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2012年4月26日 (木)

沖縄に漁業を奨励した上杉茂憲、その1

沖縄に漁業を奨励した上杉県令

 「琉球処分」で琉球王国が廃止され、沖縄県になってから2代目の沖縄県令(いまの知事にあたる)に上杉茂憲(モチノリ)がいる。上杉は県内各地を巡礼して『巡回日誌』を残したことで知られる。1881年(明治14)5月18日に任命され、一カ月をかけて本島の南部から中頭、国頭まで全35間切(いまの町村)を巡回した。さらに久米島、宮古島、八重山の各島々をそれぞれ半月にわたり視察した。
 東北の米沢藩出身で最後の藩主だった上杉が、自分の県令として職責をまっとうするために、まだ交通も不便だった時代に、県内の離島を含めて巡回して、つぶさに記録を残していることは、驚くべきことだ。そのなかに、沖縄県発足の当時の沖縄の漁業の現状をうかがう記述がいくつもある。

 すでに「大漁唄がない沖縄の不思議」で、海に囲まれた沖縄で、日常生活に食料として魚を獲って食することはどこでもあるが、魚を獲ることを専業とする意味で、漁業を営む地域は、糸満以外にはほとんどなかったことを書いた。これを書いた時も、上杉県令が国頭(クニガミ)地方を視察したさい漁業を奨励したことを書いておいた。

Photo

 

でも、『巡回日誌』を詳しく読むと、沖縄での産業振興の上で、漁業の条件に恵まれながら、漁業が盛んでないことに留意して、漁業をめぐる事情を聴取して、たびたび意見をのべている。その中から、目についたおもなものを紹介しておきたい。

 注・原文はカタカナだが読みにくいので、ひらがなの表記とした。「間切(マギリ)」とは、いまの町村の単位。いくつもの村で構成されており、「村」はいまの字にあたる。

 兼城間切糸満村

当時の糸満村は、首里、那覇(当時は別の自治体)に次ぐ「一大部落」だった。糸満は「漁業を以て恒産とす」。そして「漁し獲る所の魚鰕(エビ)は、皆那覇に運搬して鬻く(ヒサク、売る)、該地沖縄漁業の鼻祖たるを以て、本島沿海の地は無論、先島諸島等へ派出し、その利権を専にす」とのべている。
 つまり、糸満村は漁業を専業として営み、漁で獲れた魚やエビなどはみんな那覇に運搬して売りさばいている。糸満は、沖縄の漁業の先進地であり、本島の沿海部から宮古、八重山の先島にも進出して、漁業を繰り広げ収益をあげていることを明らかにしている。

 勝連間切津堅島

勝連番所で津堅島(ツケンジマ)の様子を聞いた。「人口400人、蕃薯は他間切に比すれば、味最も宜し、往々輸出をなし、農業の余力を以て、漁業に尽力す、浜比嘉島、大概津堅島に同し」。あくまで農業が中心であり、余力で魚を獲っているようだ。

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         豊漁を祈願し魚の神輿を担ぐする平安座島の伝統行事・サングヮチャー

 与那城間切

                  

与那城番所で、平安座島(ヘンザジマ)、宮城島などの概況を聞いた。「薯麦米豆等を産し糧食に不足なき内、平安座は、少々不足なり、然し漁業の利を以て之を補助す、高離(宮城島)伊計の二島は、島中の作物を以て、自活するに足れり」。ここでは三島のうち、宮城、伊計の二島は農産物で食料が足りるが、平安座島は足りないので漁業をしていることが紹介されている。なぜ平安座だけ足りないのか、農地と人口の関係なのだろうか。ただ平安座はかなり昔から、漁業をしているらしい。
 番所で、「今平安座島を、巡視せしに、漁業の具を認めざるは如何」と質問すると「皆漁業稼きの者、出船せし跡なり」と答えている。ここでは、農業の暇にというよりも、みんなが漁業に励んでいる様子がうかがえる。

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