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2012年4月 3日 (火)

琉球の悲劇の文学者ー平敷屋朝敏覚書、その2

この組踊に対して,識者はどう見ているのか。いくつか読んでみたが、必ずしも的確な評価と言えない批評がある。評価をしていても、「恋愛至上主義」という次元にとどまっている批評もある。

もっとも的確だと思われるのは玉栄清良氏の著作である。そのなかの「平敷屋朝敏の文学」では次のようにのべている。

封建社会の支柱である道徳が見事に踏倒され、不義が堂々と通ったのである。こうして確立された人間性は封建社会の礎を激しくゆさぶったと言えよう⋯⋯貨幣経済の発展は農民、貧窮武士の階層分解を押進めていた、必然的に“内面的抵抗”も高まっていた。それを圧迫する手段としての義理道徳は⋯⋯民衆の行動を厳しく監視し、間接には儒教によって彼らの内面まで強く拘束していた。

そのような情況下にあって人間性をかくも強烈に押出した「手水の縁」は、日本の近代文学が未だ十分には果たし得ぬと思われる課題をすでに封建社会の梗塞のなかで達成して見せたことになり、その文学的成果は琉球文学においては勿論、日本文学史上“特筆”に値すること、と言えるだろう。

人間性に目覚め封建的義理を否定した者が、封建社会の象徴である王への忠誠を思うという矛盾は上演を考慮したための余儀ない虚構であったと思われる。

「手水の縁」の文学的価値はその高度な写実主義にある⋯⋯天竺という神秘の世界(朱子学思想に立つ義理)の否定であり、人間の生の力の根源からの強い肯定であり、人間の自然な愛情は何よりも尊重されるのだという生の確かな思想が強く主張されている。

 井原西鶴や近松も義理と人情にはさまれて苦悩する人間は描いたが、義理を乗り越えて人間の自然の生の姿を歪めずに描くことはできなかった。彼らは心中する男女を描くことによって消極的な抗議にとどまった。

 悲劇の背後の歴史の本質には目が届かなかった。同時代の琉球の代表的作家も封建的秩序への疑問も弱く唯一人、朝敏が人間を“封建社会の本質において”とらえ、その矛盾の打破に進み出る人物を描いたことは驚くべき人間認識であり、“社会認識”であり、またそれの“文学的達成”であった。

 これは、多少持ちあげすぎの感がなきにしもあらずである。この玉栄氏の主張を批判する評者もいる。

 嘉味田宗栄氏は「平敷屋という人物の政治上の事実を、文学作品としての手水の縁に直結して混乱させている」「自我の確立、秩序への対決といった近代用語で形容するにふさわしい戯曲とは思えない」「近代的自我と恋の熱情をいっしょにする前に、古代から近代にかけての恋人たちの情熱の激しさを思いみるべきである」などと反論している。

この批判は、いささか的外れではないかと思う。平敷屋朝敏の政治行動と文学作品には、地下茎でつながっているものがある。自我など用語は近代用語ではあっても、その芽生えというべき意識を見るのは無理なこじつけではない。

「古代から近代にかけての恋の情熱の激しさ」がいくらあっても、それを当時の儒教道徳を真っ向から否定する内容の組踊作品に仕上げること、その上、その作品を王府に提出することは、凡庸な文学者ができることではない。

その証拠に、「手水の縁」のような戯曲・文学は他に類例がないことを見ても明らかではないだろうか。

 組踊の中で「手水の縁」が占めている位置

「手水の縁」が琉球の特有の芸術である組踊の中でも、出色の位置を占めている。それは、約六〇種類に分類される組踊全体を見れば明らかになる。

 當間一郎氏の「組踊研究」によれば、最も多いのは、仇討や戦さなどを扱った仇討ち物で三〇数種に及ぶ。親子や夫婦などの人間関係の深さ、厳しさ、世話物風が二〇数種に及ぶという。

例えば組踊の創始者、玉城朝薫作の「二童敵討」は、アマオヘ(実在の阿麻和利がモデル)に攻め滅ぼされた護佐丸(ゴサマル)の息子二人が親の仇を討つという忠孝物語である。

「執心鐘入」という作品は、大和の「道成寺」の琉球版のような話で、女の情念と道義の葛藤を描いている。

大城學氏は「組踊のテーマは、封建倫理の徳目である<><>が中心であり、それに王府が介入することが強調されている」「琉球王府は支配の論理を組踊のなかに具現化させてみせた」(沖縄芸能史概論)と指摘している。それは首里王府が管理する組踊であるから、ある意味では当然の帰結ではあるのだろう。 

そのなかで「『手水の縁』は恋愛を主題とした唯一の組踊」(比嘉春潮氏)といわれる。純粋な恋愛物の組踊は、極めて少ない。

しかも、士族と遊女といったような関係ではなく、村の大主(支配者)という家柄の生まれの男女の恋愛である。封建的な道徳・倫理のしがらみ、桎梏を打ち破って男女の自由な恋愛を賛美し、それが成就するという主題が、どんなに時代を突き破った画期的な物語世界であり、作品であるのが明らかである。

 この「手水の縁」が初演されたのは、一八六六年に中国から来た冊封使を歓待するためだったらしい。実に創作されてから一三〇数年もたっている。

 これがいまのところ確認できる最古の上演だという。もう琉球王朝としては最後の国王の冊封の時である。朝敏が国家に対する反逆の政治犯であり、儒教道徳に反するような内容から、上演がされなかったといわれる。

