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2012年4月 2日 (月)

琉球の悲劇の文学者ー平敷屋朝敏覚書、その1

赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて

 

 

―琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書―
                             

 

 

 

はじめに

 

 

 沖縄に移住してまだ一年足らずのうちに、NHK沖縄テレビで初めて組踊(クミウドゥイ)を観た。組踊は歌三線、台詞、踊りを総合したいわば楽劇である。沖縄の誇りある伝統芸能として名高い。この時観た作品が「手水の縁」だった。その時に強い衝撃を受けた。作品内容はあとから紹介するが、最初に戸惑ったのは髪を洗っている女性を見染めて、水を汲んでほしいと頼み、断られるとその場で飛び込み死ぬとまで言う――そのあまりの唐突さだった。しかし、そのストーリーは、親の許さない恋愛を死罪にするという封建的な義理、倫理を乗り越えて二人が結ばれるという内容だった。封建時代にこのような大胆な恋の物語は、大和の浄瑠璃にもない主題なのだ。すごい作者がいるものだと感心した。その名を平敷屋朝敏(ヘシキヤチョウビン)という。しかも朝敏は、政治犯としてはり付けの処刑にされているという解説にまた驚いた。ただものではないことだけは確かだ。ただし、その解説では、この作品を本当に朝敏が書いたのかどうか、後年に他の人物によって書かれたのではないか、という説があるということだった。

この三つの点が強いインパクトをもち、記憶に残った。その後、機会を見ては、朝敏に関連する文献、資料を県立、市立図書館で探して読んでみた。読めば読むほど、彼が琉球王朝の時代を代表する文学者の一人であり、また歴史上も異色の悲劇の人物であることがわかった。沖縄では高い評価を受けていて、少なくない研究がある。でも全国的にはあまり知られていない。知る人ぞ知るという程度だ。もっともっと沖縄以外の人たちにも知ってほしい文学者であり、作品群だということを強く感じだ。この覚書は、こういう問題意識から、いまの時点で自分流に知り得たことをまとめたものである。興味がなければ意味のない文章であるが、少しでも読めるところがあれば眺めてほしい。それだけである。
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 豊見城市瀬長島に建てられた平敷屋朝敏作の組踊「手水の縁」の碑 

 

 

 

 

 

朝敏の歩んだ道

 

 

平敷屋朝敏は、琉球が薩摩に侵略されてからおよそ九〇年以上たった一七〇〇年、首里金城村で生まれた。尚真王の嫡子、尚維衡の七代目の子孫にあたるといわれる。祖父は大宜味間切(オオギミマギリ)の総地頭(いまの町村にあたる間切の領地を持つ)で、父・朝文は勝連間切の総地頭という出自である。間切とは今の町村ほどの単位になる。琉球は、中国の文化の影響が強かったが、薩摩の支配下におかれた近世の琉球では、日本の和文学が推奨されていた。大和の文学に親しみ、教養を身に付けることは、首里の士族(サムレー)にとって大切な資格だったそうだ。首里王府に仕官する条件として重視されていた。

 

朝敏は、八歳の頃から和語と和文学を学んだという。一七一八年、一八歳でときの徳川幕府の八代将軍・吉宗の慶賀のために派遣された慶賀使の越来(ゴエク)王子に随行して江戸上りをしている。すでに王府の何らかの役職についていたのだろう。江戸上りは、大和の芸能、文学など文化に接せるまたとない機会である。江戸滞在中に仏教や和文学(源氏物語、伊勢物語、短歌)を学んだという。朝敏の文学の多くが、平安朝の文章に似せた擬古文で書かれた和文学であり、和文学への深い教養が素地になっている。といっても、擬古文の原文は当て字の漢字が多用されとても読みにくい。口語訳が出ていて助かった。

 

