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2012年5月29日 (火)

悲運の尚徳王伝説

 琉球を統一した第一尚氏の最後の国王、第7代尚徳王は、王府の正史では、暴虐、悪政の王だとされる。1469年急死した後、百姓上がりで前国王の側近だった金丸が推挙されて国王に就き、尚円王を名乗ったことになっている。でも、実際は金丸のクーデターで、第一尚氏は滅ぼされ、王妃と子ども3人が殺された。
 尚徳王は久高島でクーデターのことを聞き、海に身を投げ亡くなったという話もある。その他に、今帰仁の運天には、金丸に王位を奪われ、遁世して行った尚徳王の一族を葬ったと伝えられる百按司墓(ムムジャナバカ)という墓がある。
喜界島にも尚徳王の墓があるとも伝えられる。喜界島は尚徳が兵士を率いて遠征したのだから、島に逃れたとは考えられない。
那覇市の識名には尚徳王陵墓跡の碑が建っている。

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 興味深いのは、久高島から脱出して、宮古島の狩俣に着いたという伝説があること。それを紹介しているのが、狩俣吉正さん(前連合沖縄会長)の『狩俣民俗誌』である。同書から要約してみる。
 尚徳王が宮古島に着いたのは、1469年後半で29歳だった。宮古島では1474年、仲宗根豊見親が、宮古主長として正式に豊見親の称号を拝命した。その少し前の時代になる。
 尚徳は、狩俣の人々に農作物の栽培を教え、井戸を掘って水を確保したり、道路や広場を整備して信頼を得ていた。狩俣の祖神祭(ウヤーン)を改革した。村内で秀れた人物の呼称「世勝=ユマサイ主」と呼ばれて尊敬されていた。狩俣、島尻、大神、池間の4村を統治したので「四島ぬ主」と呼ばれた。
 仲宗根豊見親は、公用船を必要とし、狩俣に造船に詳しい人物がいると知り、訪ねて上国船を建造してくれるよう頼んだ。ユマサイ主(尚徳)は、八重山に渡って船を建造して上納した。「四島ぬ主」の職は、約140年間に4、5人が就いたが、初代のユマサイ主(尚徳)は、25~30年間の在職だったことになるという。

029         第二尚氏は尚円王の以後19代、約400年にわたり続いた

 悲劇の人物が、実際には死んだのではなく、生きて逃れがたという伝説は、古来たくさんある。源義経が海外に逃れてジンギスカンになったという話もその典型だろう。
 尚徳王はお墓もないし、どのようにして亡くなったのかも分からない。病死なのか、それにしては29歳とは若い。毒殺説もある。第一尚氏の最後の国王なので、密かにどこかに逃れて生きのびていてほしい、という願望もあるのだろう。

 どこかに逃れた可能性もまったくありえないことではないだろう。ただし、尚徳の生きのびた伝説はいずれも、確たる史料があるのではない。狩俣伝説も、この地に残る一つの言い伝えである。
 金丸がクーデターを起こして、第一尚氏の王朝を倒して、新たな王朝をひらいたのだから、尚徳をあいまいな形で生きのびさせたとは考えにくい。金丸は、それを見届けなければ、国王につけないのではないだろうか。
 正妃や子どもまで殺され、尚巴志らの遺骨を祀る陵墓まで荒らしたというから、尚徳王は、やはり死んだか、殺された可能性が高いと私的には思う。

014             読谷村にある尚巴志らの陵墓

 ただし、尚徳王の4人の子どものうち、3男だけが3歳で、乳母に抱かれて先祖の地、佐敷に落ちのびたとされる。後に佐敷間切(今の町村)屋比久の地頭となり、屋比久大屋子と称したという。その子孫は、第二尚氏の尚清王に仕えたり、さらには王府から王孫の由緒をもって首里移住を許され、子孫は首里士族としての道を歩んだそうである。以上はネットの「ウィキペディア」からの要約である。
 第二尚氏も、尚徳王の子孫を根絶やしにするようなことまではしなかったようだ。

 

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