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2012年4月 9日 (月)

沖縄で愛されるジョン万次郎、その2

わずか半年ほどの滞在だったのに、琉球語も勉強したというのは、驚きだ。ウチナーグチとよばれる沖縄語は、同じ日本語を母体としながら、方言というより独立の言語と呼べるほど難しさがある。沖縄に住んで三年を超えた私たちでも、まだごくわずかしか分らない。第一、沖縄人自身が、いまや沖縄語が分らない人が多くなっている。戦前から学校教育で方言を排除し、共通語を徹底することが追求されてきたからだ。万次郎も、土佐の漁師だったので話せたのは土佐弁だけである。それも一〇年にわたる外国暮らしで忘れてきていた。この沖縄滞在中に沖縄語を勉強したというのは、万次郎の旺盛な知識欲と、琉球の人々と少しでも交流したいという思いが感じられる。

050 ジョン万次郎記念碑の台座に碑建立の趣意が刻まれている

「ジョン万次郎を語る会」刊行の長田亮一氏著の『ジョン万次郎物語』は、村民との交流の模様を次のように記しています。徳門家には美人姉妹がいて、万次郎は二人の姉妹に好感を抱き、土佐の話やアメリカの話などを聞かせた。夜になれば、星空のもと、自分を取り巻く村の青少年たちに、航海術で学んだ星座や天体の仕組みなどを話したという。たとえ、半年の短い期間であっても、異国の土佐人で、しかもアメリカで暮らし、世界を航海して来た万次郎の滞在とその話は、村民にとっても強い印象を与えたことは疑いない。

万次郎が、鹿児島に向けて出発する際には、「郷里に無事着いたら便りを出しますが、若し便りがなかったら処刑されたものと思って下さい」といった別れの挨拶をしたという。万次郎は、みずから製作し大切にしていた六尺棒を形見として徳門家の主(あるじ)に進呈した。後年、病魔が沖縄南部一帯で蔓延した時、徳門家の家族が一人も病気にならなかったのはこの六尺棒のお蔭だとして、守護神のように大切にされていたが、沖縄戦で消失したという。また、万次郎が江戸に住むようになってから、一冊の分厚い本を徳門家に寄贈した。今次大戦時、アメリカ帰りの万次郎が昔滞在したというだけで、徳門家は昭和一九年(一九四四年)の戦争末期に、憲兵隊や特高の立入調査の対象にされ、万次郎が贈った本も検閲された。それもまた戦火の中で消失したという。これも、長田氏が著書で紹介している話である。

なぜ万次郎は琉球に上陸したのか

万次郎が琉球に上陸したのは、たまたま乗船した商船が近くを通ったからなのか。そうではない。当時、徳川幕府の鎖国政策の中で、漂流であっても国外への渡航はご法度であり、帰国すれば打ち首にされかねない。万次郎も打ち首を恐れていた。だから、どのようにすれば無事に帰国できるのかはよくよく検討しなければならない事柄であった。

万次郎は、前から帰国するなら琉球に上陸するのがよいと考えていた。「鎖国している日本へはいるには琉球諸島がいちばん都合がよいので、便船を得て琉球の近くまで航海して、そこで本船を離れてボートで島の一つに上陸しようともくろんでいた」(中浜明氏著、前掲書)のである。

村田典枝氏(沖縄キリスト教学院大学准教授)は、論文「ジョン万次郎とその生涯」で次のように指摘している。「万次郎は外国人たちから日本の鎖国政策についてかなり情報を得ていた。そこで、直接日本本土に上陸するよりも琉球に上陸した方が、安全で、成功率も高いと判断していた」。

なぜ、日本本土ではなく、沖縄が一番都合よいのか、成功率が高いのだろうか。いくつかの理由が考えられる。一つは、琉球の歴史的な特殊性である。琉球は、長く独立国であり、中国と冊封(さっぽう)関係にあった。冊封関係とは、琉球国王が中国皇帝の臣下になり、皇帝に朝貢し、皇帝から国王として任命を受けることである。冊封体制は、一四世紀以来、五〇〇年近くも続いている。薩摩藩に一六〇九年侵略され支配されていたが、冊封体制に変わりはない。琉球王国は中国と日本の両国に属する関係にあった。日本の幕藩体制に組み込まれているが、あくまで形式的には独立国であった。しかも、地理的には遠く離れた離島であり、中国に近い南島である。江戸幕府も異国のような扱いをしていた。そこは本土の厳格な幕府の直接的な支配とは多少の違いがあるだろう。