 朝敏の生涯にとって、重要な出来事がその後、起きてくる。その文学的な形成の上でも、影響を与えることになる。というのは、二一歳で結婚したが、首里城内の高貴な女性(時の尚敬王の王妃といわれる)が密かに訪ねてきて、絹の上下衣を朝敏に贈ったという噂が広がった。彼は美男子で女性からとてももてたらしい。それが国王や著名な政治家・蔡温(サイオン)らの知るところとなり、朝敏はその責任を問われ、家屋敷を没収され、職も失った。一家はあちこち転々とし、自分が脇地頭(村=今の字=を領地に持つ)をつとめる勝連間切の平敷屋村に移り住んだ。やがて、嫌疑が晴れて朝敏は再び、職を得て首里に帰ってきた。その後、仕事のかたわら、創作を行ったという。朝敏を悲劇の文学者といったのは、この経歴ではない。

 

一七三四年、当時、琉球を支配する薩摩が那覇に置いていた監督機関である在番奉行の横目(監視役)、西川平左衛門宅に再三にわたって投書があった。内容は王府を風刺したものだったらしい。朝敏は、王府きっての英才といわれた友寄安乗(トモヨセアンジョウ)ら和文学の仲間とともに15人が捕らえられた。蔡温によってついに6月26日、安謝(アジャ)港で一五人の若者らが処刑された。さらに朝敏の長男は多良間島、二男は与那国島、三男は水納島に島流しになったのである。朝敏の妻のまなびは、身分を百姓に落とされ、高離島(いまの宮城島)に流されたという。事件の真相は記録が残されていないためによくわからないが、投書をしただけでこんなに集団処刑になるのは、稀有のことである。

 

 

 

朝敏のいくつかの作品

 

 

朝敏が「手水の縁」の創作に至るまでに、書いた作品を見てみよう。初期の作品に「若草物語」がある。大阪の住吉を舞台とした貧しい武士と遊女・若草の悲恋の物語である。金持ちの大名に連れて行かれた若草を奪い返そうとするが、取り返される。若草は、愛する人と別れ、生きがいのない日々を送り、物思いが積り死ぬ。彼もその後を追う。和歌を織り交ぜた小説世界は、「源氏物語」を意識しているようであるし、近松門左衛門の心中物を思わせる主題である。時代から言えば、すでに近松の浄瑠璃が人気をよんでいたので、接する機会はあっただろう。近松の何らかの影響があったと見る人もいる。

 

 次の「苔の下」という作品は、琉球の社会の現実の中に題材を求めている。琉歌の二大女流歌人である、遊女・よしやつると仲里按司(アジ)をモデルとした悲恋の物語である。貧しい彼は、恋人を身請けできない。つるの義母は、お金持ちの黒雲につるを売り渡す。彼女は食事も湯水さえ飲まず死ぬ。彼もその後を追う。前作と同じ悲恋物であるが、薄幸の遊女や貧しい主人公への作者の同情がある。以上の二作品は朝敏二七、二八歳頃の作品という。よしやは「お金のために人の愛を破らないで下さい」と叫ぶ。男女の愛情が金の力でねじ曲げられることへの反発が根底に感じられる。

 

主題から言えば近松の何らかの影響があったかもしれないが、拙文「覚書」の結論にかかわるが、朝敏のすごいところは、この近松的な悲恋を乗り越える作品世界を作りあげたことにある。当初、影響を受けたにせよ、それにとどまらない地平に立つことを意味する。

 

 「貧家記」は、首里を追われ、平敷屋で失意の生活を送った体験を日記風につづった物である。「あはれその畑打ち返す せなかより 流るる汗や 瀧つ白波」。働く農民を見て詠んだ和歌である。自分は貧しいがまだ安楽に暮らせるだけ農民より恵まれていると感じる。首里を追われた士族の貧しさと民・百姓の悲哀が映し出されている。そこには、この境遇を強いられているものとして、現実社会への厳しい目と弱者に対して注がれる愛情が感じ取られる。こうした体験を通して、政治に対する鋭い現実感覚が養われたのだろう。それは、たんに傍観者として見るだけではなく、後々に行動となって現われる。

 

003_2   「貧家記」の和歌が刻まれた歌碑を訪ねた(うるま市の平敷屋に建つ)

 

 

 

 

 

