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2012年5月

2012年5月31日 (木)

歴史がいまも生きている沖縄、その1

 琉球の歴史上に登場した人の子孫というか血筋をひく人たちが,いま、生きていろんな分野で活動していることに驚くことがしばしばある。

 その一人は、仲井真県知事だろう。琉球王府時代の著名な政治家、蔡温の末裔だと聞いた。

 先般、組踊「手水の縁」の作者で、政治犯として蔡温に処刑された平敷屋朝敏のことをアップしたところ、朝敏の母方祖父、屋良宣易(ヤラセンエキ)の末裔にあたるという宜野座村のYさんからメールをいただいた。朝敏について詳しくは、ブログを見ていただきたい。

011        朝敏のつくった組踊「手水の縁」の歌碑(豊見城市瀬長島)    

 屋良宣易については、よく知らなかったが、和文学者であり、朝敏はその薫陶を受けたという。和文学者というだけでなく、王府の評定所右筆、尚純公の教育係、首里城の瓦修復奉行など三司官の下で政治にも深くかかわりがあったという。
 朝敏らが王府批判と見られる落書を薩摩在番所横目宅に行い、罪を問われた事件では、朝敏、宣蕃らとともに安謝港で処刑されたことが、家譜に残されているそうである。
 Yさんは、朝敏の母方祖父の末裔という立場で、その「功績を後世に伝えていくのが使命」だとのべている。
 こういう朝敏にゆかりの方から、メールをいただくとは予想もしていなかったので、うれしいかぎりである。これからも、時代を先取りした朝敏とその作品は、時代の発展とともに、より親しまれ、高い評価を受けるだろうと思う。

2012年5月29日 (火)

悲運の尚徳王伝説

 琉球を統一した第一尚氏の最後の国王、第7代尚徳王は、王府の正史では、暴虐、悪政の王だとされる。1469年急死した後、百姓上がりで前国王の側近だった金丸が推挙されて国王に就き、尚円王を名乗ったことになっている。でも、実際は金丸のクーデターで、第一尚氏は滅ぼされ、王妃と子ども3人が殺された。
 尚徳王は久高島でクーデターのことを聞き、海に身を投げ亡くなったという話もある。その他に、今帰仁の運天には、金丸に王位を奪われ、遁世して行った尚徳王の一族を葬ったと伝えられる百按司墓(ムムジャナバカ)という墓がある。
喜界島にも尚徳王の墓があるとも伝えられる。喜界島は尚徳が兵士を率いて遠征したのだから、島に逃れたとは考えられない。
那覇市の識名には尚徳王陵墓跡の碑が建っている。

004_2
 興味深いのは、久高島から脱出して、宮古島の狩俣に着いたという伝説があること。それを紹介しているのが、狩俣吉正さん(前連合沖縄会長)の『狩俣民俗誌』である。同書から要約してみる。
 尚徳王が宮古島に着いたのは、1469年後半で29歳だった。宮古島では1474年、仲宗根豊見親が、宮古主長として正式に豊見親の称号を拝命した。その少し前の時代になる。
 尚徳は、狩俣の人々に農作物の栽培を教え、井戸を掘って水を確保したり、道路や広場を整備して信頼を得ていた。狩俣の祖神祭(ウヤーン)を改革した。村内で秀れた人物の呼称「世勝=ユマサイ主」と呼ばれて尊敬されていた。狩俣、島尻、大神、池間の4村を統治したので「四島ぬ主」と呼ばれた。
 仲宗根豊見親は、公用船を必要とし、狩俣に造船に詳しい人物がいると知り、訪ねて上国船を建造してくれるよう頼んだ。ユマサイ主(尚徳)は、八重山に渡って船を建造して上納した。「四島ぬ主」の職は、約140年間に4、5人が就いたが、初代のユマサイ主(尚徳)は、25~30年間の在職だったことになるという。

029         第二尚氏は尚円王の以後19代、約400年にわたり続いた

 悲劇の人物が、実際には死んだのではなく、生きて逃れがたという伝説は、古来たくさんある。源義経が海外に逃れてジンギスカンになったという話もその典型だろう。
 尚徳王はお墓もないし、どのようにして亡くなったのかも分からない。病死なのか、それにしては29歳とは若い。毒殺説もある。第一尚氏の最後の国王なので、密かにどこかに逃れて生きのびていてほしい、という願望もあるのだろう。

 どこかに逃れた可能性もまったくありえないことではないだろう。ただし、尚徳の生きのびた伝説はいずれも、確たる史料があるのではない。狩俣伝説も、この地に残る一つの言い伝えである。
 金丸がクーデターを起こして、第一尚氏の王朝を倒して、新たな王朝をひらいたのだから、尚徳をあいまいな形で生きのびさせたとは考えにくい。金丸は、それを見届けなければ、国王につけないのではないだろうか。
 正妃や子どもまで殺され、尚巴志らの遺骨を祀る陵墓まで荒らしたというから、尚徳王は、やはり死んだか、殺された可能性が高いと私的には思う。

014             読谷村にある尚巴志らの陵墓

 ただし、尚徳王の4人の子どものうち、3男だけが3歳で、乳母に抱かれて先祖の地、佐敷に落ちのびたとされる。後に佐敷間切(今の町村)屋比久の地頭となり、屋比久大屋子と称したという。その子孫は、第二尚氏の尚清王に仕えたり、さらには王府から王孫の由緒をもって首里移住を許され、子孫は首里士族としての道を歩んだそうである。以上はネットの「ウィキペディア」からの要約である。
 第二尚氏も、尚徳王の子孫を根絶やしにするようなことまではしなかったようだ。

 

2012年5月28日 (月)

沖縄ジョン万次郎会の定期総会に初出席

 沖縄ジョン万次郎会の定期総会が開かれて、初めて出席した。事業報告と計画、決算報告と予算案まで、しっかりと報告、提案された。報告の中に、私たち夫婦が新年会に高知県出身のゲストとして招待されたことも記されていた。

002  これからの行事予定では、万次郎会が後援する「今こそジョン万次郎の勇気と努力に学びましょう」の講演会(6月9日)や久高島探訪の研修(7月)、シンポジウム(8月)、文化講演会(9月)の開催、土佐清水市ジョン万祭(10月)、万次郎忌の集い(東京、11月)への参加も予定されている。 結成20年を超え、ますます旺盛な活動を進めている様子がうかがえる。

