無料ブログはココログ

« 琉球の悲劇の文学者ー平敷屋朝敏、その4 | トップページ | 読谷村役場に建つ憲法9条の碑 »

2012年4月 4日 (水)

悲劇のチビチリガマを訪ねる

 読谷村に建った「さとうきび畑」の歌碑を訪ねた際、近くのチビチリガマに降りてみた。3年ほど前に一度きて、近くのシヌクガマとともに、チビチリガマを訪ねたことがある。
002

  67年前の1945年4月1日、米軍が読谷村の海岸から上陸した。日本軍はほとんど反撃らしい反撃をしなかったので、その日のうちにチビチリガマ付近に迫った。波平地区の住民約140人がガマに避難していた。米軍の捕虜になれば残酷な殺され方をする信じ込まされていた住民は、「集団自決」に追いやられ、83人もの住民が犠牲になった。そのうち6割は18歳以下の子どもらであったという。

001  ガマでは、かつて遺骨が踏み潰されたことがあったそうで、いまは立ち入りが禁止されている。記念碑があり、悲劇の事実が記されている。

 ガマの横には「世代を結ぶ平和の像」が建てられている。読谷の彫刻家、金城実さんの作である。かつて海邦国体で日ノ丸焼却事件があり、反発した者によって破壊され、もう一度再建されたそうだ。004_2

 ここから遠くない、波平にあるシムクガマには、約1000人の住民が避難していた。その中に2人のハワイ移民で帰省していた人がいた。米兵がガマの入り口で投降を呼びかけたとき、2人はガマに日本兵がいないことを米軍に説明し、住民の保護を求めた。そして住民を説得して、すべての住民が投降して、犠牲者が出なかった。同じ読谷の近くの二つのガマで、まったく対照的な結果をもたらした。
 皇民化教育と日本軍が住民に「共生共死」を強制してきたことが、いかに残酷な犠牲をまねいたのか、改めて痛感させられる。

 005  

 「平和の像」は、三線を持っている。恐らく鎮魂と平和の祈りを込めて歌っているのではないだろうか。

 記念碑のそばに「チビチリガマの歌」(金城実作詞)が板に書かれて建てられていた。003  

 1、イクサユヌアワリ(戦世のあわれ)
   ムヌガタティガボリ(物語って下さい)
   ワラビウマガ世ニ語ティタボリ(童孫世に語って下さい)
 2、ハンザチビチリヤ(波平チビチリ)
   ワシタウチナヌユ(私達沖縄世)
   ククルチムヤマチナチュサウチナ(心肝痛め泣く沖縄)
 3、ナクナチビチリヨ(泣くなチビチリよ)
   ミルクユニガティ(平和世を願って)
   ムヌシラシドクル(物知らす所チビチリガマ)

 2012年も4月1日にチビチリガマで遺族会によって慰霊祭が行われた。二度とこんな悲劇を繰り返してはならないことを、この場所は発信している。

« 琉球の悲劇の文学者ー平敷屋朝敏、その4 | トップページ | 読谷村役場に建つ憲法9条の碑 »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 悲劇のチビチリガマを訪ねる:

« 琉球の悲劇の文学者ー平敷屋朝敏、その4 | トップページ | 読谷村役場に建つ憲法9条の碑 »

最近のトラックバック

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30