改作される沖縄民謡・恋の花節
沖縄本島で歌われる民謡「恋の花」の元歌が、八重山の「くいぬ端節」であるというのはよく知られたことである。これは、改作というよりも、替え歌である。元歌の歌詞を少し変えるというのではなく、まったく別の歌詞にしているからだ。沖縄の民謡では、替え歌はやたら多い。数えきれないほどある。元歌より替え歌が有名は場合もかなりある。
「くいぬ端節」は、新城島が発祥の地だといわれる。『八重山古典民謡集』から、歌意のあらましを紹介する。
クイヌパナ(地名)に上って、浜辺を眺めると、マカ(女)が布晒しをしている姿の美しいことよ。ウフイシ(岩)に上って、珊瑚礁を眺めると、マチ(男)が蛸捕りをしている仕草の面白いことよ。マチが捕った蛸はクヤーマ女に渡し、サンゴ石と一緒に渡した。近くで見ていた妻は焼きもち焼きだったので、鍋と碗を叩き割ってしまった。大道盛(ウフド-ムリゥ)に上って東の方を眺めると、百合の花かと思ってみると、実はマル(女)の下裳(カカン)であった。高根久に上って北の沖を眺めると、片帆の船だと思っていると、真帆の船だった。
島の情景を歌っているかと思うと、男(夫)が他の女性に蛸やサンゴ石をあげて、妻が嫉妬に狂い鍋や椀を叩き割る。いかにも、昔の日常の生活の中から生れた歌だ。当時の恋模様がうかがえる。船の解釈を巡っては、いろんな意味あいがあるようだ。
本島で歌われる「恋の花」は、まるっきり異なる歌詞で4番まである。意訳で紹介する。
「♪庭は雪が降り 梅は花が咲いている 貴女の懐には暖かい南風が吹いている」
「♪どうして私の庭は 梅が咲かないのに 毎夜うぐいす(彼)が通って泣くのか」
「♪波之上に行くか 薬師堂に行くか なれた薬師堂の方がましではないか」
「♪波之上の鐘を首里の鐘と思って あなたを起こして行かせるのではと 私の心を痛める」
歌詞は、庭は雪が降っているのに、貴女の懐は暖かい、というのはかなれなまめかしい。2番も、庭に梅が咲いていないのに、うぐいすが通う、というのは、女性のもとに男が通ってくるという意味である。
歌の中に「庭は雪が降り」というのは南島でありえない光景だし、「梅は花咲き」というのも、梅は少ないので、「雪と梅」というのは、大和的な美意識、表現の影響が色濃い。 波上宮
4番の歌詞は、明らかに首里の士族が那覇の辻などの遊女との恋模様が歌われている。遊女のもとに彼が泊った際、波之上にある寺の鐘の音を、彼が日頃聞いている首里の鐘と聞き間違えて起きてしまうのではないか、と心を痛めているという話である。3番の歌詞も、かつて薬師堂といえば、女性を連れて遊びにいく場所だったという。
この曲は、名曲なので、子どもでもよく演奏する。子どもに歌詞の内容をどう説明するのだろうか、子どもはどう理解して歌うのだろうか。気になる歌詞である。
沖縄本島では、恋歌といえば、士族と遊女との恋模様を描いた曲がとても多い。
「川平節」も、石垣島の元歌をまるっきり変えて遊女との恋歌になっている。「西武門節(ニシンジョウブシ)」は元歌「ヨーテー節」の替え歌で、やはり士族と遊女の恋歌である。
ただ、「恋の花」のような士族と遊女の恋歌になると、 「くいぬ端節」のような島の庶民の暮らしや風俗を反映した味わいや面白さがまったく消え失せてしまう。庶民の生活感がない。他の改作した曲も、共通して元歌の味わいが失われていることがしばしばある。
いずれにしても八重山の元歌を本島で改作した曲は、他にもとても多過ぎるので、もう終わりにしよう。
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