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2012年4月29日 (日)

沖縄に漁業を奨励した上杉茂憲、その3

宮古島

離島の現状はどうだったのか。上杉県令は、久米島、宮古島、石垣島について巡回して報告している。ただし、久米島、石垣島には、漁業についての記述がない。記述があるのは宮古島である。

宮古島に渡った上杉県令は、「海猟を営むものはなきや」質問した。「猟する者はなきにあらされとも是を営業とする者はなし」と答えている。重ねて問答が繰り返された。「近海には魚少なきや」「甚多し」、「如何なる魚ありや」「永良部鰻、蛸、海賊(烏賊=イカの間違い?)、大蝦(伊勢エビか?)は最も多し」、「然らは已後農業の余隙を以て一層盛大に漁業を興すは如何」「尤も農業の余暇には魚漁を為す者あり唯専業とする者なきのみなり」。

そのあと上杉県令は「汝等の考にては如何思ふや当地は多分の荒蕪地も無き様に聞き及へり就ては富国の一助ともなるへきに付爾来は猶漁業を盛大にするの見込みなきや」と漁業を盛大にするように促すと、「如仰至極尤ものことと存するに付余暇次第漁業を盛大にする様心掛けへし」と答えた。また「糸満辺より魚猟に来る者なきや」「遇々に来る者あり」と答えている。

宮古島でも、魚を獲る者はいるが、あくまで農業の暇に魚を獲るにすぎない。漁業を専業とする猟師はいない。糸満海人が漁業に出かけていた様子がうかがえる。上杉県令は、宮古島は漁業の条件に恵まれているが、土地は開拓できる荒蕪地(荒れて雑草など生い茂った土地)はないので、漁業の振興を奨励している。島の役人らは、上杉の意見に「至極尤も」と同意しているが、あくまで「余暇次第漁業を盛大にする様心掛け(る)」とのべている。これは、農業を基本にしながら、その余暇に漁業をするよう心掛けるというのにすぎない。

045          石垣島の川平湾(文章とは関係ない)

八重山、宮古島では、貧富にかかわらず人間の頭割で税金を課す人頭税が強いられていた。人頭税は、米、粟、貢布など現物で納税することが原則である。たとえ漁業で収益をあげても、現金で納税することはできない。これでは、重税に加え現物納税を求められる庶民は、漁業を盛大にすることなど、とてもできない。

上杉県令は、県内を巡回することによって、王府時代の制度をそのまま残した「旧慣温存策により過重な租税負担のために疲弊の極にある県内の農村」の現実を見て、「二回に亘って根本的改革の必要を上申した」(『沖縄県史11』の「沖縄県日誌解題」)のである。「旧慣」は、先島の人頭税を始めとする重い税制と農地の個人所有を認めず、農民に一定の年限で耕作地を割り替える古い土地制度などが柱であり、農民はまるで「納税奴隷」のような存在にされたままだった。旧支配層と役人は、この旧慣の上にあぐらをかき、甘い汁を吸ってきた。だから、改革には強く抵抗した。政府は上杉の改革の上申に応じずに旧慣温存を続け、上杉県令を更迭した。

上杉県令が漁業を奨励した後、県内の漁業ははたして発展に向かったのか。上杉県令が巡回した七年ほど後、一八八八年(明治二十一)に、沖縄の水産事情を調査した西南地区中央水産調査員の報告がある。

「各島々の沿岸に住む人々、生活を営む途はおおむね農業を専業としており、漁業に従事する者はきわめてまれである。こうしたなかで、本島島尻地方兼城(カネグスク)間切糸満村は、管下第一の漁村で、その漁業に熱心なのは驚くべきものがある」と記録されている。一八八七年(明治二十)代では、漁業を専業とするものはほとんど糸満漁民にかぎられていた(『沖縄の歴史第二巻近代編』の「第三節水産業」)。

漁業の専業者の推移を見てみると、明治20年(1887)にはわずか1234人しかいない。明治25年(1892)でも1934人とあまり増えていない。明治26年(1893)に2684人に増え、明治27年(1894)5532人に増えた。といっても、先にのべたように、県内人口のわずか1%にすぎなかったのである。