006  総会の後は、ジョン万次郎研究家の神谷良昌氏が「ジョン万次郎と牧志朝忠とベッテルハイムの遭遇」と題して講演した。プロジェクターを使い、新しく見つかった史料、エピソードを盛り込みながら、とても分かりやすく興味深い講演で、参加者を魅了した。

008  写真は、万次郎が琉球で半年間滞在した高安家。家の前に建つ衝立のようなものは、沖縄の家には必ずあったヒンプン。万次郎は、外に出る時はこのヒンプンを飛び越えて行ったそうだ。

009  6月ウマチー(祭り)の大綱曳きには、万次郎も参加した。神谷氏の原案、儀間比呂志さんの絵による絵本から。

   神谷さんによると、万次郎が琉球に上陸したさい、聴取にあたったのが当時、王府で異国通事と外務次官のような役職にあった牧志朝忠だった。朝忠は、万次郎からアメリカの政治制度、一般の国民から大統領が選挙で選ばれ、任期は4年、大統領をおりれば一般の国民に戻ることなど詳しく聞いた。万次郎が上陸したさい、アドベンチャー号に積んでいた数冊の本の中で、初代大統領のジョージワシントンについて書かれたものを、朝忠はとても読みたかったので、夜通し本を筆写して、まだ終わらないので借りて読んだという。004

 その後、ペリーが琉球に来た際、通訳にあたった朝忠は、ペリーの部下が琉球に不当なことを要求したが、朝忠は、ジョージワシントンを生んだ国でこんな不当なことを押しつけていいのか、とただした。米側は、琉球のような小さな島で、ジョージ・ワシントンのことを詳しく知っているのに驚いて、ペリーに報告し、要求を取り下げた。
 万次郎が朝忠にもこんな大きな影響を与えていたことなども、神谷氏は話した。

ベッテルハイムとは当時、イギリスから琉球に来ていた宣教師で、薩摩藩と王府は、万次郎がベッテルハイムと接触するのを恐れて、那覇市に連れて行こうとした万次郎を、隣りの豊見城市で一番遠い翁長に戻して留置いたという。

また、坂本竜馬がつくった亀山社中は日本で初めての株式会社だけれど、これは万次郎が伝えたアメリカの政治や社会の仕組みなどの情報を知って、竜馬がつくったものだったと話していた。

013  会には糸満市からも5人参加した。というのは、万次郎が上陸した糸満市の大度海岸に、万次郎がこの地に上陸したことを示す記念碑を建立する計画がある。出席者の一人は、高知市の出身で大度海岸近くの米須に住んでいるとのこと。新たな高知出身者が現れ、挨拶を交わした。

 講演の後は、懇親会。ちょうど私の隣に座った男性は、兵庫県から豊見城市に移住してきたばかりで、万次郎会のことを知って初めて参加したという。万次郎ファンが増えていることは嬉しい。

 懇親会では、カラオケも置かれて、大城光盛会長を始め自慢ののどを披露した。
 私も余興を予想して三線を持参した。ツレと二人で「二見情話」を歌った。一節ごとに拍手をいただき、ありがたかった。ヤマトンチュなのに歌三線で民謡を歌ったので、ビックリという感じ。「上手でしたよ」「二見情話はいい曲ですよね」「私もいま練習しているところですよ」と何人も声をかけてくれた。2人とも舞台に上がったので、写真が撮れない。

追伸
 後日、高知出身のWさんが、私たちが三線で歌っている写真を撮っていたといって送ってくれました。ありがたいことです。さっそくアップしておきたい。

Photo

2012年5月27日 (日)

三線を楽しむ会を楽しむ

 毎月恒例になった三線を楽しむ会。宮古民謡の名手、Tさんを中心に今月は6人集った。大工哲弘さんの教室で習う人から宮古民謡、本島の民謡、ギターと両方出来る人まで、同じ三線好きといっても、バラエティーに富む。

003  はじめてお会いしたKさん。八重山民謡の「つんだら節」「鷲ぬ鳥節」ほかを披露した。強制移住で恋人と引き裂かれ、山上から故郷と恋人を思い続けるうちに岩になった「野底まーべー」を歌った「つんだら節」は、胸に染みいるようだ。001  宮古民謡が得意はAさん。お名前を覚えられなかった。失礼! 宮古の代表曲「なりやまあやぐ」ほかを演奏。7月にはコンクールがあり、課題曲になっているとか。三線も唄も上手だと聴いた。ただ、コンクールで審査にもあたる名手のTさんにいわせると「このままではまだ合格にならない。あと3か所、節回しを直せば合格できる」。ご本人も「3か所ですか。15か所かと思ったけれど」と応える。あと3か所で合格とは、上々ではないだろうか。004

 TNさんは、得意の「ゆたから節」「浦波節」「ヤッチャー小」ほかを弾き歌う。三線も上手いし、声も歌もいい。それに、歴史と民謡についてもとても詳しい。私のブログも読んでくれていて、一緒になると、歌三線以上にゆんたく(おしゃべり)に夢中になる。
 「ゆたから節」は、一番の歌詞が「すみなし節」と同じで、曲想も似ているので、続けて私も「すみなし節」を歌った。「ヤッチャー小」は、編曲されて「門(ジョウ)たんかー(具志川小唄)」になっているので、これまた、続けて「門たんかー」も歌ってみた。

005  Uさんは、ギターがとても上手い上、三線も上手。ギターの上手い人は、三線も弾きこなせる人が結構多い。テクニックはギターが難しいから、応用ができやすいのだろうか。「おじい自慢のオリオンビール」「涙そうそう」など披露した。軽快な早弾きもお手のものだ。

006_2  さて、自分の番になると写真が撮れない。撮影を頼もうと思っていたのに、歌う番になると、すっかり忘れている。というわけで、前に歌った時の写真をのせておく。
 Uさんから「今帰仁天底節をまた歌って下さい」と要望があり、歌った。ほかにも「肝がなさ節」「無情の月」「安里屋節」「月ぬ真昼間節」など歌ってみた。あまりいろいろ手を出して歌うので、Tさんから「民謡なんでも知ってるね。やまとぅー(内地人)なのにー」と評される。下手の横好きというのだろう。この日は、集まった人が少なかったので、出番が多かった。

