込まれた。蔡温が調査に乗り出し、やがてこの落書が友寄、朝敏らグループの行動として摘発された。 

 そして、一五人全員が安謝港で処刑された。友寄、朝敏は「八付」(はりつけ)の刑に処せられた。はりつけの中でも、とくに重刑の罪人に適用される串刺しにより行われた。串刺しのなかでも、いろいろあり、朝敏はとがった木で体を貫いて殺す方法が六〇人によって行われたという。

 それでもなかなか落命しないので、最後は母とともに立ち会うことが許されていた長男・朝良がとどめを刺したと伝えられている(「平敷屋自治会のホームページ」で紹介されている)。

 薩摩への告発文書の内容がどういうものであったのか、詳しい記録がまったく残されていないからわからない。

 だが平敷屋朝敏の系譜(家譜)によれば、平敷屋は友寄と組み、「無筋の事申し立て」、つまりありもしない事をでっち上げ、薩摩役人に落書し「国家の難題なる儀」を相たくらんだ「悪逆無道の族者(ヤカラ)」だとして裁かれたという。

 落書の内容が時の政治に対する批判の内容であったことがうかがえる。朝敏らが何を主張したのか、なぜかくも残忍な極刑に処せられたのか、さまざまな見方がある。

012       瀬長島の「手水の縁」の歌碑

朝敏らは和文学を通したつながりであり、時の権力者、蔡温は、中国からの移住者が住む久米村の出身であることから、そこに対立の原因を見ようとする見解がある。

 

「蔡温一派の漢学者は万事支那思想を鼓吹して漢学者勃興を即し⋯⋯随って漢学者は時を得て続々重要なる地位に推薦せられたが、国学を修めし平敷屋の一派は頭が上がらなかった」「支那思想の権化たる蔡温を排斥することは平敷屋等多年の間要望するところである」「藩庁を動かすは藩庁以上の大勢力に頼らざる可からずと」「彼等の眼は⋯⋯琉球政務の監督者に向かって注がれたのである」(真境名安興氏)

ただし、蔡温は薩摩に抵抗したのではなく、「薩摩のおかげで今の琉球がある」いうように薩摩に忠誠をつくすことが基本スタンスであった。だからこの見方は少し違うようだ。別の角度の見解もある。

「自国琉球の政治について薩摩側に密告、あるいはその権力を借りようとしたのが処刑の理由である」(山里永吉氏)、

「問題は平敷屋らが薩摩側の権力を引き出そうとしたことにある。批難した事実が単に和漢の思想の相異や王府の国内施策にかかることではなく対外の問題、つまり薩摩に対する姿勢のあり方が中傷されたのではあるまいか」(新里、田港、金城氏)。

 「新琉球王統史」を書いた与並岳生氏は、投書の内容は「蔡温が人の意見を聞き入れず、独断的に国政を進め、このためにさまざまな弊害を生み、王府重役たちの不信感も増大し、疑心暗鬼は渦巻、人心を撹乱し、このことは国政の停滞を招くものである」というものではなかったか。しかも蔡温には尚敬王がついているので打つ手がなく、薩摩の力を借りて蔡温を罷免してもらうことを狙っての投書だったと思われる(「尚敬王」下)という見解をのべている。

朝敏らは薩摩の支配に立ち向かったという見解もある。例えば「薩摩の非人間的な抑圧、不断の収奪から琉球を救うには社会状況を変革する必要があり⋯⋯政治行動を起こそうとしたのではなかろうか」という見方である(又吉洋士氏「平敷屋朝敏―琉球独立論の系譜」)。

これは自己の「琉球独立論」の主張に無理やり引き付けようとする説で、あまり説得力はない。薩摩の役人に抗議文を投げ入れて何かことが解決できるほど、薩摩の支配は甘くはない。それよりも、蔡温の悪行を薩摩に告発して、その力を借りようとしたと見る方が自然だろう。

 

琉球の悲劇の文学者ー平敷屋朝敏覚書、その2

この組踊に対して,識者はどう見ているのか。いくつか読んでみたが、必ずしも的確な評価と言えない批評がある。評価をしていても、「恋愛至上主義」という次元にとどまっている批評もある。