さらに、上杉県令の巡回から22年ほど後の1903年(明治36)に書かれた『沖縄県土地整理紀要』の附録・第5章風土民物に、漁業の現状についての記述がある。

「本県の地勢上海岸線の長くして魚塩の利多きに比すれは其産額頗(スコブ)る少量にして、事業旺盛ならす」(『沖縄県史第3巻各論編2経済』、カタカナをひらがなに直した)と記している。また漁業者は4000余戸あるが、糸満、港川、久高島、奥武島など数カ所における専業者であるとのべている。

翌年に書かれた『沖縄県森林視察復命書』第1章総説でも、同様に「水産業者は六千余あれとも、地勢上海岸線の長くして魚塩の利多きに比し頗る不振にして⋯⋯」(同『沖縄県史第3巻』)とのべ、やはり海に囲まれ海岸線は長いのに、漁業は極めて不振であることを記している。

カツオ漁について、鹿児島県や宮崎県の漁業者からカツオ釣りの方法やカツオ節の製造を学んで、沖縄でカツオ漁とカツオ節製造が発展してくるのも、1900年(明治33年)代に入ってからである。
 鰹漁獲高を見ると、明治31~35年平均で1万300貫だったのが、明治42~大正2年平均では、39万2016貫と、明治後期から急増し、40倍近くになっている。(『沖縄県史第3巻』掲載の「農商務統計表」から)

このように沖縄でなかなか漁業が広がらなかったのには、他にもいくつかの要因がある。たくさん魚を獲っても、売りさばく大きな消費地が近くにない。遠隔地に運ぶには、鮮魚を保存する必要があるが、沖縄には、魚を干物にする習慣がない。豚肉の塩漬けはあっても、魚の塩漬け、醤油漬けもない。冷凍の氷もない。
 大和の場合は、日本列島には海からは遠い、内陸部や山岳地方がたくさんあり、海産物の保存加工が発達した。たとえば、富山で獲れたブリが、塩漬けされ飛騨地方に運ばれ「飛騨ブリ」として野麦峠を越えて信州の松本に運ばれた。駿河(静岡県)、相模(神奈川)から海産物が塩漬け、醤油漬けの保存加工されて、海のない甲斐(山梨)に運ばれた。中でもアワビは馬で運ぶうちに醤油がしみてちょうど良い味になった。「鮑の煮貝」として山梨の名産である。京都も海のない都には、各地から保存加工された海産物が集まった。ニシンの干物である身欠きニシンを使ったニシンそばは有名である。015

    牧志公設市場でのマグロの解体ショー。沖縄は生マグロが美味い

沖縄は島国だから、干物や塩漬けをつくる必要はなかっただろう。県内のどこでも、沿海部や海に近い場所なので、いつでも魚は獲れるからだ。これは、昔だけではなく現代でも同じである。沖縄産の干物を食べたいと思っても、どこにもない。スーパーで干物を売っているのは、たいていが九州など大和産である。

しかし、これらは、漁業があまり発達しなかった背景としては、副次的な要因にすぎないだろう。根本的には、王府時代以来の農業重視の政策と過酷な税制が続いたからである。

宮古島では、上杉が巡回した10年余り後、1892年(明治25)から、農民たちは人頭税の廃止を求めて立ち上がった。人頭税廃止運動は、沖縄県の歴史でも画期的な庶民の抵抗運動だったが、実際に人頭税が廃止されたのは、それからさらに10年後1903年(明治36)である。

人頭税を始め、王府時代からの古い土地、税制の「旧慣」は、農業による搾取が基本とされており、農業重視の政策を続けられてきた。地方役人は、漁業を奨励されても、実際にはなかなか漁業の振興に力が入らないし、農民は漁業にいそしむ余裕はなかっただろう。

1899年(明治32)にようやく旧慣改革に向けた土地整理が始まった。旧慣が改革されたことが、糸満など一部の地域ではなく、沖縄県内の各地で漁業が発展する条件を切り開いたのではないだろうか。これが、私なりの勝手な推理であり、結論である。

 (終わり。二〇一二年四月二六日   文責・沢村昭洋)

 

 

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