 002  いよいよTさんの登場。われわれ下手な者は何回も出たがるが、真打というか名手は、1回切り。宮古では、正月や祝いの席とかで必ず歌う「とーがにあやぐ」ほか3曲を披露した。さすが、とっても味わいのある歌であり、三線も表現が深い。Tさんの演奏を聞けるだけで、この場に来る価値がある。本当は、もっと聴きたいところだ。
 「遅い時間になると、近所からうるさいという苦情が警察にあげられるから、大声を出さないように歌おうね」。声を抑えて歌うと余計、渋い歌声になり魅了される。

006  少し人数が少なかったが、歌三線の愛好者が気軽に集い、歌い、語らえる場があるのは、素晴らしい。

 

2012年5月25日 (金)

近くにあった尚徳王の陵墓跡

 琉球を統一した第一尚氏の墓を訪ねてきた。まだ見ていなかったのが、最後の国王、尚徳の墓である。といっても、お墓はない。陵墓跡がある。それも、わが家に近く、よく通る道だった。

006  那覇市の寄宮方面から識名に上り、識名交差点の手前、識名公民館ホールの隣に立派な碑があった。大きなマンションの前である。この道は、よく通るのに、気付かずに通り過ごしていた。

001  琉球が三山に分かれていたのを尚巴志が統一した。だがその後まだ国内で護佐丸・阿麻和利の乱があったり、肉親による後継争いがあるなど、政情不安があり、財政も逼迫するなど不安定だった。尚徳は21歳で第7代国王となったが、在位わずか9年、29歳で死去した。

003 百姓上がりで第6代、尚泰久に取り立てられ、国王の側近となった金丸のクーデターによって第一尚氏は、7代の国王、わずか65年で倒れることになった。

 首里王府の正史では、尚徳王は「29歳にて薨じ給ひける」(『中山世鑑』)、「王、暴虐日に甚しく、金丸諌むれど聴かず」(『球陽』)と、悪逆な国王であったかのように記されている。お墓もないままである。

002  琉球石灰岩で建立された碑のそばにあったはずの「第7代尚徳王陵墓跡」の石碑は根元からポッキリと折れていた。前に訪れた人の写真を見ると、石造りの碑が建っていた。いつ、なぜ折れたのだろうか。残念である。知人のTさんに聞くと、2011年の台風によって折れたのではないか、とのことだ。

007  陵墓跡の碑の前は、御願(ウガン)に来た人たちが平香(沖縄の線香)を燃やしてお参りした様子がうかがえた。

 「暴虐」な国王という評価は、そのまま信じるわけにはいかない。金丸のクーデターを正当化するためだろう。金丸が尚円王となり、打ち立てた第二尚氏の王朝がつくった正史だからだ。

008  第一尚氏の系譜にあたる門中(ムンチュウ、男系血縁集団)の人たちが、この陵墓跡の碑を建立したそうだ。昭和44年(1969年)に建てられている。

 青年国王だった尚徳は、在位9年間に11回も明国に進貢するなど、対外的な貿易に力を入れた。すでに東南アジア諸国とも交易がされていたが、マラッカに使者を派遣して交易を拡大したそうだ。室町幕府にも使者を送り、当時の足利義政と琉球使節が会った。朝鮮国王にもオウム・クジャクを贈ったという。喜界島に自ら兵を率いて遠征し、勝利を記念して安里に八幡宮を建てた。

 尚徳王を慕う人たちは、第一尚氏の系譜の人たちだけでなく、いまも絶えない。その死因も、よくわからない。クーデターのさい、正妃や子どもまで殺され、尚巴志ら第一尚氏の陵墓も荒らされたというから、尚徳王の死因が明記されていないのは、殺された可能性もありうるように思う。毒殺説もあるそうだ。009

 尚徳王の事績についても、もう少し客観的に明らかにする必要があるのではないだろうか。それに、第一尚氏の陵墓は、みんなバラバラになっている。第一代尚思紹は南城市佐敷、第二代の尚巴志や三、四代は読谷村、第五代金福は浦添市(ここだけまだ見ていない)、第六代尚泰久は南城市玉城、第七代尚徳は那覇市識名と五か所にも散らばっている。しかも、第一尚氏の系譜の方々の努力で、陵墓が守られたり、陵墓やその跡を示す石碑も建立されているが、行政による史跡としての整備はほとんどされていない。史跡の案内表示もほとんどない状態だ。

005_2  陵墓跡のそばに小さな祠があった。知人のTさんによると、尚徳王が亡くなった時に、殉死した臣下を祀っているのではないか、とのことだった。古琉球では、国王の死去のさい、殉死する習慣があったという。

 第一尚氏は六五年の短い王朝だったとしても、琉球を統一し、大交易時代の幕を開くなど、その功績は大きい。第二尚氏は、玉陵が世界遺産に指定され、多くに人たちが訪れている。それに比べて、あまりにも不釣り合いな気がする。

2012年5月24日 (木)

「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」歌碑建立へ

 反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」の歌碑建設事業が進められている。この曲は、読谷村楚辺(ソベ)出身の比嘉恒敏さんが1971年ごろに作詞作曲した。このブログでも、2011年6月、7月に2度にわたり、この曲の紹介と誕生秘話をアップしてある。

 歌碑建立は、楚辺の住民が中心になり、実行委員会を立ち上げ、スタートした。来年の6月23日、慰霊の日に建立式をする計画だとのことだ。

 歌碑建立の趣意では、この歌の歌詞が「艦砲射撃によって犠牲になった人々の哀悼とともに、悲惨な沖縄戦を生き残った“うちなーんちゅ”の強さと戦争を恨み平和を願う心情がつづられ」ている、とのべている。003          「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」のレコード。NHK画面から

 戦後67年が経過し、歴史の過ちを繰り返さないため、沖縄戦の体験の継承が課題となっているとして、「沖縄戦の実相を伝える象徴として、楚辺から世界へ戦争の悲惨さと平和の尊さを発信するため『艦砲ぬ喰ぇーぬくさー』歌碑建立事業を実施する」とその趣意をのべている(「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー歌碑建設活動のブログ」から)。