もっとも的確だと思われるのは玉栄清良氏の著作である。そのなかの「平敷屋朝敏の文学」では次のようにのべている。

封建社会の支柱である道徳が見事に踏倒され、不義が堂々と通ったのである。こうして確立された人間性は封建社会の礎を激しくゆさぶったと言えよう⋯⋯貨幣経済の発展は農民、貧窮武士の階層分解を押進めていた、必然的に“内面的抵抗”も高まっていた。それを圧迫する手段としての義理道徳は⋯⋯民衆の行動を厳しく監視し、間接には儒教によって彼らの内面まで強く拘束していた。

そのような情況下にあって人間性をかくも強烈に押出した「手水の縁」は、日本の近代文学が未だ十分には果たし得ぬと思われる課題をすでに封建社会の梗塞のなかで達成して見せたことになり、その文学的成果は琉球文学においては勿論、日本文学史上“特筆”に値すること、と言えるだろう。

人間性に目覚め封建的義理を否定した者が、封建社会の象徴である王への忠誠を思うという矛盾は上演を考慮したための余儀ない虚構であったと思われる。

「手水の縁」の文学的価値はその高度な写実主義にある⋯⋯天竺という神秘の世界(朱子学思想に立つ義理)の否定であり、人間の生の力の根源からの強い肯定であり、人間の自然な愛情は何よりも尊重されるのだという生の確かな思想が強く主張されている。

 井原西鶴や近松も義理と人情にはさまれて苦悩する人間は描いたが、義理を乗り越えて人間の自然の生の姿を歪めずに描くことはできなかった。彼らは心中する男女を描くことによって消極的な抗議にとどまった。

 悲劇の背後の歴史の本質には目が届かなかった。同時代の琉球の代表的作家も封建的秩序への疑問も弱く唯一人、朝敏が人間を“封建社会の本質において”とらえ、その矛盾の打破に進み出る人物を描いたことは驚くべき人間認識であり、“社会認識”であり、またそれの“文学的達成”であった。

 これは、多少持ちあげすぎの感がなきにしもあらずである。この玉栄氏の主張を批判する評者もいる。

 嘉味田宗栄氏は「平敷屋という人物の政治上の事実を、文学作品としての手水の縁に直結して混乱させている」「自我の確立、秩序への対決といった近代用語で形容するにふさわしい戯曲とは思えない」「近代的自我と恋の熱情をいっしょにする前に、古代から近代にかけての恋人たちの情熱の激しさを思いみるべきである」などと反論している。

この批判は、いささか的外れではないかと思う。平敷屋朝敏の政治行動と文学作品には、地下茎でつながっているものがある。自我など用語は近代用語ではあっても、その芽生えというべき意識を見るのは無理なこじつけではない。

「古代から近代にかけての恋の情熱の激しさ」がいくらあっても、それを当時の儒教道徳を真っ向から否定する内容の組踊作品に仕上げること、その上、その作品を王府に提出することは、凡庸な文学者ができることではない。

その証拠に、「手水の縁」のような戯曲・文学は他に類例がないことを見ても明らかではないだろうか。

 組踊の中で「手水の縁」が占めている位置

「手水の縁」が琉球の特有の芸術である組踊の中でも、出色の位置を占めている。それは、約六〇種類に分類される組踊全体を見れば明らかになる。

 當間一郎氏の「組踊研究」によれば、最も多いのは、仇討や戦さなどを扱った仇討ち物で三〇数種に及ぶ。親子や夫婦などの人間関係の深さ、厳しさ、世話物風が二〇数種に及ぶという。

例えば組踊の創始者、玉城朝薫作の「二童敵討」は、アマオヘ(実在の阿麻和利がモデル)に攻め滅ぼされた護佐丸(ゴサマル)の息子二人が親の仇を討つという忠孝物語である。

「執心鐘入」という作品は、大和の「道成寺」の琉球版のような話で、女の情念と道義の葛藤を描いている。

大城學氏は「組踊のテーマは、封建倫理の徳目である<><>が中心であり、それに王府が介入することが強調されている」「琉球王府は支配の論理を組踊のなかに具現化させてみせた」(沖縄芸能史概論)と指摘している。それは首里王府が管理する組踊であるから、ある意味では当然の帰結ではあるのだろう。 

そのなかで「『手水の縁』は恋愛を主題とした唯一の組踊」(比嘉春潮氏)といわれる。純粋な恋愛物の組踊は、極めて少ない。

しかも、士族と遊女といったような関係ではなく、村の大主(支配者)という家柄の生まれの男女の恋愛である。封建的な道徳・倫理のしがらみ、桎梏を打ち破って男女の自由な恋愛を賛美し、それが成就するという主題が、どんなに時代を突き破った画期的な物語世界であり、作品であるのが明らかである。

