近くにあった尚徳王の陵墓跡
琉球を統一した第一尚氏の墓を訪ねてきた。まだ見ていなかったのが、最後の国王、尚徳の墓である。といっても、お墓はない。陵墓跡がある。それも、わが家に近く、よく通る道だった。
那覇市の寄宮方面から識名に上り、識名交差点の手前、識名公民館ホールの隣に立派な碑があった。大きなマンションの前である。この道は、よく通るのに、気付かずに通り過ごしていた。
琉球が三山に分かれていたのを尚巴志が統一した。だがその後まだ国内で護佐丸・阿麻和利の乱があったり、肉親による後継争いがあるなど、政情不安があり、財政も逼迫するなど不安定だった。尚徳は21歳で第7代国王となったが、在位わずか9年、29歳で死去した。
百姓上がりで第6代、尚泰久に取り立てられ、国王の側近となった金丸のクーデターによって第一尚氏は、7代の国王、わずか65年で倒れることになった。
首里王府の正史では、尚徳王は「29歳にて薨じ給ひける」(『中山世鑑』)、「王、暴虐日に甚しく、金丸諌むれど聴かず」(『球陽』)と、悪逆な国王であったかのように記されている。お墓もないままである。
琉球石灰岩で建立された碑のそばにあったはずの「第7代尚徳王陵墓跡」の石碑は根元からポッキリと折れていた。前に訪れた人の写真を見ると、石造りの碑が建っていた。いつ、なぜ折れたのだろうか。残念である。知人のTさんに聞くと、2011年の台風によって折れたのではないか、とのことだ。
陵墓跡の碑の前は、御願(ウガン)に来た人たちが平香(沖縄の線香)を燃やしてお参りした様子がうかがえた。
「暴虐」な国王という評価は、そのまま信じるわけにはいかない。金丸のクーデターを正当化するためだろう。金丸が尚円王となり、打ち立てた第二尚氏の王朝がつくった正史だからだ。
第一尚氏の系譜にあたる門中(ムンチュウ、男系血縁集団)の人たちが、この陵墓跡の碑を建立したそうだ。昭和44年(1969年)に建てられている。
青年国王だった尚徳は、在位9年間に11回も明国に進貢するなど、対外的な貿易に力を入れた。すでに東南アジア諸国とも交易がされていたが、マラッカに使者を派遣して交易を拡大したそうだ。室町幕府にも使者を送り、当時の足利義政と琉球使節が会った。朝鮮国王にもオウム・クジャクを贈ったという。喜界島に自ら兵を率いて遠征し、勝利を記念して安里に八幡宮を建てた。
尚徳王を慕う人たちは、第一尚氏の系譜の人たちだけでなく、いまも絶えない。その死因も、よくわからない。クーデターのさい、正妃や子どもまで殺され、尚巴志ら第一尚氏の陵墓も荒らされたというから、尚徳王の死因が明記されていないのは、殺された可能性もありうるように思う。毒殺説もあるそうだ。
尚徳王の事績についても、もう少し客観的に明らかにする必要があるのではないだろうか。それに、第一尚氏の陵墓は、みんなバラバラになっている。第一代尚思紹は南城市佐敷、第二代の尚巴志や三、四代は読谷村、第五代金福は浦添市(ここだけまだ見ていない)、第六代尚泰久は南城市玉城、第七代尚徳は那覇市識名と五か所にも散らばっている。しかも、第一尚氏の系譜の方々の努力で、陵墓が守られたり、陵墓やその跡を示す石碑も建立されているが、行政による史跡としての整備はほとんどされていない。史跡の案内表示もほとんどない状態だ。
陵墓跡のそばに小さな祠があった。知人のTさんによると、尚徳王が亡くなった時に、殉死した臣下を祀っているのではないか、とのことだった。古琉球では、国王の死去のさい、殉死する習慣があったという。
第一尚氏は六五年の短い王朝だったとしても、琉球を統一し、大交易時代の幕を開くなど、その功績は大きい。第二尚氏は、玉陵が世界遺産に指定され、多くに人たちが訪れている。それに比べて、あまりにも不釣り合いな気がする。
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コメント
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第2尚氏の陵墓である玉御殿が世界遺産になっていて、観光客もみんなそっちだけ見て説明受けるから、琉球王国に第1尚氏の時代があったこと、最初に琉球を統一したのはだれだったのかなど、正しい歴史が伝わらないかもしれませんね。
尚徳王の陵墓もなんというか、門中の人たちの尽力のみで保存されていて、行政からもっと支援なり、改築なりがあってよいと思います。それがないのは、市や県の琉球王朝の歴史の「分析」「評価」が十分でないのでは?
投稿: いくぼー | 2012年5月26日 (土) 09時28分
玉陵を見ると観光客なんか、これが琉球王朝全体のお墓のように思う人がいるでしょうね。
第一尚氏のお墓はみんな首里から遠くに追いやられて、バラバラにされているのをみると、寂しさを覚えます。琉球王朝の歴史を見る場合、王府で史書が編纂されたのは、第二尚氏になってからのなので、その評価がいまも基本にされている感じがします。
琉球史を見ても、尚徳王について、悪王という評価をそのまま記述している史書もありますからね。
投稿: レキオアキアキ | 2012年5月26日 (土) 09時37分