 この曲がレコードで発売された当時は、大ヒットしたそうだが、最近ではあまり歌われない.。ラジオなどで流れる機会も少ない。こういう曲こそ、趣意で述べているように、歌い継がれるべきであり、歌碑の建設がふさわしいと思う。

005         比嘉恒敏さん(右端)と家族。NHK画面から

 それにしても、作者の比嘉恒敏さんは、沖縄戦とその後の米軍支配によって、県民に降りかかってきた悲劇と苦難を丸ごと体現した人ではないだろうか。
 父と長男は、学童疎開船「対馬丸」で失い、妻と次男は仕事で出ていた大阪で大空襲によって亡くした。恒敏さん自身は、戦災に会わず、生き残った。再婚して子どもを育て、娘さん4人で「でいご娘」を結成して、活躍していた。それが、復帰直後の1973年に那覇市の舞台を終えて帰宅途中に、宜野湾市大山で米兵の飲酒運転車両と激突して、妻は即死、自身も4日後に亡くなった。くしくも10月10日、あの沖縄戦の始まりともいえる「10・10大空襲」の日だったという(同ブログ)。

 なんという残酷な運命だろうか。「艦砲ぬ」の歌詞は最後に、<親や島を喰った戦争、艦砲を恨んで悔やんでも飽き足りない、子孫末代まで遺言して語り継がなければ>と歌っている。戦争を絶対に繰り返さないため、この曲は、長く歌い継がれていかなければならない。歌碑はそれに役立つだろう。

2012年5月22日 (火)

「万国津梁の鐘」銘文の謎

 琉球王府の第一尚氏の6代目国王、尚泰久が造らせたという「万国津梁の鐘」は銘文が有名だ。「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす」、琉球はその中間にあって「舟楫を以て万国の津梁となし」と記されている。

044  琉球が中国、朝鮮、日本の中間にあって、舟をあやつり、東アジアの国々と交易を繰り広げ、「万国の津梁(架け橋)」となって栄えていたことを誇り高く記している。「輔車(ホシャ)」は頬骨と下あごのこと、「唇歯(シンシ)」はくちびると歯のこと、いずれも切っても切れない密接な関係を表す言葉だ。

 ただその銘文の書き出しで、まず「三韓の秀を鍾め」と記し、朝鮮の優れた文化、知識を取り入れたことをあげているのはなぜだろう。琉球が交易していた外国といえば、なにより宗主国とあおぐ中国をあげるのが常識的ではないか。中国皇帝から国王として任命を受ける冊封体制にあり、文化、学問、技術も中国の影響が大きかったからだ。
 次には、日本の影響も大きい。それがなぜ、朝鮮が第一にくるのかが謎というか不思議だった。はじめて銘文を読んだ時から、この記述に引っかかっていた。まあ勉強が足りないだけだったかもしれない。

044_2       写真は「琉球村」に飾られていた「万国津梁の鐘」の銘文

 『朝鮮と琉球ー歴史の深淵を探る』と読んでいると、この疑問に応える記述があった。

 本書は、この銘文の注目点として①中国、日本より先に朝鮮を上げていること②中国、日本については、輔車と唇歯の関係をなすとして、政治・軍事的側面を強調したのに対し、朝鮮は文化的な面で強い影響を与えた様子がうかがえる、としている。

 「ここでいう秀でた文化とは、大蔵経をはじめとする仏教文化をさす」とのこと。
 (大蔵経とは、漢文に訳された仏教聖典を総称するそうである)
 琉球を統一した第一尚氏王統から第二尚氏の尚真王時代まで、統一王国の宗教的な支柱として仏教を招来し、多くの寺刹を建立した。「このような王立の寺刹に高麗大蔵経を奉安することは、国王の権威を高めることにも繋がっていた。当時、高麗大蔵経はその質の高さと膨大さにおいて、最も秀逸した仏教聖典として高い評価を受けていた」という。
 021  15世紀にはいると、その大蔵経の入手が通交の主目的となっていき、大蔵経だけでなく、「その他の仏教書籍・仏具・梵鐘などの朝鮮の仏教文化が琉球に伝わっている」という。これらは、新興仏教国である琉球における宗教の発展に少なからぬ影響を及ぼしたであろうと記している。

 これを読み、銘文が冒頭で、ます「三韓の秀を鍾め」と記していた謎が、分かった気がする。朝鮮と琉球の関係は、まだまだ謎の部分が多いけれど、とりあえずは納得した。

2012年5月21日 (月)

沖縄民衆の抵抗の歩み、その7

 大宜味村では、青年を中心に村政革新運動が燃え上がる。村を揺るがす画期的な運動となった。同じ琉球弧の島々では、奄美諸島でも、大きな百姓一揆が何度も起こった。
 琉球王国が廃止され、首里王府と薩摩の支配が終焉を迎え、民衆は変革を期待したが、その期待は裏切られた。王府の権威も崩れ落ちたもとで、民衆の抵抗がわき上がった。

 圧政にたいして、粘り強く抵抗する沖縄民衆は、その後の沖縄戦と米軍による強権的な占領支配にたいしても、「ヒヤミカチ精神」で勇敢に立ち上がっていった。その7は、そんな内容である。

「teikou07.doc」をダウンロード

 056      普天間飛行場の返還と県内移設反対の県民大会(2010.4.25

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2012年5月20日 (日)

沖縄民衆の抵抗の歩み、その6

 奈良原知事の士族救済の名による開墾政策にたいして、山原住民は果敢に抵抗をした。第1回県費留学として学び、県庁で高等官となった謝花昇も、知事の政策に疑問をもち、立ちはだかる。やがて沖縄自由民権運動ののろしを上げる。
 人頭税を課せられた先島、なかでも宮古島、多良間島では早くから勇敢な抵抗があった。明治中期になり宮古島では「島燃ゆ」といわれた人頭税廃止の闘争が燃え上がった。その6はこんな内容である。

「teikou06.doc」をダウンロード

031 

 八重瀬町に建つ謝花昇の像

2012年5月19日 (土)