 この「手水の縁」が初演されたのは、一八六六年に中国から来た冊封使を歓待するためだったらしい。実に創作されてから一三〇数年もたっている。

 これがいまのところ確認できる最古の上演だという。もう琉球王朝としては最後の国王の冊封の時である。朝敏が国家に対する反逆の政治犯であり、儒教道徳に反するような内容から、上演がされなかったといわれる。

當間氏も、この作品が「男女の情事を忌憚なく写したということと罪人の作だということが、公の晴れの場所で演じられぬ原因」となったという。

しかしながら、「この組踊は他の諸作と趣を異にし、男女の情事を描いたのだから、儒教主義の当時の人には表向きは好まれなかったが、その代り若い人々の血を躍らすものがある」と指摘している

當間一郎氏は「古い頃にはまったく上演されず、台本を読むことさえタブー視されたのだが、村芝居がさかんになると人気をあつめた組踊の一つになって、観る人たちの心をとらえたのである」とのべている。

 

 組踊「手水の縁」の誕生

 平村の大主(村の支配者)の息子・山戸(ヤマト)という若者が瀬長山で花見した帰り波平玉川で髪を洗っている美しい娘・玉津(タマシン)と出会う。玉津にひかれた山戸は、昔から男女の縁結びの行為といわれた手水で水を汲んでほしいと玉津に頼む。いったん断った玉津も山戸の熱い思いを受け入れる。

二人は心が結ばれ、やがて忍びあう恋人になる。山戸は玉津の家に忍び込むが、門番に見つかってしまう。玉津の父親は、親の認めない恋に落ちた、娘を許すことができず家来に殺すことを命じる。

いま処刑にされようとするその時、山戸が駆けつけて、玉津を助けてほしい。もしできないなら一緒に殺してほしいと命がけで訴える。二人の純粋な愛情に心うたれた家来は、二人を逃し、二人は結ばれる。

山戸が語るセリフにこうある。「いかな天竺の 鬼立の御門も 恋の道やれば 開きどしゆゆる」。どんな天竺の鬼といえども、命をかけた若い男女の恋の道はとどめられない、という意味だ。

山戸は「恋忍ぶことや世界にある習い」とも叫ぶ。若い男女が恋慕うことは世界で当たり前のことではないか、という主張だろう。こういうセリフにも、この組踊の主題が集約されているようだ。

最初テレビで観た時に、二人の馴れ初めに戸惑いがあったが、最後まで観ると、これはすごい物語だと驚いた。琉球でも封建社会は、「士階級に恋愛の自由はなかった」のだ。

「士にとって逢い話す自由も得られる異性は遊女だけであった。親の承認しない恋愛には女は足枷をかけて圧服され、男は一門親類の訴えによって、平等所(裁判所)で遠島を申し渡された」(比嘉春潮氏)という時代だった。親が認めない恋愛は不義そのものであった。それが儒教の道徳であり、社会的な秩序でもあった。

それは、恋に落ちた二人が陥った危機になにより表れている。つまり、親の許さない不義をした彼女は、たんに無理やり引き離されるのでない。

親によって斬り殺される。命を奪われるのである。恋をしただけで、自分の愛する娘まで殺さなければ親の世間体がない。そこに、この時代と封建社会の道徳支配の非情な貫徹をみることができる。

 山戸が自分の危険をかえりみず、命を賭して彼女を処刑から救い、自分たちの恋愛を成就させるというこの作品の内容は、いつくかの点で、同時代の組踊、文学とは次元を異にする画期性を有している。

 朝敏は、「手水の縁」を書き上げると尚敬王に差し出したが、封建的義理の否定が主題となっている。

 このため、王は非常に驚き、重大な問題として下臣に謀ったところ、秩序を乱す者として処刑と決定したが、彼の和文学の指導を受けたことのある一五人役(各長官で構成)の一人の多嘉良親方(タカラウェーカタ、親方は間切の領地を有する)の弁明でやっと助かった、というといういきさつがあったとも伝えられる(玉栄清良著「組踊 手水の縁の研究」)。