當間氏も、この作品が「男女の情事を忌憚なく写したということと罪人の作だということが、公の晴れの場所で演じられぬ原因」となったという。

しかしながら、「この組踊は他の諸作と趣を異にし、男女の情事を描いたのだから、儒教主義の当時の人には表向きは好まれなかったが、その代り若い人々の血を躍らすものがある」と指摘している

當間一郎氏は「古い頃にはまったく上演されず、台本を読むことさえタブー視されたのだが、村芝居がさかんになると人気をあつめた組踊の一つになって、観る人たちの心をとらえたのである」とのべている。

 

 組踊「手水の縁」の誕生

 平村の大主(村の支配者)の息子・山戸(ヤマト)という若者が瀬長山で花見した帰り波平玉川で髪を洗っている美しい娘・玉津(タマシン)と出会う。玉津にひかれた山戸は、昔から男女の縁結びの行為といわれた手水で水を汲んでほしいと玉津に頼む。いったん断った玉津も山戸の熱い思いを受け入れる。

二人は心が結ばれ、やがて忍びあう恋人になる。山戸は玉津の家に忍び込むが、門番に見つかってしまう。玉津の父親は、親の認めない恋に落ちた、娘を許すことができず家来に殺すことを命じる。

いま処刑にされようとするその時、山戸が駆けつけて、玉津を助けてほしい。もしできないなら一緒に殺してほしいと命がけで訴える。二人の純粋な愛情に心うたれた家来は、二人を逃し、二人は結ばれる。

山戸が語るセリフにこうある。「いかな天竺の 鬼立の御門も 恋の道やれば 開きどしゆゆる」。どんな天竺の鬼といえども、命をかけた若い男女の恋の道はとどめられない、という意味だ。

山戸は「恋忍ぶことや世界にある習い」とも叫ぶ。若い男女が恋慕うことは世界で当たり前のことではないか、という主張だろう。こういうセリフにも、この組踊の主題が集約されているようだ。

最初テレビで観た時に、二人の馴れ初めに戸惑いがあったが、最後まで観ると、これはすごい物語だと驚いた。琉球でも封建社会は、「士階級に恋愛の自由はなかった」のだ。

「士にとって逢い話す自由も得られる異性は遊女だけであった。親の承認しない恋愛には女は足枷をかけて圧服され、男は一門親類の訴えによって、平等所(裁判所)で遠島を申し渡された」(比嘉春潮氏)という時代だった。親が認めない恋愛は不義そのものであった。それが儒教の道徳であり、社会的な秩序でもあった。

それは、恋に落ちた二人が陥った危機になにより表れている。つまり、親の許さない不義をした彼女は、たんに無理やり引き離されるのでない。

親によって斬り殺される。命を奪われるのである。恋をしただけで、自分の愛する娘まで殺さなければ親の世間体がない。そこに、この時代と封建社会の道徳支配の非情な貫徹をみることができる。

 山戸が自分の危険をかえりみず、命を賭して彼女を処刑から救い、自分たちの恋愛を成就させるというこの作品の内容は、いつくかの点で、同時代の組踊、文学とは次元を異にする画期性を有している。

 朝敏は、「手水の縁」を書き上げると尚敬王に差し出したが、封建的義理の否定が主題となっている。

 このため、王は非常に驚き、重大な問題として下臣に謀ったところ、秩序を乱す者として処刑と決定したが、彼の和文学の指導を受けたことのある一五人役(各長官で構成)の一人の多嘉良親方(タカラウェーカタ、親方は間切の領地を有する)の弁明でやっと助かった、というといういきさつがあったとも伝えられる(玉栄清良著「組踊 手水の縁の研究」)。

 011        瀬長島にある「手水の縁」の歌碑    

この「儒教道徳思想が最も忌み嫌い、法度とする恋愛を声高らかに唱えて、組踊化した朝敏の姿勢は、敬服に値するものである」と當間一郎氏は強調している。

ここには、理不尽な儒教道徳、倫理を否定しようとする姿勢がある。それはまた、その道徳を基本的な支柱としている封建社会の秩序に対する抵抗にもつながる。

その道徳と秩序とは、人間が本来的に持っている愛情、その一つである男女の恋愛という、もっとも豊かな人間感情を押し殺すことにたいする根本的な異議申し立てである。そこには、本来、誰も奪うことのできない人間の本性に対する自覚がある。自我への芽を見ることができる。

「人間は誰でも恋愛の自由をもっているんだぞ!」という朝敏の叫びが聞こえてくるようだ。

重要なことは、封建的な縛りを超えた男女の愛情を、この世では成就できないからと、死出の旅に出るとか、来世で成就するとかという現実逃避に終わらせていないことである。

つまり二人の強い意志によって、封建道徳と秩序をも突き動かし、打ち破って恋愛を現世で成就させていることである。恋愛の自由に対する大らかな讃歌が読み取れる。

この点で、近松門左衛門の心中物の浄瑠璃などでの限界をはるかに超えた地点に立っているといって過言ではない。ただし、あくまでも、戯曲としての芸術的な完成度、評価は無視して、その主題についてだけで言えばということではある。

このような封建社会の秩序をなす儒教道徳にたいする挑戦とこれを乗り越えることを公然と主題にした作品世界を作り上げるということは、時の支配者に対する朝敏の感覚にも深いかかわりがあるだろう。

首里王府の政治に対する批判精神なしには書きえない内容である。ただし、「手水の縁」も、玉津が処刑されようとする際に、遺言をのべる際に、山戸が男として生まれたからには「国王にご奉公を」というセリフがある。組踊は国王に差し出しており、その限界を当然、認識した上での表現であるだろう。

009     国立劇場おきなわのロビーにある組踊の説明展示

 この作品にたいする評価から

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