沖縄民衆の抵抗の歩み、その5

 ここから民衆は圧政にどう抵抗したのか、を見ていく。民話の英雄には民衆の抵抗の精神が反映している。18世紀には、実際に浦添では農民のストライキが発生した。廃藩置県の後には、地方役人を糾弾する闘争が各地で勃発した。その5は、そんな内容である。

「teikou05.doc」をダウンロード 023              恩納村にある恩納番所跡の絵

2012年5月18日 (金)

沖縄民衆の抵抗の歩み、その4

 琉球王府の時代、百姓一揆の条件がなかったといわれる。その意味するものは何か。それと関連して、琉球では「支配階級が無能」だった。それはなぜだろうか。また、薩摩の属国のようにされ、「ドレイ根性」が生れたといわれる。ただ、「ドレイ根性」が生れたのは、支配層のなかではないだろうか。その4は、そんな内容である。

「teikou04.doc」をダウンロード

   073          今帰仁城跡

2012年5月17日 (木)

沖縄民衆の抵抗の歩み、その3

 琉球の農民への搾取と支配と特徴の一つに、村落共同体をまるどと王府に隷属させ、共同体に貢租や夫役を強いるというやり方がとられたことがる。税金を納めるのは、個人ではなく、共同体で連帯責任として納めさせた。これは古代国家に見られる特徴だという。貢租を課せられる村落の共同体には、厳しい内法があった。その3はそんな内容である。

       

  teikou03.doc」をダウンロード

 昔の黒糖づくり風景。牛に曳かせて車を回しサトウキビを搾る(琉球村にて)

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2012年5月16日 (水)

沖縄民衆の抵抗の歩み、その2

 琉球王府の時代、百姓一揆が起きにくかったのはなぜか、そこには琉球の搾取と支配の後進性があるといわれる。琉球に侵攻した薩摩藩とも共通する特徴がある。後進性とは何か。その2はそんな内容である。

「tikou02.doc」をダウンロード

033              昔の田舎の水車(琉球村にて)

2012年5月15日 (火)

沖縄民衆の抵抗の歩み、その1

 

沖縄の人民は、琉球王朝の時代に過酷な支配と搾取を受けていたけれど、「百姓一揆はなかった」と言われる。薩摩藩に侵攻されて、植民地のように支配されたため、「奴隷根性がしみついた」という議論もある。はたしてそうなのか。

決してそうではない。それは、すでに現実が回答を示している。なにより、戦後の米軍占領下の圧政と軍事基地の重圧のもとで、沖縄県民が決して屈従することなく、米軍による土地強奪への抵抗や日本への復帰運動に代表されるように、たくましく、ねばり強い島ぐるみの運動を繰り広げてきた。そして、アメリカと日本政府も揺り動かしてきたからである。

Photo    首里王府に反逆した石垣島のオヤケアカハチの像

 本来は、この一言で結論は出ているようなものだ。でもせっかくなので、琉球王府の時代と廃藩置県の後に、庶民は圧政にどのように対峙してきたのか、どのような抵抗の歩みがあるのだろうか、振り返ってみたい。
 なにしろ琉球・沖縄史については素人なので、先学の人たちの研究、論考を参考にというか、導きとさせてもらいながら、沖縄庶民史のささやかな試みの一つとなればという思いである
。見当違いのことも多々あるだろう。文章も長い。7回に分けてアップしたい。

 第1回は、悲惨だった王府時代の農民の現実と、「百姓一揆がなかった」といわれるのはなぜか、について考える。

 「teikou01.doc」をダウンロード

 

2012年5月14日 (月)

復帰40年でオスプレイとは!

 5月15日は、沖縄が米軍統治から日本に復帰して40年にあたる。米軍によって土地を奪われ、人権を奪われ、米軍機の墜落や米兵による重大な事件・事故の恐怖から、平和憲法のもとに復帰したい、核も基地もない沖縄へと願った復帰だったはずだ。

 「♪思事や一道 恋しさや大和 やがて御膝元 戻る嬉しゃ」(思うことはただ一つ 恋しいのは日本 やがて日本のおひざ元に 復帰するなんと嬉しいことだろう)。1969年につくられた民謡「平和の願い」は、つらい異民族支配から日本に復帰する喜びの心情をこう歌っていた。

 でも、現実には米軍基地は縮小もされず、新基地建設さえ押しつけようとしている。日本政府は、県民の願いに応えるのではなく。逆になんでもアメリカいいなり。県民の願いをことごとく裏切ってきたのではないか。
 多くの県民は、そう思っているだろう。

 029  ここにきて、垂直離着陸輸送機のМVオスプレイを普天間飛行場に配備する計画が、前倒しで進められようとしている。それも7月に、分解した機体を那覇軍港(上写真)に搬入して、組み立てた上で、試験飛行をする意向を日本政府に伝えてきた。那覇軍港といえば、那覇市のど真ん中。わが家からもすぐ近い。これが復帰40年の日米政府による「プレゼント」なのか!

 オスプレイは、事故が相次ぎ欠陥機といわれ、4月にモロッコで墜落事故を起こしたばかりだ。県都のど真ん中で試験飛行し、世界一危険とアメリカも認める普天間飛行場への配備を強行する構えだ。県民の命と安全をなんと考えているのか、狂気の沙汰といわざるをえない。

 野田首相は復帰40周年の式典に出席する。いったいどの面下げて出席するのだろうか。

2012年5月13日 (日)

アルテで「やいま(八重山)」を歌う

 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーの今月のテーマは「山」。迷わずミヤギマモルの「やいま」を選曲した。「海を見れば故郷思い出し、山を見ればまた故郷思い出す」と歌う。ミヤギマモルさんが、石垣島を離れて12年を経て、故郷をしのぶ歌だ。

014  沖縄本島の中南部は山がない。山を見て故郷をしのぶ感じはない。沖縄一高いオモトダケがある石垣ならではの歌だ。
 いざ本番。歌い出すと、例によって、三線は手が勝手に変なとこに動いて、ミスタッチする。何回やっても、学習できないのはなぜだ?でも、楽しく歌えたので、よしとしたい。
 二次会では、Sさんが「やいま、やいま!」と叫んでリクエストしたので、もう一度、弾いて、Sさんと一緒に歌った。今度は、バッチリ弾けた。