 011        瀬長島にある「手水の縁」の歌碑    

この「儒教道徳思想が最も忌み嫌い、法度とする恋愛を声高らかに唱えて、組踊化した朝敏の姿勢は、敬服に値するものである」と當間一郎氏は強調している。

ここには、理不尽な儒教道徳、倫理を否定しようとする姿勢がある。それはまた、その道徳を基本的な支柱としている封建社会の秩序に対する抵抗にもつながる。

その道徳と秩序とは、人間が本来的に持っている愛情、その一つである男女の恋愛という、もっとも豊かな人間感情を押し殺すことにたいする根本的な異議申し立てである。そこには、本来、誰も奪うことのできない人間の本性に対する自覚がある。自我への芽を見ることができる。

「人間は誰でも恋愛の自由をもっているんだぞ!」という朝敏の叫びが聞こえてくるようだ。

重要なことは、封建的な縛りを超えた男女の愛情を、この世では成就できないからと、死出の旅に出るとか、来世で成就するとかという現実逃避に終わらせていないことである。

つまり二人の強い意志によって、封建道徳と秩序をも突き動かし、打ち破って恋愛を現世で成就させていることである。恋愛の自由に対する大らかな讃歌が読み取れる。

この点で、近松門左衛門の心中物の浄瑠璃などでの限界をはるかに超えた地点に立っているといって過言ではない。ただし、あくまでも、戯曲としての芸術的な完成度、評価は無視して、その主題についてだけで言えばということではある。

このような封建社会の秩序をなす儒教道徳にたいする挑戦とこれを乗り越えることを公然と主題にした作品世界を作り上げるということは、時の支配者に対する朝敏の感覚にも深いかかわりがあるだろう。

首里王府の政治に対する批判精神なしには書きえない内容である。ただし、「手水の縁」も、玉津が処刑されようとする際に、遺言をのべる際に、山戸が男として生まれたからには「国王にご奉公を」というセリフがある。組踊は国王に差し出しており、その限界を当然、認識した上での表現であるだろう。

009     国立劇場おきなわのロビーにある組踊の説明展示

 この作品にたいする評価から

2012年4月 2日 (月)

琉球の悲劇の文学者ー平敷屋朝敏覚書、その1

赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて

―琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書―
                             

はじめに

 沖縄に移住してまだ一年足らずのうちに、NHK沖縄テレビで初めて組踊(クミウドゥイ)を観た。組踊は歌三線、台詞、踊りを総合したいわば楽劇である。沖縄の誇りある伝統芸能として名高い。この時観た作品が「手水の縁」だった。その時に強い衝撃を受けた。作品内容はあとから紹介するが、最初に戸惑ったのは髪を洗っている女性を見染めて、水を汲んでほしいと頼み、断られるとその場で飛び込み死ぬとまで言う――そのあまりの唐突さだった。しかし、そのストーリーは、親の許さない恋愛を死罪にするという封建的な義理、倫理を乗り越えて二人が結ばれるという内容だった。封建時代にこのような大胆な恋の物語は、大和の浄瑠璃にもない主題なのだ。すごい作者がいるものだと感心した。その名を平敷屋朝敏(ヘシキヤチョウビン)という。しかも朝敏は、政治犯としてはり付けの処刑にされているという解説にまた驚いた。ただものではないことだけは確かだ。ただし、その解説では、この作品を本当に朝敏が書いたのかどうか、後年に他の人物によって書かれたのではないか、という説があるということだった。

この三つの点が強いインパクトをもち、記憶に残った。その後、機会を見ては、朝敏に関連する文献、資料を県立、市立図書館で探して読んでみた。読めば読むほど、彼が琉球王朝の時代を代表する文学者の一人であり、また歴史上も異色の悲劇の人物であることがわかった。沖縄では高い評価を受けていて、少なくない研究がある。でも全国的にはあまり知られていない。知る人ぞ知るという程度だ。もっともっと沖縄以外の人たちにも知ってほしい文学者であり、作品群だということを強く感じだ。この覚書は、こういう問題意識から、いまの時点で自分流に知り得たことをまとめたものである。興味がなければ意味のない文章であるが、少しでも読めるところがあれば眺めてほしい。それだけである。
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 豊見城市瀬長島に建てられた平敷屋朝敏作の組踊「手水の縁」の碑 

