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2012年4月 1日 (日)

琉球舞踊は恋の琉歌に満ちて、その4

奄美に由来する踊りも

 「諸屯(シュドゥン)」という曲集は、3曲ある。最初は、「仲間節」である。

「♪思事(ウムクトゥ)の有ても 他所(ユス)に語られめ 面影(ウムカジ)と連(チ)れて 偲(シヌ)で拝(ウガ)ま」

「あなたのことをお慕いしていても この思いを他人に語ることはできません あなたの面影を抱きしめながら そっと忍んで逢いに会いに行くのです」

中踊りが、奄美に由来する「諸屯節」である。諸屯とは、奄美大島の加計呂麻島(カケロマジマ)の地名だ。ここには「諸屯芝居」といわれる700年の伝統を持つ芸能があることで知られている。「諸屯節」はこんな歌詞である。

「♪枕並(マクラナラビ)たる 夢(イミ)のつれなさよ 月(チチ)や西下(イチサガ)り 恋(クシ)し夜半(ヤファン)」

「愛する人と手枕をかわしている夢から目が覚めた 何と無情なことよ 月ははや西に傾いてすでに夜半過ぎ 冬の夜の独り寝のわびしさが身にしみる」

奄美大島は、薩摩が侵攻してくるまで、琉球王国の支配下にあった。伝承では、琉球の金武(キン)王子がこの地に赴任して、諸屯部落の気立てのよい娘「ふさまつ」を見染めた。身分を隠して恋慕の情を打ち明けたが、袖にされてしまった。任期が終わり、首里に帰ったものの、娘のことが忘れられない。せめて顔だけでも見たいと、女官に任命して首里に招くことまでしたという。そんな金武王子の恋情を詠んだ歌だという。

最後に「しやうんがない節」がくる。

「♪別(ワカ)て面影(ウムカジ)の 立たわ伽(トゥジ)めしゃうれ 馴れし匂い袖(ニウィスディ)に 移(ウチ)ちあもの」

「別れた後 もしも私の面影が立つのなら この着物をそばに置いていてください 私の匂いは着物の袖に移してありますから」

「私の匂いを着物の袖に移してある」とは、なんと優雅な表現だろうか。3曲いずれも、とても味わいの深い琉歌である。それだけに、「諸屯」は、女踊りのなかでも、最も難しい踊りだと聞く。

重要無形文化財に認定された琉舞の第一人者である玉城節子さんは「古典女踊りの一つで、最高傑作とされています」という。

「満たされぬ思い、内向する激しい女の心が極度に抑制された所作の中に凝縮された美となって描かれています」(『翔舞―琉舞に魅せられて』)

  写真は玉城節子さん(『翔舞』から)。

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恋の心を踊る女踊り

琉球舞踊の中でも、とくに女踊りは、恋の歌が多い。たとえば、古典女七踊りと呼ばれる踊りがある。「作田節(ティクテンブシ)」「かせかけ」「伊野波節」「諸屯」「柳(ヤナジ)」「天川」「本貫花」の七曲であるが、そのうち「作田節」「柳」の他は5つとも恋の歌である。

 女踊りの優美で繊細な表現が、愛しい人への恋心、偲び逢う恋仲の情愛、逢いたくても逢えないつらさや別れの切なさなど、恋歌を表現するのにふさわしいからだろうか。

 ということで、舞踊曲の中の恋歌は、とっても多いので紹介すると果てしがない。

あらためて感じるのは、恋を主題とした古い琉歌は、とっても味わいがあるということ。

舞踊も同じである。とくに「女踊り」は、足の運びから腰の使い方、顔の面や目のあて方、手や指のこなしなど、ゆったりとした踊りのなかに豊かな表現がある。所作は一つ一つ意味がある。「月見手(チチミテ)」とは、月を見る表現であり、「まくら手」とは、思い出の異性に手をかけようとして、ハッと自分のまくらに手をかける姿を示す。

 「踊りはわずかな動きや振りを取り入れているので、踊り手は細かな心づかいを表現する演技力(思い入れ)が必要となる。最小限の所作によって、最大の感動を与えるところに、女踊の魅力があるといえよう。恋をテーマにした曲目が多く、恋の心を踊っているといってもよい」。大城學氏は『沖縄芸能史概論』でこう指摘している。