 朝敏は、脇地頭として在任中、この平敷屋に滞在した折に、農民の水不足を解消するために、用水池を掘り、その土を盛りつけてタキノー(小高い丘)を造ったと伝えられている。この地には、朝敏を偲んで一九八六年、歌碑と碑が建てられた。碑文には、次のように記されている。「朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの自分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい眼差を向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました。思えば、朝敏の憂き目は、当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった、と言い得ることである」。

 

「萬歳」という作品は、首里に帰ってきて数年後のものだ。安里の按司の息子・白太郎は勝連の浜川殿の真鍋樽金という姫君を一目見て恋に落ちるがすでに姫はある地頭の息子に嫁ぐことが決まっていた身。白太郎は海辺で自殺をはかり、倒れた彼を見つけた姫も身を投げようとする。その時、姫が祈りをする御嶽(ウタキ)の神の化身が現れて二人を助け、二人はめでたく結ばれる。前の二作のように心中という絶望的な結末ではなく、それを乗り越える新たな境地が生まれている。「萬歳」というのは村々を回る乞食のことだ。白太郎は「萬歳」から美しい姫のことを教えてもらったことからこの題名にしているが、「萬歳」はまた「ばんざーい」という愛が実った喜びの表現ともとれる。二重の意味を込めているのではないか。

 

ここには自分の意思を無視した婚約という封建的な義理を神の啓示の形で真っ向から否定する姿勢がある。当時の人間をしばっていた義理、倫理を拒否し、個人の自由な恋愛をなによりも優先し、それを成就させるというこの小説の主題は、封建社会の道徳に対する不同意の意思が示されている。そして、朝敏の思想的な大きな変化が表れている。

 

又吉洋士氏は「現実と対決する姿勢がみられる」「彼は封建社会への批判を<恋愛>という社会的な具体性をもっていないもので撃ち、後年それを現実的な社会批判として実行に移した」と述べている。(「平敷屋朝敏―琉球独立論の系譜」)。

 

 仲原裕氏は「平敷屋朝敏作品集」の解説でこう指摘している。「一八世紀初頭の琉球の社会で最もみじめな存在は、貧士貧民殊にその婦女子であった。服従することを善とする考え方によれば、郭に売られた女は、義母の命にしたがって嫌いな男にでも買われてゆくことを善としなければならない。しかし、人間は、いくら封建社会であっても、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いなのである。この封建的義理と人間的情愛の葛藤をテーマにし、人間を義理の犠牲から助けようとしたのが、平敷屋朝敏の作品であろう」「時の政治権力や金権に対するレジスタンスの心を作品にしたのではないかと思われる」。

 

 それをさらに大きく歩を進めたのが組踊「手水の縁」である。音楽、演劇、舞踊を総合した組踊は、今から二九〇年ほど昔に誕生した。一七一九年九月、琉球国王を任命するため中国から皇帝の代理として来た冊封使を歓迎する「重陽の宴」で初めて上演された。組踊は冊封使を歓待するために創作されたという。その生みの親は、玉城朝薫(タマグスクチョウクン)といわれる。首里王府の踊奉行に三度任命された。踊奉行という役職が王府にあったこと自体、琉球ではいかに芸能を重視していたのかがうかがわれる。朝薫は、「二童敵討」「執心鐘入」など「五番」と呼ばれる五つの作品を創作し、いまでもよく上演される組踊の代表的な作品となっている。この朝薫より一六年遅く生まれたのが平敷屋朝敏であった。

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コメント

はじめまして。

最近、安謝にある恵比寿神社という小さな神社を見つけました。友人が言うには、その昔、朝敏が処刑された場所とのこと。朝敏のことをよく知らないので、「平敷屋朝敏」と検索して、こちらのブログを見つけました。35歳で処刑されたとのこと。才能ある人物なのに勿体無いですね。

tomoさん。コメントありがとうございました。
 平敷屋朝敏が安謝で処刑されたことは有名ですが、恵比寿神社のことは知りませんでした。一度、訪ねてみたいです。朝敏は、組踊といえば、仇討、忠孝物がほとんどで、自由な恋愛は御法度という封建道徳の社会で、しがらみを乗り越えて自由な恋愛を成就させる「手水の縁」を書いたのはスゴイことです。
 拙文は長いので読みにくいと思いますが、全体に目を通していただければ幸いです。

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