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2012年4月 3日 (火)

琉球の悲劇の文学者ー平敷屋朝敏、その4

 政治犯として処刑された朝敏(つづき)

 いずれにしても、薩摩に政治的な投書をしたことは、朝敏などのグループが当時の首里王府の政治、国王の信任の厚い蔡温の行う政治に対して批判をもち、それを告発することによって正すことを薩摩に期待した、というのが最も妥当な見方だろう。ただし、期待に反して薩摩はこれを取り上げなかった。

 蔡温が極刑に処したことは、薩摩との相談があったのか、独自の判断なのかわからないが、首里王府と蔡温の政治に対する許しがたい反逆と映ったのだろう。それにしても、投書をしただけで、はりつけとは極めて異例の処置である。

 朝敏が生きた社会はどのような時代だったのか。独立の王国だった琉球に薩摩が侵略してきたのが、一六〇九年なので、それから一〇〇年余りたっている。薩摩は琉球の中国貿易に介入し、琉球全土の検地を行って、その支配と収奪を強めた。

 そのもとで、貧しい農民はさらに貧しくなり、子女を遊女に売ったり、富農の下男下女になる人も出た。士族も増え、よいポストは王族やその縁故者が優先されるので、職につけない貧しい士族が生まれた。また金持ちと貧乏人の格差は大きくなり、社会の矛盾は激しくなっていた時代だったという。

 朝敏の作品には、このような社会状況を反映したところがあるし、彼の行動の背景ともなっているといえよう。

 ここで、朝敏を処刑した蔡温の名誉のためにひと言ふれておくと、蔡温は琉球王朝の時代に傑出した政治家として、有名な人物であることだ。一四歳で王位をついだ尚敬王のもとで、中国からの留学帰りの蔡温は師となり、国師といわれる職につき、さらに、官僚トップの三司官までのぼりつめた。

 彼は窮乏化する農村では、百姓が都市に移ることを禁止し、完全に王府の統制のもとにおき、農業生産をあげるために全力をあげるようにさせた。荒れた山の植林と山林保護を重視し、治水や港湾整備なども進めた。増加する士族の対策として、士族の商工業への転職を奨励し、那覇の商業の活性化をはかった。

 またウコンや黒砂糖の専売制度を強化して、王府の財政の立て直しをはかったという。また、中国からの帰化人の子孫といっても、彼は「薩摩のおかげで今の琉球がある」という立場で、薩摩の指導に従うことが発展の道であることを説いたのである。

 この蔡温の政治は、庶民からみれば厳しい締め付けと収奪の強化につながっただろう。平敷屋朝敏ら対立する人々からは、尚敬王に重用された蔡温の強引な政治は独善で横暴、傍若無人の振る舞いとして、映ったのだろう。

        008_2

         宮城島に建つ朝敏の妻の歌碑  

 

 和歌に込められた思い 

 朝敏にはたくさんの和歌があるが、そこには彼の思い、思想がにじみ出ているのでいくつか紹介したい。

「誰のほれ者の 筆とやい書ちゃが 酒や昔から 恋の手引き」。 

どこのバカ者が筆をとって書いたのか、酒は昔から恋の手引きであるのに、という意味だ。当時、禁酒という尚敬王の直筆の碑文に対して、朝敏が風刺したものという。

「四海波立てて 硯水なちも 思事やあまた 書きもならぬ」。 

四方の海を波立つ海水をすべて硯(スズリ)の水にしても、なお思うことは多すぎてとても書きつくせないという意味である。それほど世のあり方に言いたいことが山積していたのだろうか。

 「乱れ髪さばく 世の中のさばき 引きがそこなたら あかもぬがぬ」。 

乱れ髪のような世の中の乱れをきちんとさばかなければ、さばき損ねたらはかどらない、というような意味だろう。この時代、尚敬王の信任をうけていた蔡温の強引な政治に対する朝敏の批判が込められているようだ。

「たとひなま死じも 誰がつれて行きゆが この世やみなちゅて 一人さらめ」。 

たとえ今死んでも誰が死をともにしてくれるだろうか 政治が悪く世の中を闇にしているが 救済する者はいなく、自分一人で死んでいくだろう、という意味である。

 「赤木赤虫が 蝶(ハベル)なて飛ばば 平敷屋友寄の 遺念ともれ」。 

赤木の赤虫が蝶になって飛べば、朝敏、友寄の無念の魂の化身と思ってほしい、という意味だろう。処刑が決まった時に詠んだ和歌だという。その昔、蝶は死者の魂、化身と思われていた。彼の処刑の日には、ハンタン山の赤木に蝶が天をおおうくらいに、飛びまわったと伝えられる。平敷屋、友寄ら一五人の無念の気持ちを思い浮かばせる歌である。

朝敏の妻まなびの詠んだ和歌もある。妻は、朝敏が処刑されたあと、身分を士族から百姓に落とされ、娘とともに、高離島に流されたという。

「高離島や 物知らせどころ にや物知やべたん 渡ちたぼうれ」 

007        宮城島にある歌碑の碑文

この島はさまざまなことを教え悟らせてくれたところ。離島の苦しみ、人の情けはもう十分に知ることができました。私の生まれ育った彼の地へ命あるうちに帰り付けることを願っていますというような意味であり、その思いを込めた歌だ。母とともに流された幼い長女は、栄養失調で間もなく亡くなった。まなびは、先島に流された男の子どもたちとは、ついに会う機会をえないままこの島で亡くなったという。

 こうした和歌を読んでも、感じるのは、朝敏の和歌にも、小説にも、組踊にも、彼が何を考え、何を思い、何を主張し、どのように生きたかったのか、共通の土壌があることである。だから、組踊の作品だけを切り離して、他の者が創ったと考えるのは無理があるというか、朝敏だからこそ創作できたのだということがいっそうよくわかる。彼がみずからの信念を実践に移したことで、悲劇的な結末を迎え、自分の人生に幕を引く結果となった。

 この朝敏の悲劇は「当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった」(朝敏の追悼碑文から)といえるだろう。組踊は、琉球王朝の時代は、首里王府の独占物であったが、明治維新とその後の廃藩置県によって、琉球王朝は解体され、地方へ、離島へと流れて行った士族たちによって、組踊、歌三線なども広がっていった。村踊りなどで組踊が上演されるようになり、「手水の縁」もよく上演されたという。大正時代に一時、上演禁止になったことはあるが、再び上演を許され、沖縄民衆の熱い共感と支持を得たのである。今日でも人気の組踊の一つであり、高い評価をうけていること自体、その先駆性を示している。朝敏は、三四歳の若さで短い生涯を終えたが、その作品は永遠の生命を得て生き続けているのである。

      (終わり。二〇〇八年六月二六日。くしくも平敷屋 朝敏の命日に)

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