朝敏の歩んだ道

平敷屋朝敏は、琉球が薩摩に侵略されてからおよそ九〇年以上たった一七〇〇年、首里金城村で生まれた。尚真王の嫡子、尚維衡の七代目の子孫にあたるといわれる。祖父は大宜味間切(オオギミマギリ)の総地頭(いまの町村にあたる間切の領地を持つ)で、父・朝文は勝連間切の総地頭という出自である。間切とは今の町村ほどの単位になる。琉球は、中国の文化の影響が強かったが、薩摩の支配下におかれた近世の琉球では、日本の和文学が推奨されていた。大和の文学に親しみ、教養を身に付けることは、首里の士族(サムレー)にとって大切な資格だったそうだ。首里王府に仕官する条件として重視されていた。

朝敏は、八歳の頃から和語と和文学を学んだという。一七一八年、一八歳でときの徳川幕府の八代将軍・吉宗の慶賀のために派遣された慶賀使の越来(ゴエク)王子に随行して江戸上りをしている。すでに王府の何らかの役職についていたのだろう。江戸上りは、大和の芸能、文学など文化に接せるまたとない機会である。江戸滞在中に仏教や和文学(源氏物語、伊勢物語、短歌)を学んだという。朝敏の文学の多くが、平安朝の文章に似せた擬古文で書かれた和文学であり、和文学への深い教養が素地になっている。といっても、擬古文の原文は当て字の漢字が多用されとても読みにくい。口語訳が出ていて助かった。

 朝敏の生涯にとって、重要な出来事がその後、起きてくる。その文学的な形成の上でも、影響を与えることになる。というのは、二一歳で結婚したが、首里城内の高貴な女性(時の尚敬王の王妃といわれる)が密かに訪ねてきて、絹の上下衣を朝敏に贈ったという噂が広がった。彼は美男子で女性からとてももてたらしい。それが国王や著名な政治家・蔡温(サイオン)らの知るところとなり、朝敏はその責任を問われ、家屋敷を没収され、職も失った。一家はあちこち転々とし、自分が脇地頭(村=今の字=を領地に持つ)をつとめる勝連間切の平敷屋村に移り住んだ。やがて、嫌疑が晴れて朝敏は再び、職を得て首里に帰ってきた。その後、仕事のかたわら、創作を行ったという。朝敏を悲劇の文学者といったのは、この経歴ではない。

一七三四年、当時、琉球を支配する薩摩が那覇に置いていた監督機関である在番奉行の横目(監視役)、西川平左衛門宅に再三にわたって投書があった。内容は王府を風刺したものだったらしい。朝敏は、王府きっての英才といわれた友寄安乗(トモヨセアンジョウ)ら和文学の仲間とともに15人が捕らえられた。蔡温によってついに6月26日、安謝(アジャ)港で一五人の若者らが処刑された。さらに朝敏の長男は多良間島、二男は与那国島、三男は水納島に島流しになったのである。朝敏の妻のまなびは、身分を百姓に落とされ、高離島(いまの宮城島)に流されたという。事件の真相は記録が残されていないためによくわからないが、投書をしただけでこんなに集団処刑になるのは、稀有のことである。

朝敏のいくつかの作品

朝敏が「手水の縁」の創作に至るまでに、書いた作品を見てみよう。初期の作品に「若草物語」がある。大阪の住吉を舞台とした貧しい武士と遊女・若草の悲恋の物語である。金持ちの大名に連れて行かれた若草を奪い返そうとするが、取り返される。若草は、愛する人と別れ、生きがいのない日々を送り、物思いが積り死ぬ。彼もその後を追う。和歌を織り交ぜた小説世界は、「源氏物語」を意識しているようであるし、近松門左衛門の心中物を思わせる主題である。時代から言えば、すでに近松の浄瑠璃が人気をよんでいたので、接する機会はあっただろう。近松の何らかの影響があったと見る人もいる。

 次の「苔の下」という作品は、琉球の社会の現実の中に題材を求めている。琉歌の二大女流歌人である、遊女・よしやつると仲里按司(アジ)をモデルとした悲恋の物語である。貧しい彼は、恋人を身請けできない。つるの義母は、お金持ちの黒雲につるを売り渡す。彼女は食事も湯水さえ飲まず死ぬ。彼もその後を追う。前作と同じ悲恋物であるが、薄幸の遊女や貧しい主人公への作者の同情がある。以上の二作品は朝敏二七、二八歳頃の作品という。よしやは「お金のために人の愛を破らないで下さい」と叫ぶ。男女の愛情が金の力でねじ曲げられることへの反発が根底に感じられる。

