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2012年4月11日 (水)

沖縄で愛されるジョン万次郎、その3

万次郎から勉強した島津斉彬

万次郎ら三人は、拘留されていたい琉球を出て鹿児島に向かった。先に見たように、この時代、琉球は薩摩藩の支配下にあり、琉球での万次郎の取り扱いを考える上でも、薩摩で万次郎がどう取り扱われたのかを見ておくことが必要だと思う。昨年、好評を博したNHKの大河ドラマ「篤姫」の中でも、薩摩で藩主の島津斉彬がじきじきに万次郎から聴取するシーンがあったが、それはそのままの事実である。

ここでも、中浜明氏の前掲書からその模様を紹介したい。万次郎らは鹿児島に入り、宿舎を与えられたが、殿様の言いつけと言って、待遇はたいへんに良く、りっぱな食膳、お酒。衣類、日用品もすべてゆきとどいて賓客のもてなしだったという。当分の小遣いとして金一両も賜った。ある日、殿様から、万次郎一人だけ召された。鶴丸城の御殿へ出向くと、酒肴を賜って、それが終わると人払いをして、殿様のじきじきの御下問が始まった。万次郎は、異国の方々を旅してきた中で、わけてもアメリカ合衆国の文化の総体にわたって詳しい質問を受けたという

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 万次郎がアメリカで勉学に励んだマサチューセッツ州フェアヘーブンで開催されたジョン万祭に沖縄ジョン万次郎会からも参加した(『』結成20周年記念誌)

アメリカでは、家柄、門地といったものは問題にされないで、人はすべてその能力によって登用されていること、国王は人望のある人が入札(選挙)によって選ばれ、四年間その地位につくこと、人はみな自分の幸福と公共の幸福をいっしょに考えているから、世の中が常に栄えていること、デモクラシー、人権を尊ぶことが社会の大本の精神になっていることに始まって、蒸気船、汽車、電信機、写真術といった文明の道具の実際から数学、天文学、家庭生活の有様、結婚は家と家との結びつきではなく、一人の人と一人の人との結合であること、人情風俗にまで話が及んだという。

斉彬は、万次郎に会うより前から、西洋の科学技術や軍事などに強い関心をもち、オランダの書物をとりよせ、翻訳させて勉強していた。ヨーロッパ列強が中国に進出し、食い物にしようとしていることも熟知しており、やがて日本を狙ってくることを警戒して、これに日本がどう対応するのか、その方途を考えていた。だから、万次郎の漂着は、西洋事情を直接、耳にすることができる絶好の機会と考えたのだろう。「側近をしりぞけて、殿さまじきじきの厳重なお取り調べとは表向きのこと、国内上下の保守排外思想家たちにかくれて、殿さまの勉強が始まるのでした」(中浜明氏、前掲書)。斉彬は、万次郎が永く鹿児島に留まるように勧めたほどだった。

ここでは、西洋の進んだ科学技術や軍事の内容だけでなく、殿様の前で、日本の封建体制を根底から否定するようなアメリカのデモクラシー、人権の政治制度や思想まで堂々と話したというのは、驚くべきことではないだろうか。日本の幕藩政治の大改革を考えていた斉彬が、政治制度にも関心を持ち、質問したことは確かだろう。それだけでなく、万次郎の話の内容は、アメリカ社会と民主主義に対する的確な認識があったことを示しており、万次郎自身が、アメリカのデモクラシーを目にして日本の封建社会の後進性をいやというほど痛感し、先進的な政治制度や思想に強い共感を持っていたこともうかがえる。

ちなみに万次郎は、土佐から江戸幕府に呼び出されて取り調べをされたときも、アメリカの民主政治について、堂々と語っている。アメリカはイギリスに所属していたけれど、人民は不服従となり、独立国となって「共和之政治を相建」したこと。国王はいなく、国中の政治を掌る大統領をフラジデンといい、「国中之人民入札」(選挙)によって職につき、任期四年で交替する。国法を重んじ、大統領といえども国法に違反してはならないと述べている。さらに、万次郎は、帰国すれば日本を開国させたいと夢見ていた。幕府の取り調べでも、アメリカが日本と親睦したいというのは「積年之宿願」であり、米人が日本近海で漂流して過酷な扱いを受けたことを残念に思っており、「両国之和親」をはかりたいという主張をしている、と紹介している。ペリーが来航する前に、万次郎はこういう形で開国の必要性を説いていたのである。