027  ツレは、やはり石垣島出身者でつくる「パーシャクラブ」の「五穀豊穣」を歌った。パーランクを打ち鳴らし、歌った。途中で歌詞を忘れるハプニングがあったが、鳴り物入りで、手拍子ももらって盛り上がる。
 伴奏の三線は、直前になり、出だしが上手く弾けなくなって、慌てたが、本番はなんとか弾けたようだ。

 005  今回も多彩な楽器、曲目で楽しませてくれたが、三線の演奏もTさんの「世宝節」、Hさんの「てぃんさぐぬ花」が披露された。あとから主宰者から「日頃少なかった島唄が今回は多かったのでよかった」と評してくれた。017  三線の演奏が増えるのは、新参者の私も嬉しい。沖縄でやっている演奏会なのだから、島唄が少ないと寂しいからだ。

031  感心するのは、自分で作曲して歌う人が何人もいること。楽器を器用にいくつもこなす人もいるけれど、自分で作詞作曲して歌う人がこの日も3,4人いた。スゴイことだと思う。

来月のテーマは「季」。さて何にするのか、いまだに迷っている。候補は幾つもあるのだが。決定打がない感じだからである。

2012年5月 9日 (水)

三線も名手、フォーク歌手のふーみー

 フォーク歌手のふーみーの島唄ライブを聴きに、恩納村の居酒屋「なかや」に出かけた。

035  いつも糸満市のライブバー「風は南から」に集まるお仲間と一緒に特等席に座った。観光客目当ての店なのに、この日はなぜか、観光客が少ない。ウチナーデーの感じになった。

044  1部,2部構成だが、一部は三線だけ、2部はエレキギターを交えての演奏。島唄オンリーのプログラムだった。三線を2丁持ってきていた。2丁とも、胴にマイクを仕組んでいて、胴の裏は空洞になている。「これは人工皮革だけど、もう20年使っている。もう一つは本革張りで、調弦を少し下げてある」とのこと。

046  民謡、ポップス系の島唄の数々、「島人ぬ宝」から「平和の琉歌」を含めて歌いまくる。

 三線のテクニックがスゴイ。まるでギターを弾くような感じだ。ギターは中高生の時代から弾いているが、三線は青年になってから。「青年会でエイサーをやっているが、お前ギターを弾いているから三線できるだろう、と言われて初めてやりだした」。はじめは自分で三線も持っていなかったという。でも、たちまち弾けるようになったというから、さすがミュージシャンだ。青年会のエイサーの地謡(ジカタ)としても活動している。

 早弾き曲も楽々と弾きこなすというか、むしろ早弾き曲が得意。リズムによくのり、乱れはまったくない。三線の音も、胴が空洞の三線は、ポコポコと変な音がするので、あまり好きではない。でも、ふーみーの三線は、いい音が奏でられる。やはり弾き手の腕前だろう。

042  彼は「三線で聴きたい弾きたい」シリーズで、フォーク15曲、Jーポップ15曲の2枚組アルバムを出している。ラジオリスナーのnaoさんから借りて聴いてみた。「夢の中へ」「なごり雪」から「贈る言葉」「乾杯」まで入っている。

043  CDは、三線のヘビ革の模様があしらわれている。15曲入りなのに、ボーナストラックとして、「帰ってきたヨッパライ」「天国でカチャーシー(唐船ドーイ)」と「花~すべての人の心に花を」「てぃんさぐぬ花」が付いているのもうれしい。
 フォークやJーポップの曲は、三線の工工四(楽譜)がほとんどない。自分で作って弾いたのか、いや知っている曲目だと、ほとんど楽譜なしに弾きこなしたのではないか、と思う。でも三線の上手さに舌を巻く。

054 ギターに比べて三線はやさしいのでは、と尋ねると「ギターはコードを弾けば歌えるけれど、三線は旋律を弾きながら歌うので、そこが難しいね」とのこと。三線だけやっているのには、当たり前だが、フォークを歌いながら、三線もやる歌い手ならではの問題だろう。

 三線だけ、ギターだけの名手はたくさんいる。でも、三線もギターも両方、上手いという人は、沖縄広しと言えども、他にいないのではないか。

 演奏が終わると、ふーみーを盛んにデジカメで撮っていた女の子、その弟が抱きついてきた。子どもにも慕われるふーみーである。

2012年5月 7日 (月)

護佐丸父祖の墓を訪ねる

 古琉球の時代、座喜味城を築き、中城城を拡張して城主となり、築城の名手といわれた護佐丸(ゴサマル)。勝連城主の阿麻和利(アマワリ)の謀反の告げ口により、討たれた。護佐丸・阿麻和利の乱で有名だ。恩納村に行く途中、山田の国道58号線の東側に、護佐丸が最初に居城としていた山田グスク跡など史跡があり立ち寄った。

031  歴史の道に出た。山田グスク跡は、今回は行けなかった。グスク跡の下に護佐丸の父祖の墓があった。護佐丸の出身はもともと、恩納村でも読谷村でもない。ルーツは、今帰仁(ナキジン)にある。曾祖父が先今帰仁城主で、1322年に北山王帕尼芝(ハニシ)によって滅ぼされた。

022  今帰仁城主の子が読谷山按司(山田按司)として山田城主となったが、嗣子がなく、兄弟の伊波按司の次男が養子となって読谷山按司を継いだ。その子が護佐丸だと伝えられる(ウィキペディアから要約)。

 023  つまり、護佐丸の父祖が山田城主であり、護佐丸は3代目として居城したそうだ。それで父祖一族の墓となっている。石灰岩の洞穴を利用している。墓の前には、一族によって建てられた碑文がある。

025  碑文は、もう読めない。説明板によると、おおむね次のようなことを記しているそうだ。
護佐丸は山田城主として居城したが、その後読谷山の城塞を構え居住するにより、この洞に墓所を定め、内は屋形作りにて一族を葬った。然るに幾年の春秋を経て、石造材破壊におよび、康熙53年修復した。
 このように碑文では、墓の修復(1714年)や碑建立(1750年)などを記している。

026  墓の奥は鍾乳石が下がり、拝所になっている。3年前、NHK大河ドラマで、上杉謙信が鍾乳石の洞窟に毘沙門堂があり、そこに籠る場面があったのを思い出した。雰囲気が似ているからだ。