主題から言えば近松の何らかの影響があったかもしれないが、拙文「覚書」の結論にかかわるが、朝敏のすごいところは、この近松的な悲恋を乗り越える作品世界を作りあげたことにある。当初、影響を受けたにせよ、それにとどまらない地平に立つことを意味する。

 「貧家記」は、首里を追われ、平敷屋で失意の生活を送った体験を日記風につづった物である。「あはれその畑打ち返す せなかより 流るる汗や 瀧つ白波」。働く農民を見て詠んだ和歌である。自分は貧しいがまだ安楽に暮らせるだけ農民より恵まれていると感じる。首里を追われた士族の貧しさと民・百姓の悲哀が映し出されている。そこには、この境遇を強いられているものとして、現実社会への厳しい目と弱者に対して注がれる愛情が感じ取られる。こうした体験を通して、政治に対する鋭い現実感覚が養われたのだろう。それは、たんに傍観者として見るだけではなく、後々に行動となって現われる。

003_2   「貧家記」の和歌が刻まれた歌碑を訪ねた(うるま市の平敷屋に建つ)

 朝敏は、脇地頭として在任中、この平敷屋に滞在した折に、農民の水不足を解消するために、用水池を掘り、その土を盛りつけてタキノー(小高い丘)を造ったと伝えられている。この地には、朝敏を偲んで一九八六年、歌碑と碑が建てられた。碑文には、次のように記されている。「朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの自分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい眼差を向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました。思えば、朝敏の憂き目は、当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった、と言い得ることである」。

「萬歳」という作品は、首里に帰ってきて数年後のものだ。安里の按司の息子・白太郎は勝連の浜川殿の真鍋樽金という姫君を一目見て恋に落ちるがすでに姫はある地頭の息子に嫁ぐことが決まっていた身。白太郎は海辺で自殺をはかり、倒れた彼を見つけた姫も身を投げようとする。その時、姫が祈りをする御嶽(ウタキ)の神の化身が現れて二人を助け、二人はめでたく結ばれる。前の二作のように心中という絶望的な結末ではなく、それを乗り越える新たな境地が生まれている。「萬歳」というのは村々を回る乞食のことだ。白太郎は「萬歳」から美しい姫のことを教えてもらったことからこの題名にしているが、「萬歳」はまた「ばんざーい」という愛が実った喜びの表現ともとれる。二重の意味を込めているのではないか。

ここには自分の意思を無視した婚約という封建的な義理を神の啓示の形で真っ向から否定する姿勢がある。当時の人間をしばっていた義理、倫理を拒否し、個人の自由な恋愛をなによりも優先し、それを成就させるというこの小説の主題は、封建社会の道徳に対する不同意の意思が示されている。そして、朝敏の思想的な大きな変化が表れている。

又吉洋士氏は「現実と対決する姿勢がみられる」「彼は封建社会への批判を<恋愛>という社会的な具体性をもっていないもので撃ち、後年それを現実的な社会批判として実行に移した」と述べている。(「平敷屋朝敏―琉球独立論の系譜」)。

 仲原裕氏は「平敷屋朝敏作品集」の解説でこう指摘している。「一八世紀初頭の琉球の社会で最もみじめな存在は、貧士貧民殊にその婦女子であった。服従することを善とする考え方によれば、郭に売られた女は、義母の命にしたがって嫌いな男にでも買われてゆくことを善としなければならない。しかし、人間は、いくら封建社会であっても、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いなのである。この封建的義理と人間的情愛の葛藤をテーマにし、人間を義理の犠牲から助けようとしたのが、平敷屋朝敏の作品であろう」「時の政治権力や金権に対するレジスタンスの心を作品にしたのではないかと思われる」。

 それをさらに大きく歩を進めたのが組踊「手水の縁」である。音楽、演劇、舞踊を総合した組踊は、今から二九〇年ほど昔に誕生した。一七一九年九月、琉球国王を任命するため中国から皇帝の代理として来た冊封使を歓迎する「重陽の宴」で初めて上演された。組踊は冊封使を歓待するために創作されたという。その生みの親は、玉城朝薫(タマグスクチョウクン)といわれる。首里王府の踊奉行に三度任命された。踊奉行という役職が王府にあったこと自体、琉球ではいかに芸能を重視していたのかがうかがわれる。朝薫は、「二童敵討」「執心鐘入」など「五番」と呼ばれる五つの作品を創作し、いまでもよく上演される組踊の代表的な作品となっている。この朝薫より一六年遅く生まれたのが平敷屋朝敏であった。

