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2012年5月 1日 (火)

「遊びぬ美らさ」とは?

 沖縄民謡の「豊節」の歌詞に「遊びぬ美らさや 人数の備わい 踊てぃ遊ば」(アシビヌチュラサヤ ニンジュノスナワイ オドゥティアシバ)と歌われる。4番まである歌詞は、すべて最後にこの言葉が繰り返される。

 民謡に親しんだ最初から、気になっていたのは「遊びの美らさ」の部分である。遊ぶことが「楽しい」ならわかる。でも「美しい」とはどういうことだろうか? 大和言葉では、絶対にない。遊ぶことを美しいと表現するウチナーンチュ(沖縄人)の感覚は、とても素晴らしいと思った。

 この言葉は、沖縄ことわざにあるそうだ。これを巧みに取り入れたのが、登川誠仁作詞作曲の「豊節」だった。

088  祭りも「遊び」の一つだろう。「ゆがふう(世果報=豊年の世)を願う旗頭(糸満大綱曳き)

 「遊び」といっても、そもそも意味が、大和感覚とは大きな違いがある。普通は、「遊び」といえば、子ともから大人まで、楽しく遊ぶことで、その中身はいろいろあるだろう。
 でも、沖縄的には「遊び」とは、歌、三線、踊りをして、見て楽しむことだ。「毛遊び(モーアシビ)」はその典型だ。夜、若者らが野原に集まり、歌三線、踊りで夜の更けるのも忘れて楽しんだ。

 「遊び庭(アシビナー)」という広場が、各村にはある。これも村の人たちが、集まり、歌い踊り楽しんだ。歌と三線、踊りは、島ではなによりの楽しみだった。 「遊び」が歌、三線、踊りを意味すれば、楽しむだけではなく「美しい」と表現することもよくわかる。

 さらに「人数のすなわい」と続くことに意味がある。遊びが美しいのは、歌三線の上手い人、踊りの上手な人など人数が揃ってこそ、楽しめる、ということになる。なるほど、少ない人数では、いまいち盛り上がらない。人数が揃ってこそ、遊びは盛り上がり、楽しさ倍増である。

 しかも、「豊節」では、「朝夕笑い喜び、幸福を招き、 毎年の繁昌をお願いします」と歌う。年ごとの繁昌もお願いして、歌三線、踊りを楽しむのである。いかにも沖縄的な感覚にあふれているのではないだろうか。

追記
 琉球王府で編集された古謡「おもろそうし」の中に次の「おもろ」がある。
「百十踏揚や 君の踏揚や 遊ぶ 清らや」。意味は「ももとふみあがりさまよ 王女、ふみあがりさまよ 神舞いの 清らかな、美しいことよ」。やはり、「遊びの清らかさ、美しさ」は古くからの表現であることがわかる。

 百十踏揚とは、「いついつまでも、気高く」という意味らしい。第一尚氏の6代目国王、尚泰久の娘で、勝連城の阿麻和利(アワマリ)に嫁いだが、後に逃れて阿麻和利が謀反を企んでいると王府に告げ、王府軍によって阿麻和利は滅ぼされたことで知られる。与並岳生著『新琉球王統史』を参考にした。

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コメント

「遊びで美らさ」の意味をよく噛み砕いて歌っている島唄がありますよ。いまアルテにむけて練習している石垣島のアーティスト「パーシャクラブ」の「五穀豊穣」に出てきます。
 「五穀豊穣 さー天ぬ恵み ハリ今年 果報しどうサリ さー御ゆえさびら 嘉悧さびら」
につづけて、五穀豊穣を祝って男女が喜びを爆発させる様子が歌われます。
 「太鼓三線ぐゎー打ち鳴らち ハリ今日や 舞いる美童ぬ美らさ よそにまさてぃ」
毛遊びでも、豊年祭でも、三線、太鼓、歌、そしてお嬢さんたちの美しい舞いが自然に合体するんじゃないでしょうか。
 そういう習慣がない大和では、そう歌われても、実感がわかないでしょうねえ。
 

 「五穀豊穣」もそういう歌詞でしたね。遊びの楽しさは、いろんな曲で歌われます。
五穀豊穣でこそ、遊びの喜びは大きい。次の年も豊年満作を願い、また歌い踊る。そういう意味では、遊び=歌・踊り=豊年、世果報は切り離せなくつながっているようです。沖縄ならではですね。

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