 最後に、「舞踊」と一口にいうが、沖縄でいう踊りと、舞とは少し違うという。「酒宴の即興的な踊り、綱引きなどの女たちの勝手な動作の踊り、など、感動を所作で表現する自由型のものは舞といい、『何々踊り』と一定の型に従って踊るのを踊りといいます」(川平朝申著『おきなわの歌と踊り』)。

 ここでは、一定の型にもとづく踊りである琉舞を見てきた。これは、首里王府で完成された踊りであるが、庶民のなかでは、様々な祭祀と結び付いて豊かな民俗芸能があり、舞踊がある。

宮古島には、クイチャーという円形になって踊る集団の踊りがある。クイチャーとは声を合わせることである。エイサーは、本島の中部がとくに盛んだ。エイサーの起源は念仏踊りだと聞く。旧盆の時に地域を練り歩き踊る。いまも青年会を中心に盛んだ。それに舞踊集団による創作エイサーが加わり、発展している。子どもたちも、エイサーはとっても人気があり、踊りに加わっている。

本島北部のシヌグ、ウンジャミなどの祭りで踊られるウスデーク(臼太鼓)は、女性だけが円陣を組んで踊る。内容は恋歌や教訓歌などだという。

大宜味村謝名城(ジャナグスク)のウンジャミは、漁労や狩猟の模倣儀礼を行ない、村の女たちの祭りであるウシデークと呼ばれる踊りになる。この歌と踊りにはとても興味がある。このとき歌われるウンジャミのウムイは、つぎのような歌意である。

「海の彼方ニライ・カナイからこの島にいらっしゃって、神さまたちは神遊びに慣れ、踊りに慣れておられるから、この狭い島ではさぞかし踊ることもできず、神遊びもし足らず踊り足らないことでしょうが、どうか精いっぱい楽しく歌い踊ってください」(矢野輝雄氏著『沖縄舞踊の歴史』)。

沖縄では、海の彼方にあるニライ・カナイに神様がいると考えられている。そこから島に来る神様は、歌と踊りがとても好きだと考えている。そこには、島に住む自分たちが、歌と踊りを愛していることの投影があるだろう。

043    屋慶名ハーリーの応援は、おばあたちが太鼓を打ち鳴らし踊る

古来から、島の人々は村の御嶽(ウタキ)と呼ばれる拝所で祭祀を行ない、豊穣を祈り、歌と踊りを奉納してきた。祭りと芸能は深く結びついている。こうした伝統は、いまも脈々と受け継がれて、沖縄の島々、村々に息づいている。生活の中に深く根を下ろしている。そこには、恋歌もあれば、五穀豊穣や世果報(ユガフウ、豊年)、子孫繁栄や雨乞いを願うなど、庶民のさまざまな願いや喜怒哀楽が盛り込まれている。

それに、なによりも、歌い踊ることが、日々のきびしい労働や貧しさ、さまざまな苦労や不幸などを忘れて、乗り越え、疲れを癒して、新たな生命力を生み出していく、大事な源泉にもなってきたのである。

「沖縄の歌と踊りのもつ躍動感は、取りも直さず島の人たちの生命力の象徴である。生きる力のほとばしりこそ島々の歌であり踊りであった」(矢野輝雄氏著『沖縄舞踊の歴史』)。

 だから、いまでも何かあればすぐに踊る。さまざまな祭りや芸能を発表する場では、舞踊は欠かせない柱である。なにより、ちょっとしたお祝いの席、宴席などでも、歌三線があればすぐに踊りが飛び出す。スーパーのイベントで、民謡歌手のミニライブがあっても、かならず踊り出す人が出る。おばあもおじいも、子どもまで踊り出す。選挙のさい、当選した時もかならずみんながカチャーシーを踊る。祭りや祝いの場は、最後は必ずカチャーシーで踊るのが恒例だ。これがなければ終われない。

大和では、専門に踊る人はたくさんいるが、日々の生活の場で、だれもが踊ると言う習慣はほとんど消えているだろう。でもでも、沖縄では、歌三線も踊りも芸能が暮らしの中に生き続けている。沖縄は、歌の島であり、踊りの島でもある。

といっても私はまだ、琉舞を何回か見たことはあるが、じっくりと真剣に観賞したことがほとんどない。琉球舞踊を観賞し理解できなければ、沖縄の芸能を本当に理解したとはいえない。踊りの表現する世界は、自分にとってまだまだ未開拓の分野である。これから、機会があれば、琉舞にもっと親しんでいきたいという思いを新たにした。

           (終わり。2010年7月31日 文責・沢村昭洋) 

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