2012年4月 1日 (日)

琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて、その4

奄美に由来する踊りも

 「諸屯(シュドゥン)」という曲集は、3曲ある。最初は、「仲間節」である。

「♪思事(ウムクトゥ)の有ても 他所(ユス)に語られめ 面影(ウムカジ)と連(チ)れて 偲(シヌ)で拝(ウガ)ま」

「あなたのことをお慕いしていても この思いを他人に語ることはできません あなたの面影を抱きしめながら そっと忍んで逢いに会いに行くのです」

中踊りが、奄美に由来する「諸屯節」である。諸屯とは、奄美大島の加計呂麻島(カケロマジマ)の地名だ。ここには「諸屯芝居」といわれる700年の伝統を持つ芸能があることで知られている。「諸屯節」はこんな歌詞である。

「♪枕並(マクラナラビ)たる 夢(イミ)のつれなさよ 月(チチ)や西下(イチサガ)り 恋(クシ)し夜半(ヤファン)」

「愛する人と手枕をかわしている夢から目が覚めた 何と無情なことよ 月ははや西に傾いてすでに夜半過ぎ 冬の夜の独り寝のわびしさが身にしみる」

奄美大島は、薩摩が侵攻してくるまで、琉球王国の支配下にあった。伝承では、琉球の金武(キン)王子がこの地に赴任して、諸屯部落の気立てのよい娘「ふさまつ」を見染めた。身分を隠して恋慕の情を打ち明けたが、袖にされてしまった。任期が終わり、首里に帰ったものの、娘のことが忘れられない。せめて顔だけでも見たいと、女官に任命して首里に招くことまでしたという。そんな金武王子の恋情を詠んだ歌だという。

最後に「しやうんがない節」がくる。

「♪別(ワカ)て面影(ウムカジ)の 立たわ伽(トゥジ)めしゃうれ 馴れし匂い袖(ニウィスディ)に 移(ウチ)ちあもの」

「別れた後 もしも私の面影が立つのなら この着物をそばに置いていてください 私の匂いは着物の袖に移してありますから」

「私の匂いを着物の袖に移してある」とは、なんと優雅な表現だろうか。3曲いずれも、とても味わいの深い琉歌である。それだけに、「諸屯」は、女踊りのなかでも、最も難しい踊りだと聞く。

重要無形文化財に認定された琉舞の第一人者である玉城節子さんは「古典女踊りの一つで、最高傑作とされています」という。

「満たされぬ思い、内向する激しい女の心が極度に抑制された所作の中に凝縮された美となって描かれています」(『翔舞―琉舞に魅せられて』)

  写真は玉城節子さん(『翔舞』から)。

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恋の心を踊る女踊り

琉球舞踊の中でも、とくに女踊りは、恋の歌が多い。たとえば、古典女七踊りと呼ばれる踊りがある。「作田節(ティクテンブシ)」「かせかけ」「伊野波節」「諸屯」「柳(ヤナジ)」「天川」「本貫花」の七曲であるが、そのうち「作田節」「柳」の他は5つとも恋の歌である。

 女踊りの優美で繊細な表現が、愛しい人への恋心、偲び逢う恋仲の情愛、逢いたくても逢えないつらさや別れの切なさなど、恋歌を表現するのにふさわしいからだろうか。

 ということで、舞踊曲の中の恋歌は、とっても多いので紹介すると果てしがない。

あらためて感じるのは、恋を主題とした古い琉歌は、とっても味わいがあるということ。

舞踊も同じである。とくに「女踊り」は、足の運びから腰の使い方、顔の面や目のあて方、手や指のこなしなど、ゆったりとした踊りのなかに豊かな表現がある。所作は一つ一つ意味がある。「月見手(チチミテ)」とは、月を見る表現であり、「まくら手」とは、思い出の異性に手をかけようとして、ハッと自分のまくらに手をかける姿を示す。

 「踊りはわずかな動きや振りを取り入れているので、踊り手は細かな心づかいを表現する演技力(思い入れ)が必要となる。最小限の所作によって、最大の感動を与えるところに、女踊の魅力があるといえよう。恋をテーマにした曲目が多く、恋の心を踊っているといってもよい」。大城學氏は『沖縄芸能史概論』でこう指摘している。