027  護佐丸は、中山王となった尚巴志が、1416年に北山征伐の軍をおこすと、この軍に合流して、北山国を滅ぼした。曾祖父が今帰仁で滅ぼされてからおよそ100年近く後に、仇討ちをした恰好になる。

030                父祖の墓に上る道は険しい

 北山平定の後、今帰仁城主の血筋をひく護佐丸は、北山守護職に任じられた。ただ、尚巴志はその後、次男の尚忠を北山監守に任じ、護佐丸を読谷山の座喜味に移した。護佐丸は、その際に山田グスクの石垣を崩して、大量の石材を運んで座喜味城を築いたと伝えられる。

030_2  ただし、座喜味城跡は見事な石積みであり、城の規模も大きいから、山田グスクを崩して持ってきた石材だけではとても足りなかったのではないだろうか。他からも大量の石材を集めたのだろう。この築城のために奄美諸島からも島民が動員されたそうだ。これは、もう余談である。

2012年5月 6日 (日)

英雄・尚巴志の墓を訪ねる

 琉球を統一した英雄・尚巴志の墓が読谷村伊良皆(イナミナ)にあるというので訪ねた。墓のある国道58号線の東側は、米軍の嘉手納弾薬庫地域として接収されている。ただ、沿線沿いは黙認耕作地として、農作物つくりに利用されていると聞く。戦前は、伊良皆の主な集落がこちらにあったそうだ。

020  国道から入ると砂利道に、警告看板が目立つ。嘉手納空軍の第18航空団と防衛省、読谷村、地主会の名前で「娯楽行為は許可されていない」と4WD、バイク運転者に警告している。でも、そのわきをオフロードバイクが警告を無視するように走っていった。

 墓を訪ねる人は、場所が分かりにくくて、5回挑戦してやっと見つけた人もいる。でも、私は事前に第一尚氏の系統の人たちが書いた本に掲載された地図を頼りに行ったので、1回で着けた。途中の道路わきに井戸のある標柱がいくつもあり、村の人たちが住んでいた往時をしのばせる。

001  道路わきに尚巴志の墓を示す石碑が見えてきた。車を止めて山道に入っていった。この森は、南城市佐敷の出身である尚巴志の墓があるので「佐敷森(サシキムイ)」と呼ばれている。003  山道を120㍍ほど進むと墓が見えてきた。

014  琉球が3つの小国に分かれていた時代、尚巴志が中山王を倒して1406年に父、尚思紹が国王に即位した。1416年に北山を滅ぼすと、1422年に尚巴志が2代目中山王となった。1429年に南山も征服し、琉球三山を統一した。日本史でいえば、秀吉が日本を統一したのに例えられる。その意味で、古琉球の英雄とみられる人物だ。
 ここには、3代目尚忠、4代目尚思達も葬られている。

008  大きな岩山の洞穴を使って陵墓としている。尚巴志は在位18年に及び、68歳で死ぬまで活躍した。しかし、その息子の尚忠は在位5年で死去。4代目、尚思達も在位5年で世を去り、子どもがいなかったので、叔父にあたる尚忠の弟、尚金福が即位した。やはり在位4年で亡くなったという。不運というか短命な国王が続いた。

010  なぜ首里から遠く離れた読谷村に第一尚氏の王墓があるのだろうか。
 それは第7代尚徳王の時、農民上がりで先代尚泰王に取り立てられていた金丸(後の尚円王)がクーデターを起こした。そのとき、首里にあった天山陵墓が焼き打ちされることを恐れて、側近たちがその前にいち早く抜け出して、金城町の大日寺の奥に尚巴志らの遺骨を隠したという。寺院に入ったので、金丸の追手は追跡できなくなった。
 読谷の伊良皆に遺骨を移し、故郷の佐敷をしのび「佐敷森」と称したそうである。當真荘平著『月代の神々ー尚思紹王統・門中の世系図』から要約して紹介した。

013  お墓はガジュマルで覆われている。訪ねてみると、いかにも首里王府に知られないように、密かに隠してお墓をつくったという感じがする。それにしても、なぜ読谷村なのか。読谷といえば、かつては尚巴志とともに北山征伐に連合して戦った護佐丸が、座喜味城を築いていた場所だ。そんな縁があるのだろうか。まだよくわからない。

006007

 

 墓の入り口には、第一尚氏の系統の門中(ムンチュウ、男系の血縁集団)の人たちが、参拝に来たことを記念する碑が建っていた。

016  墓の奥にも、別のお墓らしきものがあった。わ018 ざわざ尚巴志の墓のそばに作られているのだから、第一尚氏と関係のある人の墓だろうか。なにも説明するものがないので、わからない。

 それにしても、尚巴志ら3国王の墓は、嘉手納弾薬庫に接収された土地の中。初代の尚思紹王の墓、佐敷ようどれは、南城市佐敷の自衛隊基地(戦後は米軍基地だった)の中、第5代目の尚金福王の墓は浦添市のキャンプ・キンザーの中にあると聞く。遙拝所が浦添市城間にある。

 第2尚氏の王墓は、首里城のそばに立派な玉陵(タマウドゥン)があり、世界遺産にも登録されている。それに比べて第一尚氏の王墓は、みんなバラバラになり、墓がない王もいる。

 それに3か所は米軍基地、自衛隊基地の中にある。琉球を統一した功績は大きいのに、一抹の寂しさを感じざるをえない。

2012年5月 5日 (土)

ディアマンテス最高!