062    ジョン万次郎記念碑が建つ翁長共同利用施設

明治維新、自由民権運動にも影響が

万次郎が、一五〇年余りを経てたいまも、このわずか半年滞在しただけの沖縄で、愛され、関心を持たれている背景に、万次郎がその後、日本社会に影響を与えた役割に対する評価があるからではないだろうか。もし、万次郎が自分の知識や語学力を自己の栄達や利益のためだけに使う人間だったら、このような関心はもたれなかったのかもしれない。

島津斉彬の聴き取りで、万次郎が伝えた話の内容は、斉彬のその後の政治思想や行動に直接、間接にさまざまな影響を及ぼしたであろうことは否定できない。斉彬は、こころざし半ばで亡くなるが、その後、その遺志を受け継いだ薩摩の志士たちは明治維新で大きな役割を果たした。万次郎は薩摩藩が設立した開成所の教授にも招かれた。家老の小松帯刀には外国事情などを話し、小松は「今日必要の人物です」と高く評価した。「万次郎が島津藩(斉彬)に与えた強烈なインパクトが、維新回天のエネルギーになったといっても過言ではないであろう」(『中浜万次郎集成』の解説論文)という指摘もされている。

郷里の土佐藩では、吉田東洋を先頭に藩の幹部が万次郎から海外事情を学んだという。絵師の河田小龍が書いた万次郎の海外見聞録というべき『漂巽記略』を坂本龍馬は早くから読んでいたそうだ。龍馬は、新しい日本の基本方向について、政権を朝廷に返還し、議会を設け万機公議に決するなど「船中八策」をまとめた。その骨格的な内容は、明治維新の「五箇条御誓文」に引き継がれた。「この発想の根底に万次郎の影響が多分にあったと見るのが自然である」(同前)。

後藤象二郎は、少年時代に吉田東洋の部屋で、万次郎と出会った際、万国地図をもらったという。後藤が土佐藩に殖産興業のため開成館を創立すると、万次郎は招かれ、英語その他を学生に講じた。さらに、後藤は万次郎とともに汽船など買い付けのため長崎から上海まで行った。後藤は、明治維新後に新政府に参加するが、下野して、専制政治を批判し一八七四年(明治七年)、板垣退助らとともに、民選議院(国会)の開設を求める建白書を提出し、これが自由民権運動の口火となった。万次郎がもたらしたアメリカ・デモクラシーの思想は、明治維新ではいまだ実現せず、その後、起こった自由民権運動にも、その影響が投影されているといっても過言ではないだろう。

村田典枝氏は、万次郎が新しい知識や技術にとどまらず、日本の開国や対米関係について臆することなく意見を述べ、みずからの体験を通じて学んだ人道主義や民主主義を伝えたことが、どんなに強い影響を与えたのかについて、次のように指摘している。「日本の黎明期に、新しい道を求めて模索していた多くの若者たちに、直接、間接的に影響を与えたのだった。それが開国に向けた大きなうねりの中で、やがて明治初期の自由民権運動へとつながっていった」(「ジョン万次郎とその生涯」)。

万次郎は、決して政治の表舞台に立って働くような立場ではなかった。それにもかかわらず、一五八年を経た今日も、その人と仕事に対する評価が、低下するどころか逆にさまざまなメディアでも取り上げられ、その功績が評価されている。それは、沖縄でもまったく同様である。短い期間であっても、沖縄に滞在した万次郎という人物が、幕末から明治維新という日本社会の大激動の時代に、一つのインパクトを与え、歴史を前に進めるうえで欠かせない役割を果たしたことは、万次郎にゆかりのある県民としても誇りに思えることなのだろう。だからこそ、いまなお語り継がれている理由の一つになっているのではないか、そう強く思う。

(二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に、文責・沢村昭洋)                       

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