 最後に、「舞踊」と一口にいうが、沖縄でいう踊りと、舞とは少し違うという。「酒宴の即興的な踊り、綱引きなどの女たちの勝手な動作の踊り、など、感動を所作で表現する自由型のものは舞といい、『何々踊り』と一定の型に従って踊るのを踊りといいます」(川平朝申著『おきなわの歌と踊り』)。

 ここでは、一定の型にもとづく踊りである琉舞を見てきた。これは、首里王府で完成された踊りであるが、庶民のなかでは、様々な祭祀と結び付いて豊かな民俗芸能があり、舞踊がある。

宮古島には、クイチャーという円形になって踊る集団の踊りがある。クイチャーとは声を合わせることである。エイサーは、本島の中部がとくに盛んだ。エイサーの起源は念仏踊りだと聞く。旧盆の時に地域を練り歩き踊る。いまも青年会を中心に盛んだ。それに舞踊集団による創作エイサーが加わり、発展している。子どもたちも、エイサーはとっても人気があり、踊りに加わっている。

本島北部のシヌグ、ウンジャミなどの祭りで踊られるウスデーク(臼太鼓)は、女性だけが円陣を組んで踊る。内容は恋歌や教訓歌などだという。

大宜味村謝名城(ジャナグスク)のウンジャミは、漁労や狩猟の模倣儀礼を行ない、村の女たちの祭りであるウシデークと呼ばれる踊りになる。この歌と踊りにはとても興味がある。このとき歌われるウンジャミのウムイは、つぎのような歌意である。

「海の彼方ニライ・カナイからこの島にいらっしゃって、神さまたちは神遊びに慣れ、踊りに慣れておられるから、この狭い島ではさぞかし踊ることもできず、神遊びもし足らず踊り足らないことでしょうが、どうか精いっぱい楽しく歌い踊ってください」(矢野輝雄氏著『沖縄舞踊の歴史』)。

沖縄では、海の彼方にあるニライ・カナイに神様がいると考えられている。そこから島に来る神様は、歌と踊りがとても好きだと考えている。そこには、島に住む自分たちが、歌と踊りを愛していることの投影があるだろう。

043    屋慶名ハーリーの応援は、おばあたちが太鼓を打ち鳴らし踊る

古来から、島の人々は村の御嶽(ウタキ)と呼ばれる拝所で祭祀を行ない、豊穣を祈り、歌と踊りを奉納してきた。祭りと芸能は深く結びついている。こうした伝統は、いまも脈々と受け継がれて、沖縄の島々、村々に息づいている。生活の中に深く根を下ろしている。そこには、恋歌もあれば、五穀豊穣や世果報(ユガフウ、豊年)、子孫繁栄や雨乞いを願うなど、庶民のさまざまな願いや喜怒哀楽が盛り込まれている。

それに、なによりも、歌い踊ることが、日々のきびしい労働や貧しさ、さまざまな苦労や不幸などを忘れて、乗り越え、疲れを癒して、新たな生命力を生み出していく、大事な源泉にもなってきたのである。

「沖縄の歌と踊りのもつ躍動感は、取りも直さず島の人たちの生命力の象徴である。生きる力のほとばしりこそ島々の歌であり踊りであった」(矢野輝雄氏著『沖縄舞踊の歴史』)。

 だから、いまでも何かあればすぐに踊る。さまざまな祭りや芸能を発表する場では、舞踊は欠かせない柱である。なにより、ちょっとしたお祝いの席、宴席などでも、歌三線があればすぐに踊りが飛び出す。スーパーのイベントで、民謡歌手のミニライブがあっても、かならず踊り出す人が出る。おばあもおじいも、子どもまで踊り出す。選挙のさい、当選した時もかならずみんながカチャーシーを踊る。祭りや祝いの場は、最後は必ずカチャーシーで踊るのが恒例だ。これがなければ終われない。

大和では、専門に踊る人はたくさんいるが、日々の生活の場で、だれもが踊ると言う習慣はほとんど消えているだろう。でもでも、沖縄では、歌三線も踊りも芸能が暮らしの中に生き続けている。沖縄は、歌の島であり、踊りの島でもある。

といっても私はまだ、琉舞を何回か見たことはあるが、じっくりと真剣に観賞したことがほとんどない。琉球舞踊を観賞し理解できなければ、沖縄の芸能を本当に理解したとはいえない。踊りの表現する世界は、自分にとってまだまだ未開拓の分野である。これから、機会があれば、琉舞にもっと親しんでいきたいという思いを新たにした。

           (終わり。2010年7月31日 文責・沢村昭洋) 

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