 那覇ハーリーといえば、ディアマンテスのライブが楽しみ。熱狂的なファンがいるので、早く席取りをと、4時には着いた。015  持参の肉じゃがなど料理を食べながら、オリオンビールをグビグビ。野外ライブは、ビールが最高。

021 早く行けば、リハーサルから見れるのがいい。県外の名古屋、兵庫などから、ライブを目当てに来ている人もいるから、ビックリダ。始まる前からもう満席だ。

035  オリオンのCМソングを歌うmanamiも、リハから張りきる。

045 いよいよ本番始まった。manamiは、きゃしゃな体ながら、声量がある。オリオンキャンペンガールとももに、4曲披露した。

054  ディアマンテスは、ヒット曲を次々に歌う。もう最初から、みんなノリノリ。ラテンのリズムは沖縄にピッタリだ。

060  「勝利の歌」「琉神マブヤー」と続く。隣に、群馬からこの2月に沖縄に来た男性がいた。アイパッドで、東京にいる奥さんに、映像で送っていた。「ディアマンテスは群馬に来たことがあるけれど、やっぱり沖縄の野外で聞くのはいいね」と興奮気味。064

 トランペット、トロンボーンも楽器を踊らせながら盛り上げる。

067 会場も総立ちで体を揺らせる。 座っているのは、おばあ、おじいだけ。1時間のライブは、あっという間に感じだ。

066  この夜は、14夜で満月。月は静かに輝いていた。

083 最後は恒例の花火。真上に打ち上げられる。大満足のディアマンテスのライブだった。

2012年5月 3日 (木)

ソテツと島唄

 近くの漫湖公園で、ソテツの新しい芽が勢いよく伸びている。

010  ソテツといえば、昔は飢餓の時に、飢えをしのぐための食糧となった。20世紀になってからも、1920年前後の大恐慌の時は、やはり黒糖が暴落し、大打撃を受けて、ソテツまで食べたので「ソテツ地獄」と呼ばれた。

011 この赤い実は、毒抜きして食べたそうだ。ただし、ソテツは裸子植物で実はつかないので、種子だとのことだ。
 田端義夫のヒット曲「島育ち」に「♪赤いソテツの実も熟れるころ 加那も年頃、加那も年頃 大島育ち」と歌われている。この曲は、「大島育ち」というから、奄美大島が歌われている。
 ソテツの実はとても食べられそうな感じはしない。

013  ソテツの実だけでなく、この幹を食べた。水にさらして、やはり毒抜きをして乾燥させ、それを粉にしてお粥をつくったそうだ。

 奄美の民謡に「豊年節」がある。その中で「蘇鉄(すてぃてぃ)ぬ どかき粥や半くぶすぃよ」と歌われる。「蘇鉄で作られたお粥は打ち捨ててしまえ」という意味。奄美は薩摩の支配下で、サトウキビ栽培と黒糖生産を強いられ、イモが主食で、米は作っていなかった。米はよそから持ってきた。
 この歌は、船に米を積んできたから、蘇鉄の粥は捨てようということのようだ。

012  三沢あけみが歌いヒットした「島のブルース」では、「奄美なちかしゃ ソテツのかげで 泣けばゆれます サネン花よ」と歌われる。これもやはり奄美が舞台だ。

 沖縄民謡では、ソテツを歌う曲はあまり聞かない。私の歌う曲では、沖縄戦をテーマとした反戦島唄の傑作「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」がある。
 「♪家ん元祖ん 親兄弟ん 艦砲射撃ぬ 的になてぃ 着るむん喰ぇむん むるねえらん スーティーチャー喰でぃ 暮ちゃんや」
 (家も先祖、親兄弟も 米軍の艦砲射撃の的になって破壊され 着るものも食べ物もなにもなくなった ソテツを食べて暮らしたことだ)

 ソテツの方言名は「スーティーチャー」。奄美でも「スティティ」と呼んでいるから、同じ呼び名になっている。

2012年5月 1日 (火)

「遊びぬ美らさ」とは?

 沖縄民謡の「豊節」の歌詞に「遊びぬ美らさや 人数の備わい 踊てぃ遊ば」(アシビヌチュラサヤ ニンジュノスナワイ オドゥティアシバ)と歌われる。4番まである歌詞は、すべて最後にこの言葉が繰り返される。

 民謡に親しんだ最初から、気になっていたのは「遊びの美らさ」の部分である。遊ぶことが「楽しい」ならわかる。でも「美しい」とはどういうことだろうか? 大和言葉では、絶対にない。遊ぶことを美しいと表現するウチナーンチュ(沖縄人)の感覚は、とても素晴らしいと思った。

 この言葉は、沖縄ことわざにあるそうだ。これを巧みに取り入れたのが、登川誠仁作詞作曲の「豊節」だった。

088  祭りも「遊び」の一つだろう。「ゆがふう(世果報=豊年の世)を願う旗頭(糸満大綱曳き)

 「遊び」といっても、そもそも意味が、大和感覚とは大きな違いがある。普通は、「遊び」といえば、子ともから大人まで、楽しく遊ぶことで、その中身はいろいろあるだろう。
 でも、沖縄的には「遊び」とは、歌、三線、踊りをして、見て楽しむことだ。「毛遊び(モーアシビ)」はその典型だ。夜、若者らが野原に集まり、歌三線、踊りで夜の更けるのも忘れて楽しんだ。

 「遊び庭(アシビナー)」という広場が、各村にはある。これも村の人たちが、集まり、歌い踊り楽しんだ。歌と三線、踊りは、島ではなによりの楽しみだった。 「遊び」が歌、三線、踊りを意味すれば、楽しむだけではなく「美しい」と表現することもよくわかる。

 さらに「人数のすなわい」と続くことに意味がある。遊びが美しいのは、歌三線の上手い人、踊りの上手な人など人数が揃ってこそ、楽しめる、ということになる。なるほど、少ない人数では、いまいち盛り上がらない。人数が揃ってこそ、遊びは盛り上がり、楽しさ倍増である。

 しかも、「豊節」では、「朝夕笑い喜び、幸福を招き、 毎年の繁昌をお願いします」と歌う。年ごとの繁昌もお願いして、歌三線、踊りを楽しむのである。いかにも沖縄的な感覚にあふれているのではないだろうか。

追記
 琉球王府で編集された古謡「おもろそうし」の中に次の「おもろ」がある。
「百十踏揚や 君の踏揚や 遊ぶ 清らや」。意味は「ももとふみあがりさまよ 王女、ふみあがりさまよ 神舞いの 清らかな、美しいことよ」。やはり、「遊びの清らかさ、美しさ」は古くからの表現であることがわかる。

 百十踏揚とは、「いついつまでも、気高く」という意味らしい。第一尚氏の6代目国王、尚泰久の娘で、勝連城の阿麻和利(アワマリ)に嫁いだが、後に逃れて阿麻和利が謀反を企んでいると王府に告げ、王府軍によって阿麻和利は滅ぼされたことで知られる。与並岳生著『新琉球王統史』を参考にした。

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