また、万次郎が上陸した当時、薩摩藩は守旧派の島津斉興が退き、最も開明的な島津斉彬が藩主となっていた。のちにふれるが、西洋の学問、技術、軍事などに強い関心をもっていた斉彬は、万次郎をじきじきに招き寄せ、詳しく西洋事情を聴取するほどであった。琉球王府は、万次郎への対処について、薩摩藩にお伺いを立てて対処していたことはいうまでもない。万次郎の強運はこういうところにもあるかもしれない。

こういう島国としての歴史をもち、海洋国家である琉球にとって、船の遭難による漂流、漂着は絶えず発生する問題である。それは、自国の船も何度も遭難して、中国や朝鮮、日本などに漂着し救助された。逆に、中国や朝鮮、日本その他の国々の船も遠い昔から、遭難しては琉球に漂着する。そういう場合、必ず漂流者を救助して丁重に保護し、しかも、相手の国にまで送り届けるのが慣例であった。琉球王国の膨大な外交文書を収録した「歴代宝案」という古文書の中には、漂流者の取り扱いに関する文書が、とても多い。外交の重要な一分野だった。外国からの漂流者を丁重に扱ってこそ、自国民の漂流者もまた助けてもらえる。東アジアの国々とそういう関係をきずいていた。それは海に生きる民、島国にとっては不可欠のルールでもある。その伝統は脈々と生きている。

Photo      琉球王国の貿易に使われた唐船の図

江戸幕府は当時、鎖国政策をとっていたが、対外貿易の窓口として、長崎の対オランダ、対馬の対朝鮮、函館の対蝦夷、そして琉球の対中国との貿易は公認していた。琉球は中国への朝貢の際、中国が必要とする物産を持ち込み、買ってもらう朝貢貿易で大きな利益を得てきた。中国から、国王の任命のために冊封使を乗せた御冠船(うかんしん)が那覇の港に来る時も、さまざまな中国物産を積んできて琉球王府が買い付けていた。この中国貿易は薩摩支配下でも続くばかりか、中国貿易を薩摩の管理下に置き、そこから利益をあげようとしたのだ。だから、日本は鎖国政策をとっていても、琉球では国家事業として対外貿易が堂々と営まれていた。琉球はそういう特殊な位置にあったのである。

万次郎がどこまで琉球についての事情を知っていたのかはわからないが、万次郎が琉球を上陸地点に選び、それを足がかりにして帰国しようとしたのは、なかなかの見識である。万次郎が無事に故郷に帰ることができ、さらに江戸にまで招かれたことをみても、彼がたんに幸運だっただけでなく、的確な情報を得て、賢明な選択をしたことを証明している。

万次郎は、上陸以前にも一度、琉球の離島にいったん上陸したことがあった。一八四七年に、フランクリン号に乗り込み、捕鯨航海をした際、琉球諸島に属する島の沖合に錨を降ろして上陸したのである。島民と出会ったが、相手の言葉がわからず、がっかりした。でも島で牛二頭をもらい、お返しに木綿を贈った。この島は、慶良間(けらま)諸島の渡嘉敷(とかしき)島だと長田亮一氏は書いている。

万次郎は、これより前にグァム島に寄港したさい、他の捕鯨船の船長から、日本の鎖国政策について、厳しい非難を受けた。だから、「捕鯨船のために、日本の海岸に平和な補給地が欲しい、万次郎は早くからそうした意見だった」(中浜明氏著、前掲書)。それは、グァム滞在中に、万次郎を救出してくれたホイットフィールド船長宛てに出した手紙にも表れている。「当地を出ましたら西北をさして、日本の琉球諸島に向かいます。そして無事上陸できたらと望んでいます。捕鯨船が補給を受けられるよう、港を開くようにさせたいと思ってもいます」と手紙で記している。実際には、この思いはこの時には実現できなかった。でも万次郎が琉球に強い関心を持ち、開国への希望を持っていたことを示している。

 

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